シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「大人だって生きていてうれしい」とちゃんと伝わっているのか

 
 子どもが「将来やりたい職業」や「大きくなったらやりたいこと」を問われるのをしばしば目にする。
 
 将来を聞かれても、社会にどんな仕事が存在し、どれぐらい遣り甲斐があるのかを子どもはあまり知らない。いや、大人だって案外知らなかったりするのだから、きちんと答えるのは難しそうだ。
 
 うちの子どもの場合、はじめは日常生活やテレビで見かけた職業を「将来やりたいこと」として答えていた。しかし少しモノがわかるようになってからは「テンプレを書こうと思えば書けるが実際にはわからない」と答えるようになった。
  
 精神科医として働く私の姿は、子どもの目には「将来やりたい職業」とうつらないらしい。親が働いている真っ最中の様子を知る機会が限られているのだから、無理もないことだろう。そのくせ帰宅した後の疲れた姿はよく見知っている。
 
 これは他の職業にも言えることで、子どもは大人たちの働く様子を片鱗しか知ることができない。駅員も、プログラマも、Youtuberも、子どもは目に付く側面しか知らないし、知りようもない。
 
 職業の楽しそうな部分だけに目を向けて「Youtuberになりたい」と志望するのは、単純だがわかりやすい。しかし子どもがちょっと単純ではなくなった後、つまり、職業は楽しそうな部分だけで判断できないと理解できるようになった後は、Youtuberはもちろん、ほかのありとあらゆる職業も謎めいていて、なりたいと思うに値するものなのか、自分に適性があるものなのか、とたんにわからなくなる。
 
 「自分たちが見ている職業は、どれもその職業全体のほんの一部分でしかない」と理解できるようになった子どもが、その不可視性を踏まえたうえで「将来やりたい職業がわからない」と答えるのは健全でまっとうなことだろう。
 
 子どもは学校へ、大人は職場へ通うようになって久しい。大人と子どもの日常が、時間的・空間的に切り分けられるようになって久しいということでもある。にも拘わらず、大人が子どもにこうやって尋ねる慣習が続いているものだから、子どもはテンプレ的な回答を身に付けていく。もしかしたら、子どもにテンプレ的回答をつくらせること自体、学習のうちなのかもしれないが。
 
 

せめて「大人だって生きていてうれしい」と伝わって欲しい

 
 ところで、親をはじめとする大人たちの姿をみて、今の子どもは「大人だって生きていてうれしい」というメッセージを受け取っているだろうか。
 
 我が身を振り返る。
 まあ……疲れている日があっても、生きていてうれしいという感じに子どもの前で振る舞えているつもりではある。ただ、実際そのように伝わっているのかは疑わしい。
 
 「大人ってのは大変なことばかりで、子どものほうが楽しいんじゃないか」……と、子どもが思っているようにみえる。
 
 私が子どもだった頃、世間には「成熟拒否する子ども」というフレーズがあった。教育研究者や精神科医もそういうことを真面目に論じていたと記憶している。よその子どもはどうだったかは知らないが、少なくとも私は、大人になりたくないと実際に思っていた。
 
 そんな私の子どもだから、遺伝的に似たようなことを考えやすいのかもしれない。しかし。
 
 しかしいまどきの働く大人・家で過ごす大人・メディアにうつる大人は、いまどきの子どもからみて実際楽しそうにみえるものだろうか? 「大人だって生きていてうれしい」という背中を暗に示せているだろうか。重荷にあえぎ、酒や娯楽でどうにか日々の苦痛をしのいでいる存在にみえたりしないだろうか。
 
 ニコニコしている大人、働き甲斐を口にする大人の姿は、メディア上にはそれなり目に付くものではある。他方、親が疲れてかえってくるさまや、満員電車に押されるさまも目に入ってくる。そうやって大人の陰と陽、乖離した姿を垣間見た総体として、世の子どもたちはどのようなメッセージを受け取り、何を考えて過ごすのだろうか。
 

