シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

子ども部屋から少子化を考えてみる

 
90万人割れ、出生率減少を加速させる「子ども部屋おじさん」:日経ビジネス電子版
 
 日経ビジネスに、随分なタイトルの記事がアップロードされていた。内容はリンク先を読んでいただくとして、さしあたり「子ども部屋おじさん」という語彙が生まれるほどには子ども部屋というのは定着したのか、と改めて思った。
 
 
 子ども部屋は最初から世のご家庭のスタンダードだったわけではない。
  

日本の民俗 5 (5) 家の民俗文化誌

日本の民俗 5 (5) 家の民俗文化誌

 
 昭和以前の農村社会の間取りをみると、そこには子ども部屋というスペースが存在しない。家屋はイエのものではあって夫婦や子どものものではなく、そのうえ座敷や客間は地域と繋がりあっていた。そのような家屋しか無かった時代には「子ども部屋おじさん」という語彙は生まれようがなかっただろう。
 
〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

 
 これは日本に限ったことではなく、子どもや夫婦がそれぞれにプライベートな部屋を持つ習慣はヨーロッパ社会でも比較的最近になって生まれたものだ。近世以前までは、夫婦や子どもはもちろん、使用人までもが同じ部屋で、同じベッドで同衾することが当たり前だった。農民のたぐいだけでなく王侯ですらそうだったというから、「子ども部屋」とは後代の発明品だ。
 
「いえ」と「まち」―住居集合の論理 (SD選書 (190))

「いえ」と「まち」―住居集合の論理 (SD選書 (190))

 
 日本に「子ども部屋」が本格的に浸透していった時期は、戦後になってからのことだ。『「いえ」と「まち」 住居集合の論理』で戦後の集合住宅の間取りを確かめると、戦後も間もない段階では、農家に近い間取りの集合住宅がつくられていたことがみてとれる。3LDKなどの現代的な間取りが定着したのは、高度経済成長期以降のことだ。大都市圏でつくられた真新しい住まいで暮らす若夫婦から生まれた世代からが、子ども部屋に馴染んだ世代、と言ってしまって構わないだろう。東京や大阪のニュータウンで1960年代に生まれ育った人なら、子ども部屋を与えられて育った可能性が高い。
 
 
 試みに、アニメに出て来る部屋の間取りを確認してみよう。
 
 『サザエさん』のカツオやワカメは、二人で子ども部屋を持っている。サザエさんとマスオさんとタラちゃんは三人で一部屋。磯野家には一応子ども部屋はあるが、子ども一人に一部屋ではない。
  
ozappa.com
 
 上掲の不動産屋さんのウェブサイトに行くと、磯野家の間取りを確かめることができる。廊下に電話が据え置かれ、家の隅に便所があり、廊下が軒下で外界と接している磯野家の間取りは、現代のマイホームとはかけ離れている。一応、若夫婦の部屋が別になっていて子ども部屋もあるにはあるが、家庭の、ひいては個人のプライベートに最適化しているとは言えない。
 
 
 『ちびまる子ちゃん』のさくら家も参考になる。
 
www.homes.co.jp
 
 不動産屋さんはこういうのが大好きなのか、さくら家の間取りを熱心に考察しているウェブサイトを見つけた。磯野家と同じで、廊下があって子ども部屋もあるけれども、まる子姉妹が別々に部屋を持つには至っていない。
 
 この不動産屋さんのウェブサイトにも記されているように、磯野家やさくら家には「廊下」が存在していて、この「廊下」によってそれぞれの部屋のプライバシーは一応保たれる格好になっている。こうした間取りは中廊下式住宅といって昭和時代に流行したもので、部屋と部屋が襖でじかに接しているそれ以前の住まいに比べればプライバシーに配慮されたものだった。過渡期の間取りといったところだろうか。
 
 
 ちなみに『妖怪ウォッチ』の天野家はどうかというと、こちらは2LDKとのこと。
 
iemaga.jp

 
 三たび不動産屋さんのウェブサイトを参照すると、ここでは子ども部屋が完全にケイタ君一人のものとして独立している。しかし子ども一人に一部屋だとしたら、この2LDKの住まいではこれ以上子どもを育てることはできないし、実際、ケイタ君は一人っ子だ。子ども部屋を一人に一部屋あてがう計算でいくなら、二人の子どもをもうけるには3LDK以上が、三人の子どもをもうけるには4LDK以上が欲しくなる。
  
