シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

昭和の日、繊細になりゆく令和の秩序について考える

 
今日は昭和の日だが、最近、私のツイッタータイムラインには昭和時代の漫画表現のおおらかさ、フリーダムさに驚いている投稿がよく飛び込んでくる。
 


 
 
自粛の最中だから漫画を読む人が多いのか、それとも自粛をあてこんで無料で配られる漫画が多いせいか、昭和時代の漫画について目にする機会が増えた。私も、2019年に昭和の少年漫画を調べてまわった時には、カジュアルな暴力の描写に驚いた。ただ暴力が描かれるのではなく、その暴力がどれも何気なくて、他人を叩くこと・他人と喧嘩をすること・コミュニケーションの一手段として腕力を用いることが、例外としてではなく、当たり前のこととして描かれていた。
 
たとえば21世紀の大ヒット作品、『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』に登場する暴力と比較すると、昭和の漫画には和やかな日常の一部として、もっとナチュラルに暴力が描かれる。『サザエさん』や『ドラえもん』といった、最ものどかな漫画でさえそうだ。
 
それらの昭和漫画で描かれる暴力は、暴力を暴力として描くのでも、凄絶な集団の凄絶な行動として描くのでもなく。ギャグとして描かれるのとも違って。日常の一部として、やりとりの一部として暴力が登場している。いや、たぶん、昭和時代の段階では、それらは暴力とは呼ばれない何かだったのだろう。
 
令和時代には暴力と呼ばれるような喧嘩やコミュニケーションのかなりの割合を、昭和の人々は暴力とみなしていなかった。大人も子どもも両方だ。そして私が憶えている限り、そのような喧嘩やコミュニケーションのノウハウや受け止め方をみんなが経験し、多かれ少なかれ身に付けていた。令和時代の秩序感覚からすれば、昭和の人々も、昭和の漫画も、あまりに粗暴で許されないとみなされるだろう。昭和の表現や作品は、『この表現は昭和時代に描かれたものです』という鍵括弧に入ったものとして読み取られなければならない。
 
では、昭和時代は地獄のような世界だったのか?
 
令和時代の秩序感覚でいえば、そのとおりだろう。
 
いじめやハラスメントや虐待に相当するものが日常に潜在していて、それらを"我慢"していたのが昭和時代……と語るのが令和時代においては無難な態度だ。けれども実際には、喧嘩やコミュニケーションとみなされる範囲、いじめやハラスメントや虐待と感じられる範囲が昭和と令和では大きく異なっていた。それらに対処するノウハウの蓄積も違っていたし、それらの社会的な位置づけ──喧嘩というコミュニケーションのフレームワークでとらえるべきか、暴力や犯罪という逸脱のフレームワークでとらえるべきか──も違っていた。だから事態はそれほどシンプルではなかったはずである。
 
昭和から令和にうつるなかで、私たちは暴力や迷惑に対して繊細になり、社会から暴力や迷惑とみなされそうな言動や表現・誰かを不快にしかねない言動や表現を追い出していった。倫理や正義や正当性にてらして言えば、それらは進歩と呼ぶべきだろう。
 
ただ、昭和の漫画表現を久しぶりに眺めると、私たちが数十年の間にどれほど繊細になってしまったのかを思い出さずにはいられなくなる。私たちは、いったいどこまで繊細になっていくのだろうか? どこまで繊細になるべきなのだろうか?
 
 

繊細な社会秩序の行き先は何処?

 
取っ組み合いの喧嘩やビンタが暴力とみなされ、いくつもの表現や言葉が禁じられていったのは、大筋では、良いことだったに違いない。傷つかずに済んだ人、"被害"を受けずに済む人も増えたことだろう。
 
また、ホワイトカラー的な職業に就いている私は、繊細になりゆく社会の恩恵を受けていると思う。この先、ますます社会の秩序が繊細になっていき、秩序が高水準になっていったほうが私自身のメリットは大きく、リスクは少ない。少なくともそうだと頭ではわかっている。
 
