シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

実写版『惡の華』についての個人的メモ

 
www.cinra.net
 
 
 リンク先のCINRA.NETさんに、映画『惡の華』についての文章を寄稿させていただきました。実写映画について寄稿するのは今回が初めてで、どうして私にお鉢が回ってきたのか少し不思議だったのですが、実際に作品を観てみると、なるほど、私に声がかかってもおかしくなさそうな内容でした。
 
 数年前に放送されたアニメ版は、ちょっと尻切れトンボな展開だったこともあって、思春期を茶化しているのか美しく描こうとしているのかわかりにくかったのですが、こちらはそんなことはありませんでした。間違いだらけの中学時代を間違いだらけのものとして描き、なおかつ、それが貴重な一時代で、普遍的なものであるというメッセージが含まれていると、私は感じ取りました。
 
 主人公である春日の行動はとことん恥ずかしく、間違っていて、痛々しいものでした。が、中学生男子とは本来そのようなものではないでしょうか。「文学少年を気取った中学生男子が二人の女子に挟まれる」、というのは本作のフィクショナルな設定ですが、そのフィクショナルな設定をとおして描かれる中学生男子の実態がとてもリアルで、本作の見所のひとつだと思います。
 
 すなわち中学生男子の実態とは、未熟で、自己中心的で、リビドーの抑えが効かず、多感ゆえに流されやすく、大人を気取りたいけれどもまだ気取れない、そのような実態です。
 
 いまどきの中学生は、中学生になる前から中二病という言葉を知り、オンラインで繋がるようになってしまっているため、『惡の華』で描かれたとおりに中二病を炸裂させるのは難しいでしょう。中学生が大人の定めたルールからはみ出して構わない範囲は、昔より狭くなっているようにみえます。
 
 でも本当は、中学生という境遇には春日や仲村さんのように大人の定めたルールからはみ出せる力があったはず。それでも社会に戻れる余地もあったはず。そういうことを思い出させてくれる作品ではないかと思います。以下、冒頭リンク先には書きようのなかった、気に入ったところや考えたことなどを箇条書きにメモっておきます。
 
 
 
  
 
 (以下、ネタバレを含んでいるのでこれから観に行く人はご注意ください)
 
 
 
 
 
   
・春日がクラスメートの男子と帰る時の猥談がめっちゃいい。このシーンでは、春日がプリミティブな性欲を文学少年というキャラクターで一生懸命に繕っているようにみえた。もちろんこれは取り繕いでしかなくて、春日は体操服を拾ってしまうし、胸チラや透けブラにも滅法弱いのだけど。一人の視聴者である私からみると、それこそが春日の魅力だ。
 
・春日ぐらいの年齢の男子が性欲がちゃんと露わになって、未熟を未熟にやってのけられるのは発達の順序として良いことなのだと思う。女子たちもそうだ。未熟と未熟が出会いながら大人になっていく。ただ、それがお互いを傷つけることもあるし、大きな逸脱を生むこともある。本作ではそうならなかったけれども、帰らぬ旅路になることさえあるだろう。それらを危ういと否定するのか、それでも尊いと肯定するのか。この作品は後者の立場に重心が置かれている。
 
・図書室で仲村さんに体操服とブルマを着せられる春日は、口ではやめろと言ってはいるけれども真面目に抵抗していないようにみえた。で、体操服とブルマを着せられて、めっちゃ嬉しそう。どこかボーっとした、恍惚とした表情。仲村さんに比べると春日はどこか受身だ。あれはマゾい表情だと思う。
 
・佐伯さんは、アニメ版に比べて硬いキャラクターとして演じられていて、これが仲村さんとはトーンの違う危うい感じになっていて良かった。仲村さんは、思春期が次第にテンパっていく過程がよくわかる感じで、高校編では憑き物がとれたみたいになっていた。佐伯さんのキャラクターのほうが「引きずりそう」な感じがあって、事実、引きずっていた。心療内科に通っても引きずるものは引きずるだろう。
 
