シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

で、あなたは「本当に自分の好きなこと」を知ってるの?

 
いつの間にか「好きなことをしていい」時代から、「好きなことをしないと豊かになれない」時代に変わった。 | Books&Apps
 
 リンク先の文章は、「好きなことをしないと豊かになれない時代」の到来を告げる内容となっている。
 
 ちょっと前まで、「みんな自由に仕事が選べるようになって」「好きな仕事を好きなように」「あなたのライフスタイルにあわせて働く」ことが持て囃されていた時期があったように思う。ひょっとしたら今でも持て囃されているかもしれない。
 
 それは決して短期的な流行ではなく、バブル景気の前、それこそ「フリーター」がブームになっていた頃からそうだった。バブル景気が終わってもなお、「好きな仕事を好きなように」は流行のフレーズで、個人主義社会の正しさにかなったフレーズでもあった。「好きじゃない事をするのは格好悪い」みたいな物言いをする人は、現在でもインターネットにごまんといる。
 
 では、そうやって好きを選んだ人々の末路はどうだったかといえば、たとえばフリーターなどは死屍累々で、生き残ったのは本当に一握りのスーパーマンみたいな人だけだった。
 
 [関連]:結局は9割が大樹に拠った……80年代に「フリーター」を推奨した人々の、その後の人生|日刊サイゾー
 
 
 冒頭リンク先の文章はもっとその先を行っていて、「好きな仕事が良い」ではなく「好きな仕事を見つけて、やらなければならない」という話になっている。やりたくない仕事をやっていては能力が発揮できない。好きな仕事を選んで能力を最大限に発揮させてはじめて、グローバルな社会状況のなかで開花できる、というのはだいたいそのとおりなのだろうと思う。
 
 個人の実存やアイデンティティの問題としてだけでなく、経済的要請から「好きな仕事を選ばなければならない」社会が迫ってきているとしたら、これはもうユートピアというよりディストピアにしか見えないのだが、資本主義にもとづいた個人主義社会が徹底していくこれまでの流れを踏まえるなら、起こってもおかしくなかろうし、現に起こりかけているようにも思う。
 
 こうなると、大学入試や企業の面接試験の際に、「うちの会社(うちの大学)で、あなたはどんなことをしたいですか」という質問も、様式上のものとはいいがたい。自分の好きなことがわかっていて、それが他人を納得させられる程度には言語化・戦略化できているということは、これからの時代、強みたり得るだろう。少なくとも、自分の好きなことがわかっていない人や、自分の好きなことを言語化・戦略化できていない人よりは、強みがあるといえる。
 
 

「本当はみんなわかってないんじゃないの?」

  
 だけど、私は思うのだ。
 
 「でも、世の中の大半の人は『自分の好きな仕事』なんて本当はわかってないんじゃないの?」
 
 たとえば私が中高生だった頃、「自分が将来やりたい仕事」を言語化できている人間はほとんどいなかった。それどころか「自分が好きな遊び」を言語化できる人間すら、あまりいなかったかもしれない。自分の進路の行く先をぼんやりと想像して、目の前にある娯楽をとりあえず楽しむ。学校教師に「将来やりたい仕事」を尋ねられた時、「●●学部に入って××を勉強して、それを生かした仕事に就きたい」などと言ってみるけれども、じゃあ、その学生が●●学部を本当に切望していて、××を本当に勉強したがっているかといったら、そんなことはない。大人が言えというから、無理くりに「自分の好き(仮)」をでっちあげているだけだ。
 
 志を持っている人が入るといわれる医学部でも、それほど状況は違わなかったと思う。学生の多くは、かなり曖昧な動機で医学部に入っていた。もちろん漠然と、社会的地位が欲しい・命を救う仕事に就きたいと語る人はいたけれども、「自分の好きな仕事」にフォーカスが絞れているとはとうてい言えなかった。同期のなかには、後に研究者として頭角を現し、立派に出世した人もいるけれども、じゃあ彼が学生時代から「自分の好きな仕事」をくっきり意識していたかといったら……そんなことはなかったように思う。
 
 社会人になった人々にしても、大半は「自分の好きな仕事」、あるいは「自分の好きな生き方」がわかっていないし、意識もできていないのではないだろうか。
 
 上手く働き、上手く結婚し、上手く子育てしている人ですら、それがしたくて仕方が無かったという人がいったいどれぐらいいるだろう? 都内の優良企業でまともな報酬をもらい、帰宅すれば一人の母として、あるいは父としての役割をそつなくこなし、そこそこ幸せに暮らしている人ですら、それを心底望んで「好きだから」生きてきた人はけして多くないのではないかと思う。ほとんど成り行きで就職し、ほとんど成り行きで与えられた仕事をこなし、気が付いたらなんとなく幸せになっていた(または、不幸になっていた)という人が、世の中の構成員の大多数を占めているのではないか。
 
 

「自分の好き」がオーラになって見える人もいる

 
 他方で、「自分の好きな仕事」がオーラのように立ち昇って見える人というのも、少数、いる。
 
 起業する人。
 コンテンツづくりに携わっている人。
 あと、一部の研究者。
 
 このあたりの職種には、「自分の好きな仕事」を全身からほとばしらせて働いている人が結構いるように思う。その「自分の好きな仕事」のかたちは様々で、「醸造に関係のある仕事がしたい」「SFに関係のある仕事がしたい」といった場合もあれば、「とにかく自分の力でカネをもうけたい」みたいな場合もある。ただ、とにかくそれが好きで好きでたまらなくて、一途に取り組みたいという意欲がオーラとなってメラメラ漂っているから、遠目にもよくわかる。
 
 趣味の世界には、これはもっと多い。
 たとえば同人誌即売会に出て来るオタク、特に自分で何かを作り、頒布したいと思っているようなオタクからは、少なくとも趣味に対するひたむきな「好き」が感じられる。好きで好きでしようがないがゆえにコンテンツを楽しみ、自分なりに咀嚼して、自分の思うようなかたちでその「好き」を他の人と共有したいという強い思いが、同人誌即売会に出てくるオタクからは滲み出ている。
 
 ネットでコンテンツを発表し続けている人にしてもそうだ。「あっこいつどうしようもなく『好き』なんだな」という人は、傍目にも明らかだ。インフルエンサーの猿真似をして、それを「自分の好きな仕事」だと勘違いして、半年後にはやめてしまう人々とは言動の質感がまったく違う。
 
 こうした人々が社会的/経済的に成功するためにはもちろん「好き」だけでは到底駄目で、才能や需要を読む目、セルフマネジメント能力、運、運、それと体力、悪くない実家などが必要だろう。いずれにせよ、「好き」というオーラを漂わせている人が実在しているのは確かで、そうした人々から各方面をリードする人材が輩出されることもあるだろう。
 
 

「自分の好きなこと」は、現れることも、現れないこともある

 
 じゃあ、どうすれば「自分の好きなこと」がオーラとなってくっきり現れるのか?
 
