シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『火星の人』を、無双系web小説として読んだ

 
 働きすぎて元気の出ない日には、砂糖菓子のように甘いweb小説を読みたくなる。
 
 でも今は『小説家になろう』にアクセスする気にはなれない。お目当ての作品を探すのにやたら時間がかかるからだ。
 
 そんな折、さる方面から「『火星の人』は無双系web小説」という素晴らしい情報を耳にした。
 

火星の人

火星の人

 
 
 ネットで検索しなおすと、togetterでも映画版*1に対して「最強なろう作家?」というタイトルのついたまとめを見かける。
 
 
togetter.com


 これ、俺が読むために生まれてきた小説なのでは!?
 
 『火星の人』はハリウッド映画化しているぐらいだから、必ずクオリティの高い作品のはずだ。wikipediaで調べてみると、2011年に自費出版されたのが本作なのだという。どれぐらいweb小説然としているんだろうか。
 
 

異世界ではなく、火星で無双する主人公

 
 『火星の人』の筋書きはこうだ。
 
 探査のため火星に降り立った宇宙飛行士6名。ところが着陸早々、とてつもない砂嵐に襲われて主人公は嵐に吹き飛ばされてしまい、よりにもよってバイオモニターコンピュータをアンテナに貫かれてしまったことで、死亡と判定されてしまった。残り5名が火星を脱出したため、意識が戻った主人公は、単身、火星に置き去りにされたが、ほとんど手つかずのNASAの物資を頼りにサバイバルを開始する……といった感じだ。
 
 筋書きだけ読むと、ハードなSF小説のような印象を受けるかもしれないし、実際、『火星の人』にはサイエンスな話がたくさん登場する。NASAの宇宙船についても、作者がよく知っていることが窺われる。題材だけ見ると、web小説、少なくとも日本のweb小説とはかけ離れた作品のように思えるかもしれない。
 
 ところがどっこい、序盤からweb小説だった! しかも日本のweb小説に意外とよく似ている!
 
 

  • 冒頭、いきなり主人公死亡→復活。実際にはバイオモニターコンピュータが破損してしまったため死んで転生したわけではないが、復活から一人で(火星という)異世界に放り出される筋書き自体は似ている。

 
 

  • 序盤は「まったく最悪だ」と毒づくモノローグ中心の早い展開。登場人物は最小限。話が進んでくるにつれて、他の登場人物がぽちぽち登場し、話の幅が広がっていく。先に進めば進むほど話のテンポがゆっくりになり、過去回想編なども挿入される。こうした展開も日本のweb小説ともよく似ている。web上で読者を意識しながら連載していると、おのずとこうなるのだろうか?

 
 

  • とにかく無双!する。web小説ではありがちなジャガイモ無双、工学無双、植物学無双。異世界とその住人達に無双するのでなく、『火星の人』では、火星の過酷な大地に主人公のテクノロジーとNASAの物資、そしてジャガイモやバクテリアが大活躍する。

 
 

  • 無双と絶望のアップダウン。『火星の人』は、ログ一日ぶんが一話といった形式で綴られているが、一話あたりひとつの無双が記される。テクノロジーやNASAの超絶物資によって困難が克服されるたび、間髪入れずに新しい困難やトラブルが入るのもweb小説っぽい。なんというか、アップダウンのスピードが一般的な小説や少年漫画よりもずっとweb小説じみている。

 
 

  • web小説の主人公たるもの、異世界であれ火星であれ、口では「最悪だ!」「もう死ぬ!」と言いつつ、すぐに頭を切り替え、アイデアを絞って難局を切り抜けなければならない。『火星の人』の主人公・ワトニーはまさにそういう人物で、難局と無双の繰り返しにぴったりだった。

 
 

  • 口語体で語られるすごく柔らかい文章。たとえば以下のような文体があちこちにある。

 

ううむ。破滅的失敗の起こる余地など微塵もない、すばらしいアイディアではないか。
これは皮肉です。念のため。
さあ、いっちょやったるで。

 
 たぶん、原文もこんな雰囲気なのを上手く翻訳してあるんだろう。スラングを使いまくった、読者に語りかけるような文体なんだと思う。SF小説には柔らかい文体のものが時々あるけれども、『火星の人』は自分の知るなかでは一番柔らかいレベル。めちゃくちゃ読みやすい。
 
 

  • 現世ではモテなかった人物像。この作品では、オタクはモテなくて女性とかかわりが乏しいものとして記されている。たぶんネタバレにはならないと思うので、主人公・ワトニーのモノローグの一部を紹介する。

 

