シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

「適切なプレゼント=コミュニケーション能力」と考えていたら世の中も自分もわからなくなった

 
ご飯(30代独身会社員女性) on Twitter: "………………本当に…………頂いた身で……こんなこと…アレですが……………………………(30歳)… "
 
今年は新型コロナウイルスのためか、街はまったくクリスマスらしさが無かったが、twitterは久々にクリスマスらしい話題で賑わっていた。「30代女性に贈られた4℃のプレゼント」を巡って、喧々諤々の意見が交わされていたのだった。
 
4℃のプレゼントを巡っては、4年前に議論というには感情的な言葉がやりとりされていた。
 
4℃で喜ぶ女はチョロいのか - トイアンナのぐだぐだ
トイアンナ氏の呪詛は、クリスマスに対してあまりに無力だ
 
このとき私はおなかがいっぱいになったので、今回は黙っておこうと思っていたのだけど、
 


 
婚活を主導する立場のかたが、このように力強いことをおっしゃっていたので反応してしまった。
 
 
曰く、女性へのプレゼントは、贈って良いものと悪いものが憲法で決まっているらしい。では一体どこに、その憲法とやらの条文があるのだろう?
 
もし、本当に憲法や法律に「女性にプレゼントして構わないのはこれこれで、そうでないものは禁じる」と書かれていたら、プレゼントをもらう側も贈る側も苦労はするまい。だが現実にはそんな決まりは存在しない。存在しないからこそプレゼントの授受には難しさが伴い、センスや相性やそのほか色々なものが問われるのだけど、女性の側から「贈ってはならないと憲法で決まっている」と明言されてしまうと、私などは委縮せずにいられなくなってしまう。
 

 
これは、我が家にある4℃のシャンパングラスだ。
高級なシャンパングラスとは比べるべくもないけれど、このシャンパングラスには、人の思いが込められている。だから時々、こうして登板させている。
 
コミュニケーションの一現象としてのプレゼントは、贈る側と受け取る側のコンテキストにも左右される。一般論として、この年齢・この性別・このコンテキストで授受に適しているものとそうでないものは想定できるとしても、「贈ってはならないと憲法で決まっている」などということはあってはならないと思う。
 
だから上掲ツイートも、ひょっとしたら「婚活というコンテキストのなかで」という条件付きの発言なのかもしれない。婚活する年頃の男性のプレゼントとして適していなさそうだと、私にだって思えたからだ。
 
 

「年齢やコンテキストにあわせてプレゼントを選ぶ」というコミュニケーション能力

 
私はいま、"婚活する年頃の男性のプレゼントとして適していなさそうだと、私にだって思えた"と書いた。
 
私がこのように書けるのは、40代の半ばを迎え、さんざん今までにプレゼントで失敗をしてきたからの話で、昔の私はそうは思わなかったに違いない。げんに私の嫁さんは、過去にロクシタンのハンドクリームなど快く貰ってくださっている。これは、私のプレゼント選びがマトモだったからではなく、嫁さんの度量、または嗜好のおかげでしかない。
 
そして現在の私は私で、年下に贈るプレゼントは何が適当か、糖尿病の人に贈るお歳暮はどれが好ましいのか、まだ迷っている。20代や30代の頃に比べればマシになったつもりでも、すぐ自信を失ってしまう。いったいいつになったらプレゼント上手になれるのだろう、と思ったりする。いや、たぶんそんな日は来ない。私が60代になれたとしても、プレゼント選びには苦労しているだろう。
 
そうやって私がウンウン悩んでいる一方で、プレゼントの上手い人というのはやっぱりいて、そういう人々は若い頃からズバリズバリとプレゼントを選んでのける。相手が欲しそうにしているもの・相手にとって必要なもの・コミュニケーションのコンテキストからみて妥当と思えるものを探し出す素養と経験には、やっぱり個人差がある。
 
プレゼントという行為は、その授受をとおして渡す側と受け取る側がなんらかの影響を受けるわけだから、これはコミュニケーションのひとつで、だからプレゼントを選ぶ能力はコミュニケーション能力の一部とみなければならない。もっと普通っぽい言い方をするなら、「プレゼントの選び方次第で、相手に好かれることもあれば嫌われることもありますよ」となるだろうか。
 
