シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「正しさ」や生産性のために、人間はどこまで治療され、改造されるべきのか

 
 
外では優しいのに家では不機嫌な夫。「フキハラ」には声をあげて、夫婦で話し合おう。 | ハフポスト
 
先日、ハフィントンポストで「不機嫌な夫はフキハラである」という記事を見かけた。家族のなかの誰かが不機嫌な態度を取り、その不機嫌が家族に影響を与え続けているとしたら、それは不機嫌ハラスメントだ、だから解決・解消しましょうといった啓蒙的内容となっている。
 
人間は、他人の不機嫌な態度からも影響を受けずにいられないし、それに苦しんでいる人もいよう。だから不機嫌をハラスメントとみなす提言は理屈として理解はできる。なぜなら、功利主義(最大多数の幸福)や危害原理(お互いに迷惑をかけてはいけない)といった現代社会のドグマに照らすなら、不機嫌な態度で他人に悪影響を与えるのは不道徳なこと、ひいてはハラスメントと呼ぶに値するだろうからだ。
 
上掲記事に対して、「不機嫌をハラスメントと呼ぶのは行き過ぎだ」と反発する意見をtwitterやはてなブックマークで見かけたし、私も、感覚的には行き過ぎだと思っている。それでも、筋の通った理屈を無視することもまた難しい。昭和時代には迷惑ともハラスメントとも被害ともみなされなかった諸々が、迷惑やハラスメントや被害とみなされるようになっていったのだから、不機嫌が迷惑やハラスメントとみなされる未来は不自然とはいえない。
 
それから冒頭リンク先の文章には書かれていなかったけれども、不機嫌は非生産的でもある。不機嫌になった人は、注意が散漫になったり作業が荒くなったりする。不機嫌な人から影響を受ける周囲の人々の生産性や効率性も下がるだろう。不機嫌は、功利主義や危害原理といった「正しさ」の領域を犯すだけでなく、生産性や効率性といった資本主義の領域をも犯している。
 
ありていに言えば、令和の日本社会は、不機嫌という態度を追放したがっている。模範的な現代人は、職場でも学校でも家庭でも不機嫌な態度をとってはならないのである。
 
 

「じゃあ、不機嫌になってしまう人はどうすればいいのですか?」

 
不機嫌になってはならない社会が到来し、他人の前で不機嫌な態度を取ったらハラスメントとみなされる時代になったら、不機嫌になってしまう人はどうすれば良いのだろうか?
 
私もそうだが、動物としての人間(ホモ・サピエンス)は、機嫌が良くなることもあれば機嫌が悪くなることもある。いつでも機嫌良くしていなさいなどというのは、人間の動物としての性質に反している。小さな子どもの不機嫌が教えてくれるように、いつでもどこでも機嫌良く過ごすためには、かなりのトレーニングが必要になる。しかも、いつでも機嫌良く過ごせる素養には個人差があって、どう頑張っても不機嫌になってしまうことのある人、不機嫌になりやすい人もいるだろう。というか実際にいる。
 
不機嫌がハラスメントとみなされ、あってはならないものになった近未来において、それでも不機嫌になってしまう人は精神疾患とみなされるようになるのではないかと、私は疑っている。
 
精神疾患の歴史を振り返ると、社会の変化とともにクローズアップされた精神疾患がいろいろあることに気付く。
 
落ち着きのない挙動、たとえば教室に座って勉強していられない性質などは、かつては精神疾患と呼ばれていなかったが、今では発達障害のひとつであるADHDとみなされている。座学やデスクワークの増えた社会では、ADHD的性質の有無が社会適応の明暗をわける。
 
スピーチが必要な時にドキドキしてしまったり赤面してあがってしまったりする性質は、今では社交不安症と呼ばれ、SSRIという抗うつ薬による治療が一般的となっている。コミュニケーション能力のニーズが高まった社会では、社交不安症的性質の有無が社会適応の明暗をわける。
 
気分の落ち込みや作業能力の低下に関しても、そうかもしれない。20世紀の中頃まで、うつ病は、重症度の高いうつ病*1こそがうつ病とみなされていた。しかし、20世紀後半から21世紀にかけて、より重症度の低いものもうつ病として診断・治療されるようになった。いわば「うつ病が軽症の領域へと大幅に拡張された」わけだが、そうした拡張は、医療サイドからみれば早期治療の実現や新しい薬の普及といった言葉で語られることが多いが、社会サイドからみれば以前に比べて軽症のメンタルトラブルまでが精神疾患とみなされ治療されなければならなくなったということ、その周囲への影響や生産性や効率性の低下を見過ごせなくなったということでもある。
 
精神医学のカテゴリーでいうと、うつ病は"気分障害"や"感情病圏"の疾患のひとつだが、不機嫌もまた、気分や感情にまつわる問題だ。もし、不機嫌が社会的に見過ごせなくなり、精神疾患とみなされるようになったら、たぶん"気分障害"や"感情病圏"にカテゴライズされるだろう。
 
ちなみに、不機嫌のお隣さんともいえる「怒り」については、アメリカ精神医学会の診断基準(DSM-5)に、重篤気分調節症(Disruptive Mood Dysregulation Disorder)という診断病名が存在している。重篤という言葉がついているとおり、これは、慢性的で持続的な怒りやすさの程度が激しい人にしか診断されないし、少なくとも日本では、それほど頻繁に診断されてもいない。しかし今の時点で重篤なケースにしか診断されない病名が、やがて軽症の人にも診断される病名になっていくことはそう珍しくない──それこそ、うつ病もADHDもASDも、20世紀の段階では重症度の高い人しか診断されなかったことを思い出していただきたい。これから先、怒りがますます社会から締め出されていくとしたら(そうなる可能性は高い)、程度の軽い人にも適用できる診断病名に変わっていく可能性はある*2
 
だとしたら、「怒り」のお隣さんである不機嫌もまた、ますます社会から締め出されていくなかで診断病名になっていく可能性は結構高いのではないだろうか。
 
 

人間は、どこまで自己改造して構わないのか

 
ここまで書いているうちに、ふと、2つの疑問が頭に浮かんだ。
 
疑問その1。
その時代・その社会に適応することが難しい特徴は、どこまで増えるのか。
 
前世紀から今世紀にかけて、たくさんの行動や態度、特徴が社会にそぐわなくなり、不道徳であるとみなされたり治療やケアが必要な疾患であるとみなされたりした。ハラスメントの定義の拡大や精神疾患とみなされるものの拡大は、社会のアップデートや、その社会で期待される人間像の変化に寄り添っている。
 