けれども私は、昭和の野蛮さやおおらかさのなかで育ち、その恩義や恩恵を受けてきたことも覚えている。そこで私は"やんちゃに""わんぱくな"子ども時代を過ごすことができたし、令和時代の子どもよりもずっと帯域の広いコミュニケーションを体験することができた。安全・安心・倫理・正義・責任の名のもと、たくさんの遊びが禁じられ、過ごす場所や過ごしかたを厳格に定められている令和時代の子どもたちに比べると、ずっと自由な子ども時代を過ごせた側面もあったように思う。そのような昭和の子どもの自由は、令和時代の子どもには望むべくもない。
 
昭和時代には見落とされていた暴力が暴力として未然に防がれ、迷惑になるかもしれない行動が禁じられ、誰かを不快にしかねない表現が駆逐されるようになったのは、疑う余地のない進歩であり、好ましいことだった。昭和時代を生き辛いと感じていた人々にとって、そうした進歩が悲願だったことも想像に難くない。だからこの進歩が悪いものだったとは、私も思わない。
 
だが、こうした進歩の行き先には疑問も感じる──ますます私たちが繊細になり、ますます他人に悪影響を及ぼしかねない言動にセンシティブになった未来に、どんな社会秩序ができあがるだろう? 
 
他人に悪影響を及ぼしかねない言動に対する繊細さが高まり続けた結果として、たとえば背中をポンポンと叩いただけで暴力とみなされる未来、他人にくさい匂いを感じさせただけでも迷惑行為とみなされる未来、バスや電車のなかで声を出したら不躾とみなされる未来は、あり得るのではないだろうか。
 
そんな馬鹿な、と一笑に付す人もいるかもしれない。
 
だが、令和時代に暴力やハラスメントとみなされている言動のなかには、昭和時代にはまったく許され、当たり前の言動として世間にあふれていたものが沢山あったわけだから、進歩の行く末と繊細さの高まりの果てがどのようなものか、楽観できたものではない。
 
まして、新型コロナウイルス感染症が猛威をふるい、私たちの習慣や考え方に大きな刻印を残そうとしている昨今を思えば、私たちがコミュニケーションに対してますます厳格な基準を適用し、ますます多くの言動を検閲するようになっていく可能性は高いと、私は推測せずにいられない。
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
進歩は私たちを自由にし、暮らしを快適にしてくれた。令和時代と昭和時代を比べれば、それがはっきりわかるし、これからもそうだろう。だが進歩に伴って不自由になった側面もまたあるとしたら、繊細になりゆく秩序を手放しで喜ぶわけにもいかない。社会秩序がもっともっと繊細になっていくとしたら、そのメリットを全面的に享受する私のような人間がいる反面、そのデメリットやその不自由にいよいよ束縛される人間がいるのも容易に想像できる。だから私は、社会の進歩や繊細化について、もっといろいろな角度から議論が進んで欲しいと思うし、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』も、そういった議論の一部として読まれて欲しい、と願っている。
 

FGOの最新クエストはまさにビジュアルノベルだった

 
先日、Fate Grand Order (FGO) は、2000万ダウンロード記念のキャンペーンを発表した。良くも悪くも90年代~00年代のオタクのノリがちりばめられたソーシャルゲームがこんなにヒットするとは驚きだ。そして嬉しい。ひいきの野球チームが優勝するのを見るのに近い喜びがある。
  
で、FGOのメインクエスト第二部の最新話をさきほど読み切った。
 

 
すごく良かった! これこれ、こういうの! 賛否のありそうなストーリーを描ききった制作陣には、感謝するほかない。こういうテキストを、最新作として2020年に読ませてもらえるなんて! ありがとうありがとう!
 
FGOのクエストには「90~00年代のヴィジュアルノベルらしさに満ちたメインクエストやイベントクエスト」を旅行するような趣があると、いつも感じていた。そういう、ちょっと古くさいクエストのお伴として、2010年代のキャラクターらしいマシュがついてきて、新旧の混じった雰囲気ができあがっている──それが、ヴィジュアルノベルの末裔としてのFGOに対する私の印象だった。
 

(マシュのおかげで、FGOの道中は新しくて古い、古くて新しい雰囲気になっているのだと思う)
 