・この作品では、ボードレールの『惡の華』がたびたび踏みにじられていた。中学生には『惡の華』はまだ早く、「あの山の向こう側」に辿り着くことなどできやしない。春日と仲村さんは、そういう重たい日常の外に出ようとあがいていたが、河川敷の小屋は燃え、祭りの屋台では取り押さえられてしまった。まあよく頑張っていたと思う。現実の中学生にできることは、せいぜい、本をを読み耽ったり踏みにじったりすることだけだから。
 
・仲村さんの親父さんは、昼間から瓶ビールを飲む(そして瓶ビールを母親に出してもらう)キャラクターで、そんな親父さんが舞台乗っ取りのシーンで仲村さんを制止し、おそらく母親のもとに仲村さんを送るよう決意したのは美しい話だと思った。春日の親父さんも、文学趣味のこれまた不器用そうな人物像で、高校編で大宮に移ってからの、ウイスキーのグラスを前にうずくまる姿が印象的だった。この年齢になると、親父さんがたの行動や境遇に身を寄せたくもなる。果たして私は、あんな風にうずくまる父親になれるのだろうか? と自問せずにいられなかった。
 
・河川敷でいろいろあった後の佐伯さんが、仲村さんに「方言」をぶつけるシーン、そうか、佐伯さんはもともと方言を話していたのが標準語で取り繕うようになっていたんだ……という発見があった。この映画の舞台になっているのは群馬県桐生市、首都圏との距離がこれぐらいだと、思春期になって方言を隠すようになるんだろうか。そうかもしれない。佐伯さんの自宅は「育ちの良い家」のようにみえたけれども、小学生まではちゃんと方言を話していたのだろう。地方都市では、それはむしろ豊かなことだと思う。そんな佐伯さんが無軌道に突っ走ってしまうのが中学生という季節なのだからたまらない。親御さんとしては、肝の冷える思いがするだろうけれども。
 
・中学編のクライマックスである舞台乗っ取りで、春日と仲村さんがテレビに映っていた。この事件をきっかけとして春日と仲村さんは転居したのだろうけれど、2000年代以降にこういう事件が起こったらネットに流れて拡散し、学校氏名が特定され、たぶん学校で起こった下着泥棒の件なども芋づる式に匿名掲示板に曝されて、再起不能になると思う。『惡の華』が物語として着地点に着地するためには、インターネットが普及していない世界が必要だった。この作品は令和時代の中二病のありかたではなく、ネットが普及する以前の中二病のありかたに即していると思う。ブルマやブリーフが登場する点からいっても、この『惡の華』の時代設定は校内暴力や暴走族が流行っていた時代よりも後で、中二病という言葉をみんなが知り、みんながインターネットで繋がってしまう前ぐらいと想定した。
 
・とはいえラストシーンで「こういう思春期のドライビングが終わったわけではない」ことが仄めかされている。では、令和時代に思春期がグイングインと音を立ててドライブする場はどこにあるのか? ちょっと昔なら、迷わずオンラインの世界がそれだと言うことができた。インターネットがアングラの地だった頃は、オンライン空間全体が作中の河川敷の小屋みたいなものだった。しかし今日はどうだろう? ローカルなやりとりでも簡単にスクショを撮られる現在のオンライン空間は、いわばガラス張りの地だ。かといって、オフライン空間に思春期をドライブさせられる場があるのかどうか。なにしろ小学生のうちから「中二病は痛い」と悉知されている世の中なのだ。そのことの難しさに思いを馳せずにはいられなかった。
 
 

いまどきのインターネットは文脈文盲状態が当たり前

 
 
 
1000リツイートを越えるとtwitterの闇が迫ってくる - シロクマの屑籠
 
 
 
 上記リンク先の続きとして、いまどきのインターネットでは文脈が読み取りにくいことについて記しておく。
 
 かつてのインターネット、ネットサーフィンするインターネットには文脈があった。それぞれのウェブサイトの構造がツリー状であったこと、ハイパーリンクをとおして他のウェブサイトへと繋がりあっていたおかげで、その書き手・その文章がどういう文脈に位置づけられているのかがハイパーリンクの次元で明らかになっていた。ネットサーフィンという行為、リンク集を辿る行為が、そのまま書き手の文脈を理解する助けになっていた。
 