では将来、ますます社会がアップデートされ、ますます期待される人間像が変化していった時、いったいどこまで私たちは不道徳とみなされるものや治療やケアが必要とされるものを増やさなければならないのか。
 
功利主義や危害原理の考え方は、おおむね社会に役立つに違いない。生産性や効率性も、高いに越したことはあるまい。だけど、それらがエスカレートし続けるとしたら、その社会にふさわしい人間像を素のままでやってのけられる人間はどんどん少なくなって、やがて、あの人もこの人も不道徳であるか治療やケアの対象とみなさなければならなくなるのではないか。
 
その行き着く先が、たとえば全人口の40%程度が素のまま社会にいられて、残りの60%が不道徳とみなされるか、さもなくば治療やケアの対象とみなされなければならない社会だとしたら、それはもう、社会としてどこかおかしいのではないかと、私は思う。
 
それとも、全人口の過半数が素のままで社会にいられなくなってさえ、より正しく、より生産性や効率性の高い社会を目指さなければならないのだろうか?
 
疑問その2。
治療という名であれ、そうでない名目であれ、人間は、どこまで自己改造をやっていくのか。
 
精神医療の領域で、さまざまな特徴が治療やケアの対象になっていることは先に書いたとおりだ。ADHDや社交不安症への薬物療法は、治療として認められた自己改造で、これらをドーピング呼ばわりする人はいない。医療の世界に限らず、人間は案外、社会に適応するために小さな自己改造を行っているものである。眠くならないようにコーヒーを飲むだとか、学業成績のためにスマートドラッグを求めるだとかは、その最たるものだ。違法性や危険性に抵触しない限りにおいて、ケミカルな自己改造はさまざまに行われ、認められてきた。
 
言うまでもなく自己改造はメンタル以外の領域でも行われている。美容整形はもちろん、あちこちの子どもに施されている歯科矯正も、美醜の問われがちな現代社会に適応するための自己改造と言えるだろう。歯並びの良さや顔立ちの良さが社会適応を助け、より高い収入や地位を得る助けにもなる以上、美容整形や歯科矯正は現代の「正しさ」にも資本主義のロジックにも妥当している。
 
こちらの場合も、この流れの行き着く先がどこなのか、私は気になってしまう。
競争に勝つためや社会に適応するためなら、精神も肉体も自己改造して構わない・自己改造するのが当たり前になった社会の行き先もまた、人間が素のままではいられない社会だろう。いや、歯科矯正の現状などをみるに、すでに社会はそうなっているのかもしれない。
 
社会のなかで認められ、各人に期待される自己改造の程度は、その社会の「正しさ」の基準や、あるべき人間像の要求水準、テクノロジー水準などによって左右される。昨今は「正しさ」がますますアップデートされ、あるべき人間像の要求水準も高まり、テクノロジーも進歩し続けているのだから、2040年頃には自己改造の程度は今よりも高まっていると想像せずにいられない。
 
病気や疾患は増え続けてきた。自己改造も発展し続けてきた。社会はどんどんアップデートされ、「正しさ」もアップデートされ、期待される人間像も変わってきた。今までは、おおむねそれで良かったのだと思う。ではこれからは? これからも、おおむねそれで良かったと言い続けられるのか? 不機嫌をハラスメントの一種とみなす啓蒙的記事を読んで、いつものように、そういう不安に私は襲われた。
 
……そういえば、不安もまた自己改造の対象なのだった。こういう私の心配性も、より正しく、より生産的に改造されなければならないのだろう。
 

*1:いわゆる内因性うつ病の典型例や重症例

*2:なお、保険病名の話になるが、不機嫌がすでに病名となっているものも一応ある。「てんかん性不機嫌」というのがそれで、てんかんの一部症例にみられる定期的な不機嫌の状態を指していて、この保険病名で処方が行われることがあり得る。

ネットで語られる筋トレと脱オタクファッションは似ている(ところがある)


男は筋トレすればいいけど、「なめられない女」になるのは難易度が高すぎる | Books&Apps
 
上掲リンク先の"男は筋トレすればいいけど、「なめられない女」になるのは難易度が高すぎる"という記事は賛否両論だったようだ。読んでみれば、否定的な意見が寄せられるのもなんとなく察せられるところではある。
 
ところで、舐められる/舐められないはどういった要素によって決まるのか。
舐められる確率を上下させる要素は、見た目や外見以外にもいろいろあると私なら思う。
 
手短に書くと、舐められる確率を上下させる要素として
 
1.見た目・外見 (顔面の形態、服装、アクセサリやガジェット、体格など)
2.動作・挙動 (歩き方・姿勢・表情・目線の動き)
3.認知 (周囲の人間の動きをどれだけ察知・哨戒しているか)
 
を挙げておきたい*1。筋トレや脱オタクファッションは、主に1.に働きかけるものだが、人間は1.だけで相手を値踏みすることはなく、1.2.3.を総合的にみて値踏みするので2.3.が筋トレや脱オタクファッションの結果に釣り合っていなければあまり効果が無いのではないかと思う。3.の認知は2.の動作に近いが、たぶん少し違う。目の前にいる人間が何を見ていて、何を見ていないのかを人間はかなり意識しあい、スキャンしあっている。駅のプラットホームですれ違うぐらいの時間ですら、そうした相互スキャンは素早く働きあう。
 
余談だが、たとえば風邪をひいている時には2.3.が弱くなるのでいつもよりも舐められやすくなる。そういう意味でも風邪をひいている時はむやみに出歩かないほうがいい。実際に相手が舐めてかかるかどうかはさておき、いつもより弱っている人間は弱っている人間としてスキャンされる。少なくとも、そういうスキャニングを素早くこなす人間はぜんぜん珍しい存在ではない。
 
……きりがないので、この話の続きは後日にしよう。
それよりも、筋トレと脱オタクファッションについてだ。
 
筋トレを行う理由は人によってさまざまなだろうが、ネットで語られる筋トレの理由のひとつとして、人に舐められないためとか、自信を身に付けるとか、そういったものがある。コミュニケーションを円滑にするための外見を手に入れることとコミュニケーションの主体としての自分自身を強く持つことの二点を主な目的とするような、そういう筋トレだ。そういう筋トレを勧める人は若い世代から中年世代まで、わりと幅広い。
 
