シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

2010年代のお気に入りアニメ6選+番外

 
 2010年代が終わろうとしている。

 年末の片付けをしていたらアニメの録画やディスクがふきだまっている場所に捕まってしまった。中年になればアニメを見なくなるかと思いきや、そんなことはなく、素晴らしい作品に恵まれた10年だった。手が止まったついでに、心に残った2010年代のアニメを振り返っておこうと思う。
 
 ※私個人の好みに基づいたチョイスなので悪しからず。
 
 

ベスト6選

 
 
1.ゾンビランドサガ
 

ゾンビランドサガ フランシュシュ The Best

ゾンビランドサガ フランシュシュ The Best

  • アーティスト:フランシュシュ
  • 出版社/メーカー: エイベックス・ピクチャーズ株式会社(Music)
  • 発売日: 2019/11/27
  • メディア: CD
 
 アイドルとゾンビと佐賀県、食い合わせが悪そうにみえて、ビックリするほど噛み合っていた作品。
 
 私はアイドルもゾンビもジャンルとして好みではないけれど、つくりが丁寧で、やたら笑えて、それでいてアイドルものやゾンビものを見たような気分になってしまった。両方のジャンルに詳しい人にはまた違った風に見えるのかもしれないが、詳しくない人でも楽しめるつくりなのは間違いない。
 
 中毒性のある主題歌も好きだが、あの、卒業式のようなエンディングテーマを聴いていると、アイドルとゾンビ、かりそめの命を与えられた者が前のめりに生き、やがて旅立っていく無常さがこみあげてきて胸がいっぱいになってしまう。2010年代の深夜アニメのなかで、一番子どもにウケが良かったのはこの作品で、去年の冬の我が家はゾンビランドサガの話でもちきりだった。
 
 
2.機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズ
 
機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ Blu-ray BOX Flagship Edition (初回限定生産)

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ Blu-ray BOX Flagship Edition (初回限定生産)

  • 出版社/メーカー: バンダイナムコアーツ
  • 発売日: 2020/03/27
  • メディア: Blu-ray
 
 ブログには傑作になり損なった、なんて書いたけれども2019年になってもオルガと三日月のことは忘れられない。鉄華団という名前の示すとおり、彼らは花を咲かせて散っていった。アトラたちが残されたとはいえ、それでも男たちは散っていったのだ。その顛末を、視聴者である私はまだ覚えている。
 
 後半のゆるい展開、ガンダムという存在の取り扱い、マクギリスの結末に不満がなかったわけではない。それでも主要キャラクターがちゃんと立っていて、因果因縁の筋の通った作風は貫かれたと思う。「踏み外したことをやれば、そのけじめは支払わなければならない」という世界観を、オルガや三日月たちはガムシャラに走り続けた。彼らも作品そのものも不器用さが目立ったけれども、案外、そのせいで記憶に残るのかもしれない。
 
 
3.ガンダムUC
 
機動戦士ガンダムUC Blu-ray BOX Complete Edition (初回限定生産)

機動戦士ガンダムUC Blu-ray BOX Complete Edition (初回限定生産)

  • 出版社/メーカー: バンダイナムコアーツ
  • 発売日: 2019/02/26
  • メディア: Blu-ray
 
 初代ガンダムから始まる宇宙世紀系ガンダムの作品のなかで、心の底から楽しめた作品はこれで最後になるのかもしれない。ガンダムNTやガンダムORIGINといった最近の作品が、原作ファンのニーズを汲んで細かくつくられているのは理解できる。けれども、その細やかさが「くどい」と最近は感じるようになった。そういう変化が起こる直前に私はガンダムUCに出会ったので、ギリギリセーフ、ガンダムファンを喜ばせるための細かな配慮を喜んでいた。
 
 ガンダムUCは宇宙世紀系ガンダムらしさがはっきりと示されている。と同時に、ガンダムというモビルスーツの特別さ、「ガンダムが戦局を変えていく」という手ごたえを感じさせてくれる作品だった。ストーリーや人間模様を楽しむ以上に、モビルスーツの細かなデザインや挙動、ガンダム史を追いかけるのが楽しい作品だったとも思う。
 
 いや、細かな御託はいい。本当は、ひいきにしている脇役モビルスーツがすごく格好良かったので無理やり6選に組み込んだ([関連]:ああ、ジェガン!――俺が選ぶジェガン名場面ベスト5 - シロクマの屑籠)。これを外すなら、選外の『宇宙よりも遠い場所』をここに入れると思う。
 
 
 4.シドニアの騎士
  
 2010年代は、はじめの期待以上にロボットアニメがつくられた10年だったと思う。そのなかで一番恰好良くて、一番思い出に残った作品はシドニアの騎士だ。
 
 『進撃の巨人』のように登場人物がバタバタ死んでいく作品もあるけれども、そうしたなかでは『シドニアの騎士』が自分の肌に合っていた。私はみずから剣をふるう主人公より、ロボットや戦闘機を操縦する主人公にシンパシーを感じるらしい。
 
 メカニックがとにかく恰好良い。播種船のフォルムやヘイグス粒子砲の輝きを見ているだけでも幸せに生れる。、主人公・谷風たちが乗るロボット型戦闘機「衛人」の武骨にみえて華奢なデザインも、日本語でまとめられたコンソールも、実体弾の軌跡すら美しいのだから困ってしまう。3DCGをベースにした作品だからか、『シドニアの騎士』の戦闘機動は観ていて気持ち良く、今までのロボットアニメとは趣が違うと感じた。谷風周辺の人物描写も良かった。今、NHKのBSで再放送しているので、こういう作品が好きな人はそちらを。
 
 
 5.君の名は
 
「君の名は。」Blu-rayスタンダード・エディション

「君の名は。」Blu-rayスタンダード・エディション

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • 発売日: 2017/07/26
  • メディア: Blu-ray
 
