シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊

 
ネット言説における「合理性」信奉 - 道徳的動物日記
 
 リンク先のブログは『道徳的動物日記』という私の好きそうな語彙が集まった名前で、しかも冒頭に「このブログは利益や金銭目的ではなく人々に対する啓蒙のために書かれています。ありがたがれ。」と記されているので、安易にリンクを飛ばしてはいけないと前々から思っていた。
 
 ところが今回の合理性信奉の話が好きすぎること、筆者のDavidRiceさんが「まとまりのない与太話になってしまった」とはてなブックマークでコメントしているのに勇気づけられて、自分のブログでもっとまとまりのない、自分っぽい与太話をやりたくなってしまった。
 
 
 
 
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 リンク先の記事は、安易で浅薄な合理性信奉は、不毛で、異様で、ポジティブ心理学や徳倫理学からみて的外れもいいところとなかなかに手厳しい。「コスパ最高!」「合理的選択ができるアタクシってば素敵!」とうぬぼれている人々に冷や水をぶっかけるような内容だ。
 
 私もブログで、イージーな合理主義や効率主義のうさんくささについて書いているし、私が信奉するのは合理主義ではなく仏教の縁起説なので、リンク先の合理性信奉にたいする辛辣さは心地良くすらある。
 
 反面、私も合理主義や効率主義にはだいぶ入れ込んでいるというか、習慣や通念のレベルではそれらに服従しているのを認めないわけにはいかない。
 
 私はスケジュールに正確であるよう努めているし、ソーシャルゲームのレベル上げを単位時間あたりの生産性や収益性で考えてしまう。仕事中はともかく、娯楽と向き合っているときぐらいもっと自由に、理不尽に、豪快に遊んでしまってもいいだろうに、それができない。それぐらい、合理主義や効率主義が身に付いてしまっている。
 
 私が合理主義や効率主義を拝まずに済んでいるのは、私がそれらを目的ではなく手段とみなしているから……ではない。合理主義や効率主義を(浅薄に)ありがたがってしまわずに済んでいるのは、私には予め信奉すべき宗教があったからだと、私は思う。
 
 如是我聞、仏教の因縁・縁起の話は娑婆世界のメカニズムをよく説明していて、仏教の戒律は執着と折り合いをつける良い方法だ。それらに比べると、合理主義や効率主義は、少なくともそれらだけでは、娑婆世界のメカニズムや執着との折り合いのつけかたについて教えてくれない。愚直に合理主義や効率主義を追いかけた果てには、むしろ執着の強い、業の深い境地があるようにすら思える。
 
 合理主義や効率主義は、ある種の方便としては有用だけど、とうてい、拝めるようなものではない。
 
 ただ、日本のインターネットでしばしば見かける合理主義や効率主義の信奉者を見て思うに、彼らには私にとっての仏教に相当するものが無いのではないだろうか。
 
 「偶像を拝む者は何も知らない」という言葉もあるけれども、そもそも拝むべき偶像すら無ければ、人は何かを拝まずにいられなくなって、どうやら自分にとってありがたいと思えるものを遮二無二拝んで、偶像化してしまうのではないだろうか。
 
 [関連]:“崇拝欲”とどう折り合いをつけていくか――ホメオパシー問題に関連して - シロクマの屑籠

 
 よその国ではいざ知らず、日本では宗教が希薄化した、みたいなことが言われる。大晦日や初詣に寺社が賑わうのをみるに、実はアニミズムはちゃんと生き残っていて、人々は崇拝欲をそれなり持っているようにも見受けるけれども、合理主義や効率主義をありがたがっている人々にとっては神は死んだも同然だろう。
 
 さりとて、合理主義や効率主義で神を殺してみたところで、人間の崇拝欲がなくなるわけでもなく。安易に神を殺してしまった人、そもそも神をどこにも見いだせない人は、それでも崇拝欲を充たしてくれる対象をどこかに見出さなければならない。
 
 それが、人によっては科学崇拝という形式をとることもあれば、ニセ科学崇拝という形式をとることもあれば、スパゲッティモンスター崇拝という形式をとることもあれば、合理主義崇拝や効率主義崇拝という形式をとることもあるとしたら……まあいわば、それって迷える子羊なんじゃないのかなと思ったりもする。
 