 わからない。
 
 私が見知っている範囲では、「自分の好きなこと」が子ども時代から発露している人は少数のようにみえる。子ども時代に好んでやっていたことが、実は誰かに褒められるためのもので、本当に好きだったのは自分自身だけだった、という人も案外いる。こういう人が大成している例を、私はまだ知らない。
 
 思春期。この段階でもまだ、自分の好きなことがくっきり現れない人は多い。オタクのなかには思春期で十分に開眼し、ネットやイベントで頭角を現し始める人もいるけれども、こと、仕事の分野となると二十代の前半でも「自分の好きなこと」がぜんぜん現れない人は多い。
 
 そして中年期にもなれば、「自分の好きなこと」がくっきり現れた比較的少数の人と、そういったものが現れない比較的多数の人に分かれてしまう。
 
 繁華街で快活に酒を飲みかわすサラリーマンたちにしても、彼らは「自分の好きな仕事」をやっていると言えるだろうか。「自分の仕事も満更ではない」人なら、結構いるんじゃないかと思う。自分自身を仕事のほうへと寄せて、仕事も自分自身の適性や嗜好に引き寄せて、それで「好きとまでは言わないけれど、やり甲斐は感じられる」境遇にたどり着く人はどこの分野にも多い。たぶん、現代社会にうまく適応しているほとんどの男女は、そうやって現実と自分自身との折り合いをつけ、満更ではないアイデンティティを獲得して生きていく。少なくともこれまではそれで構わなかったし、私個人としては、これからもそれで構わない時代が続いて欲しい、と思う。
 
 だがもし、冒頭で安達さんが述べていたように「自分の好きな仕事」を見つけなければならない必然性が高まっていくとしたら、これは、えらいことだと思う。なぜなら、そんな風に「自分の好きな仕事」を見つけられる人は少数派で、なおかつ才能や運やマーケティング能力や実家の太さによってそれを実現できる人はさらに少数だからだ。
 
 「好きなことをしなければ豊かになれない」近未来とは、自分の好きな仕事を(自身の適性も込みで)見つけられ、なおかつそれを実現できるごく少数だけが豊かになれる、そうでない大多数は豊かさから遠ざけられる近未来だと、私は思う。
 
 そういう未来がやってきた時、才能や運やマーケティング能力や実家の太さに優れた人々が「自分の好きな仕事」で大活躍し、残りの大半が「自分の好きな仕事」はおろか、現実と自分自身の折り合いをつけることすら難しい、アイデンティティの獲得も困難な仕事へと追いやられるような世の中になったら……社会は、今よりもずっとたくさんの疎外に覆われることになるだろう。
 
 リンク先の安達さんも、そのような未来がやってきたら、うまく適応できない人もたくさん出て来るだろう、と予測しているが、同感だ。
 
 たいていの人は、そんなに「自分の好きなこと」をきちんとわかっていなくて、なんとなくお金が多いほうへ、なんとなく世間体の良いほうへ、なんとなく楽しそうで苦しくなさそうなほうへと流されて生きている。だから「自分の好きなこと」、まして「自分の好きな仕事」がわかっていなければならない社会なんて、ごく少数を圧倒的に利すると同時に大多数を疎外するに違いないのである──少なくとも私には、そんな風にみえる。
 
 「自分の好き」をそれほど自覚していない・自覚することもできない大半の人々が豊かさから遠ざけられる社会がやって来るとしたら、それは社会の進歩ではなく退歩ではないだろうか。私の価値基準のなかでは、どんなにテクノロジーが進歩しても、どんなに利便性が高まっても、なんとなく生きてなんとなく死ぬ人が疎外に苦しむほかない社会は、良い社会とは言えない。
 
 「あなたの好きな仕事をすればいい」「自由に好きなことをやればいい」という謳い文句は、少なくともある時期まで、たくさんの人々の自由度を高め、たくさんの人々の幸福の幅を広げてきたはずである。
 
 だが、いつまでもそうだろうか。
 
 現実の世の中には、なんとなく生きて現実と折り合いをつけてうまくやっている人がたくさんいる。他人やメディアが提示した生き方やワークスタイルを自分の願望だと思い込むしかない人もたくさんいる。本当に自分の好きなことを、自分自身の適性も踏まえて選び取ってみせられる人間なんてほとんどいない事を糊塗したまま、「あなたの好きな仕事をすればいい」「自由に好きなことをやればいい」とますます吹聴する世間のなかで、本当に私たちは、豊かさというやつにたどり着くことができるのだろうか。
 
 たとえばあなたは、「自分の好きなこと」を知っていますか?
 その「自分の好きなこと」で人生をちゃんとナビゲートしていますか?
 言語化・戦略化し、他人に語ってみせることもできますか?
 
 

『天気の子』が照らした、社会システムの内と外

 ※この文章は『天気の子』のネタバレ内容を含みます。映画館でまだご覧になっていない人はご注意ください。
 

新海誠監督作品 天気の子 公式ビジュアルガイド

新海誠監督作品 天気の子 公式ビジュアルガイド

 
 新海誠監督の2019年の新作『天気の子』は、賛否があることを承知のうえでつくられた作品と耳にして、とりあえず期待しながら雨の日の映画館に向かった。
 
 なるほど、こういう作品が許せない人はいるに違いない。少なくとも『君の名は。』と比べて賛否のわかれる物語だろう。それだけに、この作品をこういうかたちでリリースしたことに感心した。
 
 意表を突かれた、とも思った。
 あれだけ売れた『君の名は。』の次に、こういう作品をぶつけてくるとは。
 
 なんにしても、『天気の子』を2019年の7月に映画館で見れたのは幸せな巡り合わせだと思ったので、自分の所感を書き残しておく。
 
 

東京のピカピカしていない部分が描かれている

 
 視聴開始数分で気づかされたのは、今回の舞台としての東京は、必ずしもピカピカに描かれていない、ということだった。
 
 行き交う電車やプラットホームを映し出すのはいつものこととして、今回は東京のあまり美しいとは言えない景観――それはどぎついネオンの繁華街だったり、身よりのはっきりしない者を野良犬のように敬遠する人々だったり、ラブホテル街だったりする――をどぎついままに描き出していた。『君の名は。』が東京や飛騨を、少なくとも景観レベルではひたすら美しく描いていたのに対し、『天気の子』は東京のピカピカしていない部分を意識的に描いていたように思う。
 
 だから今作の東京は、観光パンフレットみたいな雰囲気にはなっていない。
 
 では東京の、どぎつく、ときには汚く描かれていた景観は悪いものとして描かれていたのか?
 