ぼくは高校時代、ずいぶんダンジョンズ&ドラゴンズをやった。(この植物学者/メカニカル・エンジニアがちょっとオタクの高校生だったとは思わなかったかもしれないが、じつはそうでした。)キャラクターはクレリックで、使える魔法のなかに"水をつくる"というのがあった。最初からずっとアホくさい魔法だと思っていたから、一度も使わなかった。あーあ、いま現実の人生でそれができるなら、なにをさしだしても惜しくはないのに。

 
 ちょっとオタクの高校生。じつはそうでした。だそうです。このほかにも、作中の色々なところにリアルの充実していないオタクとリアルが充実している非-オタクの微妙な温度差を描いている場面があって、この作品が、そういう読者に訴求力のあるつくりになっていることが窺われる。
 
 

  • 主人公以外の人物像もweb小説っぽい。なんというか、主人公の無双を支えるためにすべての人物・組織が描かれる構造になっていて、主人公の無双とは無関係な人物が描かれていない。登場人物のリアリティという点では、これはリアリティの欠けた構図だけれど、主人公の無双を楽しむための作品として最適化されている、とも言える。こういう思い切りの良さもweb小説っぽい。

 
 
 
 
 こうやって挙げた特徴を別々にみると、どれもエンタメな読み物には珍しくないものだし、「こういうのは小説の王道」だと言う人もいるかもしれない。だけどこれらが全部揃っている小説といえば、やっぱりweb小説じゃないだろうか。文体も、登場人物の造型も、無双と絶望のアップダウンも、ことごとくがweb小説じみている。
 
 web小説として読んだ『火星の人』は100点満点中、100点の作品だった。いや、もっと点数をあげたいくらい。ハリウッドで映画化されただけのことはあって、考証良し、テンポ良し、ストーリー良し、ボキャブラリー良し、とにかく面白くて、途中で読むのを中断するのが大変だった。中国のSF小説『三体』もメチャクチャ面白かったけれども、『火星の人』の面白さはそれとはちょっと方向性が違っていて、web小説に慣れている人にこそ最適なSFだと思う。
 
 宇宙モノに抵抗のないweb小説愛好家なら、一度読んで損をすることはないはず。これだけ良くできたweb小説は、そうザラにあるものじゃない。これに匹敵するほど完成度の高いweb小説発の作品をひとつ挙げろ、と言われたら、とりあえず『ソードアートオンライン』の第一期を挙げたくなる。ただジャンルは全く違うから、両者の優劣を比較することはできない。
 
 それにしても、転生して無双する先が異世界ではなく火星というのがアメリカンというか、火星に新天地を夢見る余地があるのはちょっと羨ましく思った。こういう作品は、これからもアメリカや中国の独壇場なんじゃないだろうか。
 
 
 

サンドボックス型ゲームにも似ている

 
 
 でもって、web小説はしばしばゲームっぽいと言われるけれど、ちょうど『火星の人』によく似たゲームを遊んだことがあった。
  
store.steampowered.com
 
 この『アストロニーア』というゲームは、惑星に一人取り残された宇宙飛行士が、手持ちのツールを使って生存環境を整え、惑星を探検し、最終的には惑星脱出ロケットを打ち上げたりするゲームだ。数年前、アーリーアクセス版だった頃に遊んでいたのだけど、当時のバージョンは(ジャガイモ栽培が無いことを除けば)『火星の人』に雰囲気がよく似ていた。
 
 

 
 現行バージョンで始めてみると、やけに火星っぽくない惑星でスタートしたけれども、これはたまたまかもしれない。酸素供給、電力、テザーといったフィーチャーは健在だ。
 
 『火星の人』は、コツコツと居住空間をつくりあげたり食糧栽培ゾーンをつくったりするので、宇宙版『マインクラフト』といった趣も伴っている。たぶん、こういうところもweb小説っぽいと感じる要因のひとつなんだろう。
 
 SFとかweb小説とかお好きな人には鉄板だと思います。外出したくない、籠っていたい日のエンタメとしてお勧めです。
 

火星の人

火星の人

 

*1:『オデッセイ』

1カ月ほどブログを書かなかったら

 
 この1カ月ほど、実はほとんどブログを書いていなかった。
 
 せいぜいきっちりブログを書いたと言えるのは、劇場版『この素晴らしい世界に祝福を!』の感想ぐらいのもの。ほかは作り置きしていた文章をアップロードするタイミングがやってきたからアップロードしたものか、余所様へ文章を寄稿する際に合わせて下書きしておいた、関連記事だった。昨日、久しぶりにブログを書いてみたけれども上手く書けたとは思えない。ある程度の間隔でブログを書かなかったせいか、知識を引用することと文章として完結させることを噛み合わせられなかった。
 