 ところがいまどきのインターネットは違う。ブログは記事単位で読まれ、グーグル検索などをとおして流入する人々の大半は書き手の文脈など調べるまでもなく、検索文字列と一致した情報の断片だけ持ち帰ろうとする。
 
 このブログのトラフィックを監視していると、ありがたいことに、週に何十人もの読者が長い時間をかけて、複数のブログ記事を読んでくれている。こういうのはブロガー冥利に尽きる。しかし残りのトラフィックはそうではない。このブログは、私という書き手の文脈を読み取っていただきたく、一応の努力はしているつもりだが、それでも大半のトラフィックは短い滞在時間で去っていく。
 
 twitterではそれがもっと極端だ。140字以内の文章は、リツイートされた断片としてどこか遠くへ、文脈を無視して飛び去っていく。数百、数千とリツイートされた140字ともなると、書き手の文脈など誰も気にしない。
 
 140字。
 
 ただそこに書かれている意味内容が独り歩きし、文脈がアンカーとして機能することも、文脈が意味内容を咀嚼するための補助として働くこともない。リツイートが伸びるほどに、読み手は自動的に文脈文盲状態となって140字を受け取ることになる。
 
 私はここで「自動的に文脈文盲状態のまま……」と書いた。
 
 そう、自動的であることが問題だ。
 
 読み手のリテラシーがどうこうという問題以前に、まずtwitterのリツイートという仕組みじたいが、自動的に、文脈から切り離された140字をつくりだし、そういう文脈文盲状態のまま140字が読まれる状況を作り出している。
 
 だからこれはtwitterというメディアの造りの問題、かしこまって言うならアーキテクチャの問題ということになる。トランプ大統領やロシア大使館やアメリカ第七艦隊も用いている、このtwitterというメディアには、読み手を自動的に文脈文盲状態に陥らせる性質が備わっている。
 
 

アーキテクチャが文脈文盲状態をつくり、訓練する

 
 
 インターネットで私たちが文章を読み書きする時、その場がどのような場所で、アーキテクチャがどのようなものかによって、考え方も書き込み方もかなりの影響を受ける。
 
 たとえば匿名掲示板に書き込む時は、トピックスに別れた匿名掲示板のスレッド構造によって、あるいは匿名性によって書き方が相当に左右されていた。ウェブサイトやブログにしてもそうだ。ツリー状の構造のウェブサイトがそうではないブログに変わった時、書き手の考え方や読み手の捉え方は変わる。
 
 そしてSNS、わけてもtwitterは「140字のつぶやき」というインターフェースと、140字のつぶやき一つ一つを切り抜いて拡散するリツイートという仕組みによって、文脈の切断された140字がトラフィックをうろつき回るような造りになっている。
 
 こういう、twitterのようなアーキテクチャのもとで文脈を意識するのは骨折りの割に報われない行為であり、無文脈に読み書きするようになるのは自然なことだ。だからtwitter上で文脈文盲状態に陥るからといって、愚かなことだとみなして構わないとは考えにくい。むしろtwitter上で文脈文盲状態になるのはアーキテクチャに対する優れた適応とみなすこともできる。苦労して文脈を追うより、無文脈にアダプトしてしまったほうが精神的なコストはずっとかからないのだから。
 
 もちろんこれはtwitterに限った話ではない。たとえば検索結果に混入するのは、書き手の文脈というよりネットユーザー自身の欲求や願望の反映されたパーソナライゼーションのほうだ。検索結果として提示される諸々は、それぞれのウェブサイトなりブログなりの極一部でしかない。その無文脈な断片を、私たちは疑問を抱くこともなく読んでいる。
 
 

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

 
 