 2010年代でいちばん売れたアニメ作品。と同時に『秒速5センチメートル』で打ちのめされた気持ちを精算してくれた尊いアニメ。
 
 40年ほどアニメを観続けてきた人間の感覚だと、『君の名は。』は、会えそうで会えない男女の物語を綺麗なビジュアルでまとめた部分がウケた、と考えたくなる。でも、たぶんそうではないのだろう。
 
 なぜなら、この作品は一定のアニメリテラシーを求めるというか、ストーリーのあちこちに時間遡行の要素があり、「三葉と瀧の時間が一致していない前提がわかっていないとわかりづらい」部分があるからだ。
 
 にも関わらず、この作品はメチャクチャにヒットした。私自身、時間遡行の厳密さはどうでもいいと思いながら眺めていた。時間遡行が読み取れるリテラシーを、いまどきの視聴者は身に付けているのか? それともリテラシーが足りなくても引っ張っていける牽引力をこの作品が持ち合わせていたからか?
 
 たぶん両方なのだと思う。アニメリテラシーの浸透した機の熟したタイミングに、しっかり整形された新海誠アニメが出てきて話題をさらった──それが『君の名は。』だったのだと思う。
 
 
 6.魔法少女まどか☆マギカ
  
 2010年代のはじめに突然現れ、当時のタイムラインを席巻したアニメ。久しぶりに観ると、魔法少女たちの豆腐のような顔立ちが気になるが、そんなのは些末なことでしかない。顔立ちに慣れる頃にはすっかり虜になっていて、魔法少女たちのファンになっていた。
 
 この作品をきっかけとして魔法少女を歪んだ目で見るようになった人は多いと思う。そして魔法少女をもともと歪んだ目で見ていたベテランのアニメファンには最高級のエンターテイメントだったに違いない。はじめのうち、私は斜に構えて眺めようと努力していたが、マミさんが敗北し、さやかのソウルジェムが濁り始めた頃にはすっかりやられてしまって、毎週毎週テレビにかじりつくことになった。振り返ってみれば王道の展開だったのかもしれない。が、当時はそんなことを考えている余裕は無かった。気が付けば、魔法少女5名のねんどろいどを買い集めてしまっていた。
 
 2010年代のアニメを一本だけ推薦しなさいと言われたら、私はこの『まどか☆マギカ』を推すと思う。少なくともアニメをよく見ている人にはこれを推挙したい。アニメをあまり見ていない人に勧めるなら『君の名は。』しかないだろう。広く受け入れられやすい素地を持ち、いまどきのアニメらしさを備えていて、知名度も優れているから、あれを第一とする人がいてもおかしくはない。
 
 
 ともあれ、この6本は私には思い出深く、忘れがたい。やや偏ってはいるけれども、どれも人の心を動かす潜在力を持った作品だとも思う。2010年代のアニメを私が他人にお勧めするとしたら、間違いなくこのなかから選ぶ。

 

選外

 
 挙げるときりがないけれども、選外の作品もいくつか。
 
 
 ・這いよれ!ニャル子さん
 

這いよれ! ニャル子さんF Blu-ray *初回限定版

這いよれ! ニャル子さんF Blu-ray *初回限定版

  • 出版社/メーカー: エイベックス・ピクチャーズ
  • 発売日: 2015/06/19
  • メディア: Blu-ray
 
 ニャル子さんがちゃんとかわいい。主題歌が作風によくフィットしていて、あらかじめ客層を絞っているのは好感が持てた。原作と同じく、くだらなさにしっかり振り切っていてバカみたいな顔をして眺めていられる。
 
 クトゥルフだけどみんなかわいくなってしまうのは、現代日本文化だと思う。
 
 
 ・シュタインズ・ゲート
 
STEINS;GATE コンプリート Blu-ray BOX スタンダードエディション

STEINS;GATE コンプリート Blu-ray BOX スタンダードエディション

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA メディアファクトリー
  • 発売日: 2018/04/25
  • メディア: Blu-ray
 
 ゲーム原作のテイストをほとんど残しているのに意外にゴチャゴチャしていないというか、これも巧くアニメ化した作品だった。「世界線が変わり、萌えが無くなった秋葉原」のシーンをはじめ、アニメという媒体を存分に生かしていたと思う。2019年から見て、2000年代の秋葉原文化のタイムカプセルのように見えるのもポイント高い。
 
 
 ・宇宙よりも遠い場所
  
 『ゆるキャン△』か、『宇宙よりも遠い場所』か、どちらか迷って最終的にこちらをここに。『ゆるキャン△』も、あれはあれでいいものだと思う。
 
 こういう「女性キャラクター複数名がどこかに出かけるアニメ」は苦手意識があって敬遠していたのだけど、これらの作品を観て考えが変わった。良いものはやっぱり良いのだ。
  
 あと、未婚十代の人がこの作品を見るのと、既婚四十代がこの作品を見るのでは、見え方がぜんぜん違うと思う。私は中年になってからこの作品に出会ったけれども、それはそれで良い出会いだった。
 
 
 ・侵略!イカ娘
 
侵略!イカ娘 1 [DVD]

侵略!イカ娘 1 [DVD]

  • 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
  • 発売日: 2010/12/24
  • メディア: DVD
 
 深夜アニメなのに非常に子供向けっぽくつくられていて、それでいて手を抜いている感じがしなかった。うちの子どもも本作品が気に入っていたが、さしあたり「子供向けアニメらしきものを深夜に大人が見る」という目的に最適化された作品、だったのだろう。この作品の後に『スプラトゥーン』がリリースされたのも印象に残った一因だったのかもしれない。
 
 
 ・けものフレンズ
 
Kemono Friends: Complete First Season [DVD]

Kemono Friends: Complete First Season [DVD]