 8月も、ブログを最小限にしていた。要はこの2カ月、忙しかったということだ。本業も忙しく、プライベートもばたばたしていて、調べなければならないこと・考えをまとめなければならないことが山積していた。この2カ月の間で研修医の頃以来の消耗を経験し、寿命が数カ月ほど縮んだと思う。なすべきことのために命を使うのは、恥ずかしいことではなく誇らしいことなので、ここで命のろうそくを燃やしたことは悔むまい。
 
 私にとってブログを書くことは気休めであり、考えを練り直す場であり、誰かに話しかけてみる場でもあった。このうち、考えを練り直すことについては、この2カ月に一年分ぐらいやったので不足していないけれども、気休めとしてのブログ、誰かに話しかけてみる場としてのブログは楽しめなかった。twitterもロクにやれていなかったと思う。そうしたら、ブログもインターネットもSNSも全部が遠いところの出来事のような気がした。そうか現実が忙しくて、インターネットに足しげく通わなくなった人はこんな気持ちになるんだな、と驚いた。
 
 私は研修医の頃もインターネットだけは頻繁に接続して、どこかの誰かとは喋っていたから、こういう境遇は就職してから初めてだった。ブログに慣れ、忙しい時期のためにブログ記事を作り置きできるようになった結果として、こんな空白期間が生じたのは皮肉なことだ。
 
 こんな風にブログを書いてしまうのなら、いっそグーグルアドセンスでも申し込めばいいのかもしれない、とも思った。「ブログはキャッシュであるとともにフローでもあるから最低限の周期ではアップロードはしておかなければならない」などという発想で「作り置きしたブログ記事」をアップロードすること自体、楽しいブログライフから逸脱しているのではないか? と疑問に感じたからだ。これはメランコリ―なブログライフではないか。
 
 ブログを換金するのが上手な諸先輩とは違って、私はそういうの苦手だから、副収入と言える水準には至らないだろうが、ちゃんとブログを楽しめているとは言えないようなら、そのように処断してしまったほうがいいのかもしれない。
 
 なんだか遠いところまで来てしまった、とも思った。此処は、10年前の私が熱望していた何処かだし、5年前の私が推進した何処かでもある。その結果としてブログを書かない1カ月がやって来るのは、やはり悲しいことではある。私はインターネットのどこで、過去のキャッキャウフフとしたブログライフに相当するものを充当すればいいのだろう? それとも私はそういったものを必要としなくなってしまったのだろうか。
 
 たぶん私は次のフェーズを考え、実行しなければならない時期を迎えているんだと思う。三十代の結果としてのブログライフに別れを告げ、五十代の原因としてのブログライフ、それか現在の後継にあたるインターネットライフを見つけなければならなくなっているのだと思う。だから尚更ためらい、隙間時間にこんなことをブログに書いたりしている。いや、ブログってのは(少なくともはてなダイアリーってものは)こんなことを書く自由があったわけか。そういう事を思い出すのに時間がかかるぐらいには、すれてしまったのだなと思う。
 
 
 
 

子ども部屋から少子化を考えてみる

 
90万人割れ、出生率減少を加速させる「子ども部屋おじさん」:日経ビジネス電子版
 
 日経ビジネスに、随分なタイトルの記事がアップロードされていた。内容はリンク先を読んでいただくとして、さしあたり「子ども部屋おじさん」という語彙が生まれるほどには子ども部屋というのは定着したのか、と改めて思った。
 
 
 子ども部屋は最初から世のご家庭のスタンダードだったわけではない。
  

日本の民俗 5 (5) 家の民俗文化誌

日本の民俗 5 (5) 家の民俗文化誌

 
 昭和以前の農村社会の間取りをみると、そこには子ども部屋というスペースが存在しない。家屋はイエのものではあって夫婦や子どものものではなく、そのうえ座敷や客間は地域と繋がりあっていた。そのような家屋しか無かった時代には「子ども部屋おじさん」という語彙は生まれようがなかっただろう。
 
〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

 
 これは日本に限ったことではなく、子どもや夫婦がそれぞれにプライベートな部屋を持つ習慣はヨーロッパ社会でも比較的最近になって生まれたものだ。近世以前までは、夫婦や子どもはもちろん、使用人までもが同じ部屋で、同じベッドで同衾することが当たり前だった。農民のたぐいだけでなく王侯ですらそうだったというから、「子ども部屋」とは後代の発明品だ。
 
「いえ」と「まち」―住居集合の論理 (SD選書 (190))

「いえ」と「まち」―住居集合の論理 (SD選書 (190))