 

少子化のボトルネックとしての「子ども部屋」

 
 冒頭リンク先は、少子化に関連した話題として子ども部屋と未婚男性を挙げている。が、子ども部屋と少子化を関連付けて語るなら、「個人のプライベートを重視した子育てでは、子どもが増えれば増えるほど部屋が必要になり、とりわけ大都市圏では子どもの数の上限を決定づける」のほうが筋が良いんじゃないかと私は思っている。
 
 さきほど、『妖怪ウォッチ』のケイタ君の家を挙げたが、子ども一人に一部屋を用意する感覚では、2LDKの間取りでは子どもが一人しか育てられない。ケイタ君が弟や妹が欲しいと言っても、それは家屋の間取りからいって不可能だ。とはいえ天野家のご両親が3LDK以上の家屋を用意しようと思えば、それなりの経済力が必要になる。
 
 2LDKや3LDKといった家屋のサイズは、そのまま家族構成の人数を決めてしまう。少なくとも「子ども一人一人に子ども部屋をあてがうべき」という習慣に沿って子育てしようと思うなら、そうだと言える。「子育てにはカネがかかる」とはしばしば言われることだが、それは教育費だけが問題なのでなく、家屋の間取りにしてもそうだ。現代の習慣に従うなら、小さな家屋では現代的な子育ては不可能だから、子どもをたくさん育てたければ大きな家屋を用意しなければならなくなる。地方に住んでいるならともかく、住まいのスペースに汲々としなければならない大都市圏、とりわけ東京で大きな家屋に住むのは簡単ではない。
 
 教育費の高騰だけでなく、「子ども部屋」にかかる経済的コストもネックになっているから、東京に住まう男女が子どもをたくさん育てるのはいかにも難しい。
 「子ども部屋はあってしかるべき」というプライベートに関する習慣さえなくなれば、この限りではないかもしれないが。
 
 

「プライベートな部屋、プライベートな個人生活」の根は深い

 
 
 「個人のプライベートな生活」についての習慣はしかし根深い。
 
 先にも触れたとおり、それは近代以降の西洋社会に始まって、中~上流階級の家庭から庶民の家庭へと広まっていった。子ども部屋の誕生と個人のプライベートな生活の誕生は、おおむね軌を一にしている。
 
 日本で個人のプライベートな生活が持て囃されるようになったのは1980年代あたりからだ。戦後の新しい家屋で育った、まさに子ども部屋を持った都市部の若者から順を追って、個人の生活はプライベート化していった。その最たるものは、1980年代に登場した「オタク」と「新人類」だ。
 
 少なくとも20世紀の段階では、オタクは子ども部屋がなければできないものだった。なぜならSF小説にせよ漫画にせよアニメのLDにせよ、本気で追いかければ追いかけるほど収納スペースが必要になり、誰にも邪魔されずに観賞できる空間が必要になるからだ。たとえば昔の農家の家の家庭環境では、だからオタクはやりようがない。
 
 それ以前の問題として、時間や空間を一人で占有するというプライベートな感覚が、農家の家では生まれにくい。地域共同体での生活、特に農家の生活は時間や空間を他人と共有するのが当たり前だったから、そういう意味ではオタクを生んだのは子ども部屋と言っても過言ではない*1
 
 新人類もまた、消費個人主義の先端を行く人々だった。ワンルームマンションに住み、朝シャンをして、コンビニでスタンドアロンに用を済ませる当時最先端の消費生活は、とりもなおさず個人のプライベートに根差していた。ある意味、ワンルームマンションは子ども部屋の延長線上に位置付けられるインフラと言っても良いかもしれない。地域共同体からはもちろん家族からもセパレートされた、個人のプライベートの内側だけで生活を完結させるためのインフラが、ワンルームマンションだった。
 
 そして新人類たちはオタクをユースカルチャーのヒエラルキーの底辺に位置付けると同時に、非-消費個人主義的な、昔ながらの地域の若者をもダサいと見下したのだった*2
 
 新人類とオタクは1980年代には新しいライフスタイルの具現者だったが、彼らのスタイルは1990年代以降は希釈化されながらも全国に定着化していった。その全部ではないにせよ一因は、子ども部屋の普及にあると思う。全国の団塊世代が郊外のニュータウンにマイホームを構えはじめた時、その新居には子ども部屋があった。子ども部屋を与えられ、自分だけの時間と空間を過ごす習慣を身に付けた団塊ジュニア世代は、オタクや新人類のフォロワーたりえた。時代のトレンドもまた、そのような個人消費主義を望ましいものとして称え続けてきた。
 
