シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

日本のサブカルチャーとイタリアワインは素晴らしいガラパゴス

 
日本の漫画やアニメやゲームはガラパゴスなのか? - 狐の王国
 
少し前、twitter上で「日本のアニメ・ゲーム文化はガラパゴス(だから良い/悪い)」といった言い合いのようなものを見かけた。これについて、上掲リンク先のこしあんさんは、「日本の漫画やアニメはガラパゴスとは言えない。なぜなら20世紀の段階から海外に輸出され、人気を獲得しているからだ。もし(批判的な意味で)ガラパゴスだというなら、制作体制や投資やマネジメントのお粗末にある」といったことを述べている。
 
一連の話を読んで、私は「いやいや、やっぱり日本のアニメ・ゲーム文化は(肯定的な意味で)ガラパゴスでしょ」という思いを強めた。日本のサブカルチャーの作品は海外に輸出されて一部のマニアを熱狂させるだけでなく、子どもや、現在では大人までをも魅了しているし、海外のクリエイターにまで影響を与えている。そういう意味では、もう、グローバルに流通し消費されている作品と言って差し支えないだろう。
 
しかし、グローバルに流通し消費されているからといって、それは純粋にグローバルな作品だと言ってしまえるものだろうか。
 
たとえば寿司や豆腐や醤油はすっかりグローバルな食べ物になっていて、海外でも作られていたりする。とはいえ、流通はグローバルでもそれらを育んだのはローカルな日本文化圏だ。そして海外で作られたり模倣されたりしている寿司や豆腐や醤油は一部に過ぎなくて、日本国内から出ていかない・出ていけない寿司や豆腐や醤油もたくさんある。
 
アニメやゲームだって同じだ。任天堂のような素晴らしい企業に後押しされ、どんどん世界じゅうで愛されているポケットモンスターやゼルダの伝説のような作品があるのと並行して、「小説家になろう」由来の深夜アニメのように、海外ではあまり知られていないし海外の視聴者のほうを向いてもいない作品もたくさんある。そして新海誠の作品のように、どう考えても日本の視聴者のほうを向いていたはずなのに、やがて海外に知られ、だんだん売れていく作品もある。
 
こうした、「一部の目立った作品や強力な後ろ盾を得た作品がグローバルに流通し消費される一方で、それよりずっと多くの国内向けの作品が作られ、なかには新海誠作品のようにときどき新しい作品が海外の人々の目に留まる」みたいな状況に、私は文化のガラパゴスをみずにいられない。繰り返すが、ここでいうガラパゴスとは、肯定的な意味のガラパゴスである。
 


 
グローバルなトレンドに染まっていない国内市場で盛んに作品が生み出され、その一部が海外に羽ばたいていくというガラパゴスな構図を、私は頼もしいことだと思う。このことを考える際、私はイタリアワインのことを思い出さずにいられなくなるので、以下、「国内市場のほうを向いた作品がたくさんつくられ、一部が海外にも評価されるガラパゴス」の一例としてイタリアワインにも触れてみる。
 
 

イタリアワインは素晴らしいガラパゴス

 
ワインを作っている国のなかで、イタリアのワインはいつも異彩を放っている。
 
少なくない国がフランスワインやカリフォルニアワインをお手本とし、グローバルなぶどう品種であるカベルネソーヴィニヨンやメルローやシャルドネを植えてワインを作っているなかで、イタリアはグローバルを意識していない独特なワインをたくさん作っていて、イタリアワインじたい、ひとつの世界をつくっている。
 
だからフランスワインやカリフォルニアワインに慣れた人でも、イタリアワインを飲んだ時に「なにこれ?」と戸惑うことはあるし、グローバルなワイン品種の尺度からみれば薄っぺらいワインやしようもないワインがたくさんあるようにみえるだろう。
 
その結果、イタリアワインをあまり評価しない人も多いし、「ワインは好きだけどイタリアワインは無視」という人も多い。
 
そのかわり、イタリアワインには絶対にイタリアにしか存在しないワインや、どうにもイタリアとしかいいようのないワインがたくさんある。もともとイタリアには数えきれないほどのぶどう品種が存在していて、それらのぶどう品種を使った地ワインがそこらじゅうに存在している。もちろんローカルな地ワインの大半は、フランスやカリフォルニアの有名ワインと肩を並べる品とは言えない。素朴だったり、チープだったり、グローバルなトレンドを逸脱していたりする。そして無名だ。以下に貼り付けたワインは、私はイタリアの良い地ワインだと思うけれども、グローバルなトレンドとはだいぶ違う。
 
クズマーノ インソリア シチリア
 
ケットマイヤー ラグレイン アルトアディジェ
 
チレッリ チェラスオーロ アブルッツォ
 
でも、それがイタリアワインのたまらないところだ。フランスワインやカリフォルニアワインは、幸か不幸かグローバルなワインの基準となってしまった*1。対してイタリアワインはグローバルなワインの基準とはズレたワインを、国内向けにたくさん作っている。なかにはフランスワインやカリフォルニアワインの影響を受け、グローバルな味覚のトレンドにモディファイされている品もあるけれども、そういった品も含めて、土着のぶどう品種を地元に植え、地産地消する独自世界をけっして失わない。
 