 人間、拝みたいものを拝めばいいのだから、拝んでいろよ、拝ませてやれよ、みたいな気持ちも無くはない。その一方で、崇拝欲の脳内アドレスにテキトーなものを突っ込んでありがたがるのは危なっかしいことだと思ったりもする。自分のアタマで考えてテキトーなものを突っ込んでありがたがるぐらいなら、がっしりとした宗教、先祖代々の宗教を予め割り当てておいたほうが無難だという気持ちがどこかにある。
 
 アニミズムや宗教を殺したまでは良かったけれども、そこから自由という名のもとに合理主義や効率主義を拝み倒すに至った人たちは、他に拝めるものを見つけられなかったのではないだろうか。
 
 
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 我ながら、ヤマもオチもイミもない与太話を書いてしまった。
 
 私は、自分自身が厚みのある人間観や幸福感を持てる人間だと思っていない。勉強して独自の境地にたどり着ける人がいるのを認めたうえで、私は仏教という名の大樹にもたれかかりながら自分のアタマで考えるふりをしている。もし仏縁に恵まれなければ、私も道具を拝んだり飴玉を拝んだりしていたかもしれない。だから、そういった神仏に恵まれぬ人のありようを、ちょっとだけ弁護したくなる、こともある。
 
 ここで、神仏を殺して衆生を路頭に迷わせたのは誰だったのか思い出したくなったけれども、そろそろ除夜の鐘の時間なので今日はこのへんで。煩悩無量誓願断。
 
 
 
 

人間を繁殖させられない日本動物園、それとフィンランド動物園

 
 
www3.nhk.or.jp
 
 日本、少子化進んでるってよ。
 
 
 ときの首相が、少子化問題を「国難」と評するようになった。実際、国難だろう。だからといって若い男女を強制的につがいにして、強制的に出産なんてさせられない。
 


 
 個人主義や社会契約のロジックにもとづいて考えるなら、挙児・出産という現象は、当事者の主体性にもとづいたものでなければならないはずである。だから「産め」と強制するのでなく「産みたい」という意志によって、あえて意地悪な言い方をするなら産みたくなる動機付けをする必要がある。いまをときめく行動経済学の言葉でいえば「ナッジ」するなら強制ではないのでいいんじゃないだろうか。
 

 行動経済学的手段を用いて、選択の自由を確保しながら、金銭的なインセンティブを用いないで、行動変容を引き起こすことがナッジである。大きなコストをかけないとそのような政策的誘導から簡単には逃れることができないのであれば、その誘導はナッジとは呼べない。
(中略)
 ナッジは、行動経済学的知見を使うことで人々の行動をよりよいものにするように誘導するものである。
 大竹文雄『行動経済学の使い方』

 いやー、選択の自由を確保しながら人々の行動をよりよいものにするナッジって、とても便利で正しいですねー。
 で、何が「よりよいもの」で「より悪いもの」なのか、それを誰が裁定するの? 官邸のひとですか? 経団連のひとですか?
 
 「ナッジ」についてはさておき、私は東京で少子化が進んでいるのをみるたび、動物園のシロクマの繁殖のことを思い出す。
 

 
 動物園でシロクマを繁殖させるのはかなり大変だという。たとえばこちらのブログ記事に記されているように、動物園でシロクマが繁殖に成功するとちょっとしたニュースになる。札幌市円山動物園のレポートからも、人工的な環境でシロクマを繁殖させることの難しさが窺える。
 
ホッキョクグマの繁殖と環境整備に関する発表/札幌市円山動物園
 
 産室環境も含めて、ストレスケアに細心の注意を払いながらシロクマの繁殖を後押ししているさまがうかがわれる。
 
 これはシロクマに限ったことではない。動物を人工的な環境のもとで繁殖させるのはしばしば大変だ。動物園で餌を与えて生かしておくだけなら簡単でも、繁殖させるのは難しい動物がたくさんいる。
 
 さて、振り返って人間はどうだろう。
 
 忘れてしまっている人もいるかもしれないが、人間だって動物である。少なくとも繁殖するのは動物としての人間だ。その人間が、現代社会では繁殖しづらくなってきている。日本で最も人間が繁殖しなくなっているのは東京とその周辺だが、東京とその周辺は、いかにも人工的な環境というか、人工的な環境そのものである。
 