 必ずしもそうではない、と思った。
 
 家出少年の帆高が上京してきた時、さしあたって命を繋いだのは、まさに汚く描かれる東京だった。陽菜たちとの逃避行で彼らが一息ついたのもラブホテルだった。
 
 もちろん汚く描かれた東京は、未成年者の彼らを綺麗な手で受け止めるわけではない。ネカフェの店員は嫌々応対していたし、ラブホテルの婆さんは高い料金を取っていた。帆高を受け入れた(中年サイドの主人公ともいえる)須賀にしても、未成年を日当一月3000円でこき使っていたわけで、どぎつく描かれた東京の生態系は容赦がない。
 
 中学生であるとバレて仕事を失い、売春に走りかけていた陽菜を未成年と察しながらあっせんしていた男も、陽菜を助けていたと言えるだろうか。そうではあるまい。
 
 主題歌のひとつも流れない間に、東京のそういった圏域が矢継ぎ早に描かれ、この作品の主人公とヒロインがそうした圏域のきわで生きていることを私は強く意識させられた。いったいこれから何が描かれるのだろう? と思わずにはいられなかった。
 
 
 

彼らは社会システムのなかの邪魔者だった

 
 家出してきた帆高には、まず東京は恐ろしい街・冷たい街としてうつる。
 
 『君の名は。』で美しく描かれた東京、華やいだ街として描かれた東京は、いったい誰にとって美しく住みやすい街だっただろう?
 
 『天気の子』を見ると、どうしてもそれを考えさせられる。
 
 人々の安全を守り、街の景観を守り、健全な青少年の成長を守る東京の社会システムは、社会システムの内側で暮らす者・社会システムの内側で身分を証明されている者のために最適化されている。そこから外れた人間の都合なんて、社会システムは考えてくれない。社会システムの内側で暮らすことが当たり前になっている人々にとって、そこから外れた人間はただ存在するだけでリスクであり、ただ存在するだけで迷惑な存在でもある。
 
 それもわからなくもない。現代社会の利便性や快適さは、高度なテクノロジーだけでなく、人々の遵法意識やリテラシーも含めた、社会システム全般によって成り立っているのだから。もし、社会システムから逸脱した人間がたくさん存在していては、東京のようなメガロポリスはたちまち機能不全になってしまうだろう*1
 
 そして帆高は家出少年として、陽菜は保護者不在で自活する未成年者として、社会システムからはみ出してしまっている。この作品の主人公とヒロインは「逸脱者」なのだ。
 
 この、美しくて快適な東京の秩序のなかでは、明確な犯罪者だけが「逸脱者」なのではない。身元の保証されていない未成年もまた「逸脱者」である。
 
 帆高に手をさしのべた須賀にしても、そうした社会システム全体のなかでは、相対的に「逸脱者」に近い、うさんくさい仕事をしている大人だった。須賀が未成年を低賃金で働かせることができたのは、彼の意識も職場も社会システムの中枢*2からは遠い、辺縁的なものだったからだ――そう解釈するなら、須賀のような男のもとで帆高が住み込むことにも整合性が生まれるように思う。
 
 陽菜たちが始めたお天気サービスにしても、それが成功裡に進んだのは社会システムの辺縁(フリーマーケットや家族のため)に位置づけられているうちだけで、テレビという、社会システムの中枢に映ってしまえばその力は失われてしまう。作中では、テレビに映ったから帆高と陽菜が「自主的に」サービスを止めたことになっているが、もともと「逸脱者」やうさんくさい仕事の領域には、社会システムの中枢に映ってしまうと力を失うものも多い。
 
 たとえば『ムー』のようなオカルト雑誌にしても、それが社会システムの辺縁にあるから存在を許され、『ムー』としてのプレゼンスを保っていられるのであって、『ムー』が社会システムの中枢に移動してしまえばプレゼンスを保てなくなり、存在じたいも許されなくなる。
 
 物語の後半、帆高は警察に追われることとなり、須賀のもとにも警察官が訪れる。須賀はここで、事務所から出て行くよう帆高に告げるが、はたして、あの時須賀が口にした「大人になれ」という言葉は誰に対してのものだったのだろう? ともあれあのシーンは、須賀という人物がどの程度社会システムから逸脱していて、どの程度社会システムの内枠におさまっているのかをわかりやすく説明していたと思う。多少の逸脱があるとはいえ、須賀もまた、東京という社会システムのメンバーには違いないのである。
 
 『天気の子』という作品の後半では、帆高は陽菜を取り戻すためにますます逸脱を余儀なくされ、最終的に須賀と夏美は、ためらいはあったにせよ、それに手を貸すことになる。社会システムの遵守という視点からみると、須賀と夏美がやったことは逸脱に違いなく、この作品の後半は、そうした逸脱によって支えられていたことになる。
 
 ここまでブログに書いてから『天気の子』の劇場パンフレットを読んでみると、はたして、以下のような新海誠監督のコメントが記されていた。
 

 悩みに悩んで最後に思い至ったのは、狂っていくのは須賀ではなく、帆高なんじゃないかということ。客観的に見て、おかしなことをしているのは実は帆高のほうなんじゃないか。それに帆高と須賀を対立させるとなると、須賀も空の上の世界を信じてなければいけないことになってしまう。でもそれはどうも違う。なぜなら、須賀はアウトローだけど観客の代弁者でもあるからです。須賀はむしろ常識人で、世間や観客の代弁者でもあって、社会常識に則って帆高を止めようとはするけれど、最後はやっぱり味方なんだということにしたんです。帆高と真に対立する価値観があるんだとしたら、それは社会の常識や最大多数の幸福なんじゃないか。結局この物語は、帆高と社会全体が対立する話なのではないか、それに気付けたことが、今回の物語制作でのいちばんのブレイクスルーだった気がします。

