シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

「良いゲーム=長く遊べるゲーム」とは言えなくなった

 
 
先日、はてなブックマークの人に「FGOの記事でも書いてください」と言われた。しかし『FGO』は、お正月からずっと豪運状態が続いていて、無料の聖晶石だけで☆5の英雄が次々に集まって笑いが止まらないので書くことがない。
 
 
それより今日は、最近のゲームが長く遊べて"しまう"問題について書いてみたい。
 
先日、twitterの一角で『艦これ』のモチベーションについて話題が膨らんだことがあった。
 
togetter.com
 
『艦これ』は2013年にリリースされたブラウザゲームだ。サーバ増設が間に合わないせいでなかなかアカウントを取得できず、私は2014年にようやく遊び始めた。とはいえかれこれ6年もプレイし続けている。これだけひとつのゲームに長い時間をかけたことはないし、課金額も、塵も積もれば山となっていることだろう。
 
我が身を振り返り、『艦これ』を続けているモチベーションについて考えてみる。
 
はじめのうち、私は『艦隊これくしょん』というタイトルどおり、レアな艦を集めて喜んでいた。ところがイベント海域に「甲勲章」というフィーチャーが登場してからは、この「甲勲章」を集めることが自分のモチベーションになった。
 
自分の艦隊を強くし、強い艦隊でしか狙えない「甲勲章」を集めること──表向き、私のモチベーションはここにあるということになるだろう。
 

 
だがちょっと考えると、これを自分自身のモチベーションと言ってしまって構わないのか? 確かに「甲勲章」を集めたい気持ちはあるし、イベントでは取り逃さないようにしている。が、『艦これ』を遊び始めていた頃、そんなことは考えていなかったはずだ。長く楽しませてもらっている一方で、ゲームに長く囚われていると感じることもある。
 
『FGO』はどうか。
 
『FGO』の場合、メインストーリーがビジュアルノベルの末裔としても優れているから、とりあえず、メインストーリー第二節が終わるまではやめられない、と思っている。一時期、ガチャで目がぐるぐるになってしまった時期 もあったけれども、去年からはガチャとの向き合い方がわかってきて、年度はじめに定額課金する体制に切り替わった。
 
『FGO』の場合、戦力がある程度揃った後は、やたらと戦力増強をしなければならない必要性や必然性は乏しい。プレイヤーを飽きさせないよう、あれこれのイベントを運営は打ち出してはいるけれども、面倒だったら放置しても構わないし、それでメインストーリーが読めなくなってしまうおそれもない。
 
ところが私は『FGO』を毎日のように起動させているし、イベントもだいたい参加している。やらなくてもメインストーリーを楽しむには支障が無いのだから、私はもっと『FGO』の手を抜いて構わないはずなのに、まだやっている。
 
こうやって付き合いの長いゲームたちを振り返ると、長く遊べていること、いや、気が付けば長く遊んでしまっていることが、長所なのか短所なのかわからなくなる。
 
ゲームを遊び始めた頃は、ひとつのゲームを長く遊べることは間違いなく長所だったはずなのに。
 
 

長く遊べるゲームが欲しかった過去と、そうでもない現在

 
子ども時代の私にとって、「ひとつのゲームが長く遊べる」とは間違いなく良いこと、ゲームの長所として数えられるものだった。
 
家庭用のゲームはとても高価だったから隅々まで遊ぼうとした。数千円もするゲームが数日で飽きてしまう・面白くなくなってしまうのは恐ろしいことだった。
 
昔の家庭用ゲームにはやたら難易度が高いもの・忍耐強い経験値稼ぎを必要とするものが珍しくなかったが、それは、高価なゲームは長く遊べなければならなかったからだと思う。たとえばファミコン版の『ドラゴンクエスト2』は、現代のロールプレイングゲームの基準で考えるなら難易度が高く、ロンダルキアの洞窟は恐れられていた。パソコンゲームも難しく、『ザナドゥ』や『シュヴァルツシルト』などは初手を間違えると詰んでしまう。
 
ゲームセンターでも「長く遊べる」は良いこととみなされていた。百円1プレイのゲームを長く続けるためには上達しなければならないし、長く遊べるプレイヤーはリスペクトされた。ゲームセンター側にとって、プレイヤーが百円で長く粘るのは困ったことだっただろうけれども、プレイヤーとしては、百円でできるだけ長く遊びたかったし、できるだけ先のステージにたどり着き、できるだけハイスコアを出してみたいものだった。ゲームセンターでも、長く遊べるとは良いことで、短くしか遊べないとはがっかりすることだった。
 