 東京とその周辺には食料があり、水があり、治安も安定している。現代医療なんてものまである。そういった部分だけピックアップすれば、縄文時代よりもずっと人間の繁殖に適した環境であるはずだ。ところが当地に住む人間だちはあまり繁殖しない。かろうじて繁殖する人間がいないわけではないが、合計特殊出生率が示唆しているように、東京とその周辺という人工的な環境では、人間の繁殖が起こりにくいようなのだ。
 
 東京という人工的環境を動物園になぞらえるなら、"東京動物園"は、どうやら人間の繁殖に不向きな、人間を繁殖させる条件の調整に失敗した環境であるらしい。それは日本という国全体にも言えることで、"日本動物園"は、人間の繁殖に適した環境を提供することに失敗している。
 
 繁殖を度外視し、動物を飼い続けるだけなら人工的な環境でも比較的簡単なのと同じように、東京動物園や日本動物園で人間を飼い続けるのはおそらく難しくない。というか人間がバタバタ死んだりしていないわけだから、ただ人間を生かし続けるという点については東京動物園や日本動物園はよくやっていると言える。
 
 しかし、繁殖という視点でみれば、東京動物園も日本動物園も、人間の繁殖に適した環境を準備できていない、ということになる。繁殖適齢期にさしかかった人間が繁殖したくなるような環境が足りないのかもしれないし、ストレスを与え続けているせいかもしれないし、繁殖に適さない文化的土壌ができあがっているせいかもしれない。が、いずれにせよ人間同士がつがいをつくって主体的に繁殖するのに東京動物園や日本動物園が向いていないのは間違いない。
 
 動物園のシロクマと人間の一番大きな違いは、シロクマが人間に一方的に飼育される動物であるのに対し、人間はみずから環境を調整し、みずからを飼育する動物である点だ。神様が東京動物園や日本動物園を運営しているのでなく、人間自身がそれらを運営し、環境を改変し、よりよく生きられるよう選んでいける……はずである。
 
 ところが昨今の状況をみるに、私たちは人間が繁殖しづらい環境を野放しにしているか、うまく環境を調整できなくなっている。動物園としての日本は合格点とは言えない。とりわけ動物園としての東京、人工的な環境としての東京には明らかに問題があるのに、それをどうにかできないみたいなのだ。
 
 かつて、優生学を否定したいきさつが示しているように、人間が繁殖する権利というのは割と尊いもので、繁殖する権利を剥奪するのは人間疎外であったはずだ。しかるに現代の日本や東京では繁殖したくてもできない人がたくさんいて、繁殖したいという主体的な気持ちが沸きづらい環境もあって、それでも人々は黙々と働き、日々の糧を得るのにあくせくしている。
 
 断種のたぐいが強制的に繁殖をさせないのに対し、主体的な気持ちが沸いてこないから繁殖しないのは疎外ではない、それは自由意志による選択の産物だ、という人がいるかもしれない。
 
 なるほど、近代市民社会の市民の主体性というのは、そういう物差しで人間の行動を測るのやもしれない。だが動物に還って考えた時、人間という動物がこれほど繁殖しない・できないのはやはり珍妙なことであり、疎外ではないだろうか。食料も水も安全も高水準で確保されている人工的な環境にも関わらず、これほど人間が繁殖せず、繁殖できないのだから、私はその事実じたいに引っかかりをおぼえる。
 
 
 

フィンランド動物園も失敗しているようですね

 
 さて、そんな折、ちょっと驚くようなニュースが飛び込んできた。
 
 forbesjapan.com
 
 フィンランドの合計特殊出生率がものすごい勢いで低下しているのである。
 フィンランド動物園も、人間の繁殖に失敗しているみたいですね。
 
 北欧諸国は、しばしば社会制度の優等生、見習うべきロールモデルとして語られることが多い。フィンランドもそのような国のひとつだったはずである。そしてフィンランド以外の北欧諸国が一定の合計特殊出生率を保っているとはいえ、その数字は2.1をだいぶ下回っている。ほかの先進国もおおむねそうだし、実のところ、出生率がすごい勢いで下がっている国は途上国にもたくさんある。韓国、台湾、シンガポールあたりの合計特殊出生率は、完全に人間の繁殖に失敗した動物園といわざるを得ない。経済は発展しているかもしれないが、人間が繁殖できる環境とは言い難く、私なら、それは人間が疎外されやすい環境ではないかと言いたくなる。
 
