シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

いまどきのインターネットは文脈文盲状態が当たり前

 
 
 
1000リツイートを越えるとtwitterの闇が迫ってくる - シロクマの屑籠
 
 
 
 上記リンク先の続きとして、いまどきのインターネットでは文脈が読み取りにくいことについて記しておく。
 
 かつてのインターネット、ネットサーフィンするインターネットには文脈があった。それぞれのウェブサイトの構造がツリー状であったこと、ハイパーリンクをとおして他のウェブサイトへと繋がりあっていたおかげで、その書き手・その文章がどういう文脈に位置づけられているのかがハイパーリンクの次元で明らかになっていた。ネットサーフィンという行為、リンク集を辿る行為が、そのまま書き手の文脈を理解する助けになっていた。
 
 ところがいまどきのインターネットは違う。ブログは記事単位で読まれ、グーグル検索などをとおして流入する人々の大半は書き手の文脈など調べるまでもなく、検索文字列と一致した情報の断片だけ持ち帰ろうとする。
 
 このブログのトラフィックを監視していると、ありがたいことに、週に何十人もの読者が長い時間をかけて、複数のブログ記事を読んでくれている。こういうのはブロガー冥利に尽きる。しかし残りのトラフィックはそうではない。このブログは、私という書き手の文脈を読み取っていただきたく、一応の努力はしているつもりだが、それでも大半のトラフィックは短い滞在時間で去っていく。
 
 twitterではそれがもっと極端だ。140字以内の文章は、リツイートされた断片としてどこか遠くへ、文脈を無視して飛び去っていく。数百、数千とリツイートされた140字ともなると、書き手の文脈など誰も気にしない。
 
 140字。
 
 ただそこに書かれている意味内容が独り歩きし、文脈がアンカーとして機能することも、文脈が意味内容を咀嚼するための補助として働くこともない。リツイートが伸びるほどに、読み手は自動的に文脈文盲状態となって140字を受け取ることになる。
 
 私はここで「自動的に文脈文盲状態のまま……」と書いた。
 
 そう、自動的であることが問題だ。
 
 読み手のリテラシーがどうこうという問題以前に、まずtwitterのリツイートという仕組みじたいが、自動的に、文脈から切り離された140字をつくりだし、そういう文脈文盲状態のまま140字が読まれる状況を作り出している。
 
 だからこれはtwitterというメディアの造りの問題、かしこまって言うならアーキテクチャの問題ということになる。トランプ大統領やロシア大使館やアメリカ第七艦隊も用いている、このtwitterというメディアには、読み手を自動的に文脈文盲状態に陥らせる性質が備わっている。
 
 

アーキテクチャが文脈文盲状態をつくり、訓練する

 
 
 インターネットで私たちが文章を読み書きする時、その場がどのような場所で、アーキテクチャがどのようなものかによって、考え方も書き込み方もかなりの影響を受ける。
 
 たとえば匿名掲示板に書き込む時は、トピックスに別れた匿名掲示板のスレッド構造によって、あるいは匿名性によって書き方が相当に左右されていた。ウェブサイトやブログにしてもそうだ。ツリー状の構造のウェブサイトがそうではないブログに変わった時、書き手の考え方や読み手の捉え方は変わる。
 
 そしてSNS、わけてもtwitterは「140字のつぶやき」というインターフェースと、140字のつぶやき一つ一つを切り抜いて拡散するリツイートという仕組みによって、文脈の切断された140字がトラフィックをうろつき回るような造りになっている。
 
 こういう、twitterのようなアーキテクチャのもとで文脈を意識するのは骨折りの割に報われない行為であり、無文脈に読み書きするようになるのは自然なことだ。だからtwitter上で文脈文盲状態に陥るからといって、愚かなことだとみなして構わないとは考えにくい。むしろtwitter上で文脈文盲状態になるのはアーキテクチャに対する優れた適応とみなすこともできる。苦労して文脈を追うより、無文脈にアダプトしてしまったほうが精神的なコストはずっとかからないのだから。
 