ところがゲームハードもゲームソフトも進歩していくうちに、長く遊べるゲームが珍しくなくなってきた。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』にも、エンディングが終わった後も遊べる"やりこみ要素"が備え付けられ、その気になれば長く遊べるようになった。シミュレーションゲームでも『シヴィライゼーション』をはじめ、長く遊ばせてくれるものが登場した。すっかり飽きるまで遊び尽くそうと思っても、これらのゲームはそう簡単には遊び尽くせない。
 
21世紀になり、ゲームはパッケージとして購入するものからダウンロードしてアップデートされるものへと変わった。ダウンロードされ、アップデートされるゲームは時間とともに姿を変えていくからいよいよ簡単には飽きない。少なくともオンラインゲームやソーシャルゲームにはそうした性質が目立つ。そうした大なり小なりのアップデートはたとえば以下のようにtwitter上で告知され、プレイヤーにも周知されていく。
 


 こういったアップデート関連の情報がタイムラインに飛び込んでくる。

 
こうした、アップデートされ続けるゲームを本気で遊び尽くそうと思ったら、それこそゲーム運営企業が運営をやめる日まで遊び続けなければならなくなってしまう。
 
ここまで来ると、長く遊べるゲームが必ず良いゲームで、短くしか遊べないゲームが必ずがっかりするゲームとは言えなくなってくる。ひとつのゲームを長く遊び"すぎてしまう"ことがプレイヤーにとっての新たな課題となり、どのゲームを始めるかだけでなく、どのゲームをやめるのかがひとつの手腕になってくる。
 
運営企業の側からすれば、長く遊んでくれて沢山お金を落としてくれるプレイヤーこそが良いプレイヤーで、そのようなプレイヤーをたくさん擁するゲームが良いゲーム、ということになるだろう。『FGO』などは定めし最優秀のゲームに違いない。
 
だが、プレイヤー側からすれば、長く遊ばせてくれるゲームが良いゲームとは限らない。少なくとも、自分が遊びたいのかどうかも曖昧なまま、可処分時間や可処分所得を延々と持っていってしまうゲームは、プレイヤー泣かせと言えるだろう。
 
ファミコン時代の『ドラゴンクエスト2』は小学生には高価な買い物で、総プレイ時間も長いゲームだった。それでも、ひとりのプレイヤーが支払う金額にも費やす時間にもおのずと上限があり、他のゲームに移っていくのは簡単だった。

対して、アップデートされ続けるゲームには金額的にも時間的にも上限が見えない。ひとつのゲームに対し、『ドラゴンクエスト2』が何本も買える金額を短時間に費やしてしまう可能性もあるし、『ドラゴンクエスト2』を100回クリアするぐらいの時間を費やしてしまう可能性もある。他のゲームに移っていくのも簡単ではなくなった。これまで費やしてきた時間や金額を惜しいと思うプレイヤーはサンクコストの陥穽にはまるし、そうでなくてもゲーム運営側はあれこれの方策でプレイヤーを長居させようとする。
 
プレイヤーは決断しなければならない。ゲーム体験が豊かであると実感できるゲームならともかく、惰性で続けているだけのゲーム、サンクコストに囚われているだけのゲームは、どこかで切り離さなければならない。さもなくば、その惰性で続けているゲームに可処分時間や可処分所得を寄生虫のごとく吸い取られ続けてしまう。
 
 

まとめ

 
ゲームが変わり、プレイする側の時間的・経済的な都合も変わっていくなかで、「良いゲーム=長く遊べるゲーム」とはもう言えなくなった。むしろ、運営企業のなすがままに、「長く遊ばなければならなくなる」リスクをきちんと取り扱い、どのゲームをどこでどうやってやめるかが重要になった。豊かなゲームライフを実現するための手腕として、そのあたりが問われるようになっている、と思う。
 
 

新型コロナウイルスのせいで消耗している

 
体力も気力もなくなった。
疲れて、いる。

原因の見当はついている。
だいたい新型コロナウイルス(COVID-19)騒動のせいだ。
この騒動によって私は消耗し、体力も気力も出なくなってしまっているのだと思う。
 
この騒動が間近なところにやってきたのは2月中旬ぐらいからだ。職場でも対策について話し合われるようになった。もちろん、自分の職場にはこれに対抗する設備や人員が無い。しかし医療機関である以上、そのような患者さんに遭遇してしまう可能性もゼロとは言えない。そういった「もしも」についての話し合いは、2月15日ぐらいまでは「念のため、用心として」といった趣だったが、ここにきて、俄然、真剣みが増してきた。
 