 かつて、偉大な賢人はアーキテクチャによってインターネット上の自由のあり方、ひいてはコミュニケーションやコミュニティのあり方は変わると喝破した。実際、SNSやスマホが浸透し尽くした今だからこそ、「インターネットの沙汰はアーキテクチャ次第」というのはよくわかる話で、たとえば特定の思想信条を巡って噛み合わない言葉が銃弾のように飛び交うtwitterの風景も、第一にはtwitterのアーキテクチャのなせるわざ、あるいは(マクルーハン風に言うなら)twitterというメディアの特質と理解すべきなのだろう。
 
 と同時に、こうしたインターネットのアーキテクチャに私たちは日々慣らされてもいる。文脈文盲状態をつくりだすインターネットの諸アーキテクチャに毎日親しみ、その土台のうえでコミュニケーションする私たちは、おのずと無文脈なコミュニケーションに「慣らされている」のではないだろうか。
 
 
監獄の誕生 ― 監視と処罰

監獄の誕生 ― 監視と処罰

 
 
 もう少しゴチャゴチャしたことを書くと、インターネットのアーキテクチャの話は、環境管理型権力という風に解され、実際、そのように機能しているとは思う。けれどもそれっきりではない。結局、これはこれで規律訓練型権力としても後付け的に機能していて、アーキテクチャによって無文脈なコミュニケーションを強いられると同時に、無文脈なコミュニケーションをみんなで繰り返す共犯関係のうちに、そのようなコミュニケーションの習慣を訓練づけている、と思う。
 
 もちろん、世の中の殆どの人はインターネットばかりやっているわけでも、ましてtwitterばかりやっているわけでもないので、そうした訓練の影響は限定的ではあるだろう。けれどもインターネットジャンキーやtwitterジャンキーになっていれば相当の影響はあるだろうし、そうしたインターネットの無文脈な習慣が現代の文化と相互作用を起こす側面もあるやもしれない。
 
 私は無文脈なコミュニケーションに慣れているわけでも望んでいるわけでもないので、現在のインターネットのあり方には思うところがある。とはいえ、無文脈なコミュニケーションには文脈に囚われない身軽さがあり、その恩恵はきっと私自身も受け取っているから、批判的になり過ぎてもいけないのだろう。
 
 そろそろ夕ご飯なので、この話題はこのへんで。
 
 
 

1000リツイートを越えるとtwitterの闇が迫ってくる

 
 
 
 
 twitterは、1000リツイートを越えたあたりから闇が迫ってくる。
 
 ここでいう闇とは、まったく脈絡の無いことをリプライしてくるアカウントや、「テレビに向かって大声で怒鳴っている人のtwitter版」のようなアカウントのことだ。「平然とクソリプする人々」とまとめて構わないかもしれない。
  
 
 100リツイートまでの範囲では、twitterの闇はほとんど体感しないで済む。500リツイートあたりから少し怪しくなって、1000リツイートに辿り着くか辿り着かないぐらいでハッキリ増える。まったく文章の読めていない人・怒鳴りたいだけの人・不吉なアイコンの人がゾロゾロと現れ、私のタイムラインにその不気味な姿を晒すようになる。
 
 数字だけで考えると、100人にリツイートされれば100人に1人の闇がタイムラインに出没し、1000人にリツイートされれば1000人に1人の闇が迫ってくると考えたくなる。逆に言うと、100人に読まれるだけでも1000人に読まれる1/10程度の闇は迫ってきておかしくないし、頻度として10回に1回ぐらいは怖気が走る場面があってしかるべきだ。しかし多くの場合、1000リツイートの手前ぐらいから飛躍的にクソリプが増大する。これはなぜか。
 
 思うに、最初の100リツイートぐらいの間は、私のツイートをあるていど読み慣れている常連さんや、私と文章のやりとりをすることもある相互フォローの人、フォローはしていないけれどもそれに準じた間柄の人々がリツイートするから、文意や文脈を理解したうえでリツイートしてくれることが多いのだろう。私の文章を読み慣れている人なら、チンプンカンプンな反応をする確率は下がる。ひょっとしたらこの段階でも超クソリプを連打している人、どやしかけてくる人がいるのかもしれないが、そういう人はもうミュート済かもしれない。
 