 
 この作品のなかで、帆高は徹頭徹尾社会システムの外側にいて、疎外されていて、そんな帆高に手をさしのべられた大人は、社会システムの辺縁に位置し、いくらか逸脱気味な須賀だった。現代の社会システムは、そのリスク管理の思想からいっても、最大多数の幸福に寄与するようにつくられている。陽菜のために逸脱を辞さない帆高はともかく、須賀には逸脱に対するためらいがあった。観客の代弁者という役回りの須賀がそのようにためらい、最後の最後に帆高の味方をしたのは、私にはカタルシスのある視聴体験だった。
 
 だが、私は想像せずにはいられない。
 
 私にはカタルシスの感じられる須賀の行動を、許しがたく感じる人や苛立たしく感じる人がいるであろうことを。なにしろそれは社会システムの秩序からの逸脱、それも、未成年の逸脱を助長する逸脱なのである。社会システムの中枢付近に住み、その価値観を私よりもずっと内面化している人々には、こうした描写は受け入れがたいものではないだろうか――どぎつく汚い東京の景観や、社会システムの辺縁に住まう人々の描写とともに。
 
 
 

異常気象・逸脱者・リスク管理

 
 帆高や陽菜といった社会システムからの逸脱者たちとおそらく対応するように、『天気の子』では天気が「異常気象」としてたびたび描かれる。
 
 気象神社の神主が述べていたように、天気とは、本来人間の手に負えるものではなかった。けっして人間の社会システムによって管理できる代物ではなかったはずである。
 
 だが科学技術が発達し、天気予報を日常の一部とすることで、私達は天気を飼い慣らした……かのように感じている。人類はいまだ天気を自由にコントロールするすべを持っていないが、天気予報というテクノロジーにより、天気というリスクを、管理することはできるようになった。
 
 あたかも、突発的な犯罪事件の発生じたいはコントロールできなくとも、統計的に犯罪発生率を計算・分析し、犯罪発生リスクを管理することができるのと同じように。
 
 現代の社会システムは、こうしたリスク管理というテクノロジー(と思想)に多くのことを依っている。ひとつひとつの突発的事件・突発的災害じたいは、リスク管理のテクノロジーで防ぐことはできない。しかしリスク管理をとおしてその発生確率を抑えたり被害の程度を軽くしたりすることはできる。このテクノロジーの視座からみれば、天気はもう、人類の掌中にあるかのようにみえる。
 
 だが「異常気象」はそこからの逸脱だ。統計的な計算や分析をこえた現象に直面した時、リスク管理のテクノロジーはそれほど上手く機能することができない。そして気象神社の神主が述べたとおり、天気についてのデータはたかだか百年ちょっとしか蓄積していないのである。「異常気象」は狂った天気というけれども、それは、社会システムが既知のデータに基づいて天気のリスクを管理しようとする時に思いつく発想ではないか。
 
 
 ほんらい、天気は人智を超えている。
 少なくとも日本という東アジアの国ではそう考えられていた。
 
 人智を超えた天気をリスク管理しようとするから、安全で快適な社会システムの枠組みのなかで天気を扱おうとするから、「狂った天気」とか「異常気象」といった発想が生まれてくる。
 
 だから、ここでも『天気の子』は既存の社会システムとは相容れないメッセージを放っているように、私には読めた。いや、相容れないメッセージと言っては語弊があるか。帆高や陽菜だけでなく、あの異常気象もまた、社会システムからの逸脱であり、そうした逸脱を織り込み済みで描かれる『天気の子』の結末は、現代社会で支配的な常識や思想とは異なる着地点に辿り着いているのではないか。
 
 
 

単なるラブロマンスでは済まされない結末

 
 もちろんこの『天気の子』も若い男女の物語で、それはそれで美しく描かれていた。この作品はラブロマンスではない、などと言ってしまったらそれはおかしいだろう。『天気の子』の構成要素として、愛だの恋だのの占めるウエイトはけして小さくはなく、RADWIMPSによるエンディングテーマは似つかわしいものだった。
 
 ハッピーエンド、でもあっただろう。
 
 それでも私は、そのラブロマンスの舞台装置のうちに、どうしても社会システムを意識せずにはいられなかった。社会システムの内と外を『天気の子』が描いているように見てしまった。そして物語は終始、社会システムの辺縁で進行し、最後は社会システムと真っ向から対立するような結末が待っていた。まさか、新海誠監督の2019年の新作で社会システムについて連想させられるとは思っていなかったから、私はとてもびっくりした。
 
 断っておくが、だからといって『天気の子』が社会システムを批判したり断罪したりしている、とは私は思わない。
 
 『天気の子』では、豪雨災害に立ち向かう人々の姿や、雨天でも動き続ける交通網も描かれていた。もちろん、社会システムの叡知の象徴である高層ビル群も。水没に瀕した東京で帆高と陽菜が再会できたのも、社会システムがタフに生きながらえていたからにほかならない。
 
 清濁あわさった東京の風景にしても、どれだけシステムの中枢/辺縁に位置するのかはさておき、現代人はシステムに依存せずに生きることなどできっこないのである。
 
 他方で、世界は社会システムの杓子定規どおりにできているわけでない。社会システムから逸脱した圏域にも物語は存在し、逸脱と秩序の隙間にも豊かさはあったはずだし、狂っていると人々が呼び倣っているものも含めて世界は成り立っているはずで、それでも私達は、きっと大丈夫なのである。
 
 これが『天気の子』の模範的な感想とは思えない。が、とにかく私は本作の初見で社会システムの内と外を強く意識させられたので、そのことを覚えておきたいと思った。このようなテイストを2019年の新作に新海誠監督が繰り出してきたことはよく覚えておきたいし、うまく言えないけれども、私は喜んでおきたいと思う。
 
  
 『天気の子』がたくさんの人に見ていただけたらいいなと思う。
 
 
 [関連、その方面の人はこれは目を通しておいたほうがいいと思う]:【ややネタバレ注意】「天気の子」を見てゼロ年代エロゲについて語りだす人々 - Togetter
 [もっとまともな感想]:『天気の子』は何を描いたのか。新海誠監督の決断が予想以上に凄かった理由(作品解説・レビュー) – ウェブランサー

 
 

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

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リスク化される身体 現代医学と統治のテクノロジー

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近代とはいかなる時代か? ─モダニティの帰結─

近代とはいかなる時代か? ─モダニティの帰結─

 
 