贈る相手の事情やニーズ、そのプレゼントを渡す際のコンテキストをどれだけ的確に把握できるかによって、プレゼントを贈った結果は大成功から大失敗まであり得る。プレゼントが必ずまごころを伝えるなんてのはお伽噺の世界のことでしかない。世渡りの手段としてのプレゼントは多分にテクニカルで、夢が無い。
 
そしてプレゼントを受け取るのもまた、コミュニケーション能力のひとつだ。
 
ひろゆき, Hiroyuki Nishimura on Twitter: "他人から好意で貰ったものをネットにあげて批判する下品な人を避けられるので、数千円のプレゼントを渡して、反応を見るという高度なテクニックを使う男性は優秀だと思う。… "
 
この、ひろゆきという人のツイートは、プレゼントを贈る側がプレゼントを受け取る側を観察可能であることをよく表現している。
 
たとえばプレゼントを受け取る側がそれをSNSに公開するかしないか、もし公開するとして、どのように公開するのか、プレゼントを贈った側は観察することができる。ときにはプレゼントを授受する二人以外の人がそれを観察し、あれこれ考えることだってあるかもしれない。プレゼントを受け取る側が、プレゼントを贈る側を一方的に観察・評価・値踏みできると考えるのはコミュニケーションの全体の一部しか見ていない。他人を値踏みする時、他人もまたこちらを値踏みしている。
 
そして天の配剤は案外うまくできていて、他人からのプレゼントを値踏みする人のところには、プレゼントを受け取る側を値踏みするような人が現れ、似合いのパートナーシップができあがったりする。
 
こうしてコミュニケーション能力のひとつとしてプレゼントについて考えると、「だからプレゼントを贈る能力を磨きましょう」とか「プレゼントを受け取ったら、いちばんあなたの利益になる反応を示しましょう」と結論を書くのがライフハック・ブログとしては正しいのだろう。
 
でも、ここはライフハック・ブログではないし、今の私はそういう気分になれない。
 
なんというか、クリスマスの季節にプレゼントがツイッターに晒され、それがプレゼントのあるべき姿についての議論を呼び、コミュニケーションのえげつない側面が露わになってしまったことのほうが悲しい。たくさんの人々が、そういうえげつないメカニズムに沿ったかたちでコミュニケーションを営み、プレゼントというものを考察しているのが悲しい。それをこうやって眺め、自動的に考えてしまう我が身、我が神経にも悲しみをおぼえる。
 
いくらか世故に長けると引き換えに、プレゼントをコミュニケーション力学の自動的メカニズムとして把握してしまうようになったら、それは獲得よりも損失のほうが大きいのではないか。
 

考えていること自体、なにかが欠陥している。

 
これまで私は人間のコミュニケーションと、それをとおして社会に適応することを考え続けてきた。けれども、最近、そのコミュニケーションのメカニズムの妥当性を確認するたび、コミュニケーションをとおした人間の力関係や権力関係に救いのなさをおぼえる。プレゼントという、一見、救いやまごころのようにみえる領域にもコミュニケーションの力学的メカニズムはしっかと根を張っていて、たとえばクリスマスプレゼントやお歳暮や年賀状といっためでたい体裁のもと、世の中にまかり通っている。そういっためでたい体裁をめでたいものとして、ジングルベルな気分として眺めていたほうがきっと人は幸せでいられる。そしてコミュニケーションのメカニズムなんて、考えるものではなく感じるものであるべきなのだと思う。
 
こうやってコミュニケーションのメカニズムなんて考察すること自体、コミュニケーションになんらかの不自由を抱えていること・コミュニケーションに本来的な欠陥があることを示唆してやまない。プレゼントのことを考えているうちに、世の中も自分自身もかえってわからなくなり、コミュニケーション力学の外側も思い出しにくくなったので、今日の日記はここで終わりにします。

 

Elite Dangerous(エリデン)は、宇宙ごっこ遊びゲームとして最高

 
今年は『フォートナイト』『リングフィットアドベンチャー』『Fallout4』と、傑作級のゲームに次々に出会った。でもって、2020年の終わりにヤバい宇宙ゲームに出会ってしまった。11月からこのかた、ゲームはこればかりやっている。
 

 
この『Elite dangerous(国内通称エリデン、以下、エリデンと表記)』は銀河系を舞台にしたMMOだ。太陽系を中心とする直径数百光年の人類圏とその外側に広がる深宇宙のなかで、プレイヤーは何をやって過ごしても構わない。
 
