シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

バトンの隙間を埋めてくれていた人々

 
 冠婚葬祭。子育て。生業。
 
 そういった処世の術は、祖父母から親へ、親から子へ、子から孫へと単線的に引き継がれていったわけではなかった。きょうだい、おじおば、近所の葬式ばあさん、そういう複線的なラインで下の世代に伝授されていった。
 
 ところが核家族化が進んだ現代では、冠婚葬祭にしても子育てにしても、親から子へ、子から孫へと、単線的にしか受け継がれていかない。生業は学歴というフィルターをとおして継承されるが、これも、核家族の文化資本と学校を経由して継承されるものになり、結局核家族の内側で、おおむね単線的に継承されていく。
 
 思春期の作法、成人期の作法、老人の作法といったものの継承も変わった。地域の生活とライフステージが不可分の関係にあった頃、ライフステージごとの作法は親以外の年長者複数名をロールモデルとし、地域の行事や風習のなかで学び取っていくものだったが、核家族化が進んだことに加えて、きょうだいの数が少なくなり地域の行事や風習が希薄になったことによって、両親以外の年長者からライフステージごとの作法を学びとるラインは相対的に、しかし着実に少なくなった。
 
 人間は、両親だけから人生を学ぶのではなかった。もっと沢山の人から学ばなければ足りないし、とりわけ学齢期以降の、親子の心理的な距離が広がっていく時期はそうだった。両親以外の年長者がことごとく「赤の他人」同然の子どもとて、学校や塾やメディアの年長者をとおして学べるところはあるだろう。しかしその学びのプロセスはどうしても他人行儀なものとならざるを得ない。
 
 処世術のバトンを世代から世代へと渡せなくなった、とは言わない。
 が、処世術のバトンを受け取るのも渡すのも、現代ならではの難しさはあるとは思う。
  
 親から子へ処世術のバトンを渡す際には、親子の年齢差もネックになる。ロールモデルとするにも、反面教師とするにも、親から子へのバトンの継承は年齢差が大きすぎて、いわば飛び石のようなところがある。
 
 かつては、5~10歳年上の兄貴や姉貴のたぐいが間に挟まるかたちで処世術のバトンの継承は行われていたはずだった。親子という単位に限らず、地域共同体や血縁共同体といった単位をとおしてもバトンは渡され、受け取られていたはずだった。だから昔は、バトンを渡す者と渡される者の年齢的距離は親子に比べてずっと近かった。
 
 それが今では、これが親子という単位のなかでほとんど完結せざるを得ないようになってしまった。年齢差による断絶を克服し、親から子へ首尾よくバトンが継承された場合でも、親以外のエッセンスが混じる余地が少ない。町内のおっちゃんやおばちゃんから受け取るエッセンス、いとこや親戚の年上から受け取るエッセンス、そういったものが混じらない純化したバトンの継承。それで都合の良いこともあるだろうけれども、それで都合の悪いこともある。
 
 たとえば、親から継承された処世術のとおりに生きられなくなった時にスペアになるようなバトン、親とはちょっと違ったロールモデルになるようなバトンを、どこでどうやって子どもは手に入れられるのだろう? この、社会契約と合理主義の徹底した令和時代のなかで、いったいどこの誰が「赤の他人」ではない年上という役割、いわば兄貴や姉貴を引き受けてくれるものだろうか。
 
 どんなに科学が進歩しても、親の死・子の誕生・結婚生活といった出来事によって人が受ける衝撃は変わらないのではないだろうか。その当事者のよろめきや、よろめきから立て直す所作のようなものは、赤の他人ではない人間の、生の声を経由したほうが、継承しやすいのではないかと思う。そういった、教科書を読んでも心にインストールされることのないバトンが、先行世代から後発世代へと受け継がれにくく、よしんば受け継がれるとしても親から子へと単線的にしか手渡されないのだとしたら、これは、なかなか難しいことであると同時に、実のところ非効率な継承ではないだろうか。
 
 こうしたバトンの継承は、科学的でもなければ経済的でもないため、バトンの継承がうまくいかなくなったことを問題視する人はあまりいない。私がここでバトンと言っているものが継承されなくても、GDPが下がったりしないし、サイエンスやビジネスが停滞することもないだろう。だとしても、そうしたバトンの継承の喪失もまた、喪失には違いない。
 
 私たちはバトンの隙間を埋めてくれる人たちを失った。というより、バトンの隙間を埋めてくれるような社会関係を失った。
 
 鼻息の荒い人は、「処世術のバトンなど、経済力でどうにかしてしまえば良い」とか、「自発的な学習と自己選択でどうにかできる」、と言い切ってしまうかもしれない。そうかもしれない。だが、誰もがそんなに鼻息が荒いわけでも、経済力や自発的学習や自己選択に優れているわけでもないと、私は思う。個人が自由に生きたいと思う際にも、継承された処世術の手札は大いに越したことはないし、バトンを渡してくれる手は、ひとつであるより複数であるほうが望ましいはずだ。
 