 もちろんこれはtwitterに限った話ではない。たとえば検索結果に混入するのは、書き手の文脈というよりネットユーザー自身の欲求や願望の反映されたパーソナライゼーションのほうだ。検索結果として提示される諸々は、それぞれのウェブサイトなりブログなりの極一部でしかない。その無文脈な断片を、私たちは疑問を抱くこともなく読んでいる。
 
 

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

 
 
 かつて、偉大な賢人はアーキテクチャによってインターネット上の自由のあり方、ひいてはコミュニケーションやコミュニティのあり方は変わると喝破した。実際、SNSやスマホが浸透し尽くした今だからこそ、「インターネットの沙汰はアーキテクチャ次第」というのはよくわかる話で、たとえば特定の思想信条を巡って噛み合わない言葉が銃弾のように飛び交うtwitterの風景も、第一にはtwitterのアーキテクチャのなせるわざ、あるいは(マクルーハン風に言うなら)twitterというメディアの特質と理解すべきなのだろう。
 
 と同時に、こうしたインターネットのアーキテクチャに私たちは日々慣らされてもいる。文脈文盲状態をつくりだすインターネットの諸アーキテクチャに毎日親しみ、その土台のうえでコミュニケーションする私たちは、おのずと無文脈なコミュニケーションに「慣らされている」のではないだろうか。
 
 
監獄の誕生 ― 監視と処罰

監獄の誕生 ― 監視と処罰

 
 
 もう少しゴチャゴチャしたことを書くと、インターネットのアーキテクチャの話は、環境管理型権力という風に解され、実際、そのように機能しているとは思う。けれどもそれっきりではない。結局、これはこれで規律訓練型権力としても後付け的に機能していて、アーキテクチャによって無文脈なコミュニケーションを強いられると同時に、無文脈なコミュニケーションをみんなで繰り返す共犯関係のうちに、そのようなコミュニケーションの習慣を訓練づけている、と思う。
 
 もちろん、世の中の殆どの人はインターネットばかりやっているわけでも、ましてtwitterばかりやっているわけでもないので、そうした訓練の影響は限定的ではあるだろう。けれどもインターネットジャンキーやtwitterジャンキーになっていれば相当の影響はあるだろうし、そうしたインターネットの無文脈な習慣が現代の文化と相互作用を起こす側面もあるやもしれない。
 
 私は無文脈なコミュニケーションに慣れているわけでも望んでいるわけでもないので、現在のインターネットのあり方には思うところがある。とはいえ、無文脈なコミュニケーションには文脈に囚われない身軽さがあり、その恩恵はきっと私自身も受け取っているから、批判的になり過ぎてもいけないのだろう。
 
 そろそろ夕ご飯なので、この話題はこのへんで。
 
 
 

1000リツイートを越えるとtwitterの闇が迫ってくる

 
 
 
 
 twitterは、1000リツイートを越えたあたりから闇が迫ってくる。
 
 ここでいう闇とは、まったく脈絡の無いことをリプライしてくるアカウントや、「テレビに向かって大声で怒鳴っている人のtwitter版」のようなアカウントのことだ。「平然とクソリプする人々」とまとめて構わないかもしれない。
  
 
 100リツイートまでの範囲では、twitterの闇はほとんど体感しないで済む。500リツイートあたりから少し怪しくなって、1000リツイートに辿り着くか辿り着かないぐらいでハッキリ増える。まったく文章の読めていない人・怒鳴りたいだけの人・不吉なアイコンの人がゾロゾロと現れ、私のタイムラインにその不気味な姿を晒すようになる。
 
 数字だけで考えると、100人にリツイートされれば100人に1人の闇がタイムラインに出没し、1000人にリツイートされれば1000人に1人の闇が迫ってくると考えたくなる。逆に言うと、100人に読まれるだけでも1000人に読まれる1/10程度の闇は迫ってきておかしくないし、頻度として10回に1回ぐらいは怖気が走る場面があってしかるべきだ。しかし多くの場合、1000リツイートの手前ぐらいから飛躍的にクソリプが増大する。これはなぜか。
 