それと精神科・心療内科のフィールドには、少数ながら「世間の不安なニュースに弱い人」が混じっていたりする。不安が主な症状の患者さん、被影響性の強い患者さんのなかには、新型コロナウイルスの騒動を非常におそれ、精神症状が悪化している方も混じっている。もともと潔癖な傾向のある患者さんが、他人の咳やくしゃみに敏感になり、社会生活に悪影響が出ていることもある。
 
私自身が新型コロナウイルスを診ることはなくても、"新型コロナウイルス騒動"によってメンタルに悪影響が出てしまった患者さんを診ることはあるわけで、仕事が増える場面があった。
 
そのうえ2月から3月にかけて出張や行事のたぐいが集中し、どうしても外出が避けられないため、そのたび神経を遣っている。
 
もともと私は冬は用心深く過ごしているほうで、手洗い・うがい・マスクはもちろん欠かさない。それでも長時間電車や飛行機に乗らなければならない場面、とりわけ子どもを連れている場面では神経質になっている自分を発見してしまう。
 
中止になってしまう行事・イベントへの対応も考えなければならない。これも気が重い。感染リスクが高まるような行事・イベントは中止のほうが良いと思う一方で、中止になってしまえばスケジュールがズレて、くたびれてしまう。そもそも、いつ中止が発表になるかわからない行事・イベントだってある。こういうことを思い出すたび、気力が削られている思いがする。
 
私自身は新型コロナウイルスに感染していないし、家族も職場の人々も感染していない。
だからといって影響を受けていないわけではなく、職場の仕事が変わったり公私のスケジュールに影響が出たり、いろいろ面倒なことにはなっている。商売をやっている知人は無事だろうか?
 
そういった諸々が私の時間や体力を少しずつ蝕んでいて、どうしても気疲れするし元気も出ない。
 
 

メディアはウイルスを媒介しない。が、不安は媒介する

 
それと、テレビやインターネットだ。この騒動がクローズアップされるにつれて、SNSでもテレビでも新型コロナウイルスについての投稿や書き込みをみることが増えた。あえて「情報」とはいうまい。特にSNSでは「情報」という名に値しない、デマのたぐいとしかいいようのない投稿もしばしば見かけるからだ。
 
もともと私は新型コロナウイルスにそれほどの関心は抱いていなかったし、東日本大震災の教訓から、世間が騒がしくなった時にヒステリックな投稿を繰り返す人はフォローしないよう心がけていた。それでも2月下旬に入り、全国各地で感染者が見つかり、世界同時株安が起こったあたりからはタイムラインに"新型コロナウイルスが蔓延"した状態になって、気疲れするようになってきた。それと、私もだんだん不安になってきた。
 


 
ネットやメディアはウイルスそのものを媒介することはない。けれどもウイルスに対してひとりひとりが抱いている不安は媒介してしまう。専門家が慎重なステートメントを心がけているのをよそに、その専門家の慎重なステートメントを水増しして不安を混ぜ込んだカクテルのごとき投稿がメディアを行き来しているのを眺めていると、気持ち悪くなってしまう。
 
繰り返すが、私個人は新型コロナウイルスの感染症そのものについてはあまり恐れていない。高齢者や基礎疾患のある人はともかく、自分自身や子どもが重症化することはまずないだろうし、少なくとも文明崩壊に至るほどの感染症たりえないと割り切っている。
 
しかしいつものタイムラインやメディアに"新型コロナウイルスが蔓延"し、世間のあちこちで中止や自粛が広がり、経済的にも旗色が悪くなっているのを眺めていると、やっぱり重たいと感じてしまう。くっきりとした事実が報道されたり投稿されたりするのでなく、未確定の情報や憶測、デマ、エモーショナルな投稿といったものが氾濫しているから、頭がグシャグシャする。だからインターネットを巡回する頻度を下げてはいるけれども、オフラインにまでそういった情報やエモーションが溢れているから遮断が徹底できない。
 
少し前に、「"ネットでおかしくなった人"の共通点」についての投稿を見かけた。
 
togetter.com
 
上掲では「ネットでおかしくなった人のかなりの共通点は「嫌いなものをガン見し続けていくこと」なので、大体ガン見し続けている人はおかしくなっていく。むこうからやってこないのならいちいち見ないほうがいい。」と記されている。
 
でも、今回の騒動や東日本大震災のような場合はどうだろう? 「むこうからやってこないのならいちいち見ないほうがいい」と思っていても、しんどい投稿や不確かな投稿、エモーショナルな投稿が勝手に飛び込んでくる。それも、普段では考えられないほどの質・量を伴っていて、テレビや新聞などと(ある程度)歩調を合わせたかたちで飛び込んでくるわけだ。そうなると、望むと望まないとにかかわらず"おかしくなっていく"人が発生してしまうのではないか。
 