 
アニメでいえば宮崎駿や新海誠、ゲームで言えばポケモンやゼルダに喩えらえるようなワインはイタリアにも存在する。上掲ツイートに挙げた、バローロやブルネッロなどはフランスやカリフォルニアの名だたるワインとも渡り合える素晴らしいワインだ。でもイタリアワインはバローロやブルネッロだけで成り立っているのでなく、その足元にはもっと無名な地産地消ワインがひしめきあっている。世界的によく知られた上澄みだけがイタリアワインなのではない。地方の日常生活や大衆文化に結びつき、遍在しているのがイタリアワインなのであって、そうした大きな文化的土壌のうえにバローロやブルネッロがいわば高級どころとして輝いている。
 
だから私は、イタリアワインも良い意味でガラパゴスな世界だ、と思う。グローバルにも名の通った高級ワインが作られる一方で、無名な地産地消ワインがどっさり存在していて、地方を旅すると変わったワインがぞろぞろと出てくる。土着のぶどう品種、地方の日常生活や大衆文化、食文化と密接に結びついたローカルなワインがグローバルな味覚のトレンドに感化され過ぎないまま生き残り、文化として存命している。そうした地産地消系のワインも最近はそれなり輸出されているけれども、ワイン自体はどうしようもなくイタリア的で、フランス的でもカリフォルニア的でもない。そこがたまらない。
 
 

日本のサブカルチャーコンテンツだってイタリアワインみたいなものでは?

 
こうしたイタリアワイン観を持っている私には、日本のサブカルチャー作品がイタリアワインとダブって見えて仕方がない。
 
イタリアワインの一部が世界的に人気を集めているのと同じように、日本のサブカルチャー作品の一部も世界で人気を集めている。
 

 
アメリカの文化人類学者が書いた『菊とポケモン』によれば、日本のサブカルチャー作品は戦後まもなくから海外で人気を集めていたが、「メイドインジャパン」という刻印は忌避され、しばしば欧米向けに改変されなければならなかった*2。しかし、二十世紀末から二十一世紀にかけて、いくつもの作品がグローバルに羽ばたいていった。世界的な人気を手に入れたという点では、ポケモンやセーラームーンや遊戯王はまさにグローバルな作品といえる。
 
しかし、じゃあそのポケモンやセーラームーンや遊戯王がどこで作られたのかといったら、ローカルな日本のサブカルチャー世界としかいいようがない。それらの作品の出自を遡れば、地産地消されるアニメやゲームや漫画や玩具にたどり着かざるを得ない。それらは八百万の国の文化や四季、日本の生活習慣にも多くを依っている。アニメ『君の名は。』や『天気の子』などはその最たるもので、遡れば国内需要向けの、それもニッチな作品にたどり着く。
 
『菊とポケモン』を読んでいると、ポケモンやセーラームーンや遊戯王が海外に広がっていった背景には、それらを海外に広めるために工夫した人々の奮闘があったことがわかるし、最初は「メイドインジャパン」を名乗ることさえ許されなかった作品が少しずつ海外に地歩を築き、のちにポケモンなどが受け入れられる下地をなしていった歴史に思いを馳せたくなる。
 
それでも、ポケモンやセーラームーンやスプラトゥーンはどうにも日本のサブカルチャーコンテンツ然としていて、そのテイストは、地産地消されるアニメやゲームや漫画や玩具と繋がりあっている。言い換えるなら、ポケモンやセーラームーンや君の名は。は、日本のサブカルチャー文化圏の一部分でしかなく、それらを海外受けしていないプロダクツたちと完全に分けて考えるのは適当とは思えない。
 
それらの成立を考える際には、もっとマイナーな作品や海外受けしない作品との繋がり、または加護のようなものを想定せずにはいられない。
 
なお、任天堂のゲームに見てとれるように、最近は日本のサブカルチャー作品のなかにもグローバル受けを意識したものはあるし、むしろグローバルなトレンド優先でつくられたものもあるようにみえる。これはイタリアワインにも見受けられることで、イタリアらしさを守りながらもグローバルな味覚のトレンドに寄り添ったワイン、フランスワインやカリフォルニアワインの真似をしたようなワインも存在する。
 
それでも日本のサブカルチャー作品やイタリアワインには良い意味で拭いがたいガラパゴス性があって、そのガラパゴス性はどこからきているのかといえば、海外での受けやグローバルなトレンドに流されることのない、地産地消の土壌があればこそなのだと思う。だからグローバルで評価されるされないは別として、この地産地消の土壌がこれからも豊かであって欲しいものだ。
 
※しかし、イタリアワインも日本のサブカルチャー作品も、少子化によって失われかねず、あるいは、今のうちに味わっておくべきものなのもしれない。
 

 

*1:フランスワインは比較的高価ではないワインもフランスワインのヒエラルキーというかAOC法のアドレスのどこかに配置されている感があって、ジュラやプロヴァンスといった少し知名度の下がる地域も含めて全体としてフランスワイン世界に組み込まれ、ひとつのコスモスをかたちづくっているように、私にはみえる。