国産のゲームに比べて、海外系のゲームは「何をやってもいい」自由度が高めのことが多いけれども、この『エリデン』も「何をやってもいい」感が高くて、プレイヤーは宇宙で貿易をやってもいいし、軍人や宇宙海賊になってもいいし、深宇宙を探索してもいい。なんならPK(プレイヤーキル)だってできる。PKにはペナルティがつくけれども、このゲームではそれほどでもない。ただし、PKされては困るというプレイヤーはソロモードを選べば他のプレイヤーにキルされずにプレイできる。ソロモードとはいうけれど、銀河系の物資の流れや政治情勢、深宇宙の探索状況などは他のプレイヤーと共有されるので、それなりMMOっぽさはある。気分や都合で両方のモードを行ったり来たりすることもできる。
 
これだけだったら、たぶん私はこのゲームにドはまりしなかったと思う。というか宇宙MMOには『EVE ONLINE』という有名タイトルがあって、しかも先月とうとう日本語化が実現したという。でも『EVE ONLINE』はあまりに大規模過ぎて、あまりに本格的過ぎて、下調べしてもプレイするための一歩が踏み出せなかった。なんというか、『EVE ONLINE』を見ていると、"現実的な"ゲームの予感がする。
 
対してこの『エリデン』は、下調べの段階から空想的・妄想的なゲームの予感があった。ちょうど4年前、星間国家シミュレーションゲーム『Stellaris』の良さとして、私は「宇宙探索や宇宙艦隊の妄想に耽りながらぼんやりできるゲーム、星間国家の“ロールプレイ”に夢中になれるゲーム」を挙げたけれども、そう、私にとって宇宙ゲームとは"現実的"であるより"妄想的"であるべきなのだった。ゲームバランスや操作性にちょっとぐらい問題があってもいいから、空想力や想像力を刺激するようなゲーム、もっと言うと、自分自身のごっこ遊びに集中できるゲームであって欲しいと(ファミコン時代の)『スターラスター』の頃から思い続けてきた。
 
で、『エリデン』はそのあたりが素晴らしい。
プレイしている間、宇宙交易ごっこや宇宙探索ごっこ遊びに完全に没入できる。
 

 
ゲームの主な舞台となる人類圏は数百光年の広さだが、銀河全体に比べればぜんぜん狭い。このゲームでは、銀河全体で4000億の星系があり、そのほとんどが今でも未踏の地になっている。人類圏に比べて深宇宙があまりにも広く、プレイヤーの数もそれほど多くないのでこの状態がずっと続くだろう。かといって無限の広さというほどでもなく、他のプレイヤーの探索の痕跡はそれなり目につくし、自分が探索した痕跡もきっと誰かが見つけてくれる。
 

 
しかも恒星系や惑星のデザインがバリエーション豊かで、それぞれの星系の星々や宇宙ステーションが公転しているおかげで景色がしばしば変わる。先日も、ガス惑星同士が衝突する出来事がゲーム内で起こったという。こういう投げやりな緻密さとバリエーションの豊かさはとても嬉しい。美しく珍しい風景を探すために宇宙を旅しても十分報われるぐらいだ。
 


 
超光速航行(ワープ)の入口と出口の演出もなかなか良い。超光速航行を終えた宇宙船は、星系でいちばん大きな恒星の目の前に飛び出してくるのだけど、これがドッカンドッカンしていて毎回気持ち良い。青い巨星や中性子星の前に飛び出してきた時には、あまりの眩しさにのけぞりたくなる。エリデンはVR対応なので、VRでワープアウトを経験したらもっともっとインパクトがあるに違いない。
 

 
しかも無限にも等しいひとつひとつの星々に細かなデータが記載されている。こういうデータの羅列のおかげで、宇宙にたいする空想力や想像力に神が宿ってしようがない。しかもデータは単なる羅列ではなく、星系マップを売る際の値段にも関わってくるので、じきに星のデータを読み取るようになる。これがまた、宇宙探索者気分を盛り上げてくれる。
 

 
人類圏でのプレイも興味深い。
人類圏には複数の政治勢力があって、それぞれの政治勢力のなかにも複数の派閥があり一枚岩ではない。経済もプレイヤーの活動によって動いていて、MMOっぽさ、もとい、人類圏らしさが感じられる。小さな星系なら、一人ひとりのプレイヤーの活動でも政治状況がかなり変わってくれる。宇宙の政治バランスがひっくりかえるほどの変化はないにせよ、そういう変化を眺めていると宇宙MMOを遊んでいるという実感がある。
 
