シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

十代や二十代は段取りができなくて、向こう見ずなものだったのでは?

 


 
 
デートに出かける前に相手の嗜好や都合をあらかじめ知っておく必要性は、社会人ならたいてい知っていると思う。
 
私は既婚者なので知らない相手とデートに行くことはないが、オフ会で見知らぬ人と飯を食ったり、新たに編集者さんと知り合ったりすることはよくあるので、十分にできている自信はないにせよ、相手の苦手や禁忌や地雷を避ける必要性はわかる。まったくもって「相手にアレルギーでもあったらどうすんだ」である。
 
しかし、これは社会経験を積み、社会性を身に付けた人間の発想だと思う。それか、もともと計画的に構える性格の人間の発想か。
 
二十代の頃の私は、こうしたことの重要性がまだ十分にわかっていなかった。事前のすり合わせをキチンとせず、思いつきで動いている部分が多かった。その結果、デートにせよ他の色々にせよ、不器用な失敗に終わることがいろいろあったけれども、そうやって痛い目をみなければ私の社会性は向上しなかった。
 
今にして思えば、二十代のうちからデート慣れしている人々は事前のすり合わせや事前の聞き取りがしっかりしていて、それでいて、自然な感じだったのではないかと思う。相手の都合や好みを事前に知るのは大切だが、ストレートにそれを出せば野暮くなる。かといって知らないままでゴーするのも危なっかしい。二十代あたりでモテる人には、その両立をやってのける器用さがあるのだろう。
 
でもって私の観測範囲には、こうした段取りがあまりできていない男性や女性が確かにいる。十代~二十代の社会経験が少なめの人々で、万事段取りができていなくて、向こう見ずで、不確実なことを、良かれと思ってやってしまう。
 
そういった危なっかしさを目撃してしまった時、年上としては「うわっ!危なっ!」と思ってしまうのだけど、その危なっかしさ、向こう見ずさは過去の自分自身もそうだったことを思えば、生まれながらに身に付けられるものとは思えない。
 
たとえば子ども同士が遊びに出かける約束をする際にも、段取りのきかなさ・向こう見ずさが垣間見えることがよくある。ということはだ、段取りをつけたり事前に相手の嗜好などを把握したりするのは、大抵の場合、訓練のたまものだったり一種のハビトゥスだったりするのではないかと私は思う。
 
 

段取りのきかなさ、向こう見ずさはどこまで許されるのか

 
そうしたことを踏まえ、考え込んでしまう。
 
子どもに対して、あるいは若者に対して、どこまで段取りのできなさ、向こう見ずさを許容できるだろう?
 
リスクを避けるにもベネフィットを得るにも、計画性の高さや用心深さ、事前聞き取りの巧みさがあったほうが良いのは間違いない。
 
ただ先にも触れたように、それは先天的に身に付くものではなく、失敗を繰り返して身に付けていくものだから、ある程度の失敗体験を積まなければ身に付けづらいだろう。
 
だとしたら、少なくとも若いうちのどこかまでは、段取りのできなさ、向こう見ずさに「OK」と言えなければならないのではないだろうか。
 
放課後に集まろうとする子ども、デートで向こう見ずなサプライズを計画してしまう若者は、ある程度まで、段取りのできなさや向こう見ずさに開かれていているべきだと思う。それは未来の社会性を育てるプロセスだと思われるからだ。
 
他方で私たちは、子どもや若者をリスク管理の目線や安全性の確保といった目線で眺めないわけにはいかない。十代~二十代のデートも段取りが良く、安全なものでなければならない、と思いたくなってしまう。少なくとも自分の子どもに対し、段取りができなくて危なっかしいデートをしてもらって構わないと思える親は少ないだろう。子ども自身にとっても、デートのお相手の人にも、それは危なっかしいから、段取り良く、相手の嗜好やアレルギーにも配慮したデートであって欲しいと願わずにられない。
 
さきほど私は、こうしたことは訓練のたまもの・ハビトゥスであると述べた。家庭でこういったことが早くから身に付く子どももいれば、家庭ではこういったことがなかなか身に付けられない子どももいるだろう。もちろん個人の適性もあるに違いない。不平等が、こんなところにも顔を覗かせている。
 