 人間は動物であるだけでなく、経済的主体だったり法的主体だったりするから、動物としての失敗が人間の失敗と言い切ることはできない、と言う人はもちろんいるだろう。
 
 それでも私は、人間は経済的主体や法的主体である前に、まず動物であり、まず有性生殖生物であるとみなしているから、繁殖という、最もプリミティブな営みが困難になっていたり、おざなりになっていたり、過小評価されていたりする社会環境は不適切であろう、と思う。人間が強制的に繁殖させられるのは悪夢としても、主体的に繁殖したくなるような環境を整えるのが、日本動物園だったり東京動物園だったりフィンランド動物園だったりの運営者の使命ではないかと思う。言い換えれば、有権者である私たちの使命ではないだろうか。
 
 繰り返すが、ときの首相は少子化を「国難」と評した。この国難は、日本、ひいては東京という人工的な環境が人間の繁殖に適さないがゆえに起こっているものだ。
 
 何がどう適さないのか十分に精査したうえで、安心して人間が繁殖できる環境を取り戻せるよう、私たちは環境に働きかけていかなければならないのだと思う。それこそ、シロクマの繁殖につとめている動物園の飼育員のように。
 
 

おれは嫁さんの自作パソコンみたいなもの

 


 
 
 「おれは嫁さんの自作パソコンだ」──結婚する前後に身に付けたソーシャルスキルや世間知に助けられていると感じる時、私はそんな風に思う。
 
 私は2005年末からこのブログを書いているけれども、書いている頃から、嫁さんに社会適応のことをたくさん教わってきた。服装選びやブログの書き方は100%自分流だが、社交辞令や一般的な慣習については嫁さんから教わる部分が大きかった。いわゆる「お勉強」の領域では私のほうが詳しかったけれども、「世間知」の領域では嫁さんのほうがハイテクノロジーだったので、嫁さんの指南をとおして私は世渡りの弱点をたくさん直した。
 
 嫁さんは恋愛市場で高値がつく前の段階の、弱点だらけだった私を見出して育ててくれたと言える。
 
 
 完成品の男性を選んだのでなく、私という、どうみても未完成品の男性を見定め、自分で組み立てていったのだから、私は嫁さんの自作パソコンのようなものだと思う。
 
 パソコンを買う際、ヤマダ電機やヨドバシカメラでクオリティの高い市販品を買おうとすると高くつく。自作のパソコンはそれに比べれば安い。
 
 そのかわり、自作パソコンは自分でパソコンを組み立てなければならないし、自分が求めるとおりの機能や信頼性を持ったパーツを自分で見定めなければならない。そもそも、組み立てる技能と甲斐性がなければパソコンができあがらない。
 
 たぶん、男性(女性)も同じなんだと思う。
 恋愛市場で完成品のパートナーを探し求めるなら、それにふさわしい「定価」を支払わなければならない。「定価」というか、「対価」だ。
 
 しかし、未完成品のパートナーはこの限りではない。少なくとも、未完成品の男性は完成品の男性に比べて「売れない」。私自身の経験と周囲の話を総合すると、どうやら女性の大半は、恋愛市場に出ている男性の現在の完成度しか見ていないようで、未完成品の男性のポテンシャルや発展性を見ている人はそれほど多くないようにみえる。無理もないことかもしれない。だって、パソコンを自作するのに技能や甲斐性が必要なのと同じで、未完成の男性を育てるのはそれなり面倒でテクニカルなことだろうからだ。
 
 うちの嫁さんは、その面倒でテクニカルなことをやってのけた。
 
 恋愛市場で高値がつく前の段階で私を拾い上げて、結婚前も、結婚後も、忍耐強く育ててくれたと思う。嫁さん偉い。そしてありがとう。私が自分で言うのもなんだが、結婚したあたりから私の社会性はかなり向上して、困ったことに、結婚前よりもモテるようになった。結婚してからモテたって何も良いことなんて無いのだが、自分が嫁さんに育ててもらったという実感は沸いた。
  
 「これは、ちゃんとクリエイトすればそこそこモノになる未完成品だ」と見抜いて未完成男性であった私を自作した嫁さんは、未完成品のポテンシャルを見抜く目があったうえに、男性を自作する技能と甲斐性があったのだから、たいしたものだと思う。ときどき辛辣なことを言うことはあるけれども、そのことも含め、ありがたい限りだ。
 