 

ただし人を選ぶゲーム。操作系と英語には苦労するかも

 
そんなわけで、宇宙が好きな人にはすごくオススメしたいのだけど、このゲームにはハードルが高いところもある。
 
まず、このゲームは日本語化されていない。英語ができなければ遊べないほどではないけれど、このゲームの世界観は英語で綴られた文章やアナウンスにも支えられているので、ある程度、英語がわかったほうが没入しやすいと思う。情報収集する際にも英語圏のお世話になることが多い。
 
www.youtube.com
 
操作系も、嫌いな人には嫌いなタイプだ。自分の知っているゲームでいえば『スターラスター』や『エースコンバット』の感覚に近く、見ているだけで気持ち悪くなってしまう人もいるだろう(上掲動画を参照)。宇宙船に慣れるためのチュートリアルもところどころ不親切で、たとえばチュートリアルのコースから一度コースアウトしてしまうと困ってしまうかもしれない。また、現在の日本語版wikiの記載とは違って*1、戦闘も含めた長いチュートリアルを履修しなければゲーム本編を遊ばせてくれないので「離着陸の練習だけやって、とりあえずゲームを始める」という手軽さがない。
 
正直のところ、宇宙を妄想したい強いモチベーションがないとチュートリアルの段階で投げ出してしまうおそれがあると思う。
 
また、コンソール上のカーソル移動も直感的とは言い難い。あるものはカーソルキーで、別のものはQ・E・W・Sキーや1・2・3・4キーでカーソルを移動させる。親切なゲームに比べると、インターフェースに慣れるのにどうしてももたついてしまう。地上を探検する車両の操作も宇宙船とぜんぜん違う設定になっていて、びっくりしてしまった。
 

※宇宙船とまったく違う操作系の地上探索用車両。もうちょっとなんとかならなかったのか。
 
超光速航行-星系内でのスーパークルーズモード移動-ステーションや惑星への着陸モードの切り替えもわかりにくかった。『エリデン』の宇宙フィールドは入れ子状の構造になっていて、たとえば目当ての星系の目当てのステーションにたどり着くためには【超光速航行で星系を飛び回る銀河マップから→複数の星やステーションが配置された星系フィールドに移動し→ステーションの周回軌道や星の軌道フィールドに飛び込んで着陸】という手順を踏まなければならない。ドラクエで喩えるなら、外のフィールドから街フィールドに入って、そこから街のなかのダンジョンに入る感覚に近い。
 
ところが移動の途中で巨大惑星の重力圏に引っかかってしまうと、その星の軌道フィールドに「落ちてしまう」。このあたり、慣れてしまえばどうってことないし、星の重力圏に引っかからないように心掛けるようになってかえって宇宙を旅している実感がわいて良いのだが、はじめて星に捕まってしまった時は慌てる。twitterを見ていると、星に捕まって「落ちてしまう」感覚に戸惑ってしまったり、脱出方法がわからなくて投了してしまったりしたプレイヤーもいる様子だった。
  
落ちてしまうといえば、地表着陸もなかなか難しい。
  

(昼間の地表着陸。迫ってくる地面が怖い)

(夜の側の地表着陸。真っ暗闇で、激突しないかヒヤヒヤする。本当にここで大丈夫か心配になることも)
 
宇宙ステーションへの着陸に比べると、地表着陸はかなり難しい。陸地が見えているなら見えているなりに、真夜中の真っ暗闇なら真っ暗闇なりに、慣れないうちは怖さがある。私は、これもこれで宇宙っぽい味わいがあって好ましいと思うけれど、快適なゲームプレイを望んでいる人には不親切と感じられるかもしれない。
 
また、銀河系がとにかく広く、星系内の移動にすら長い時間がかかるので、せっかちなプレイヤーには辛いかもしれない。銀河系を横切るような移動となれば、もう一日仕事になってしまうだろう。大きな連星系のなかのスーパークルーズモードでの移動にもかなりの時間がかかる。目的地を設定して到着するまでにお茶が用意できるぐらい時間がかかることも。
 

(到着に約10分ほどかかる、二重星系の遠い側の星々。この、遠くにみえる星々が少しずつ近づいてくるさまにロマンが感じられる人は、このゲームは絶対やったほうがいい。)
 
