シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

ひとことで廃課金プレイヤーといっても背景はいろいろ。

 
 
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 先日、アスクヒューマンケアの季刊『Be!』で、ゲーム障害についてインタビューをいただき、「現役ゲームプレイヤーの精神科医という立場から」意見を述べました。このブログで語った内容と方向性は同じだと思います(以下参照)。
 
 
[関連]:それはゲーム障害なのか、思春期のトライアルなのか、それとも。 - シロクマの屑籠
[関連]:あの頃、俺達はゲーム障害/ネット依存だったのだろうか - シロクマの屑籠
 
 
 ついでに、「ソーシャルゲームやオンラインゲームで廃課金者*1ができあがる背景」について、プレイヤー側ならだいたい見知っていそうだけど、プレイヤーではない人が知らないかもしれない風景について(確認も兼ねて)記してみます。
 
 世の中には、ソーシャルゲームやオンラインゲームを商っているゲーム企業がいくつもあり、人気ゲームには数十万~数百万人のプレイヤーが集まっています。そうした膨大な数のプレイヤーの大半が課金漬けになっているわけでなく、少数がいわゆる廃課金者となり、さらに少数がゲーム依存やゲーム障害と呼ばれ得る状態になっています。たいていのプレイヤーは、経済的負担や社会的損失が過大にならないよう、コストとベネフィットを見極めながら遊べています。
 
 

「財布にやさしい良心的なゲーム」なのに廃課金

 
 では、どんな人がどういうゲームでどんな感じに廃課金しているのか。
 
 私が見聞している範囲でも、廃課金者のありようはゲームによって、あるいはプレイスタイルやプレイヤー本人の性質によってだいぶ違います。
 
 例えばガチャのような射幸心を煽る要素が少なく、課金して得られるメリットの大半がゲームプレイをとおして獲得可能なゲームでも、びっくりするような廃課金を呈する人はいます。
 
 たとえば、ほとんどのプレイヤーが課金せず、一般的なゲームプレイのなかでやりくりできるような(ゲーム内)リソースにもお金を使ってしまう人がいます。ゲームのなかで頻繁に手に入り、現代のゲームプレイヤーなら管理し慣れている基礎的なリソースが課金購入されることはめったにないので、それが割高な価格設定で売られていても、ほとんどのプレイヤーは気にも留めません。
 
 課金で購入せざるを得ないレアなリソースの価格設定が適正で、それをたまに購入すれば事足りるようなゲームバランスであれば、そのゲームはほとんどのプレイヤーからみて「財布にやさしい良心的なゲーム」という評判になります。
 
 世の中のソーシャルゲームやオンラインゲームのけして小さくない割合が、そういう「財布にやさしい良心的なゲーム」で占められています。ゲーム慣れしている人なら、そのゲームが「財布にやさしい良心的なゲーム」か否か、おおよそ見当つけられることでしょう。
 
 ですから、「財布にやさしい良心的なゲーム」で廃課金になってしまう人は、ゲームそのものが問題というより、廃課金になってしまう当人自身の性質を検討しなければならない割合が高い、と私は考えています。
 
 
 「財布にやさしい良心的なゲーム」と言えるものには、もうひとつのパターンがあります。
 
 背伸びしない遊び方をするぶんには年間に数百円~数千円程度の課金でだいたい遊べるけれども、プレイヤー同士の競争に勝ちたいとか、ゲームのなかで自己顕示欲を充たしたいとか考え始めると急激に課金のレートが上昇するタイプのゲームです。
 
 後述するように、世の中にはプレイヤー同士の競争に勝つことやゲームのなかで自己顕示欲を充たせるようなアイテムを購入することがゲーム内での有利不利に直結するものもあり、そういうゲームは「財布にやさしくない悪魔的なゲーム」と呼ぶべきでしょう。しかし、世のソーシャルゲームやオンラインゲームが皆そうなのではなく、競争や自己顕示欲の充当がトロフィーに過ぎないゲームも結構あります。
  
 この場合も、ほとんどのプレイヤーはレートの高い課金を行わないため、全体としては「財布にやさしい良心的なゲーム」という評判に落ち着きますが、競争やランキングのたぐいを意識するごく少数のプレイヤーによって廃課金が行われることになります。ほとんどのプレイヤーが競争やランキングや自己顕示欲にかき立てられないのに、なぜ、そのごく少数のプレイヤーが廃課金にならざるを得なかったのかが、プレイヤー個別の問題としてまず問われるべきでしょう。
 