 しかるにバトンの隙間を埋めてくれていた人々と、その社会関係のことは、あまり思い出されないし、あまり語られない。だから私は、時々こうやってバトンの隙間を埋めてくれていた人々のことを思い出し、インターネットに放流したくなる。たとえ、それがバトンを渡すことの代償行為に過ぎないとしてもだ。
 
 

他人と話さないで済ませられる現代社会

 
 以下に記すことは、おそらくポストモダン思想が流行した1980~90年代にどこかの誰かが文章化しているとは思う。そういう意味では新規性のある文章だとは思えない。
 
 ただ、20世紀に流行したポストモダンなるものは、最も経済資本や文化資本に恵まれた「シラケ世代のエリート」たちに専ら該当する話で、なおかつ、彼らの間で消費される言説でしかなかった。2019年の現在のほうが、社会の末端にまで「シラケ」というより「不信」が広がっているので、今、こういうことを考えるのも無意味ではないと思うので書いてみる。
 
 現代社会を生きる私たちは、ロクに他人と話していないのではないか、というのが今日のお題だ。
 
 


 
 先日、上掲のツイートを読み、そうだよね、と私は思った。
 
 法律化という言葉だけでなく資本化・経済化といった語彙を当てはめてもよく似合う。話し合いによって個人と個人の問題を解決するのでなく、法制度やお金によって問題を解決する。それに加えて、たとえばSNSのブロックやミュートがわかりやすいが、アーキテクチャ(空間設計)によって揉め事を減らすようにする。これらの問題解決方法では、従来的にいわれていたところのコミュニケーションが占めるウエイトは小さい。たとえば法制度やお金で問題を解決する時には、それらが媒介物となってやりとりが進んでいくから、人と人とがじかに出会って話す際に特有の問題は顕れない。法制度やお金で問題を解決する時には、私たちは法や金銭を媒介物として、法的解決や売買に即したコミュニケーションだけを実践している。
 
 逆に言うと、法的解決や売買の場面で、それ以外のコミュニケーションを差し挟むことは歓迎されていない。たとえばコンビニで弁当を買って温めてもらう際には、そのためのコミュニケーション以外は基本的にノイズとみなされる。売買のやりとりと、弁当を温めるという仕事上のやりとりがあるだけだ。世間話をしたり、店員さんの近頃の悩みについて質問したりするのは無粋なことである。逆に、私たちがスムーズにコンビニで弁当を温めてもらえるのは、コンビニでのコミュニケーションが売買に特化していて、お金と仕事以外のコミュニケーションが除外されているからだ。
 
 これと対照的なのは、地域共同体での売買、たとえばご近所の日用雑貨店での売買だ。お店を訪れると、世間話や噂話と一緒くたになったかたちで売買の話が始まる。付き合いによって値段が変わったり、義理で買うとか、そういったことも起こる。こうしたコミュニケーションは売買に特化していない。地域共同体のご近所関係の一環として売買は位置付けられ、ご近所同士のコミュニケーションは、お互いのことを知り過ぎてしまいがちでもある。
 
 学会やカルチャースクールでのコミュニケーションも、実はこれに近いと思う。
 
 学会でのコミュニケーションは、その学会の研究にまつわるものが中心だ。一定の雑談は許容されるが、基本的に、学会に関連しない話を延々とされることは歓迎されていない。カルチャースクールでも、お稽古ごととその周辺にまつわるものが会話される。学会でもカルチャースクールでも、共通の関心事が媒介物となってコミュニケーションが行われていて、会話がその媒介物から遠ざかれば遠ざかるほど、その会話はノイズとみなされるおそれが高くなる。
 
 学会やカルチャースクールで人と人がコミュニケーションする時、私たちは学会や稽古事という媒介物についてはどこまでもコミュニケーションできるが、媒介物の外側についてコミュニケーションすること、知り合うことは基本的に歓迎されていない。たとえばカルチャースクールで出会ったメンバーにプライベートに踏み込んだ話を持ち掛けるのは、かなりの勇気が要る。へたをすれば、相手からハラスメントとみなされる可能性もある。
 
 いまどきの職場でもそれはあまり変わらない。職場では、仕事という媒介物にまつわるもののコミュニケーションが行われるのであって、そうでないコミュニケーションは歓迎されない。天気の話ぐらいなら大丈夫だが、プライベートな悩みについて上司や部下と会話することは歓迎されない。
 
 そう、いつも私たちは「○○にまつわる話」や「××についての話」をし続けているし、それが望ましいとされている。○○や××の話、あるいは法制度や金銭が媒介物となった会話にあまりにも慣れている。そうすることによって私たちのコミュニケーションは目的に特化し、効率的なものになり、ノイズやハラスメントが混入する心配をしなくて済むようになる
 
 だからこれは文明化された、効率化されたコミュニケーションに違いない。契約社会化したコミュニケーション、と言ってしまっても構わないだろう。契約社会化した2019年の日本の暮らし、たとえば東京での独り暮らしは、何かを媒介物とした「○○にまつわる話」や「××についての話」で専ら構成されていないだろうか。少なくとも地域共同体で長い時間を一緒に過ごすメンバーシップ同士のコミュニケーションとは、質的に異なったコミュニケーションが行われているのではないだろうか。
 