*2:これまたイタリアワインによく似た話で、イタリアワインの一部は偽ってフランスワインとして出荷されなければならず、みずからの出自を名乗ることができなかった

たぶん、幸福を管理される未来をみんなは受け入れる

 


職場のメンバーのうち、誰が周りの幸せに貢献したのかがわかるアプリが開発されているという。幸福が測定され、比較検討されるということは、幸福は管理されるということであり、義務になるまであと一歩だ。
 
そうなると、幸福ではないメンバー、周りの幸せに貢献できないメンバーは職場にふさわしくないメンバーとみなされ、なんらかの措置が施されるか、手の施しようがなければ追放される……まで予想できる。
 
 
この、周りの幸せに貢献する研究についてもう少し知ってみたいと思ったら、まとまった文章が見つかった。
 
【シリーズ 幸せとは①】毎日を「幸せ」に働くためには?〜予防医学研究者・石川善樹 | GLOBIS 知見録
【シリーズ 幸せとは②】職場での「幸せ」は訓練や体験によって変えられる〜日立ハピネスプロジェクトリーダー・矢野和男 | GLOBIS 知見録
【シリーズ 幸せとは③】組織の中で「幸せ」を高めるためにすべきこととは?〜石川善樹×矢野和男 | GLOBIS 知見録
 
一人一人の幸福について測定するのはまだ難しいが、周りの幸せに貢献する挙動については結構いけそうだ、といったことが書かれていた。より幸福であること、椅子取りゲームのような幸福ではなくメンバー全体として幸福が高まっていくこと、文化の違いも踏まえた幸福を考えること、高度化した社会でも人間が幸福でいられるようにすること、などなど、高い目標を持って取り組んでらっしゃる様子で、読んでいるうちに感銘を受けた。
 
しかし感銘を受けたとはいえ、人間、測定できるものは管理したくなるものだし、管理から外れた人間には介入したがるものでもある。生産性が測定できるようになれば管理が行われ、健康の指標が測定できるようになればやはり管理が行われるようになったのが人類の歴史だ。幸福という、いままで測定することも管理することも難しかったものが測定され管理できるようになれば、会社は、いや社会は喜んで管理を始めるだろう。
 

「幸福は義務です。社員、あなたは幸福ですか?」

 
TRPG『パラノイア』では、市民ひとりひとりが幸福かどうかが問われ、管理されるその社会はまさにディストピアだった。
 
同じくアニメ『PSYCHO-PASS』では、犯罪係数というメンタルの濁り具合のようなものが絶えず測定され、犯罪係数が一定値を下回っていることが事実上の義務となっていた。犯罪係数が100を上回った人は、精神科病院のような施設で治療を受けなければならなくなる。犯罪係数の良しあしによって社会的評価が変わり、数値の優れない人は冷遇される『PSYCHO-PASS』の社会も、『パラノイア』ほどではないにせよディストピアっぽい雰囲気が漂っていた。
 
これらの作品から想定するに、幸福が測定可能になり、数値化され、管理されるようになった未来は、たとえ表向きはハピネスでも、幸福が義務となり、その義務を果たせないメンバーが冷遇され、疎外される社会にならざるを得ないように思えてならない。
 
その延長線上として、周りに幸福を与えにくい人、自分自身の幸福感や機嫌をうまくコントロールできない人は、そのこと自体を"疾患"や"障害"とみなされ、精神科病院やそれに類する施設で治療を受けなければならなくなるかもしれない。
 
 

本当はもう「管理され慣れている」

 
ところで、本当に幸福が測定され、管理される社会ができあがったとして、私たちはどれぐらい戸惑い、どれぐらいディストピアと感じるものだろうか。
 
『パラノイア』や『PSYCHO-PASS』などを知っている人なら、きっとすごいディストピアに違いない、という思いがしてどきどき……もとい、物憂げな気持ちになるかもしれない。
 
けれども案外私たちは平気なんじゃないだろうか。
 
実のところ、現代人は自分たちが管理されることに慣れていて、なかにはますます管理されたがっている人もいたりする。
 
その最たる分野は、健康だ。 
私たちは、健康にかんするさまざまなパラメータを測定され慣れている。管理されることにもだ。
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

 今日では一般的になっている健康概念ができあがるためには、ふたつの進歩が必要不可欠だった。それは統計学と生理学(生命のメカニズムを研究する、生物学の一種)である。統計学は18世紀~19世紀にかけてヨーロッパで生まれ、はじめは人口統計のような、国力を推しはかる指標として用いられたが、民間でも用いられるようになり人々にも知られるようになっていく。
 たとえば、体重が増えすぎると脳卒中や心臓病や糖尿病などによる死亡率が高まるという統計データに基づき、早くも1910年のアメリカでは、標準体重とのギャップに応じて保険料が設定されるようになった。*1健康リスクという統計的概念は、保険という資本主義の仕組みをとおして人々に知られていった。
 『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』より