 
 内閣府「平成26年 子ども白書」所収の「今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの~」を眺めると、諸外国の子どもに比べ、日本の子どもは挑戦心が乏しく、自分に満足しておらず、消極的で、憂鬱で、未来に希望を持てていない、とされている。
 
 この統計結果を額面通りに受け取るなら、日本の子どもは諸外国の子どもに比べてネガティブに世界をイメージしていることになるし、そのイメージの一端は、大人たちの背中をみて学んだものでもあろう。
 
 先にも触れたように、子どもが実際に目にする「大人たちと、大人たちの営む社会」は、大人と子供が空間的・時間的に切り分けられたうえで垣間見るものだから、これは大人自身の問題であると同時に、大人と子どもの接点の問題、もったいつけた言い方をすれば(空間も含めた)メディアの問題でもある。
 
 「大人だって生きていてうれしい」というメッセージは、今、どこでどれだけ子どもに伝わっているのだろう? 伝えようとしていても伝わっていないとしたら、少し悲しいし、きちんと伝わるよう、工夫をしなければと思ったりする。
 
 

流星になってみたい気持ちになっている

 
今まで最も役に立ったアドバイスは、「なりふり構わず生き延びろ」。 | Books&Apps
 
リンク先は、books&appsのティネクト株式会社を創った安達さんの記事だ。技術やノウハウを集積するにも、チャンスを掴むにも、時間がかかることを恐れてはいけない。そのためにも生存し続けなければならないよね、という指摘はそのとおりだと思う。
 
短時間では技術やノウハウは集積しない。短時間であきらめてしまえばそこで試合終了だ。ということは、金銭的・心理的・肉体的事情によって短時間しかもたない人はチャンスを拾いにくい、とも考えられる。タフでなければチャンスは掴みにくい。
 
私も長くブログを書き続けたことで、私なりの、ささやかなチャンスを掴んだと思う。2006年頃の私の野心は「オタクの、ひいては現代人の自己愛を書籍にまとめたい」だったが、実現したのは5年後だった。2年か3年であきらめていたら、きっと現在の私はなかっただろう。
 
 

が、走り抜けてみたい気持ちになっている

 
だから私は、時間をかけること・生存しつづけることの重要性を身をもって知っている、つもりだ。しかし今はそういう気分ではない。持久戦の構えをとるのをやめて、ここらで全力勝負、走り抜けてみたい。
 
人には、ある時機だからできること・似合うことがあると、私は思う。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

  • 作者:熊代亨
  • 出版社/メーカー: イースト・プレス
  • 発売日: 2018/02/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
たとえば最近、『若者をやめて、大人を始める』が重版になった。42歳の時に書いた本だが、現在の私の心は、もう、この本の境地から遠ざかっている。
 
42歳の時に書かなかったら、『若者をやめて、大人を始める』はきっと書けなかっただろう。「若者意識の出口を自覚し、中年になって間もない境地」に最適化された内容を書けるのは、まさにその時しかない。
 
今の私は、四十代のうちしかできなそうなことをやっておきたい、と思っている。世の中のいろいろな場所を巡って、いろいろな人に出会い続けながら社会のメカニズムについて考える──そういう日々が五十代以降も続けられる自信が無い。そもそも私はそれほど健康に恵まれていないから、あとどれぐらい考えたり書いたりできるかわかったものではない。
 
やれることはやれる時に、悔いが残らぬようやっておきたい。
 
三十代の頃にも似たようなことはやろうとしていたけれども、当時は今よりずっと非力だった。
 
「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

  • 作者:熊代亨
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2014/03/28
  • メディア: Kindle版
 
当時、講談社の編集者さんは無名な私を拾い上げ、大きなチャンスとアドバイスを与えてくださった。ところが私に力が無かったから、この本に強い伸びしろを与えることができなかった。
 
それから7年。いわば冒頭リンク先の提言どおりに、私はずっと本を作り続けてノウハウを蓄積しながら、知識や知見も集め続けてきた。今の私は三十代の頃とは違う。今の私にどんな社会の見取り図が描けるのだろう? どこまでジャンプできるのだろう?
 