 

「人と話さないで済ませられる社会」の功罪

 
 だから私はこう言ってみたい:現代人はもう「他人と話さずに済ませられる社会」を生きているんじゃないか、と。
 
 職場でもコンビニでもカルチャースクールでもそうだが、私たちはその場のコンテキストにあわせた、媒介物を介したコミュニケーションしている。これは、話題や媒介物と会話しているのであって、職場の同僚やコンビニ店員やカルチャースクールの仲間と会話しているとは言えないのではないか。
 
 お互いのことをやたらと知ることがなく、話題や媒介物とだけコミュニケーションする社会になって、便利になったことは色々ある。
 
 まず、コミュニケーションの効率化。弁当を買って温めてもらう際に余計なコミュニケーションをしなくて構わないコンビニは、世間話をしなければならない地域共同体の日用雑貨店より、コミュニケーションの効率が良い。少なくとも売買に関してはそうだろう。
 
 仕事やカルチャースクールでも、余計なコミュニケーションをしなくて構わないほうが煩わされることがなく、効率の良いコミュニケーションができる。効率の良いコミュニケーションができる社会は、生産性が高い社会、とも言えそうだ。
 
 それと、プライバシーを守りやすい。地域共同体ではコミュニケーションの話題にならないものはなく、お互い、なんでも知り合い過ぎてしまう。対して、その場その場で「○○にまつわる話」や「××についての話」を繰り返している限り、私たちはプライバシーをお互いに守りあうことができる。
 
 媒介物を介したコミュニケーションで私たちがプライバシーを守りあえるのは、余計なコミュニケーションをしないことに加えて、私たちがバラバラに暮らしていて、職場やコンビニやカルチャースクール以外に接点を持ち合わないからでもある。
 
 だからこれは、お互いのプライバシーが守られるような現代風の街に住んでいなければ実現しようのない話だ。たとえば噂話がたちまり広がり、ウチとソトとの垣根がしっかりしていない百年前の農村では、何をどうしたってプライバシーは筒抜けになってしまう。いまどきの街・いまどきの住まいといった、プライバシーをしっかり守れるアーキテクチャが整備されてはじめて、媒介物を介したコミュニケーション、ひいては、他人のことを知らずに済ませられるコミュニケーションが現実のものになる。
 
 だから「人と話さないで済ませられる社会」には間違いなくメリットがある。いちがいに否定できるようなものではない。
 
 ただ、良いことばかりでもないように私は思う。
 
 第一に、プライバシーが守られるようになって、私たちはナルシシズムにのぼせあがりやすくなってはいないか。
 
 媒介物を介したコミュニケーションに専心しているおかげで、私たちはそれぞれの場所で"良い恰好"ができるようになった。職場の顔、コンビニでの顔、カルチャースクールでの顔。そうやって使い分けることで"良い恰好"ができるおかげで、私たちはナルシストになれる。だから少なくともある部分では、ナルシシズムはプライバシーの産物とも言える。"良い恰好"ができなければナルシストはナルシストを貫けない。
 
 ナルシストでいいじゃないか。
 そうかもしれない。
 
 ただ、八方美人ナルシストというのは疲れるしコストもかかる。そして孤独だ。どこでも"良い恰好"な自分を演出してまわるうち、いったいどれが本当の自分なのか? などという益体もない疑問を抱いてしまう人もいる。そこから発展して、役割ごとに態度を変える「ペルソナ」や「分人」といった考えを持つ人もいるけれども、その「ペルソナ」や「分人」を束ねている人格は結局ひとつなのだから、「ペルソナ」「分人」の運用コストを私たちは払わなければならなくなり、その辻褄をひとつの人格のなかであわせもっていなければならなくなる。これは、得意な人は得意だが、誰もが得意なものとは思えない。人格の辻褄合わせが苦手な人にとって、それは心理的コストの源たりえる。
 
 もうひとつは、他人と出会うことにいつまでも慣れることができない、ということ。
 
 塾でも職場でもカルチャースクールでも媒介物を介してコミュニケーションをして生まれ育っていると、それが板について当たり前になってくる。売買や就労に関しては効率的で生産的なコミュニケーションだから、さしあたり問題ないだろう。だが、誰かと親密になりたい時、誰かと多チャンネルでコミュニケーションしたい時には、この方法は通用するものだろうか。
 
 たとえば友達や恋人とより親密になりたいと思った時、仕事を媒介物として、お金を媒介物としてコミュニケートして、いったいどこまでお互いのことを深く知り合うことができるだろうか。
 
 できるだけ沢山の媒介物を持ってくることで、ある程度はそれがカバーできるかもしれない。たとえば複数の趣味、複数の興味話題を媒介物とすれば、さしあたってコミュニケーションのチャンネルは増えるだろう。だが、これだけでプライバシーの壁を突破できるだろうか。そうはいかない。ではプライバシーを侵犯しあうのか? そのとおり! しかし「○○にまつわる話」や「××についての話」を繰り返している現代人には、そのための流儀がよくわからないし、慣れてもいない。プライバシーを侵犯しあって親密さを深めるプロセスを、塾や職場やカルチャースクールは教えてくれない。
 
 なんということだ。プライバシーを侵犯しあうための方法は契約社会の教科書には乗っていないのですよ!
 