 令和時代の私たちは、そうした習慣やカルチャーの流れの延長線上にいて、個人のプライベートな感覚をしっかりと内面化している。そんな私たちがプライベートな感覚を撤回したライフスタイルをやってのけるのは、おそらく簡単ではない。たとえば2LDKの家屋で子どもを3人育てるのは物理的には不可能ではないが、個人のプライベートを守りながらそれをやってのけるのは、やはり不可能だ。個人のプライベートな意識が確立し、それに見合った機能が家屋に求められる習慣のもとでは、子どもの数だけ部屋も必要になる。
 
 

子ども部屋を撤廃できるものか

 
 戦前から戦後にかけて、私たちの家屋は大きく変わり、個人のプライベートな感覚もすっかり定着した。このことを踏まえて考えると、子ども部屋もまた、これはこれで子どもの数を制約する一要素と考えたくなるし、子ども部屋と少子化を関連づけて考える余地はあるように思う。
 
 では、私たちは子ども部屋やプライベートな個人生活を捨てることができるものだろうか。
 
 子ども部屋は、私たちの個人としてのプライベートな意識や生活を象徴するとともに、それと不可分な関係にある。
 
 個人のプライベート化が近現代の先進国にほぼ共通してみられた流れだけに、それらを本当に捨てられるものなのか、私にはちょっとわからない。
 
 

文明化の過程・上 〈改装版〉: ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

文明化の過程・上 〈改装版〉: ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

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*1:このことに加えて、たとえば放課後の塾通いのような個人のスケジュール化によっても個人化は促されるが、それはまた別の機会に。

*2:補足すると、子ども部屋がなければオタクも新人類も、サブカルもやれない。他方、1970年代以前の不良や1980年代以降のヤンキーは、子ども部屋がなくてもやれなくはない。

実写版『惡の華』についての個人的メモ

 
www.cinra.net
 
 
 リンク先のCINRA.NETさんに、映画『惡の華』についての文章を寄稿させていただきました。実写映画について寄稿するのは今回が初めてで、どうして私にお鉢が回ってきたのか少し不思議だったのですが、実際に作品を観てみると、なるほど、私に声がかかってもおかしくなさそうな内容でした。
 
 数年前に放送されたアニメ版は、ちょっと尻切れトンボな展開だったこともあって、思春期を茶化しているのか美しく描こうとしているのかわかりにくかったのですが、こちらはそんなことはありませんでした。間違いだらけの中学時代を間違いだらけのものとして描き、なおかつ、それが貴重な一時代で、普遍的なものであるというメッセージが含まれていると、私は感じ取りました。
 
 主人公である春日の行動はとことん恥ずかしく、間違っていて、痛々しいものでした。が、中学生男子とは本来そのようなものではないでしょうか。「文学少年を気取った中学生男子が二人の女子に挟まれる」、というのは本作のフィクショナルな設定ですが、そのフィクショナルな設定をとおして描かれる中学生男子の実態がとてもリアルで、本作の見所のひとつだと思います。
 
 すなわち中学生男子の実態とは、未熟で、自己中心的で、リビドーの抑えが効かず、多感ゆえに流されやすく、大人を気取りたいけれどもまだ気取れない、そのような実態です。
 
 いまどきの中学生は、中学生になる前から中二病という言葉を知り、オンラインで繋がるようになってしまっているため、『惡の華』で描かれたとおりに中二病を炸裂させるのは難しいでしょう。中学生が大人の定めたルールからはみ出して構わない範囲は、昔より狭くなっているようにみえます。
 
 でも本当は、中学生という境遇には春日や仲村さんのように大人の定めたルールからはみ出せる力があったはず。それでも社会に戻れる余地もあったはず。そういうことを思い出させてくれる作品ではないかと思います。以下、冒頭リンク先には書きようのなかった、気に入ったところや考えたことなどを箇条書きにメモっておきます。
 
 
 
  
 
 (以下、ネタバレを含んでいるのでこれから観に行く人はご注意ください)
 
 
 
 
 
   
・春日がクラスメートの男子と帰る時の猥談がめっちゃいい。このシーンでは、春日がプリミティブな性欲を文学少年というキャラクターで一生懸命に繕っているようにみえた。もちろんこれは取り繕いでしかなくて、春日は体操服を拾ってしまうし、胸チラや透けブラにも滅法弱いのだけど。一人の視聴者である私からみると、それこそが春日の魅力だ。
 