 もちろん、これらのゲームを運営している側としては、そうやってごく少数発生する廃課金者をもあてにしてゲームをデザインしているでしょうから、運営サイドに原因の一端が無いなどと言うつもりはありませんが。
 
 

「財布にやさしくない悪魔的なゲーム」における廃課金

 
 他方、かなりの割合のプレイヤーを課金に巻き込むタイプのゲームもあります。
 
 課金によってゲームプレイの選択肢が広がりやすいほど、プレイヤー間の競争やランキングがゲームの遊びやすさに直結するほど、そしてガチャをとおして心理的報酬を刺激するデザインが優れているほど、そのゲームはプレイヤーにカジュアルかつ大量の課金をうながすおそれがあり、こうしたゲームはプレイヤーの間でも「財布にやさしくない悪魔的なゲーム」という評判が立つことになります。
 
 いまどきの商売上手なゲームは、プレイヤーに課金させる導線づくりや動機づくり、いわば「ナッジ」の設計がとても巧く、強い意志をもって対峙しなければつい課金したくなるようつくられています。そのようなゲームで課金し過ぎてしまうプレイヤーに関しては、プレイヤー個々の性質を問う前に、ゲームの課金デザインがまず問われるべきでしょう*2
 
 ゲームの側は日進月歩の勢いでデザインを新たにしているけれども、プレイヤーである人間のほうはファミコン時代からあまり進歩してはいません。今後ますますゲームの商業的デザインが洗練されていくとしたら、ゲームはプレイヤーをますます組み敷き、課金へといざなうことでしょう。
 
 一プレイヤーとしての私は、ゲームが面白く、ゲーム体験が豊穣であれば、そこにお金を払うことにやぶさかではありませんし、それが課金という形式を採ることにも異存はありません。それでも、あまりにもゲーム側の重力が強くなりすぎて、プレイヤーがゲームの重力に魂を奪われた傀儡のように課金する未来がやって来るとしたら、それはやりすぎだと考えざるを得ません。
 
 そんな未来が到来し得るとしたら、今後、ゲーム業界にはこれまで以上の節度や良心が期待されてしかるべきでしょう。
 
 

おわりに

 
 
 「どれぐらい課金デザインの巧妙なゲームなのか、それとも良心的なゲームなのか」といった知識や判断はメンタルヘルスの専門家には求めるべくもありません。また、更に進んだ"ゲーム障害"というステージを取り扱う場面では、重症度の評価や他の精神疾患との鑑別診断にプライオリティがあるのは言うまでもないでしょう。
 
 とはいえ、ほとんどの人が課金しそうにないゲームで廃課金してしまう人と、あまりに強力な行動経済学的カラクリで課金を迫ってくるゲームで廃課金に陥っている人では、やはり相当の違いがあるように見受けられます。専門家にお鉢が回ってくるような場面でも、そこがヒントにはなる場面はあるかもしれません。
 
 ゲームの沼の中から見た風景として、その手触りの違いについて書いてみました。
 
 
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*1:生活に影響が出る水準の多額の課金者

*2:2012年に消費者庁のほうからコンプリートガチャについて指導があった後、この方面の制限について、公の議論ってありましたっけ?

「いかがだったでしょうか」さん、今しか書けないこと、書いてますか。

 
 インターネットを誰もが利用するようになって、ブログやSNSや動画でいろんな人が情報発信するようになった。文章を、フレーズを、コンテンツを配信するようになった。それはそれで結構なことだと思う。
 
 さて、二十年ほどインターネットに文章を書き続けていると、気づかされることがある。
 
 それは、「その年の自分には書けても、5年後の自分には決して書けない文章がある」ということだ。
 
 たとえば、私は2006年にこんなことをブログ記事に書いている。
 
これから式場の下見に行ってきますが - シロクマの屑籠

 とはいえ結婚などという難儀な選択肢を選ぶことも、結局は漏れ出る諸執着に由来するわけで、その限りにおいて落胆や絶望の萌芽から逃げきれません。一方、僕は自分が凡庸な人間である、少なくとも凡庸な人間とそう変わらない行動遺伝学的特徴を持った雄であると推定しているので、凡庸な人生の諸先輩が創りあげてきた世間智から大きく外れないほうが執着の制御が容易なのだろう、とは推定しています。少なくとも僕の場合、結婚せず家族も持たずに生きていくことは、それはそれで(おそらく五十代以降に)相応の渇望を惹起すると予測されるので、結婚という名のコストとリスクを払ってでもその渇望を回避出来やしないか、という企みが結婚には含まれています。

 
 これは、あるブロガーさんへの返答として書いたものだが、こんな内容は結婚直前でなければ絶対に書けないし、こんな漢字だらけの文章に仕上げることは今ではあり得ない。ゆえに、現在の私には貴重なアーカイブになっている。
 