個人的には、こうしたちょっと難しい要素のひとつひとつが『エリデン』の短所でもあり、長所でもあると思う。時間がかかり、少し操作がめんどうだからこそ、宇宙を飛んでいるというごっこ遊びに一種のリアリティが宿り、宇宙を飛び回る自由さが際立つ。もし、このゲームの宇宙船で『宇宙戦艦ヤマト』のイスカンダル星*2まで遠征するとしたら、たいへんな事業になるだろう。そういう長大な時間スケールと面倒さをポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるかでこのゲームの評価は天と地ほどにも違う。
 
 

妄想や想像こそがこのゲームの真骨頂

 
こんな具合に、『エリデン』は万人受けするゲームとは到底言えない。ただ、『エリデン』には間違いなく『エリデン』ならではの魅力がある:MMOにしては短い時間でプレイを軌道に乗せられる点、初手からかなり自由度の高いプレイスタイルで遊ばせてくれるのも優れたところだ。
 
なにより、『エリデン』は「ごっこ遊びゲーム」や「宇宙妄想ゲーム」としてとにかく卓越している。
 
純粋にゲームとして評価するなら、『エリデン』より豊かなゲーム、親切なゲーム、万人受けするゲームはいくらでもあるだろう。だけど、ゲームプレイをとおして宇宙ごっこの想像力や妄想力を膨らませる触媒として、このゲームの右に出るゲームはあまり無いのではないだろか。
 
いわばこのゲームは、自分自身の宇宙ごっこ遊びに入っていくための触媒みたいな感じなのだ。長時間の移動、美しい星のグラフィック、ピカピカした戦闘、詳細な惑星データも、すべてがごっこ遊びや宇宙妄想ゲームのためのセットであると言い切ってしまいたくなる。
 
大事なことなので二度言うが、『エリデン』は、ゲームそのものの出来より、ゲームをとおして脳内補完する、その脳内補完のほうを楽しむゲームとして卓越していると思う。だから広大な宇宙を妄想したい人や宇宙船の指揮官ごっこが大好きな人、スタートレックごっこが好きな人、自分だけの宇宙ロールプレイにうつつをぬかしたい人には絶対にお勧めしたい。
 

 
『エリデン』は頻繁に値下げが行われるゲームなので、たぶん、Steamの年末セールになれば1000円以下で遊ばせてくれると思う。上に挙げた性癖に当てはまるゲーム愛好家なら、購入ボタンを押しておいて損はないと思う。
 
store.steampowered.com
 
 

*1:2020年12月時点

*2:地球から148000光年

はてな村は水面下に沈み、今はカオナシたちが跋扈している

 
2020年12月、はてな匿名ダイアリーに地方の公立校と中学受験についての話題を起点に、関連した話題が次々に投稿された。
 

中学受験について、匿名でないと書けないことを伝えたい
「多様性が大事」と叫ぶ同僚が私立中学受験させるらしい
[B! 教育] まぁこんなウダウダ書かなくても公立中出身者ならあの動物園に通わなくていいってので十分良さはわかるよ。 - naga_yamas のブックマーク / はてなブックマーク
はてなリベラルやばすぎ
公立動物園だって良いところもある
反差別の道は険しい
公立中学校の『動物園』問題
 
主だったものだけを挙げてもこのようになる。12月9日のはてなブックマーカーが書いた、公立中学校を「動物園」と呼ぶ投稿が燃料投下となり、「いつもははてなブックマーク上で多様性を称賛し差別を手厳しく批判している人々がこの問題では差別的な表現や感性をあらわにしていて自覚が無いさま」を批判する指摘が相次いだ。はてなブックマーカー個人の「晒し上げ」も起こっている。そのほか、自己批判を行っている人、自嘲や韜晦を行っている人、さまざまである。
 
私は久しぶりに「はてな村らしい話題で盛り上がっているな」と思った。
 
今でこそ、インターネットのあちこちで「正しさ」の問題は多いに盛り上がり、やれ差別だ、やれ公平性だ、やれ道徳だといったトピックスに事欠かないわけだが、12年以上昔のインターネットでそういう話題が一番盛り上がっていたのは、なんといってもはてなダイアリー~はてなブックマーク~はてなハイク、といった、(株)はてなのサービス、いわゆるはてな村の圏域だった。
 
そんな様子だったからこそ、はてな村の圏域はしばしば「はてな学級会」などと揶揄されていたのだし、きっと(株)はてなのサービス運営側としては、そのネガティブなイメージを払拭し、もっと普通の話題が盛り上がる愛されるサービスに変えていきたいと願っていた(そしてある程度は実現した)のだと私は思っている。
 
令和2年。いまでは日本のインターネット全体が「はてな学級会」に追いつき、追い越したかのようだ。とはいえ、今回の盛り上がりをみるにつけても、はてなには差別や公平性や道徳の話題を愛してやまないユーザーがまだまだ健在であることが証明された。見よ! すずなりになったはてなブックマークを! はてな学級会は健在なり!
 