  • 出版社/メーカー: Discotek Media
  • 発売日: 2019/10/29
  • メディア: DVD
 
 二期ではインターネット上でさんざんな評価だったけれども、一期は紛れもなく良くできた何かで、単なるかわいい動物擬人化アニメでもなく、ミステリアスなSF近未来アニメとも言いきれず、手触りが独特だった。後発の『ケムリクサ』のほうが、その独特さ加減が現れていると感じるけれども、総合的には『けものフレンズ』一期のほうがまとまりが良く、とっつきやすかった。
 
 
 ・PSYCHO-PASS
  
 職業上の理由から、「『サイコパス』なんて名前のアニメ、きっとあら探ししてしまうから視ないでおこう」と敬遠していたのが大間違い、市民のメンタルを厚生省が徹底的に管理する近未来ディストピアが舞台の、胸が熱くなる作品だった。『ハーモニー』同様、管理社会についてつい考えたくなる。
 
 公安局刑事課の「つかみの良い」キャラクター造形のおかげか、重たいテーマでもすんなり受け入れられる気持ち良さがあった。シビュラシステムの核心に触れる一期はもちろん、意外にも二期もかなり面白く、現在オンエアー中の三期はなんと一話46分!作品からは潤沢な予算と気迫が感じられて頼もしい。どうか、2019年の締めくくりにふさわしい結末を迎えて欲しい。
 
 
 

2020年代も楽しんでいきましょう

 
 10年間を振り返ってみると、ここに挙げた作品だけでもおなかいっぱいというか、本当にアニメがたくさんある時代なのだなぁと思う。日本のアニメは間違いなく生きた文化で、そのタイムリーな文化を満喫できることを幸運に思う。2020年代も楽しみたい。
 
 

「努力の目利き」は必要。では、どれをどうやって身に付ける?

 
 ※お世話になった方をとおして、ときど『世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0』の献本をいただきました。この文章は、それについての私個人の感想文です。
 
 

世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0

世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0

  • 作者:ときど
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2019/12/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 
 筆者のときどさんは、三十代のeスポーツ現役プレイヤー。中学生時代から大船のゲーセンに通っていたというから、アーケードゲームのプレイヤーとして早くから鍛錬していたようだ。そういう経歴の持ち主だけあって、eスポーツ以前の時代、それこそ『ゲーメスト』や『アルカディア』でスコアを集計していた頃の話も出てきて、私は90年代のアーケードゲームシーンを思い出さずにいられなかった。
 
 現代のeスポーツでは、20世紀よりもずっと試合の回数が多く、録画をとおしてプレイを分析することも当たり前になっている。才能任せなプレイや場当たり的な練習では戦いきれず、キチンと考えて練習しなければ勝ち続けられなくなっているという。ときどさんは、昔はそうではなかったことを踏まえたうえで現代のプレイヤーがどう努力すべきなのかを書いている。ひとつひとつの勝敗にこだわるのでなく、長い目で見て自分自身のスキルアップに繋がるような努力を積み上げ、それでいて情熱を枯れさせないようなクンフーを積まなければ、eスポーツの最前線で活躍し続けるのは難しいように読めた。
 
 また、新人として脚光を浴びることと、長く現役のプレイヤーとして活躍し続けることはイコールでなく、長く現役のプレイヤーとして活躍するために様々な要素に注意を払っている様子も読み取れた。ときどさんが語るeスポーツ観では、実際にプレイしている時だけが勝負なのでない。自分の生活に負担をかけない暮らしをデザインすること、心身のコンディションを整えられるよう心掛けたりモチベーションを守ったりすることも、プレイを左右する工夫の範疇、あるいは努力の範疇となっている。
 
 こうした『努力2.0』の話は、もちろんeスポーツに限定されているようには思えなかった。eスポーツであれ、創作であれ、その他の仕事であれ、他人にどうしても勝ちたい人は、プレイヤーとしての自分自身がいつも良い状態で戦場に臨めるよう、また、最も効率的に努力の成果を得られるよう、あれこれ考えておかなければならないのだと思う。才能を誇ったり努力をひたすら積み上げたりするだけでは、激しい競争世界で勝ち続けることなどできない。
 
 本書は、そういう激しい競争世界で勝ち続けるための努力についての本、ということになる。
 
 

昔のトッププレイヤーに似ているところもある

 
 内容のすべてが目新しいわけでなく、eスポーツ以前の、『ゲーメスト』や『アルカディア』の紙面でトッププレイヤーが全国一を競っていた頃と共通している、と感じる部分もあった。
 
 たとえば強いプレイヤーとの対戦を求めて他所のゲーセンに遠征する点、「なんとなくできる」をキチンと言語化・ロジック化できるスキルに落とし込む点などは、20世紀のトッププレイヤーもしばしば注意しているものだった。私も近場のゲーメスト掲載店のトッププレイヤーから似たような話を何度も聞かされたし、彼らはいちように「努力は必要だけど」「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」と言っていた。
 
 私に「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」と言っていた20世紀のトッププレイヤーの言葉を、より新しく、より精度の高いものにしたら、本書に書かれている内容になるのではないかと思う。
 
 さまざまな面で、本書に書かれている努力や心構えに近いものを20世紀のトッププレイヤーたちは持っていた。おそらく、ときどさんは大船のゲーセン文化*1をとおして、そういったノウハウの一部を継承していたのではないかとも思った。
 
 後で述べるように、ときどさんには努力の目利きをきかせる才能があると私は想定しているけれども、その才能の一部を大船の先達プレイヤーから譲り受けていたとしたら、「努力の目利き」には文化資本として継承できる余地がある、ということになる。
 
 
 

鍵を握るのは「努力の目利き」力

 
 先週私は、コツコツ努力することへの違和感のなかで、こう記した。
 

努力には、信用ならないところがある。にも関わらず、たとえば丸の内の高層ビルで働くようなサラリーマンになろうと思ったら、やはりコツコツと努力を積み重ねないわけにはいかないし、そのような個人を輩出する大学が良い大学、とみんなが考えるようになっている。