 

流星になってみたいんだ

 
ルパン三世のテーマには、「男には 自分の世界がある たとえるなら空をかける 一筋の流れ星」というフレーズがあるが、そうだ、私は流星になってみたいのだと思う。
 
空をかけて、自分の世界を描いてみたい。
 
これまでのブロガーとしての日々・書籍づくりの日々は、それはそれで私の血肉になってきたけれども、永遠にこのまま続けられるものでもあるまい。その次を見据えるアクションが、今の私には必要だ。
 
南無八幡大菩薩、どうか私に流星になる力を。
 
 

映画『パラサイト』にみる、におい・ハビトゥス・階層

 
www.parasite-mv.jp
 
久しぶりに韓国映画を見てきた。
 
『パラサイト 半地下の家族』が私の周囲で話題になっていたのと、最近読んだ『韓国 行き過ぎた資本主義』という本にも半地下住宅のことが書かれていて、気になったからだ。
 

韓国 行き過ぎた資本主義 「無限競争社会」の苦悩 (講談社現代新書)

韓国 行き過ぎた資本主義 「無限競争社会」の苦悩 (講談社現代新書)

  • 作者:金 敬哲
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/11/13
  • メディア: 新書
 
『韓国 行き過ぎた資本主義』は、韓国社会の悪いところをちょっと大げさに記しているのではないか、と私は思っていたし、たぶん、今でもそう思いたがっている。ただ、そこに記されている統計的な傾向、たとえば韓国が超競争社会であること、社会保障が日本に比べて整備が遅れていること、世代間格差や世帯間格差が大問題になっていることは、あちこちで報じられている。たとえば、
 
www.ifengweekly.com
 
外国のメディアでも、韓国社会の困難な状況はやはり報じられていた。
 
 

『パラサイト』で描かれた「におい」(たぶんネタバレ無し)

 
予想どおり、『パラサイト』は韓国社会の格差に思いをはせずにいられない作品だった。これが本当に公正な社会の姿なのか、あるべき社会の姿なのか、『パラサイト』を見て考えずに済ませられる人はあまりいないだろう。
 
映画館には「ネタバレ会話厳禁」と張り紙がしてあったし、たぶんネタバレしないほうが楽しめると思うので、作品のメインストーリーについては触れない。
 
それでも、半地下住宅に住む貧乏一家と、山の手の豪邸に住む金持ち一家の「におい」にまつわる話はセーフではないかと思い、「におい」とその周辺の「ハビトゥス」について記す。
 
冒頭、半地下に住む貧乏一家は、路上で立小便する酔漢に悩まされ、路上に散布される消毒剤にせき込む。半地下住宅は足元の高さに窓があるため、窓を開けるといろいろな路上の災厄が入ってくる。なら、窓を閉めればいいかというと、半地下はジメジメしていてカビ臭いからそうもいかない。住まいとして到底満足できるものではないけれども、高い家賃を払えない貧乏一家は半地下に住まざるを得ない。
 

韓国映画パラサイトにでる半地下は住めるの?
 