 

学級会は健在でも、そこに村人の「顔」は無い

 
それでも私は一抹の寂しさをおぼえる。なぜなら、この盛り上がりをけん引しているのがはてなダイアリーやはてなブログのブロガーではなく、匿名ダイアリーの匿名投稿者たちだからだ。
 
10-15年ほど前にはてな学級会が開催された時には、ブロガーたちが自分のブログでこういったオピニオンを書き連ねていたものである。今回、はてなブックマーカー個人への批判も多く記され、いわば「晒し上げ」もあったわけだけど、こういった「晒し上げ」も自分のブログから、idコールを伴って行われたものである(このidコールが恐れられてもいた)。自己批判や韜晦についても同様だ。
 
いわば、投稿者の「顔」がよく見えるなかで諸々の議論や言い合いが行われていたわけだ。
 
ところが今回を見てもわかるように、今、はてな学級会的なことが起こるフィールドはブログであることはほとんど無く、はてな匿名ダイアリーだ。ある匿名投稿に対する反論も反発も匿名ダイアリー内部で起こることが多い。はてなブックマーカーを名指しで批判していることがわかるように、「晒し上げ」に相当するものは今でも続いてはいるのだけど、それは投稿者の「顔」がみえないかたちで行われている。結果、ブロガーよりも批判されにくい天井桟敷にいると思われていたはてなブックマーカー側が守勢に回る格好となっている。
 
このような事態の是非については、いろいろな意見があるだろう。個人的には、ある時期から"無敵化"の度合いを深めていたはてなブックマーカーに、言及される可能性を思い出してもらえたのは良かったと思っている。が、次には匿名の投稿者が"無敵化"することになるし、既にそうなっているとも言えるので、これで界隈の景色が変わるわけではあるまい。
 
かつて、投稿者の「顔」がみえた時代のブロゴスフィアは、まさにはてな「村」と呼ぶに値するフィールドだったと思う。なぜなら誰が投稿して、投稿したその人がどんなブロガーで、どういったコンテキストを持っていたのかお互いに知っていたからだ。知らないとしても、すぐに確認できたし確認する風習があった。何が投稿されているのかと、誰が投稿しているのかを見比べるのが当然の文化があった──たとえそれが村の奇怪な風習などと揶揄されていたとしても。
 
ところが現在の匿名ダイアリーでは「顔」がみえない。
 

 
はてな匿名ダイアリーの入り口には「名前を隠して楽しく日記」とあるが、名前を隠すとは「顔」を隠すことと同義である。投稿はあるし、議論もあるし「晒し上げ」もあるけれども、ここには顔のある人はいない。まして、村人とかはてな村などといった語彙など連想しようもない。議論は存在するが人はいない。その人がいないフィールドに、ときどきブロガーが言及したり、はてなブックマーカーが群がったり、ときどき誰がか巻き込まれて「晒し上げ」に遭ったりする。
 
このような現状をみて、「はてな村の村祭り」という言葉を連想することはない。ブロガーの丁々発止は遠くなりにけり。かわりにカオナシたちの絶叫や告発がこだまし、そこにはてなブックマーカーたちが群がっている。
 
これが望まれた未来だったのか。
 
わからない。
いずれにせよ、はてな村は水面下へと沈み、村の跡地はカオナシたちのものになっていると言わざるを得ない。

「パワーが弱まっている感じ」について

 
 

「正しさ」や生産性のために、人間はどこまで治療され、改造されるべきのか - シロクマの屑籠

最近のシロクマ先生の書き物、多くは「社会整合的パーソナリティへの過剰適応と、そこからの逸脱の病理化」への懸念をモヤッと仄めかす体裁になっていて、何か迫力が薄れたというか、パワーが弱まっている感じが…