こうした諸々を踏まえると、本来私たちは段取りのきかなさ、向こう見ずさに対しておおらかでなければならないし、失敗をとおして学ぶ「あそび」を尊重しなければならないと思う。ところが、他方でリスク管理や安全・安心を求める気持ちがNoと言いたがっていて、一貫した態度がとりづらく、ダブルスタンダードに陥ってしまいそうだ。この相矛盾する課題とうまく折り合って、プロセスとして巧みに体験してもらうのが子育ての精髄(のひとつ)だろうけれど、なかなかに難しい。
 
 

歯止めのかからないゲームシステムや人を放置できる局面ではないと思う

 
『「みんなが課金しないところに課金してしまうプレイヤー」問題』が酷い - 空白雑記
 
 言及ありがとうございます。ブログ記事をとおして問題点を指摘し、意見を述べてくださるのは嬉しいことです。私が元記事を書いて、上掲リンク先のブログ記事があって、そこにまた返信記事を連ねる──そういう文章の応酬が第三者にも閲覧できるかたちで残されるのが、ブログにおける議論というものではないかと、私は考えています。
 
 まず、パズドラの最近の動向については、ほかの方からもご指摘があったように、私の知識不足はそのとおりです。ここは突っ込む人はいるだろうなと思いつつ、文章の大意として構わないだろうと考えパズドラに言及しました。惨たらしい課金に最近遭遇し、考えさせられたゲームがパズドラだったというのもあります。
 
 この点に関する反駁に身構えてもいたのですが「気持ち良くガチャが回せる」(概要)といった内容だったので、これをどう受け取るべきか当惑している部分はあります。とはいえパズドラが狙い撃ち型の課金ブラックホールが顕著ではなく、FGOのようにたくさんのプレイヤーにガチャ欲求を惹起する作品だとしたら、確かに、私の仮定でパズドラを挙げたのは拙かったと反省します。
 
 ご論の後半には、FGOの★5サーヴァントの宝具5について記されています。私は、高額を投じて宝具5にする人たちが下手くそとは思っていません。あれはファン表現の一種*1だったり、衝動だったり、フレンドシステムに関連した承認欲求の発露だったり、さまざまなものを反映した現象だ思っています。
 
 ただ、お金持ちのプレイヤーがポケットマネーの一部でガチャを回して宝具5を実践するのと、金銭的猶予の少ない人が「欲しい」という気持ちに引きずられるままそれを実践するのでは、同じ宝具5でもその意味合いは違います。本来ならきっちり金額制限を守るべき未成年までもが「欲しい」に負け、歯止めがきかなくなって親のクレカを使ってしまうような事例もまた違うでしょう。
 
 ランキング制度とその周辺の課金フィーチャーについても同様で、資産家のプレイヤーがポケットマネーを用いてランカーになれるシステムが、歯止めのきかない人が廃課金に陥り生活を破綻させやすいシステムでもあるとしたら、あるいは判断力に制約のある人や未成年にまで悪影響を及ぼすとしたら、そんな遊び方ができてしまうシステム、そういうプレイスタイルが許容される状況じたいも、ゲーム規制やゲーム障害周辺の議論の対象になってしまうのではないでしょうか。
 
 「幅広いプレイスタイルが守られること」自体は私も望ましいと思っています。ですがまさにその「幅広いプレイスタイル」が可能なシステムによって無視できない数のプレイヤーの生活や健康に悪影響を及ぼしていると判明してきた時、そのようなゲームデザインはいつまで・どこまで許されるものなのか?
 