 私たちは売買のようなコミュニケーション、媒介物を介したコミュニケーションの方法については社会からみっちりと教え込まれる。けれども、その正反対のコミュニケーション、お互いにうまくプライバシーを侵犯しあうための方法についてはあまり社会から教えてもらえない。ここのところは独学で何とかするか、生まれた家庭でたまたまハビトゥスとして身に付けているか、どちらにせよ運に任せなければならなくなっている。
 
 子どもをもうけた時、媒介物を介したコミュニケーションに慣れきった私たちの困惑は最高潮に達する。
 
 なにせ子どもには媒介物を介したコミュニケーションが通じない。流行りの映画についてとか、雨模様についてとか、そういった「○○にまつわる話」や「××についての話」が乳幼児にはまったく通じない。プライバシーの欠如した一体状態から親子関係がスタートするので、子育ては、私たちを現代社会から最も遠いところへと遠ざける。現代社会のコミュニケーションの流儀に特化している人は、子どもとコミュニケーションができない。だがそれでは子どもも困るし親も困ってしまう。なにせ、言語という最も根源的な媒介物すら子どもには通用しないのだ。
 
 「言語という最も根源的な媒介物」すら通用しないのは、幼児期、学童期もだいたい同じだ。子どもは言語を少しずつ身に付け、使いこなせるようになるが、言語を主な媒介物としてコミュニケーションできるようになるのはだいぶ後だ。「自分の気持ちは、なにごとも言語化できるようになるのが望ましい」と現代人は考えるかもしれないし、それこそが現代人に求められる資質なのかもしれないが、成長途上の子どもにそれを求めるのは酷なことだ。
 
 だから、ざっくばらんに言って、「他人と話さないで済ませられる現代社会」というやつは、子育てには、あんまり向いていないんじゃないだろうか。これが少子化の原因だと言ったら言い過ぎだろうが、まったく無関係というわけでもあるまい、と私は思う。
 
 

「わかりあわずに済ませられる」幸福と不幸

 
 お互いのプライバシーが保たれ、効率的で生産的なコミュニケーションが実現した結果、ある面では人間にやさしい社会ができあがったと言えそうだし、別の面では人間に厳しい社会になったとも言えそうだ。
 
 どちらが良いとか悪いとかは私にはわからない。
 ただ、そういう社会でそういう生活をしているのだと振り返っておきたい。
 
 

痛いオタク・痛い人の行先は?

 
 2019年のヨイコノミライ - あままこのブログ
 
 
 上掲リンク先の"2019年の『ヨイコノミライ』"というタイトルを見て、歳月を感じずにはいられなかった。『ヨイコノミライ』が完結したのは2006年。それから13年の歳月が流れた。
 
 

 
 
 リンク先の筆者であるamamakoさんは、こんなことを書いている。
 

例えば、今のオタクは、自分のオタ話をするにあたっても、ほんと器用に相手の好みに合わせて話をします。いきなり初手でBLの話をする腐女子や、ロリコン漫画の話を男ヲタなんてものはもうほぼおらず、「カードキャプターってどうだった?」的な無難な話題から、BL的なものやロリコン的なものが受け入れられるか慎重に見極めて来ますし、またそこで相手を傷つけずに「いや、そういう話題は地雷です」みたいなサインを出すのも本当にうまいです。
また、今のオタクは、その場の空気がそういう空気でない限り、めったに作品の批評的な事は言いません。今の若いオタクたちは「語彙がない」なんて自嘲しますが、批評的なことを敢えて言わないだけで、「当たり障りのないボキャブラリー」の豊富さは、昔のオタクなんかより断然豊富です。
(中略)
つまり、今の若いオタクたちにとっては、『ヨイコノミライ』に見られるような幼稚なオタクは、どこか遠い国の、おとぎ話のキャラクター程度のもので、何もリアリティなんかないのではと、思ってしまうのですね。かくしてオタクたちはみんな改心し、自称批評家は僕が死ねばこの世から消滅する。良かったな吉田アミ!これが望みだったんだろー!