2020/11/26 20:36

 
こんにちは。ガチャピンアイコンではてなブックマークとtwitterをやってらっしゃるむちょさん。はてなブックマークで何度もお見掛けしています。
 
このたびは、「パワーが弱まっている」さまをご指摘くださり、ありがとうございます。これにかこつけて、私の台所事情の説明、というよりパワーが弱まったブロガーのぼやきを垂れ流すことをお許しください。
 
はてなダイアリー(現・はてなブログ)でブログを書くようになる前から、私はオタクが、ひいては現代人が社会に適応するための条件は何か、どういう方法をとれば首尾よく社会適応できるのかを考え続けてきました。最近は、私たちが適応しなければならない社会がどういうメカニズムで成り立っていて、適応のための条件が時代とともに変化していくさまにも関心を持つようにもなりました。拙著『健康的で清潔で、道徳的な~』は、そうした関心をいったんまとめてみたものです。
 
おかげさまで、『健康的で清潔で、道徳的な~』プロジェクトはある程度うまくいきました。が、書き手としては早速「あれを書いておけば良かった」「ここは、今だったらこう書く」みたいなバージョンアップ欲が沸いてきて仕方ありません。あの本・この文献を読んでいたらきっと書き方が変わっただろうと思うと、身もだえしてしまいます。商業出版企画とは、制限時間のなかで進行させるものでもありますから、そういう後悔は非-生産的なのかもしれませんが。
 
あのように社会や世間の全体を書かせていただける企画を頂戴できることは滅多にありません。また、能力的にも10年に一度挑めるかどうかのもので、あれが最後のトライアルになってしまう可能性もあります。が、望むらくは5~10年後に似たような企画にもっと高い精度で挑戦してみたいものです。そのための調査や試し書きは、これからも続けなければなりません。
 
むちょさんがご指摘された、最近の私の "「社会整合的パーソナリティへの過剰適応と、そこからの逸脱の病理化」への懸念をモヤッと仄めかす体裁" についても試し書きの一部だとご理解ください。モヤッと仄めかす体裁が増えているのは、懸念や疑問が先走っているのに対し、文献やら調査やらが追い付いていないからでもあり、私自身のパワーが落ちているからでもあるでしょう。ひとつ前のブログ記事にも書いたように、2020年の私は忙しすぎてブログにちゃんとした時間をかけられていませんでした。ちゃんとした時間をかけられていないから、踏み込みが浅くなるし、それをこうやって見抜かれてしまう。汗顔の至りです。
 
私は今、一人の書き手としてとても喜ばしい/嘆かわしい状況にあります。
 
 
喜ばしい状況とは、知りたいことや書きたいことがほとんど無尽蔵にあることです。
 
私は、ひとりひとり現代人の社会適応の巧みさについてもっと知りたい・書きたい。
私は、現代人が適応しなければならないところの社会についてもっと知りたい・書きたい。
私は、ゲームやアニメのこと、それから1500円~10000円を中核エリアとするワイン趣味についてもっと知りたい・書きたい。
ああそう、ゲーム障害のことも最近は棚上げになっていました。それとゲーム障害の周辺にあるゲームとメンタルヘルスについての幾つかの小話ってのを連載したい希望もあったのでした。
 
  
嘆かわしい状況とは、知りたいことや書きたいことに対し、私の残り時間と体力が絶望的に足りないことです。
もし私が学術一本槍のプレイヤーなら、自分が骨をうずめる分野に邁進すればいいのでしょう。しかし私の適性はそうではないし、私が歩んできたブロガーの道もそのようなものではないので、私の知識と経験は雑然としていなければなりません。が、雑然を良しとしてここまで進んでみて思ったのは、いくら雑然としていてもすべてを知ることなどできないし、たとえば50歳までに知れることの密度はたかが知れている、ということでした。
 
それが嫌なら知ろうとする対象を減らせばいいのでしょうけど、私は間違いなく学者肌ではなく、絶対にひとつの分野に集中できないので、下手に減らせば「蛸が一本足を目指すがごとき惨状」を招くだろうと思っています。そうしたまま、あれも捨てられないこれも関心がある→だけど身体と頭と調査が追い付かない&拙著の影響でtodoが満杯→今の段階で書けることなんて知れている→ぬるい という状況に至っているわけです。
   
このブログは、不特定多数にオピニオンを発表する場所である以上に、私の考え事や関心事を書き殴っておいて、自分の考えを後でまとめるためのワークショップとしての意味合いが強いので、ただの思いつきでも、書き留めておきたいことは書き留めていくつもりです。もう少し考えや調査が蓄積してきたら、内容がもう少しシャンとしてくるかもしれません。が、今はなんだか駄目だし、どこまでシャンとできるのか自信がありません。
 
シャンとしないまま手先口先だけ動かし続けていたら、すごく駄目な状態になりそうなのでどうにかしなければなりませんが、大丈夫なのでしょうか?
 