 ブログ記事の集合形とも言える以下の本にも、同じことが言える。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 この本には、40歳~41歳の私が考えていた「年の取り方」についてのアイデアが詰まっている。30代の頃の私はもちろん、現在の私も、ここに書いてあるアイデアのとおりには考えない。率直に言って、この本を今読み返すと気恥ずかしくて仕方がない。
 
 ただ、いずれ気恥ずかしくなるだろうという予感は書いていた頃にもあって、私は後書きに以下のようなことを書いていた。
 

 私はこの本に43歳時点の、嘘偽りのない気持ちを書き綴りました。ということは、50代の私からみれば、相当に青臭くて、肩に力の入ったことを書いている可能性が高いと想像されます。ちょうど30歳の頃の私の文章を、私がいま読むと苦笑せずにはいられないのと同じように。この本は、10年後の私から見て、黒歴史として記録されることでしょう。私は今、すごく恥ずかしいことをやっているのです。

 
 いやー、ネットスラングでいう黒歴史としか言いようが無い。それだけに、あの時期に書いておいて本当に良かったと思っているし、この本は40~41歳の頃の私を忠実に念写したアーカイブとして価値がある。
 
 「年を取れば取るほど、書けば書くほど書けることが増える」というのは、知識やテクニックの点ではそのとおりかもしれない。しかし文章は知識やテクニックだけで紡がれるわけでなく、自意識、年齢、境遇が色濃くにじみ出るものなので、その時にしか書けない文章・今しか書けない文章というのもやはり存在する。
 
 

「今しか書けないこと」が自分史になる

 
 この文章のタイトルは「『いかがだったでしょうか』さん、今しか書けないこと、書いてますか。」となっている。薄いインクで印刷したような、量産型ブログ記事を機械的に書いている書き手をdisりたい雰囲気のタイトルだが、これはタイトル詐欺みたなもので、量産型ブログ記事を機械的に書いている書き手をdisりたいわけではない。
 
 そうでなく、今しか書けないことを大切にしていない人をdisりたい気分になっている。
 
 たぶん世の中には、ブログ記事の締めを「いかがだったでしょうか」で締めくくってはいるけれども、そういう量産型ブログ記事の呈をなしながら今しか書けないことを書いている人、今しか書けないことを書くためのフォーマットとして「いかがだったでしょうか」系のテンプレートを必要としている人もいる。
 
 「いかがだったでしょうか」でブログの末尾を締めくくっているからといって、どうしようもないブログ記事とは限らない。
 
 「いかがだったでしょうか」系のブログでも、自意識の量り売りをしている人気ツイッタラーでも、悪魔に魂を売っている動画配信者でも、その人がその時にしかできない表現をしている限りにおいて、それは「今しか書けない(表現できない)こと」というそれ独自の価値を持っている。第三者はそのような価値に気付かないし、何年経ってもワンパターンだと認識する人もいるだろう。もちろんこれは、他人に認めていただけるようお願いするような向きのものでもあるまい。
 
 けれども実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
 
 ある時期・ある年齢・ある境遇を反映したブログ記事・つぶやき・動画は、自分史(=バイオグラフィー)を振り返るうえでまたとない遺産になる。
 
 なるべく批判されにくいアウトプットを心がけるのも、なるべく沢山の人の目を惹くアウトプットを心がけるのも、それはそれで必要なことかもしれないし、価値のあることかもしれない。だけど、文章やつぶやきや動画をアウトプットするのが当たり前になった今だからこそ、それらが個人的なバイオグラフィの構成要素たりえて、他人の称賛やPV数とは異なったタイプの価値を伴っていることは、折に触れて強調しておきたい。
 
 

疎外から身を護るために「今しか書けないこと」を書く

 
 それともうひとつ。
 
 他人に「いいね」を貰いたいとかもっとPVが欲しいとか、そういったニーズに応えるためにアウトプットしていると、自分が何のためにアウトプットしているのか、なぜアウトプットしたがっているのか、そもそもこのアウトプットは自分がやらなくても構わないものなんじゃないか ……といった混乱が起こることがある。いや、混乱というより疎外というべきか。少なくとも私は、アウトプットが独り歩きすると、混乱や疎外を感じてしまう。
 
 世の中には、自分がアウトプットする文章やつぶやきや動画と、自分自身の考え・関心・境遇とが分裂していても、混乱や疎外を感じない人がいるようにもみえる。ある種のきわめてプロフェッショナルな書き手や動画配信者は、そうなのかもしれない。
 