・春日ぐらいの年齢の男子が性欲がちゃんと露わになって、未熟を未熟にやってのけられるのは発達の順序として良いことなのだと思う。女子たちもそうだ。未熟と未熟が出会いながら大人になっていく。ただ、それがお互いを傷つけることもあるし、大きな逸脱を生むこともある。本作ではそうならなかったけれども、帰らぬ旅路になることさえあるだろう。それらを危ういと否定するのか、それでも尊いと肯定するのか。この作品は後者の立場に重心が置かれている。
 
・図書室で仲村さんに体操服とブルマを着せられる春日は、口ではやめろと言ってはいるけれども真面目に抵抗していないようにみえた。で、体操服とブルマを着せられて、めっちゃ嬉しそう。どこかボーっとした、恍惚とした表情。仲村さんに比べると春日はどこか受身だ。あれはマゾい表情だと思う。
 
・佐伯さんは、アニメ版に比べて硬いキャラクターとして演じられていて、これが仲村さんとはトーンの違う危うい感じになっていて良かった。仲村さんは、思春期が次第にテンパっていく過程がよくわかる感じで、高校編では憑き物がとれたみたいになっていた。佐伯さんのキャラクターのほうが「引きずりそう」な感じがあって、事実、引きずっていた。心療内科に通っても引きずるものは引きずるだろう。
 
・この作品では、ボードレールの『惡の華』がたびたび踏みにじられていた。中学生には『惡の華』はまだ早く、「あの山の向こう側」に辿り着くことなどできやしない。春日と仲村さんは、そういう重たい日常の外に出ようとあがいていたが、河川敷の小屋は燃え、祭りの屋台では取り押さえられてしまった。まあよく頑張っていたと思う。現実の中学生にできることは、せいぜい、本をを読み耽ったり踏みにじったりすることだけだから。
 
・仲村さんの親父さんは、昼間から瓶ビールを飲む(そして瓶ビールを母親に出してもらう)キャラクターで、そんな親父さんが舞台乗っ取りのシーンで仲村さんを制止し、おそらく母親のもとに仲村さんを送るよう決意したのは美しい話だと思った。春日の親父さんも、文学趣味のこれまた不器用そうな人物像で、高校編で大宮に移ってからの、ウイスキーのグラスを前にうずくまる姿が印象的だった。この年齢になると、親父さんがたの行動や境遇に身を寄せたくもなる。果たして私は、あんな風にうずくまる父親になれるのだろうか? と自問せずにいられなかった。
 
・河川敷でいろいろあった後の佐伯さんが、仲村さんに「方言」をぶつけるシーン、そうか、佐伯さんはもともと方言を話していたのが標準語で取り繕うようになっていたんだ……という発見があった。この映画の舞台になっているのは群馬県桐生市、首都圏との距離がこれぐらいだと、思春期になって方言を隠すようになるんだろうか。そうかもしれない。佐伯さんの自宅は「育ちの良い家」のようにみえたけれども、小学生まではちゃんと方言を話していたのだろう。地方都市では、それはむしろ豊かなことだと思う。そんな佐伯さんが無軌道に突っ走ってしまうのが中学生という季節なのだからたまらない。親御さんとしては、肝の冷える思いがするだろうけれども。
 
・中学編のクライマックスである舞台乗っ取りで、春日と仲村さんがテレビに映っていた。この事件をきっかけとして春日と仲村さんは転居したのだろうけれど、2000年代以降にこういう事件が起こったらネットに流れて拡散し、学校氏名が特定され、たぶん学校で起こった下着泥棒の件なども芋づる式に匿名掲示板に曝されて、再起不能になると思う。『惡の華』が物語として着地点に着地するためには、インターネットが普及していない世界が必要だった。この作品は令和時代の中二病のありかたではなく、ネットが普及する以前の中二病のありかたに即していると思う。ブルマやブリーフが登場する点からいっても、この『惡の華』の時代設定は校内暴力や暴走族が流行っていた時代よりも後で、中二病という言葉をみんなが知り、みんながインターネットで繋がってしまう前ぐらいと想定した。
 
