シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『レイフォース』のサントラと、物語体験メディアとしてのゲームについて

 
ゲームサントラ語り・「ダライアス外伝」オリジナルサントラについて: 不倒城
 
 以前、しんざきさんが1994年のシューティングゲーム『ダライアス外伝』について語ったことがあった。リンク先は、その時の文章だ。
 
 『ダライアス外伝』はゲーム自体がよくできていると同時に、すごく印象的な音楽に心奪われるゲームで、およそゲームセンターに似つかわしくないBGMを聞きながらシューティングゲームとしてのダライアス外伝を楽しんだものだ。
 

ダライアス外伝

ダライアス外伝

 
 で、リンク先にもあるように、そのサントラ盤にはユング心理学を援用した細かい解説が載せられていて、サントラを読むとBGMとゲームの辻褄がますます合い、『ダライアス外伝』という作品についての理解も深まるようになっていたのだった。
 
 この『ダライアス外伝』とそのサントラが素晴らしいのは間違いない。けれどもほぼ同時期にリリースされた『レイフォース』とそのサントラもそれに伍する仕事をしていたので、ここではレイフォースのサントラの話をしようと思う。
 
 

「ハイスコア狙い」と「悲壮感の漂う演出」という二つの顔

 

レイフォース

レイフォース

 
 『レイフォース』は1994年にゲーセンに登場した、縦スクロールのシューティングゲームだ。その後流行になっていく弾幕シューティングのようなつくりではなく、敵をロックオンし、まとめて敵を倒すと高得点が得られる誘導レーザーで専ら敵を攻撃していく、ハイスコア狙いを意識させる作品だった。敵も曲線的なレーザーを多用し、さまざまな特殊弾に遭遇するあたりは『ダライアス外伝』と雰囲気が似ていて、この時代のタイトーのシューティングゲームらしさが感じられる。
 
 この、ロックオン式のレーザーを使った高得点ギミックが良質なゲームバランスに支えられた結果、『レイフォース』は当時のシューティングゲームマニアから非常に高い評価を得ていて、『レイストーム』や『レイクライシス』といった続編もつくられている。演出やBGMだけでなく、ゲームそのものの骨格が非常に優れていた作品だったといえる。
 
 だがゲームそのものが優れていただけでなく、何かをディスプレイ越しに訴えかけてくるような、否、プレイヤーの側がストーリーを読み取りたくような演出のゲームでもあった。
 
 小惑星基地のような1面から、衛星軌道上の2面へ。地球らしき星の地表を疾走する3~4面を通り過ぎると、惑星中心に向かって地下を突き進む5~6面が続いていく。そして最終面である7面は、どうみても惑星の中心だ。
 
 『レイフォース』がゲーセンに設置されていた時、ゲーセンのインストカードには通常弾やロックオンレーザーの使い方といった操作法が記されているだけで、ストーリーらしきものはどこにも書かれていなかった。
 
 しかし、ゲームの演出、ステージ構成をみる限り、なにか重大なストーリーが『レイフォース』にはあるように思われた。2面後半、大気圏突入前のシーンでは、友軍艦隊とおぼしき宇宙船団が敵艦隊に一方的に破壊されていく。BGMも、このゲームになんらかストーリーがあることを訴えてやまない。2面、4面、6面と惑星中枢に近付くにつれて悲壮なBGMはますます悲壮になり、なにやら、後戻りのきかない戦いであるように聞こえるからだ。
 
 BGMもステージ構成も、なんとなれば敵のデザインすら、「はっきりとしたストーリーはわからないけれども、このゲームの筋書きは悲壮なものだ」という想像をかきたてる点では『レイフォース』は首尾一貫していた。ハイスコアラーがやりこんでなかなか席の空かない、スコアに目を血走らせるゲームであると同時に、異様な悲壮感が漂っているのは不思議な感じがした。
 
 だが、『レイフォース』というゲームの正体はそういうゲームだった! というよりそういう正体であるとサントラ盤によって後付け的に語られたのだ。おそらく『ダライアス外伝』と同じように。
 
 

「サントラにストーリーが書いてあった!」

 

 
 ある日、『レイフォース』をやり込んでいる友人からBGMのサントラを借りる機会があった。そこにはレイフォースのストーリーが実質的に書かれているのだという。半信半疑ながら借りてみると、サントラには「MISSION DATA FILE」なるものがついていて、年号から始まって、びっくりするほど細かなストーリーが記されていた。
 
 

 
 『レイフォース』は、万能の物質生成システムとAIによって人類社会が管理されるようになった後の物語だ。ある日、そのAIが人類に敵対するようになり虐殺を開始、生き残った人類は外惑星系へと逃れなければならなくなった。地球と一体化したAIによる殲滅戦が続くなか、AIを地球ごと破壊するべく、人類は衛星落としをメインとする第一次攻略作戦を挑んだが、主力艦隊の70%を失って敗走。
 

 
 ゲーム本編は、その後の第二次攻略作戦、「残存艦隊を囮とし、小型機動兵器を惑星の中心核に送り込み、惑星もろともAIを破壊する」作戦であることを、私はサントラのミッションファイルを読んで初めて知った。
 
 21世紀の私は、これがそれほどSF的に珍しいストーリーではないことを知っている。しかし、SF小説をただ読むのと自分自身でジョイスティックを動かして機動兵器を操り、BGMを聴きながら惑星中枢を目指すのでは、体験の質、没入感の度合いがまったく違う。
 
 もともと悲壮感の漂う何者かだった『レイフォース』は、サントラに記された資料によって明確なストーリーになった。そしてそのストーリーを自分自身のものとして体験するのに『レイフォース』の演出やBGMはあまりにもぴったりだった。例の、高得点ギミックであるロックオンレーザーが自機より下向きの方向にしか撃てないのも、「惑星の中心に向かってひたすら降りていく」という作戦主旨と一致しているからたまらない。
 
 このストーリーを知った段階では、まだ私は『レイフォース』をワンコインクリアしていなかったし、エンディングも見ていなかった。惑星中枢の手前に立ちはだかる難関ボスに手こずり、しかもゲーセンではハイスコア狙いの上級者になかば占拠されていたから諦めていたのだが、ストーリーを知り、この結末をどうしても自分の力で迎えてみたくなった。
 
 こういう時、ゲーム、それもゲーセンのシューティングゲームというプラットフォームは、その難易度でプレイヤーをしっかり抱き留めてくれる。小型機動兵器だけで惑星中枢を破壊するという作戦の困難さを、ゲーセンのシューティングゲームは難易度というかたちで疑似体験させ、えもいわれぬBGMとグラフィックによって作戦の世界に没入させる。
 