*1:後半、運休状態になっている線路をひた走る帆高に投げかけられていた視線や言葉も、それをよく表していた。東京に住まう人々は、社会システムに適合した超自我を内面化していて、そういった行動を良くないものとしてみると同時に、そうした行動を自分自身が取った場合は罪悪感をおぼえることだろう。社会システムから逸脱した行動をとる人間に対する目線の厳しさは、少数の逸脱によって生活が簡単に機能不全に陥りかねない東京のような街に住む人間にとって、それほど不思議なものではない

*2:たとえば丸の内の一部上場企業に勤めるホワイトカラー層や官僚などは、社会システムの中枢に近い意識と就労形態を持っているといえる

それでも私は、「いま」を越えて海王星に辿り着きたい

 

宇宙 (福音館の科学シリーズ)

宇宙 (福音館の科学シリーズ)

 
 
 私は、就学年齢が終わってからの人生は惑星探査機の旅のようなものだと思っている。
 
 惑星探査機がロケットの力を借り、大地を蹴って旅立つ時、打ち上げを見上げる人々には行先がわからない。地球を巡る軌道に乗って人工衛星になるのかもしれないし、水星や太陽、木星や土星を目指して飛んでいくのかもしれない。
 
 だけどロケット打ち上げの時点でどこに向かって飛んでいくのかはある程度決まっているし、いったん目標に向かって飛び始めると、簡単には目標を変えられない。たとえば、火星を周回する軌道に入った惑星探査機が、そこから急に他の惑星を目指そうとしても簡単ではないように。
 
 人生だってそうだ。教師という目標、獣医という目標、Bさんの配偶者という目標を選んだ後、おいそれと他の目標を選ぼうとしても簡単にはかなわないことが多い。あらかじめ次々に転職することを前提としている人なら、仕事という面では融通性が利くかもしれないけれども、それだって加齢というファクターによって次第に選択の余地は狭くなっていく。
 
 そう、人生は惑星探査機、それも太陽系の外に向かって飛んでいく惑星探査機に似ている。加齢によって後戻りが利かなくなる、という意味において。
 
 

もう少しだけ飛んでみたい。そして「海王星」に辿り着きたい

 
kaigo.homes.co.jp
 
 こんな事を書きたくなったのは、上記リンク先「人生のピークを過ぎ、ぼくは「未来のためだけに生きる」のをやめる」を読んだからだ。
 
 リンク先のいぬじんさんは、人生のピークを過ぎた今、輝かしい未来のために現在を犠牲にするような生き方はやめよう、と述べている。
 
 これは、40代も半ばを迎えている私にとって実感の沸く文章だった。もう、それなり自分の伸びしろも見えていて残り時間も計算できてしまう四十代になって、未来のために現在を見失うような生き方はできない。仕事にしろ、子育てにしろ、現在をこそ踏みしめて生きなければならないし、そう生きることに価値がある、と感じている自分がいる。
 
 これが20代~30代の前半だったら、もっと輝かしい未来へ・もっとお金や社会的地位が得られそうな人生へと夢見て、そのために努力する意識が勝ったように思うけれども。
 
 ともあれ私にとって伸び盛りの季節は(たぶん)終わった。宇宙探査機のボイジャー2号に喩えるなら、私はもう、土星や天王星を通過したぐらいの年齢に辿り着いてしまったと思っている。私はインターネットの遊び人精神科医として、自分がやりたかったことを、やるべき年齢の時にやったと思っている。逆に言うと、そこまでやって到達したここらへんが私の器量の輪郭なのだろう。私自身にとっての土星探査や天王星探査に比喩されるミッションをこなしてなお、私はもっと強い光を放つインターネットの偉人たちを越えることはできなかった。もちろんやれるだけのことはやったし、やったという手応えもあるのだけれど。
 
 ボイジャー2号が土星や天王星を探査した後、グルリと向きを変えて太陽を探査することなどできないのと同じように、私もまた、自分自身の活動をグルリと向きを変え、ぜんぜん違うかたちで活動するなんてことはできない。たとえば私の場合、ユーチューバーとして「シロクマの極寒適応3分クッキング」を始めたり、web小説書きにクラスチェンジしたりする余地はあると思うが、今から理化学研究所に入って正統な研究者としてキャリアを重ねようと思ったって不可能だろう。
 
 だから自分の生きてきた軌跡の結果としての「いま」を大切にすべきだと理解しているし、実際、大切にしている。もし、未来があるとしても、それは慣性飛行し続ける「いま」の行く先に辿り着くもので、「いま」を翻して犠牲を積み上げて辿り着くようなものではない。
 
 
 それでも、いぬじんさんの文章にはちょっとした反発もある。
 
 ボイジャー2号の喩えでいうなら、確かに私は土星軌道や天王星軌道は通り過ぎてしまったかもしれないけれども、まだ海王星軌道には辿り着いていないのではないか?
 
 本物のボイジャー2号の場合、海王星探査は綿密な計算のもと、天王星を通り過ぎた後に必ず辿り着けるよう計画されていたのだろう。だが私の人生は……そこまで緻密に計算されていない。
  
 それでも40代の後半をやがて迎えようとするこの年齢は、もう少しだけ、自分の人生で観測すべき、到達すべき場所を夢見る猶予があとワンチャンスぐらい残っているのではないか、という思いがあって、私は私の海王星を目指して飛ばずにはいられない。
 
 つまり現在の私の「いま」のなかには、「いま」を大切にするのとは正反対の、「未来のために現在を犠牲にする」側面が残っている。この年齢でそれを行うのは、果たして利口なことなのだろうか? いや。これ以上人生の惑星探査を企むのでなく、人生の慣性飛行に身を委ねてしまったほうが良いという直感もある。
 
 にも関わらず、私は私の海王星をまだ捨てきれていない。私にとっての土星軌道と天王星軌道を通り過ぎた今も、「もうちょっとだけ頑張れば海王星近くを通過できるんじゃないか」みたいなことを、頭のなかで誰かが囁いている。その、間違っているかもしれない囁きに衝き動かされ、「いま」をいくらか軌道修正させようとする私は愚かなのかもしれない。
 