 
 日本に「子ども部屋」が本格的に浸透していった時期は、戦後になってからのことだ。『「いえ」と「まち」 住居集合の論理』で戦後の集合住宅の間取りを確かめると、戦後も間もない段階では、農家に近い間取りの集合住宅がつくられていたことがみてとれる。3LDKなどの現代的な間取りが定着したのは、高度経済成長期以降のことだ。大都市圏でつくられた真新しい住まいで暮らす若夫婦から生まれた世代からが、子ども部屋に馴染んだ世代、と言ってしまって構わないだろう。東京や大阪のニュータウンで1960年代に生まれ育った人なら、子ども部屋を与えられて育った可能性が高い。
 
 
 試みに、アニメに出て来る部屋の間取りを確認してみよう。
 
 『サザエさん』のカツオやワカメは、二人で子ども部屋を持っている。サザエさんとマスオさんとタラちゃんは三人で一部屋。磯野家には一応子ども部屋はあるが、子ども一人に一部屋ではない。
  
ozappa.com
 
 上掲の不動産屋さんのウェブサイトに行くと、磯野家の間取りを確かめることができる。廊下に電話が据え置かれ、家の隅に便所があり、廊下が軒下で外界と接している磯野家の間取りは、現代のマイホームとはかけ離れている。一応、若夫婦の部屋が別になっていて子ども部屋もあるにはあるが、家庭の、ひいては個人のプライベートに最適化しているとは言えない。
 
 
 『ちびまる子ちゃん』のさくら家も参考になる。
 
www.homes.co.jp
 
 不動産屋さんはこういうのが大好きなのか、さくら家の間取りを熱心に考察しているウェブサイトを見つけた。磯野家と同じで、廊下があって子ども部屋もあるけれども、まる子姉妹が別々に部屋を持つには至っていない。
 
 この不動産屋さんのウェブサイトにも記されているように、磯野家やさくら家には「廊下」が存在していて、この「廊下」によってそれぞれの部屋のプライバシーは一応保たれる格好になっている。こうした間取りは中廊下式住宅といって昭和時代に流行したもので、部屋と部屋が襖でじかに接しているそれ以前の住まいに比べればプライバシーに配慮されたものだった。過渡期の間取りといったところだろうか。
 
 
 ちなみに『妖怪ウォッチ』の天野家はどうかというと、こちらは2LDKとのこと。
 
iemaga.jp

 
 三たび不動産屋さんのウェブサイトを参照すると、ここでは子ども部屋が完全にケイタ君一人のものとして独立している。しかし子ども一人に一部屋だとしたら、この2LDKの住まいではこれ以上子どもを育てることはできないし、実際、ケイタ君は一人っ子だ。子ども部屋を一人に一部屋あてがう計算でいくなら、二人の子どもをもうけるには3LDK以上が、三人の子どもをもうけるには4LDK以上が欲しくなる。
  
 

少子化のボトルネックとしての「子ども部屋」

 
 冒頭リンク先は、少子化に関連した話題として子ども部屋と未婚男性を挙げている。が、子ども部屋と少子化を関連付けて語るなら、「個人のプライベートを重視した子育てでは、子どもが増えれば増えるほど部屋が必要になり、とりわけ大都市圏では子どもの数の上限を決定づける」のほうが筋が良いんじゃないかと私は思っている。
 
 さきほど、『妖怪ウォッチ』のケイタ君の家を挙げたが、子ども一人に一部屋を用意する感覚では、2LDKの間取りでは子どもが一人しか育てられない。ケイタ君が弟や妹が欲しいと言っても、それは家屋の間取りからいって不可能だ。とはいえ天野家のご両親が3LDK以上の家屋を用意しようと思えば、それなりの経済力が必要になる。
 
 2LDKや3LDKといった家屋のサイズは、そのまま家族構成の人数を決めてしまう。少なくとも「子ども一人一人に子ども部屋をあてがうべき」という習慣に沿って子育てしようと思うなら、そうだと言える。「子育てにはカネがかかる」とはしばしば言われることだが、それは教育費だけが問題なのでなく、家屋の間取りにしてもそうだ。現代の習慣に従うなら、小さな家屋では現代的な子育ては不可能だから、子どもをたくさん育てたければ大きな家屋を用意しなければならなくなる。地方に住んでいるならともかく、住まいのスペースに汲々としなければならない大都市圏、とりわけ東京で大きな家屋に住むのは簡単ではない。
 
 教育費の高騰だけでなく、「子ども部屋」にかかる経済的コストもネックになっているから、東京に住まう男女が子どもをたくさん育てるのはいかにも難しい。
 「子ども部屋はあってしかるべき」というプライベートに関する習慣さえなくなれば、この限りではないかもしれないが。
 
 