 私が2010年以降に出会った年下のアニメ愛好家やゲーム愛好家、いわゆる"オタク界隈"に首を突っ込んでいる若い人々を眺めても、昔のオタクに比べてコミュニケーションが上手いと感じることが多い。コミュニケーションのできるオタクの増加は、オタク差別の軽減と並行して進んだ。キモいオタク、つまりコミュニケーション困難なオタクに対する差別は厳然として残ったが。
 
 今、問題になっているのはオタクかオタクじゃないかではない。コミュニケーション可能な相手なのか、それともコミュニケーション困難な相手なのか──そういったコミュニケーションの意志と能力のほうではないかと思う。もちろんこれは、オタクという趣味ジャンルだけに限った話ではあるまい。
 
 『ヨイコノミライ』が連載されていた頃は、オタクが痛くてもおかしくないという認識があった。そんな有様だからオタクが外部から侮蔑されていたという側面もあったかもしれないが、ともかく、オタク同士の付き合いのなかでは"痛いオタク"がいるものというコンセンサスがあった。『ヨイコノミライ』にリアリティが宿っていたのも、若干の誇張はあったにせよ、同作品の登場人物が"痛いオタク"のステロタイプに沿っていて、"オタク界隈"の住人ならどこかで見たような出来事が描かれていたからでもある。
 
 『ヨイコノミライ』未満の"痛いオタク"だって沢山いた。たとえばTV版『電車男』に出て来る脇役のオタクたちなどは、いかにもコミュニケーションの不得手そうな振舞いをしていた。00年代の頃、不器用そうなオタクがテレビに映るたび、2ちゃんねるの実況板住人が「おまいら」「おれら」と呼び合っていたのも、「オタクは痛くてもおかしくない」、「オタクは不器用でもおかしくない」という認識が共有されていたからだったはず。
 
 それが、まさに『電車男』がヒットした頃から変わっていった。
 2008年に私が書いた文章を引用してみる。
 

オタク界隈という“ガラパゴス”に、“コミュニケーション”が舶来しました - シロクマの屑籠
 当時、“脱オタ”がある程度の段階まで来ていた私は、オタク趣味の内外のそこらじゅうの文化圏に首を突っ込んで回っては、歓迎されたり叩き出されたりしていましたが、そうやって色々な文化圏と見比べて回るにつけても、オタク趣味界隈が最もコミュニケーション貧者が多いように感じられました。後々気づいたんですが、あの頃のオタク趣味界隈って、能力的にはコミュニケーション貧者が多かったかもしれないけれども、コミュニケーションの摩擦のかなり少ない状態でつるんでいられるという、ある種の楽園のような状況が保たれていたと思うんですよね。
 
 ところが、『電車男』以後ぐらいから、どうも様子が違って感じられるようになりました。もう、秋葉原に行っても典型的な“アキバ系ファッション”ばかりとは限らない。秋葉原の本屋に『脱オタクファッションガイド』が平積みされ、メイド喫茶がテレビで紹介されるような時代を経て、いつの間にか秋葉原の服飾のアベレージはすっかり変化してしまいました。“臭いオタク”なんて過去の話で、小綺麗な男女が“とらのあな”の紙袋を持って中央通りを闊歩するのが2008年です。オフ会でも、ただお喋りなだけの五月蠅いオタクや、聞き取りにくい小さな声でしかしゃべれないオタクの割合が急速に減少している気がします。オタクだからコミュニケーション貧者だとか、オタクだからコミュニケーションへの意識が乏しいとかいう傾向は、少しづつ終わりに近づいているんではないでしょうか。

 
 2019年のオタクのありようは、この延長線上にある。オタクを自称する人のうちに全く痛くない、器用でコミュニケーションの上手い人が増えた。それこそamamakoさんの言うような、当たり障りのない会話もこなしてみせるオタクによく出会うようになったと思う。
 
 オタクの裾野も、オタク界隈に出自を持ったコンテンツの裾野も恐ろしく広がったから、いったいどこからがオタクでどこまでが非ーオタクなのか、2019年には判然としない。なにしろNHKがアニソンの番組を放送し、映画館では新海誠の作品がオリコンチャート一位を獲り続けるような時代なのだから。どこまでがオタクでどこからがオタクでないかなんて、わかったものじゃない。
 
 ちょうど最近、居酒屋で店員の兄ちゃんと姉ちゃんがアニソンの話をしていて、そこから「エロゲの歴史」を勉強しているという話が出てきてびっくりさせられた。ここでいう過去のエロゲとは、『Air』や『沙耶の唄』や『CROSS † CHANNEL』のことである。こういった体験にあちこちで出会うのだから、本当に裾野が広くなったのだなと思わずにいられない。
 
 

痛いオタクの行先はどこか

 
 では、痛いオタク、不器用なオタクはどこへ行ったのか?
 
 痛いオタクがたくさんいた頃は、痛いオタクであることはオタク界隈の内輪ではあまり問題にされなかった。外部の人々からオタクが忌避されることはあっても、オタク界隈の内輪では、痛いオタクであることは決定的にまずいことではなかった。まあオタクだしそういう人もいるでしょう、という理解もあった。
 
 ところがオタクでもコミュニケーションできるようになったことによって、オタクでもコミュニケーションができなければならなくなった。たくさんの人々が界隈に流入してきて、それこそ、劇場版『Fate/Stay night』をカップルで観に行く男女がいるような時代になって、「オタク界隈の内側だからコミュニケーションは不問に付す」というわけにもいかなくなった。
 
 もちろん、SNSに完全に背を向けて独りでコツコツとコンテンツに向き合えば、コミュニケーションから隔絶したオタクライフも不可能ではないだろう。だが今日の界隈のコンテンツはしばしばSNSと連動していて、情報はインターネットを駆け巡っている。このような状況下でスタンドアロンにアニメやゲームに向き合うのはそれほど簡単ではないし、どのみち、インターネットの内外で私たちが観測したり出会ったりできるのはコミュニケーションしたいという意志を持ったオタクだけだ。
 