 言い換えると、そのようなゲームデザインがまかり通り、そのようなゲームデザインが雛型たりえるようなゲームシーンを、ゲームシーンの外側の人々、たとえば消費者庁や厚労省や政治家といった制度や行政にかかわる人々が黙って眺めているものでしょうか。
 
 本日2月6日、厚労省はゲーム依存症対策関係者連絡会議を開催します。以前からゲーム障害・ゲーム依存関連については議論が進められてきましたが、ICD-11にゲーム障害が記載されて以降、関係機関の動きがとみに活発になっていると私は感じています。ICD-11に記載された診断基準をみる限り、ゲーム障害を適正に診断すれば臨床的に価値のある枠組みになるだろうと期待している一方、診断が一種のブームとなって過剰診断を招いたり、ゲームに関する世論を紛糾させたりする事態は回避していただきたい、とも願っています。
 
 ゲーム障害という診断基準が日本でも用いられるとしたら、長期間にわたって社会生活に悪影響を及ぼし、歯止めやコントロールがきかなくなっている事例をピックアップできるような運用と研究をお願いしたい、と私は望んでいます。ですが医療の側が出張るだけでは片手落ちで、そのような歯止めやコントロールがきかなくなっている事例が発生しにくいゲームデザインになるよう、業界の方は工夫する責を負っていると私は思います。
 
 kuuhaku2さんは、

 金の使い方は自由だ。高級時計に1000万出すことも、バーキンと呼ばれるカバンに200万使うことも、宝具を5にすることも、俺には等しくバカに思えるし、それを咎めるつもりはない。バカだなあと言うこともあるかもしれないが、「それを売ってるやつは悪徳企業」とは絶対に言わない。買いたいやつが買ってる以上詐欺ではないからだ。

 とおっしゃいます。しかし私は、そのような取引が買い手の歯止めやコントロールが難しい状態下で行われているとしたら、とりわけ行動経済学的手法を組み合わせて歯止めやコントロールを困難にしているゲームデザインシステムのもとで行われているとしたら、「現行制度ではセーフ」だとしても「褒められたものではない」と思わずにいられません。私がFGOに一番やられていた時期には、ガチャを回している時にむしろガチャに回されていると感じていたので、自由意志の建前を守りながらあの手この手でプレイヤーを動機づける現行のゲームデザインの威力には警戒の目を向けています。
 
 それと健康への悪影響が懸念される状況・状態も、詐欺か否かでは論じきれません。自由に金を使って良いとはいえ、健康に悪影響の出るゲームユースを長期間続けている事例がそれなり発生しているなら、健康を司る立場の人々が着眼し、対応を図るのは自然な流れです。たとえば、FGOのギルガメッシュやエレシュキガルの宝具を5にすること、それ自体にはなんの問題もありませんが、宝具を5にするプロセス(や、そのほかの様々なフィーチャー)が歯止めやコントロールを困難にして、その結果としてプレイヤーの行動や振る舞い、社会生活や社会適応に悪影響が出ている事例が次々に明るみになるようなら、ゲーム障害という医療のフレームワークにたいする社会的要請は高まっていくことでしょう。
 
 私は一人のゲーム愛好家として、ときにはプレイヤーは一心に自分の好きなゲームに打ち込む瞬間があるはずだし、あって良いとも思っています。とはいえ、そのような無我夢中のゲームライフの最中でさえ、社会生活や社会適応をだめにしてしまうところまで行ってしまってはいけないし、歯止めやコントロールが失われれば結局、愛好家としての幸福は長く続かず、ゲーム体験を豊かにすることも難しくなりましょう。
 
 歯止めやコントロールがきかないゲームユースが未成年者も含めて論点となり、厚労省が本腰を入れ始めている局面において、ゲームシステムもゲームスタイルも自由という一言で押し通すのは難しいのでは、と私は考えています。もちろん、そんなことはないと考える人もいらっしゃるでしょうし、それもひとつの見解です。いずれにせよ、これからディスカッションの季節が始まります。
 
 この問題にかんする私の問題意識や懸念をもう一度文章化でき、良かったです。 
 重ねて御礼申し上げるとともに、豊かなゲームカルチャーが守られ、ゲーム障害という新しいフレームワークがうまく機能するような未来を祈念し、本文の結びといたします。
 
 

*1:私はオタク界隈の"お布施"という風習が好きでしたし、そういった風習が宝具5に込められていることもあるとも思っています。他方、そういう"お布施"という風習をハックしてお金をもうける仕組みもあるだろうとも思っています。とりわけ据え置き機時代の"お布施"に比べ、色々と洗練されているご時世ですから。