 
東日本大震災の時には、時間が経つにつれて複数の人々が"おかしく"なっていった。それまでは冷静だと思われていた人や、それまでは感情的に振る舞うことの少なかった人が、時間が経つにつれて冷静さを失い、感情的に振る舞っていくさまをリアルタイムで目撃した。私はそれを覚えているから、今回の新型コロナウイルスの騒動も、長引けば長引くほど"おかしくなる"人が増えるのではないかと想像している。
 
いやいや、私だって、"おかしくなる"かもしれない。
 
だからこういう社会状況でのネットやメディアとの付き合い方は、とても難しいと思う。まったく情報にアクセスしないのも考え物だが、フリーアクセスで良いとは思えない。少なくとも、しんどい投稿や不確かな投稿、エモーショナルな投稿から身を守る必要はある。実生活で疲れているなら尚更だ。
 
「見たくないものは見なければいい」というネット処世術は、見ないで済ませて構わないことに対しては良いアイデアだけど、「見ないわけにはいかない」「実生活にまで迫ってきている」ことには通用しそうにない。
 
この一週間で私はだいぶ疲れてしまった。
こういう時は引きこもってゲームでもやっているのが一番だが、仕事や出張や行事があるからそうもいかない。早くこの騒動が、おさまって欲しいと思う。
 

「ビンタもコミュニケーション能力」だった頃を覚えていますか

 
 Amazonプライムで昭和時代のドラマや映画を見ていると、令和時代には「暴力」とみなされている身体的なコミュニケーションをよく見かける。
 
 相手の頭を叩く仕草。
 平手打ち。
 お互いにどつきあう男性同士。
 
 コメディアンのコントを眺めていても、相方の身体を叩いたり蹴ったりする仕草がごく当たり前に登場する。そういう「暴力」的な仕草のたび、ドッと笑う声。昭和時代~平成時代のはじめにお笑い番組を眺めていた頃には、私も一緒になって笑っていた気がする。ビートたけしやドリフターズの芸も、しばしば身体的だった。
 
 一方、令和時代のテレビ番組にはそういう「暴力」が乏しい。昭和の生活を描くいまどきのドラマからは、身体をどつく仕草や頭部をイージーに殴打する仕草が除去されていると感じる。
 
 それらは令和時代に「暴力」とみなされる仕草ではあるだろう。しかし昭和時代、いや平成時代のある時期まで、ちょっとしたどつきあいや叩きあいは「暴力」未満のものとして日常生活のなかに遍在していなかったか? 少なくとも「暴力」というラベルを貼られない、閾値以下の身体的コミュニケーションが存在していたのは事実だろう。
 
 たとえば体罰は、令和時代にはかなり厳格に禁じられているが、昭和時代にはこの限りではなかった。小学校の教諭が児童を並ばせ、次々に平手打ちするなど当たり前だったし、体育教師が竹刀を持ってうろつき回ることに違和感をおぼえる人は少なかった。
 
 児童・生徒にしてもそうである。当時、校内暴力という言葉が有名になっていたにも関わらず、私たちの世代は、子ども時代にもっともっとたくさん身体でコミュニケーションしていて、その大部分は「暴力」というラベルに値しないものとみなされていた。子どものケンカの大半は「暴力」ではなかったし、「いじめ」でもなかった。
 
 無理もあるまい。当時は大人も身体でたくさんコミュニケーションしていたのだから。善悪是非はともかく、それが数十年前の当たり前だったのだから。
 
 

ビンタが「暴力」でなかった昭和のコミュニケーション能力

 
 こうしたことを踏まえて、コミュニケーション能力について考えてみよう。
 
 今、コミュニケーション能力といったら、たいていの人は言語的なコミュニケーションの巧さを連想するのではないだろうか。そこに容姿やボディランゲージといった非言語の要素がいくらか加わり、いまどきなら、良い文章や写真をSNSに投稿する能力もコミュニケーション能力の一部とみなされるかもしれない。
 
 だがこれは、令和時代の「暴力」の判定にもとづいた考え方で、昭和時代のコミュニケーション能力には当てはまらない。
 
 昭和時代においては、身体をどつきあう行為、叩きあう行為のかなりの部分が「暴力」とみなされていなかったから、令和時代に比べて、コミュニケーションのチャンネルとして身体的なやりとりが占める割合は高かった。
 