 中年を迎えたみぎり、「いま」を大切にするという感覚に基本的には頷きつつ、それだけでは立ち止まれない、まだ見ぬ海王星を夢見ている自分自身が、何か叫びたくなったみたいだったので、この文章を吠えながら書いていぬじんさんへの返信とすることにした。もし私が海王星にたどり着けなかった時は、笑ってやって欲しいし、もしたどり着けた時は、そうですね、またお目にかかって酒宴でもやりたいものです。
 
 
 

雨ばかりで憂鬱だったので『言の葉の庭』を観た

 

言の葉の庭

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【Amazon.co.jp限定】天気の子【特典:CDサイズカード「風たちの声」ver.付】

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 ここ一カ月ほど雨ばかりのせいか、それとも原稿や仕事で追い詰められていたせいか、テンションが低くてかなわない。緑がまぶしく、紫陽花の美しい6~7月は季節としては好きだが気分のコントロールがいまいち難しい。仕事やタスクはたまる一方の時には、勇気を出して休息しなければならない。が、それが簡単ではない性分に生まれついてしまったので、ついAmazonプライムなど眺めてしまった。
 
 すると新海誠『言の葉の庭』がプライム会員特典として公開されているじゃないか!
 
 そういえば数日後には新作の『天気の子』が公開されるという。じゃあ、予習がてら観てみるか……と思って観たら、梅雨の新海誠というか、雨の新宿御苑というタイムリーな舞台で、やはりというか、ひたすら美しく雨模様が描かれていた。東京の空を舞う鳥、雨があがった青空の飛行機雲、水面に浮かぶアメンボ、風に揺れる水の流れ、どれも美しく描くもんだと感心した。でも、この美しさは『秒速5センチメートル』よりも幾らか『君の名は。』寄りだとも感じた。前者で感じた、カット一枚一枚のナルシーな過剰さが『言の葉の庭』ではそこまで露骨ではない。どれもこれも美しく、新宿御苑での再会場面での雷と嵐などは、これぞ心象風景!といった感じは受けるけれども、『秒速』の種子島の夜空のような、美しさに歪んだ図像にはなっていない。
 
 この作品は年齢制限がなさそうだけれど、雰囲気がややエロチックだった。雪野先生の足をこっそりスケッチブックに描くタカオも、雪野先生の足のサイズを実際に測るタカオも、自宅で靴をつくるタカオも、上級生に喧嘩を売りに行くのも、すべてえっちだな、と感じた。そういう印象を受けるのも、タカオと雪野先生が会うシーンでは決まって雨が降っていたからかもしれない。晴れた新宿御苑では、こうはなるまい。
 
 雨に濡れ、雪野先生の家で服を乾かし、二人でオムライスを食べるシーンもやたらしっとりしていた。アイロンの蒸気、マグカップからの湯気、窓の外の雨、どれも抜群の雰囲気だ。そうした雰囲気のなかで雪野先生は動揺を隠せなかったから、眺めている私も動揺した。この二人の(またはどちらかの)運命がどれほど残酷に描かれるのかわかったものではないと覚悟し、固唾を飲んで見守っていたが、雪野先生はよろめきながらもタカオのところに辿り着き、言葉を交わしたので私は安堵した。二人を分かつ運命の残酷は『言の葉の庭』にはなかった。自分の気持ちを言葉や行動にできるって、幾ばくかの野蛮さは伴っていても、かけがえのないものですね。
 
 『言の葉の庭』は新宿御苑とその周辺にコンパクトにまとまっていて、宇宙や地域を感じさせないせいか、大仰な作品という感じがしない。それだけに、事情を抱えながらまあなんとか生きているタカオと雪野先生の雨宿りをじっとり眺めるには適していて、たぶんこういうのは『天気の子』には望みようがなさそうだから、いいタイミングでいいものを観た、と思った。
 
 とはいえ、今日もまた雨日和。やっぱり気分があがらない。『天気の子』の公開とともに梅雨がパーッと開けてくれればいいのだけれども。
 

「おっさん」は強ければ叩いて構わず、弱ければ忌避される

 
なぜ「おっさん差別」だけが、この社会で喝采を浴びるのか(御田寺 圭) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
 
 リンク先は「おっさん差別」に関する文章だ。
 
 リンク先でテラケイさんは、「差別が許されない社会のなかで、差別主義者だと後ろ指をさされることなくバッシングできる対象属性」としておっさんを挙げている。弱者と認定されている属性やマイノリティとみなされている属性をバッシングすれば即座に差別主義者とされる現代社会でも、おっさん(という属性)へのバッシングは社会的に認められている、といった話だ。
 
 この文章を読み、私が最初に思い出したのは、歴史的にみて強者だった成人男性と、いまや強者とは言い切れない現代日本の成人男性だ。
 
 法のもとの平等が行き届かなかった長い歴史のなかで、権力を握る者・暴力をふるう者は専ら男性だった。もちろん、個別の男女の力関係のなかには、女性が強者だった例もあるだろうけれども、社会全体の制度や慣習は男性を強い立場とするようつくられていた*1
 
 そのうえ体格差を生かし、男性は女性を腕づくで服従させることもできた。法治よりも腕づくで物事が決まる社会では、ごつい体格の荒ぶる男性が、華奢な女性より優位に立ちやすい。
 
 だから人類史を振り返るなら、成人男性全般が強者とみなされ、女性や子どもの抑圧者とみなされるのはわかりやすいし、例えば20世紀前半の欧米社会でさえ、その見立ては現実に即していただろう。
 
 しかし21世紀の日本ではどうだろう。
 
 現代の日本は、今までのどの時代と比べても法治が行き届いている。男性が女性を腕づくで服従させることは、昭和時代まではあり得たが、令和時代には大幅に減った。「暴力は犯罪」という理念じたいは昭和時代にもあったが、その理念どおりに人々が行動するようになった度合い、その理念を人々が内面化した度合い、その理念から逸脱した時に社会的制裁を受けなければならない度合いが、今までと比較にならないほど高まった。
 
 街には監視カメラが溢れ、家庭内で男性が女性を腕づくで服従させればDVという犯罪とみなされ、交際相手の女性に男性が強引に迫ればストーカーという犯罪とみなされるようになった。単なる理念上の話ではなく、「腕づくの問題解決」がここまで実際的に法律やアーキテクチャに制限されるようになったのは有史以来初めてだろう。
 
 女性の社会進出や高学歴化がすすんだことで、知の領域でも、男性の優位性は揺らいでいる。日本は女性の社会進出に問題があるとよく言われるが、昭和以前と比較すれば女性の立場は強くなった。これからも強くなるだろう。
 