 だけどそういう人は少数派なので、大多数の人は、自分自身と、自分のアウトプットの間になんらかの関連性や整合性を保っておいたほうが良いと思う。
 
 この、「自分自身と、自分のアウトプットの間の関連性を保つ」ための方法としてイージーで、無意識のうちに辻褄を合わせやすいのが「今しか書けないこと」をアウトプットすることだ。そういう意味では、SNSの「あなたは今なにしてる?」という決まり文句は親切だ。今やっていること・今思っていることを正直に書きさえすれば、自分のアウトプットに疎外される心配はなくなる。
 
 もちろん現実のSNSにおいて、今やっていること・今思っていることを正直に書くのは、振り返ってみれば難しい。カネやコネや政治にアカウントを売り渡してしまえば、正直に書くのは驚くほど難しくなるだろう。カネやコネや政治に魂を売れば売るほど、疎外が迫ってくる、とも言える*1。カネやコネや政治を意識しつつ、今しか書けないことを書くためには、それなりのテクニックと素養が要る。ひょっとしたら、純粋な文章のテクニックより、そういった心理的な辻褄合わせのテクニックのほうが、ネットで長生きするには重要なのかもしれない。
 
 

いかがだったでしょうか

 
 大多数の書き手や配信者は「今しか書けないこと」「今しか表現できないこと」を大切にしたほうが良いのだろうし、実際、多くの人は無意識のうちにそれを大切にしているのだろう、と思う。だが、ときに人はカネやコネや政治を優先させたくなるあまり、今しか書けないことを蔑ろにしてしまい、ちょっと荒れた後に消えてしまうアカウントも稀によくある。それは自分史という観点からもったいないだけでなく、アウトプットに自分自身が疎外されるかもしれないリスクを冒した結果だと思うので、ほどほどにしておいたほうが良いのだと思う。
 
 いかがだったでしょうか。
 ネットで20年ぐらい書き続けている私からは、以上です。
 

*1:ごく稀に例外がいて、どんなにネタやウケやコネや政治に魂を売っても蛙の面に水、といった風情の人がいるけれども、それは一種の特異体質なので真似をしようとすれば火傷をしかねない

めぐみん最高!癒やしの異世界ラブコメ【映画このすば】

 
 最近、ちょっと仕事や勉強が立て込んでいて月曜日から機嫌悪い感じになっていたので、映画館に『このすば(この素晴らしい世界に祝福を!)』を見に行った。
 
konosuba.com
 
 『このすば』を一行でまとめると「冒険者ギルドが登場する異世界ライトファンタジー、おっぱい増し増しラブコメ」となる。
 
 こういう、オタク界隈ではポピュラーでもその外側ではあまり支持されていないジャパニメーションは疲れている時にすごく効く。TV版『このすば』は、まさにそんな気兼ねなく楽しめる作品だったので、映画版も観ようと楽しみにしていたのだった。
 
 

めぐみんの真骨頂を見た!

 
 で、めぐみん、だ。
 
www.youtube.com
 
 この動画のサムネイルにあるドヤ顔も含め、クルクル変わるめぐみんの表情にうっとりさせられた。 めぐみんファンなら、めぐみんを見るためだけに映画館に行く価値がある! 魔法学校の制服もたいへん似合っていて、めぐみん盤石の構え。クライマックスはご自慢の爆裂魔法、予定調和といえば予定調和だが、まったく消化試合という感じがしなかった。うんうん、こういうのが観たかったんだよ。
 
 めぐみんは、もうやたらと大きなおっぱいが出てくる『このすば』世界にあって珍しい貧乳キャラだ。そのうえ中二病、爆裂魔法しか使えず、小柄のツンデレと来ている。いまどきのアニメでは、こうしたキャラクター属性なんて重要でもないはずなのなのに、めぐみんの場合、それらの組み合わせが非常に高レベルなところで噛み合っていて、何をやっても、何を言ってもサマになる。
 
 里帰りということもあって、作中にめぐみんの実家が登場したが、ぼろい布団で口をあけて眠る姿も似つかわしく、ますますめぐみんのキャラクターに磨きがかかったように感じた*1。めぐみんに限らず、『このすば』の主要キャラクターは皆すごく精密にできていて、その、すごく精密にできたキャラクターが時に応じて[ラフに・ギャグっぽく・かわいらしく]描かれるメリハリの妙がすごい。ストーリー展開のスピードもちょうど良くて、本当に気持ちよく眺めていられる。映画版では、そういった完成度が更に増しているようにみえた。
 
 