 
私たちはごく当たり前のように身長や体重、血糖値や血圧などを測定し、テクノロジーや制度によって健康を管理することをすっかり当たり前のこととし、それが望ましいと思っている。健診は、SF世界に比べればローテクでも、人間の品質を管理する仕組みとして優れたものだ。健診が普及するにつれて、私たちの平均寿命も健康寿命も大幅に伸び、健康意識も高まっていったからだ。
 
近年はストレスチェックのような新しい測定対象が加わり、義務付けられるようになり、また、ウェアラブルなスマートウォッチのたぐいで24時間健康をモニタリングする人も増えてきている。
 
こうした健康の測定とモニタリングに対して、ディストピアだと思う人はあまりいないのではないだろうか。むしろ多くの人はすすんで健診に参加し、わざわざお金を払ってスマートウォッチを身に付ける。
 
健康は、多様性の重視される現代社会では珍しい、"普遍的価値"とみなされるものだから、その健康を医療の手に委ねることにも、スマートウォッチを用いて24時間モニタリングすらも、抵抗感のある人はあまりいない。
 
だとすれば。
幸福もまた、多様性の重視される現代社会では珍しい、"普遍的価値"といってだいたい合っているだろうから、幸福が測定可能になり、モニタリング可能になった未来においては、多くの人はすすんで幸福を測定するようになり、わざわざお金を払って24時間モニタリングする人も出てくるのではないだろうか。
 
冒頭で紹介した日立製作所のプロジェクトは、少なくとも今の段階では「周りの幸せに貢献する数値」を測定するものだから、自分自身の幸福の度合いを測定するのとは少し違う。
 
だがいつか、個人の幸福の状態そのものも測定され、管理できるようになったら、そのとき私たちは案外平気な顔をして──なかにはみずから喜んで──測定とマネジメントに身を委ねたりするのではないか、と思ったりする。
 
現代社会と『パラノイア』や『PSYCHO-PASS』の社会を比較するとき、私たちはそのギャップにドン引きして「それらはディストピアだ!」と思いたくなる。しかし社会変化はしばしば、私たちにギャップを感じさせないスピードで進行するものだ──たとえばこの半世紀の間に、健康・清潔・道徳にかんする日本人の常識はだいぶ変わったが、ほとんどの人はその変化に違和感をおぼえるのでなく、現在のありようを常識とみなし、肯定するだけだ。
 
だとしたら、たぶん幸福が測定され管理される未来が到来しても、ほとんどの人は違和感をおぼえるのでなく、管理されるありようを常識とみなし肯定するだと予測して、だいたい合っているのではないだろうか。
 
ときに、ホモ・サピエンスは自己家畜化する動物だと言われる。実際、そうやってますます測定され、ますます管理されていく私たちのありようを、私は品質管理されるブロイラーや競争用の鳩のようだと譬えたくなる。それでも構わないのだろう。自分のアタマで考えたあげく不健康になったり不幸になったりするよりは、大きなシステムに身を委ね、健康で幸福になったほうがいいと、ほとんどの人は実際には望むだろうからだ。
 
 

*1:注釈7:アラン・コルバンら『身体の歴史 III』岑村傑監訳、藤原書店、2010年、214頁~。

世代の違いと、語り口や言い回しのキツさの違い

 
 
 
「うまく言えないけれど、あの年上の語り口はキツくて受け入れられない」
 
話は西暦2000年頃にさかのぼる。

私がウェブサイトを作り始めていた頃、しばしば年上の文筆家、ライター、ウェブサイト管理人の文章に嫌悪感をおぼえることがしばしばあった。
 
彼らが書いている内容に問題があったわけではない。ほとんどの場合、彼らは私に新しい知識をたくさん授けてくれたし、ウィットや世間知にも優れていた。彼らのなかには書籍を出版している人、学者をやっている人もいて、そういった人々の書籍や論文を読み感銘を受けることもあった。知の蓄積という意味では、彼らは尊敬に値する年上だった。
 
ところがインターネットで見かける彼らの語り口、きっと書籍や論文に比べてカジュアルに語っているであろう彼らの言い回しには、一種独特のキツさが感じられて、どうしても好きになれなかった。嫌いなものをケチョンケチョンにけなす口ぶり、見下す表現、乱暴に感じられる形容詞や形容動詞の使い方、といったものにうんざりしていた。ときにはスケベ心をくすぐるかのようなジョーク、当時の言葉でいうなら"オヤジギャグ"のようなものをナチュラルに投げかけている人もいた。
 
そういった言い回しは、年上の書き手でよく目立ち、自分と同世代や年下世代の書き手にはあまり見かけないものだったから、「年上の書き手には、なんだか特有の苦手な言い回しがあって感じが悪い」という印象が私のなかでできあがっていった。
 
そうした印象は2020年になっても結局変わらなかった。インターネットで見かける年上の書き手は、今でもきつい口ぶり、見下す表現、乱暴に感じられる形容詞や形容動詞の使い方を続けている。学問や文芸で有名になった人でもあまり変わらない。インターネットで見かける彼らの語り口、レトリックには刺々しさがある。なにもそんなに刺々しく言わなくてもいいのに……と思いながらそっと画面を閉じる。
 