ちょうど、韓国じんのすけさんというYoutuberが半地下について語っている動画を見たけれども、なかなか大変そうだ。
 
半地下に住み続けていれば、洗濯物は生乾きになってしまう。そのうえ住まいがカビ臭ければ、臭いが身体と衣服に染みついてしまうだろう。長いこと半地下に暮らしている貧乏一家の面々は、そのことにはじめ気づかない。
 
いっぽう金持ち一家は、カビ臭さを身にまとった貧乏一家の「におい」に気付く。だが、半地下の暮らしを知らない金持ち一家は、その「におい」の正体を見抜くことができない。作中のセリフを正確に思い出すことはできないが、確か、「我慢ならないにおい」「何度も絞った布巾のような」「地下鉄利用者のにおい」などと言っていたと記憶している。
 
金持ち一家は、その「におい」を良くないものとみなしているが、それがどういった境遇の産物かは知らないし、そのせいか、きわめてカジュアルに不快がっている。
 
私の記憶では、金持ち一家が貧乏一家のメンバーに、面と向かって「におい」が不快だと言い放った場面は無かったように思う。それでも「におい」をめぐる感覚の不一致が、金持ち一家と貧乏一家の間に埋めがたい溝をつくっているように見えてならなかった。
 
 

「におい」や「ハビトゥス」の階層化

 
してみれば、半地下という住まいは「におい」を「階層化」してしまう社会装置、ということになる。
 
快適で清潔な住まいに暮らす金持ち一家は、カビくさい「におい」とは縁のない生活をしているし、それゆえ「におい」には敏感だ。そこまで富裕でなくとも、日当たりの良い場所で生活している中産階級も「におい」とは縁のない生活ができるし、同じく「におい」に敏感になれるだろう。
 
ところが半地下に住んでいれば「におい」が生活に、身体に染みついてしまうし、自身の「におい」にも敏感になれない。誰かが自分を「におう」と言っているのを耳にした時はじめて、自分自身の「におい」に気付き、それが半地下という住まいに由来していること、もっと言えば貧困に由来していることを自覚させられる。
 
もし、「におい」が無精の所産なら、言い訳の余地もあろうし、改善の余地もあろう。しかし住まいに由来し、貧困に由来していると自覚した時、「におい」を巡るギャップはのっぴきならないものになる。
 
「階層化」という視点でみるなら、『パラサイト』の金持ち一家のさまざまな性質も階層を象徴していた。彼らは穏やかな言葉遣いで、「とても素直ないい人」で、「だまされやすい人」だった。わかりやすい金ピカ趣味によって階層が露わになるだけでなく、身のこなし、考え方、趣味、性格傾向といったハビトゥスまでもが階層をにじませていた。
 
貧乏一家のメンバーは、そうした階層によるハビトゥスの違いをはっきりと読み取っていたが、「におい」と同様、金持ち一家はあまり気付いていない様子だった──このハビトゥスを巡るギャップも、『パラサイト』は高い解像度で描いていた。
 
 

このギャップは日本にも潜在している

 
日本に引き寄せて考えた時、『パラサイト』で描かれていた「におい」や「ハビトゥス」を巡るギャップは目立たないように思える。1980年代にデオドラント革命が起こった後、日本には無臭無香料な生活習慣が定着したし、IMF通貨危機を経てバトルロワイヤル状態に突入した韓国社会に比べれば、生活保障もマトモだし、格差や階層にもとづくギャップは表面化しにくいかもしれない。
 
それでも時折、ギョッとするような状況に出会うことはある。
 
ふだんは穏健な意見を言う、おそらく良識的と思われる人が、こと「におい」や「ハビトゥス」にかかわる話題になったとたん、排除の意志表明をしたり露骨な嫌悪を浮かべたりする、そういう瞬間は珍しくない。ふだんから排他的で良識を欠いている人なら驚きもしないが、いかにも良識的な人の口から排除や嫌悪がナチュラルに漏れ出ると、それが殊更キツく感じられたりする。ところが「におい」や「ハビトゥス」についての感覚はあまりにも当たり前になっているから、自覚しようと思ってもそう簡単にはいかない。
 
そういう、当人には簡単には自覚できないギャップと、それに関する排除や嫌悪のしぐさが「におい」や「ハビトゥス」の領域に潜在していること自体は、日本社会も同じだと私は思う。
 