気分転換にぴったり

 
 それにしても、TV版も映画版も『このすば』はクサクサした気分にすごく“効く”。めぐみんの一挙一動はもちろん、バカでエッチなカズマも、変態のダクネスも、貧乏神のアクアも、見ていて癒やされる。単にお下劣なラブコメなのでなく、キャラクターがしっかり作り込まれていて、しっかりとしたメリハリとちょうど良いスピード感にも支えられていて、この手の作品のなかでもトップクラスの水準なんじゃあないだろうか。
 
 帰宅後、AmazonプライムでTV版の第一期を子どもと観たけれども、子どももものすごく喜んでいた。以下の匿名ダイアリーの話も、だからぜんぜん不思議じゃない。
 
 [関連]:このすばの映画を甥と姪と見に行った
 
 
 『この世界の片隅に』や『天気の子』のような凝ったアニメもいいけれども、くたびれた気分の日には、こういう異世界ラブコメのほうが自分の性根には合っているんだなぁ……と改めて思った。
 
 今作、めぐみんが好きな人は絶対観に行って損はないし、ある程度のアニメリテラシーのある人ならTV版や原作を知らなくても楽しめると思う。
 気分転換には最適。
 
 

 

*1:妹のこめっこも、めぐみんのキャラクターを食うのでなく補強するような役回りで、それでいてちゃんとかわいい。よくできている!

中二病をドライブさせるアニメは嗜好品をちゃんと描いて欲しい

 

 
 最近、うちのtwitterのタイムラインで『ロード・エルメロイII世の事件簿』のアルコールの描写について、目に留まるツイートが流れてきた。
 


 
 これは私も引っかかった。
 なぜシャンパングラスではない?
 そこに冷やしてあるのはシャンパンボトルか、万が一違うとしても白ワインのボトルではないか?
  
 シャンパンにお似合いなのは細長いフルート型グラスで、シャンパンというワインの用途からいって、リムジンにあってもおかしくはない。しかし、ここではフルート型グラスではなくボルドー型グラス、しかもステムの短い安物っぽいやつが並んでいる。そのうえ、グラスが下を向いているのでなく上を向いているときたものだ。ワイングラスに埃が入るのは避けられるべき事態なので、まっとうにワインをサービスする者はワイングラスを戸棚に入れるか、逆さまに「吊るす」。
  
 もし、このアニメが『Fate』の看板を背負っていなかったら、こうした描写は気にするほどのものではない。世の中には、ワインを何種類も混ぜ混ぜして料理をつくるなどという蛮行が描かれるアニメ作品や、赤ワインをワインクーラーでキンキンに冷やすアニメ作品も出てくる。それでどうということはない。気にならないアニメ作品では、特段に気に留める必要を感じない。
 
 しかしこのアニメは『ロード・エルメロイII世の事件簿』、『Fate』の看板を背負っている。『Fate』といえば中二病だ。背伸びした格好良さに焦がれ憧れ、中二病をギュンギュンと音を立ててドライブさせてナンボの作風ではなかったか。
 
 だから背伸びした格好良さに関連するガジェットは大切に描写しなければならないはずで、ガジェットをできるだけしっかり描いておかなければ中二病をドライブさせる差し障りになりかねない。
 
 この点では、『Fate/Zero』は背伸びした格好良さをかなり大切にしていた、と思う。
 このブログ記事の冒頭のスクリーンショットは、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが白ワインを飲むシーンだが、これはある程度の合点がいった。
 
 ケイネス先生のような人格の持ち主が飲む白ワインといえば、カリフォルニア産などではなく、ブルゴーニュ産の正統なシャルドネだろう。ボトルの形状や色もそれに合致する。そういう正統なシャルドネを飲むにあたり、このような大ぶりのブルゴーニュグラスを用いるのはもっともなことだし、これぐらいの量しか注がないのは香りを堪能するうえでは都合が良い。唯一、ワインボトルを冷やしているのは引っかかりどころで、正統なシャルドネは冷やし過ぎると美味くなくなる。が、ぬるすぎても美味くなくなるし、気の利いたレストランではともあれ冷やせるように準備はしてくれる。
 
 ほかにも『Fate Zero』では、言峰綺礼のワインセラーを飲み荒らすギルガメッシュなどが登場するが、このシーンで登場するワインボトルとラベルの形状もなかなか凝っていた。
 

 
 ボトルに、わざわざ「ラトゥール」「ジロンデ」といった表記があるのは大変好ましく、架空のボルドー高級ワインを想像したくなる。ただしこのシーンのギルガメッシュ、ステムの長いワイングラスに少々ワインを注ぎ過ぎている。あと、ワインは飲み干してから追加を注ごうよ。
 