 『レイフォース』をワンコインクリアしたいと思っていた頃は、とにかく暇をつくってゲーセンで練習し、家に帰ってからも惑星中枢を攻略するためにあれこれ考え続けた。一度はクリアを諦めていた私にとって、まさにそれは第二次攻略作戦だった。
 
 幸い、『レイフォース』の難易度はゲーセンのシューティングゲームとしては良心的な部類で、ほどなく私は惑星中枢のAIに辿り着き、激戦の末、破壊した。惑星の爆発と閃光に包まれた自機を待っていたのは……やはり、帰らぬ旅路だった。
 
 予想された結末ではあった。サントラ盤所収の「MISSON DATA FILE」には、惑星を破壊するための手順は記されていたが、生還のための手順はどこにも記されていなかった。もちろん、エンディング後の未来のことも記されていない。だからこれは「特攻作戦」なのだ。この世界の人類は、未来のために自機のパイロットを死地に送り込んだというわけだ。
 
 それでも、やり遂げたという充実感、満足感は素晴らしいものだった。良心的な難易度とはいえ、『レイフォース』もまたゲーセンのシューティングゲームのひとつであり、ワインコインクリアするまでには相応の手応えがあった。『バトルガレッガ』や『雷電IV』をワンコインクリアした時に比べれば、相対的に難易度じたいは低めだったかもしれないが、ストーリーに駆り立てられてプレイしていたためか、クリアした時の感動はそれらに勝るとも劣らないものだった。この世界の人類を救ったというイメージと、特攻ではあっても悔いの無いイメージを、私は1994年のゲームセンターの片隅で確かに体感した。
 
 その後、『レイフォース』よりも素晴らしいSFは何度も読んだし、『レイフォース』よりもシューティングゲームとして優れているもの・難しいものも何度もクリアした。けれどもこんなに感動し、世界に没入したうえで達成感を得られたゲームは他にない。
 
 

物語を体験するメディアとしてのゲーム

 
 この『レイフォース』を思い出し、その後のゲーム体験とも照らし合わせて思うのは、物語体験装置としての「ゲーム」というメディアの可能性だ。
 
 世の中には、物語を体験させる、物語を読ませるメディアがたくさんある。小説しかり、アニメしかり、テレビドラマしかり。
 
 そうしたなかで、ゲームというメディアを特徴づけるのは、なんといっても「自分で操作する」ということ、そして「自分で操作することによってストーリーが変わる」ことだろう。
 
 こうした物語体験装置としてのゲームメディアの可能性については、たとえばノベルゲームの分野では、東浩紀さんが『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』で記している。
 

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

 
 それはそれとして、一人のアーケードシューティングゲーム愛好家として振り返ると、『レイフォース』をはじめ、少なくとも幾つかのアーケードゲームには、他のメディアよりプレイヤーを没入させやすい性質があったのではないだろうか。アーケードゲームの場合、困難な作戦への没入感を支える舞台装置として、ステージ構成やBGM、さらにアーケードゲーム特有の難易度の高さが役に立つ
 
 今日の家庭用ゲームやソーシャルゲームでさえ、多くのゲームは後半で難易度を上昇させ、プレイヤーの試行錯誤や努力を促すとともに達成感を高めるような――つまり手応えを体感させるような――仕掛けを備えているものが少なくない。この、難易度というファクターがゲームのストーリーや客層と噛み合った時、そのゲームは「バランスの良いゲーム」と讃えられる。ただし噛み合わない時には「クソゲー」との誹りを受けるかもしれない。
  
 90年代のタイトーという会社とその社内音楽グループであるZUNTATAは、そういった物語を体験させるためのメディアとしてのアーケードゲームづくりがとても上手かった、のだと思う。もちろんそれはシューティングゲームに限ったものではない。『サイキックフォース』や『電車でGO!』にしてもそうだ。ナムコだって、セガだって頑張っていた。物語に没入するための舞台仕掛けという点では、どこのゲーム会社も頑張っていたし、今でも頑張っている。
 
 ゲームというメディアは、映像では映画にかなわないかもしれないし、ストーリーの新機軸ではSF小説にかなわないだろう。音楽という点でも、単体では専門家にかなわないかもしれない。だけど、それら全てを総合して、なによりプレイヤー自身の操作と選択、体験の積み重ねによって、個別のメディアには提供できない体験を提供してくれる、と私は思っている。
 
 今後、そうした体験はARやVRによってますます拡がっていくのだろう。
 だがさしあたり今は、『レイフォース』をはじめ、今遊べるゲームを讃えておきたい。
 あのとき、確かに私は第二次攻略作戦をやってのけ、惑星中枢を破壊したのだ。
 
 
※[『レイフォース』についてもっと知りたい人には、こちらのファンサイトをオススメしてみます]:POLAIRE.ORG - レイフォースを愛するすべての人々へ
 
 

「子育てするなら都心か地方か」論と、現代の「血筋」の問題

  


 
finalvent.cocolog-nifty.com
 
 上掲の、田端信太郎さんのツイートを踏まえて書かれたとおぼしき、極東ブログのfinalventさんのブログ記事を読み、ぼんやりとした気持ちになった。
 
 郊外に4000万円の居をかまえるのと、都内のタワマンに8000万円の居をかまえるのは、どちらが望ましいのか?
 
 田端さんのツイートには将来の価格のことしか書かれていないのに対し、finalventさんのブログ記事の後半には、子育てとそれに関連した階層化の話が付け加えられている。
 
 こうしたネットで見かける「郊外の家か、都内のタワマンか」の話には、【①物件の未来の価格可能性】の話と【②子育て上の利便性や可能性】の話が混じっていて、しかも②に関しては、【③比較する家庭の社会的・文化的状況の違い】が略されている。【④地方や郊外という時、想定されるのはどういった地方や郊外なのか】も割と略されやすい。そんなわけで、万人を納得させる文章にはなかなか仕上がりにくい。
 
 たぶん、以下の文章もそのようなものだと自覚したうえで、地方で子育てをする者の一人として、自分の考えを書いてみる。
 
 

物件の価格は、都内に近いほど有利

 
 まず、あまり興味の無い①の問題を済ませてしまおう。
 未来の物件の価格、という視点でみれば、地方は都心にまったくかなわない。地方の物件に手を出すより東京首都圏の物件、それも都心の物件に手を出したほうが有利なのだろう。
 