「みんなが課金しないところに課金してしまうプレイヤー」問題

 
 
 
  
“ファミ通モバイルゲーム白書2020”最新市場動向が発表。国内年間課金売上トップは『FGO』。もっとも遊ばれたのは『ポケモンGO』 - ファミ通.com
 
 リンク先では、『ファミ通モバイルゲーム白書2020』にもとづいた2019年モバイルゲーム課金ランキング、それと総プレイ時間ランキングが紹介されている。ソーシャルゲームに費やされている金額と時間のスケールに気が遠くなりそうだ。
 
 ランキングを眺めると、興味深いことにも気づく。『Fate/Grand Order』は、総プレイ時間では6位だが課金売り上げでは1位となっている。他のゲームに比べて『Fate/Grand Order』はプレイ時間のわりに高額課金なゲーム、ということになろう。
 
 正反対に『ポケモンGO』や『ディズニーツムツム』はプレイヤーを長時間拘束するわりには課金額は少な目で済んでいる、ようにみえる。尤も、『ポケモンGO』のような位置情報ゲームの場合、交通費や飲食費、ときには被服費などもかさむので、ゲームそのものへの課金額だけでは計り知れない部分もあるが。
 
 『パズル&ドラゴンズ』(『パズドラ』)の課金売り上げが3位と善戦しているのも興味深かった。パズドラの近年の売り上げについては、以下のリンク先が参考になる。
 
FGO 711億円、モンスト 709億円、パズドラ 522億円、荒野行動 424億円、スマホゲーム課金売上ランキング(2019 日本国内)|アプリマーケティング研究所|note
 
 パズドラの2019年の課金売上は、522億円だという。2018年には487億円、2019年には473億円だったということは、ここに来て課金売上が増えているわけだ。
 
 パズドラはリリースから7年経っていて、このジャンルでは古株だ。ゲームが好きな人間なら、もうひととおり遊んでしまっているだろう。
 
 ではパズドラは、プレイヤーに課金させてやまないゲームなのか?
 
 私や私の周囲のパズドラプレイヤーをみる限りでは、そうとは思えない。
 
 序盤に課金をするメリットはあったと思う。神をはじめ、レア度の高いキャラクターを幾人か持っておけば中盤までの展開が楽になる。パズドラを遊び始めてまもないプレイヤーが許容範囲の課金をするのは、だから理解しやすいことだ。
 
 しかし中盤以降、レア度の高いキャラクターを課金してまで取りに行く必要性は下がったはずだ。パズドラの運営は、ガチャを回すためのアイテムはそれなり配ってくれるし、レベルを上げたり攻略したりしているうちにおのずと手駒が揃った、と記憶している。無課金系のキャラクターも十分役に立った。そもそも、レア度の高いキャラクターをやみくもに入手しても育成が追い付かない。育成スピードとレアキャラクターの入手率が釣り合ってきて、あまり困らなくなり、やがて私はプレイするのをやめた。
 
 周囲のプレイ状況をみても、ネット上の攻略情報をみても、パズドラは良心的なゲームではなかったのか? いずれ飽きそうなゲームデザインでもあり、手ごわい課金システムのゲームに比べれば与しやすいと思っていた。
 
 ところが2019年になってもパズドラで課金する人は絶えない。
 
 その後、私や私の周囲の基準でみれば信じられないパズドラの遊び方をする人、ゲームリテラシーや課金リテラシーが信じられない人が世の中に存在することを、私はオンラインとオフラインから知った。
  
 パズドラに限らず、ソーシャルゲームには「ほとんどの人が課金しない時に課金する人」や「ほとんどの人が課金しない対象・目的に課金する人」が一定数いる。課金する理由は、コレクション欲であることもあれば、ランキング欲によることもあれば、ゲーム内のリソースが管理できないこともある。が、とにかく大抵のプレイヤーが課金しないで済ませるところでも課金してしまう、ブレーキのきいていないプレイヤーが存在している。
 