 こうしたワインを嗜む現代的な作法については、さすがにケイネス先生に軍配があがる。
 
 これに限らず、『Fate/Zero』は細かなガジェットをかなり頑張って描写していた。アニメを作る者とて万能ではないし、予算の都合もあるから、すべてを細かく描くことはできない。しかし背伸びした格好良さに関連したガジェットを細かく描くことには意味があり、『Fate』シリーズは、ボキャブラリーの点でもガジェットの点でも中二病が勃起するような細部によって成り立っている、と私はいつも思っている。嗜好品や奢侈品は、伝記伝承のたぐいと同様、そうした細部を構成する重要なパーツになる。その点では、『Fate/Zero』のいたるところで頑張った作品だったように思う。
 
 

中二病の神は細部に宿る

 
 アニメがサブカルチャーコンテンツとして幅をきかせるようになってどれぐらいの歳月が流れただろう。
 
 私のような中年までもがアニメを見るようになった2019年においても、多くのアニメが中二病的気分をドライブさせてくれる。中年になってなお、そうした中二病的気分がギュンギュン音を立てる瞬間は気持ち良いものだ。そうしたコンテンツを次々に輩出する界隈には感謝している。
 
 しかし気持ちの良く中二病のドライビングに身を委ねるためには、細部に瑕疵があって欲しくない。そういった瑕疵が増えるほど、中二病という心地よい夢を醒めやすくなってしまう。アニメは、記したいことを記すには適したメディアであると同時に、記したいと意図していない、手間と予算を省いた描写までもがひとつのメッセージとして解釈・咀嚼されかねないメディアだ。だから、中二病をドライブさせるコンテンツの饒舌さに神が宿っていて欲しいと願うと同時に、手間と予算を省いた場所で神を追い払ってしまうことがないよう慎重であって欲しい、とも願う。
 
 コミック版を読むにつけても、『ロード・エルメロイII世の事件簿』という作品は、そういう中二病の夢、背伸びした格好良さをプロバイドしてくれると期待された作品だと思う。頑張れ、『ロード・エルメロイII世の事件簿』。なにせこれは『Fate』シリーズの時計塔の物語なのだから。
 
 

『レイフォース』のサントラと、物語体験メディアとしてのゲームについて

 
ゲームサントラ語り・「ダライアス外伝」オリジナルサントラについて: 不倒城
 
 以前、しんざきさんが1994年のシューティングゲーム『ダライアス外伝』について語ったことがあった。リンク先は、その時の文章だ。
 
 『ダライアス外伝』はゲーム自体がよくできていると同時に、すごく印象的な音楽に心奪われるゲームで、およそゲームセンターに似つかわしくないBGMを聞きながらシューティングゲームとしてのダライアス外伝を楽しんだものだ。
 

ダライアス外伝

ダライアス外伝

 
 で、リンク先にもあるように、そのサントラ盤にはユング心理学を援用した細かい解説が載せられていて、サントラを読むとBGMとゲームの辻褄がますます合い、『ダライアス外伝』という作品についての理解も深まるようになっていたのだった。
 
 この『ダライアス外伝』とそのサントラが素晴らしいのは間違いない。けれどもほぼ同時期にリリースされた『レイフォース』とそのサントラもそれに伍する仕事をしていたので、ここではレイフォースのサントラの話をしようと思う。
 
 

「ハイスコア狙い」と「悲壮感の漂う演出」という二つの顔

 

レイフォース

レイフォース

 
 『レイフォース』は1994年にゲーセンに登場した、縦スクロールのシューティングゲームだ。その後流行になっていく弾幕シューティングのようなつくりではなく、敵をロックオンし、まとめて敵を倒すと高得点が得られる誘導レーザーで専ら敵を攻撃していく、ハイスコア狙いを意識させる作品だった。敵も曲線的なレーザーを多用し、さまざまな特殊弾に遭遇するあたりは『ダライアス外伝』と雰囲気が似ていて、この時代のタイトーのシューティングゲームらしさが感じられる。
 
 この、ロックオン式のレーザーを使った高得点ギミックが良質なゲームバランスに支えられた結果、『レイフォース』は当時のシューティングゲームマニアから非常に高い評価を得ていて、『レイストーム』や『レイクライシス』といった続編もつくられている。演出やBGMだけでなく、ゲームそのものの骨格が非常に優れていた作品だったといえる。
 
 だがゲームそのものが優れていただけでなく、何かをディスプレイ越しに訴えかけてくるような、否、プレイヤーの側がストーリーを読み取りたくような演出のゲームでもあった。
 