 地球温暖化や大震災などのリスクを考えるなら、都心といえども無敵というわけではあるまい。とはいえ確実視される少子化を踏まえるなら、物件の価格は都心ほど維持されやすく、都心から離れるほど下落しやすいとは予測できる。
 
 この点でいえば、地方都市のはずれに土地を買って家を建てるのが一番どうしようもなくて、数十年後には負の遺産になると覚悟しなければならない。
 
 ただし、地方都市のはずれ~都心の間には無数のグラデーションがある。ひとことで郊外と言っても、たとえば埼玉県や千葉県や神奈川県の、濃密な鉄道網に沿った物件がどれぐらい値下がりするものだろうか。
 
 東京首都圏の鉄道網があてになる限り、案外、東京首都圏の郊外の物件は決定的には値下がりしないように私には思えてしまう。東京首都圏の鉄道網の沿線と、政令指定都市の物件を比べて、30年後により値下がりしているのはどちらだろう? 都心のタワマンには一生縁が無いように思われる私には、そういう比較のほうが気になる。どちらにせよ、地方都市辺縁の物件に比べればまだしも未来があるようにみえる。
 
 

「都内の子育てのアドバンテージとは何か」

 
 それより②の問題、子育ての利便性や可能性について考えてみよう。
 
 都内での子育てについては、しばしばこんなことが言われている――「東京は博物館やイベントが充実しているし、人脈も豊富。だから子育てには有利」といった内容のものだ。
 
 本当にそうだろうか。
 
 東京は博物館や図書館といった文化インフラが充実しているし、イベントも日本一充実している。各方面のインストラクターも充実している。それらの利用可能性を語るなら、確かに東京は日本一に違いない。
 
 だが、そうした東京のインフラやイベントを大学進学以前から使いこなしている子どもが一体どれぐらいいるのだろう? もちろん、そういう子どもだっているだろう。とはいえ東京首都圏の凡百の子どもが皆、そこまでインフラやイベントを使い倒しているものなのか。
 
 都内と地方都市の末端を比較するなら、そうしたインフラやイベントの差異は埋めがたく、なるほど都内に軍配があがろう。しかし博物館や図書館にしてもイベントにしても、地方の中核都市にも「それなりのもの」は揃っているし、ほとんどの子どもは「それなりのもの」で事足りてしまうのではないだろうか*1
 
 あるいは普段は地方都市のインフラやイベントで間に合わせ、ここぞという場面では上京する、というやり方だってある。「地方で4000万の持ち家か、都心で8000万のタワマンか」という二者択一を考えられるような経済的・文化的状況にある家庭の子どもなら、よほど僻地に住んでいるのでもない限り、必要な時に上京するようなライフスタイルは十分やってのけられるはずである。
 
 もし例外があるとしたら、東京の第一人者をインストラクターにしなければならないレッスンを、大学進学前に受けなければならないようなシチュエーションぐらいか。だが、そこまでの可能性を必要とする子どもが一体どれぐらいいるのかわからないし、そこまでの可能性を可能性として求める親がどれぐらいいるのかもわからない。
 
 たとえばの話、都内のタワマンに余裕綽々で入居する人ならともかく、ローンを組んでカツカツに暮らすようなファミリーに、子どもの可能性をそこまで拡充する経済的・心理的余裕があるものだろうか。
 
 
 学力や学歴の話になると、都心のタワマンでなければならない必然性はほぼ無くなる*2
 
 MARCHを受験するための学力なら、政令指定都市どころか、人口10~20万人規模の地方都市でもどうにかなる。こう書くと「地方都市でMARCHに入るためには相当優秀でなければならない」といった反論があるだろうけれど、地方都市にはMARCHとは別に地方大学の値打ちがあるため (たとえば関関同立、神戸大学や奈良女子大学、各県庁所在地の国立大学など) 、優秀な学生が皆上京したがるわけではない。
 
 そもそも、都内でさんざん教育投資をして、本人もさんざん苦労を重ねた結果としてMARCHに進学して、それで「地方に比べて子育てに恵まれていた」などと言えるものだろうか。教育投資や都内の文化的アドバンテージを生かし、あまり苦労せず東大や早慶に入学するなら、なるほどアドバンテージだろうけれど、そこまでのアドバンテージを享受している都内のファミリーとは、いったい何%ぐらいなのだろう?
 
 都内でも苦労しなければ東大や早慶に入れないのだとしたら、そんなものは、学力・学歴のアドバンテージだとは私には思えない。子ども自身の素養とファミリーの文化資本がちゃんと揃っていれば、地方の公立進学校からもMARCHは十分に狙えるし、東大や京大や国立医学部だって射程に入る。地方の公立進学校の同窓生のクオリティがそれほど劣っているとも思えない。
 
 学力・学歴の問題にかんする限り、本当にクリティカルなのは都内か地方都市在住かではなく、子ども自身の素養とファミリーの文化資本の程度ではないだろうか。もちろん、地方のなかの地方、過疎な町村部に居を構えていればハンディになるかもしれないが、戦後七十余年のうちに、高学歴志向なファミリーは多かれ少なかれ街に出ているだろうから、メジャーな問題ではあるまい。
 
 

「イエ」が無くなっても「血筋」は残った

 
 ここまで書いてしまったうえでfinalventさんのブログ記事を思い出すと、私は、親から子へ、子から孫へと継承されていくものについて思いを馳せずにいられなくなる。finalventさんは、
 

 簡単に言えば、日本の社会は、都心居住者を中心に階層化されていくし、それが世代にわたって固定化されていくのだろうと思う。
 いい悪いでも、どうしたらいいというわけでもなく。
 人生というのはそういうものだ。都心のマンションであれ戸外の一戸建てであれ、離婚すればそれらの資産は整理することになる。離婚はそれほどまれなできごとでもない。また、けっこうな大病するというのも、珍しいことではない。そうなれば、ローンは返せない。それらもまた、現実だろう。

 と書いておられる。
 
 finalventさんは、階層化についてだけでなく、離婚や大病によってファミリーが没落する可能性についても触れている。世代から世代へと経済資本や文化資本が受け継がれていく一方で、没落イベントがいつ起こるのかはわからない。親から子へ、階層を駆け上がることもあるかもしれないが、階層を一代で駆け上がるのは今では困難になっているから、諸資本の継承と階層の浮沈は、個人という一代のスケールで計れるものではないように思う。
 