 身体のどつきあいや叩きあいがコミュニケーションのチャンネルとして許容されている社会では、上手に身体をどつけること、上手に叩けること、それらを通して相手の行動に影響を与えられることも、コミュニケーション能力の一部とみなされなければならない。
 
 いわば、ビンタが上手いか下手か、ケンカが上手いか下手かも、コミュニケーション巧者かどうかを決定づける関数だったわけである。
 
 典型的には、昭和時代のガキ大将は「コミュニケーション巧者」だった。ケンカというどつきあいを通して他の児童生徒に影響を与えられ、それでいて学校や地域の秩序からはみ出さない子どもは、間違いなくコミュニケーション巧者だったと言えよう。
 
 教師にしてもそれは同じだ。竹刀を持って歩く体育教師のなかには、当時の基準で「暴力」と呼ばれない範囲で児童生徒と身体的コミュニケーションをとるのが上手く、それでいて学校や地域の秩序からはみ出すことのない者がいた。
 
 もちろん昭和時代でも、令和時代でいうコミュニケーション能力の高い人が有利だったに違いない。しかしコミュニケーションの巧拙がそれだけで決まったわけでなく、「暴力」の判定には届かない水準の身体的コミュニケーションによってもコミュニケーションの巧拙が左右されていた。
 
 言葉や容姿やボディランゲージに優れていても、ケンカやどつきあいが下手すぎてはスクールカーストの上位にリーチできない──そういうことが起こり得たのが昭和時代だ。
 
 
 

どつきあいやビンタが「死にスキル」になって浮いた人・沈んだ人

 
 ところが平成の三十年間のうちに、どつきあいやビンタはすっかり「死にスキル」と化し、そういった行動のことごとくが「暴力」とみなされ、禁じられるようになった。
 
 このようにコミュニケーション能力の内実が変わったことによって、コミュニケーション巧者もスクールカースト上位者も変わった。
 
 ビンタやどつきあいや竹刀が「死にスキル」として封印された以上、昭和時代のガキ大将や体育教師がコミュニケーション巧者とみなされることは無い。
 
 むしろ、身体的コミュニケーションに頼っていた子どもは令和時代においてはコミュニケーション弱者とならざるを得ない。そのような子どもは、令和時代のクレバーなコミュニケーション巧者の言葉や容姿やボディランゲージに組み伏せられるほかない。あるいは挑発に乗せられてうっかり手が出てしまった結果、「暴力をふるう子ども」や「いじめっ子」とみなされたり、素行に障害のある子どもとみなされたりするやもしれない。
  
 逆に、昭和時代には身体的なコミュニケーションが下手で劣勢を強いられた子どもが、令和時代には言葉や容姿やボディランゲージを駆使して、コミュニケーション巧者として猛威をふるうことが許されている。なにしろ「暴力」と判定されるハードルが恐ろしく低くなったのだから、言葉や容姿にさえ優れていれば向かうところ敵なし、スクールカースト上位確定なのである。
 
 学校でも、職場でも、世間でも、いわゆる「暴力」が追放されれば追放されるほど、その「暴力」に該当しない領域のコミュニケーション能力が高い者が、影響力をほしいままにすることができる。
 
 「影響力をほしいままにすることができる」と書くと、それはオーバーだ言う人もいるかもしれない。まあ、そうかもしれない。しかし昭和と令和を比較したとき、令和時代のコミュニケーションの秩序は言葉や容姿が以前よりも威力を振るうようになった秩序であり、身体的コミュニケーションの多くが「暴力」という正邪の判定によって封印された秩序である、とは言えるだろう。
 
 古代から現代に向かって、人類は「暴力」にかんする正邪の判定を少しずつ厳しくしていった。昭和時代の「暴力」の判定は、そうした進歩のプロセスの一時代であり、当時よりもより丁寧に「暴力」が追放された2020年に私たちは立っている。
 
 私は、そうした「暴力」を追放した2020年の恩恵を受けている人間の一人だから、こうした進歩に異存はない。
 
 しかし、昭和時代だったらコミュニケーション強者になれたかもしれない令和時代のコミュニケーション弱者からすれば、現状は苛立たしいものに違いあるまい。
 
 二十年前、いや、十年前にはコミュニケーション強者でいられたかもしれない人々が、「暴力」の正邪の判定のハードルが下がったことによってコミュニケーション弱者になっていくのである。あるいは法の敵とみなされたり社会の敵とみなされたり、場合によっては障害があるとみなされたりするようになっていくのである。そのような立場に置かれた人々が、こうした進歩のあゆみに対して心穏やかでいられるとは、あまり思えない。
 