『パラサイト』は実に盛りだくさんな作品なので、こうした「におい」や「ハビトゥス」の差異は小道具のひとつにすぎない。が、これならネタバレを避けられるし、これもこれでのっぴきならない問題系なのでブログに書き残すことにした。
 
関心を持った人は、ぜひ映画館へ行って実物の作品をご覧になっていただきたい。とにかく、『パラサイト』はのっぴきならないものを描いた作品に違いないから。
 
 

令和の絶対国防圏

 

 
 令和の絶対国防圏。
 
 もう、タイトルだけで言い切ってしまったような気がするが、令和時代の日本は、絶対国防圏の頃の日本になんだか似ていると思う。
 
 絶対国防圏とは、アメリカの反攻作戦を受けて1943年9月の御前会議で決まった「絶対に守るべき」「ここが破れたら敗戦確定」とみなされた防衛ラインのことだ。
 
 しかし上の地図をみていただいてもわかるように、この絶対国防圏、えらく範囲が広い。絶対国防圏が本土からみて南南東の方向に大きく張り出しているのは、ここにカロリン諸島などが含まれるためだが、こんなに広い範囲を絶対国防するのはかなり無理がある。
 

昭和の歴史〈7〉太平洋戦争 (小学館ライブラリー)

昭和の歴史〈7〉太平洋戦争 (小学館ライブラリー)

  • 作者:木坂 順一郎
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1994/09
  • メディア: 新書
 
 小学館『昭和の歴史7 太平洋戦争』では、絶対国防圏を決定する御前会議について、以下のように記している。
 

けっきょく陸軍の「絶対国防圏」思想と海軍の前方決戦主義という戦略構想の不一致をかかえたまま、九月三〇日の御前会議でつぎのような「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定された。
(中略)
 そのため「絶対国防圏」の東側地域に展開していた約三〇万の陸海軍部隊は、置き去りにされ、やがて各地で守備隊玉砕の悲劇があいつぐ素地がつくられた。しかもこの御前会議では、「絶対確保圏を確保する自信があるのか」という原嘉道枢密院議長のきびしい質問にたいし、永野軍令部総長が「絶対確保の決意あるも勝敗は時の運である。……今後どうなるか判らぬ。戦局の前途を確言することは出来ぬ」と答えたため議場がにわかに緊張し、東条首相と杉山参謀総長があわてて打ち消すという一幕がみられた。軍部の最高指導者の一部は、戦局の見通しに自信をうしないはじめていた。

 
 絶対国防圏と名付けたものの、指導部もこれを守り切る自信が無かったようだ。そのうえ海軍は絶対国防圏の外側に固執し、サイパンやグアムの防衛にあまり力を入れていなかった。
 
 あれもこれも守りたい・どれも捨てられない意思決定の結果として、絶対国防圏は絵に描いた餅のような内容になり、アメリカ軍という現実によって粉砕されてしまった。
 
 

令和の絶対国防圏を考えよう

 
 振り返って、令和二年。
 
 平和憲法のおかげで太平の世を謳歌してきた日本国も、いつの間にやら斜陽のきざし。戦争をしていないはずなのに戦争をしているのと同じぐらいの人口が毎年減り続けている。国の借金も戦中に匹敵するスケールまで積み上がり、「子どもや孫のお金を前借りして国の制度が成り立っているも同然」の状態が続いている。
 
 実のところ、絶対国防圏が定められた頃とそれほど変わらないレベルの国難に直面しているのではないか?
 