メインクエストの行方はしれない。『痕』や『Air』や『ひぐらしのなく頃に』がそうであったように、FGOもまた、ストーリーが予定調和におさまらず、とんでもない方向に大風呂敷が広がっていく感じがある。予定調和を期待していた人があんぐりするような、ひょっとしたら呆れてしまうようなリスクを冒してFGOのストーリーは進んでいく。
 
最新話のロストベルト第五章・オリュンポスも、そんなメインクエストだった。FGOにはネタバレを避ける文化が強く残っているので内容には触れられないが、これまでのFateのフィールドから大きくはみ出し、天文学的スケールの物語へと風呂敷を広げていった。冬木という、日本の一都市を舞台としていたFateが、FGOとなって世界じゅうを旅するようになり、だいぶ慣れていたつもりだったが、ロストベルト第五章には今までの路線では想像していなかった描写・戦場・兵器(?)が次々に登場した。
 

 
それでいて、今までのストーリーを振り返ってみれば、第五章の展開はあり得たもの、描かれてもおかしくないものでもあった。こうなるフラグや伏線があったのに、実際に読んでみてびっくりしたのは、ヴィジュアルノベルでは嬉しい展開だ。そういう展開に出くわしたので、「やったぜ! やっぱりFGOはヴィジュアルノベルだ!」と大きな声で叫んでしまった。
 
 

FGOで広がるヴィジュアルノベル、オタク古典芸能

 
もちろん、FGOで表現されているものがヴィジュアルノベルのすべてだ、などと言いたいわけではない。言えるわけもない。
 
それでも、FGOをとおしてヴィジュアルノベルの色々が表現されているのもまた事実で、FGOが大ヒットしてくれたおかげで、そうしたカルチャーや様式が令和時代に伝播している。ヴィジュアルノベルの最盛期にオタクをやっていた身としては、このことも嬉しい。
 
FGOは、メインクエストでも平然と昔のノリを混ぜ込んでくる。
 

 
先日までアニメになっていた、第一部第七特異点バビロニアでも、シリアスなストーリーのなかに、このようにふざけた存在を平然と混ぜ込んできて、それでひとつの世界をつくりあげてしまっていた。こういう存在を混ぜ込むつくりは、たとえば私のような古いファンからは好評かもしれないが、嫌いな人は嫌いかもしれない。ところがFGOはためらわず、果敢に、ふざけた存在を平然と混ぜ込んでくる。
 
イベントクエストともなれば、二次創作のノリでやりたい放題・悪ノリし放題である。これまた、慣れている人にはご褒美だが、果たして、初見の人はあのノリをどう受け取るのか。
 
FGOで初めてFateに触れたプレイヤーは、本当のところ、あの昔ながらのノリ、ファンディスク的なノリをどのように捉えているのだろう? 本当は嫌悪している人も多いのか? それとも、他のソーシャルゲームもはっちゃけたイベントを開催している昨今だから、ごく自然に受け取っているのだろうか?
 
ともあれ、FGOはFate以前から存在していたヴィジュアルノベルのカルチャーを引き継ぎ、発展させ、大きなコンテンツとして命脈をたもっているのだから、オタク古典芸能の継承者・伝道者としてありがたいと思う。メインクエスト第二部・ロストベルトも佳境に入った感があり、この、広げまくった大風呂敷をどのように折りたたむつもりでいるのか、これからが楽しみでしようがない。
 

 
 

ガチャという難しさを伴ったゲームではあるけれども

 
FGOには「ガチャを回させるソーシャルゲーム」としての側面があり、不幸なことに「ガチャを回すというより、ガチャに回されているプレイヤー」も目につく。そういう意味ではFGOはやさしいゲームとは言えない。個人的には、もうちょっと制御しやすいゲームになって欲しいと願っている。
 
でも、そうした側面があるとはいえ、クエストで綴られる物語は貴重な何かだ。過去のオタクカルチャーを偲ばせると同時に、新境地を切り拓いていく何かでもある。ロストベルトの物語は、そのような大風呂敷として満開を迎えようとしているので、これを見届けるまでFGOはやめられそうにない。
 
なお、FGOは4月29日から2000万ダウンロード記念キャンペーンと称する豪勢なイベントを展開するという。ヴィジュアルノベル文化が嫌いでない人は、これを機会に触ってみてもいいかもしれない。いいヴィジュアルノベルだと思うけれども、ガチャには本当に気を付けて。
 