 たとえば学校で身につけさせられる努力の習慣、たとえば課題や宿題をこなすような習慣そのものにも一定の効果はあり、それは継承されやすい文化資本ではある。
 
 ところが、みんなが努力しても最終学歴や年収や経歴がバラバラであるように、努力をとおして得られる実力や成果には恐ろしいほどの個人差がある。
 
 だからこそ「ただ努力するだけではダメ」で、「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」なのだろう。
 
 問題は、「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」の部分をどうやって鍛えていけば良いのかがわからないことだ。
 
 さきに触れたように、大船のゲーセンのような生え抜きのプレイヤーが集まる場所に属していれば、どう努力すれば良いのか、いわば、努力の目利きをきかせる力が一定程度は継承されるのかもしれない。
 
 けれども私はまだ、努力の目利きをどうやって鍛えれば良いのか、本当のところはわかっていない。トッププレイヤーの集まるゲーセンと同等程度の環境に属していれば、ある程度は努力の目利きがきくようになるだろう……という漠然とした予感はあるが、努力の目利きそのものを狙って鍛える方法論を私はまだ知らない。
 
 『努力2.0』で述べられているさまざまな工夫やスタイルは、ときどさんがeスポーツの選手にならなかったとしても有効だっただろう。たとえばゲームについては徹底的に自分の道を追求する一方、受験勉強のメソッドは予備校に完全にアウトソーシングするくだりなどは、努力の目利きを利かせているエピソードの最たるものだと思う。
 
 どの努力を・どんな風に・どれぐらいの割合でやっていくのかを選ぶセンスがときどさんにはある。そのうえ、失敗や危機に直面した時にも、何が足りなくて、どのような努力が必要なのかを見抜き、それにふさわしい努力をビルドするセンスにも恵まれているとも思う。こういう人なら、どこの戦場でも、勝っていても負けていても、その努力が無駄になることはなさそうだ。
 
 『努力2.0』には、自分を持つことの重要性も述べられている。が、私が思うに、自分を持って努力するのが効果的な人とは、自分でどんな努力をすれば良いのかがちゃんとわかる人、努力の目利きができている人ではないだろうか。努力の目利きができない人、つまりいくら頑張っても無駄な努力をそびえたつクソのように積み上げてしまう人は、自分に従って努力するより、努力の目利きをコンサルやコーチにアウトソースしたほうが良いと思う。
 
 ときどさんにしても、受験勉強については予備校にアウトソースしてしまっているわけで、必要に応じて他人を頼るのはまったく恥ずかしいことではない。
 
 ただし、「自分は努力の目利きが苦手」と自覚するのも、「この分野はコンサルやコーチにアウトソースしたほうがいい」と判断するのも、これはこれで簡単ではない。努力の目利きができない人ほど自分の苦手なところを他人にアウトソースしたほうがいいはずなのに、その判断自体、努力の目利きができなければ困難というパラドックス。
 
 どんなジャンル・どんな境遇でも努力をとおして糧を得る人もいれば、努力と称して同じ回廊をぐるぐる回り続ける人もいる。ひとことで努力と言っても、努力の効率性や鑑識眼には大きな個人差があり、歳月の積み重ねをとおしてその差はどんどん大きくなっていく。
 
 『世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0』は努力のノウハウについてプロゲーマーが語った本ではあるのだけど、私個人は、その語り口から努力の目利きの卓抜さ、いわば筆者自身の才能を見てしまった気がした。書かれている内容じたいはビジネスや創作にもよく当てはまるし、このような努力の積み方を知っている人が勝つというのはよくわかる。どういう努力を積む人が勝つのかを知るには、読みやすく、わかりやすい書籍だと思う。
 
 残念ながら、私が長年わからないままでいる「努力の目利き力をどこでどうやって身に付けるのか」については、本書を読んでもまだ、わかったと言い切れない部分は残った。努力の目利き力やセンスに、天賦の才能が絡んでいるという印象は、いまだに拭えない。努力の目利き、努力をデザインする力を、人はどこでどうやって獲得すればいいのだろうか?
 
 

*1:注:大船にはアーケードゲームのトッププレイヤーが集まっていた

「自分の市場価値」がついてまわる社会と、その疎外

 


 
 この手のメールを受け取ったことは、一度や二度ではない。けれども今回、携帯キャリア会社からこのメールが届いたことにはちょっと驚いた。さんざん使っているPCのメアドに届くなら理解できるし、珍しくないことなのだけど、ほとんど使っていない携帯キャリアのメアドに「自分の市場価値を測ってみませんか」が届くということは……全国のあらゆる人間にこんなメールが送られているのだろうか。
 
 人間の市場価値とは、どういうものか。
 
 お金をどれだけ稼げるか、どれだけ人気者か、どれだけ他人に好ましい影響を与えられるか、等々によって現代人は他人を値踏みし、と同時に値踏みされることにも慣れている。就活や婚活などはその典型で、純粋な就労能力だけでなく、性格や容姿、趣味や身振りなども含めた、トータルとしての人間の市場価値が測られる。いまどきは、SNSの被フォロワー数なども人間の市場価値の一部とみなされるかもしれない。
 
 だが、こうした値踏みの習慣が昔から一般的だったわけではないし、これほどあからさまだったわけでもない。少なくとも、携帯キャリア会社をとおしてあらゆる人間に「自分の市場価値を測ってみませんか」などというメールがばらまかれ、それが自然に受け取られるほど一般的ではなかったはずである。
 
 この、人間が値踏みされる習慣や通念について、最近読んだ『いかにして民主主義は失われていくのか』という本にスケールの大きい見取り図が記されていたので、それを引用しながら、私なりの考えを膨らませてみる。
 