 だが、1000リツイートぐらいの段階になると、私のツイートを読んだことがない人の比率がどんどん高まってくるので、文意や文脈を理解していない人が飛び込んでくる。
 
 twitterは、1ツイートで140字以下の短文だが、短文だからといって読解しやすいとは限らない。むしろ、書き手の手癖も前後の文脈もわからないままポーンと置かれた短文の文意を捉えるのは、難しいことだと思う。今日のインターネットには読み書きの能力が乏しい人もたくさんいる。文意を捉えないまま反応してしまうこともあるだろう。
 
 

はてなブックマークとの比較

 
 このブログははてなブログなので、一応、はてなブックマークとの比較も書いてみる。
 
 はてなブックマークの場合、1000ブックマークを越えると闇が迫ってくるという感じはない。はてなブックマークの闇は、いつでも間近にある。100ブックマークどころか、30ブックマークぐらいで(twitterでいう)クソリプに相当するような頓珍漢がヌッと現れる。
 
 00年代のいにしえの昔より、はてなブックマークと(旧)はてなダイアリーは百鬼夜行の世界で、悪鬼羅刹が潜んでいた。とはいえ、いにしえのはてなブックマークには文意文脈を理解したうえで自己主張する人・文意文脈を理解したうえで踏みにじる人は多くても、文意文脈がわからない人は少なかった*1。あるいは、道化師として周知さられているアカウントのお道化を生暖かく見守るカルチャーがあったから、そういった道化師のコメントはクソリプと勘定されなかった。
 
 だが、いわゆる「はてな村」的なコミュニティはダムの底に沈んだ。今日、文意文脈を理解したうえで自己主張や踏みにじりをやってのけられる羅刹はそれほど多くはない。道化師が道化師でいられるカルチャー、道化師のお道化を見守るカルチャーは、文脈の喪失とともに失われてしまった。
 
 現在のはてなブックマークでは、道化師を道化師とは認めず字義どおりに捉えて正面から批判し、ともすれば憎んだりスパム扱いすることが正しい態度とみなされつつある。他方、ブックマーク対象となった文章やコンテンツを字義どおりに捉える力の平均はおそらく落ちていて、クソリプ相当の頓珍漢を繰り返して羅刹気取りのアカウントも増えてきた。
 
 ずっと昔、ある翁は「はてなブックマークのネガコメ」についてあれこれ語っていたが、私も翁の気持ちに近づいたのかもしれない。今のはてなブックマークにも聡明なブックマーカーはいる。だが戦慄すべき頓珍漢も遍在している。そしてtwitterとは違い、1000リツイートほどバズるまでもなく、彼らはヌッと現れる。
 
 はてなブックマークの闇はtwitterほど広くはない。
 しかし、どこにでも、すぐにでも現れる。
 
 

タイムラインのお手入れはやっぱり重要

 
 twitterに話を戻そう。
 
 twitterの果てしない広がりの向こう側には、闇としかいいようがないアカウントが蠢いている。それは1000リツイートが迫ってきた時の風景で明らかだし、世の中の闇な実態として想定可能なものではある。だが人間は、twitterの闇を見つめ続けられるようにはできていない。少なくとも私は、twitterの闇を見つめ続けても潰れてしまわないほどのタフネスを持ち合わせていないと思う。
 
 だから自分のタイムラインは日頃からきっちり手入れをしておき、あまりにもtwitterの闇を見つめてしまわぬよう、闇に呑み込まれて自分自身までもが闇の眷族になり果ててしまわぬよう、注意しておかなければならないと思う。
 
 良いtwitterライフは良いタイムラインにしか宿らず、悪いタイムラインを放置しておくと悪いtwitterライフに陥ってインターネットの地獄を舐めることになるのだと、思う。
  
 