 思うに、最初の100リツイートぐらいの間は、私のツイートをあるていど読み慣れている常連さんや、私と文章のやりとりをすることもある相互フォローの人、フォローはしていないけれどもそれに準じた間柄の人々がリツイートするから、文意や文脈を理解したうえでリツイートしてくれることが多いのだろう。私の文章を読み慣れている人なら、チンプンカンプンな反応をする確率は下がる。ひょっとしたらこの段階でも超クソリプを連打している人、どやしかけてくる人がいるのかもしれないが、そういう人はもうミュート済かもしれない。
 
 だが、1000リツイートぐらいの段階になると、私のツイートを読んだことがない人の比率がどんどん高まってくるので、文意や文脈を理解していない人が飛び込んでくる。
 
 twitterは、1ツイートで140字以下の短文だが、短文だからといって読解しやすいとは限らない。むしろ、書き手の手癖も前後の文脈もわからないままポーンと置かれた短文の文意を捉えるのは、難しいことだと思う。今日のインターネットには読み書きの能力が乏しい人もたくさんいる。文意を捉えないまま反応してしまうこともあるだろう。
 
 

はてなブックマークとの比較

 
 このブログははてなブログなので、一応、はてなブックマークとの比較も書いてみる。
 
 はてなブックマークの場合、1000ブックマークを越えると闇が迫ってくるという感じはない。はてなブックマークの闇は、いつでも間近にある。100ブックマークどころか、30ブックマークぐらいで(twitterでいう)クソリプに相当するような頓珍漢がヌッと現れる。
 
 00年代のいにしえの昔より、はてなブックマークと(旧)はてなダイアリーは百鬼夜行の世界で、悪鬼羅刹が潜んでいた。とはいえ、いにしえのはてなブックマークには文意文脈を理解したうえで自己主張する人・文意文脈を理解したうえで踏みにじる人は多くても、文意文脈がわからない人は少なかった*1。あるいは、道化師として周知さられているアカウントのお道化を生暖かく見守るカルチャーがあったから、そういった道化師のコメントはクソリプと勘定されなかった。
 
 だが、いわゆる「はてな村」的なコミュニティはダムの底に沈んだ。今日、文意文脈を理解したうえで自己主張や踏みにじりをやってのけられる羅刹はそれほど多くはない。道化師が道化師でいられるカルチャー、道化師のお道化を見守るカルチャーは、文脈の喪失とともに失われてしまった。
 
 現在のはてなブックマークでは、道化師を道化師とは認めず字義どおりに捉えて正面から批判し、ともすれば憎んだりスパム扱いすることが正しい態度とみなされつつある。他方、ブックマーク対象となった文章やコンテンツを字義どおりに捉える力の平均はおそらく落ちていて、クソリプ相当の頓珍漢を繰り返して羅刹気取りのアカウントも増えてきた。
 
 ずっと昔、ある翁は「はてなブックマークのネガコメ」についてあれこれ語っていたが、私も翁の気持ちに近づいたのかもしれない。今のはてなブックマークにも聡明なブックマーカーはいる。だが戦慄すべき頓珍漢も遍在している。そしてtwitterとは違い、1000リツイートほどバズるまでもなく、彼らはヌッと現れる。
 
 はてなブックマークの闇はtwitterほど広くはない。
 しかし、どこにでも、すぐにでも現れる。
 
 

タイムラインのお手入れはやっぱり重要

 
 twitterに話を戻そう。
 
 twitterの果てしない広がりの向こう側には、闇としかいいようがないアカウントが蠢いている。それは1000リツイートが迫ってきた時の風景で明らかだし、世の中の闇な実態として想定可能なものではある。だが人間は、twitterの闇を見つめ続けられるようにはできていない。少なくとも私は、twitterの闇を見つめ続けても潰れてしまわないほどのタフネスを持ち合わせていないと思う。
 
 だから自分のタイムラインは日頃からきっちり手入れをしておき、あまりにもtwitterの闇を見つめてしまわぬよう、闇に呑み込まれて自分自身までもが闇の眷族になり果ててしまわぬよう、注意しておかなければならないと思う。
 
 良いtwitterライフは良いタイムラインにしか宿らず、悪いタイムラインを放置しておくと悪いtwitterライフに陥ってインターネットの地獄を舐めることになるのだと、思う。
  