 

未完成品同士が自作しあう結婚

 
 パートナー選びに際して、完成品を求めるのはハードルの高いことだと思う。
 と同時に、自分が完成品でなければパートナーたりえないと考えるのもしんどい。
 
 実際には、未完成の人間が2人寄り添って、お互いを育てて、お互いに育てられて、完成品に近づいていくパートナーシップのほうが現実的ではないかと私は思う。人生には完成とか完璧という言葉は馴染まないから、成長、と言い換えたほうが語弊が少ないのかもしれない。
 
 私は嫁さんの自作パソコンみたいなものだが、嫁さんだって私から影響を受けて変わってきているから、嫁さんもまた、私の自作パソコンみたいなものだ。そうやってお互いに最適化した者同士がネットワーク接続して、生活や社会適応のあれこれを助け合っていくのは、こういってはなんだが、とても面白いゲームだと思う。
 
 いい結婚をしたいと思っている人は、完成品の異性にばかり目を向けるのでなく、未完成品の異性にも目を向けて、お互いに自作しあう──いわば最適化しあう──のもアリなんじゃないだろうか。少なくとも私たちは、そんな風にやってうまくいっている。
 

革命的非モテ同盟、いまどきの男女交際、資本主義

 
 
news.careerconnection.jp
 
 クリスマスイブにちょっと心温まるニュースを発見してしまった。
 革命的非モテ同盟が、2年ぶりにクリスマス爆砕デモを行ったのだという。リンク先の記事はこう報じる。 
 

“恋愛資本主義”の打倒を掲げる団体「革命的非モテ同盟」は12月21日、渋谷駅周辺で恒例の「クリスマス粉砕デモ」を実施した。ニコニコ生放送による中継が行われる中、参加者たちは約40分間にわたり、クリスマスの機運が高まる街中を練り歩いた。

 
 昔の私は、この手の非モテパフォーマンスをただバカバカしく思っていた。ところが歳月が流れても活動が受け継がれている。曲がりなりにも運動が継承されているのを見ると、ちょっと考えてしまう。それと、クリスマスやバレンタインを恋愛資本主義の象徴とみなしてデモンストレーションする、その姿勢が00年代当時よりも「さまになっている」と私は感じてしまった。
 
 少し前に、私は資本主義的なパートナー選択を前に、旧来のロマンチックラブは敗北した、みたいな文章を書いた。
 
 「革命的非モテ同盟が恋愛資本主義の打倒を掲げる」と言った時、彼らが攻撃しようとしているのが恋愛=ロマンチックラブのほうなのか、それとも資本主義のほうなのか、それはわからない。しかし男女交際や配偶からロマンチックラブが後退し、婚活やパパ活も含め、資本主義のロジックが強まっていく昨今の事情を踏まえると、恋愛資本主義への反対は、恋愛を呑み込んだ現代の資本主義システムのありように対する反対のように、私には見えやすくなっている。
 
 いまどきの男女のバリューは年収だけで評価されるものではない。容姿や振る舞い、年齢、性格、人脈、趣味、そういったあらゆるものを評価したうえで恋愛市場・婚活市場でのバリューが決まる。このことをもって資本主義から遠ざかったとみなすのはもちろん間違っていて、個人の資質や属性のすべてが商品価値や生産価値として値踏みされるようになった、とみなしたほうが現実に即しているだろう。社会学者の本田由紀が語ったハイパーメリトクラシーの図式は、男女交際や配偶の領域にも当てはまる。
 
 

 
 
 ハイパーメリトクラシー化した恋愛資本主義が当たり前になった、この世知辛い世の中において、恋愛資本主義に反対するとは、現在の資本主義システムの成り立ちそのものに反対するようなものであり、現代社会を成り立たせている道理に反対しているも同然ではないか? 
 
 
 今から十年以上昔、はてなダイアリー周辺では、恋愛資本主義についてさまざまな議論があった。
 
奇刊クリルタイ4.0

奇刊クリルタイ4.0

 
 いわゆる「非モテ」論は玉石混交だった。
 が、「こんなのはおかしい」と声をあげている人々がいたのは事実である。
 当時の彼らも、現代の革命的非モテ同盟の人々も、世間の道理に難癖をつけるという、天に唾するようなことをやっているわけで、たくさんの人に笑われていたし、今でも笑う人はいるだろう。
 
 じゃあ、当時の彼らが天に唾したところの世間はその後どうなったのか?
 