 
 私たちは気軽にコミュニケーション能力という言葉を使っているが、ほとんどの場合、それは令和時代のコミュニケーションの秩序を前提としたものだ。もちろん普段はそれで構わないだろう。しかし実のところ、ある時代・ある地域のコミュニケーション能力とは、「暴力」の正邪の判定によって変わり得るものであり、もっと一般論をいえば、社会の通念や習慣や制度が変わることによって変わってゆくものでもある。
 
 「コミュニケーション能力とは何か」と本気で問いたい人は、ビンタもコミュニケーション能力だった頃も思い出せるようでなければならないと私は思う。
 
 なぜなら昭和から令和にかけてコミュニケーション能力の内実が変わったのと同じように、令和から未来にかけて社会が変われば、きっとコミュニケーション能力の内実も変わって、私たちひとりひとりに求められる能力や振る舞いも変わってゆくに違いないだろうからだ。
 

 

フォートナイトで子どもに完敗し、将来のゲームライフについて考えさせられた

 

 
去年から今年にかけて、趣味の世界で子どもが"先を行っている"と感じることが増えた。
 
漫画では『Dr.STONE』や『鬼滅の刃』を子どもから教わり、よくできた少年漫画として楽しんだ。子どもがみずからのアンテナで漫画を見つけ、教えてくれるのは大変うれしいことだった。
 
だけどゲームの分野ではそこまでシンプルに受け止めきれず、もうちょっと重たく受け止めている。
 
2020年から我が家では『フォートナイト』が流行っている。これも、子どもが我が家にもたらした作品で、三人称視点で飛び道具を撃ち合う、TPSというジャンルのゲームだ。同じTPSでは、我が家では『スプラトゥーン2』が流行っていたため、ごく自然な流れで家族全員で遊ぶようになった。
 
『スプラトゥーン2』の時点では、私は総合力で子どもに勝っていた。射撃の精度では劣っていても、陣地構築や立ち回りの巧さはこちらのほうが上だったからだ。ところが『フォートナイト』では、建築物の構築も立ち回りも子どものほうがプレイが柔軟で、対応力に優れている。アイテムが出現する宝箱の位置も、子どものほうがしっかり暗記している。
 
『フォートナイト』は飛び道具を撃ち合うだけのゲームではなく、建築物の構築、アイテムの探索、そのほかたくさんの状況判断を必要とする複雑なゲームだ。頭の素早い切り替えも必要になる。その複雑なゲームで、腕前が完全に逆転するとは想像していなかったら、うろたえてしまっている*1
 
一人の父親として、これはすごく嬉しいことだ。
三十余年にわたってゲームを趣味にしてきた父親を、とうとう子どもが追い抜いたのだから。
 
ただ、一人のゲームオタクとしては自分の未来が見えてしまった気がした。
 
五十代、六十代になってもゲームは遊べるし、自分がプレイできなくなってもゲーム実況は楽しめる。それでも年を取っていくにつれて、新しいゲームに馴染むのにかかる時間は長くなり、新しいゲームを上達するための労力は大きくなるだろう。たくさんのゲームを同時攻略することも、ひとつのゲームで一定水準の腕前にたどり着くことも難しくなり、上達の限界点もだんだん下がっていくだろう。
 
ゲームは私の友達であり、アイデンティティであり、鍛錬の場でもあった。
だからやめるつもりはない。
けれども、今までどおりのスタイルでゲームを楽しむことはきっと難しくなる。
 
今後はいわば、シニアなゲームライフに変わっていったほうが良いのだろう。しかしシニアなゲームライフがどんなものなのか今はまだわからないし、誰をどう参考にすれば良いのかも知らない。「eスポーツの選手じゃないんだから、好きにすれば?」という人もいるだろうし、その指摘自体は間違っていない。だが、少しずつゲームを上手く遊べなくなっていく自分の身体と折り合いをつけながらゲームを好きに遊ぶとは、いったいどういう境地なのか? こうした境地について、年下のプレイヤーはほとんど教えてくれない。
 
私はこれからもプレイヤーとして現役でいたいし、シニアなプレイヤーへと歩みを進めていきたい。その際に求められるのは、がむしゃらにゲームを上達したがっていた頃のクンフーとは異質なクンフーのような気がする。
 
……またゴチャゴチャと余計なことを考えてしまったかもしれない。
が、こうしたゴチャゴチャも私のゲームライフの一部だから、自分なりに消化していくしかない。次々とライバルプレイヤーにヘッドショットを決めていく子どもの姿を見ながら、今夜はそんなことを考えた。
 
 

*1:ちなみに総プレイ時間はほとんど同じ

『時間とテクノロジー』雑感、それと自由のゆくえ

 