 ここまで考えたうえで、『ヨイコノミライ』に登場するような痛いオタクは、今だったらどこにいるのかについて考えてみる。
 
 かつてなら痛いオタクとして界隈の内輪にいたであろう彼らは、現在ではオタクになる前にドロップアウトしてしまっているか、痛くないオタクになってしまっているのではないだろうか。
 
 「オタクになる前にドロップアウト」とは、思春期を迎える前に不登校を呈してしまったりメンタルヘルスの問題を呈してしまったりして、十分にオタクとして活動することもままならない状況に追いやられているのではないか、ということだ。
 
 不登校やメンタルヘルスの問題が、そのままオタクでいられなくなることとイコールというわけではない。たとえばコミケを往復するオタクのなかにも、精神障害者保健福祉手帳を持参している人をときどき見かける。とはいえ、思春期前半の面倒な時期にコミュニケーションで躓き、そこから人の輪のなかに入っていくのはなかなか難しい。四半世紀ほど前の校内のオタクグループはそういった躓きのある人でも参加しやすい人の輪であり、そういった躓きを避けるためのギリギリのセーフティネットでもあった。
 
 もちろん、オタクグループが躓いた人や躓きかけている人をすべて包摂したわけではないし、オタクグループだけが包摂していたわけでもない。ヤンキーやサブカルも、人の輪に入っていくことの難しい不揃いな林檎たちの所属先として有力だった。が、ともあれ、校内のコミュニケーションの秩序の最下層で踏みとどまれる居場所としてオタクグループがあるていど機能していたのもまた事実だ。こういう話をすると、私より年上のオタク・エリートの人々はだいたい渋い顔をするものだけれど。
 
 言い換えるなら、『ヨイコノミライ』がリリースされていた頃のオタク・オタク界隈には、校内のコミュニケーションの秩序に対する対抗文化としての意味合いがあったと思う。
 
 ところがこの20年間に、オタクも、オタク界隈も、アニメやゲームといったコンテンツも、対抗文化という位置づけからユースカルチャーの本流に近い位置づけに変わってしまった。校内のコミュニケーションの秩序の真ん中付近にいる人までもがアニメやゲームの話をするようになったら、そこは、日陰者が気安く集まれる居場所ではなくなってしまう。
 
 今、どこかに過去のオタク、あるいは過去のサブカルやヤンキーのような、対抗文化たりえる居場所や界隈やはあるのだろうか。
 
 わからない。敢えていえば、twitterのあのへんに、そうした人々が群れているような感じはある。ただしtwitterのあのへんで楽しそうにしている人々は上澄みみたいなもので、痛い人とはいっても言語的能力に優れた、いわば才能のある人々だ。そうでない「痛い人」がtwitterをやると、たとえば、アライさん界隈みたいなところが到達点になるのではないかと思う。
 
 まだ校内にオタク・サブカル・ヤンキーといった対抗文化が存在していた頃、痛い人がいずれかの対抗文化に所属し、思春期をやり過ごす余地はあったように思う。校内に対抗文化の集まりが存在していれば痛い人でも群れることができ、痛い人なりにコミュニケーションや社会経験を積み上げることができた。
 
 

 
 
 だが、校内のコミュニケーション秩序、ひいては社会のコミュニケーション秩序に対する対抗文化が軒並み失効してしまったとしたら、痛い人が群れることができる場所、コミュニケーションや社会経験を積み上げられる場所はいったいどこにどれだけあるのだろう? 
 
 
 福祉が?
 
 いや違う、と私は思う。福祉はそれ自体として対抗文化ではない。たとえばメンタルヘルスの問題を抱えている人が集まれる場所を福祉が提供しているとしても、それが対抗文化だとはまったく思えない。福祉が提供しているのは、根本的に違った何かだ。
 
 
 話がそれかけたので本題に戻ろう。
 
 『ヨイコノミライ』という作品は、オタクが対抗文化として機能していて、そこに痛い人々も所属してオタクをやっていた頃の物語だった。そうした痛いオタクが寄り集まった居場所の、痛さゆえの過ちや弱さをしっかり描いた物語だったと思う。
 
 じゃあ、『ヨイコノミライ』的な痛い居場所がなくなって、痛いオタクがいなくなったほうが良かったのか? 
 