冒頭リンク先の記事を読んでいるうちに、私はこうした筋トレが脱オタクファッション(00年代前半に流行した、オタクの社会適応を向上させるためにオタクっぽい外見をやめて身なりを整えようというムーブメント)になんだか似てるなと感じた。今までそう感じたことは無かったが、ひとつの記事が私のなかで両者をカチーンと結び付けちゃったのだ。
 

脱オタクファッションガイド

脱オタクファッションガイド

こんな感じの書籍が並んだ時期をおぼえていませんか。

 
脱オタクファッションも、その目的はオタクっぽい外見で他人に舐められないこと、それから自信を身に付けることだった。言い換えれば、コミュニケーションを円滑にするための外見を手に入れることとコミュニケーションの主体としての自分自身を強く持つことでもあった。
 
脱オタクファッションの頃は、しばしば「服を買いに行くための服がない」と言われたものである。舐められないようにするための服を買いに行きたいのに、服を買う時に店員に舐められないようにするための「鎧」がないから最初の一歩が踏み出せない、そのジレンマを言い表したフレーズである。そう、脱オタクファッションを語る人々はしばしば「鎧」という言葉を使った。自分自身が舐められないようにするための「鎧」としてのオシャレな服。あるいは自分自身に自信を与えてくれる装備としてのオシャレな服。
 
筋トレも、少なくともその心理-社会的な目論見という点ではこれに似ている──筋トレをして体格が変われば、きっと舐められなくなるに違いない。また、筋トレをすることで自信を涵養し、コミュニケーションの主体としての自分を強く持てる。服を変えるか筋肉を変えるかという違いはあるにせよ、目論見はよく似ている。
 
また、心理-社会的な効果を当て込むあまり、そこに依存してしまったりやりすぎたりする人がいるのもどこか似ている。手段が目的になってしまい、筋トレオタク、ファッションオタクになってしまう人が現れるのも似ている。そういったことが起こってしまうのは、服を買い替えるという行為や筋肉を鍛えるという行為が、コミュニケーション能力の改善や自信の涵養に役立つだけでなく、自信の無さの糊塗に役立ってしまうからかもしれない。自信の無さの糊塗と自信の涵養には、紙一重のところがある。その紙一重を綱渡りしなければならない点でも両者は共通しているように、みえる。
 
脱オタクファッションという00年代のムーブメントは、若者がパルコや伊勢丹で服を買うという習慣がまだ残っていて、ユニクロが(現在に比べて)あてにされていない状況下で起こったものだった。2020年にはそのような習慣はすっかり衰退し、ユニクロの服がむしろ高いと評されることすらある。00年代に若者だったマスボリュームが丸ごと中年になり、そのうえ日本が貧しくなったのだから、服という「鎧」ではなく筋肉という「鎧」にアプローチするのはわかる気がする。中年男性が服にお金をかけようとすると際限のないことになってしまうのに比べれば、筋トレはまだしもローコストにみえる。そのうえ中年男性の関心領域となりがちな健康にもプラスに働く。
 
 
繰り返すが、これは、ネットで語られる筋トレの理由のひとつについて感想を述べたものである。すべての筋トレがこのような理由に基づいているわけではない。しかしこのような理由に基づく筋トレについては脱オタクファッションに似ているといえるし、その落とし穴も似ているのではないか思う。
 

*1:もし、会話を行っている場面なら4.として会話内容も要素のひとつとなる

2020年に出会ったすごく良かったワインたち

 

 
ワインを飲み歩いて約10年、いわゆる定番ワインのことは結構わかるようになった。ところがワインの世界はまだまだ広く、「どうしてこんなワインがこんな値段で?」と思ってしまうことはよくある。今年になって出会った、コストの割にいけているワインたちをズラズラ挙げていこうと思う。
 
 
・クズマーノ "ディズエーリ" ネロダヴォラ 2018 (シチリア・赤)
【1992】Cusumano "Disueri" Nero d'Avola 2018 - 北極の葡萄園
 

 
シチリアは安旨ワインと安いだけのワインの宝庫だけど、このワインはクオリティが価格水準を大きく上回っていると思う。クズマーノはシチリアの大手メーカーで、お手頃なワインをたくさん売っている。で、このワイン、値段が高くないにもかかわらず「いかにも葡萄酒然としたぶどうらしさ」と「森の下草みたいなオーガニックな雰囲気」が漂っている。舌ざわりがしっとりしているのも良い。それでもタンニンが無いわけではないので、結果としてこしあんみたいな飲み心地になることもある。シチリアの土着品種の赤ワインを試してみるなら、こいつは良い入口になると思う。
 
このワインには、工業生産品としてのワインでなく、農産物としてのワインらしさがあるのだけど、一般に、ワインからそういう雰囲気を感じ取るためには3000円以上出さないと難しい。ところがこのワインは1600円ほどで買えるのでリピート。
 
 
・マックマニス・ファミリー ジンファンデル 2018
【1983】McManis Family Vineyards Zinfandel 2018 - 北極の葡萄園
 

 
カリフォルニアの赤ワイン品種・ジンファンデルのなかでもバランスがとれていて、しかも1000円台!
 
こいつは、甘さと果実味で押すワインなのだけど、苦み・梅系酸味といった赤ワインの味の土台となる部分をおろそかにしていない。甘さと果実味で押す安ワインの駄目なやつは、だいたい、土台をおろそかにしているので飲み飽きる。ところがこれは飲み飽きない! 価格を考えると信じられないほど細かいところに目配りされたワイン。これより値段が高く、上っ面だけ美しくした赤ワインはいくらでもある。
 
カリフォルニアワインは値段とクオリティが比例するため、この価格帯で納得のいく品を探すのは非常に難しい。そんななか、マックマニス・ファミリーはかなり頑張っていると思う。以前から白ワインのクオリティには驚いていたけど、今年、赤ワインを発見してこれまたびっくりしてしまった。
 
 
・エミリオ・ブルフォン シャリン 2018
【2073】Emilio Bulfon Scialin 2018 - 北極の葡萄園
 

 
はじめに断っておくと、これはゴージャスな白ワインやリッチな白ワインが欲しい人には向いていない。「白ワインの味の土台は酸味」という基本原則からも逸脱している。模範的な白ワインとはいえない。
 