 
【関連:このブログの、FGOについてのアーカイブ】
 
FGOでゴールデンウィークが溶けた - シロクマの屑籠
「ガチャは悪い文明」だとやっとわかった - シロクマの屑籠
これから意識低くFGOを始めるためのtips - シロクマの屑籠
 
 

ノイズを避けるコミュニケーション──言葉も、においも、ウイルスも

 


 
少し前、たぶん新型コロナウイルス感染症でソーシャルディスタンスが求められている状況を踏まえた、皮肉めいたツイートを発見した。いや、本当は皮肉ではないのかもしれないが私には判断がつかない。
 
というのも、私には、現在の日本人のコミュニケーションの規範がこれに近いものに思われてならないからだ。
 
 

望ましいコミュニケーションと呼ばれるものの正体

 
現代人はしばしば、コミュニケーションを良いものとみなし、ディスコミュニケーションを悪いものとみなしている。そのうえで「コミュニケーションは良いこと」「コミュニケーションで繋がるのは望ましいこと」などと言ったりしているが、現代人がいうコミュニケーションとは、どういうものか。
 
たとえばコンビニのレジでの会話。
 
お客が無言で商品をレジに持っていくと、店員が「○○円になります」と合計額を告げ、お客がそれを支払う。おつりをかえす際に「××円のお返しになります」と店員が告げて、売買のコミュニケーションは終わる。ここに、タバコの注文や支払い方法、お弁当を温めるかどうかの応答が入ることもある。
 
コンビニは、店員と客が商品の売買をする場所だから、そこでのコミュニケーションは「売買について」のものに限られ、売買以外の話題に触れるのは、現在の日本の社会規範では歓迎されない。売買についてコミュニケーションすべきコンビニに、売買以外のコミュニケーションを持ち込もうとする者は歓迎されない。
 
たとえば、コンビニの女性店員に他の話題でコミュニケーションしようとする男性客がいるとしたら、そのような客とコミュニケーションは、ノイズとみなされるだろう。
 
コンビニほど極端ではないが、他の場所でも似たようなことが言える。
 
学会に参加している精神科医は、「学会で取り扱う話題について」「精神医学に関連した話題について」コミュニケーションすることが望まれる。質疑応答の時間に、プレゼンテーションの内容とは無関係なことを尋ねれば、演者に渋い顔をされかねない。学会会場でナンパしようとする精神科医、学会会場で陶芸の話しかしない精神科医も、ノイズとみなされざるを得ない。もちろん、懇親会の場ではもっと幅広い意見交換が許容されるが、それでさえ、あまりにも無関係な話題ばかり喋るのは考えものだ。
 
職場でも「業務や職場に関連したことについて」コミュニケーションするのが望ましく、そうでないことはむやみにコミュニケーションしないのが望ましい、と思っている人が優勢ではないだろうか。たとえば数十年前なら、上司と部下の飲み会や社員旅行といったかたちで業務や職場に関連しないコミュニケーションが日常に入り込んでいた。あるいは、今だったらハラスメントとみなされるようなコミュニケーションも存在していただろう。だがこの数十年の間に、業務や職場に関連しないコミュニケーションは嫌悪され、敬遠され、あるいは禁じられていった。昭和時代以前と比較するなら、令和時代の職場でのコミュニケーションはノイズが少ない。
 
SNSもまた、ノイズの少ない、純度の高いコミュニケーションを提供している。フォローやブロックといった機能のおかげで、ユーザーは望んだ相手と望んだコミュニケーションだけを行い、望まないコミュニケーションは行わない。タイムラインに流れてくる話題も、フォロワーの選好によってフィルタリングされている。タイムラインにノイズが混じっていると思ったユーザーは、ノイズ元となっているアカウントをフォローから外したりブロックしたりする。そういう行為を年単位で繰り返すうちに、SNS上のコミュニケーションは、自分の望んだ相手と望ましい話題に収斂せざるを得ない。
 