「プライベートな部屋、プライベートな個人生活」の根は深い

 
 
 「個人のプライベートな生活」についての習慣はしかし根深い。
 
 先にも触れたとおり、それは近代以降の西洋社会に始まって、中~上流階級の家庭から庶民の家庭へと広まっていった。子ども部屋の誕生と個人のプライベートな生活の誕生は、おおむね軌を一にしている。
 
 日本で個人のプライベートな生活が持て囃されるようになったのは1980年代あたりからだ。戦後の新しい家屋で育った、まさに子ども部屋を持った都市部の若者から順を追って、個人の生活はプライベート化していった。その最たるものは、1980年代に登場した「オタク」と「新人類」だ。
 
 少なくとも20世紀の段階では、オタクは子ども部屋がなければできないものだった。なぜならSF小説にせよ漫画にせよアニメのLDにせよ、本気で追いかければ追いかけるほど収納スペースが必要になり、誰にも邪魔されずに観賞できる空間が必要になるからだ。たとえば昔の農家の家の家庭環境では、だからオタクはやりようがない。
 
 それ以前の問題として、時間や空間を一人で占有するというプライベートな感覚が、農家の家では生まれにくい。地域共同体での生活、特に農家の生活は時間や空間を他人と共有するのが当たり前だったから、そういう意味ではオタクを生んだのは子ども部屋と言っても過言ではない*1
 
 新人類もまた、消費個人主義の先端を行く人々だった。ワンルームマンションに住み、朝シャンをして、コンビニでスタンドアロンに用を済ませる当時最先端の消費生活は、とりもなおさず個人のプライベートに根差していた。ある意味、ワンルームマンションは子ども部屋の延長線上に位置付けられるインフラと言っても良いかもしれない。地域共同体からはもちろん家族からもセパレートされた、個人のプライベートの内側だけで生活を完結させるためのインフラが、ワンルームマンションだった。
 
 そして新人類たちはオタクをユースカルチャーのヒエラルキーの底辺に位置付けると同時に、非-消費個人主義的な、昔ながらの地域の若者をもダサいと見下したのだった*2
 
 新人類とオタクは1980年代には新しいライフスタイルの具現者だったが、彼らのスタイルは1990年代以降は希釈化されながらも全国に定着化していった。その全部ではないにせよ一因は、子ども部屋の普及にあると思う。全国の団塊世代が郊外のニュータウンにマイホームを構えはじめた時、その新居には子ども部屋があった。子ども部屋を与えられ、自分だけの時間と空間を過ごす習慣を身に付けた団塊ジュニア世代は、オタクや新人類のフォロワーたりえた。時代のトレンドもまた、そのような個人消費主義を望ましいものとして称え続けてきた。
 
 令和時代の私たちは、そうした習慣やカルチャーの流れの延長線上にいて、個人のプライベートな感覚をしっかりと内面化している。そんな私たちがプライベートな感覚を撤回したライフスタイルをやってのけるのは、おそらく簡単ではない。たとえば2LDKの家屋で子どもを3人育てるのは物理的には不可能ではないが、個人のプライベートを守りながらそれをやってのけるのは、やはり不可能だ。個人のプライベートな意識が確立し、それに見合った機能が家屋に求められる習慣のもとでは、子どもの数だけ部屋も必要になる。
 
 

子ども部屋を撤廃できるものか

 
 戦前から戦後にかけて、私たちの家屋は大きく変わり、個人のプライベートな感覚もすっかり定着した。このことを踏まえて考えると、子ども部屋もまた、これはこれで子どもの数を制約する一要素と考えたくなるし、子ども部屋と少子化を関連づけて考える余地はあるように思う。
 
 では、私たちは子ども部屋やプライベートな個人生活を捨てることができるものだろうか。
 
 子ども部屋は、私たちの個人としてのプライベートな意識や生活を象徴するとともに、それと不可分な関係にある。
 
 個人のプライベート化が近現代の先進国にほぼ共通してみられた流れだけに、それらを本当に捨てられるものなのか、私にはちょっとわからない。
 
 

文明化の過程・上 〈改装版〉: ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

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*1:このことに加えて、たとえば放課後の塾通いのような個人のスケジュール化によっても個人化は促されるが、それはまた別の機会に。

*2:補足すると、子ども部屋がなければオタクも新人類も、サブカルもやれない。他方、1970年代以前の不良や1980年代以降のヤンキーは、子ども部屋がなくてもやれなくはない。

実写版『惡の華』についての個人的メモ

 
www.cinra.net
 
 
 リンク先のCINRA.NETさんに、映画『惡の華』についての文章を寄稿させていただきました。実写映画について寄稿するのは今回が初めてで、どうして私にお鉢が回ってきたのか少し不思議だったのですが、実際に作品を観てみると、なるほど、私に声がかかってもおかしくなさそうな内容でした。
 