 小惑星基地のような1面から、衛星軌道上の2面へ。地球らしき星の地表を疾走する3~4面を通り過ぎると、惑星中心に向かって地下を突き進む5~6面が続いていく。そして最終面である7面は、どうみても惑星の中心だ。
 
 『レイフォース』がゲーセンに設置されていた時、ゲーセンのインストカードには通常弾やロックオンレーザーの使い方といった操作法が記されているだけで、ストーリーらしきものはどこにも書かれていなかった。
 
 しかし、ゲームの演出、ステージ構成をみる限り、なにか重大なストーリーが『レイフォース』にはあるように思われた。2面後半、大気圏突入前のシーンでは、友軍艦隊とおぼしき宇宙船団が敵艦隊に一方的に破壊されていく。BGMも、このゲームになんらかストーリーがあることを訴えてやまない。2面、4面、6面と惑星中枢に近付くにつれて悲壮なBGMはますます悲壮になり、なにやら、後戻りのきかない戦いであるように聞こえるからだ。
 
 BGMもステージ構成も、なんとなれば敵のデザインすら、「はっきりとしたストーリーはわからないけれども、このゲームの筋書きは悲壮なものだ」という想像をかきたてる点では『レイフォース』は首尾一貫していた。ハイスコアラーがやりこんでなかなか席の空かない、スコアに目を血走らせるゲームであると同時に、異様な悲壮感が漂っているのは不思議な感じがした。
 
 だが、『レイフォース』というゲームの正体はそういうゲームだった! というよりそういう正体であるとサントラ盤によって後付け的に語られたのだ。おそらく『ダライアス外伝』と同じように。
 
 

「サントラにストーリーが書いてあった!」

 

 
 ある日、『レイフォース』をやり込んでいる友人からBGMのサントラを借りる機会があった。そこにはレイフォースのストーリーが実質的に書かれているのだという。半信半疑ながら借りてみると、サントラには「MISSION DATA FILE」なるものがついていて、年号から始まって、びっくりするほど細かなストーリーが記されていた。
 
 

 
 『レイフォース』は、万能の物質生成システムとAIによって人類社会が管理されるようになった後の物語だ。ある日、そのAIが人類に敵対するようになり虐殺を開始、生き残った人類は外惑星系へと逃れなければならなくなった。地球と一体化したAIによる殲滅戦が続くなか、AIを地球ごと破壊するべく、人類は衛星落としをメインとする第一次攻略作戦を挑んだが、主力艦隊の70%を失って敗走。
 

 
 ゲーム本編は、その後の第二次攻略作戦、「残存艦隊を囮とし、小型機動兵器を惑星の中心核に送り込み、惑星もろともAIを破壊する」作戦であることを、私はサントラのミッションファイルを読んで初めて知った。
 
 21世紀の私は、これがそれほどSF的に珍しいストーリーではないことを知っている。しかし、SF小説をただ読むのと自分自身でジョイスティックを動かして機動兵器を操り、BGMを聴きながら惑星中枢を目指すのでは、体験の質、没入感の度合いがまったく違う。
 
 もともと悲壮感の漂う何者かだった『レイフォース』は、サントラに記された資料によって明確なストーリーになった。そしてそのストーリーを自分自身のものとして体験するのに『レイフォース』の演出やBGMはあまりにもぴったりだった。例の、高得点ギミックであるロックオンレーザーが自機より下向きの方向にしか撃てないのも、「惑星の中心に向かってひたすら降りていく」という作戦主旨と一致しているからたまらない。
 
 このストーリーを知った段階では、まだ私は『レイフォース』をワンコインクリアしていなかったし、エンディングも見ていなかった。惑星中枢の手前に立ちはだかる難関ボスに手こずり、しかもゲーセンではハイスコア狙いの上級者になかば占拠されていたから諦めていたのだが、ストーリーを知り、この結末をどうしても自分の力で迎えてみたくなった。
 
 こういう時、ゲーム、それもゲーセンのシューティングゲームというプラットフォームは、その難易度でプレイヤーをしっかり抱き留めてくれる。小型機動兵器だけで惑星中枢を破壊するという作戦の困難さを、ゲーセンのシューティングゲームは難易度というかたちで疑似体験させ、えもいわれぬBGMとグラフィックによって作戦の世界に没入させる。
 
 『レイフォース』をワンコインクリアしたいと思っていた頃は、とにかく暇をつくってゲーセンで練習し、家に帰ってからも惑星中枢を攻略するためにあれこれ考え続けた。一度はクリアを諦めていた私にとって、まさにそれは第二次攻略作戦だった。
 