 ユースカルチャーの水準でも、成人男性、とりわけ中年男性が見下され、女性、とりわけ若い女性が持て囃された。戦後民主主義のうちに父権性を失っていた父親は、汚れた時代遅れの存在とみなされ、かわいく、流行に敏感な女性を持ち上げる風潮が80~90年代にはあった。
 
 「朝シャン」に象徴されるような、臭いに敏感になりゆく社会の変化も成人男性の立場を弱くしたように思う。なぜなら成人男性、特に中年以降の男性は臭うものだからだ。
 
 女性の立場がそうやって(相対的に)向上している間に、男性の立場は(相対的に)低下していった。少なくとも昭和時代に比べ、経済的・社会的に弱い立場に甘んじる男性は増えたと言っていいように思う。自己責任という言葉が人口に膾炙するような個人主義社会は、経済的・社会的に弱い立場の成人男性に冷たい。かといって「腕づくの問題解決」が封じられている以上、そうした弱い立場の男性が、「腕づくの問題解決」を試みることも困難だ。
 
 成人男性は、長らく強者の地位を占め、「腕づくの問題解決」を振るってきたのだから、今日の正しさの勾配のなかでバッシング可能な強者とみなす人がいても不思議ではない。実際、成人男性、特に中年の成人男性を見下すようなことを言っても構わないという意識は、成人女性や未成年だけでなく、当の成人男性自身にも根深く内面化されている。
 
 他方で、21世紀の日本の成人男性が必ず強者だなんてことは、もうあり得ないのだ。権力やカネを集めた成人男性が強者なのは疑いないとしても、実際には権力やカネから見放され、「腕づくの問題解決」も封じられた弱き成人男性がたくさんいる。また、そうした弱き男性はえてしてコミュニケーション能力にも恵まれていないから、第三次産業がメインで流動性の高い社会についていくことも難しい。
 
 21世紀の成人男性は、もう「おっさん」として一律に叩ける属性ではなくなっている、とみるべきだろう。
 
 
 

強い「おっさん」は叩ける。弱い「おっさん」は忌避される

 
 それより、私にとっての本題に入ろう。
 
 私は、現代社会では中年男性に限らず、「おっさん」というカテゴリに入り得る人は皆、叩かれやすい……というより忌避されやすいのではないかと思う。
 
 「おっさん」といえば「キモくて金のないおっさん」が第一に連想されるかもしれないが、男性でなくても、たとえばキモくて金のない中年女性も「おっさん」というカテゴリに入り得るようなものだ。だから冒頭のテラケイさんがどのような意図で「おっさん」という語彙を用いているのかはさておき、少なくとも以下の話では、「おっさん」というカテゴリのなかに中年女性、ときにはもっと若い男女も含まれるかもしれないことを断っておく。
 
 権力やカネを持った男性が強者とみなされ、ゆえに、今日の正しさに照らしてバッシング可能な存在とみなされるのはわかる話だが、権力やカネを持たない、立場としては弱い「キモくて金のないおっさん」が「おっさん」カテゴリのもとでバッシングされるのは、いったいどうしてなのだろうか。
 
 現代の正しさの基準になぞらえて正しいか否かは別にして、現代社会において「おっさん」はバッシングされやすく、そこまでいかなくても忌避されやすい理由や背景は相応にあるように思う。
 
 まず、「おっさん」は臭い。
 
 現代社会において、臭うという事態はエチケット違反であり、他人に迷惑をかけることに他ならない。もともと人類は体臭をそれほど気にしない生活をしていたが、体臭は歴史が下るにつれて嫌われるようになり、石鹸や香水や上水道の普及とともに駆逐されていった。
 

自由・平等・清潔―入浴の社会史

自由・平等・清潔―入浴の社会史

 
 日本の場合、戦前から石鹸が流通しはじめていたとはいえ、臭いに対する敏感さが大きく高まったのは1980年代の「デオドラント革命」以降だ。若い女性が牽引するかたちで「朝シャン」が広まり、制汗スプレーなどの売上も大きく伸びた。1970年代以前に比べると、90年代以降の日本人はより多く入浴するようになり、より臭わなくなった。
 
 [関連リンク]:NHK|ニッポンのポ >> 俗語辞典 >> 「朝シャン」ブームの影の主役は…
 
 「デオドラント革命」以降の、誰もが体臭に敏感になった社会では、体臭を臭わせている人はただそれだけで他人を刺激し不快にする存在だ。「キモくて金のないおっさん」は、キモくて金がないのだから、おそらく体臭のメンテナンスも疎かになりがちだろうけれども、そのような男性は、たとえ暴力を振るわなくとも、たとえ他人を威圧しなくとも、存在するだけで無臭の秩序から浮き上がってしまう。
 
 日本の街と日本の人々は臭いを減らすことに熱心で、実際、街も人々も臭わなくなったのだけど、それだけに、体臭を放つ者は迷惑がられやすく、迷惑がられるがゆえに、叩いて構わない正当性があるかどうかはともかく忌避されやすい。
 
 
 そのうえ「おっさん」はただ存在するだけで不安感や威圧感を与えかねない。
 
 子どもや女性に比べて体格の大きな男性は、ともすれば周囲に威圧感を与える。ここに、貧相な服装や不審な挙動などが加われば不安感や警戒感をもたらすこともあるだろう。
 
 日本の街は単に治安が良いだけでなく、誰もが安心して歩ける、それこそ女性が夜に一人歩きできる程度には安心できる街になっている。人々の安全や安心に対する要求水準はきわめて高い。
 
 そのような安心社会・安全社会のなかでは、体格の大きな男性、とりわけ貧相な服装や不審な挙動をみせる男性は、例外的に不安感や威圧感をもたらし得る存在だ。あまり言語化されていないかもしれないが、実のところ、安心社会・安全社会において、そのような存在は迷惑がられやすく、叩いて構わない正当性があるかどうかはともかく、忌避されやすいのではないか。──たとえばそのような男性が公園で子どもに声をかけた時、どのようなリアクションが起こるかを考えてみていただきたい。
 
 
 現代の日本社会の秩序と美しい街並みは、お互いに迷惑をかけず、お互いの権利を侵害せずに自由かつ快適に生活できるよう最適化されている。しかし、お互いに迷惑をかけないこと、お互いが自由に快適に暮らすことがあまりに徹底された結果、この美しい街並みのなかでは、臭う者・不安感を与える者・威圧感を与える者は、ただそれだけで他人の自由で快適な暮らしに迷惑をかける、侵襲的な存在として浮き上がってしまう。
 