*1:皆無だったわけではないが

人間の皮が剥げそうだ

 
 仕事が忙しくなり、社会的立場にもとづいて行動する場面が重なってくると、私は人間の皮が剥げて、本来の姿が現れてきそうになる。
 
 世の中には、ほとんど呼吸をするように「人間をやれる」人間と、そうでない人間がいる。
 
 前者は生まれながら、正真正銘の人間といってもいい。最近は正常な人間と書くと誰かに怒られて定型発達と書くのが政治的に正しいのだそうだが、いわゆる発達障害抜きにしても、確かに定型的な人間というか、人間として振る舞う際や、社会的立場にもとづいて行動する際にペナルティ的なストレスやコストを支払う必要のない人というのは、いると思う。
 
 言い換えれば、人間として振る舞う・社会的立場にもとづいて行動することに要するストレスやコストが少なめの人というか。
 
 一方、私のようなそうでない人間もいる。人間らしく、現代人らしく振舞うためには努力が要る。ごく自然に人間をやっているのでなく意識的に人間をやっているとも言えるし、最近のゲーム的表現を使うなら、パッシブスキルで人間をやれるのでなくアクティブスキルで人間をやらなければならないとも言える。
 
 つまり、私とその同類たちは、人間をやるために・社会的立場にもとづいて行動するためにマジックポイントとかスキルポイントとかマジカとかそういったものを消費しなければならない。ゲーム的表現に縁が無い人向きに言い直すなら、「ぐっと息を止めている間に人間をやって社会的立場を遂行しなければならない」と喩えればわかってもらえるだろうか。
 
 で、元気の良い時は私だって中年なんだから、それなり人間をやっていけるし社会的立場もやっていける。四十余年の歳月は、息継ぎをしっかりさえやれば私でも人間の皮を被って生きていけることを証明してくれた。
 
 だが、息継ぎがあまりできない状況が続くと、だめである。
 
 人間を!
 やめて!
 けだもののようにひきこもりたい!
 
 時々、私に出会ってリアルが充実していると指摘する人がいる。だがそれは私の人間の皮を見てそう思っているだけだし、なまじ皮なものだから、少しツヤツヤにみえるだけのことだ。私は余裕が無くなってくると猛烈に人間がやってられなくなって、社会的立場が白けてしまって、自分の世界に帰りたくなる。ゲームでもブログでも自然でもいい、とにかく、社会の制度や慣習といった重苦しくて、どこか茶番のようだけど茶番だと呼んではならないあのあたりから逃げ出し、透明な政治の針金みたいなもので人間力学が成り立っている世界に背を向けたくなる。
 
 で、今の私はたぶんそうなっている。
 
 もともと私の本業には、社会的立場を伴っている部分と、社会的立場をある程度緩和してくれるところがあって、例えば患者さんと向き合っている時間の何割かは、むしろ私を透明な政治の針金から遠ざけてくれる。もちろん逆に透明な政治の針金を意識せざるを得ない場面もあるけれども、自分自身のことでなく患者さんのことなら、透明な針金で自分の首が締め上げられる心配はしなくていい。
 
 とはいえダメな時はだめで、そんな日は、社会的立場がなまはげみたいに追いかけてくる。で、私は今たぶんそういうものに追い回されていて、小さなタスクが豪雪地帯の雪のように降り積もっていて、そのうえ書籍作成ミッションなどやっているわけだから、髪を振り乱して生きている。まさに人間の皮が剥げてしまいそうだ。さきほども、ある人から「シロクマさん、ちょっと社会性アバターがズレてますよ。」と指摘されてしまった。うん、実はそうなんだ。人間が難しくなってしまってね。
 
 これまでも私は人間をちゃんと遂行するために、社会性を獲得するために、私なりの努力を積み上げてきたつもりである。それで身に付いたものといったら、人間を遂行するための人間の皮がちょっと精巧になったことと、社会的立場にふさわしい振る舞いのシークエンスを覚えただけだった。人間や社会的立場を遂行する際にストレスやコストを支払わなければならない呪わしい性質は、あまり変わらなかった。結局私は、背広を着てネクタイを締めてそれらしい振る舞いを一週間もぶっ続けでやったら、オーバーヒートしてしまうのである。
 
 ひきこもり、けだもののようにマインクラフトで遊ぶのが、今、一番私を癒してくれる選択肢だろう。しかし立場が、状況がそれを許してはくれない。今年はコーヒーを飲んででも戦うのだと決めたのだから、私は戦うのだろう。それにしてもこんな時期に苦手な職務がドサドサ降ってくると泣き言のひとつもいいたくなる。くっそ!人間!
 