 社会のコミュニケーション秩序があまねく行き渡り、オタクがみんな優しくなって気が利くようになった現状が、20年前よりも良いと言えるなら、そうだと言える。反面、痛い人が所属できる対抗文化が見当たらず、twitterでアライさん界隈をやるほかない現状が厳しいと思えるなら、良くなかったと言うべきだと思う。
 
 私は……とりあえずオンラインとオフラインの双方を行き来できるような対抗文化があって欲しいと願うばかりである。
 
 

愛知県兼業農家に生まれてトヨタ入社は異世界転生か

 
 


 
 今、アニメ化されるウェブ小説といえば異世界転生モノだけど、現代に転生したらどうだろう。異世界もチートのたぐいもなく、平凡に現代、平凡な人生に転生したら、物語としては面白くなくなってしまうんだろうか。
 
 
現代社会で乙女ゲームの悪役令嬢をするのはちょっと大変 -小説家になろう
  
 転生モノだからといって異世界とは限らないわけで、上掲リンク先の作品は、主人公がバブル崩壊たけなわの日本に転生する。ウェブ小説連載だけあって、カタルシスには事欠かず、知識やネタの引き出しも多い。なにより、バブル崩壊に臨む喜び! 仮想戦記モノっぽさがある。悪役令嬢? なのかはさておいてすごく楽しいウェブ小説だ。
 
 それはそれとして、平凡な現代転生は物語にならないものなんだろうか。転生して「『CLANNAD』は人生」みたいな人生をゆく物語を描いたっていいんじゃないか。都会暮らしの効率至上主義にすり切れ、裏切られた主人公が「『CLANNAD』は人生」みたいな着地点に辿り着く転生モノが読みたい気持ちがある。
 
 結婚や子育てを物語るなら、地方、それも豊かな地方がお似合いだろう。
 
 愛知県がいいのではないだろうか。
 
 転生先は濃尾平野の兼業農家、公立学校を出て地元のトヨタ関連企業に入社して高校生時代に出会った少し病弱なヒロインと結婚してファミリーでエスティマを転がして、週末は、イオンモール常滑までゴーなのである。
 
 がしかし、「骨は歌う」さんのツイートを読んで少し考えが変わった。
 
 
 
 愛知県の兼業農家に生まれてトヨタに就職は、異世界でチートなんだそうです。
 
 そうかもしれない。地方に住む者が誰でも土地持ちというわけではないし、どこの都道府県にもトヨタがあるわけでもない。
 
 
寿がきや 即席SUGAKIYAラーメン 111g×12個

寿がきや 即席SUGAKIYAラーメン 111g×12個

 
 
 ナゴヤシティー。中京工業地帯。どこまでも広がる田園。それらを繋ぐ名鉄。南にはセントレア空港を擁し、高速道路網にも抜かりが無い。海にも山にも案外近い。スガキヤ。中日ドラゴンズ。
 
 こうやって長所を数え上げていくうちに、濃尾平野が豊穣の大地のような気がしてきたぞ。
 
 地方といってもいろいろで、とことん交通の便の悪い過疎地~イオンモールがつくられる地方都市~ナゴヤシティー周辺ではだいぶ違う。そこに家庭環境の違いまで加わるのだから、愛知県の兼業農家に生まれトヨタ入社というのは異世界転生も同然、いや、異世界転生そのものではないか。
 
 ということはだ、異世界転生モノの文法を用いて、濃尾平野で「『CLANNAD』は人生」を描くことも不可能ではないのかもしれない!
 
 頭がこんがらがってきたが、ともあれ、「現代社会だけど異世界みがある」はアリだろう。タイトルは「濃尾平野に転生した俺の人生は『CLANNAD』を越えていきます」でどうでしょうか。
 
 や、ウェブ小説では商業作品をタイトルに混ぜたら怒られるんだったか。だいたい誰がこういうウェブ小説を書いてくれるのか。誰も書いてくれないなら自分で書けばいいわけか。いやいや自分じゃ上手に書ききらない。ここまで考えたところで、背中から〆切のピシャリという音が聞こえてきたので今日はこれにて解散。(所要時間20分)
 
 

週末の国道には空気の読めない車がいっぱい

 
 
「IQ」ではなく「コミュニケーション能力」こそ、真の意味での知的能力なのかもしれない。 | Books&Apps
 
 リンク先の記事は、対人コミュニケーションが関与するさまざまな仕事や場面で「他者の考えていることを類推する能力」「社会的知性」が重要であることを紹介している。このあたりがコミュニケーション能力の大事な要素というのはたぶんそのとおりだろう。
 
 ここからお役立ちっぽい話もできそうだけれど、今日は日曜日なので、週末の風景の話をする。
 
 週末になると、地方の国道沿いに建ったショッピングモールに向かって乗用車の長蛇の列ができあがる。地方ではお馴染みの風景だが、ほかの車の挙動を観察していると「他者の考えていることを類推しながら運転しているドライバー」と、「他者の考えていることを類推せずに運転しているドライバー」がいることに気づく。
 
 「他者の考えていることを類推しているドライバー」は、他の車の細かな挙動に反応しているのがみてとれる。前方を走っている車が中央分離帯のほうに寄っていくと、これから右折するのではないかと読み、少し速度を落としながら左側に車を寄せたり、歩行者が横断歩道に近づきながら車道を見つめているのを素早く確認し、横断歩道の手前できっちり停止してみせる。トラフィックの流れを見極め、過不足のない速度を心がけてもいる。
 