 地図のうえでは絶対国防圏のラインが引けなくても、私たちの暮らしにはそれに相当するラインがある。
 
 
 医療や福祉を守らなければならない。
 雇用や経済を守らなければならない。
 世代再生産を守らなければならない。
 教育や科学を守らなければならない。
 安全や安心を守らなければならない。
 便利さや快適さを守らなければならない。
 等々。
 
 太平洋戦争中の日本軍がたくさんの守らなければならないものを抱えていたのと同様に、令和時代の私たちの暮らしにはたくさんの守らなければならないものがある。毎年の予算案のやりとりと国債発行額が象徴しているように、どれも大切なものだから、どれも守っていかなければならないと、指導者は考えている。日本は民主主義の国なので、指導者がそう考えているということは、有権者もおおむねそのように考えているということだろう。
 
 いろいろなものが下り坂になっていくなか、あれもこれも守らなければならないと思っている私たちは、大東亜共栄圏という絵に描いた餅を描いていた人々を他人事として構わないものだろうか。
 
 令和の絶対国防圏は、軍艦や軍人によって守られるものではなく、有権者の政治活動をとおして守られるものだ。
 
 では、いったいどこをどれぐらいの優先度で守り、どこの優先度を下げるのかと問われた時、指導者や有権者に、何かの優先度を下げるような政を行い、実践してみせる力があるのだろうか?
 


 
 最近の経済動向や出生率、オリンピック後の見通しについての分析や報告が楽観的であるさまを、ときにインターネットの人々は「大本営発表」と揶揄する。
 
 とはいえ、「大本営発表」を揶揄する私たちも、金融庁から老後資金について報告があれば「老後二千万円問題」と大騒ぎするように、現実を直視することに慣れているわけではない。
 
 「老後二千万円問題」が象徴していたように、たぶん私たちは不確かな未来を直視すると色めき立ってしまう。「大本営発表」を揶揄している一方で、どこかで「大本営発表」に守られている。そして令和の絶対国防圏がなんとなく守られればいいなと、なんとなく思っている。
 
 戦中、太平洋戦争を終える政治決断にたどり着く際には、絶対国防圏が破られるだけでは足りなかった。それでも玉音放送と無条件降伏によって戦争は終わった。なぜなら、アメリカという他国を相手取った戦争だったからだ。
 
 対して、他国と戦争しているわけではない令和の日本には、玉音放送や無条件降伏に相当するピリオドが見当たらない。
 
 今、私たちが死守しなければならないと思っているものが、少子高齢化や国力の衰退によって守りきれなくなるとしたら、令和の絶対国防圏は破れる、と思っておかなければならないだろう。しかし太平洋戦争と違って、これに終わりは見当たらない。
 
 令和時代は、そのような、私たちが絶対に守らなければならないと思っているものが、時間とともにだんだん守られなくなっていくプロセスになるのかもしれない。太平洋戦争の頃、何かを選ぶと同時に何かをあきらめなければならない政治が必要になった時、日本ではそれがうまくできなかった。今もそうかもしれない。だとしたら。
 
 
 [関連]: 
 
 

「不快な奴をブロックして構わない」社会と「アライさん」界隈

 
個人の幸福は「お金」ではなく「不快なやつは全員ブロック」で実現される。 | Books&Apps
 
上掲リンク先は賛否両論のありそうな内容だが、読んで自分の考えを練るのに向いていると思う。これを読み、2019年にtwitter上で湧き出した匿名の「アライさん」界隈のことを私は思い出した。
 
「アライさん」界隈とは、2019年の春ごろにtwitter上に無数に現れた、「○○なアライさん」を名乗る匿名アカウント群だ。アニメ『けものフレンズ』に登場する、ちょっと不器用なアライさんというキャラのアイコンや語り口を借りている。
 

 
ねとらぼの紹介記事では、アライさんを以下のように記している。
 

・借金の返済に苦しむアライさん
・ギャンブルがやめられないアライさん
・大学を中退したアライさん
・薬物依存のアライさん
・性風俗店で働くアライさん etc...
 Twitterにおけるアライさん界隈(かいわい)は、とにかく何らかの困難を抱えている傾向が極めて強い。これは原作のちょっと暴走気味だが元気で明るいアライさん像とはかなりの距離がある。当たり前だが、原作のアライさんは借金にもギャンブルにも薬物にも苦しんでいない。「けものフレンズ」は社会の暗部をえぐるような作風のアニメではない。