 

あらゆるものの市場価値化としての「新自由主義」

 
 

いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃

いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃

 
 
 政治学者のウェンディ・ブラウンは著書『いかにして民主主義は失われていくのか』のなかで、新自由主義のロジックが社会に徹底されるようになったことで、民主主義が危機に直面している、と述べる。教育や農業の現場で起こっている新自由主義的変化を紹介したり、人間の考え方や暮らしかたそのものの市場化(ホモ・エコノミクス化)のプロセスを説明したり、なんとも読み応えのある書籍だった。
 
 資本主義のロジックが人間に徹底されること、ひいては新自由主義のロジックが人間に徹底されることとは、人間がお金にがめつくなること、ではない
  

新自由主義とは理性および主体の生産の独特の様式であるとともに、「行いの指導」であり、評価の仕組みである。
『いかにして民主主義は失われていくのか』P14

 

 本書が提案するのは、新自由主義的理性がその相同性を徹底的に回帰させたのだということである。人も国家も現代の企業をモデルとして解釈され、人も国家も自分たちの現在の資本的価値を最大化し、未来の価値を増大させるようにふるまう。そして人も国家も企業精神、自己投資および/あるいは投資の誘致といった実践をつうじて、そうしたことを行うのである。
(中略)
 いかなる体制も別の道を追究しようとすれば財政危機に直面し、信用格付けや通貨、国債の格付けを落とされ、よくても正統性を失い、極端な場合は破産したり消滅したりする。同じように、いかなる個人も方向転換して他のものを追究しようとすると、貧困に陥ったり、よくて威信や信用の喪失、極端な場合には生存までも脅かされたりする。
『いかにして民主主義は失われていくのか』P14-15

 
 ブラウンのいう新自由主義 Neoliberalism とは、学校も、政府も、個人の価値基準や習慣も、すべてが企業化、法人化するような、そのようなものである。たとえば新自由主義のもとでは、学校の良し悪しとは、どれだけ自分の頭で考えられる自由な人間を作り出したかではなく、どれだけ収入の大きな人間を作り出したかによって測られる。
 
 人間もまた然り。人間が、生産価値や消費価値といったもので測られることはそれまでにもあったけれども、新自由主義の浸透した社会ではもっと進んで、投資効果や費用対効果にもとづいて人間が値踏みされる。人間の行動原理も新自由主義的になり、企業としての自分、法人としての自分のバリューを拡大することが現代人の関心のまとになる。学校を選ぶのも、パートナーを選ぶのも、インスタグラムにアップロードする写真を選ぶのも、すべてこうしたバリューの拡大という関心に基づいたものとなる。
 
 ブラウンはさらに踏み込んで、そもそも今日のホモ・エコノミクスほど徹底的に新自由主義的となった個人は、もう「関心」というものを持たないかもしれない、とも述べている。企業化・法人化してしまった個人に、ほんとうに「心」などというものは必要だろうか? 
 
 政治の良し悪しも、どれだけ資本主義経済に仕え、貢献したのかによって測られることになる。ガバナンス、ベストプラクティスといった企業のボキャブラリーが政治のボキャブラリーになっていくと同時に、経済合理性の追求が政治の至上命題になっていく。
 

 端的に言えば、ベストプラクティスは、統治、ビジネス、知の活動を非市場的価値や目的をさりげなく追放する市場のエピステーメーへ親和的にするだけでなく、合併させてしまうのである。ベストプラクティスが新自由主義体制において、かつては明瞭に区別されていた統治、ビジネス、知の意図や目的を重ね合わせるとき、それはこうして重層化によって、規範への挑戦を新自由主義的理性へと去勢するか、あるいは逸脱させてしまうのである。
(中略)
 たんなる技術であると主張しながら市場価値を携えることによってこそ、ベストプラクティスはある種の規範を喧伝し、規範や目的についての議論をあらかじめ排除するのである。
『いかにして民主主義は失われていくのか』P159

 
 ブラウンは、人間の経済的特徴は近代以前から存在してはいるが、それは政治的な特徴と並び立っていたのであって、近代市民社会が実現した後も人間はホモ・エコノミクスであると同時にホモ・ポリティクスであった、とみなす。ところが人間も政治も資本主義のロジックに飲み込まれ、経済合理性に仕えるようになったことによって、近代市民社会を成立させていた民主政治が危機に直面している、というのである。
 
 『いかにして民主主義は失われていくのか』には、政治、経済、個人といった言葉にくわえて、統治、規範、様式といった言葉が多用されていて、ちょっと読みにくいところがあるかもしれない。しかし「自分の市場価値を測ってみませんか」というメールが届く社会、お互いに値踏みしあうことが当たり前になった社会のことを、よく説明していると私は思う。大学英語民間試験や東京オリンピック周辺で起こっている現象とも相性が良い。
 
 いろいろな意味で、日本もまた、新自由主義化しているのだろう。
 
 

「ところで、日本に近代市民社会は来ましたっけ?」

 
 ただ、この書籍を読んでいて改めて気になった点がある。
 
 ブラウンは、ソクラテスやアリストテレスからはじまり、近代市民社会へと脈々と受け継がれてきた政治のロゴスを踏まえたうえで、アメリカの新自由主義について議論している。なるほど。アメリカやイギリスやフランスには実際そのようなロゴスの継承があって、近代市民社会が成立してきたのだろう。
 
 ということは、この話は日本や韓国などにはあまり当てはまらないのではないだろうか。
 
 日本にも、近代市民社会を成立させるために頑張ってきた先進的な人々がいたことを、私は知っている。戦前には自由民権運動や大正デモクラシーがあったし、戦後も大都市圏の住宅地では市民運動が盛んに起こっていた。そうした人々には近代市民社会は到来し、彼らは実際、市民だったのだろう。 
 
 だが、そうやって近代市民たりえたのは、日本国民のいったい何パーセントぐらいだったのだろうか? 大正デモクラシーは、どこのどういう人々に、どれぐらい受け容れられたのか? 戦後の市民運動は、どれぐらいの期間、どの程度の人々に支持されていたのか?
 