 

*1:皆無だったわけではないが

人間の皮が剥げそうだ

 
 仕事が忙しくなり、社会的立場にもとづいて行動する場面が重なってくると、私は人間の皮が剥げて、本来の姿が現れてきそうになる。
 
 世の中には、ほとんど呼吸をするように「人間をやれる」人間と、そうでない人間がいる。
 
 前者は生まれながら、正真正銘の人間といってもいい。最近は正常な人間と書くと誰かに怒られて定型発達と書くのが政治的に正しいのだそうだが、いわゆる発達障害抜きにしても、確かに定型的な人間というか、人間として振る舞う際や、社会的立場にもとづいて行動する際にペナルティ的なストレスやコストを支払う必要のない人というのは、いると思う。
 
 言い換えれば、人間として振る舞う・社会的立場にもとづいて行動することに要するストレスやコストが少なめの人というか。
 
 一方、私のようなそうでない人間もいる。人間らしく、現代人らしく振舞うためには努力が要る。ごく自然に人間をやっているのでなく意識的に人間をやっているとも言えるし、最近のゲーム的表現を使うなら、パッシブスキルで人間をやれるのでなくアクティブスキルで人間をやらなければならないとも言える。
 
 つまり、私とその同類たちは、人間をやるために・社会的立場にもとづいて行動するためにマジックポイントとかスキルポイントとかマジカとかそういったものを消費しなければならない。ゲーム的表現に縁が無い人向きに言い直すなら、「ぐっと息を止めている間に人間をやって社会的立場を遂行しなければならない」と喩えればわかってもらえるだろうか。
 
 で、元気の良い時は私だって中年なんだから、それなり人間をやっていけるし社会的立場もやっていける。四十余年の歳月は、息継ぎをしっかりさえやれば私でも人間の皮を被って生きていけることを証明してくれた。
 
 だが、息継ぎがあまりできない状況が続くと、だめである。
 
 人間を!
 やめて!
 けだもののようにひきこもりたい!
 
 時々、私に出会ってリアルが充実していると指摘する人がいる。だがそれは私の人間の皮を見てそう思っているだけだし、なまじ皮なものだから、少しツヤツヤにみえるだけのことだ。私は余裕が無くなってくると猛烈に人間がやってられなくなって、社会的立場が白けてしまって、自分の世界に帰りたくなる。ゲームでもブログでも自然でもいい、とにかく、社会の制度や慣習といった重苦しくて、どこか茶番のようだけど茶番だと呼んではならないあのあたりから逃げ出し、透明な政治の針金みたいなもので人間力学が成り立っている世界に背を向けたくなる。
 
 で、今の私はたぶんそうなっている。
 
 もともと私の本業には、社会的立場を伴っている部分と、社会的立場をある程度緩和してくれるところがあって、例えば患者さんと向き合っている時間の何割かは、むしろ私を透明な政治の針金から遠ざけてくれる。もちろん逆に透明な政治の針金を意識せざるを得ない場面もあるけれども、自分自身のことでなく患者さんのことなら、透明な針金で自分の首が締め上げられる心配はしなくていい。
 
 とはいえダメな時はだめで、そんな日は、社会的立場がなまはげみたいに追いかけてくる。で、私は今たぶんそういうものに追い回されていて、小さなタスクが豪雪地帯の雪のように降り積もっていて、そのうえ書籍作成ミッションなどやっているわけだから、髪を振り乱して生きている。まさに人間の皮が剥げてしまいそうだ。さきほども、ある人から「シロクマさん、ちょっと社会性アバターがズレてますよ。」と指摘されてしまった。うん、実はそうなんだ。人間が難しくなってしまってね。
 
 これまでも私は人間をちゃんと遂行するために、社会性を獲得するために、私なりの努力を積み上げてきたつもりである。それで身に付いたものといったら、人間を遂行するための人間の皮がちょっと精巧になったことと、社会的立場にふさわしい振る舞いのシークエンスを覚えただけだった。人間や社会的立場を遂行する際にストレスやコストを支払わなければならない呪わしい性質は、あまり変わらなかった。結局私は、背広を着てネクタイを締めてそれらしい振る舞いを一週間もぶっ続けでやったら、オーバーヒートしてしまうのである。
 
 ひきこもり、けだもののようにマインクラフトで遊ぶのが、今、一番私を癒してくれる選択肢だろう。しかし立場が、状況がそれを許してはくれない。今年はコーヒーを飲んででも戦うのだと決めたのだから、私は戦うのだろう。それにしてもこんな時期に苦手な職務がドサドサ降ってくると泣き言のひとつもいいたくなる。くっそ!人間!
 