こうした「望ましいコミュニケーション」は複数のSNSやアプリ、複数のアカウントを用いることでさらに精度をあげられる。フェイスブックではフェイスブックにふさわしいコミュニケーションを、ツイッターではツイッターにふさわしいコミュニケーションを、LINEやSLACKではそれぞれにふさわしいコミュニケーションを行うのは、現代人にとって造作もないことだ。というより、それがいまどきのコミュニケーションの社会規範、あるいはリテラシーになっている。
 
オフラインの世界でも、私たちは職場・家庭・趣味の会合などで態度を使い分け、話題を切り分け、それぞれに純度の高いコミュニケーションをやってのけている。こんな具合に、いまどきのコミュニケーションにはノイズは不要で、用途や場所に最適化された、純度の高いものが望ましい、とされている。
 
 

「繋がりたいが」「要らないものはもらいたくない」

 
コミュニケーションにあたってノイズを避けるのが当たり前のものになり、それが社会規範やリテラシーともなっていることを踏まえて、冒頭のツイートをもう一度思い出していただきたい。
 
【人間どうしのコミュニケーションは不潔でなるべく避けるべきという規範が定着してほしい】
 
感染回避やエチケットの都合で不潔を避けるのは、「人から人へ、伝えたくないもの・もらいたくないもののが伝わらないようにすべき」とする点では、ノイズを嫌うコミュニケーションの社会規範やリテラシーと根っこは同じではないだろうか。
 
現代人は、コミュニケーションをとおして望んだ「~について」の用事をこなしたり話題を交換したりしたいとは願っているが、そこに余計な詮索やハラスメントのようなノイズが混じることは許しがたいと思っている。自分がノイズを受け取るのを嫌うのと同時に、相手にノイズを伝えてしまうのも恥ずかしいことや申し訳ないことだとも思っている。
 
ここでいうコミュニケーションのノイズに、ウイルスや病原菌まで含めたところで、コミュニケーションの社会規範やリテラシーはまったく変わらない。もともとノイズがコミュニケーションに混じらないよう心掛けているところに、感染症対策という、新しい用心が加わるだけのことである。元々私たちが望み、実行し、規範として身に付けてきたことが、いくらか拡張しただけのことではないか。
 
私たちの国ではもともとハグやキスといった身体的接触は少なく、そのうえ、SNSやネット通販といった遠隔的なやりとりが普及していた。飲みニケーションや社員旅行を敬遠し、ハラスメントを追放するようにも努力していた。ノイズの混じらないコミュニケーションを望み、実現してきた歴史は今にはじまったものではない。
 
また、清潔という点でも、1980年代の"デオドラント革命"からこのかた、臭う身体を脱臭してコミュニケーションにのぞむ社会規範を発展させてきた。それに伴い、自分が臭ってしまう事態をおそれ、他人にキモいと思われる事態を恥じる感覚をも内面化してきた。余計な詮索やハラスメントをしていなくても、臭ったりキモいと思われたりすれば、それは相手にノイズを伝えてしまうこと・迷惑をかけてしまうこととみなされるし、まただからこそ、清潔という新しいルールから私たちは降りることができない。
 
だから新型コロナウイルス感染症によって face to face なコミュニケーションが避けられるような社会規範ができたとしても、それは目新しいものとみなすより、ノイズを避けたがるコミュニケーションの趨勢を加速したもの、とみたほうが事実に即しているのではないだろうか。
 
旧来のコミュニケーションには、もっとノイズが混じっていた。言い換えれば、旧来のコミュニケーションとは、思いがけないのものが伝わったり与えられたりするものだった。ハグやキスだけでなく、拳骨やビンタもしばしばコミュニケーションの一部とみなされていて、おそらく、そうした身体的なやりとりをとおして病原菌のたぐいも盛んに行き来していたことだろう。
 

 
近代以前の社会とコミュニケーションを振り返る書籍を読むと、用途や話題にあわせてコミュニケーションの場所や相手を変更するなど不可能だったことが読み取れるし、その身体的なコミュニケーションと不潔さに驚いてしまう。そのような環境では、そもそも、コミュニケーションのノイズを取り除くという今風の願望を持つこと自体、簡単ではなかっただろう。
 