 
若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

 
 1980~90年代にかけて、男女交際は資本主義化されていった。クリスマスやバレンタインデーをはじめ、若者の性を商品化し、消費個人主義の差異化のアイテムとして認識させ、恋愛を義務と錯覚させたマーケターたちの思惑に、すっかり世間は乗せられてしまっていた。では、そうやって商品化され、義務であると錯覚させられた男女交際の行先はどうなったのかといったら、当該世代は非婚化の道を歩み、少子化は決定的なものとなった。そしてイベントとしてのクリスマスもバレンタインも死に体になってしまった。
 
 不景気や高齢化が重なってのことだとは思うが、今年の街のイルミネーションはひときわ寂しく、浮かれた雰囲気はどこにもない。地方にも東京にも寂しいクリスマスがやってきた。
 
 この寂しいクリスマスをみるに、しゃにむに走り続けてきた資本主義化された男女交際には、なにか、大きな間違いがあったのではないか。それは資本主義の駆動という点では最適解だったのかもしれない。だが、社会の存続や個々人の福利にまで最適だったと言っていいのか、よくわからない。
 
 80~90年代の恋愛志向には女性の(または若い男性の)主体的選択という意味合いもあり、少なくとも親やきょうだいによって主体的選択を剥奪されるおそれが無くなったのは進歩だった。とはいえ、主体的選択ができるようになったからといって若い男女が皆ハッピーになったわけではないし、「主体的選択ができる」というこのお題目じたい、ハイパーメリトクラシーした恋愛市場において、すべての男女を利するものではない。
 
 「あなたには主体的選択ができる」というお題目をいくら与えられても、いわば、モテない男性、モテない女性には主体的選択の余地など画餅に過ぎないのだから。
 そのうえ、主体的選択ができるというお題目を唱える者は、自己責任という十字架を背負わなければならない。
 
 革命的非モテ同盟は、失恋の傷心を抱いていた創始者が『共産党宣言』を読み、興したものだという。創始者はお調子者の人物だったので、彼が本気だったのかはわからない。案外、モテない鬱屈をデモで晴らしたかっただけなのかもしれない。だがともあれ、彼の後継者たちは資本主義のロジックにもとづいた現代の男女交際に批判の声をあげ続ける。
 
 
 彼らを非常識、時代錯誤と笑うのは簡単だ。
 しかし、彼らを笑う側である私たちとその社会は、数十年かけて浮かれたクリスマスを沈鬱なクリスマスへと変貌させてしまった。
 だからまあ、ああいう活動もあったほうがいいのかなと今は思う。
 革命的非モテ同盟の皆さん、今後も活動頑張ってください。
 
 

ベーシックインカムはきっと面白い人の味方

 
ITが単純労働を食い散らかした後にやってくること - orangeitems’s diary
 
 リンク先の文章は、ITが人間の仕事を奪っていった先に、労働や勤労の「権利」はどうなってしまうのか、を問うたものだ。人間の仕事がどんどんなくなり十分なベーシックインカムが普及したら、今度は「働く権利の喪失」という問題が浮上するのではないか、と書いている。
  
 世の中には、「人間にしかできない仕事をすればいい」という人もいる。では、人間にしかできない仕事がいったいどこにどれだけあるというのか? 人類史は、効率化とそれによる仕事の消失を繰り返してきた。産業革命がインドの機織り職人を壊滅させたように、オートメーション化によって単純労働の正規雇用がすり減っていったように、これからもテクノロジーは人間から仕事を奪い続けるだろう。少なくとも、狭い意味での仕事についてはそう考えたくなる。
 
 しかし、狭い意味での仕事に囚われないなら、この限りではない。噂話に夢中になること・憎悪すること・愛すること・生殖することなどは、人間にしかできないし、人間しかやりたがらない。また、機械やAIが完璧にこなしてみせることを、人間がやりたいようにやるのも仕事になるのかもしれない。ただし、21世紀に暮らす私たちはそれらの営みを仕事とは呼ばないし、仕事を「権利」と呼ぶ人々がありがたがるものでもあるまい。
 