・とはいえラストシーンで「こういう思春期のドライビングが終わったわけではない」ことが仄めかされている。では、令和時代に思春期がグイングインと音を立ててドライブする場はどこにあるのか? ちょっと昔なら、迷わずオンラインの世界がそれだと言うことができた。インターネットがアングラの地だった頃は、オンライン空間全体が作中の河川敷の小屋みたいなものだった。しかし今日はどうだろう? ローカルなやりとりでも簡単にスクショを撮られる現在のオンライン空間は、いわばガラス張りの地だ。かといって、オフライン空間に思春期をドライブさせられる場があるのかどうか。なにしろ小学生のうちから「中二病は痛い」と悉知されている世の中なのだ。そのことの難しさに思いを馳せずにはいられなかった。
 
 

いまどきのインターネットは文脈文盲状態が当たり前

 
 
 
1000リツイートを越えるとtwitterの闇が迫ってくる - シロクマの屑籠
 
 
 
 上記リンク先の続きとして、いまどきのインターネットでは文脈が読み取りにくいことについて記しておく。
 
 かつてのインターネット、ネットサーフィンするインターネットには文脈があった。それぞれのウェブサイトの構造がツリー状であったこと、ハイパーリンクをとおして他のウェブサイトへと繋がりあっていたおかげで、その書き手・その文章がどういう文脈に位置づけられているのかがハイパーリンクの次元で明らかになっていた。ネットサーフィンという行為、リンク集を辿る行為が、そのまま書き手の文脈を理解する助けになっていた。
 
 ところがいまどきのインターネットは違う。ブログは記事単位で読まれ、グーグル検索などをとおして流入する人々の大半は書き手の文脈など調べるまでもなく、検索文字列と一致した情報の断片だけ持ち帰ろうとする。
 
 このブログのトラフィックを監視していると、ありがたいことに、週に何十人もの読者が長い時間をかけて、複数のブログ記事を読んでくれている。こういうのはブロガー冥利に尽きる。しかし残りのトラフィックはそうではない。このブログは、私という書き手の文脈を読み取っていただきたく、一応の努力はしているつもりだが、それでも大半のトラフィックは短い滞在時間で去っていく。
 
 twitterではそれがもっと極端だ。140字以内の文章は、リツイートされた断片としてどこか遠くへ、文脈を無視して飛び去っていく。数百、数千とリツイートされた140字ともなると、書き手の文脈など誰も気にしない。
 
 140字。
 
 ただそこに書かれている意味内容が独り歩きし、文脈がアンカーとして機能することも、文脈が意味内容を咀嚼するための補助として働くこともない。リツイートが伸びるほどに、読み手は自動的に文脈文盲状態となって140字を受け取ることになる。
 
 私はここで「自動的に文脈文盲状態のまま……」と書いた。
 
 そう、自動的であることが問題だ。
 
 読み手のリテラシーがどうこうという問題以前に、まずtwitterのリツイートという仕組みじたいが、自動的に、文脈から切り離された140字をつくりだし、そういう文脈文盲状態のまま140字が読まれる状況を作り出している。
 
 だからこれはtwitterというメディアの造りの問題、かしこまって言うならアーキテクチャの問題ということになる。トランプ大統領やロシア大使館やアメリカ第七艦隊も用いている、このtwitterというメディアには、読み手を自動的に文脈文盲状態に陥らせる性質が備わっている。
 
 

アーキテクチャが文脈文盲状態をつくり、訓練する

 
 
 インターネットで私たちが文章を読み書きする時、その場がどのような場所で、アーキテクチャがどのようなものかによって、考え方も書き込み方もかなりの影響を受ける。
 
 たとえば匿名掲示板に書き込む時は、トピックスに別れた匿名掲示板のスレッド構造によって、あるいは匿名性によって書き方が相当に左右されていた。ウェブサイトやブログにしてもそうだ。ツリー状の構造のウェブサイトがそうではないブログに変わった時、書き手の考え方や読み手の捉え方は変わる。
 
 そしてSNS、わけてもtwitterは「140字のつぶやき」というインターフェースと、140字のつぶやき一つ一つを切り抜いて拡散するリツイートという仕組みによって、文脈の切断された140字がトラフィックをうろつき回るような造りになっている。
 
 こういう、twitterのようなアーキテクチャのもとで文脈を意識するのは骨折りの割に報われない行為であり、無文脈に読み書きするようになるのは自然なことだ。だからtwitter上で文脈文盲状態に陥るからといって、愚かなことだとみなして構わないとは考えにくい。むしろtwitter上で文脈文盲状態になるのはアーキテクチャに対する優れた適応とみなすこともできる。苦労して文脈を追うより、無文脈にアダプトしてしまったほうが精神的なコストはずっとかからないのだから。
 