 
 

ひとことで廃課金プレイヤーといっても背景はいろいろ。

 
 
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 先日、アスクヒューマンケアの季刊『Be!』で、ゲーム障害についてインタビューをいただき、「現役ゲームプレイヤーの精神科医という立場から」意見を述べました。このブログで語った内容と方向性は同じだと思います(以下参照)。
 
 
[関連]:それはゲーム障害なのか、思春期のトライアルなのか、それとも。 - シロクマの屑籠
[関連]:あの頃、俺達はゲーム障害/ネット依存だったのだろうか - シロクマの屑籠
 
 
 ついでに、「ソーシャルゲームやオンラインゲームで廃課金者*1ができあがる背景」について、プレイヤー側ならだいたい見知っていそうだけど、プレイヤーではない人が知らないかもしれない風景について(確認も兼ねて)記してみます。
 
 世の中には、ソーシャルゲームやオンラインゲームを商っているゲーム企業がいくつもあり、人気ゲームには数十万~数百万人のプレイヤーが集まっています。そうした膨大な数のプレイヤーの大半が課金漬けになっているわけでなく、少数がいわゆる廃課金者となり、さらに少数がゲーム依存やゲーム障害と呼ばれ得る状態になっています。たいていのプレイヤーは、経済的負担や社会的損失が過大にならないよう、コストとベネフィットを見極めながら遊べています。
 
 

「財布にやさしい良心的なゲーム」なのに廃課金

 
 では、どんな人がどういうゲームでどんな感じに廃課金しているのか。
 
 私が見聞している範囲でも、廃課金者のありようはゲームによって、あるいはプレイスタイルやプレイヤー本人の性質によってだいぶ違います。
 
 例えばガチャのような射幸心を煽る要素が少なく、課金して得られるメリットの大半がゲームプレイをとおして獲得可能なゲームでも、びっくりするような廃課金を呈する人はいます。
 
 たとえば、ほとんどのプレイヤーが課金せず、一般的なゲームプレイのなかでやりくりできるような(ゲーム内)リソースにもお金を使ってしまう人がいます。ゲームのなかで頻繁に手に入り、現代のゲームプレイヤーなら管理し慣れている基礎的なリソースが課金購入されることはめったにないので、それが割高な価格設定で売られていても、ほとんどのプレイヤーは気にも留めません。
 
 課金で購入せざるを得ないレアなリソースの価格設定が適正で、それをたまに購入すれば事足りるようなゲームバランスであれば、そのゲームはほとんどのプレイヤーからみて「財布にやさしい良心的なゲーム」という評判になります。
 
 世の中のソーシャルゲームやオンラインゲームのけして小さくない割合が、そういう「財布にやさしい良心的なゲーム」で占められています。ゲーム慣れしている人なら、そのゲームが「財布にやさしい良心的なゲーム」か否か、おおよそ見当つけられることでしょう。
 
 ですから、「財布にやさしい良心的なゲーム」で廃課金になってしまう人は、ゲームそのものが問題というより、廃課金になってしまう当人自身の性質を検討しなければならない割合が高い、と私は考えています。
 
 
 「財布にやさしい良心的なゲーム」と言えるものには、もうひとつのパターンがあります。
 
 背伸びしない遊び方をするぶんには年間に数百円~数千円程度の課金でだいたい遊べるけれども、プレイヤー同士の競争に勝ちたいとか、ゲームのなかで自己顕示欲を充たしたいとか考え始めると急激に課金のレートが上昇するタイプのゲームです。
 