このワインのいいところは、白ワインにも関わらず、落ち着いた飲み心地で、なんだか重低音の効いたワインと感じられる点。こういう特徴はボルドーの赤ワインにはよくあるけれど、白ワインではあまり多くない。私は白ワインが好きなのだけど、飲むと頭がヒートアップしてメチャクチャになってしまうので最近は控えめ。ところがこのワインは静かな気持ちで飲めた。白ワインをある程度飲み慣れていて、変わり種を飲みたい人、静かな気持ちで飲みたい人におすすめ。シャリンはこのメーカーぐらいしか作っていないイタリア北東部の土着品種なので、話のタネにもどうぞ。
 
 
・ロシュバン ブルゴーニュ・ピノ・ノワール ヴィエイユ・ヴィーニュ 2016
【1972】Domaine de Rochebin Bourgogne Pinot Noir Vielles Vignes 2016 - 北極の葡萄園
 

 
ブルゴーニュの赤ワインは異常に値上がりしていて、新型コロナウイルスがやってきても全然値下がりしない。そんななか、2000円を切った価格で流通しているこのワインはお買い得の部類。ブルゴーニュの赤ワインとしては低価格帯なのに、ちゃんと化粧箱みたいな香りがあって香り映えがする。
 
もちろん、化粧箱みたいな香りの漂うワインは他にもあるし、同じブルゴーニュの赤ワインでも5000円出せばもっともっと薫り高いワインは手に入る。とはいえ、1000円台でそういう雰囲気を出してきているのはえらい。1000円台のブルゴーニュの赤ワインは結構辛いものも多いから。なお、私がリピートしたのは2016年産で、2017年産や2018年産も同じ雰囲気なのかはこれから確認してみる予定。ここに張ったリンク先は2017年。
 
 
・ネグラール アマローネ デッラ ヴァルポリチェッラ モンティゴーリ 2016
【2024】Montigolo Amarone della Valpolicella 2016 - 北極の葡萄園
 

 
アマローネは、一般的な赤ワインに比べて甘みが強めなので、正統な赤ワインとは雰囲気が違う。だけど甘みが強いおかげで「子ども時代にイメージした葡萄酒」に限りなく近い味がするように思う。舌触りが少しザラザラッとしていて果実フレーバーが強烈なのも葡萄酒っぽいイメージを駆り立てる。葡萄酒らしい葡萄酒をワイン初心者が飲むなら、一般的な赤ワインは避けてアマローネを買ったほうが納得できると思う。
 
ところがアマローネはちょっとした高級ワインジャンルなので、マトモに買おうとすると痛い出費になる。にもかかわらず、このワインは2600円とめちゃくちゃ安い。10000円ほどのアマローネに比べるとさすがに粗いと感じる部分はあるにせよ、ちゃんとアマローネらしさは揃っているのでありがたい。
 
 
グレネリー グラスコレクション カベルネ フラン 2016
【1942】Glenelly "Glass Collection" Cabernet Franc 2016 - 北極の葡萄園
 

 
南アフリカのワインは、全体的に価格の割に美味いものが多いのだけど、そうしたなかでこのワインは1700円ほどもする(※値上がりした!今は2800円ほど)。なので「南アフリカのワインにしては高価」なのだけど、それだけのことはある。このワインの品種はカベルネフランといって主にフランス中部でつくられているものだけど、フランスの同価格帯の品に比べて味の輪郭がくっきりしていて、愛嬌があるというか、人をひるませる要素が少ない。
 
サクランボみたいな果実フレーバーと鉛筆・牧草みたいな香りがしっかりと香り、渋みはそれほど厳しくないので、ぶどうでつくられたお酒を飲んでいる感を感じやすい品だと思う。街で見かけたら保護したい。
 
 
・バンフィ ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ "プラチド" 2005
【2074】Banfi "Placido" Brunello di Montalcino 2005 - 北極の葡萄園
 

 
ブルネッロ・ディ・モンタルチーノはイタリア中部で作られる高級ワインなのだけど、こいつはその割には価格が抑えめ。普通、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノは安くて6000円程度、高くなると15000円程度はする。しかも10年ほど寝かせておきたいので買うのも飲むのも大変。ところがこのワインは4000円を切っていて、2005年と十分に熟成もしている。
 
このワインの特徴は、干し柿やオレンジの皮みたいな香りが香ってくるところ。この香りのおかげか、ワインに包容力があり、飲むにつれ温かい気持ちになってくる。トマトスープや腐葉土のような香りがよぎることもあって、飲み応えは抜群、リッチ、これだけの味と香りのワインは、倍は出さないと普通は飲めない。
 
これは、在庫放出か何かなんだろうか? とにかく滅茶苦茶美味くてまた買いたくなってしまう。じきに在庫が無くなって終わりになるだろうから、つい、ストックしてしまう。なくなるまでリピートする予定。
 
 

手堅いフランスワインばかり買うのはやめよう

 
この、最後に挙げたプラチドや最初に挙げたディズエーリなど、今年はイタリアワインでコストパフォーマンスのおかしいワインに何度も出会い、その個性、その豊かさにびっくりさせられた。2015年頃から私は「一定クオリティ以上のワインを買うなら、結局フランスワインを買ったほうが手堅い」なんて思っていたのだけれど、これらのワインをリピートして「フランスの手堅いワインばかり買っているのは良くない、ちゃんと他所のお買い得品を探し回ろう」と思い直した。
 
それと、ワインを知ったつもりになっていて、まだまだ知らないぶどう品種、知らない味があるとも思った。ワインが趣味のひとつになって10年ぐらいになるけれども、来年は初心にかえって、いろいろな地域のワインをまんべんなくトライしてみよう、と思う。
 
 

男性性欲が医療によって管理される未来

 
この文章は、先週twitterでつぶやいた話をブログ用に書き直したものだ。もっと長文でまとめてみたい、と思ったからだ。
 
 

「賢者タイムは生産的」→「というより、男性性欲のあれって認知や行動の障害では?」

 
「賢者タイム」というインターネットスラングをご存じだろうか。
 
賢者タイムとは、男性が射精後に性的関心がなくなり、冷静になっている状態を指す言葉だ。賢者タイムがあるということは、いわば愚者タイムとでもいうべき時間もあり、男性、とりわけ若い男性はしばしば、性欲や性衝動によって冷静さを失う。そして生産的でも合理的でもない行動、たとえば普段は欲しいとも思わないポルノグッズを衝動的に買ってしまったり、向こう見ずな行動をとってしまったりする。
 