 もちろんこれはtwitterに限った話ではない。たとえば検索結果に混入するのは、書き手の文脈というよりネットユーザー自身の欲求や願望の反映されたパーソナライゼーションのほうだ。検索結果として提示される諸々は、それぞれのウェブサイトなりブログなりの極一部でしかない。その無文脈な断片を、私たちは疑問を抱くこともなく読んでいる。
 
 

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

 
 
 かつて、偉大な賢人はアーキテクチャによってインターネット上の自由のあり方、ひいてはコミュニケーションやコミュニティのあり方は変わると喝破した。実際、SNSやスマホが浸透し尽くした今だからこそ、「インターネットの沙汰はアーキテクチャ次第」というのはよくわかる話で、たとえば特定の思想信条を巡って噛み合わない言葉が銃弾のように飛び交うtwitterの風景も、第一にはtwitterのアーキテクチャのなせるわざ、あるいは(マクルーハン風に言うなら)twitterというメディアの特質と理解すべきなのだろう。
 
 と同時に、こうしたインターネットのアーキテクチャに私たちは日々慣らされてもいる。文脈文盲状態をつくりだすインターネットの諸アーキテクチャに毎日親しみ、その土台のうえでコミュニケーションする私たちは、おのずと無文脈なコミュニケーションに「慣らされている」のではないだろうか。
 
 
監獄の誕生 ― 監視と処罰

監獄の誕生 ― 監視と処罰

 
 
 もう少しゴチャゴチャしたことを書くと、インターネットのアーキテクチャの話は、環境管理型権力という風に解され、実際、そのように機能しているとは思う。けれどもそれっきりではない。結局、これはこれで規律訓練型権力としても後付け的に機能していて、アーキテクチャによって無文脈なコミュニケーションを強いられると同時に、無文脈なコミュニケーションをみんなで繰り返す共犯関係のうちに、そのようなコミュニケーションの習慣を訓練づけている、と思う。
 
 もちろん、世の中の殆どの人はインターネットばかりやっているわけでも、ましてtwitterばかりやっているわけでもないので、そうした訓練の影響は限定的ではあるだろう。けれどもインターネットジャンキーやtwitterジャンキーになっていれば相当の影響はあるだろうし、そうしたインターネットの無文脈な習慣が現代の文化と相互作用を起こす側面もあるやもしれない。
 
 私は無文脈なコミュニケーションに慣れているわけでも望んでいるわけでもないので、現在のインターネットのあり方には思うところがある。とはいえ、無文脈なコミュニケーションには文脈に囚われない身軽さがあり、その恩恵はきっと私自身も受け取っているから、批判的になり過ぎてもいけないのだろう。
 
 そろそろ夕ご飯なので、この話題はこのへんで。
 
 
 

1000リツイートを越えるとtwitterの闇が迫ってくる

 
 
 
 
 twitterは、1000リツイートを越えたあたりから闇が迫ってくる。
 
 ここでいう闇とは、まったく脈絡の無いことをリプライしてくるアカウントや、「テレビに向かって大声で怒鳴っている人のtwitter版」のようなアカウントのことだ。「平然とクソリプする人々」とまとめて構わないかもしれない。
  
 
 100リツイートまでの範囲では、twitterの闇はほとんど体感しないで済む。500リツイートあたりから少し怪しくなって、1000リツイートに辿り着くか辿り着かないぐらいでハッキリ増える。まったく文章の読めていない人・怒鳴りたいだけの人・不吉なアイコンの人がゾロゾロと現れ、私のタイムラインにその不気味な姿を晒すようになる。
 
 数字だけで考えると、100人にリツイートされれば100人に1人の闇がタイムラインに出没し、1000人にリツイートされれば1000人に1人の闇が迫ってくると考えたくなる。逆に言うと、100人に読まれるだけでも1000人に読まれる1/10程度の闇は迫ってきておかしくないし、頻度として10回に1回ぐらいは怖気が走る場面があってしかるべきだ。しかし多くの場合、1000リツイートの手前ぐらいから飛躍的にクソリプが増大する。これはなぜか。
 