しかし近代化や都市化が進み、用事や相手や場所にあわせてコミュニケーションを切り分け、使い分けることが当たり前になっていくなかで、コミュニケーションは、用途や話題にあわせて純化されたもの・ノイズが混じってはいけないものへと変わっていった。昭和時代にはノイジーでしばしば身体的なコミュニケーションがまだ残っていたが、平成時代をとおしてどんどん漂白されていった。
 
コミュニケーションに際して、ノイズを避けること・フォローやブロックやアカウントを使い分けて純度を高めること・病原体のたぐい授受しないことは、定めし時代の要請なのだろう。だからこれを否定するのは私には難しい。
 
だけどこれは、従来のコミュニケーションから遠く隔たった、それこそ数世紀前の人がコミュニケーションとして体験していたものとは似て非なる何かだ。コンビニのレジでのやりとりは、ある意味、コミュニケーションであると同時にディスコミュニケーションではないだろうか。売買については、確かに伝わっている。だが、売買以外については伝わっていない。というよりできるだけ伝えないようにしているのがコンビニのレジでのやりとりではないか?
 
今、私たちがコミュニケーションと呼んでいるものは、特定の用途や話題について伝えると同時に、ノイズや感染症を遮断する。同時に、思わず伝わってしまうかもしれない何かまで遮断してしまい、伝わらなくなってしまう、ある種の可能性の狭さをはらんでいるようにも思う。
 
この騒動をとおして、ますます日本人が、いや世界の人々が、そのような可能性の狭さへ導かれていくとしたら、それはメリットだけをもたらすものではないと思う。私は、そのことが気になっている。
 
 

ディストピア弁当を売っているスーパーがもっとディストピアになった

 
 
お店の名前は言えないが、私の生活圏には殺伐とした弁当が殺伐と並んでいるスーパーマーケットがあり、数年前からその店のことをディストピアスーパーと呼んでいる。
 
「弁当なんて、どこで売られているものも同じじゃないか」と言う人もいるかもしれない。確かに、コンビニで売られている唐揚げ弁当のなかには、健康への配慮が乏しいだけでなく、食事としてのパッケージがぶっきらぼうな品も見受けられる。「この弁当にはカロリーはある。が、カルチャーは無い」と言いたくなるようなやつだ。それでも、コンビニの弁当コーナーをざっと眺めると、多かれ少なかれ、カルチャーに配慮した体裁は伴っている。たとえば凝ったデコレーションのパスタとか、そういった品がコンビニには必ず存在している。
 
ディストピアスーパーはそんな生やさしいものじゃない。
 
ハンバーグ弁当には、過剰に水分を吸い込んだ重たいご飯がびっちり詰められていて、パサついたハンバーグとしおれたパセリ、レタスの切れ端がごろりと添えられている。弁当のパッケージは黒一色。空腹をみたすという一点ではコストパフォーマンスに優れているが、遊び心もカルチャーも栄養バランスもここには見当たらない。
 
唐揚げ弁当には、やたらと大きくて顔色の悪い唐揚げがごろごろと並んでいる。唐揚げの背丈が大きいので、プラスチックの容器が少し膨らんでいるのだけど、なぜかちっとも美味そうにみえない。やけくそ気味に詰めた、という印象を受けてしまう。
 
パスタやうどんも、ディストピアスーパーのものはことごとく美味そうにみえない。スーパーマーケットの惣菜コーナーのパスタやうどんには、もちろん冴えない雰囲気のものが珍しくないのだけど、ひとつぐらいは買って良さそうなものがあるものだ。たとえばスパゲティナポリタンの具はちょっと頑張っている、といったように。
 
ところがディストピアスーパーには、そういう頑張っている感のあるパスタやうどんが並んでいない。ボリュームが少ないわけでも具材が少ないわけでもないのに、なぜか殺伐としていて、彩りがない。紅ショウガのけばけばしい赤色だけが自己主張している。こうしたぶっきらぼうなパッケージのパスタやうどんを前に、我が胃袋はおそれを抱いて回れ右をしてしまう。
 