 個人主義社会が到来し、「イエ」という制度はおおよそ終わったといわれている。確かに「イエ」を意識する人は昭和時代に比べればずっと減った。だけど階層化の進みゆく近未来の日本では、「血筋」というか、現代の資本主義社会に最適な生物学的傾向を継承し、なおかつ、文化的・社会的アドバンテージを蓄積し続けられるかどうかが、親-子-孫のバトンリレーにおいて峻厳に問われるのだと思う。
 
 こんなバトンリレーは、親自身だけの努力でどうにかなるものでも、子の世代で一発勝負できるものでもあるまい。うまくバトンが繋がればもうけもの、繋がらなければペシャンコ、大災害や大事故に巻き込まれてもやはりペシャンコの、シビアな、けれども当たり前といえば当たり前の命のバトンリレーなのだと思う。
 
 都内か地方か。
 もちろんそれも考慮に値する問題ではある。
 
 だけど一連のお話を眺めているうちに、そんなことより、親から子へ、子から孫へとバトンリレーされていく諸傾向・諸資本の可否のほうがずっと重要に思えて、4000万円の郊外の家か8000万円のタワーマンションかという選択は、金額によってではなく、諸傾向や諸資本のバトンリレーの可否にどこまで貢献し、どこまで邪魔になるのかを踏まえて決めるべきという気持ちにならずにはいられなかった。
 
 ああそれと、このことに関連して。
 
 「親から子へのバトンリレーは常に上昇志向であるべき」と考えるのは、現代の情勢に即していないと思う。親子の情勢しだいでは、ときには守勢に回るべき代もあるはず。20世紀の親子のバトンリレーは、おおむね上昇志向的に思い描かれてきたし、そういう上昇志向は現代でも主流だろうけれども、そういうワンパターンなビジョンは危ないんじゃなかろうか。
 
 物件や土地も、学歴や階層も、儚いものではある。
 その儚いものを懸命に継承していくために、当事者が考え、実行すべき選択肢は無数にある。私は地方を選んだが、都心を選ぶ人だっているだろう。私は、土地や物件の価格よりもバトンのほうを大切にしたい。
 
 

*1:個人的には、東京一極集中といえども地方の中核都市に「それなりのもの」が揃っているのが日本という国の強みだと思う。これが早々に失われた場合、日本のマンパワーの潜在力はかなり低下するだろう

*2:そもそも地上から遠く離れ、人工的環境に覆い尽くされたタワーマンションという特殊環境が子どもの認知形成にどのような影響を及ぼすのか、私個人は疑問を禁じ得ない。が、それはここでは於く

「本来のシロクマ先生」をお望みの方へ

 
https://b.hatena.ne.jp/entry/4672567703114422914/comment/iguana_marikob.hatena.ne.jp
 
 林先生の「コンサータによって自己連続性」を失った話に、上記のようなはてなブックマークコメントがついていたので、ちょっと考え込んでしまいました。
 
 本題に入る前に、林先生のところの案件から自分が思い出したことをツラツラと書いてみます。
 
 今回の林先生のところの話題は、精神薬理学的に自己のありようが変化し、自己の連続性、ひょっとしたらアイデンティティにまで疑問を感じる時の話で、ここまで言語化された例は未経験です。が、たとえば芸術肌の人が特定の向精神薬を「治療」のために飲むようになったら表現に影響が出てしまった時などに、たぶん関連したことを考えさせられます。表現は、その人の精神性やその人のありかたと密接に結びついたものだろうけれども、それを向精神薬があっさりと変えてしまうことは稀によくあります。表現をやっていない人にとっては「改善一辺倒」で済んでしまうことが、表現をやっている人には「表現の質的変化」というかたちで察知され、表現をやっている人は自分の表現に簡単にはNoと言えないから、とても難しい問題として取り扱わなければなりません。
 
 林先生は、「いきづらいという程度ではたして薬を飲んで改善させるのが正しいことなのか、どこまでも慎重に考えたほうがいい」と書いておられます。私もそう思うのですが、他方で林先生は、この問題が反精神医学的に捉えられてしまうことを慎重に避けるべく言葉を選んでおられるような気がしました。反精神医学について説明すると、それはそれでダルい長話になるので強引にダイジェストにするなら、二十世紀中頃、統合失調症は文化的につくられた病でそれに薬を飲ませたり入院させたりしてるのどうよ? といった運動があったのです。
 
 ただ、運動の首謀者たちは統合失調症に該当する人々への代替案を提案できていたとは言えないし、運動のメンバーの記していた書籍を読むに、精神疾患や精神医学が憎くて仕方が無かったような雰囲気が漂っているところもあり、あまりパッとした運動にはなりきれていなかったと思います。「統合失調症も含めた精神疾患が、どこまで文化的に構築された病なのか」というテーマは、本当はじっくり検討すべきだと私は思っていますが、数十年前の反精神医学という運動はずさん過ぎて、かえってじっくり検討する余地を奪ってしまったのではないでしょうか。日本でも、反精神医学は精神神経学会に飛び火して大騒動を起こし(金沢学会)、学会機能を一時的に麻痺させた挙句、なんのオルタナティブも示すこともできませんでした。
 
 最近私は、精神神経学会方面で「精神疾患の成立と文化的・歴史的背景」というテーマで研究している精神科医をウォッチしていますが、あまり数が見つかりません。見つかったとしても、自分の物言いが曲解されないようきわめて慎重な言葉遣いをしているか、かつて反精神医学が引用した人物のあら捜しをしているか、とにかく、自由闊達に「精神疾患の成立と文化的・歴史的背景」について議論できる雰囲気にはみえませんでした。
 
 そういうテーマを考えることじたい、反精神医学的=業界の敵とみなす同業者が、ひょっとしたら一定割合で存在しているのかもしれません。トーマス・サズのような反精神医学の中心人物だけでなく、社会構築主義的に医療を考えた社会学者たちにも嫌悪と侮蔑の目を向ける精神科医を、私は何人か見かけてきました。彼らが医療全般に非友好的だったのは事実ですが、彼らが考えたようなことを誰も考えない・語らないのも、それはそれでアンバランスのように私には思われます。
 
 私は「精神疾患の成立と文化的・歴史的背景」を考えることが、そのまま精神医学へのアンチになるとは思っていないし、むしろ未来を豊かにするための歴史のパンくずになるのでないかと思っています。ですが、こうしたことを考え続け、表現し続けることには相応の覚悟や代償が必要かもしれず、あるいはそれが私の旅路の終わりになるのかもしれません。
 
 