 
2020年になっても、アライさんの様子はほとんど変わらない。アライさんの姿を借りた匿名アカウントたちは、それぞれ、日常生活では吐露しづらい内心を書き綴っている。
 
そのことから考えるに、アライさんを名乗る匿名アカウントの筆者たちは、日常生活のなかではそうした内心を十分に吐き出せないのだろう。FacebookやLINEの、日常に紐付けられやすいアカウントにもそういうことは簡単には書けない。実生活で簡単に吐露できることなら、わざわざアライさんのアイコンなど借りる必要など無い。
 
 

「不快な奴をブロックして構わない」社会=「不快な言動が禁じられた」社会

 
こうしたアライさんの境遇を踏まえたうえで、「不快な奴をブロックして構わない」社会について考えてみる。
 
冒頭リンク先で高須賀さんは、ちょっと挑発的に「多様性とはいうけれど、付き合いたい人間とだけ付き合ったほうが幸福になれるのでは?」と問いかけている。
 
現代社会は、多様性を許容しあうことで成り立っている、といわれている。少なくとも社会には、多種多様な価値観や習慣の人々が存在していて、たとえば東京のような大都市には本当にいろいろな人々が存在し、それぞれ暮らしているのがみてとれる。
 
その一方、私たちひとりひとりには人間関係を選択する自由があり、お互いを心地よいと感じる人、気安く付き合えると感じる人同士がお互いを選び合う。そうした選別や選好の結果、社会全体としては多様性が保たれていても、個々人のライフスタイルは多様性を欠いていることがしばしばある。
 
たとえば年収1500万円のホワイトカラーな会社員が、日経新聞を読むような価値観や習慣を持った同僚に囲まれ、似た者同士のような友人や家族に囲まれて暮らしているとしても、おかしなことではない。
 
高須賀さんはそうした実生活のありようを、ちょっときわどく、以下のように綴ってみせる。
 

気の合うパートナーと家庭を築き、人間関係が安定したリベラルな職場で働き、週末は共通の趣味を持つ友人と過ごす。
SNSをやってるのなら、不快な話題を垂れ流す人は全員ブロックすればいい。
不快な話題を垂れ流す人は、あなたを不快に着目させる悪者である。

 
このような選別や選好に基づいたライフスタイルを、まったく多様性が乏しいと腐すのはたやすい。
しかし人間関係が自由選択となった現代社会のなかで、人間関係の選別や選好を行っていない人間が、たとえば東京に、たとえばインターネットに、いったいどれだけ存在するだろう?
 
もちろん程度問題ではあるのだけど。
 
それでも人間関係が自由選択である限り、私たちはどこかで自分たちにとって好ましい相手と付き合おうとし、どこかで不快な相手を敬遠せずにはいられない。コミュニケーションのコストやリスクをできるだけ減らし、コミュニケーションのメリットをできるだけ増やしたいと合理的に考えれば考えるほど、コミュニケーションの対象を選ばずにいられなくなってしまう。
 
SNSにおけるブロックは、そうした選別のなかでは一番わかりやすい。だが現実の人間関係の選別や選好は、ブロックほど明瞭ではない。明瞭ではないからこそ、誰が選ばれ、誰が敬遠されるのかの問題は面倒で、難しい。 
 
私たちの人間関係は自由選択になった。
だが、自由だけがもたらされたわけではない。
同じように他人も人間関係を選択・選好するのだから、私たちは他人に選ばれなければならなくなった。
 