とはいえ、殺伐もここまでくれば逆説的な商品になり得るわけで、私はときどきディストピアスーパーに立ち寄って安くて大盛りのディストピア弁当を買い、安いチューハイと飲食していた。最近のチューハイもディストピア度が高いから、ディストピア弁当との相性はとてもいい。ディストピアを大きく深呼吸すると、それはそれで一種のカルチャー、いや、カウンターカルチャーの味がする。毎日食べるとなれば、話は違ってくるだろうけれども。
 
 
 
 
そんなディストピアスーパーにも、新型コロナウイルス感染症の影響が現れるようになった。
 
マスクや消毒用品を買い求める人々が、空になった商品棚の前をうろうろとしていた。やがてトイレットペーパーやティッシュペーパー、パスタの商品棚でも同じようなことが起こった。
 
ディストピアスーパーでも、お客さんはまずまず行儀よく並び、穏やかに買い物をしているものだったが、この商品争奪戦と買いだめ騒動を経て、お客さんにも殺伐とした気配が宿るようになった。いや、お客さんがそのようにみえる一因には、それを見る私自身が殺伐としている、というバイアスもあるだろう。当惑しながら距離を取って並んでいる姿も、どことなく現実離れしている。いや、まぎれもない現実なのだが。
 
品揃えが殺伐としているところに、お客さんにまで殺伐とした雰囲気が宿るようになって、ディストピアスーパーは、いよいよもってディストピアのていをなしてしまった。これが日常だったら、「ほう、これがディストピアスーパーの完成形か!」と感嘆の声をあげ、ひとつのアトラクション、ひとつのカウンターカルチャーと解釈していたに違いない。
 
ところが日常がどこかへ行ってしまい、私自身も殺伐としているらしく、私はディストピアスーパーを受け止めきれなくなってしまった。「ディストピアは、遊びじゃないんだよ」と言われてしまえば反論のしようもないが、アトラクションでもカウンターカルチャーでもなくなったディストピアスーパーに行くと気が滅入ってしまうので、カルチャーの残滓の宿っている、花丸スーパーマーケット(仮称)で最近は買い物をするようにしている。
 
花丸スーパーマーケット(仮称)のお客さんもいくらか殺伐としているが、お店の商品や陳列にカルチャーの残滓、遊び心の残滓があって、今はこれに救われていると感じる。ディストピアを味わうだけの心のゆとりを、私は失っているのだろう。
 
 

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を出版します

 
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
書影が間に合っていませんが、シロクマこと熊代亨の新しい本の情報が出ました。数年前から構想し、書き続けてきた現代社会(とそこに適応する私たち)についての本ですが、奇しくも感染症の蔓延によって書かれている内容に世界が追いつき、追い抜こうとしているようにも思います。
 
なので、これからの社会(とそこに適応する私たち)の本ともなるでしょう。
 
 

東京(日本)の秩序を踏まえなければ、現代人について書けない

 
インターネットでも書籍でも、私は現代人の社会適応についてずっと書き続けてきました。が、ここ数年は、そもそも私たちが適応している社会、私たちが適応しなければならない秩序をもっと理解しなければ、現代人のメンタルや自由をきちんと語れない、という思いを募らせてきました。
 
たとえば東京で屈託なく暮らしている人が適応しなければならない社会とは、誰もが清潔にしている社会、誰もが健康でなければならない社会、誰もが道徳的に振る舞わなければならない社会、ではないでしょうか。
 
パリやローマなどと違って、東京では酔いつぶれている客の財布を盗む人はめったにいませんし、喧嘩や乱闘を見かけることも稀です。新宿駅や渋谷駅はその世界的な利用者数を思えばみごとに機能していますし、清潔な状態が保たれていると言えます。
 
これだけの人口密度、これほどの交通密度にもかかわらず、街の秩序がちゃんと成り立っているのです。この東京の秩序、ひいては日本の秩序は、世界的にも歴史的にもきわめてハイレベルと言えるでしょう。また、そのような東京だからこそ暮らしやすい部分、快適かつ自由に過ごせる部分もあると言えます。
 
しかし、東京や日本の秩序がハイレベルであるということは、そこに生きる私たちに課せられている条件、私たちが秩序に適応しなければならない課題も、また大きいのではないでしょうか。
 