時間とテクノロジー

時間とテクノロジー

  • 作者:佐々木俊尚
  • 発売日: 2019/12/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 週末、佐々木俊尚さんの近著『時間とテクノロジー』を読んだ。自動車運転やVRも含めた情報通信テクノロジーに私たちが完全に包まれて、お膳立てされ、環境そのものが知能を持つようになった近未来について考えさせてくれる本だ。
 
 近未来が、この本に書いてあるとおりになるかはわからない。それでも、「テクノロジーの進歩によって人間の世界の捉え方が変わる」というテーマの大筋は間違っていないだろうし、いくつかの具体例には説得力を感じた。
 
 たとえばレコードを買っていた時代からストリーミング配信の時代に変わったことで音楽の受け止め方が変わり、「古い時代の曲も新しい時代の曲も懐かさを伴わなくなる」というのはわかる話だ。また、デジタル録画が鮮明になればなるほど、鮮明すぎる過去の録画から郷愁を感じとることは難しくなる。
 
 過去のコンテンツも未来のコンテンツも等しいクオリティで体験できる時代では、どの音楽やコンテンツが古くて新しいのかはっきりしない。
 
 これに近いことを、私はコンピュータゲームの分野で感じる。
 
 たとえば私は『ドラゴンクエスト3』や『ディアブロ2』を懐かしいゲームと感じる。ところが配信サービスやアーカイブをとおして新旧のゲームにアクセスする私の子どもは、switch版の『ドラゴンクエストビルダーズ』と同時にファミコン版の『ドラゴンクエスト3』を知るから、後者に古さを実感していない。『ディアブロ2』にしてもそうで、2019年サービス開始の『ラグナロクマスターズ』を遊んだ後に『ディアブロ2』に触れているから、むしろ『ディアブロ2』に新しさすら感じている。
 
 「古いハードウェアのゲームBGM=古い」という感覚も子どもには無い。ファミコンの音源で奏でられる『ドラゴンクエスト3』のアレフガルドのBGMは、古いものでも懐かしいものでもない。新しいものですら……ないのかもしれない。とにかく、新旧のコンテンツに対する感性が私と子どもではかなり違っている。
 
 佐々木さんは、こうした変化がコンテンツだけに留まらないと指摘する。たとえばVRや自動運転がすっかり当たり前になり、それこそ『PSYCHOーPASS』で描かれる世界のように服装*1や部屋のインテリアまでもがAIにリコメンドされ、体験される時代になったら、体験の真贋や体験の新旧はますますわからなくなり、そういったことに拘る世界観はなくなっていくだろう。
  
 この手の、「コンテンツ、というよりメディアが変わると人々の感性が変わり、ひいては文化が変わり、しまいに知性のありかた自体が変わる」といった話は、文字が登場した時にも、活版印刷が出現した時にも、ラジオやテレビが登場した時にも適用できるものだった。
  
 では、メディアがテレビやPCやスマホから飛び出し、VRやARや自動運転の発展によって私たちの五感を覆いつくすようになった時、いったい何が起こるだろう? そういうことを考えたくなるのがこの本だ。 
 
 
 

『時間とテクノロジー』から、政治と権力について考える

 
 ところで『時間とテクノロジー』には、政治の話、言い換えると権力の話があまり登場しない。
 
 テクノロジーやメディアが変わると、感性や文化や知性が変わるだけでなく、政治や権力も変わるはずだ。というか、活版印刷があったから宗教改革が起こり、SNSがあったからアラブの春が起こったわけだから、佐々木さんの議論に付け足すかたちで、近未来の政治や権力について考えたい気持ちが高まってきた。
 
 すでに私たちは、テクノロジーやメディアの変化によって政治や権力が変わっていく最前線を生きている。
 
 そのはなはだしい例はアラブの春やアメリカ大統領選挙だが、さいきんの映画の大ヒットやタピオカミルクティーについてもそうだといえる。20世紀は雑誌やテレビといったマスメディアが流行を主導していて、主導していたからこそ、マスメディアは流行の分野にかんして強い政治力と権力を握っていた。ところがスマホやSNSが普及し、政治や権力の新しいフィールドになったことでマスメディアは流行の主導権を削がれてしまった。
 
 狭義の政治に囚われない限りにおいて、スマホやSNSの普及はへたな革命よりもよほど政治的で、よほど権力を動揺させる出来事だったのではないか?
 