 
 

ひとことで廃課金プレイヤーといっても背景はいろいろ。

 
 
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 先日、アスクヒューマンケアの季刊『Be!』で、ゲーム障害についてインタビューをいただき、「現役ゲームプレイヤーの精神科医という立場から」意見を述べました。このブログで語った内容と方向性は同じだと思います(以下参照)。
 
 
[関連]:それはゲーム障害なのか、思春期のトライアルなのか、それとも。 - シロクマの屑籠
[関連]:あの頃、俺達はゲーム障害/ネット依存だったのだろうか - シロクマの屑籠
 
 
 ついでに、「ソーシャルゲームやオンラインゲームで廃課金者*1ができあがる背景」について、プレイヤー側ならだいたい見知っていそうだけど、プレイヤーではない人が知らないかもしれない風景について(確認も兼ねて)記してみます。
 
 世の中には、ソーシャルゲームやオンラインゲームを商っているゲーム企業がいくつもあり、人気ゲームには数十万~数百万人のプレイヤーが集まっています。そうした膨大な数のプレイヤーの大半が課金漬けになっているわけでなく、少数がいわゆる廃課金者となり、さらに少数がゲーム依存やゲーム障害と呼ばれ得る状態になっています。たいていのプレイヤーは、経済的負担や社会的損失が過大にならないよう、コストとベネフィットを見極めながら遊べています。
 
 

「財布にやさしい良心的なゲーム」なのに廃課金

 
 では、どんな人がどういうゲームでどんな感じに廃課金しているのか。
 
 私が見聞している範囲でも、廃課金者のありようはゲームによって、あるいはプレイスタイルやプレイヤー本人の性質によってだいぶ違います。
 
 例えばガチャのような射幸心を煽る要素が少なく、課金して得られるメリットの大半がゲームプレイをとおして獲得可能なゲームでも、びっくりするような廃課金を呈する人はいます。
 
 たとえば、ほとんどのプレイヤーが課金せず、一般的なゲームプレイのなかでやりくりできるような(ゲーム内)リソースにもお金を使ってしまう人がいます。ゲームのなかで頻繁に手に入り、現代のゲームプレイヤーなら管理し慣れている基礎的なリソースが課金購入されることはめったにないので、それが割高な価格設定で売られていても、ほとんどのプレイヤーは気にも留めません。
 
 課金で購入せざるを得ないレアなリソースの価格設定が適正で、それをたまに購入すれば事足りるようなゲームバランスであれば、そのゲームはほとんどのプレイヤーからみて「財布にやさしい良心的なゲーム」という評判になります。
 
 世の中のソーシャルゲームやオンラインゲームのけして小さくない割合が、そういう「財布にやさしい良心的なゲーム」で占められています。ゲーム慣れしている人なら、そのゲームが「財布にやさしい良心的なゲーム」か否か、おおよそ見当つけられることでしょう。
 
 ですから、「財布にやさしい良心的なゲーム」で廃課金になってしまう人は、ゲームそのものが問題というより、廃課金になってしまう当人自身の性質を検討しなければならない割合が高い、と私は考えています。
 
 
 「財布にやさしい良心的なゲーム」と言えるものには、もうひとつのパターンがあります。
 
 背伸びしない遊び方をするぶんには年間に数百円~数千円程度の課金でだいたい遊べるけれども、プレイヤー同士の競争に勝ちたいとか、ゲームのなかで自己顕示欲を充たしたいとか考え始めると急激に課金のレートが上昇するタイプのゲームです。
 