だから若い男性のなかには、冷静さを取り戻すために、ほとんどそれが目的でマスターベーションを行う人すらいる。
 
「睾丸毒」というネットスラングも過去にはあった。これも、男性性欲によって男性の行動が影響を受けるさまを指す言葉で、「睾丸毒が溜まる」という言い回しもあったように思う。
 
こんな具合に、男性性欲は行動にしばしば影響を与え、その影響のなかには、悪影響と呼ばれてもおかしくないものも含まれる。関連して、女性との交流や女性への下心が男性の認知機能を低下させる、といった研究があったりする。
 
[参考]:Interacting with women can impair men’s cognitive functioning - ScienceDirect
[参考]:The Mere Anticipation of an Interaction with a Woman Can Impair Men’s Cognitive Performance
 
これらの研究結果に"身に覚えのある"男性は多いのではないだろうか。
 
男性は、自分自身の性欲によって認知や行動に大きな影響を受け、なかにはそれで人生をどぶに捨ててしまう人すらいる。悩みや苦しみを抱えていることも多い。
  
日本の精神医療の現場にはたまにしか浮かび上がってこないが、いちおうアメリカ精神医学会の診断基準(DSM-5)には「性機能不全群」というカテゴリが存在する。だがこれらは「性行為ができない・性行為が来ない」「性倒錯にとらわれ一般的な性機能が障害されている」といったもので、範疇的な男性性欲がたかぶった結果として認知や行動がグラつく事態を想定したものではない*1
 
他方、表の世間であまり話題になっていないけれども、男性性欲によって「さかりのついた猫」のようになってしまう状況や、本人自身の悩みや苦しみが深いことは結構ある。その程度が甚だしいもの・社会的影響や経済的損失の大きなものについては、月経前症候群(Premenstrual Syndrome : PMS)や月経前不快気分障害(premenstrual dysphoric disorder : PMDD)などと同じく治療の対象とみなされ、医療化、すなわち医療の対象とみなされる余地があるのではないだろうか。
 
 

人間ほんらいの機能なら「病気」にならない……とは限らない

 
(機能不全でも性倒錯でもない)男性性欲が医療の領分とみなされることに疑問や抵抗感をおぼえる人もいるだろう。
しかし医療の現状をみるに、私にはそうとは思えない。
 
さきに挙げた月経(いわゆる生理)も、ホモ・サピエンスの女性に備わった生理的機能のひとつだ*2。たとえ生理的機能でも、それが本人に苦しみをもたらしたり生産性を低下させたり認知や行動に影響が出たりするなら、PMSやPMDDのように"病気"として、治療の対象として扱われる。
 
なら同じロジックで、男性性欲によって本人が苦しんでいたり生産性を低下させたり認知や行動に影響が出たりするなら"病気"として、治療の対象として扱われたてもおかしくないのではないか?
 
発達障害にもそうした側面はある。
発達障害には遺伝的・生物学的な基盤があることはよく知られている。だがそもそも、(重症度の高い自閉症などを除いた)大半の発達障害は20世紀後半になるまで診断と治療の対象になっていなかった。それは診断や治療の方法が乏しかったというより、診断や治療をしなければならない社会的ニーズが乏しかったからだ。
 
今日において発達障害と診断されている人の相当部分は、20世紀初頭や19世紀以前において「正常(または定型発達)」とみなされてもおかしくない人たちだったし、多様なホモ・サピエンスの成員にはそういう人たちがたくさん含まれていて、そのことに違和感を持つ人はいなかった。発達障害の遺伝的・生物学的基盤も、発達障害が"病気"としてクローズアップされるまではホモ・サピエンスの遺伝的ばらつきのひとつでしかなかったし、そうしたばらつきを人々が持っていること、そうしたばらつきを持った人も込みで社会が構成されていることは当然だった。
 


 
だから「ホモ・サピエンスのほんらいの機能」だからといって"病気"と呼ばれないとは限らない。人間の生理的機能でも、その時代・その社会にフィットしないものなら医療の対象とみなされることはぜんぜんあり得る。この点において、男性性欲が例外とみなされる理由は見つからない。
 
 

男性性欲の医療化が進む生物学的・政治的正当性を考える

 
なにかが医療のターゲットになること──医療化──が起こるのはいったいどういう時なのか。医療社会学者のピーター・コンラートは、著書『逸脱と医療化』のなかで医療化が起こる条件について以下のように記している。
 
 

医療業務は、新しい医療的規範の創出へと通じており、その侵害は逸脱、あるいはわれわれが示した事例では、新しい病いのカテゴリーとなる。このことによって、医療あるいは一部門の管轄権が拡大され、病いという逸脱の医療的治療が正統化される。19世紀における狂気の定義に際しての医療的関与の社会学的分析(Schull, 1975)と、最近の多動症(Conrad, 1975)と児童虐待(Pfohl, 1977)に対する医療的定義の事例は、特定の逸脱定義に対して医療職が唱道者となった主要な例である。
(中略)
ある行動や活動もしくは状態を逸脱として定義する決定は、逸脱カテゴリーを付与し、その付与行為をその後正統化する政治的な過程から出現する。そして多くの場合、医療的認定の結果も、特に人間の行動に関する場合は、同様に政治的である。

大雑把にまとめると、「医療者が新たに健康からの逸脱として発見し、啓蒙し、その生物学的・政治的な正当性を見出したものが医療化される」、となるだろうか。
 
このうち、生物学的正当性については、エビデンスが見つかれば良さそうだが、たぶん探せば見つかるだろう。
 
世の中には性欲のセルフコントロールが上手な男性もいるし、性欲に振り回されやすい男性や性欲に苦しむ度合いの高い男性もいる。性欲とそのセルフコントロールの度合いには個人差があり、いわばスペクトラム的な分布があるから、性欲に振り回される度合いの高い男性たちに有意差をもって見出される遺伝的・生物学的な特徴は(ASDやADHDやゲーム障害に関連した特徴、またはII型糖尿病に関連したポリジーンのようなかたちで)見つかるだろう。
 
 
では、政治的正当性についてはどうか。
 
私は、これほど男性性欲が医療化するための政治的正当性が揃っている時代は、いまだかつて無かったのではないかと考えている。
 
1.第一に男性性欲は不潔である。なぜならそれがもたらす性行動や性探索は性感染症を媒介するし、夜の街では新型コロナウイルスなどを媒介するからだ。「たとえ生殖器をとおさなくとも、体液の交換が起こり得るような状況のコミュニケーションは感染症を媒介する、いわば不潔な行為である」という認識は、もはや医療関係者だけのものではない。
 