 してみればtwitterやフェイスブックやgoogleは、情報産業の旗手であると同時に、ほんとうは、政治や権力を変えていく革新者でもあったのではないだろうか。
 

 
 『時間とテクノロジー』で引用されているローレンス・レッシグや、ミシェル・フーコーなどは、アーキテクチャ(空間設計)と政治・権力の関係に敏感だった。こんにちのプラットフォーマーの設計者たちが、レッシグやフーコーを知っていたかはわからない。が、知る知らないに関わらず、アーキテクチャを設計する者は政治や権力を水路づける者である側面を免れない。
 
 これまで、アーキテクチャの設計を政治・権力の問題として議論する人は限られていた。まあ実際、インターネットの片隅で産声をあげたばかりのプラットフォームの政治・権力など、深刻ぶって論じるものではなかっただろう。
 
 しかし、『時間とテクノロジー』に記されているような未来、それこそスマホやPCを覗いている時だけでなく、VRやARや自動運転をとおしてありとあらゆる行為や時間がアーキテクチャに包囲されるようになった、いわば「テクノロジーとメディアが遍在するようになった」未来において、それらの設計にかんする政治や権力の問題はスルーできるものだろうか。また、スルーして構わないものだろうか。
 
 自動車運転も家庭生活もプラットフォームに包囲され、パーソナライゼーションにさらされ、その影響下に置かれるようになると、私たちが自分で選ぶまでもなく、最適な移動ルート、最適なBGM、最適な食事がプラットフォームからリコメンドされるようになるだろう。『PSYCHO-PASS』のように、最適な人間関係や最適な仕事までプラットフォームが見繕ってくれるようになるかもしれない。というか、そうなるだろう。
 


『PSYCHO-PASS』の世界では、個人の選択の多くをシビュラシステムがリコメンドしてくれる。と同時に、シビュラシステムに逆らって生きることはきわめて難しい。

 
 そうやって色々なことが人間の自由選択ではなくなり、プラットフォームのお任せになっていくとしたら、政治の主体としての私たち、権力の主体としての私たちはどうなるのだろうか? そしてプラットフォームが握る権力は、どこまで大きくなるのだろう? 
 
 アーキテクチャがたくさん選択してくれるようになり、私たちが自由をアーキテクチャに委ねれば委ねるほど、依存すれば依存するほど、レッシグやフーコーが論じたタイプの権力の影響を、私たちはアーキテクチャから受けることになる。そのぶん私たちはアーキテクチャに権力を委ねるようになる、と言い換えることもできるだろう。
 
 そのほうが効率的で、快適で、正確な場面は増えていくに違いない。そのような委任生活は、少なくとも百年かそこらは悪いものではないかもしれない。
 
 だが、そうやってごく一握りの優れたアーキテクチャ設計者やAIがますます権力を委任されるようになり、一般大衆が彼らに委ね続けていれば、一般大衆は政治の主体でも権力の主体でもなくなってしまうだろう。一般大衆が主体であるという意識や、デモクラティックな思想までなくなってしまうかもしれない。
 
 そうなってしまった人間は、良く言えばお金持ちの家のペルシャ猫のようなもの、悪く言えば養鶏場のブロイラーのようなものではないかと私は心配になる。
 
 私たちが政治の主体や権力の主体としての"主権"を失った後、ペルシャ猫として愛玩されるのか、それともブロイラーとして何らかの目的のために生産され処分されるのかは、(そのときの主権者にとっては)たいした問題ではなくなる。
 
 ものすごく長い目でみれば──それこそ弥勒菩薩のスケールでみれば──人間が養鶏場のブロイラーになったとしても、それはそれで大した問題ではないのかもしれない。優れたAIがゆっくりと人間を飼い殺し、やがて緩慢に滅ぼしていったとしても、やはりたいした問題ではないのかもしれない。
 
 人間が滅んでも地球は回り続けるし、AIは自律し続けられる。いやAIが存続しようが停止しようが、それもたいした問題ではないのかもしれない。
 
 けれども今世紀に絞って考えるなら、アーキテクチャに私たちが包囲されていくにあたって、私たちの自由と表裏一体の政治や権力のゆくえが議論されなければならないと私は思うし、私たちの生活全体を覆っていくものの政治性や権力性に気を許してはいけないとも思う。
 
 さしあたり現在は、そうしたテクノロジーやアーキテクチャは私たちをますます快適で効率的な生活へと導いてくれるだろうし、そんなに神経質に構えなくていいよという人のほうが多いだろう。でも私は『時間とテクノロジー』を読んで神経質な気持ちになったので、これを書き留めておくことにした。
 
 他にもいろいろなインスピレーションを受け取ったけれども、それはまた後日ということで。
 
 

*1:というより、この場合、アバターと言うべきかもしれない