 後述するように、世の中にはプレイヤー同士の競争に勝つことやゲームのなかで自己顕示欲を充たせるようなアイテムを購入することがゲーム内での有利不利に直結するものもあり、そういうゲームは「財布にやさしくない悪魔的なゲーム」と呼ぶべきでしょう。しかし、世のソーシャルゲームやオンラインゲームが皆そうなのではなく、競争や自己顕示欲の充当がトロフィーに過ぎないゲームも結構あります。
  
 この場合も、ほとんどのプレイヤーはレートの高い課金を行わないため、全体としては「財布にやさしい良心的なゲーム」という評判に落ち着きますが、競争やランキングのたぐいを意識するごく少数のプレイヤーによって廃課金が行われることになります。ほとんどのプレイヤーが競争やランキングや自己顕示欲にかき立てられないのに、なぜ、そのごく少数のプレイヤーが廃課金にならざるを得なかったのかが、プレイヤー個別の問題としてまず問われるべきでしょう。
 
 もちろん、これらのゲームを運営している側としては、そうやってごく少数発生する廃課金者をもあてにしてゲームをデザインしているでしょうから、運営サイドに原因の一端が無いなどと言うつもりはありませんが。
 
 

「財布にやさしくない悪魔的なゲーム」における廃課金

 
 他方、かなりの割合のプレイヤーを課金に巻き込むタイプのゲームもあります。
 
 課金によってゲームプレイの選択肢が広がりやすいほど、プレイヤー間の競争やランキングがゲームの遊びやすさに直結するほど、そしてガチャをとおして心理的報酬を刺激するデザインが優れているほど、そのゲームはプレイヤーにカジュアルかつ大量の課金をうながすおそれがあり、こうしたゲームはプレイヤーの間でも「財布にやさしくない悪魔的なゲーム」という評判が立つことになります。
 
 いまどきの商売上手なゲームは、プレイヤーに課金させる導線づくりや動機づくり、いわば「ナッジ」の設計がとても巧く、強い意志をもって対峙しなければつい課金したくなるようつくられています。そのようなゲームで課金し過ぎてしまうプレイヤーに関しては、プレイヤー個々の性質を問う前に、ゲームの課金デザインがまず問われるべきでしょう*2
 
 ゲームの側は日進月歩の勢いでデザインを新たにしているけれども、プレイヤーである人間のほうはファミコン時代からあまり進歩してはいません。今後ますますゲームの商業的デザインが洗練されていくとしたら、ゲームはプレイヤーをますます組み敷き、課金へといざなうことでしょう。
 
 一プレイヤーとしての私は、ゲームが面白く、ゲーム体験が豊穣であれば、そこにお金を払うことにやぶさかではありませんし、それが課金という形式を採ることにも異存はありません。それでも、あまりにもゲーム側の重力が強くなりすぎて、プレイヤーがゲームの重力に魂を奪われた傀儡のように課金する未来がやって来るとしたら、それはやりすぎだと考えざるを得ません。
 
 そんな未来が到来し得るとしたら、今後、ゲーム業界にはこれまで以上の節度や良心が期待されてしかるべきでしょう。
 
 

おわりに

 
 
 「どれぐらい課金デザインの巧妙なゲームなのか、それとも良心的なゲームなのか」といった知識や判断はメンタルヘルスの専門家には求めるべくもありません。また、更に進んだ"ゲーム障害"というステージを取り扱う場面では、重症度の評価や他の精神疾患との鑑別診断にプライオリティがあるのは言うまでもないでしょう。
 
 とはいえ、ほとんどの人が課金しそうにないゲームで廃課金してしまう人と、あまりに強力な行動経済学的カラクリで課金を迫ってくるゲームで廃課金に陥っている人では、やはり相当の違いがあるように見受けられます。専門家にお鉢が回ってくるような場面でも、そこがヒントにはなる場面はあるかもしれません。
 
 ゲームの沼の中から見た風景として、その手触りの違いについて書いてみました。
 
 
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*1:生活に影響が出る水準の多額の課金者

*2:2012年に消費者庁のほうからコンプリートガチャについて指導があった後、この方面の制限について、公の議論ってありましたっけ?