 
 狭い意味での仕事を尊いもの・人間を救うものとみる見方は19世紀、さらにそれ以前にまで遡ることができる。
 

近代の労働観 (岩波新書)

近代の労働観 (岩波新書)

  • 作者:今村 仁司
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1998/10/20
  • メディア: 新書
 
 昔の偉い人達はしばしば仕事を神聖視してきた。いや、今でもそのような物言いをする人はまれではない。
 
 しかし狭い意味での仕事、ましてや嫌々働かなければならない仕事を、人間を救うものとみなせるものなのか。『近代の労働観』には、仕事が人に自尊心を与えて救うという時、それは仕事そのものが自尊心を提供しているのでなく、仕事をとおして他人から承認されたり社会と繋がったりしているから救われているのではないか、と疑問を投げかけるパートがある。
 
 この問いは、私たちにも間近に感じられるものだ。というのも、高収入というかたちで経済的に報われたと感じるか、仕事関連の社会関係をとおして承認欲求や所属欲求を充たされるか、ともあれ、自尊心の充足を伴った仕事を現代人は好むものだからだ。そして自尊心の充足を伴わない、ただキツいだけの倉庫番のような仕事に疎外を感じる。
 
 人間にとって肝心なのが仕事や労働そのものではなく、経済的、心理的、社会的な充足のほうだとしたら、機械やITが仕事をことごとく奪い、ベーシックインカムが実現した未来も案外悪くはないのかもしれない。狭い意味の仕事がなくなっても、さまざまな営みやレクリエーションをとおして承認欲求や所属欲求を充たせる暮らしが実現するなら、人は、それほどには疎外されないかもしれない。
 
 少なくとも、狭い意味での仕事がなくなっても疎外されず、おしゃべりやゴシップやレクリエーションや性行為をとおして満足に暮らせるタイプの人間がいるのは、間違いないと思う。
 
 

ベーシックインカムは面白い人・豊かな人を利する

 
 思うに、機械やAIが狭義の仕事を人間からとりあげて、高水準のベーシックインカムが実現した時、それが福音になる人間と疎外になってしまう人間がいるのではないだろうか。
 
 世の中には、おしゃべりやゴシップやレクリエーションをとおして自尊心を充たすのが上手な人がいる。特殊技能を持っているわけでも高収入なわけでもないけれども、人間関係を楽しむのが上手く、承認を獲得するのも、メンバーシップを実感するのも得意な人にとって、仕事からの解放は決定的にまずいものではないと思う。原田曜平がマイルドヤンキーという言葉で論じた人々のなかにも、そういう人は少なくないだろう。
 
 インターネット寄りの世界にも、ベーシックインカムが福音になりそうな人がたくさんいる。
 

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

  • 作者:pha
  • 出版社/メーカー: 技術評論社
  • 発売日: 2012/08/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 たとえば『ニートの歩き方』などで知られるphaさんは、ベーシックインカムの時代になっても困らないだろう。phaさんは、シェアハウスを立ち上げたり、面白い本を書いたり、面白いトークをやったり、楽しいことを自分で見つけられる人物だと思う。最近は、楽器をたしなんでいるという。
 
 従来の仕事の枠組みのなかでは評価のされようがなかったphaさんのようなタイプは、ベーシックインカムの時代には社会適応の王道を歩む人になるのではないだろうか。なぜなら、面白い話ができて、人の輪をつくることができて、楽器の楽しさを素直に楽しめるような人は、狭義の仕事に依存することなく自尊心を充たし、ひいては社会関係にも恵まれるだろうからだ。
 
 phaさんに限らず、面白いトークができる人、歌ってみたり踊ってみたりするのが上手い人、ゲームプレイで人を魅了できる人がインターネットの才人世界にはたくさんいる。グローバルな競争に勝てるほどの才能や技量がなくても、ライブで面白い人、小さな人間関係のなかでこそ輝く人なら、ベーシックインカム時代でも困ることはあまり無いように思う。
 
 ほんらい、収入という資本主義のモノサシでは高く評価されていなくても、やはり面白い人・豊かな人というのはいる。歌って、踊って、トークして、友情を感じたり恋をしたり、太鼓をたたいたり笛を吹いたりするのは、人間らしい豊かさだ。資本主義の尺度に忠実な機械やAIがやろうともしない豊かさを持った人が、ベーシックインカムの時代には光り輝く。
 