 してみれば、この、「たいていのプレイヤーが課金しないところに課金してしまうプレイヤー」がソーシャルゲームの"上客"、ということになりそうだ。詐欺の世界では、詐欺に引っかかった人の人名リストが高値で取引されているという噂があるけれども、それなら「たいていのプレイヤーが課金しないで済ませるところでも課金してしまうプレイヤー」のリストも高値で取引されるのではないだろうか。
 
 ところがあまたのプレイヤーのうち、こうした"上客"はごく一部だから、"普通に"遊んでいるほとんどのプレイヤーは「このゲームは良心的」「このゲームはそれほど課金しなくて大丈夫」と判断する。
 
 ソーシャルゲームには、"普通に"遊んでいればたいした問題にならないけれども、"上客"からは徹底的にお金を搾り取るフィーチャーがちりばめられている(たとえばランキング制度など)。多くのソーシャルゲームのビジネス戦略には、"普通に"遊んでいるプレイヤーには良心的なイメージを植え付け、良心的という評判を維持しながら"上客"からはお金を搾り取る、そんな側面があったりするのではないだろうか。
 
 もし、ほとんどのプレイヤーには無害な課金フィーチャーが、ごく一部のプレイヤーにだけ凶暴な牙をむくとしたら……。
 
 この仮定に基づくなら、ソーシャルゲーム批判をする際に「"普通"に遊ぶプレイヤーがどれだけ課金しやすいか」、あるいは「"普通"のプレイヤーがどれだけ魅了されやすいか」といった視点で批判するだけでは足りない。たいていのプレイヤーは、より新しく、より面白いゲームに課金する傾向があり、その金額も身の丈をはみ出さない。そのようなプレイヤーの課金やプレイスタイルは、問題としては大きくない。
 
 本当に批判しなければならないのは、ほとんどのプレイヤーには無害だが"上客"からは徹底的に搾り取る、それでいて良心的なゲームという評判を維持できるような、そういった一連のカラクリのほうだったりしないだろうか。
 
 と同時に、そのような"上客"に相当する人々、ほとんどのプレイヤーが素通りするところで課金し、ほとんどのプレイヤーが自制するところでも自制できないプレイヤーの事情や病理性がリサーチされなければならないだろう。そうしたリサーチに際しては、たとえばゲーム障害のような医療的なフレームワークが功を奏して、大半のプレイヤーの遊び方から乖離した、いわばgame addiction(ゲーム依存)というよりgame abuse(ゲーム乱用)とでもいうべき状態の輪郭がとらえられるのでは、と期待している。
 
 ほとんどのプレイヤーが無事息災に遊んでいるゲームを、歯止めのきかない遊び方で遊んでしまう極一部のプレイヤーが存在し*1、そのことまで織り込み済みでゲームがデザインされているとしたら、そこは批判されてしかるべきだろうし、そのようになってしまう特異なプレイヤーや状況についてリサーチされなければならないだろう。
 
 私はゲーム愛好家なのでゲーム障害が過剰診断される未来は望んでいない。とはいえ、あまりにも不健全で歯止めのきかない、乱用という言葉がよく似合うゲームプレイが現実にあって、その不健全なゲームプレイを狙い撃ち、あてにするようなゲームデザインが野放しになっているとしたらまずいと思う。
 
 冒頭のとんでもない金額の課金ランキングのうち、「みんなが課金しないところに課金してしまうプレイヤー」が占めている割合はいったいどれぐらいだろうか?
 
 
 
 [関連]:「FGOガチャ売上4000億円突破 1DL辺り課金額は5万円」に震えが止まらないマスター達 - Togetter

*1:または、歯止めのきかない遊び方になってしまう事情や状態が存在し

ヒカキンを眺めていたら軽躁だらけの社会が恐くなった

 

【フォートナイト】ライトセーバーでついにビクトリーロイヤル!?【ヒカキンゲームズ】【スターウォーズ】
 
 先日、いろいろあってヒカキンのゲーム実況を久しぶりに眺めた。ヒカキンがフォートナイトを実況するさまは、滑らかで、楽しそうで、ゲーム内容をきちんと紹介もしていてとても良かった。
 
 ゲーム実況中のヒカキンは、テンションが高い。
 大げさに笑い、大げさに驚き、よく喋り、ポジティブだ。口調にもよどみがない。
 そのおかげで視聴しやすい、というのはあるだろう。
 
 でもこれって、まるで軽躁状態じゃないか?
 