 

団地の空間政治学 (NHKブックス)

団地の空間政治学 (NHKブックス)

  • 作者:原 武史
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2012/09/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 たとえば『団地の空間政治学』を読むと、戦後のニュータウンにおける市民運動の熱気が伝わってくるし、そのような市民のマスボリュームが小さくなかったことが窺われる。しかし、そのような市民運動の全盛期でさえ、地方では保守政党が支持され、その支持のありようは近代市民社会というよりは前近代的な、いささか権威主義的なものだった。少なくとも私が学生だった頃の北陸地方の自民党政治とは、そのような雰囲気のものだったと記憶している。
 
 そして各都道府県の自民党支持率の推移などを見るにつけても、この国が近代市民社会たりえた期間は短く、その程度や範囲は限られていたのでないか、と思わざるを得ない。
 
 周知のように、現在の自民党は「若返り」を果たしている。多分に前近代を引きずっていた自民党は、前近代ではない何者かになった。だからといって自民党が近代市民社会の政党になったようにもみえない。小泉元首相の改革からこのかた、自民党はおそらく、ブラウンのいう新自由主義に親和的な政党へと変貌し、そのように政策を推し進めてきた。
 
 
 [関連]:若者はなぜ自民党を支持するのか|研究・産学連携ニュース|中京大学
 
 
 そんな自民党を支持している若い人々は、みんなホモ・エコノミクスとしてカリカリに訓練されているのかもしれない。「仕方なく自民党を支持している」「ほかに頼れる政党がないから」と主張する人もいるだろう。だがそもそも「自民党が他の政党よりマトモにみえて、他の政党より仕事をしているようにみえる」その判断基準じたいがブラウンのいう新自由主義的ロジックに染まっていれば、非-新自由主義的な政党は正統性の乏しい、マトモではない政党とうつるだろう。
 
 だから私は、20世紀中頃に市民運動に参加した人々を例外として、この国の政治は前近代から新自由主義的状況にジャンプしたのではないかと考えているし、ひいては、多くの人々の意識や習慣も近代市民社会を経由することなく、前近代から新自由主義的状況にジャンプしたのだろう、と想像している。
 
 ブラウンの議論のうち、近代市民社会についてのくだりは、日本のかなり広い範囲には該当するまい。資本主義と並び立ってしかるべき近代市民社会のロゴスや、ホモ・エコノミクスと並び立ってしかるべきホモ・ポリティクスが根付かないうちに、モノも人も思想も習慣もとことん資本主義化した社会がやって来てしまった。
 
 

市場価値を問い続ける社会からの疎外

 
 だいぶ長い文章になってしまったので、そろそろ終えよう。
 
 資本主義化の徹底によってベネフィットを得た人も多かろう。が、この状況に疎外されている人もまた多かろう。そもそも新自由主義が徹底した国はどこも、たくさんの人々が疎外されていると同時に、そのような状況が新自由主義的ロジックにもとづいて正当化され、「筋が通っている」とみなされている。政治も人間も資本主義に飲み込まれてしまった社会のなかで、資本主義の徹底に抵抗するのは、カトリック全盛期のヨーロッパでカトリックに抵抗するのと同じぐらい難しいのではないだろうか。
 


 
 人間という存在は、法人でも企業でもない。生身の、こころを持った、実存的存在である人間は、市場価値というモノサシのなかで簡単に疎外されてしまう。新自由主義が徹底した国ではたいてい、抗うつ薬が劇的に売り上げを伸ばしている。そのような疎外や抑鬱も、「筋が通っている」とみなされてしまってはどうしようもない。
 
 「自分の市場価値を測ってみませんか」というメールが届く社会を、その「筋の通っているさま」を含めて批判するのは、とても難しいことのように思える。だからといって、この社会状況を黙って肯定して構わないものだろうか? とても、そんな風には思えない。
 
 
資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

  • 作者:マーク フィッシャー
  • 出版社/メーカー: 堀之内出版
  • 発売日: 2018/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 

「コツコツ努力する」への違和感、あるいは反発

 
anond.hatelabo.jp
goldhead.hatenablog.com
 
 二人が書いた二つの人生を立て続けに読み、何か書きたくなった。
 私の脳内で最近渦巻いている何かが出かかっている。
 うまく書けるだろうか。
 
 
  *    *    *
 
 
 「底辺を這うおれには努力というものがわからない」を記したgoldheadさんには、文筆の才能があると私は思っている。ところがgoldheadさんはコツコツと努力を積み重ねることができなかったか、やらなかった。できないとやらないは、ある程度は重なるが、ある程度は別の問題でもある。ともあれ、自分自身の能力や才能を、努力をとおして「社会化」することにgoldheadさんが長けていなかったことだけは間違いないだろう。
 
 対照的に、「追いつけ追い越せ」を記した匿名筆者さんはコツコツと努力を積み重ねることには長けていて、学歴に勝る同輩たちを追い越してしまった。
 
 匿名筆者さんの学力は凡庸だったのかもしれない。才能も乏しかったのかもしれない。が、コツコツと努力を積み重ねることには長けていた。この文章を読みづらくすることを覚悟のうえで例えるなら、匿名筆者さんはある種のライトノベルやウェブ小説の主人公にいてもおかしくないタイプだと、思う。光るものが無いようにみえて、実は汎用性の高い、特別なものを持っている主人公。匿名筆者さんは、「コツコツと努力を積み重ねる才能」があるのだと思う。あるいは「社会化の才能がある」とでもいうべきか。
 