 数年前に放送されたアニメ版は、ちょっと尻切れトンボな展開だったこともあって、思春期を茶化しているのか美しく描こうとしているのかわかりにくかったのですが、こちらはそんなことはありませんでした。間違いだらけの中学時代を間違いだらけのものとして描き、なおかつ、それが貴重な一時代で、普遍的なものであるというメッセージが含まれていると、私は感じ取りました。
 
 主人公である春日の行動はとことん恥ずかしく、間違っていて、痛々しいものでした。が、中学生男子とは本来そのようなものではないでしょうか。「文学少年を気取った中学生男子が二人の女子に挟まれる」、というのは本作のフィクショナルな設定ですが、そのフィクショナルな設定をとおして描かれる中学生男子の実態がとてもリアルで、本作の見所のひとつだと思います。
 
 すなわち中学生男子の実態とは、未熟で、自己中心的で、リビドーの抑えが効かず、多感ゆえに流されやすく、大人を気取りたいけれどもまだ気取れない、そのような実態です。
 
 いまどきの中学生は、中学生になる前から中二病という言葉を知り、オンラインで繋がるようになってしまっているため、『惡の華』で描かれたとおりに中二病を炸裂させるのは難しいでしょう。中学生が大人の定めたルールからはみ出して構わない範囲は、昔より狭くなっているようにみえます。
 
 でも本当は、中学生という境遇には春日や仲村さんのように大人の定めたルールからはみ出せる力があったはず。それでも社会に戻れる余地もあったはず。そういうことを思い出させてくれる作品ではないかと思います。以下、冒頭リンク先には書きようのなかった、気に入ったところや考えたことなどを箇条書きにメモっておきます。
 
 
 
  
 
 (以下、ネタバレを含んでいるのでこれから観に行く人はご注意ください)
 
 
 
 
 
   
・春日がクラスメートの男子と帰る時の猥談がめっちゃいい。このシーンでは、春日がプリミティブな性欲を文学少年というキャラクターで一生懸命に繕っているようにみえた。もちろんこれは取り繕いでしかなくて、春日は体操服を拾ってしまうし、胸チラや透けブラにも滅法弱いのだけど。一人の視聴者である私からみると、それこそが春日の魅力だ。
 
・春日ぐらいの年齢の男子が性欲がちゃんと露わになって、未熟を未熟にやってのけられるのは発達の順序として良いことなのだと思う。女子たちもそうだ。未熟と未熟が出会いながら大人になっていく。ただ、それがお互いを傷つけることもあるし、大きな逸脱を生むこともある。本作ではそうならなかったけれども、帰らぬ旅路になることさえあるだろう。それらを危ういと否定するのか、それでも尊いと肯定するのか。この作品は後者の立場に重心が置かれている。
 
・図書室で仲村さんに体操服とブルマを着せられる春日は、口ではやめろと言ってはいるけれども真面目に抵抗していないようにみえた。で、体操服とブルマを着せられて、めっちゃ嬉しそう。どこかボーっとした、恍惚とした表情。仲村さんに比べると春日はどこか受身だ。あれはマゾい表情だと思う。
 
・佐伯さんは、アニメ版に比べて硬いキャラクターとして演じられていて、これが仲村さんとはトーンの違う危うい感じになっていて良かった。仲村さんは、思春期が次第にテンパっていく過程がよくわかる感じで、高校編では憑き物がとれたみたいになっていた。佐伯さんのキャラクターのほうが「引きずりそう」な感じがあって、事実、引きずっていた。心療内科に通っても引きずるものは引きずるだろう。
 
・この作品では、ボードレールの『惡の華』がたびたび踏みにじられていた。中学生には『惡の華』はまだ早く、「あの山の向こう側」に辿り着くことなどできやしない。春日と仲村さんは、そういう重たい日常の外に出ようとあがいていたが、河川敷の小屋は燃え、祭りの屋台では取り押さえられてしまった。まあよく頑張っていたと思う。現実の中学生にできることは、せいぜい、本をを読み耽ったり踏みにじったりすることだけだから。
 
・仲村さんの親父さんは、昼間から瓶ビールを飲む(そして瓶ビールを母親に出してもらう)キャラクターで、そんな親父さんが舞台乗っ取りのシーンで仲村さんを制止し、おそらく母親のもとに仲村さんを送るよう決意したのは美しい話だと思った。春日の親父さんも、文学趣味のこれまた不器用そうな人物像で、高校編で大宮に移ってからの、ウイスキーのグラスを前にうずくまる姿が印象的だった。この年齢になると、親父さんがたの行動や境遇に身を寄せたくもなる。果たして私は、あんな風にうずくまる父親になれるのだろうか? と自問せずにいられなかった。
 