「シロクマは医者マッチョワールドになっているか」

 
 さて、iguana_marikoさん、医者マッチョワールドに浸ったシロクマとは、このような記述をするシロクマのことでしょうか。
 
 私は最近、うつ病や統合失調症についてはブログに書いていないけれども、発達障害とその周辺についてはときどき書いています。上記のようなことを考えたり調べたりしている副産物だとお考えください。やっぱりブログは、今自分が考えていることの周辺事象をアウトプットするのがいちばん楽ですから。
 
 では逆に、iguana_marikoさんからみた、本来のシロクマとはどんなシロクマなのでしょう。
 
 個人の適応について、読めばライフハック的なことを書いていたようなシロクマか。
 
 他のブロガーとぶつかりあい、ときには皮肉や批判も厭わなかった頃のシロクマか。
 
 ゲームやアニメのことを喜々として書いていたようなシロクマか。
 
 まあどれも本当のシロクマで、私という多面体の一面が現れたのでしょう。。その都度、考えていることや関心を持っていることを吐き出すのが(私が)ブログを長続きさせる秘訣だと思っています。
 
 きっと、iguana_marikoさんがそのようにご指摘されたということは、最近の私の関心は精神医療の方面に傾いているのでしょうね。じきに医療以外のことを考えたくなったら、自然解消されるでしょうけれど、今しばらくはご容赦いただけたらと思います。
 
 ちなみに私がブログに精神医療について何かを書くのは、病気についてのいわゆる“啓蒙”を行いたいからではありません。
 
 そうではなく、精神医療のトレンドや現状を振り返り、現代人の社会適応について考えたいからなのです。最近シロクマは、資本主義のことや東アジアの少子高齢化にも言及していますが、これらも、現代人の社会適応について考える際に避けてとおれないサブテーマであるように見受けられるからです。進みゆく資本主義も、清潔になっていく街並みも、タバコ撲滅運動も、少子化も、現代社会を生きる私たちの適応の条件、オンラインゲーム風に言うなら「現代社会の適応ゲームルールの最新パッチ状況と今後の動向」のかなり重要な部分を反映しているのだとしたら、それを知ることもなしに現代人の社会適応を云々するのも、何か違うんじゃないのかなと私は思うのです。
 
 
 十年前ぐらいの私は、個人が現在社会に適応するために、どのような努力が必要か、どのようなスキルセットや素養を必要としているか、そのことを専ら考えていました。
 
 しかしここ五年ほどの間に、その個人が適応していくフィールド、つまり現代社会じたいが少しずつ変化していて、個人が適応するための最適解がどんどん変わっている点に興味をおぼえるようになりました。適応するための条件の変化は、オンラインゲームでいえば「最新ゲームパッチの更新状況」みたいなものですから、これはもっと詳しく眺めて、これまでとこれからの動向について考えられるようになったほうが良いと思うようになったのです。
 
 それと、現代人が現代社会に適応するための方法論については、私は、自分ではだいたいわかりたい部分はわかったつもりになりました。もうだいたいわかったことをわざわざブログに書くのは、集客には良いかもしれませんが、面倒くさいことです。かといって、本当の本当にに適応の諸相を詳らかにするとなれば、いじめ未満の鍔迫り合いとか、空気を誤作動させる方法論とか、読者に高いリテラシーを要求しなければならない内容にならざるを得ません。そういった面倒をおしてまで適応の諸相をブログで公開することには、いまだ抵抗があります。
 
 もし、どうしても適応の諸相をつまびらかにするとしたら、noteを使って、ふっかけた課金設定にして、あえて退屈な総論あたりから書き始めて、簡単には読めないようにしておくつもりです。
 
 他方、どんどん最新パッチがあてられて更新されていく現代社会の変化については、考え始めて日が浅く、自分の考えだけでは到底支えきれません。私が見ている社会のダイナミズムを記述するためにも、どうしても先人の教えを借りなければなりません。だから最近は本ばかり読んでいます。こういうことも10年前はあまりやっていなかったわけですから、これも、本来のシロクマではないムーヴとうつるかもしれませんね。
 
 でも、私はもっと社会適応のことをよく知りたいし、もっとよく記したい。この願望じたいはウェブサイト時代からずっと続いているもので、そうやって社会適応を知りたがる性質の背景には、かつて私が社会適応できずに敗れた歴史と、だからこそ社会適応などという、できる人には空気を呼吸するのに等しいイシューについて考えざるを得ないニーズがあるのでしょう。まあでも動機なんてなんでもいいのですが。
 
 社会適応に関心があり、その結果として社会にも関心がある、という基本路線はたぶん十年前のシロクマの屑籠も現在のシロクマの屑籠も変わりませんが、取り扱っているサブテーマが以前とはちょっと違ってきているので、常連の方にはちょっとした違和感になっているかもしれません。
 
 なんにせよ、これからも私は私が見ている風景やメカニズムを、考え続け、記し続けるつもりです。
 
 このようなとっ散らかったブログですが、それでもよろしければ、今後ともどうかご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
 

「俺らが生きづらい社会」は「あいつらが生きやすい社会」

 
 


 
 このtwitterの文章を読み、「世の中ってそんなものだよね」と思いつつ、社会の変化に思いを馳せた。
 
 この文字列から、私は二つの連想をせずにいられない。
 
 まず、小さな問題として、日本をはじめとする先進国で起こっている混乱。
 
 少子高齢化と経済的停滞の続く日本はもちろん、アメリカはアメリカで、ヨーロッパはヨーロッパで、現代の社会問題にのたうち回り、その解決の目処は見えない。
 
 他方で、途上国と呼ばれていた国々の所得は向上し、生活水準も良くなっているという。
 
 私は少し悲観的に考える癖があるので、資本主義的な豊かさが国単位で安定するためには、本国と植民地、先進国と途上国のような政治的・経済的勾配が必要だと疑っている。地球がフラット化すれば、往年の欧米諸国のような、国単位の豊かさは成立しなくなると心のどこかで思っているふしもある。
 
 日本の20世紀後半の豊かさにしても、戦前は欧米列強の末端に食いつき、戦後もそのアドバンテージを生かして成立したもので、たとえば東南アジアの国々がこれからもっと豊かになるとしても、日本のような国単位で先進国然とした仕上がりにできあがるとはあまり思っていない。
 
 私が日本が先進国然としているとみなすのは、東京が素晴らしく発展しているからではなく、地方の田園地帯や半島部にさえユニクロや大手コンビニチェーンが進出している点、東京と同じ言葉で比較的近い文化が消費されている点だ。バンコクなどと同様、東京はたいがい地方から血を吸い上げて繁栄しているが、とはいえ地方にもそれなり豊かさが分配されている。
 