2.第二に男性性欲は非生産的である。冒頭で紹介した「賢者タイム」や「睾丸毒」といったネットスラングが示しているように、男性、とりわけ若い男性は性欲によって認知や行動に影響を受けやすい。ある程度社会経験を重ねた男性でさえ、性欲が仇となり、キャリアを台無しにしてしまうことがある。そして現代社会において生産性は拝跪すべき目標でもある。「みずからの性欲に悩む男性の問題を医学的に管理すれば、社会全体の生産性は○○億ドル向上する」と判明した時、医学界と産業界は大喜びで医療化を応援するだろう。苦しみを減らし、生産性を向上させるオポチュニティーは現代社会において強い正当性を持つ。
 
3.第三に男性性欲は迷惑である。
男性性欲に傷つく人がいる。男性性欲を不快に、それそのものを不潔と感じる人がいる。なるほど、性欲で男性の認知や行動がブレること自体は実際あるのだから、誇張したイメージとして「何をしでかすかわからないケダモノ」を連想する向きはあるだろう。「お互いに迷惑を与えてはいけない」「お互いに脅威を与えてはいけない」という、日本ならではの功利主義的状況のなかで、男性性欲には居場所が無い。学校や職場や家庭でソレが露出した時には、公然わいせつほどではないにせよ、たくさんの人が当惑し、持てあます。脅威とうつることだってあるだろう。
 


 
正しい場所で・正しい時に・正しい手続きで・正しい相手にだけ性欲があらわれるよう、男性性欲をコントロールできるに越したことはない──自分自身の性欲を後生大事にしている一部の男性を除いて、みんながそう思っているのではないだろうか。
 
4.第四に男性性欲は不道徳である。
100年以上前のキリスト教世界の人々は、マスターベーションや性倒錯は罪であると言った。当時は性がほとんど医療化されていなかったが、かわりにキリスト教が性道徳を厳しく管理していた。
 
20世紀後半に一時的に緩んだものの、現在の日本もまた(かつてのキリスト教世界とは異なるかたちで)性道徳が厳しくなり、性のタブー視が進んでいるのではないだろうか。親や教師は子どもの性教育や性行動を持て余し、社会もまた、猥褻なものを少しずつ社会の辺縁へと押しやってきた。低用量ピルもいまだ普及しているとは言えない。性的なコンテンツこそ豊富にあるものの、それらの社会的位置づけは貶められているに等しい。猥談は笑って済ませるものではなく、ハラスメントとして告発されるものとなっている。かつては「不倫は文化」などと言っている芸能人もいたが、2020年に同じことを言えば、その芸能人は不道徳とみなされ社会的制裁を受けるだろう。
 
そしてキリスト教道徳に替わって私たちの道徳判断の基準になっているのは、資本(主義)とそれを追求するための効率性や生産性だ*3。効率性や生産性の乏しい人や行動に対し、社会は、人々は、厳しい目を向ける。生産性を低下させるたぐいの男性性欲は、効率性や生産性の道徳基準からみて正しくない欲求、矯正しなければならない欲求である。
 
 

健康的で清潔で道徳的な社会に男性性欲の居場所なし

 
こうやって振り返ってみると、男性性欲のうち、少なくとも個人や社会の効率性や生産性に悪影響をおよぼし、本人や周囲が苦しむものに関しては、医療による治療や管理の対象になっていく可能性は十分にあるように思える。なぜ今まで医療化の標的とみなされていなかったのか、不思議に思えることさえある。
 
ではなぜ、男性性欲が医療化されてこなかったのか?
 
ひとつには、男性性欲に衝き動かされる行動が過去には好ましいとみなされていたからでもあろう。
 

 
アラン・コルバンらによる大著『男らしさの歴史』には、今日の日本でなら犯罪や迷惑やハラスメントとみなされるだろう性的な振る舞いが、男性にとって望ましいとされてきた歴史が綴られている。そうでなくても、近代以前の性風俗は現代よりおおらかで、猥談や性的接触が街や村にあふれていた。そのような社会状況のなかでは、みずからの性的機能をアピールできない男性は男らしくないとみなされかねず、沽券にかかわる問題だった。
 
もうひとつ、医療や道徳を司る立場を長らく男性が独占したことに伴って、男性性欲が管理や道徳のまなざしを免除されていた、という一面もあるのではないかと個人的には思う。
 
 
上掲ツイートにあるように、男性は、女性の生殖や性欲を管理してきた。はじめは腕力や宗教や道徳で。現代では医療によって。他方、男性自身に対しては男性性欲の奔放さを許容してきた。もちろん「男性性欲に奔放さが許容されてきたこと」と、「男性が異性獲得競争に勝たなければならなかったこと」や「男性が性的機能をアピールしなければならなかったこと」は表裏一体の問題ではある。いずれにせよ、男性性欲を管理の対象とする歴史は、女性の生殖や性欲を管理の対象とする歴史に比べれば短く、ここには不平等が潜在している。
 
だとすれば、たとえば女性目線で男性性欲を腑分けすることによって、これまでは議論されてこなかった男性性欲の問題、管理されるべき問題が詳らかになることだってあり得るのではないだろうか。男性自身は気づきにくいが女性ならば気付き得る、男性性欲に伴う認知や行動の歪みはあるように思う。それはまだまだ研究されていないし、管理されてもいない。健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会にふさわしい男性性欲のテンプレートは、女性からの目線によって彫琢されていくのではないだろうか。
 
そうやって男性性欲が検証され、研究され、それに伴う認知や行動の歪みがマネジメントされ、男性自身の苦しみが解消されれば、男性はより生産的で合理的な個人へ、より正しい個人へと生まれ変われるだろう。すべての男性が、女性や子どもからみても安心できる男性、迷惑や脅威や不快感を与えない男性になるとしたら、それはハーモニーにみちた、すばらしい新世界ではないだろうか。
 
それだけではない。男性性欲にともなう認知や行動の歪みを検証・研究し、苦しんでいる男性に手を差し伸べた医療者は、プレステージを獲得し、学界的ポジションをも獲得するだろう。製薬会社は利益を、社会は生産的で効率的な男性労働者とGDPを得る。男性性欲を医療化してしまったほうがみんなが得をするし、みんなが道徳的になれるのだ。自分自身の男性性欲を後生大事にしているような、時代遅れの一部の男性以外の皆が、この変化から恩恵を受け取り、恩義を感じることだろう。
 
だとしたら、男性性欲は、いまだ手付かずのままの金鉱脈ではないか?
 