他人事みたいに「大丈夫なのでしょうか?」だなんて。やだなー、いまどきの発信者はこんなこと発信しちゃいけない。でもだめだ、p_shirokumaは伸びきったゴムみたいになっています。日照時間が足りなくなってきているからだろうか。私信を書いているつもりが、泣き言になってしまいました。こういう時って、本当はインターネットから離れて岩戸のなかでうずくまっていたほうがいいんだろうな。クマー。
 
 

ブログを書いてられないほど忙しい&近況

 
おかげさまで、2020年の後半はブログを書いていられない状態が続いています。たとえば以下の三つのメディアにてお仕事をさせていただきました。
 

 
左側の『ケムリエ』は愛煙家のためのフリーペーパーで、全国のタバコ屋さんで頒布しているそうです。たいへん立派な冊子なのですが、今回、巻頭インタビューを担当させていただきました。タバコの健康問題は無視できないとしても、タバコ文化を殲滅してしまって良いものなのか・そうやって健康志向を尖らせていった先に懸念は無いのかについて、私見を述べさせていただいています。
 
真ん中の『教職研修』は学校の先生向けの研修誌で、"「健康で清潔で、道徳的な秩序ある学校」の先にあるもの"というタイトルで巻頭インタビューを担当させていただきました。学校は、環境管理型権力の最たるものですが、その学校もまた昭和から令和にかけて変わり続けています。いまどきの子どもは、昭和よりもずっと安全で、ずっと道徳的な学校環境・家庭環境のなかで育っていますが、それはそれで親子が適応するうえでハードルの高い環境なのではないか、等々について喋っています。
 
右側の『學鐙』は、ジュンク堂書店でよく知られる丸善出版さんが作っているPR誌です。こちらでは、コロナウイルス禍を経験後の未来において、私たちの自由と不自由がどうなりそうなのか、私見を寄稿させていただきました。この、由緒正しいPR誌にふさわしい文章が書けたかどうかわかりませんが、ブロガーとして、こんな実績解除はなかなか無いように思います。
 
このほか複数の新聞社さん、複数の法人さん、複数の企業さんからインタビューいただいたり、寄稿のご依頼をいただいたり、多忙のうちに2020年が過ぎていきました。いや、年内はずっと忙しい予定です。
 
おかげさまで、6月に出版された『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』は本当にいろいろな方面の方からご反響いただきました。そして私は、ブログを書いていられないほど忙しくなりました。このブログの常連読者さんはお気づきでしょうが、私は最近、ブログの投稿回数も、ブログ記事を書く時間も少なめにしています。twitterや匿名ダイアリーも今はあまり見ていません。
 
さまざまな方面の方からリアクションをいただけるのは嬉しいことではあるのですが、ホームグラウンドであるブログやウェブサイト、インターネットが手薄になってしまうことに寂しさを感じてもいます。昔は、ブログで往復書簡のようなことを頻繁にやっていましたが、今年はほとんどできませんでした。twitterでは弁士の皆さんがあれこれ難しいことを喋っていますが、そこに参加する余裕もありませんでした。無限の体力と時間があれば、きっとそれらにも参加できたでしょうけれども。
 
私はインターネットを棲み処とし、旧はてなダイアリー~現はてなブログを書き続けているうちに本を出版できるようになりました。その時々の『シロクマの屑籠』の常連読者の皆さんと、(株)はてなの皆さん、ブログがきっかけでご縁をいただいた皆さんのおかげで忙しくしていられるのだと思っています。そうした皆さんへの報恩の思いをどう具現化すべきか、人によって意見はさまざまでしょうけど、私としては、過労死しない範囲で活動を続けていくのが報恩の道ではないかと思っております。
 
シロクマの屑籠とp_Shirokumaを、今後ともどうかよろしくお願いいたします。
 
 
 

教職研修 2020年12月号[雑誌]

教職研修 2020年12月号[雑誌]

  • 発売日: 2020/11/19
  • メディア: 雑誌
健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 
 
 
 
※はてなブログ今週のお題「感謝したいこと」