「いかがだったでしょうか」さん、今しか書けないこと、書いてますか。

 
 インターネットを誰もが利用するようになって、ブログやSNSや動画でいろんな人が情報発信するようになった。文章を、フレーズを、コンテンツを配信するようになった。それはそれで結構なことだと思う。
 
 さて、二十年ほどインターネットに文章を書き続けていると、気づかされることがある。
 
 それは、「その年の自分には書けても、5年後の自分には決して書けない文章がある」ということだ。
 
 たとえば、私は2006年にこんなことをブログ記事に書いている。
 
これから式場の下見に行ってきますが - シロクマの屑籠

 とはいえ結婚などという難儀な選択肢を選ぶことも、結局は漏れ出る諸執着に由来するわけで、その限りにおいて落胆や絶望の萌芽から逃げきれません。一方、僕は自分が凡庸な人間である、少なくとも凡庸な人間とそう変わらない行動遺伝学的特徴を持った雄であると推定しているので、凡庸な人生の諸先輩が創りあげてきた世間智から大きく外れないほうが執着の制御が容易なのだろう、とは推定しています。少なくとも僕の場合、結婚せず家族も持たずに生きていくことは、それはそれで(おそらく五十代以降に)相応の渇望を惹起すると予測されるので、結婚という名のコストとリスクを払ってでもその渇望を回避出来やしないか、という企みが結婚には含まれています。

 
 これは、あるブロガーさんへの返答として書いたものだが、こんな内容は結婚直前でなければ絶対に書けないし、こんな漢字だらけの文章に仕上げることは今ではあり得ない。ゆえに、現在の私には貴重なアーカイブになっている。
 
 ブログ記事の集合形とも言える以下の本にも、同じことが言える。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 この本には、40歳~41歳の私が考えていた「年の取り方」についてのアイデアが詰まっている。30代の頃の私はもちろん、現在の私も、ここに書いてあるアイデアのとおりには考えない。率直に言って、この本を今読み返すと気恥ずかしくて仕方がない。
 
 ただ、いずれ気恥ずかしくなるだろうという予感は書いていた頃にもあって、私は後書きに以下のようなことを書いていた。
 

 私はこの本に43歳時点の、嘘偽りのない気持ちを書き綴りました。ということは、50代の私からみれば、相当に青臭くて、肩に力の入ったことを書いている可能性が高いと想像されます。ちょうど30歳の頃の私の文章を、私がいま読むと苦笑せずにはいられないのと同じように。この本は、10年後の私から見て、黒歴史として記録されることでしょう。私は今、すごく恥ずかしいことをやっているのです。

 
 いやー、ネットスラングでいう黒歴史としか言いようが無い。それだけに、あの時期に書いておいて本当に良かったと思っているし、この本は40~41歳の頃の私を忠実に念写したアーカイブとして価値がある。
 
 「年を取れば取るほど、書けば書くほど書けることが増える」というのは、知識やテクニックの点ではそのとおりかもしれない。しかし文章は知識やテクニックだけで紡がれるわけでなく、自意識、年齢、境遇が色濃くにじみ出るものなので、その時にしか書けない文章・今しか書けない文章というのもやはり存在する。
 
 

「今しか書けないこと」が自分史になる

 
 この文章のタイトルは「『いかがだったでしょうか』さん、今しか書けないこと、書いてますか。」となっている。薄いインクで印刷したような、量産型ブログ記事を機械的に書いている書き手をdisりたい雰囲気のタイトルだが、これはタイトル詐欺みたなもので、量産型ブログ記事を機械的に書いている書き手をdisりたいわけではない。
 
 そうでなく、今しか書けないことを大切にしていない人をdisりたい気分になっている。
 
 たぶん世の中には、ブログ記事の締めを「いかがだったでしょうか」で締めくくってはいるけれども、そういう量産型ブログ記事の呈をなしながら今しか書けないことを書いている人、今しか書けないことを書くためのフォーマットとして「いかがだったでしょうか」系のテンプレートを必要としている人もいる。
 