 

ということは、私も年下からそうみられていると想像しておこう

 
私から見て年上の人々の語り口が今も昔もキツい、ということはだ。
私も年下の人々から見てキツい語り口に見えているのではないか。
 
私よりも十歳、十五歳年下のインターネットの書き手たちを見ていると、考えていることも感じていることも違っているのがよくわかる。世代が異なり、育った時代が異なるのだからそれは当然だろう。
 
だが、それだけでもあるまい。
世代を経るにつれて、日本人が、いや、文章を書き慣れている人が身に付けて当然の礼儀作法は繊細になっていて、昭和や平成のはじめのアベレージと令和のアベレージとは違ってきている。ノルベルト・エリアス『文明化の過程』で語られていたことを真に受けるなら、これは、違っているほうが自然なはずだ。年を経れば経るほど、そして人と人との繋がりと相互依存が増えれば増えるほど、コミュニケーションの作法は繊細になっていくものだから。
 

  
私と年上世代の間には、許容される語り口にキツさの度合いに違いがあるようにみえる。年上世代にとって当たり前の語り口は、私と私の世代にとって当たり前ではない。ハラスメントのたぐいにしてもそうだ。私の十歳年上、十五歳年上の世代がハラスメントとみなしていなかったものが、私の世代にはハラスメントとうつる。
 
だとしたら、私より十歳年下、十五歳年下の世代にはキツいと感じられる語り口、ハラスメントとみなされる行動を私が気づかないうちにやってしまっている可能性は高い、と想定したほうが無難だろう。その結果として、気付かぬうちに年下世代から「あいつはキツい語り口の年上」という認識を持たれていることも覚悟しておいたほうが良いだろう。
 
私には、年下世代の語り口やレトリックの機敏がよくわからない。もちろん彼らのなかにも、たとえば政治や正義を語る際にきつい語り口やレトリックを持ち出す人がいないわけではない。しかし論敵に言及する際の言葉遣いをみても、親しみを込めてアニメや演劇やスポーツについて語る際の言い回しをみても、自分たちの世代とは語り口が違う、とはやはり感じる。だとしたら、彼らもまた、私の世代との違いを感じ取っているはずだし、何かを考えている(が、作法として黙している)に違いない。
 
こんなのは、気にしても仕方のない問題なのかもしれない。
けれども二十数年にわたってインターネットをやっていて思うのは、こういう自覚しにくい違いが何か月も何年も積み重なった果てに、ボタンの掛け違いとか、避けられたかもしれない憎しみとかが起こることは割とよくある、ということだった。そして過去~現在にかけての私がそうだったように、読み手の側は、そういう作法の繊細化や世代による作法の違いみたいなことをわざわざ考えてはくれない。 
 
なるべく気を付けていきたいと思う。
無駄かもしれないし、不可能かもしれないとしても。
 

「生きづらさ」の根源をもっと深く突き詰めてみる

 
生きづらいのは「資本主義」や「自由主義」のせいなのか。 | Books&Apps
 
『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を読んでくださり、ありがとうございました。また、それに関連して生きづらさについてご意見をいただきました。
 
「役割が減った」という見方で語れる生きづらさも、あるでしょう。「アイデンティティの確立が難しくなった」で語れる生きづらさがあるのと同じように。
 
このreplyに相当する文章では、前半で『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』の趣旨に沿ったかたちで「いやいや、でも資本主義は2020年現在、人を救うより疎外してませんか」と語ったうえで、後半ではそこを超えた地平をこえて「生きづらさ」の根源について考えていきたいと思います。
 
 

いやいや、グローバル資本主義、新自由主義は生きづらいっしょ

 
現代社会は、資本主義や個人主義や社会契約が非常に浸透し、制度やテクノロジーによって裏付けられた時代です。少なくとも有史以来、それらの思想と裏付けがここまで社会に徹底した社会は存在しません。COVID-19の後に巨大な動乱が起こらずに済むなら、40年後の社会ではもっともっと資本主義や個人主義や社会契約が浸透し、結果、アフリカ諸国でも少子化が始まっているかもしれませんが、私が思うに、このような体制のままで日韓中やヨーロッパ諸国がやっていけるとは、あまり思えません。
 
ときに、資本主義が諸制度と結びついて豊かな一時代を国や地域にもたらすことはあります。
 
20世紀はじめ~中頃のアメリカなどはその好例でしょう。世界大恐慌という汚点はあったにせよ、資産家や起業家だけが豊かになれたのでなく、大勢の人が自分の家を持ち、自分の家族を養い、次の世代に希望をつなぐことができました。高度経済成長期~バブル崩壊までの日本も"一億総中流"という物言いがでてくるぐらいには豊かでした。
 
また、資本主義だけの恩恵というわけではありませんが、

私が、大して儲からない零細企業をやっている一つの理由は、世の中に「役割」を作りたいからだ。
また、個人的に、副業やフリーランスの方々を応援するのも、そのような理由からである。