 話が逸れたのでもとに戻ろう。
 
 その先進国たりえた日本では「どんどん世の中は悪くなっている」。
 
 その悪くなっていると感じる理由のある部分は、国内の失政(=制度疲労と国民の判断ミス)に由来すると同時に、地球温暖化のような世界レベルの問題に由来する部分もあるだろう。
 
 だがそれだけではなく、地球がフラット化し、先進国側のアドバンテージが途上国の猛追によって失われたことに由来する部分もあろうし、それが、20世紀後半に成立した「日本スゴイ」的な自尊感情をも喪失させてしまったのだろう。
 
 いつまでも日本が世界第二位の経済大国のままで、アジア唯一の先進国だったなら、本国と植民地、先進国と途上国のような勾配が続いて、人々の生活は豊かなままだったかもしれない。そして「日本スゴイ」的な自尊感情に溺れたままであれば、「どんどん世の中は悪くなっている」という気持ちは現実の2020年に比べて軽いものになっていただろう。
 
 国や国民といった垣根を越えて考えるなら、たぶん、「どんどん世の中は悪くなっている」と考えるべきではなく「フラット化によって途上国の人々がどんどん豊かになって、世の中はどんどん良くなっている」と考えるべきなのだろう。そしてグローバルに働き、グローバルに考えることのできる人々からみれば、国という小さな垣根の内側で「どんどん世の中は悪くなっている」と考える人々は、視野の狭い、愚かな人々のようにうつるのかもしれない。
 
 

どんどん進歩する社会と「どんどん世の中は悪くなる」

 
 もうひとつ、もっと私の関心領域に近い「どんどん世の中は悪くなる」について記そう。
 
 ここ数十年の間に、日本社会はいろいろな意味で進歩した。
 
 1970~90年代に比べると、東京をはじめ、都市の街並みは美しくなり、人々は行儀良く、清潔になった。20世紀の日本人は今よりもずっと粗暴で、もっとカジュアルに法をはみ出していて、それらが当たり前のような顔をしていた。成人が犯罪を犯す率も、未成年のうちに補導される率も、今よりずっと多かった。
  
 仕事や生活の面でも、私達はまぎれもなく、大きく進歩している。業務は効率的になり、飲食店の店員はテキパキ働くようになった。昭和時代の人々はもっと非効率に働いていたし、もっと業務の質にムラがあった。医療機関や役所や警察の窓口で横柄な態度に出会うことも多かったと記憶している。情報環境という点でも、インターネットの普及によっていろいろな事が変わった。
 
 だが、こうした進歩の恩恵を皆が一律に受け取ったのだろうか。
 私はそうは思わない。
 
  


 
 たとえば、境界知能と呼ばれる人々がいる。知的障害と診断されるほど認知機能が低いわけでもないが、平均に比べれば低めと測定される人々だ。境界知能は知的障害と診断されないため、これ単体では障害者として援助の対象とみなされることはない。もちろん、なんらかの精神障害等に罹患し、医療機関で認知機能を測定してみた際に境界知能に該当した、という事例じたいは無数に存在するのだが。
 
 では、この進歩した社会は、この境界知能に当てはまる人々を生きやすくしているのか。
 
 彼らとてコンビニや市役所や警察窓口などを利用しているわけだから、便利で効率的になった社会の恩恵は受けている、と言える。だが、どこでも便利で効率的なサービスを受けられる社会になったということは、働く際には便利で効率的にサービスを提供しなければならない、ということもでもある。
 
 そして第一次産業から第三次産業まで、少なくない仕事がテクノロジーによって代替されるか、ホワイトカラー的な業務内容へと変わっていった。愚直に肉体さえ動かしていれば一人前の給料を貰える、という仕事がいまどきいったいどれぐらいあるだろうか?
 
 「コンビニのレジ打ちなんて、誰にでもできる」などと嘯いている人もいるようだが、コンビニのレジ打ちは単純作業ではなく、オペレーションである。昭和時代の仕事の多くは、複雑なものであれオペレーションではなかったが、令和時代の仕事の多くは、単純にみえるものでもオペレーションと呼ぶに値する様式になっている。
 
 業務に知的な柔軟さやコミュニケーション能力が期待されるようになったのはもちろん、行儀良く・効率的に・むらなく・安全に・確実にオペレーションをこなせる素養が求められるようになった。
 
 こうした職務の変化に苦もなくついていける人にとって、こうした職務の変化から得られるのは恩恵だけである。自分にとっての当たり前が世の中の常識になっていくわけだから「世の中はどんどん良くなっていく」と感じるだろう。しかし、こうした職務の変化から篩い落とされる人、昭和時代には正社員になれただろうけれど、令和時代には正社員に到底なれそうにない人からみれば「世の中はどんどん悪くなっている」と感じるほかないし、世の中から自分は取り残されているという疎外感は不可避だろう。
 
 こうした、「どんどん進歩していく世の中」からの疎外が、就労の世界だけでなく、たぶん、あらゆる領域で起こっている。
 
 日常生活においては、清潔で臭わない生活が進歩的な生活習慣から、できて当たり前の生活習慣へと変化した。いまどきは、臭わない生活を「できて当たり前っしょ」と思っている人のほうが多数派だろう。清潔や消臭ができて当たり前の社会へと進歩したことによって、何らかの理由や事情によって不清潔だったり臭ったりする人は、当たり前のことができない人とみなされるようになった。
 
 インターネットやスマホによる情報革命にしてもそうだ。
 情報リテラシーや金融リテラシーに優れた人々にとって、情報革命はチャンスの拡大であり、「世の中が良くなっている」と感じるための好材料とみなされることだろう。だが、情報リテラシーや金融リテラシーを身に付けることの難しい人々――それこそ、たとえば境界知能の人々――にとって、情報革命は手に負えないリスクや搾取となって立ちはだかる。
 
 令和時代の情報環境のなかで、いったい誰が巨大企業に最もひどく搾取され、いったい誰がネット山師たちの好餌とされているのか。誰がヘイトスピーチを振り回しているつもりでヘイトスピーチに振り回されているのか。
 
 進歩についていけない人々は、今日の情報環境のなかで何重にも搾取されて、何重にも損をしている。アマゾンや楽天では便利なサービスを受けているかもしれないし、ソーシャルゲームでは無料でガチャを回して喜んでいるかもしれないが、それでもトータルとしてみれば、進歩と自分自身とのギャップの程度のぶんだけ、搾取されたり損をしたりしているはずである。
 