 ここでいう社会とは、もちろん現代社会のことだ。中世ヨーロッパ社会で必要とされる社会化と、現代日本で必要とされる社会化では、その内実はだいぶ違う。バブル崩壊後、「努力より才能」という言葉が流行した時期があったが、中世ヨーロッパなどに比べれば現代社会は個人の努力がモノをいう余地が大きい。そして匿名筆者さんは、他の才能はともかく「コツコツと努力を積み重ねる才能」には秀でていたのだろう、と思う。特別な才能も何もないようにみえて、学歴に勝る人々を追い抜いて着々と出世する人に、私はそのような才能をみずにいられない。くだんの文章には記されていないけれども、人間関係を生かす力とか、意見を調整する力とかにも恵まれているのかもしれない。
 
 じゃあ、みんなコツコツと努力を積み重ねられれば現代社会でうまくやっていけるのか? そうではあるまい。goldheadさんのような人もいるし、自分ではコツコツと努力を積み重ねているつもりなのに、まったく花の咲かない人もいる。努力には、信用ならないところがある。にも関わらず、たとえば丸の内の高層ビルで働くようなサラリーマンになろうと思ったら、やはりコツコツと努力を積み重ねないわけにはいかないし、そのような個人を輩出する大学が良い大学、とみんなが考えるようになっている。
 
 
 それだけならまあいいのかもしれない。
 もっと陰鬱なことを考えてしまうこともある。
 
 goldheadさんは冒頭リンク先で、以下のようなことを書いている。
 

つーわけで、おれが言いたいのは……なんだ? なんだかわからん。おれを反面教師にしろといったところで、生まれつきやる気のない、気力のない、努力のできない人間というものもいるだろう。おれのように精神障害者になるやつもいるだろう。そういう人間は……生まれてきたのが間違いだったな、としか言いようがない。勉強し、成果を出し、出世できる人間、金儲けできる人間のためにこの社会は存在している。だから、そんな社会に生まれてきてしまった、競争に向いていないやつは不運だった。残念だ。おれからもストロングゼロを一杯おごろう。ロング缶じゃないぜ。

 勉強し、成果を出し、出世できる人々、金儲けできる人々が社会の中心で活躍している。そういう人はストロングゼロのロング缶を飲んだりはしないのかもしれない。持ち前のコツコツ努力で、フィットネスジムに通って健康的な生活をしているような気がする。
 
 そういうよくできた人々に及ばないまでも、そこそこ頑張って、まずまず安定した生活をして、苦楽のなかで生きている人も多い。
 
 では、努力する才能に恵まれない人々、気力のない人々、コツコツやれない人々は、現代社会でいったいどうなるのか? 苦しかないのか? いや、苦しかないというのは極端としても、goldheadさんがしばしば述べるように、不運や不遇、低い自己評価といったものを仕方なく受け入れるしかないのか。
 
 コツコツ努力できない人がおのずと低い自己評価を持たざるを得ない社会は、なぜ、そのような社会のままでも構わないとみなされているのだろうか?
 
 現代社会は、メリトクラシー、能力主義によって給料や社会的地位が変わることになっている。能力主義が成立する前の、身分制度の世の中に比べればマシだというのは理解できる。ただ、その能力主義がすっかり隅々にまで浸透し、みんなの常識になった結果として、その競争ルールでは不利にならざるを得ない人々が不遇をかこつ状況までもが正当化されて構わないものなのか、その正しさが、私にはときどきわからなくなる。
 
 能力のある人々が頭角を現すのは、別に構わない。けれども当代に期待される能力が乏しい人々が、単に収入や地位が得られないだけでなく、その内面において「自分はどうしようもない」と思わざるを得ないのは、行き過ぎているのではないだろうか。
 
 ところがこの行き過ぎが社会の常識にまでなっているものだから、「能力も努力も足りなかったのだから仕方がない」の一言で片づけられてしまう。
 
 もうちょっと物分かりの良い人なら、「だから福祉が何とかしなさい」といったことをいう。福祉! もちろん福祉はあったほうが良い。だけど福祉は、この能力主義のピラミッドゲームを緩和しているのだろうか?
 
 福祉は、いまどきの能力主義に乗り切れない人々を能力主義の枠内へと再収納することによって、しばしば救う。だが福祉は、いまどきの能力主義に乗り切れない人を能力主義の枠外のまま救うようにはできていないように、私にはみえる。
 
 
 
 ……うまく書けている気がしないな。
 
 
 別の言い方を試みてみよう。
 なぜ私たちはコツコツと努力するのがさも人々の義務みたいな顔つきをしているのか。コツコツと努力できない人々がよろしくないような顔つきをしているのか。そのあたりがわからないのだ。わからないといって語弊があるなら、この、努力とか上昇志向といったものが浸透した社会の常識を胡散臭く眺めたくなる、と言い換えるべきかもしれない。
 
 社会は、何百年も前からコツコツと努力する人々で満ちていたわけではない。ましてや、コツコツと努力する人間をあるべきテンプレートとしてきたわけでもない。ところが今日では、それがテンプレートのようになって、私たちの罪悪感や劣等感や徳目とも結び付いている。
 
 私は今、現代社会では当たり前になっているものについて書いているから、ほとんどどうしようもならないことについてウダウダ書いているも同然だ。少なくとも私はこの常識にかなり染まっている自覚があって、たとえば、ガチャの荒ぶるソーシャルゲームを遊んでいる時ですら、マネジメントとか効率性とか、資本主義の呪文を唱えながら努力してしまっている有様だ。遊戯の時ぐらい、私はもっと気ままに、もっと自由に遊んだっていいはずなのに。
 
 コツコツ努力するという、現代社会を貫くイデオロギーに背を向けるのは高くつく。私のような人間は、コツコツ努力するというイデオロギーについてむやみに考えず、むやみに疑わず、もっとよく仕え、もっと賛美すべきなのかもしれない。だが、goldheadさんの文章を読むと、それでいいのかという気持ちになる。
 