 後述するように、世の中にはプレイヤー同士の競争に勝つことやゲームのなかで自己顕示欲を充たせるようなアイテムを購入することがゲーム内での有利不利に直結するものもあり、そういうゲームは「財布にやさしくない悪魔的なゲーム」と呼ぶべきでしょう。しかし、世のソーシャルゲームやオンラインゲームが皆そうなのではなく、競争や自己顕示欲の充当がトロフィーに過ぎないゲームも結構あります。
  
 この場合も、ほとんどのプレイヤーはレートの高い課金を行わないため、全体としては「財布にやさしい良心的なゲーム」という評判に落ち着きますが、競争やランキングのたぐいを意識するごく少数のプレイヤーによって廃課金が行われることになります。ほとんどのプレイヤーが競争やランキングや自己顕示欲にかき立てられないのに、なぜ、そのごく少数のプレイヤーが廃課金にならざるを得なかったのかが、プレイヤー個別の問題としてまず問われるべきでしょう。
 
 もちろん、これらのゲームを運営している側としては、そうやってごく少数発生する廃課金者をもあてにしてゲームをデザインしているでしょうから、運営サイドに原因の一端が無いなどと言うつもりはありませんが。
 
 

「財布にやさしくない悪魔的なゲーム」における廃課金

 
 他方、かなりの割合のプレイヤーを課金に巻き込むタイプのゲームもあります。
 
 課金によってゲームプレイの選択肢が広がりやすいほど、プレイヤー間の競争やランキングがゲームの遊びやすさに直結するほど、そしてガチャをとおして心理的報酬を刺激するデザインが優れているほど、そのゲームはプレイヤーにカジュアルかつ大量の課金をうながすおそれがあり、こうしたゲームはプレイヤーの間でも「財布にやさしくない悪魔的なゲーム」という評判が立つことになります。
 
 いまどきの商売上手なゲームは、プレイヤーに課金させる導線づくりや動機づくり、いわば「ナッジ」の設計がとても巧く、強い意志をもって対峙しなければつい課金したくなるようつくられています。そのようなゲームで課金し過ぎてしまうプレイヤーに関しては、プレイヤー個々の性質を問う前に、ゲームの課金デザインがまず問われるべきでしょう*2
 
 ゲームの側は日進月歩の勢いでデザインを新たにしているけれども、プレイヤーである人間のほうはファミコン時代からあまり進歩してはいません。今後ますますゲームの商業的デザインが洗練されていくとしたら、ゲームはプレイヤーをますます組み敷き、課金へといざなうことでしょう。
 
 一プレイヤーとしての私は、ゲームが面白く、ゲーム体験が豊穣であれば、そこにお金を払うことにやぶさかではありませんし、それが課金という形式を採ることにも異存はありません。それでも、あまりにもゲーム側の重力が強くなりすぎて、プレイヤーがゲームの重力に魂を奪われた傀儡のように課金する未来がやって来るとしたら、それはやりすぎだと考えざるを得ません。
 
 そんな未来が到来し得るとしたら、今後、ゲーム業界にはこれまで以上の節度や良心が期待されてしかるべきでしょう。
 
 

おわりに

 
 
 「どれぐらい課金デザインの巧妙なゲームなのか、それとも良心的なゲームなのか」といった知識や判断はメンタルヘルスの専門家には求めるべくもありません。また、更に進んだ"ゲーム障害"というステージを取り扱う場面では、重症度の評価や他の精神疾患との鑑別診断にプライオリティがあるのは言うまでもないでしょう。
 
 とはいえ、ほとんどの人が課金しそうにないゲームで廃課金してしまう人と、あまりに強力な行動経済学的カラクリで課金を迫ってくるゲームで廃課金に陥っている人では、やはり相当の違いがあるように見受けられます。専門家にお鉢が回ってくるような場面でも、そこがヒントにはなる場面はあるかもしれません。
 
 ゲームの沼の中から見た風景として、その手触りの違いについて書いてみました。
 
 
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*1:生活に影響が出る水準の多額の課金者

*2:2012年に消費者庁のほうからコンプリートガチャについて指導があった後、この方面の制限について、公の議論ってありましたっけ?