 幸い、『レイフォース』の難易度はゲーセンのシューティングゲームとしては良心的な部類で、ほどなく私は惑星中枢のAIに辿り着き、激戦の末、破壊した。惑星の爆発と閃光に包まれた自機を待っていたのは……やはり、帰らぬ旅路だった。
 
 予想された結末ではあった。サントラ盤所収の「MISSON DATA FILE」には、惑星を破壊するための手順は記されていたが、生還のための手順はどこにも記されていなかった。もちろん、エンディング後の未来のことも記されていない。だからこれは「特攻作戦」なのだ。この世界の人類は、未来のために自機のパイロットを死地に送り込んだというわけだ。
 
 それでも、やり遂げたという充実感、満足感は素晴らしいものだった。良心的な難易度とはいえ、『レイフォース』もまたゲーセンのシューティングゲームのひとつであり、ワインコインクリアするまでには相応の手応えがあった。『バトルガレッガ』や『雷電IV』をワンコインクリアした時に比べれば、相対的に難易度じたいは低めだったかもしれないが、ストーリーに駆り立てられてプレイしていたためか、クリアした時の感動はそれらに勝るとも劣らないものだった。この世界の人類を救ったというイメージと、特攻ではあっても悔いの無いイメージを、私は1994年のゲームセンターの片隅で確かに体感した。
 
 その後、『レイフォース』よりも素晴らしいSFは何度も読んだし、『レイフォース』よりもシューティングゲームとして優れているもの・難しいものも何度もクリアした。けれどもこんなに感動し、世界に没入したうえで達成感を得られたゲームは他にない。
 
 

物語を体験するメディアとしてのゲーム

 
 この『レイフォース』を思い出し、その後のゲーム体験とも照らし合わせて思うのは、物語体験装置としての「ゲーム」というメディアの可能性だ。
 
 世の中には、物語を体験させる、物語を読ませるメディアがたくさんある。小説しかり、アニメしかり、テレビドラマしかり。
 
 そうしたなかで、ゲームというメディアを特徴づけるのは、なんといっても「自分で操作する」ということ、そして「自分で操作することによってストーリーが変わる」ことだろう。
 
 こうした物語体験装置としてのゲームメディアの可能性については、たとえばノベルゲームの分野では、東浩紀さんが『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』で記している。
 

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

 
 それはそれとして、一人のアーケードシューティングゲーム愛好家として振り返ると、『レイフォース』をはじめ、少なくとも幾つかのアーケードゲームには、他のメディアよりプレイヤーを没入させやすい性質があったのではないだろうか。アーケードゲームの場合、困難な作戦への没入感を支える舞台装置として、ステージ構成やBGM、さらにアーケードゲーム特有の難易度の高さが役に立つ
 
 今日の家庭用ゲームやソーシャルゲームでさえ、多くのゲームは後半で難易度を上昇させ、プレイヤーの試行錯誤や努力を促すとともに達成感を高めるような――つまり手応えを体感させるような――仕掛けを備えているものが少なくない。この、難易度というファクターがゲームのストーリーや客層と噛み合った時、そのゲームは「バランスの良いゲーム」と讃えられる。ただし噛み合わない時には「クソゲー」との誹りを受けるかもしれない。
  
 90年代のタイトーという会社とその社内音楽グループであるZUNTATAは、そういった物語を体験させるためのメディアとしてのアーケードゲームづくりがとても上手かった、のだと思う。もちろんそれはシューティングゲームに限ったものではない。『サイキックフォース』や『電車でGO!』にしてもそうだ。ナムコだって、セガだって頑張っていた。物語に没入するための舞台仕掛けという点では、どこのゲーム会社も頑張っていたし、今でも頑張っている。
 
 ゲームというメディアは、映像では映画にかなわないかもしれないし、ストーリーの新機軸ではSF小説にかなわないだろう。音楽という点でも、単体では専門家にかなわないかもしれない。だけど、それら全てを総合して、なによりプレイヤー自身の操作と選択、体験の積み重ねによって、個別のメディアには提供できない体験を提供してくれる、と私は思っている。
 
 今後、そうした体験はARやVRによってますます拡がっていくのだろう。
 だがさしあたり今は、『レイフォース』をはじめ、今遊べるゲームを讃えておきたい。
 あのとき、確かに私は第二次攻略作戦をやってのけ、惑星中枢を破壊したのだ。
 
 
※[『レイフォース』についてもっと知りたい人には、こちらのファンサイトをオススメしてみます]:POLAIRE.ORG - レイフォースを愛するすべての人々へ