他人に選ばれるよう、他人に敬遠されないよう、意識すればするほど私たちはみずからの言動を自己検閲しなければならなくなる。
 
なかには天真爛漫に振る舞っても他人に選ばれ、敬遠されない幸運な人もいるだろう。
 
とはいえ、そんな人は少数派で、大多数は他人を選ぶ自由を行使すると同時に、他人に選ばれ敬遠されない自分であるよう、努力しなければならない義務を抱えている。
 
「不快な奴をブロックして構わない」社会とは、要はそういう社会である。
 
気に入らない相手や不快な相手を敬遠する自由があると同時に、他人に選ばれなければならず、他人に不快がられないよう努力しなければならない社会だとも言える。
 
そのような社会では、会社同僚はもちろん、友達や家族にすら、選ばれ不快がられないよう、努力しなければならない。そうしなければ誰からも選ばれず、独りぼっちになってしまうかもしれない。
 
天真爛漫に振る舞っても他人に選ばれる人なら、「そんなに神経質にならなくったって大丈夫」と言ってのけ、そうした努力を意に介さないかもしれない。だが世の中には、精いっぱい努力してようやく相手にしてもらえる人、ようやく不快がられずに済んでいる人もいる。いわば、モテにくい人にとって、他人に選ばれるための努力はたいへんな重荷である。
 
そんな重荷をストレートに背負いながら学校や職場に通い続けなければならない人にとって、日常はどれほど息苦しく不自由なものだろうか!
 
 

「アライさん」のブルースはどこにも届かない

 
私たちは「不快な奴をブロックして構わない社会」を生きている。というより、ブロックほど明瞭ではないかたちで選別や選好を働かせあい、それでも社会の多様性というお題目に違反しないことになっている社会を生きている。
 
他方、そうした自由選択が徹底されればされるほど、選ばれるための言動を、不快がられないような言動を、私たちは強いられる。「アライさん」界隈で吐露されるような内心を、他人に曝すわけにはいかなくなる。
 
表向き、私たちの言動は自由だ。
そして実際、街には多種多様な人々が暮らしてもいる。
ところが実生活では、他人に選ばれるよう、不快がられたり敬遠されたりしないよう、努めないわけにはいかない。
 
そういった努力が少なくて済む人には、この社会の自由選択のうまみが意識されやすかろう。だが、そういった努力に苦心惨憺している人には、努力を強いられ、不自由を強いられる辛さが意識されやすい。そして前者の人々が後者の人々と接点を持たないとしても「社会の多様性というお題目」に違反しているとは、みなされないのである。
 
「不快な奴をブロックして構わない」社会を謳歌している人々は、「アライさん」界隈のブルースを不快だからという理由でブロックする自由を持っているし、おそらくそうした自由を行使している。
 
「アライさん」界隈からの声がシビアであるほど、重苦しいものであるほど、その声はブロックされやすく、敬遠されやすく、誰にも届かぬ独白で終わってしまう。
 
しかも無数の「アライさん」たちは、それぞれバラバラで名前も無く、群れてひとつの世論を作ったり、群れ続けてひとつの政治集団を作ったりできないため、「不快な奴をブロックして構わない」社会にモノ申すムーブメントには発展しない。個別の「アライさん」たちは、どこまでも匿名の「アライさん」でしかない。
 
 

簡単に批判できるようで、一筋縄ではいかない

 
こうした「不快な奴をブロックして構わない」社会を批判し、嫌悪することは、一見、簡単そうにみえる。ただし、その際には社会を批判するだけでなく、選好や選別にもとづいた人間関係を築き、まさにそのような社会に乗っかっている自分自身をも批判しなければならないように、私には思える。
 
少なくとも、この社会の恩恵を受けまくって、選別や選好を働かせまくっている個人が、そのことを棚に上げて「不快な奴をブロックして構わない」社会を批判するのは、どこかテクニカルというか、アクロバティックな何かが必要ではないかと思う。私はまだ、そんな技量を身に付けてはいないから、この状況を見ていることしかできない。あるいは、この状況のメカニズムを理解しようと努めることしかできない。それが歯がゆいのだけど、今の自分の考えを言語化してみたいと思い、半熟卵のようなこの文章を残しておくことにした。