 「いかがだったでしょうか」でブログの末尾を締めくくっているからといって、どうしようもないブログ記事とは限らない。
 
 「いかがだったでしょうか」系のブログでも、自意識の量り売りをしている人気ツイッタラーでも、悪魔に魂を売っている動画配信者でも、その人がその時にしかできない表現をしている限りにおいて、それは「今しか書けない(表現できない)こと」というそれ独自の価値を持っている。第三者はそのような価値に気付かないし、何年経ってもワンパターンだと認識する人もいるだろう。もちろんこれは、他人に認めていただけるようお願いするような向きのものでもあるまい。
 
 けれども実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
 
 ある時期・ある年齢・ある境遇を反映したブログ記事・つぶやき・動画は、自分史(=バイオグラフィー)を振り返るうえでまたとない遺産になる。
 
 なるべく批判されにくいアウトプットを心がけるのも、なるべく沢山の人の目を惹くアウトプットを心がけるのも、それはそれで必要なことかもしれないし、価値のあることかもしれない。だけど、文章やつぶやきや動画をアウトプットするのが当たり前になった今だからこそ、それらが個人的なバイオグラフィの構成要素たりえて、他人の称賛やPV数とは異なったタイプの価値を伴っていることは、折に触れて強調しておきたい。
 
 

疎外から身を護るために「今しか書けないこと」を書く

 
 それともうひとつ。
 
 他人に「いいね」を貰いたいとかもっとPVが欲しいとか、そういったニーズに応えるためにアウトプットしていると、自分が何のためにアウトプットしているのか、なぜアウトプットしたがっているのか、そもそもこのアウトプットは自分がやらなくても構わないものなんじゃないか ……といった混乱が起こることがある。いや、混乱というより疎外というべきか。少なくとも私は、アウトプットが独り歩きすると、混乱や疎外を感じてしまう。
 
 世の中には、自分がアウトプットする文章やつぶやきや動画と、自分自身の考え・関心・境遇とが分裂していても、混乱や疎外を感じない人がいるようにもみえる。ある種のきわめてプロフェッショナルな書き手や動画配信者は、そうなのかもしれない。
 
 だけどそういう人は少数派なので、大多数の人は、自分自身と、自分のアウトプットの間になんらかの関連性や整合性を保っておいたほうが良いと思う。
 
 この、「自分自身と、自分のアウトプットの間の関連性を保つ」ための方法としてイージーで、無意識のうちに辻褄を合わせやすいのが「今しか書けないこと」をアウトプットすることだ。そういう意味では、SNSの「あなたは今なにしてる?」という決まり文句は親切だ。今やっていること・今思っていることを正直に書きさえすれば、自分のアウトプットに疎外される心配はなくなる。
 
 もちろん現実のSNSにおいて、今やっていること・今思っていることを正直に書くのは、振り返ってみれば難しい。カネやコネや政治にアカウントを売り渡してしまえば、正直に書くのは驚くほど難しくなるだろう。カネやコネや政治に魂を売れば売るほど、疎外が迫ってくる、とも言える*1。カネやコネや政治を意識しつつ、今しか書けないことを書くためには、それなりのテクニックと素養が要る。ひょっとしたら、純粋な文章のテクニックより、そういった心理的な辻褄合わせのテクニックのほうが、ネットで長生きするには重要なのかもしれない。
 
 

いかがだったでしょうか

 
 大多数の書き手や配信者は「今しか書けないこと」「今しか表現できないこと」を大切にしたほうが良いのだろうし、実際、多くの人は無意識のうちにそれを大切にしているのだろう、と思う。だが、ときに人はカネやコネや政治を優先させたくなるあまり、今しか書けないことを蔑ろにしてしまい、ちょっと荒れた後に消えてしまうアカウントも稀によくある。それは自分史という観点からもったいないだけでなく、アウトプットに自分自身が疎外されるかもしれないリスクを冒した結果だと思うので、ほどほどにしておいたほうが良いのだと思う。
 
 いかがだったでしょうか。
 ネットで20年ぐらい書き続けている私からは、以上です。
 

*1:ごく稀に例外がいて、どんなにネタやウケやコネや政治に魂を売っても蛙の面に水、といった風情の人がいるけれども、それは一種の特異体質なので真似をしようとすれば火傷をしかねない