 
  *    *    *
 
 
 私はまだ、脳内に渦巻いているものをうまく書けていない、と思う。「コツコツ努力する」は、私が言いたかったことの一部でしかない。goldheadさんが書いていたことのメインテーマ……でもなかったような気がする。ただし、「コツコツ努力する」をはじめとする現代社会の常識に、今の私が強い違和感をおぼえていることはよくわかった。私自身は「コツコツ努力する」が得意な部類とおもわれ、それで社会適応を助けられたが、すべての人にこれが求められるのは、何か違う、と思わずにはいられない。
 
 

オンラインゲームで社会勉強しているあなたへ

 ※この文章は、オンラインゲームをとおして社会勉強をしている人への個人的な手紙です。
 
 
 
 オンラインゲームをとおして社会勉強をしている、親愛なるあなたへ
 
 
 こんにちは。あなたは今、オンラインゲームからたくさんのことを教わっていますね。あなたのことを知っている者の一人として、そのことをうれしく思っています。
 
 オンラインゲームの世界は楽しいですか? もちろん楽しんでいることでしょう。あなたがプレイしている姿は一生懸命で、プレイヤー同士の会話も楽しんでいるようにみえます。一緒に遊んでいる年上のプレイヤーの人々は、あなたが年下だと知ったうえで、よく付き合ってくださっていると思います。
 
 インターネットには良い人間も悪い人間もいますが、彼らはそのなかでは付き合いやすく、礼儀正しい人々のように私にはみえます。オンラインゲームで最初に出会ったのが彼らだったのは、とても運の良いことでした。彼らとのゲーム体験はずっと忘れない思い出になるでしょう。仲良くなっても礼儀正しさを忘れず、感謝の気持ちをもって付き合って欲しいと、私は願います。
 
 最近はあなたもオンラインゲームにすっかり慣れて、お金の価値、アイテムの価値、狩場に必要なバフを理解しています。たった数%の攻撃力のちがいで、狩りの効率がびっくりするほど変わってしまうことを、あなたはもう知っていますね。それと、数%のバフやデバフの積み重ねによって攻撃力や回復力が100%以上高まることも体験しています。
 
 
 さて、ここまではオンラインゲームの話でしたが、こうしたゲームの特徴は、あなた自身が強くなっていく場合にもそのまま当てはまります。
 
 オンラインゲームのキャラクターと同じく、あなたも毎日のように狩場に通っていて、毎日のように経験値を稼いでいます。学校に行くこと、仕事に行くこと、旅行に行くこと、オンラインゲームを遊ぶこと、これらはすべて、あなたに経験値をもたらしてくれる狩場です。
 
 オンラインゲームのキャラクターと同じように、現実の人間も、バフやデバフによって強さや経験値効率が変わります。
 
 たとえば夜遅くまで起きていて、朝早くに起きた日は、眠たいですよね? 眠たい時、私たちの仕事や勉強には数%~数十%のデバフがかかります。それどころか、ステータス異常の「眠り」が発生してしまうこともあります。オンラインゲームで「眠り」が狩りを中断させてしまうのと同じで、あなたが「眠り」になってしまうと狩りは中断されてしまいます。だから寝不足というデバフは、あなたが稼げる経験値の量を少なくしてしまうでしょう。
 
 ちゃんと食事をとる、気温にあわせた服を着る、こういったことの積み重ねによって私たち人間はバフを受けたりデバフを受けたりします。クラスメートや仕事仲間との人間関係がバフやデバフを生むこともあります。そうしたバフやデバフが毎日の狩場効率をすごく左右しているのです。
 
 あなたがキャラクターを大切にしているのと同じように、あなたはあなた自身を大切にしてください。そしてデバフがたくさんかかっていると思った時には、まずデバフを解除すること、言い換えると、あなたのコンディションをもとにもどすことを大切にしてください。寝不足や空腹をほったらかしにしていると、風邪をひいてしまうかもしれません。風邪ならまだ治しやすいですが、もっと重い病気になってしまったら大変です。
 
 バフやデバフ以外にも、オンラインゲームと現実の人間で共通しているものがあります。それは「限られた時間のなかで、どれだけ成長できるか」によって、おいしい狩場が取れるのかどうかが変わってしまうことです。
 
 あなたはオンラインゲームをとおして「なるべく早く成長して、なるべく良い狩場に早く行けると効率が良い」ということをすでに知っています。これは、現実の人間でもだいたい同じで、同じことを早くにやるのと遅くにやるのでは狩場効率はかなり変わります。狩場効率が変わるから、みんな一生懸命にがんばって、できるだけ良い狩場をめぐって競争している、とも言えます。
 
 「良い狩場に、混雑する前にたどりつく」という考えかたは、オンラインゲームでも人間でも同じです。同じだと思っておいて、だいたい合っていると私は思っています。
 
 このように、あなたがオンラインゲームで経験していることは、人間の生活にも当てはまることが多いので、オンラインゲームで学んだことはあなた自身の生活にもきっと役に立つはずです。残念ながら、オンラインゲームのプレイヤーのなかには、ゲームで学んだことを自分自身の生活でできない人もいます。けれども、あなたのまわりにいる年上のプレイヤーはそうではありませんし、私も、オンラインゲームから学んだことのおかげでこうして元気に生活しています。せっかくオンラインゲームをやっているのですから、たくさんのことを学んで、あなたの人生に役立ててください。
 
 なお、人間の生活は、オンラインゲームでいう「ハードコアモード」なので、たとえばあなたが交通事故で死んでしまったら、復活せずに消えてしまいますのであしからず。こうした違いにも気を付けながら、オンラインでもオフラインでも活躍していきましょう。それでは、また。