 軽躁状態とは、双極性障害などの精神疾患でしばしばみられる、ハイテンションな精神状態だ。上機嫌で、頭の回転が速くなって、心身が好調だと感じることの多い反面、この軽躁状態の最中に迂闊な決定をしてしまい、金銭トラブルや人間関係のトラブルなどを起こす人も多い。だから精神医療の現場では軽躁状態はハイリスクな状態のひとつ、とみなされる。
 
 もちろんヒカキン自身は軽躁状態ではなく、ゲーム実況の振舞いは演技・演出に違いない。そもそも軽躁状態っぽいハイテンションでポジティブで滑らかなトークは、ゲーム実況者にほとんど共通しているじゃないか。少なくとも有名なゲーム実況者はだいたい軽躁的で、たとえば、お葬式のようなゲーム実況が人気を博することはまずない。
 
 ふと、違うものが見たくなってテレビをつけてみると、バラエティ番組が目に飛び込んできた。ああ、ここでも皆がハイテンションだ。お笑い芸人、クイズの司会者、ちょっと大げさなドラマの登場人物。いずれも軽躁状態っぽさがある。まじまじとバラエティ番組を眺めなおすと、出演者はもちろん演出やスタジオのつくりまで、やけにハイテンション、大げさなアクション、流れるようなトークに眩しさを感じてしまう。
 
 そういえば、ブログやツイッターの世界もたいがい軽躁状態めいている。少なくとも人気のブロガーやツイッタラーが鬱々としたことを書き綴っている、ということはない。いつもペチャクチャとお喋りで、しばしばハイテンションで、休むことを知らない。いや実際にはブロガーもツイッタラーも休んではいるのだけど、ペチャクチャとお喋りしている時間しかオンライン上には映らないから、軽躁状態のごとき投稿だけが私たちの目にうつる。そして人気を集める。
 
 だからこれは特定のメディアでだけみられるものではない。大抵のメディアで軽躁状態っぽい表現が演じられ、選ばれているのだろう。世間ではうつ状態やうつ病が増加の一途を辿る一方で、メディアはハイテンションの花園。これは、一体なんなのだろう?
 
 ずっと昔、精神科医の偉い先生がこのギャップに問題意識を向けているのを読んだ記憶があるけれど、古い邦語論文だったので今すぐ思い出すことはできない。……が、自治医科大学名誉教授の加藤敏先生のインタビュー記事に、以下のようなテキストを見かけた。
 

 ■背景に、「適応性軽躁状態」の常態化
 そういう人の睡眠レベルを調べてみると、まず睡眠時間が短い。短くても、昼間、疲れを知らず、いつも以上に声は大きくなり元気にたくさんの仕事をこなす、私はそれを「適応性の軽躁状態」と言っていますが、いまの社会は、働く人みんながそうなるように仕向けられているようなところがあるように思います。朝礼でお祭りのように元気な掛け声をかけて、テンションをあげる。そうして「適応性の軽躁状態」をつくって、仕事を乗り切っていくということがね。
 その仕事の速度についていける人はいいんだけども、ついていけない人が結局脱落し、気分の失調が生じる。昨今の日本の経済発展を支えているのは、働く人の適応性軽躁状態ではないのか、とさえ思うんです。
────社会の「適応性軽躁状態」がうつ病の病態を変えている より

 この「適応性軽躁状態」になぞらえるなら、ゲーム実況者も、バラエティ番組の出演者も、ブロガーやツイッタラーも、みんなメディアの状況に適応するために軽躁状態を演じている、と言えそうだ。
 