 付け加えると、他人をアトラクトしてやまない宗教家・政治家・芸能人のたぐいも、ベーシックインカムの時代にはますます活躍するに違いない。
 
 しかし逆に考えると、狭い意味での仕事しかできない人、あまり面白くない人は、ベーシックインカムの時代には光り輝かない、ということでもある。
 
 AIを制御するような一握りのスーパーエリートを例外として、ほとんどの人間がベーシックインカムに養われる時代が来たとき、狭い意味での仕事をとおして自尊心を充たすよう特化してきた人は、自尊心の宛先を見失ってしまう。冒頭リンク先の記事に書かれている内容は、そのような人々にこそ当てはまるだろう。
 
 人間らしい豊かさを犠牲にしてまで仕事に能力を振り分けてきた人々が、ベーシックインカムの時代に最も疎外されるのではないだろうか。
 
 誰もが面白くて豊かな人間になれるなら、ベーシックインカムの時代は薔薇色に違いない。ところが世の中には、仕事を失ってしまったら自尊心の宛先もモチベーションも見失ってしまう人々がいたりもする。歌や踊りやトークにもともと向いていなかったのか、それとも資本主義の下僕として真面目にトレーニングを積み重ねてきた結果としてそうなのか、ともあれ世の中には仕事に救われている人間、仕事がいちばん向いている人間が存在する。そのような人々にとって、ベーシックインカムの時代はユートピアとは言い難い。少なくとも、面白さや豊かさに恵まれた人間に比べると分が悪いだろう。
 
 
 ※12/1717:00追記。そうそう、上掲ツイートみたいなことが起こる。
 
  
 現代のような狭い意味での仕事の時代と、ベーシックインカムの時代では、人間に求められる資質が変わる、と言い換えることもできる。考えてみれば、そういうことは人類史のなかでは珍しくもないことだった。農耕社会が到来して移住の資質が要らなくなり、暴力が国家に束ねられるようになって腕力で争う資質が要らなくなった。20世紀後半には単純作業を繰り返す資質が要らなくなり、21世紀にはホワイトカラーの仕事をこなす資質が要らなくなりつつある。
 
ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来

 
 『ホモ・デウス』のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、テクノロジーの進歩の果てに人間が要らなくなる未来、または超人間が爆誕する未来をみる。そうかもしれない。しかしハラリ氏の未来予想は資本主義のロジックにちょっと忠実すぎると私には思える。それと、なんだか禁欲的で、享楽が足りないとも感じる。 
 
 たとえ資本主義の神に見放されても、歌って踊り、群れやカップルをつくって子どもを育てて、愛したり憎んだり噂話したりするユニークな動物としての人間は、滅ばない。AIや超人間が資本主義システム全般を我が物にした時、野生動物としての人間は資本主義の主人公でなくなると同時に、資本主義の軛から解放されて(または放逐されて)、良くも悪くも旧来の"人間力"を試されるのではないだろうか。
 
 もちろん資本主義の神そのものは冷酷きわまりないので、野生動物に戻った人間が資本主義に貢献しなくなったら害獣とみなされる可能性はある。別にジェノサイドしたりする必要はない、ただ、人間の繁殖確率を減らせば良いだけのことだ。しかしその緩慢な衰退のプロセスにおいて、ベーシックインカムという状況をいちばん楽しく過ごせるのは、きっと面白い人々、ある種の豊かさを捨てなかった人々だ。人々は再び、ユニークな猿として生きていく。
 
 
 
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 この文章を書き始めた段階では、「ベーシックインカムの時代になったら、文化資本のある人が人気者になって、文化資本の乏しい人が不人気者になるから、結局なんらかの格差は残るのでは?」と書くつもりだった。
 
 ところが「ベーシックインカムが導入される」という夢のような話にあてられているうちに、私の空想もどんどん膨らんでしまった。
  
 人間は社会的生物だから、どんな時代になっても、承認や所属を求めてやまないユニークな動物のままだと思う。そして人気や影響力を巡って競争し続け、勝者と敗者が生まれるのだろう。その度し難い性質は、ベーシックインカムが実現して100年やそこらぐらいでは変わるまい。