 いっぽう、進歩についていける人は進歩の恩恵にあずかり、チャンスをものにする。インターネットに搾取される以上に、インターネットで利益や機会を掴んでいく。
 
 誰もが効率的にオペレーションをこなし、誰もが清潔で臭わず、ますます高度化していく情報環境のもとでは、それらについていけない少なくない人々がますます生きづらくなり、疎外されるとともに、そこにぴったりと適応できる人々はますます大きな便益を享受し続ける。
 
 かろうじて医療や福祉がこの図式を緩和していて、たとえば「大人の発達障害」という概念によって援助される人も増えてはいるけれども、医療や福祉にはこの図式を解消するほどの力は無い。
 
 

「どんどん良くなっている」人に「どんどん悪くなっている」人の気持ちはわかるのか

 
 だから、この進歩に対する肌感覚は大きく2つに分かれると思うのだ。
 
 「世の中はどんどん悪くなっている」と感じる人々と「世の中はどんどん良くなっている」と感じる人々に。
 
 あるいは「世の中はどんどん生きづらくなっている」と感じる人々と「世の中はどんどん生きやすくなっている」と感じる人々に。
 
 たとえば清潔な身なりと規則正しい生活を当然のものとし、高度な情報リテラシーと金融リテラシーを持ち、グローバルに開かれた生活をしている人々が「世の中はどんどん悪くなっている」と感じるのは難しいことではないだろうか。
 
 そういう人は、「えっ? なに? 世の中便利になってチャンスもどんどん増えてるでしょ?」で考えるのを止めてしまったほうが適応的だ。そこで考えるのをやめてしまえば葛藤も抱えずに済むし、罪悪感を覚えることもなくなる。
 
 逆に、進歩から置き去りにされ、「世の中はどんどん悪くなっている」「世の中はどんどん生きづらくなっている」と直観している人々には、世の中がどんどん良くなっていると感じる機会は少ない。コンビニや警察窓口では昭和時代より丁寧に対応してもらえるかもしれないし、ソーシャルゲームでは無料ガチャを回させてもらえるかもしれないが、生活が上向いている実感はあるまい。それでもメディアで発信力を誇っているのは進歩的な人々とそのメンションだから、自分たちが進歩に乗れていないにもかかわらず、自分たちを篩い落としていく進歩に乗れている人々が現に存在し、チャンスをものにしているらしいことは伝わってくる。
 
 こうした疎外感が、進歩のど真ん中で、当たり前のように適応している人にどこまで想像可能だろうか。
 
 

「進歩は、これからもあなたの味方をしてくれますか?」

 
 テクノロジーや文化という点では、私達は間違いなく進歩し続けている。
 
 だが、進歩によって専ら便益やチャンスを獲得している人もいれば、進歩によって疎外されている人、進歩に置いていかれている人もいる。たぶん、これからまさに進歩によって疎外され、置いていかれようとしている人もいるだろう。
 
 私がこれを書いているのは、私がある面では進歩に適応的だが、別の幾つかの面では進歩に疎外されていて、いまにも進歩に取り残されようとしていると直観が働き、脳内の警告ランプが点灯しているからだ。進歩は私たちをますます便利に、快適に、効率的にしていくだろう。だが、その便利さ、快適さ、効率性に、私はどこまでついていけるだろうか。 そしてあなたは? 
 
 「社会の進歩は、必ずみんなの味方をしてくれる」という考えに、いまどき一体どれぐらいの割合の人が同意できるものだろう? 少なくとも私には、それが条件付きのもののように思われてならない。
 
 
 

ブロガー“コンビニ店長”の脈拍について

 
anond.hatelabo.jp
 
 今回もブログを消してしまわれたのですね、店長。
 
 私をはじめ、多くの人が店長の文章、文体、店長が観た世界を楽しみにしていることでしょう。いつか再会できる日をお待ちしています。ブロガーやライターはいくらでもいるけれども、あなたと同じように世界を観て、あなたと同じように文章を綴る者はどこにもいません。もともと、ある段階を越えたブロガーは全員がオンリーワン(だからといってお金になるとは言っていない)ですが、店長の場合、店長の世界観と文体と嗜好が組み合わさってまさにオンリーワンというほかありませんでした。
 
 ちなみに、ご存じないかと思いますが、私も参加しているbooks&apps主宰の安達さんは店長のブログの愛読者で、本当はbooks&appsに誘いたかったみたいです。連絡手段が無く、おそらく店長もそれを望んでいなかったでしょうけれども。
 
 その安達さんが「webで稼げるライター」という商用文章をnoteで公開されたそうです。
 
 「webで稼げるライター」の条件とは。|安達裕哉|note
 
 正直、私自身は「webで稼げるライター」の条件がどういうものかわかっていないし、有料パートも読んでいません。ただ、books&appsに集まっているブロガーやライターに共通していそうな性質を私なりに想定すると、
 
 

 ・世の中を自分という名のフィルターごしに眺められること。
 ・つまり書き手自身の世界観で世の中を見ることができていること。
 ・その自分という名のフィルターは世間一般からズレている部分を含んでいること。
 ・さりとて、世間からズレすぎて余人の理解が及ばないほどではないこと
 ・自分の世界観を読ませるのに適した文体や知識を身に付けていること

 
 たぶん、このあたりが「面白がられやすいブロガーやライター」なのでしょう。繰り返しますが、これが「webで稼げるライター」とイコールなのかは私にはわかりません、が、長く面白がられるブロガーやライターたるもの、これらの条件は満たしているように思われ、そして店長、あなたは間違いなくこれらの条件を満たしていました。
 
 コンビニのこと、エロゲのこと、世間のことを書ける人はたくさんいても、店長のように書ける人は世の中にはいないのです。はてなダイアリー~はてなブログの時代、店長のブログは大変に人を集めていましたが、それは店長のように世の中を観て店長のような文体でそれを記述できる人間がどこにもいなかったからにほかなりません。
 
 人というのは誰しも替わりのきくものではありませんが、「コンビニ店長」の場合は特に、その傾向が強かったように私は思っています。
 
 だからブログではなく匿名ダイアリーでも構いませんので、いつか再び店長の文章に出会える日を楽しみにしています。これから述べるような懸念はあるにせよ、きっと店長は文章をオンライン上に投稿すると、私は信じて疑いません。
 
 店長への個人的な私信はここまでです。
 
 

店長の“脈拍”