安達さんがbooks&appsというメディアを運営し、社会の一隅(いちぐう)を照らしてらっしゃる*1背景には、現代の資本主義の仕組みに加え、高度に発展した社会契約とそれを支える制度とテクノロジーがあるでしょう。書き手としての私がbooks&appsに参加させていただき、理念にシンパシーを感じるのは、まさにここがインターネットの書き手がブログの時代に培った面白さのある部分を掬い取るメディアであろうとしていること、加えて「役割」を創出されているからですが、このような営みが成立している背景として資本主義を無視するのは不公平なことだと思います。
 
こうした恩義恩恵とはまた別のところでは、資本主義とその体制によって大勢の人が苦境に立たされていたり、豊かさにアクセスする可能性をも奪われている、といった話もよく耳にする時代です。
 
 

チャヴ 弱者を敵視する社会

チャヴ 弱者を敵視する社会

 
 
イギリスで新自由主義が広まるなかで、貧富の差は決定的になり、労働者階級は単に定収入というだけでなく、労働者階級としてのライフスタイルや矜持まで失ってしまった、と『チャヴ』の筆者は記します。労働者は労働者のままで生きて構わないのでなく、ニューレイバーという上昇志向的な新しい労働者であるよう期待されるようになりました。上昇志向を持たず、旧来の労働者階級としてのライフスタイルや矜持をもって生きる道はなくなり、上昇志向を持たない者は社会のお荷物とみなされるのだそうです。
 
私は、この『チャヴ』の運動家じみた筆致が好きではないのですが、それでも資本主義や個人主義が加速し、それを社会契約の論理が後押しする社会の陥穽を『チャヴ』は記しているとみます。『チャヴ』で描かれる資本主義・個人主義・社会契約のありかたは、ただ皆がお金や地位を求めているといったイージーなものではありません。皆がお金や地位を求めなければならず、そのような心性を強制インストールされるような逃げ場のないものです。
 
『「武器」としての資本論』の筆者は、こうした心性までもが資本主義化していくありかた、つまり新自由主義的なありかたについて以下のように評しています。
 
 
武器としての「資本論」

武器としての「資本論」

  • 作者:白井 聡
  • 発売日: 2020/04/10
  • メディア: Kindle版
 

 だが、新自由主義が変えたのは社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことのほうが社会的制度の変化よりも重要だったのではないか、と私は感じています。制度のネオリベ化が人間をネオリベ化し、ネオリベ化した人間が制度のネオリベ化をますます推進し、受け入れるようになる、という循環です。
 ですから、新自由主義とはいまや、特定の傾向を持った政治経済的政策であるというより、トータルな世界観を与えるもの、すなわちひとつの文明になりつつある。
『「武器」としての資本論』(強調は原文より)

 
この資本主義が極まりすぎた(にもかかわらず、個人主義と社会契約が極まった資本主義を修正するというよりむしろ正当化してやまない)社会の状態は、イギリスだけでなくアメリカや韓国でも顕在化していて、程度こそ違いますが、フランスや日本や台湾でも起こり始めているものです。また、『「武器」としての資本論』の筆者は、資本主義(あるいは資本制)についてこんなことを述べています。
 

 これから説明していくように、資本はとにかく増えること、ただひたすら量的に増大することを目的にしています。その他のことはどうでもいいのです。「増えることによって、人々が豊かになる」ことは資本の目的ではありません。人々が豊かになるかどうかはどうでもいいことであって、増えることそのものが資本の目的なのです。資本主義の発展によって人々が豊かになるとすれば、それは副次的な効果にすぎません。
『「武器」としての資本論』(強調は原文より)

 
以前から私も、資本主義とは資本が自己増殖すること自体が主で、人類を幸福にしたり不幸にしたりするのは従ではないか、と疑っていましたが、『「武器」としての資本論』の筆者さんもそのように捉えているようです。そして新自由主義化した社会とは、政府も制度も人の心も資本主義に乗っていく・乗っていかざるを得ない社会ですから、資本の自己増殖を止める術も、それを人類の幸福のための大枠に戻す動機も、あまりなさそうな気がします。
 
さきにも触れたように、私は資本主義が人類史のなかで必ず悪者だったとは思いませんし、たとえばbooks&apps、たとえば数年前までのブログの世界、たとえばリタリコのような新しい福祉企業などは、資本主義の仕組みに乗りながら新しいものを生み出し、人に役割やアイデンティティを与える新しい場となっている一例として挙げたくなります。
 
そういった個々のトライアルには感謝する一方、『チャヴ』で描かれるように国やグローバルの水準では資本主義は新自由主義的にアクセルを全開にしているわけで、到底気を許せるものではありません。
 
また、資本主義は、基調としては役割やアイデンティティを与えるより、剥奪することが多いのではないでしょうか。
 

 お互いが約束したとおりのことが行われたならば、あとは後腐れなし、関係はそこで切れるのです。そうした無関係の関係が、資本主義における人間関係の本質です。これは資本家と労働者が共同体を構成しているわけではないからです。両者は商品を交換(労働力商品と貨幣商品を交換)しただけのことであって、共同体の外の原理がここで働いているのです。
『「武器」としての資本論』