昭和時代から平成時代、そして令和時代と進むにつれて、日本人はますます健康になり、ますます清潔的になり、ますます道徳的になりました。子どもたちも、行儀良く、落ち着いた振る舞いをみせています。四十年ほど前の日本社会は、もっと不健康で、もっと不潔で、もっと不道徳だったはずですし、昭和時代の子どもはもっと行儀悪く、粗暴で、落ち着かないものだったはずです。
 
かつては体罰やハラスメントがごく当たり前に横行していたことを思い出すにつけても、私たちは「進歩」したのだと思います。障害者の自立や男女の平等、子どもの権利の擁護といった点でも、この数十年間に大きな進歩がありました。
 
それはいいでしょう。
ですが、そうやって社会が進歩し、秩序が高度化したことに伴って、私たちは進歩にふさわしい人間、秩序にふさわしい人間でなければならなくなりました。どうしてもそれが困難な場合、医療や福祉によるサポートが受けられるようになりましたが、とはいえ、ハイレベルな秩序にふさわしい人間でなければならないというのは、なかなか大変なことです。また、サポートを受けることと秩序の内側で生きることは表裏一体なので、サポートを受けながら秩序からはみ出して生きる、というわけにもいきません。
 
それもそれでいいでしょう。
しかし、もしも現代人の社会適応とその条件について考えるとしたら、こうした秩序の成り立ちや社会のハイレベル化、ひいては現代人に期待される条件のハイレベル化を念頭に置かないわけにはいきません。
  
どうあれ、私たちにはもう、昭和時代の人間の水準で生きることは許されないのです! なぜ、どうして昭和時代の人間の水準が許されなくなったのか、どういういきさつで社会と現代人の双方がハイレベルであるよう期待されるようになったのかを理解しておかなければ、現代人についてまわる心理的な制約もメンタルヘルス問題の根っこに潜む社会的ニーズも、現代人の抱える超自我も、とらえきれないのではないでしょうか。
 
 

私にしか書けない、お叱りを受けそうな本でもあります

 
にもかかわらず、これらの変化を踏まえて現代人を論じる本、昭和時代の人間と令和時代の人間の違いについて論じた本は思うほどありません。少なくとも私は、精神科医がそういう書籍を書いているのに出会ったことがありません。
 
こういう大それたテーマに精神医療の専門家の先生がたが挑まないのは、理解しやすいことです。というのも、今どきの専門家は、自分の専門領域に即した間違いのないステートメントを心がけなければならず、専門家としての業績をあげなければならないからです。専門分野や専攻分野を離れ、社会などという大それたテーマを論じるのは──とりわけ、秩序の成り立ちを踏まえて論じるのは──専門家としてのキャリアをリスクにさらすことにはなっても、キャリアの肥やしになるものではありません。合理的な専門家なら、そのような無用のリスクは避けようとするでしょう。
 
私は精神科医であると同時にブロガー・著述家であろうと努めてきた身なので、そのようなキャリアのリスクを心配する必要はありません。私の立ち位置と来歴は、むしろ大それたテーマに挑むのに適しているほうでしょう。だから私は間違いをおそれず、健康で清潔で道徳的なこの社会と、この社会で生きる人間の条件や不自由について全体像を記してみることにしました。2015年以降は、本書を書き続けるためにブログや執筆活動を続けてきたようなものです。だから本書は、精神科医兼ブロガーとしての私の決算のようなものでもあります。
 
この本がどこまで現代社会を射抜いていて、どこまで的外れなのか、筆者である私には判断できないので、読者の方に判断していただきたいと願っています。
 
しかしどうあれ、現代社会のナラティブとして私の最高傑作なのは間違いありませんし、この完成度の本をまとめられるのは一生涯に一度きりかもしれない、という会心の出来になりました。
 
たぶん、たくさんの人に興味を持っていただけると同時に、同業者のかたも含め、たくさんの人からお叱りを受ける本だと思います。パンデミックに伴い、健康や清潔がますます個人に求められ、自由が制限されていく世相に即した本でもあるでしょう。よろしかったら読んでやってください。
 
 
 
 
(もっと具体的な内容については、編集者さんのおゆるしをいただいたうえで、もう少し後にアナウンスするつもりでいます)