 思うに、最初の100リツイートぐらいの間は、私のツイートをあるていど読み慣れている常連さんや、私と文章のやりとりをすることもある相互フォローの人、フォローはしていないけれどもそれに準じた間柄の人々がリツイートするから、文意や文脈を理解したうえでリツイートしてくれることが多いのだろう。私の文章を読み慣れている人なら、チンプンカンプンな反応をする確率は下がる。ひょっとしたらこの段階でも超クソリプを連打している人、どやしかけてくる人がいるのかもしれないが、そういう人はもうミュート済かもしれない。
 
 だが、1000リツイートぐらいの段階になると、私のツイートを読んだことがない人の比率がどんどん高まってくるので、文意や文脈を理解していない人が飛び込んでくる。
 
 twitterは、1ツイートで140字以下の短文だが、短文だからといって読解しやすいとは限らない。むしろ、書き手の手癖も前後の文脈もわからないままポーンと置かれた短文の文意を捉えるのは、難しいことだと思う。今日のインターネットには読み書きの能力が乏しい人もたくさんいる。文意を捉えないまま反応してしまうこともあるだろう。
 
 

はてなブックマークとの比較

 
 このブログははてなブログなので、一応、はてなブックマークとの比較も書いてみる。
 
 はてなブックマークの場合、1000ブックマークを越えると闇が迫ってくるという感じはない。はてなブックマークの闇は、いつでも間近にある。100ブックマークどころか、30ブックマークぐらいで(twitterでいう)クソリプに相当するような頓珍漢がヌッと現れる。
 
 00年代のいにしえの昔より、はてなブックマークと(旧)はてなダイアリーは百鬼夜行の世界で、悪鬼羅刹が潜んでいた。とはいえ、いにしえのはてなブックマークには文意文脈を理解したうえで自己主張する人・文意文脈を理解したうえで踏みにじる人は多くても、文意文脈がわからない人は少なかった*1。あるいは、道化師として周知さられているアカウントのお道化を生暖かく見守るカルチャーがあったから、そういった道化師のコメントはクソリプと勘定されなかった。
 
 だが、いわゆる「はてな村」的なコミュニティはダムの底に沈んだ。今日、文意文脈を理解したうえで自己主張や踏みにじりをやってのけられる羅刹はそれほど多くはない。道化師が道化師でいられるカルチャー、道化師のお道化を見守るカルチャーは、文脈の喪失とともに失われてしまった。
 
 現在のはてなブックマークでは、道化師を道化師とは認めず字義どおりに捉えて正面から批判し、ともすれば憎んだりスパム扱いすることが正しい態度とみなされつつある。他方、ブックマーク対象となった文章やコンテンツを字義どおりに捉える力の平均はおそらく落ちていて、クソリプ相当の頓珍漢を繰り返して羅刹気取りのアカウントも増えてきた。
 
 ずっと昔、ある翁は「はてなブックマークのネガコメ」についてあれこれ語っていたが、私も翁の気持ちに近づいたのかもしれない。今のはてなブックマークにも聡明なブックマーカーはいる。だが戦慄すべき頓珍漢も遍在している。そしてtwitterとは違い、1000リツイートほどバズるまでもなく、彼らはヌッと現れる。
 
 はてなブックマークの闇はtwitterほど広くはない。
 しかし、どこにでも、すぐにでも現れる。
 
 

タイムラインのお手入れはやっぱり重要

 
 twitterに話を戻そう。
 
 twitterの果てしない広がりの向こう側には、闇としかいいようがないアカウントが蠢いている。それは1000リツイートが迫ってきた時の風景で明らかだし、世の中の闇な実態として想定可能なものではある。だが人間は、twitterの闇を見つめ続けられるようにはできていない。少なくとも私は、twitterの闇を見つめ続けても潰れてしまわないほどのタフネスを持ち合わせていないと思う。
 
 だから自分のタイムラインは日頃からきっちり手入れをしておき、あまりにもtwitterの闇を見つめてしまわぬよう、闇に呑み込まれて自分自身までもが闇の眷族になり果ててしまわぬよう、注意しておかなければならないと思う。
 
 良いtwitterライフは良いタイムラインにしか宿らず、悪いタイムラインを放置しておくと悪いtwitterライフに陥ってインターネットの地獄を舐めることになるのだと、思う。
  
 