・河川敷でいろいろあった後の佐伯さんが、仲村さんに「方言」をぶつけるシーン、そうか、佐伯さんはもともと方言を話していたのが標準語で取り繕うようになっていたんだ……という発見があった。この映画の舞台になっているのは群馬県桐生市、首都圏との距離がこれぐらいだと、思春期になって方言を隠すようになるんだろうか。そうかもしれない。佐伯さんの自宅は「育ちの良い家」のようにみえたけれども、小学生まではちゃんと方言を話していたのだろう。地方都市では、それはむしろ豊かなことだと思う。そんな佐伯さんが無軌道に突っ走ってしまうのが中学生という季節なのだからたまらない。親御さんとしては、肝の冷える思いがするだろうけれども。
 
・中学編のクライマックスである舞台乗っ取りで、春日と仲村さんがテレビに映っていた。この事件をきっかけとして春日と仲村さんは転居したのだろうけれど、2000年代以降にこういう事件が起こったらネットに流れて拡散し、学校氏名が特定され、たぶん学校で起こった下着泥棒の件なども芋づる式に匿名掲示板に曝されて、再起不能になると思う。『惡の華』が物語として着地点に着地するためには、インターネットが普及していない世界が必要だった。この作品は令和時代の中二病のありかたではなく、ネットが普及する以前の中二病のありかたに即していると思う。ブルマやブリーフが登場する点からいっても、この『惡の華』の時代設定は校内暴力や暴走族が流行っていた時代よりも後で、中二病という言葉をみんなが知り、みんながインターネットで繋がってしまう前ぐらいと想定した。
 
・とはいえラストシーンで「こういう思春期のドライビングが終わったわけではない」ことが仄めかされている。では、令和時代に思春期がグイングインと音を立ててドライブする場はどこにあるのか? ちょっと昔なら、迷わずオンラインの世界がそれだと言うことができた。インターネットがアングラの地だった頃は、オンライン空間全体が作中の河川敷の小屋みたいなものだった。しかし今日はどうだろう? ローカルなやりとりでも簡単にスクショを撮られる現在のオンライン空間は、いわばガラス張りの地だ。かといって、オフライン空間に思春期をドライブさせられる場があるのかどうか。なにしろ小学生のうちから「中二病は痛い」と悉知されている世の中なのだ。そのことの難しさに思いを馳せずにはいられなかった。
 
 

いまどきのインターネットは文脈文盲状態が当たり前

 
 
 
1000リツイートを越えるとtwitterの闇が迫ってくる - シロクマの屑籠
 
 
 
 上記リンク先の続きとして、いまどきのインターネットでは文脈が読み取りにくいことについて記しておく。
 
 かつてのインターネット、ネットサーフィンするインターネットには文脈があった。それぞれのウェブサイトの構造がツリー状であったこと、ハイパーリンクをとおして他のウェブサイトへと繋がりあっていたおかげで、その書き手・その文章がどういう文脈に位置づけられているのかがハイパーリンクの次元で明らかになっていた。ネットサーフィンという行為、リンク集を辿る行為が、そのまま書き手の文脈を理解する助けになっていた。
 
 ところがいまどきのインターネットは違う。ブログは記事単位で読まれ、グーグル検索などをとおして流入する人々の大半は書き手の文脈など調べるまでもなく、検索文字列と一致した情報の断片だけ持ち帰ろうとする。
 
 このブログのトラフィックを監視していると、ありがたいことに、週に何十人もの読者が長い時間をかけて、複数のブログ記事を読んでくれている。こういうのはブロガー冥利に尽きる。しかし残りのトラフィックはそうではない。このブログは、私という書き手の文脈を読み取っていただきたく、一応の努力はしているつもりだが、それでも大半のトラフィックは短い滞在時間で去っていく。
 
 twitterではそれがもっと極端だ。140字以内の文章は、リツイートされた断片としてどこか遠くへ、文脈を無視して飛び去っていく。数百、数千とリツイートされた140字ともなると、書き手の文脈など誰も気にしない。
 
 140字。
 
 ただそこに書かれている意味内容が独り歩きし、文脈がアンカーとして機能することも、文脈が意味内容を咀嚼するための補助として働くこともない。リツイートが伸びるほどに、読み手は自動的に文脈文盲状態となって140字を受け取ることになる。
 