資本主義の良いところは、社会契約にもとづいたやりとりでお互い後腐れがないこと。かつての地域共同体や封建社会のようなしがらみなく、そういう意味では自由でもあります。そのかわり、契約関係や交換関係以外の関係性は無くても構わないし、たとえばアマゾンの倉庫やウーバーイーツの配達員をやっていても、そこに役割やアイデンティティを見出すことはできません。後腐れのないゲゼルシャフト的な関係は、しがらみを含むゲマインシャフト的な関係に比べて役割の分配に適していません。
 


 
拙著では、そうした自由だけど契約関係や交換関係以外の関係性の乏しいやりとりが、仕事だけでなく、もっとコミュニケーション全般にも及ぶようになったと記しました。
 
健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 視点を変えて考えるなら、現代人は双方の合意に基づいて、お互いに都合の良いコミュニケーションをしていると同時に、用途や場面、媒介物にふさわしくない部分についてはコミュニケーションしないで済ませている、とも言える。私たちは双方に都合の良い、社会契約にも妥当するコミュニケーションに徹することによって、そうでないコミュニケーションを日常から排除し、キャラクターや役割やアバターには回収しきれない、お互いの多面性を知らないで済ませようとしている。
 これは、コミュニケーションであると同時に、一種のディスコミュニケーションでもあるのではないか? 
『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』

 
資本主義が後腐れのない関係性を築くのと符合するように、私たちのコミュニケーションもまた後腐れのないように、不快感の少ないように効率化し、今となっては余計なことをできるだけ知り合わないコミュニケーション、いやディスコミュニケーションに向かっています。
 
もちろんこれは資本主義単体で起こった変化というより、個人主義や社会契約の進展とともに起こった変化、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの変化の一部なのですが、たとえば昨今の少子化や未婚化、孤立死といった問題も、こうした背景を踏まえて論じるべき問題ではないか、と最近の私は考えています。
 
ここまで述べたものの総体は、安達さんとのご意見と表面的にはだいぶ違っているかもしれませんが、たぶん危機意識はそれほど変わらず、「所属」「役割」「居場所」「アジール」といったものをどうやって取り戻していくか*2という問題意識は近いのではないか、と勝手に思ったりしています。
 
 

そもそも人間は、いや生物は生きづらい……

 
資本主義については、たとえば先進国が後進国の労働力や出生力を買い叩くといった他の側面もありますが、長くなってしまうのでここではおきます。ここからは、資本主義以前の問題として私たちは生きづらい、といった話をさせてください。
 
そもそも有性生殖生物は──いや生物全般は、と言ってもだいたい合っているでしょう──お互いに生態学的ニッチのなかで競争しあい、自然淘汰と性淘汰に勝ち残った者の遺伝子だけが後世に伝えられていきます。私たちは幸福に過ごすべく神がつくりしものではなく、単に自然淘汰や性淘汰に勝ち残った者の遺伝子を引き継いだ者の集合体です。
 
 

 
 
何万、何億世代にわたる淘汰をたまたま生き残った個体の集合体としての私たちですから、結果として、生存に寄与することを欲しがり、生殖に寄与することを欲しがるような性質を私たちはおおむね宿しています。「生存や生殖に寄与する遺伝形質を持った個体によって人間界、ひいては生物界は構成されている」と言い直すべきでしょうか。
 
だから私たちは自分の命を惜しみ、痛みをおそれ、異性をめぐって競争したり悩んだりします。生存や生殖から遠ざかれば痛がるか恐れるか苦しむかし、生存や生殖に近づくことがあれば快楽やモチベーションを得ます。なにせ、そういう形質を持ち、生存や生殖を達成してきた先祖たちの子孫が私たちなのですから。人間の場合は、こうした原則は文化文明によって修飾されていますが、大筋としては現代人もこの原則から逃れてはいません*3
 
仏教では、生、老、病、死の四つを苦しみの根源(四苦)とみなし、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四つを加えて八苦とみなします。いわゆる四苦八苦、ですね。
 
私たちが生物である限り、こうした苦しみから逃れることは難しい、と思われます。釈尊は、こうした苦しみと生物の輪廻から逃れるために悟りの道を説きましたが、大乗仏教徒としての私は、むしろ悟りは困難で珍しい、例外的な出来事であると想定します。
 
生きるとは、それが世間で最良と言われるものでさえ苦を内包していて、満足は遠く、煩悩がついてまわります。たとえ資本主義が一定の安定をみたとしても、未来の人間もまた苦を抱え、満足は遠く、煩悩のなかで生き続けるのでしょう。
 
 
素粒子 (ちくま文庫)

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ちょうど最近、ウェルベックの小説『素粒子』を読みました。四苦八苦の苦しみに加え、個人主義や社会契約や資本主義といった近代西洋文明ならではの苦しみにもリーチしていて、感じ入るものがありました。
 
衝撃的なラストは賛否両論あるでしょうけど私個人は納得しています。人間は人間をやめない限り、この苦しみを滅却することはできません。それでも生を、自分自身や隣人を愛しているといえる人は強い人だと思います。でも、大半の人は人間や生物に備わっている根源的な生きづらさに苦労し怯えていて、それでも明日を求めて生きているばかりの弱い存在です。
 