考察を続けるうちに、私は、男性性欲に悩む男性に救いの手をさしのべ、社会の生産性を高め、より安全・安心で道徳的な社会を主導する唱道者になりたいものだ、という誘惑をおぼえた。誰からも感謝され、どこからみても正当性を獲得できそうな、そういう金鉱脈が目の前で無防備な姿をさらしているのではないか。悪魔が、もとい天使が"『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』みたいな本を書くより、悩んでいる男性を救うために、社会の生産性や効率性に貢献するためにあなたも奉仕してはどうですか"と耳元で囁いている気がする。
 
もちろん最後のほうはジョークの類なのであしからず。
だが私よりもこの問題をよく知り、私よりも社会に貢献したくてウズウズしている誰かがいれば、きっと男性性欲は医療化されていく。そして歴史を振り返る限り、そういう誰かは必ず出てくる。
 
  

*1:性嗜癖、いわば調子が悪かった頃のタイガー・ウッズが陥った状態はこれにいくらか似ているが、これも現時点ではDSM-5の性機能不全群に含まれていない

*2:実際には、新石器時代の女性はもっと妊娠や授乳に人生の多くを費やしていて月経が起こる頻度が少なかった、という話もある。もっともその場合、妊娠や授乳を繰り返すことに伴って別種の身体的問題が女性について回っただろう

*3:マックス・ヴェーバー『プロ倫』風に考えると、資本主義的道徳とキリスト教道徳は繋がっているわけで、深堀りすると楽しいのだが、ここでは踏み込まない

「おしゃべりは喫談室でどうぞ」の未来

 
子供が泣き出したら、隣の乗客が耳栓を... 「悲しくなった」母親の訴えに反響: J-CAST ニュース【全文表示】
【追記あり】子供の泣き声に耳栓されて心が折れた
 
 
最近、2018年にわずかに話題になったはてな匿名ダイアリーへの投稿についてのJ-CASTのニュース記事が目に飛び込んできた。2年前にも見た気がするが、当時はモヤモヤした気持ちを抱えながらも、スルーし、忘れてしまうことにした。
 
ところが2020年にふたたび相まみえてみると、あのとき自分が何をモヤモヤしていたのかわかる気がした。気の利いたことを書ける自信はないが、この「子供が泣き出したら、隣の乗客が耳栓をした」案件について今思うことを書いてみる。
 
 

正しいのは耳栓の乗客で、むしろ子連れの親が正しくないとしたら

 
いまどきの習慣や通念にもとづいてジャッジするなら、正しく振る舞ったのは耳栓の乗客のほうで、それについて母親が悲しいと思うのはもちろん構わないとしても、どうこう言う筋合いはないのだろう。実際、この母親は耳栓をした乗客に向かって直接にクレームをつけたわけではない。匿名ダイアリーに愚痴っただけの母親の振る舞いも、また正しい。
 
正しくて良かったですね。
 
「列車のなかでは他人に迷惑をかけてはいけない。お互いに迷惑をかけないことでお互いの自由が守られ、権利が侵害されずに済む」
「ましてや健康被害を他人に及ぼしてはいけない」
 
この、日本社会における金科玉条に照らして考えるなら、母親は悲しいなどと言っておらずにデッキに移動して子どもをあやすのが望ましかったかもしれない。申し訳なさそうな顔をしていればより完璧だ。そして子供連れで新幹線に乗る多くの母親が、実際そのように振る舞っている。
 
一方、耳栓をした乗客は最低限の動作で金科玉条を守ったといえる。お互いに迷惑をかけず、お互いの権利を侵害しない。それを耳栓をつける動作で実現したのだ。子どもの泣き声が癇に障る人も多かろうところを、彼女は耳栓を装着することで意に介さないことにした。舌打ちする乗客や、神経質な顔をする乗客よりもよほどいい。解釈のしようによっては「耳栓つけているからご自由にどうぞ、私にはストレスじゃありませんよ」というジェスチャーともとれる。
 
はてな匿名ダイアリーに投稿した人は、そのさまをこのように嘆いた。
 

彼女は悪くない。じゃあどうしてもらいたかったんだって、自分で考えてみたけど、「大丈夫ですよ」とか、あるいはニコッと笑ってくれるだけで良かったんだと思う。あの人にとっては、私も子供も「無」だった。私はいいけど、私の大切な子供も無、なんだ……と思って悲しくなったんだと思う。

このくだりを2020年に再読し、興味を感じた。
どうして無ではいけなかったのだろう。
 
きみたち日本人は、お互いに干渉しあわず、お互いに迷惑をかけあわず、お互いの自由が守られ権利が侵害されない社会を望んだんじゃなかったのかい?
 
そうした功利主義を守る冴えたやりかたが「相互無干渉」であり「儀礼的無関心」であり、「コミュニケーションしないで済ませる街づくり・社会づくり」ではなかったか。親切にされることがないかわりに、無用のコミュニケーションを強要されるリスクや、見知らぬ誰かと話さなければならないコスト、あるいはローカルルールに服従しなければならない理不尽を避けるために、私たちはバラバラになり、「お互いに迷惑をかけないことを金科玉条としたうえで接点をできるだけ持たない、快適でなめらかな社会」を作ってきたのが日本社会ではなかったか。
 
だから、筆者のいう「無」とは、現代の日本人が身に付けていることの望ましい、いや、身に付けていなければならない態度だし、筆者とて、出産するまではそれを良しとしてきたはずである。この、お互いが迷惑をかけないためにもお互いが「無」でなければならないという社会的ニーズに即していうなら、大きな声で泣く赤ちゃんは「無」ではなく、「有」であり、迷惑である。ストレスという観点から健康被害だ、などと言い出す人もいるかもしれない。杓子定規に「どちらが迷惑で」「どちらがお互いの権利の侵害を避けているか」という判定をするなら、子連れの母である筆者が「無」になりきれていないから悪い、という風になる。
 