 
 ここからは考察みたいなものなので、「ですます調」から「だ・である調」に改めることにする。
 
 コンビニ店長のはてなでの活動は、00年代まで遡ることができ、はてなダイアリー時代後期にはnakamurabashiというidで活躍していた。このidの『G.A.W』というブログは大変な人気で、fromdusktildawnさんやちきりんさんのブログと並んで、00年代後半のはてなダイアリーを代表するブログだったと個人的には思っている。
 
 冒頭リンク先でも記されているように、店長は、ある特定周期で自分が書いたオンライン上のアーカイブをすべて決してしまう性質がある。店長は10年代前半にはlkhjkljkljdkljlというidで、今度ははてなブログをスタートしていて、独特の世界観を自分自身の文体で綴るスタイルによって『24時間残念営業』はたちまち人気ブログになった。けれども人気が出過ぎてアンチまで沸いてしまうなか、予想どおりというか、ブログは畳まれてしまった。
 
 でもって、今回である。
 
 今回は10年代後半からertedsfdsddtyというidで、『隠居』というはてなブログを開設していた。これまでと違って、不特定多数の目を惹き付けるような内容はあまり記さず、読みにくいレトロなフォントを選んでいるあたりにコンビニ店長の気持ちが現れているように思われた。だからなのか、これが店長のはてなブログだと気付いている人も、あまり拡散させないよう注意しながら眺めていた。『G.A.W』と『24時間残念営業』がその人気の絶頂のうちに全消しされた過去を、ファンは皆、心得ていたのだろう。
 
 ではなぜ、店長は今回ブログを消さなければならなかったのか。
 
 店長は、冒頭リンク先のなかで
 
 

 アカウント消す系のやつはけっこう昔から頻繁にやってて、そのうちのかなりの比率はパスワード忘れた系のやつなのだが、そうでない場合は、今回と似たような軽めの自殺的な意味合いが強かったらしいことを理解した。昔からそうなのだが、読まれたいという気分は人一倍強いくせに、実際に読む人が出現すると、とつぜん逃げ出したくなる。その矛盾のなかで、それでも読まれるとうれしいというほうが強かったから、今日までいろいろ書いてきた。とはいえ、ここ数ヶ月は「だれかが自分の存在を知っている」と思うだけでもう無理、という気分が強い。この気分は強くなる一方で、改善する余地がまずなさそうである。反対に書いたものをだれかに読まれたいという欲望はどんどん薄くなる一方だ。

 
 と書いているが、私はこれを65%ぐらいしか信用していない。
 
 いや、私が見つめている店長の振る舞いと、店長自身の自己認識の間にギャップが存在するように思われる、と表現すべきだろうか。 
 
 「店長がブログのアカウント(id)を消すのは読者から逃げ出したくなる時」というのは、はてなの三つのブログの全消去に共通している。だからこれは間違っていないように思う。ストレス対処行動としてブログを消す、という性質も実際あるのだろう。
 
 ただ、今回のブログ全消しの場合、「読者に読まれるプレッシャー」は非常に低いものだったはずである。なぜなら『隠居』を知っている読者は拡散し過ぎないよう注意を払っていたと思われるし、実際、『隠居』の読者数は人気ブログ時代と比較にならないほど少なかったからだ。
 
 だから今回のブログ全消しは、「読者に読まれるプレッシャー」に由来するウエイトは今までよりもずっと低かった。そうでないプレッシャーなりストレスが占める割合のほうがずっと高いと想定される。
 
 店長は、コンビニで働くことの限界や身体的異変のことを書いている。これらが今までになかった心境を店長にもたらしている可能性は、高そうにみえる。もちろん、そうしたストレスやプレッシャーや肉体的変化の総和として、なんらかメンタルヘルスの問題を呈している可能性もあるが、それはここで判断できることではない。
 
 とにかく、人気の絶頂期にあったふたつのブログの全消しと、ブロガーとして実質隠居生活をおくっていた今回の全消しは、シチュエーションが全く異なるなかで起こっている点が、一人のファンとしては気になって仕方がない。
 
 ブロガーとしての店長、ひいてはもの書きとしての店長は、単に精神的にだけでなく、肉体的な部分も含めて、注意すべき臨界点を迎えているのではないか。
 
 私はこれを店長の現状を懸念して考えていると同時に、店長より年下の一人のブロガーとして、自分の行く未来を覗き見るような気持ちで考えている。ブログに限らず、若いうちは生命に勢いがあり、未来の展望も広く、隙間時間に閃いた思考を転写するだけでそのままブログ記事ができる。少なくとも私はそうだったし、たぶん店長もそうだっただろう。
 
 だが、現在の私はそうはいかない。隙間時間に閃いた思考をブログ記事に転写するのに時間がかかってしまう。私の同年代のはてなブロガーであるフミコフミオさんは、今でも「所要時間○○分」などと書いておられるけれども、私の場合、その所要時間がどんどん長くなっている。20分でブログを書き上げるだけの電撃性を私は失いつつある。たぶん、店長もそうだったのではないか*1
 
 そして店長のブログスタイルの場合、そうした瞬間的に思考を文章に転写する電撃性にこそイキがあったと思われ、『隠居』にそうしたスピード感があったのかどうか、それが思い出せないのである。
 
 はてな匿名ダイアリーに記された冒頭の文章は、それこそ所要時間○○分といった手早い仕事ではないかと私は推測している。誰かに手紙を書くのは不特定多数にブログ記事を書くよりも簡単で、匿名ダイアリーなら読者プレッシャーも最小化できるから。
 
 しかしもし、店長が着想を電撃的にブログ記事に転写する素早さを失い、諸事情により読者プレッシャーにも耐えられなくなっているとしたら、今後、匿名ダイアリーでしか店長の文章は読めない、ということになる。
 
 それもきわめて低頻度に。

 個人的にはそれは寂しい。だが今日までの店長の行動傾向や発言を思い出すと、「かつてのように健筆をふるい続けるブロガーとしてのコンビニ店長」という近未来を想像するのは、簡単ではない。twitterならできるかもしれないが、ブログのような長文はどうか。隙間時間に駅そばをつくるようにブログ記事を仕上げるためには、一定以上の肉体的・精神的な若さや心の余裕が必要ではないだろうか。
 
 できればこんな予測は外れて欲しい。というか外れろ。中年期の向こう側にあるブログライフを見せてくださいよ、店長。
 
 
 
 
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*1:いや、たぶんそれだけでなく、店長は電撃的に書き上げてしまうブログスタイルが現在のブログスタイルの主流ではなくなっているということも薄々勘付いていたのではないか、とも思う。少なくとも私は、今日の傾向をそのように眺めている