 私はここで「自動的に文脈文盲状態のまま……」と書いた。
 
 そう、自動的であることが問題だ。
 
 読み手のリテラシーがどうこうという問題以前に、まずtwitterのリツイートという仕組みじたいが、自動的に、文脈から切り離された140字をつくりだし、そういう文脈文盲状態のまま140字が読まれる状況を作り出している。
 
 だからこれはtwitterというメディアの造りの問題、かしこまって言うならアーキテクチャの問題ということになる。トランプ大統領やロシア大使館やアメリカ第七艦隊も用いている、このtwitterというメディアには、読み手を自動的に文脈文盲状態に陥らせる性質が備わっている。
 
 

アーキテクチャが文脈文盲状態をつくり、訓練する

 
 
 インターネットで私たちが文章を読み書きする時、その場がどのような場所で、アーキテクチャがどのようなものかによって、考え方も書き込み方もかなりの影響を受ける。
 
 たとえば匿名掲示板に書き込む時は、トピックスに別れた匿名掲示板のスレッド構造によって、あるいは匿名性によって書き方が相当に左右されていた。ウェブサイトやブログにしてもそうだ。ツリー状の構造のウェブサイトがそうではないブログに変わった時、書き手の考え方や読み手の捉え方は変わる。
 
 そしてSNS、わけてもtwitterは「140字のつぶやき」というインターフェースと、140字のつぶやき一つ一つを切り抜いて拡散するリツイートという仕組みによって、文脈の切断された140字がトラフィックをうろつき回るような造りになっている。
 
 こういう、twitterのようなアーキテクチャのもとで文脈を意識するのは骨折りの割に報われない行為であり、無文脈に読み書きするようになるのは自然なことだ。だからtwitter上で文脈文盲状態に陥るからといって、愚かなことだとみなして構わないとは考えにくい。むしろtwitter上で文脈文盲状態になるのはアーキテクチャに対する優れた適応とみなすこともできる。苦労して文脈を追うより、無文脈にアダプトしてしまったほうが精神的なコストはずっとかからないのだから。
 
 もちろんこれはtwitterに限った話ではない。たとえば検索結果に混入するのは、書き手の文脈というよりネットユーザー自身の欲求や願望の反映されたパーソナライゼーションのほうだ。検索結果として提示される諸々は、それぞれのウェブサイトなりブログなりの極一部でしかない。その無文脈な断片を、私たちは疑問を抱くこともなく読んでいる。
 
 

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

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メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

 
 
 かつて、偉大な賢人はアーキテクチャによってインターネット上の自由のあり方、ひいてはコミュニケーションやコミュニティのあり方は変わると喝破した。実際、SNSやスマホが浸透し尽くした今だからこそ、「インターネットの沙汰はアーキテクチャ次第」というのはよくわかる話で、たとえば特定の思想信条を巡って噛み合わない言葉が銃弾のように飛び交うtwitterの風景も、第一にはtwitterのアーキテクチャのなせるわざ、あるいは(マクルーハン風に言うなら)twitterというメディアの特質と理解すべきなのだろう。
 
 と同時に、こうしたインターネットのアーキテクチャに私たちは日々慣らされてもいる。文脈文盲状態をつくりだすインターネットの諸アーキテクチャに毎日親しみ、その土台のうえでコミュニケーションする私たちは、おのずと無文脈なコミュニケーションに「慣らされている」のではないだろうか。
 
 
監獄の誕生 ― 監視と処罰

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 もう少しゴチャゴチャしたことを書くと、インターネットのアーキテクチャの話は、環境管理型権力という風に解され、実際、そのように機能しているとは思う。けれどもそれっきりではない。結局、これはこれで規律訓練型権力としても後付け的に機能していて、アーキテクチャによって無文脈なコミュニケーションを強いられると同時に、無文脈なコミュニケーションをみんなで繰り返す共犯関係のうちに、そのようなコミュニケーションの習慣を訓練づけている、と思う。
 
 もちろん、世の中の殆どの人はインターネットばかりやっているわけでも、ましてtwitterばかりやっているわけでもないので、そうした訓練の影響は限定的ではあるだろう。けれどもインターネットジャンキーやtwitterジャンキーになっていれば相当の影響はあるだろうし、そうしたインターネットの無文脈な習慣が現代の文化と相互作用を起こす側面もあるやもしれない。
 
 私は無文脈なコミュニケーションに慣れているわけでも望んでいるわけでもないので、現在のインターネットのあり方には思うところがある。とはいえ、無文脈なコミュニケーションには文脈に囚われない身軽さがあり、その恩恵はきっと私自身も受け取っているから、批判的になり過ぎてもいけないのだろう。
 
 そろそろ夕ご飯なので、この話題はこのへんで。