 みずからのテンションをコントロールし、特定のテンションでコンテンツを視聴者に提供しなければならないという意味では、ゲーム実況者やバラエティ番組の出演者はまさに「感情労働」に従事しているのであり、インテンシブに「感情労働」を繰り返せば、それこそうつ病や双極性障害といった気分障害を患うことになりかねない。
 
 

表現者のメンタル病み問題と、軽躁状態が生む鋭利なアウトプット

 
 古来、小説家や作曲家といった表現者のなかには、うつ病や双極性障害を経験する人が珍しくない。サブカルチャー領域でもそうした精神疾患を患い、なかには命を落とす人すら存在するから、軽躁状態そのものにも、軽躁状態を演じることにも、慎重であるべき、と私は言わなければならないのだろう。
 
 他方、まさに軽躁状態のさなかに鋭利な表現が生まれる、ということもよくある。
 先日、メンヘラJPの編集長である小山さんが、ツイッター上でやたら切れ味の良い『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』論をぶっていて、目を見張ったことがあった。
 



 
 ガンダムファンで無い人にはチンプンカンプンかもしれないが、けだし『機動戦士ガンダム』評論としては興味深いものではないだろうか。
 
 小山さん、やけにキレッキレだな……と思って自己紹介欄を確かめてみると、いつの間にか(軽躁状態)と記されている。ああ、だからキレッキレなんですか。
 
 私は、この(軽躁状態)にある種のシンパシーを感じる。というのも、私もたいがい”境界線上の人間”で、気分の波があり、気分が乗っている時には間違いなく文章に色艶が出るからだ。高揚している時にはレトリックや韻の運び方がはっきり向上する。文章の骨格が強靭になり、ふだんは絶対設計できないような大掛かりな原稿をデザインできたりもする。
 
 だからこれは深甚な問題だと思う。
 
 メンタルヘルスを守るという意味では、軽躁状態は避けるにこしたことはない。しかし創作のクオリティは気分によって間違いなく左右され、精神疾患によるものであれ、適応性の一時的なコンディションによるものであれ、気分によって創作が介添えされることは少なくない。
 
 いや、創作だけではあるまい。営業のサラリーマンも、プログラマも、プロスポーツ選手だって、気分によってアウトプットが介添えされることは多々あるだろうし、まただからこそ、さまざまな職業において適応性軽躁状態とでもいうべき現れが遍在しているのだろう。
 
 これを書いているうちに、ヒカキンの明るく楽しいゲーム実況が、私たちが社会のなかで暗に期待し期待されているものを象徴しているように思えてきて、引きこもりたくなってきた。
 
 ヒカキンや、そのほかのゲーム実況の人びとにおいては、オフタイムの時は是非ゆったりと過ごしていただきたいとも思った。ハイテンションな時間と同じぐらい、人はローテンションな時間を必要とするものだと、私は思うからだ。
 
僕の仕事は YouTube

僕の仕事は YouTube

  • 作者:HIKAKIN
  • 出版社/メーカー: 主婦と生活社
  • 発売日: 2013/07/19
  • メディア: 単行本
 
 

あなたの文章を真剣に読んでいた人は、今はガチャを回すのに忙しい

 (※この文章は、はてなダイアリー~はてなブログの昔話、それも個人への返信なので、そのあたりにご関心のない人は読まないほうがいいと思います※)
 
「ここに書けば誰かが真剣に読んでくれる」という期待感が今のはてなにはない - あままこのブログ
 
昔、はてなダイアリーをはじめとするブログ界隈の一角には、真剣に文章を読んでくれる人がたくさんいたように思う。新しいブログ記事を書くたびに読んでもらえるだけでなく、過去ログを振り返ってくれる人、過去ログを読んだうえでブロガーの一人一人の性質を憶えておいてくれる人がいた。
 
そのことをノスタルジックに「あの頃は良かった」と思うことはたやすい。実際、楽しいひとときには違いなかったし、十年前に懐かしいと思えるようなひとときを当時のブロガーたちが創っていたことに疑問は無い。
 