*1:皆無だったわけではないが

人間の皮が剥げそうだ

 
 仕事が忙しくなり、社会的立場にもとづいて行動する場面が重なってくると、私は人間の皮が剥げて、本来の姿が現れてきそうになる。
 
 世の中には、ほとんど呼吸をするように「人間をやれる」人間と、そうでない人間がいる。
 
 前者は生まれながら、正真正銘の人間といってもいい。最近は正常な人間と書くと誰かに怒られて定型発達と書くのが政治的に正しいのだそうだが、いわゆる発達障害抜きにしても、確かに定型的な人間というか、人間として振る舞う際や、社会的立場にもとづいて行動する際にペナルティ的なストレスやコストを支払う必要のない人というのは、いると思う。
 
 言い換えれば、人間として振る舞う・社会的立場にもとづいて行動することに要するストレスやコストが少なめの人というか。
 
 一方、私のようなそうでない人間もいる。人間らしく、現代人らしく振舞うためには努力が要る。ごく自然に人間をやっているのでなく意識的に人間をやっているとも言えるし、最近のゲーム的表現を使うなら、パッシブスキルで人間をやれるのでなくアクティブスキルで人間をやらなければならないとも言える。
 
 つまり、私とその同類たちは、人間をやるために・社会的立場にもとづいて行動するためにマジックポイントとかスキルポイントとかマジカとかそういったものを消費しなければならない。ゲーム的表現に縁が無い人向きに言い直すなら、「ぐっと息を止めている間に人間をやって社会的立場を遂行しなければならない」と喩えればわかってもらえるだろうか。
 
 で、元気の良い時は私だって中年なんだから、それなり人間をやっていけるし社会的立場もやっていける。四十余年の歳月は、息継ぎをしっかりさえやれば私でも人間の皮を被って生きていけることを証明してくれた。
 
 だが、息継ぎがあまりできない状況が続くと、だめである。
 
 人間を!
 やめて!
 けだもののようにひきこもりたい!
 
 時々、私に出会ってリアルが充実していると指摘する人がいる。だがそれは私の人間の皮を見てそう思っているだけだし、なまじ皮なものだから、少しツヤツヤにみえるだけのことだ。私は余裕が無くなってくると猛烈に人間がやってられなくなって、社会的立場が白けてしまって、自分の世界に帰りたくなる。ゲームでもブログでも自然でもいい、とにかく、社会の制度や慣習といった重苦しくて、どこか茶番のようだけど茶番だと呼んではならないあのあたりから逃げ出し、透明な政治の針金みたいなもので人間力学が成り立っている世界に背を向けたくなる。
 
 で、今の私はたぶんそうなっている。
 
 もともと私の本業には、社会的立場を伴っている部分と、社会的立場をある程度緩和してくれるところがあって、例えば患者さんと向き合っている時間の何割かは、むしろ私を透明な政治の針金から遠ざけてくれる。もちろん逆に透明な政治の針金を意識せざるを得ない場面もあるけれども、自分自身のことでなく患者さんのことなら、透明な針金で自分の首が締め上げられる心配はしなくていい。
 
 とはいえダメな時はだめで、そんな日は、社会的立場がなまはげみたいに追いかけてくる。で、私は今たぶんそういうものに追い回されていて、小さなタスクが豪雪地帯の雪のように降り積もっていて、そのうえ書籍作成ミッションなどやっているわけだから、髪を振り乱して生きている。まさに人間の皮が剥げてしまいそうだ。さきほども、ある人から「シロクマさん、ちょっと社会性アバターがズレてますよ。」と指摘されてしまった。うん、実はそうなんだ。人間が難しくなってしまってね。
 
 これまでも私は人間をちゃんと遂行するために、社会性を獲得するために、私なりの努力を積み上げてきたつもりである。それで身に付いたものといったら、人間を遂行するための人間の皮がちょっと精巧になったことと、社会的立場にふさわしい振る舞いのシークエンスを覚えただけだった。人間や社会的立場を遂行する際にストレスやコストを支払わなければならない呪わしい性質は、あまり変わらなかった。結局私は、背広を着てネクタイを締めてそれらしい振る舞いを一週間もぶっ続けでやったら、オーバーヒートしてしまうのである。
 
 ひきこもり、けだもののようにマインクラフトで遊ぶのが、今、一番私を癒してくれる選択肢だろう。しかし立場が、状況がそれを許してはくれない。今年はコーヒーを飲んででも戦うのだと決めたのだから、私は戦うのだろう。それにしてもこんな時期に苦手な職務がドサドサ降ってくると泣き言のひとつもいいたくなる。くっそ!人間!