 しかし週末の国道には「他者の考えていることをろくに類推せずに運転しているドライバー」もいる。前後の乗用車の挙動に反応の乏しい車、歩行者の目線や動きにも鈍感な車、トラフィックの流れとは無関係に、自分がこれと決めた速度で我が道を行く車。右折するまでそれなりの時間があるはずなのに、右折直前に急にブレーキをかけ、ブレーキをかけた後にウインカーを点灯させる車。etc...。
 
 不慣れな県外ナンバーがこれをやるのは、まだわかる。そのドライバーは道に迷っているのかもしれず、周りの車や歩行者に気を回すゆとりが乏しいのかもしれない。小さな子どもを乗せて運転しているおかあさんドライバーについても、子どもへの対応で気を取られているかもしれない。かなりの高齢者のドライバー。うん、運転お疲れ様です。
 
 だが、国道沿いのショッピングモールに週末に出て来る、地元ナンバーの車はそうではないはずだ。いつもの週末、いつものショッピングモールへ吸い込まれていく地元の車で、ドライバーもそれなり若いのに、他のドライバーや歩行者の意図をぜんぜん読もうとしない車が少なからず混じっている。
 
 そういったドライバーの車が、周囲のことなど我関せずと我が道を行き、あっちをウロウロこっちをウロウロしているのを見ると、怖いなーという気持ちになる。そういうドライバーの車が、リアフロントに「お前をドラレコで観ているぞ、煽ってんじゃねえよ」などと表記していると、かえって煽りたい気持ちになる。もちろん煽ったりはしないけれども、「他のドライバーのことも歩行者のことも観てもいないのに、俺は我が道を行くぜと自己主張している車」という印象を持たずにいられなくなる。
 
 
 

「他者への思いやり」「譲り合いの精神」には社会的知性が必要不可欠

 
 
 自動車学校の教習では、ドライバーとしての心構えとして「他のドライバーや歩行者への思いやり」や「譲り合いの精神」を教えられる。これは、良い理念だと思う。
 
 しかし実際にこれらをやってのけるためには、まさに「他者の考えていることを類推する能力」、すなわち「社会的知性」が必要になる。
 
 自動車の運転、とりわけ日中の運転は、自動車そのものの挙動だけでなく、ガラス越しにドライバー自身の挙動も割と見えるので、他のドライバーの意図を類推する手がかりが豊富にある。ところが現実には、そういった手掛かりを読み取っているドライバーばかりというわけでなく、読み取ろうという意図すら感じられないドライバーも珍しくない。バックミラーをまったく覗いていないとおぼしきドライバーすらいる。
 
 自動車運転は、運転であると同時にコミュニケーションでもある。少なくとも自動車学校で習う「他のドライバーや歩行者への思いやり」や「譲り合いの精神」を実践するためには、歩行者とドライバー、ドライバー同士の間にコミュニケーションや意図の類推が行われなければならない。巧いドライバーは皆、自動車を操ると同時に他者とのコミュニケーションでもある運転という行為をしっかりやってのけている。
 
 ところがディスコミュニケーションなドライバーも結構いたりする。地方の国道沿いで安全な運転を心がけるためには、そういう社会的知性の発露がみられないドライバーを素早く察知し、そういうドライバーの車に特別な注意を払う判断も必要だと感じる。なにせコミュニケーションも意志の類推もきかない相手なのだから、次の挙動の予想のしようがない。予想のしようがないということだけは観察してわかるから、とにかく、遠巻きにするしかない。
 
 週末のショッピングモールへと続く国道を走っている限りでは、存外、社会的知性を発展させていない人が多いのではないかと疑いたくなる。それか、運転中には社会的知性がスリープモードになってしまう人がいるのかもしれない*1。なんにせよ、自動車学校で説かれている理念を実践するのに必要な社会的知性が、週末の国道にはちょっと足りてないように思う。
 
 

帰省ラッシュ時の高速道路もおっかない

 
 帰省ラッシュ時の高速道路でも同じようなことを感じる。高速道路では前後の車やドライバーの挙動にアテンションを回しやすいので、かすかな加減速やハンドルのブレなどからも、他のドライバーの意図を読み取ることができる。勝手な動きをするドライバー、慌てているドライバー、いろいろ気を遣っているドライバー、周りを何もみていないドライバー、様々だ。
 
 帰省ラッシュの高速道路の場合、ふだんは高速道路を走り慣れていなくて、高速道路上のコミュニケーション経験が不足しているドライバーも多いだろうから、ある程度は仕方がない。とはいえ、追い越し車線を遅いスピードでずーーーっと走り続けて、前も後ろも見ていないドライバーには困ってしまう。あのー、後ろがつかえているんですけど、バックミラーついてますかー?
 
 ちなみにドライバーの社会的知性が発揮されているのを見てみたい人には、日曜深夜の高速道路がいいと思う。日曜深夜は高速道路を走り慣れていないドライバーがあまりいない。ドライバーの社会的知性の欠如を見たいなら、週末の、ショッピングモールに向かう国道で十分です。
 
 

*1:この可能性を疑いたくなるのは、自動車というハコに移動するプライベート空間という側面もあるからだ。https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20131003/p1を参照。