関連:「十年後に懐かしいと思える今を、今のお前が創るんだ!」 - シロクマの屑籠
 
ここから、インターネットの変容とか、動画の台頭とか、スケールの大きな話は幾らでもできるように思う。でも、今日はもっと間近な、あの頃に真剣に文章を読んでくれていた具体的な一人一人、はてなダイアリーやはてなブックマークをとおしてブログ界を盛り上げていた人々のことを思い出してみたいと思う。
 
 

あの人はガチャを回すのに忙しく、あの人は登山に忙しい

 
インターネットの人の集まりは自然発生して自然解体していく。みんなが自由意志に基づいてひとつの場に集まり、強制力が無く、それぞれの人生を抱えて生きているのだから、それで構わないのだと思う。
 
だからブログの文章を真剣に読みあっていた往時の人々が、今はぜんぜん違うところで違ったことをしていることに、一抹の寂しさはあっても違和感はないし、違和感を持つべきではないのだろう。
 
具体的なハンドルネーム(やはてなid)を出さない範囲で、思い出話を書いてみる。
 
以前はみずからブログを書き、はてなブックマークの常連中の常連だったある人は、今はソーシャルゲームのガチャを回すのに忙しい。いや、ソーシャルゲームとはガチャを回す刹那の合間に長時間のマネジメントを伴うものだから、「彼はガチャに可処分所得を賭け、マネジメントに可処分時間を賭けている」と言い直すべきかもしれない。
 
また別のブロガーだったある人は、昔はサブカルチャーやネットカルチャーにも詳しい人物としてならしたものだが、今は自転車に乗ること・山に登ることに余暇を回している。オンラインからオフラインへ軸足を移したことで、きっと今までよりも健康・健全になり、あれはあれでうらやましいことだな、と思ったりする。
 
別のある人はtwitterで終わりのない言い争いの渦のなかでグルグル回転し続けているし、別のある人は作家として、あるいはライターとして商業的な文章を書き続けている。
 
もちろんインターネット上で消息が確認できなくなってしまった人も少なくない。
 
今にして思えば、たくさんの人がブログを書き合い、その文章を真剣に読みあっていたあの季節は奇跡のようなワンシーズンだったのだと思う。インターネットの普及期から現在にいたる時間軸のなかで、たくさんの人がブログを真剣に読みあっていた、奇跡のワンシーズンがあった。もちろんその少し前にはテキストサイトを真剣に読みあっていた、似て非なる奇跡のワンシーズンがあったから、長さとしては十年前後の長さはあったのかもしれない。
 
そこで出会った人たちのことを私は覚えているし、おそらくamamakoさんも覚えているだろう。それでいいのだと思う。栄枯盛衰の習わしを踏まえるなら、良いと思えるシーズンが十年前後も続いたなら、ましてや、それがサブカルチャーに属するムーブメントだとしたら、それは上出来だったのだと思う。
 
あの頃、拙くても真剣に書かれたたくさんの文章を、私たちは読んでいたし書いていた。ところどころにプロやセミプロの姿が混じっていたのも良かったのだと思う。そうやって成立していたブロゴスフィアという共同幻想、はてな村という共同幻想を私は懐かしく思う。
 
皆、それぞれの人生があり、それぞれに忙しく過ごしている。私はまだブログをこうやって書いているので、かつての共同幻想の墓守のような気分になることもある。
 
お互いが文章を真剣に読んでいた時代を取り戻すのは不可能だとしても、ひとりの墓守としては、そういうワンシーズンがあったことをよく覚えておき、語り継いでいきたいと思う。楽しいことも楽しくないこともあったけれども、間違いなくそれはインターネットの、サブカルチャーの一風景だったのだから。現在のインターネットとの比較対象としても、それは折に触れて思い出されて良いものではないかと思う。
 
今はガチャを回すのに忙しい人にも、登山の準備に忙しい人にも、ときどき思い出していただきたい。たくさんの人が一生懸命にブログに思いのたけを記し、お互いに真剣に読みあっていたあの時代のことを。功罪はあったにせよ、文章の巧拙や売り上げの大小だけでなく、思い入れの大きさやその人自身の文脈までもが注目されていたあの時代を、私は懐かしいと思う。