もちろん私は、こうした現代日本ならではの功利主義的状況がおかしいと思っているから・皮肉に思っているからこれを書いている。子連れの親が公共交通機関や公共の場に出ると、子どもの泣き声や突発的行動などによって迷惑をかけ得るから、もうほとんど存在するだけで迷惑になり得る。個人的には「迷惑をおぶって歩いている」といった罪悪感をおぼえることさえあった。そして口さがない人はこういうのだ──「子ども連れが電車なんて乗ってるんじゃねぇ」「子どもは自動車で移動させろ」。
 
私はこうした子連れの親の境遇をひどいものだと思う。
しかし「お互いに迷惑をかけてはいけない」「ましてや健康被害を他人に及ぼしてはいけない」という現代日本の金科玉条に当てはめて考えると、子連れの親の側がむしろいけない、というより存在してはならないということになってしまう。
 
だとしたら、本当は金科玉条の側がおかしいか、少なくとも何か問題を含んでいる、はずである。
 
 

コロナ禍でエスカレートする功利主義と危害原理

 
ところがコロナ禍を経て、状況はますます窮屈になっている。
 
発声を巡って、マスクを巡って、ソーシャルディスタンスを巡って、私たちは2019年以前の私たちよりもずっと神経質に「お互いに迷惑をかけてはいけない」「ましてや健康被害を他人に及ぼしてはいけない」という金科玉条を気にするようになった。
 
「電車のなかでマスクをしていない人は健康被害を及ぼすかもしれない」
「ソーシャルディスタンスを守れない人は迷惑」
「咳しながら街に出てくるってのはどういう感覚なのか!」
 
コロナ禍をとおして、たくさんの人が他人に迷惑を及ぼすこと、他人に健康被害を及ぼすかもしれないことに敏感になっている。常識や通念がより健康でより迷惑をかけない方向に傾いてしまった。2019年までは神経質のきわみと思われていた人の振る舞いが、2020年においては功利主義と危害原理にかなった「新しい生活様式」にふさわしい振る舞いとみなされる。
 
もちろんそれは、新型コロナウイルスの蔓延を防ぐという大義に基づいている。
今はそれがプラスの方向にも働こう。
だが欧米諸国に比べると、その大義に基づいた「新しい生活様式」はスルリと日本社会に定着したようにみえる。そもそも、それ以前から日本は清潔大国であり健康王国であり「お互いに迷惑をかけてはいけない」が行き届いた国だった。そこにコロナ禍が到来した時、私たちはあっけらかんと社会の常識や通念をアップデートしてしまった。
 
「新しい生活様式」は新型コロナウイルス感染症だけでなくインフルエンザやかぜ症候群などの防備にも役に立つし、「お互いに迷惑をかけてはいけない」にもよく妥当するから、パンデミックが終わったとしても、ある程度は残るのではないかと私はみている。「迷惑をかけてはいけない」「健康被害を及ぼしてはいけない」という金科玉条に沿った変化である以上、これを覆すのは簡単ではないよう、思えるからだ。
 
 

行き着く先は「喫煙室」ならぬ「喫談室」

 
まだ新型コロナウイルス感染症が流行する前、twitterのどこかで「新幹線のなかで喋る奴は本当に迷惑だから、喋る時は喫談室に行って喋るべきだ、喫談室を用意しろ」といった内容のツイートを見かけたことがあった。
 
少なくとも新型コロナウイルス感染症が流行する前の時点では、「会話は喫談室で」などと言ったら、「なにを極端な、神経質すぎるだろう」と考える人のほうが多かったのではないだろうか。
 
しかし新型コロナウイルス感染症が流行した後の今では、「会話は喫談室で」に賛同する人は以前より増えているはずだ。なぜなら、会話が病原体を媒介することがよく知られ、町じゅうのどこでも会話に対する注意がアナウンスされているからだ。会話が迷惑とみなされる度合い、会話が健康被害をもたらすかもしれないと疑われる度合いが、2019年以前と2020年以後では違う。
 
となれば、私たちの行き着く先として、おしゃべりする人を「喫談室」に隔離し、迷惑で不健康なことを好んでやる自己責任な奴らとみる未来が来てもそれほど不自然ではないのではないだろうか。
 
かつて「喫煙室」が一般的ではなかった頃、「タバコは迷惑、タバコは健康被害」と主張したら「なにを極端な、神経質すぎるだろう」と考える人のほうが多かった。少なくとも、1980年に起こった嫌煙権訴訟で東京地裁が「列車での受動喫煙は受忍限度内」「日本社会が喫煙に寛容であることを前提にすべき」とし、訴えを棄却した程度には「タバコは迷惑、タバコは健康被害」は限定的な感覚だった。1980年の段階で嫌煙権を主張するのは、結構尖ったことではなかったかと思う。
 
同じく、2019年の段階で「会話は迷惑、会話は健康被害」と主張したら「なにを極端な、神経過ぎるだろう」と考える人のほうが多いに違いない。だがタバコと喫煙室の件が教えてくれるように、40年の歳月は私たちにとって迷惑とは何で、健康被害とは何かの判定基準を大きく変えてしまう。ある時代において神経質とみなされていた迷惑や健康に対する捉え方が、数十年後には疑う余地もない常識や通念になっていることはあり得る。
 
新型コロナウイルス感染症をとおして私たちは、話すということ・唾が飛ぶということに対して敏感になった。それが健康リスクをもたらす不潔な行為だと周知されればされるほど、しゃべるということ、唾が飛ぶということ、大勢で集まるということは、喫煙に近い立ち位置に寄っていく。極端な人なら、それらを不道徳でスキャンダラスな行為とみなすことだってあるかもしれない。
 
もちろん、本来人間はコミュニケーションする動物なのでしゃべるということは自然なことではある。だが、人間の文明化とは、本来の人間の行動や本能的な人間の行動を社会や文化にあわせて飼いならしていくものだったから、本来の人間の行動だからといって、話すということ・唾が飛ぶということが無条件で免罪されるとは言えない。
 
お互いに迷惑をかけないこと・他人に健康被害を与えないことの指し示す範囲は、時代や文化、社会的要請によって意外に変わる。そして変化はしばしば、神経質なほうへ・厳しいほうへと変わっていく。「おしゃべりは喫談室でどうぞ」という未来は私には極端に思えるが、20~40年後の人々が同じく極端だとみなすかどうかはわからない。少なくとも、迷惑と健康、功利主義と危害原理についての金科玉条が変わらない限り、そういう未来もあり得ると心得ておかなければならないように、私には思える。