生きづらさについて考える際には、やはり、苦労していて、怯えていて、それでも明日を求めずにいられない弱い人々を基準に考えたほうが良いのでしょうし、私自身、そのような弱い自分でもどうにか生きていけるよう、仏教という考え方に自分を寄せることにしました。もちろんそれすらささやかな方便にすぎませんが。
 
生きるとは難しいことですね。そして苦しいことでもあります。
それでも私たちは、明日の朝日を見たい、見なければならないと起き上がってくるのです。
生きづらくはあっても、そうやって起き上がってくる人や生物には、弱いという言葉より別の言葉がふさわしいかもしれません。
 
 

*1:注:これは仏教系の用語。最澄の言葉

*2:それも、進歩と調和させたかたちで

*3:人間が家族や同胞を助けようとする利他的な欲求が含まれる点については、細部はともかく、おおざっぱにはハミルトンの包括適応度の概念に該当するか、そこから社会的生物として幅を広げた形質を獲得したもの、と想定しています

アニメも観ずに『孤独のグルメ』を観るばかりの午後8時

  


 
「無為に過ごす」のはもったいない、でも豊かな時間だと思う。自分自身のバリューを高めるだとか、経験を広げるだとか、そういう上昇志向だけで生きていける人は稀だ。誰もが上昇志向でなければならない世の中だからこそ、上昇志向から魂を解き放ち、のんびり過ごすことに贅沢さを感じる。もっと無為に過ごせないものか。
 
私は「無為に過ごす」を忘れてしまった。しいて言えばこの文章を書いているこの瞬間が「無為に過ごす」に近いかもしれない。が、この文章にも"そろそろブログを更新しとかなきゃ"といった、無為とは言い切れない欲が混入している。
 
無為で自由な境地で文章に書くことがわからなくなってずいぶん経つ。アニメを観る、ゲームをやる、もだ。好きなものを追いかけているはずの自分の影を振り返ると、そこに、なんらか生産的な意図、なんらか役に立つ経験を積もうとする意図が見え隠れしている。少なくともそれらは、ピュアに無為で自由な境地とは言い切れない。
 
そうしたなか、無為に一番近いと感じるのは、アマゾンプライムで無料公開されている『孤独のグルメ』だ。
 
孤独のグルメ Season7 Blu-ray BOX

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  • 発売日: 2018/09/05
  • メディア: Blu-ray
 
2020年の春頃から、木曜日や金曜日の夜はだいたい疲れきっていて、午後8時に手がすいたとしても『孤独のグルメ』ぐらいしか受け付けなくなってしまった。2016年頃の私なら、そのぐらいの時間に新しいゲームをプレイしたり今期のアニメを観たりしていたはずだが、最近、そういう気力がなくなってしまっている。何年も前から予測していたが、ゲームやアニメをナチュラルに吸収する感性がいよいよ摩耗してきた。
 
たとえば『かぐや様は告らせたい』はよくできたアニメだと思うし10年前なら喜んで観ていたはずだが、今はディスプレイの向こうの出来事のように感じられてしまう。いいアニメだというのに、自分がアニメに臨場していない。そして消耗している。
 
だったら寝ろ、という人もいるかもしれない。
そうもいかない。文章ばかり書いたせいか、それとも酒を飲みながら生きていたせいか、私の神経は捻じれて休みにくい、面倒なシロモノになってしまった。だいたい10時ぐらいまで眠れないし、へたに早くから寝ると夜中に起きて苦労する。疲れていても10時までは起きていなければならない。昔は、そういう疲労した午後8時から午後10時にアニメやゲームがうまく刺さり、リフレッシュできていたのに。
 
アニメを観るにもゲームを観るにも気力が必要になってしまって、その気力を支払えなくなったことで、骨休めのサイクルがおかしくなってしまった。で、今の私には、『孤独のグルメ』に描かれているおおらかな時間が気持ちよく感じられてしまう。
 
ああ、おれはこんな消化しやすいコンテンツしか咀嚼できなくなったのか!
 
こう書くと、どこからともなくベテランアニメ愛好家やゲーム愛好家がやってきて「軟弱者め」「おれは四十代になってもラブコメを心から楽しんでいるぞ」といったコメントを残していくかもしれない。だが、コメントを残していく人々はいわば生存バイアスの精髄、愛好家エリートではないか。私もそうでありたかったし、そのために「努力」などしてきたつもりだった。しかし、振り返ってみれば「努力」しているということは、もう無為でも自由でもなかったのだ。ずいぶん昔に私は愛好家として変容してしまっていたのかもしれない。
 
アニメやゲームに身が入らず、井之頭五郎の快食っぷりを眺める我が身を悲しく思う。そんな疲弊に包まれていても視聴でき、それなり楽しめてしまう『孤独のグルメ』には感謝するしかない。
 
ふと、うまいものでも食べに行きたくなったが、ディスプレイのなかの井之頭五郎のようにはバクバクとは食えないだろうと思い、諦めた。