 これは、欧米社会が想定するような功利主義どおりの秩序だとは私には思えない。日本に入ってくる思想は、仏教でも民主主義でも日本風に変形するものだが、ここでも「他人に迷惑をかけてはいけない」という土着の考えや日本人の無臭性・治安の良さによって何かが変質してしまっているのだろう。そして今日の正しさに照らして考えた時、臭うから・不安感を与えるから・威圧感をもたらすからといった理由で他人を忌避して良いのか、ましてやバッシングして構わないのか、甚だ怪しいものである。
  
 しかし、これほど美しい街のなかで、これほどお互いに迷惑をかけず、安全・安心して暮らせる社会ができあがってしまった以上、人々が他人の体臭や体格や挙動に敏感になってしまうこと・昔は迷惑とも思っていなかったことまで迷惑と感じること自体は、よくわかるのだ。
 
 ここでも私は、デュルケームの僧院の喩えを思い出さずにはいられない。
 

 それが完璧に模範的な僧院だとする。いわゆる犯罪[もしくは逸脱]というものはそこでは起こらないであろう。しかし、俗人にとっては何のことはないさまざまな過ちが、普通の法律違反が俗世界の意識に呼び起こすようなスキャンダルと同じように解釈されて、そこでは生じることになるだろう。したがって、もし、その社会が裁判と処罰の権力を持っているならば、それらの行為は犯罪[もしくは逸脱]的とされ、そのようなものとして扱われるに違いない
 デュルケーム『社会学的方法の規準 (講談社学術文庫)

 無臭を徹底させ、安全・安心を徹底させた街のなかでは、昭和以前には許容の範囲だった臭いや体格や挙動までもが迷惑として、あるいは不安感を威圧感をもたらすものとして忌避されることになる。幸い、臭いから・体格が威圧的だから・挙動不審だからといった理由で犯罪扱いされる制度は無いけれども、それでも職務質問はされやすくなってしまうし、他人に迷惑がられたり敬遠されたりするおそれはある。
 
 この、臭いや体格や挙動の問題は、人口密度がきわめて高く、相対的に臭いやすく、誰がいても構わないとみなされているターミナル駅周辺や繁華街ではあまり問題にはならないけれども、閑静な住宅街や子どもの遊ぶ公園ではくっきりとした問題になる。「キモくて金のないおっさん」の居場所は、閑静な住宅街や子どもの遊ぶ公園には無い。なぜなら迷惑がったり不安感や威圧感を覚えたりするからだ。そうした通念は子どもや女性だけでなく、当の「キモくて金のないおっさん」自身も抱いているのだから、これまた根が深い。
 
 

忌避されずに街を歩けるのは誰か

 
 では無臭を徹底させ、安全・安心を徹底させた街を誰なら気兼ねなく歩けるのか。
 
 体臭が臭わず、体格や挙動によって他人に不安感や威圧感を与えてしまわない人々こそが気兼ねなく街を歩けるわけで、この場合の「強者」といえる。
 
 たとえば「かわいい」女性。それと「かわいい」男性。
 
 臭わず、体格で他人を威圧することもなく、安心できる挙動をとる人々こそが、一番迷惑がられず、一番忌避されない。気兼ねしないでどこへだって行ける。
 
 [関連]:『かわいいは正義!』とは、暴力が禁じられた社会の、新しい影響力闘争のこと。 | Books&Apps
 
 まだ法治が徹底されておらず、屈強な男性が華奢な女性を腕づくで征服できた時代には、「かわいい」が強者など絶対にあり得なかっただろう。
 
 だが法治が徹底され、お互いに迷惑をかけない慣習が信じられない水準に到達した21世紀の日本の街では、「かわいい」人々こそが模範であり、模範どおりだから忌避されない。今後、監視カメラが増え、DVや虐待への家庭介入が進むにつれて、ますます「腕づくの問題解決」は摘発されるようになるだろう。その際、「かわいい」の模範性は高まることはあっても低下することはない。
 
 現代社会の「かわいい」は、既に相当強い属性だが、「かわいい」ゆえか、これを新時代の強属性だと名指しする人はあまりいない。ゆえに、「かわいい」が猛威をふるったからといって、それを暴力や抑圧とみなす人もほとんどいない。
 
 
 もうひとつ、「かわいい」に準じる存在がある。
 
 それは無臭を徹底させ、不安感や威圧感を与えないよう身だしなみや挙動をトレーニングした、洗練された現代しぐさの男性や女性たちである。
 
 中年男性も、きちんと入浴する習慣を身に付け、安心感を与える身なりを整え、落ち着いた挙動をしていれば不安感や威圧感を与えることはなくなる。そのような中年男性ならば、閑静な住宅街や子どもの遊ぶ公園にいても迷惑がられないだろう。中年女性は言わずもがな。つまり、無臭を徹底させ、安全・安心を徹底させた街に溶け込むようなハビトゥスを身に付け、実践していればバッシングされることも忌避されることもなくなる
 
 「だからきちんと入浴し、きちんとした身なりを整え、落ち着いた挙動をしなさい」というアドバイスが一応の処方箋になるわけだが、これは希望と言えるだろうか?
 
 

強者には簡単でも、弱者には困難

 
 私にはそう思えない。
 
 無臭で、不安感や威圧感を与えないようなハビトゥスとその実践は、いわゆる強者には簡単でも、経済的・社会的弱者には簡単ではないからだ。
 
 経済資本や文化資本に恵まれた成人男女は、そうしたハビトゥスを比較的短期間で身に付けられる。というより子ども時代のうちにある程度身に付けている。デオドラントや身だしなみにお金や時間を費やすことだってできる。結局、強者は大して努力するまでもなく、無臭で無害な存在になって街を闊歩できる。
 
 しかし、経済資本や文化資本に恵まれない成人男女はこの限りではない。現代社会にふさわしいハビトゥスを子ども時代に身に付けられなかった人もいるし、デオドラントや身だしなみにお金や時間を費やす余裕が無い人も多い。だから「キモくて金のないおっさん」が無臭で無害な存在として街を闊歩するためには、強者よりずっと努力しなければならず、到底それがかなわないことだってあるだろう。
 
 もちろんこれは「キモくて金のない"成人男性"」だけの話ではない。悪臭ぷんぷんたる女性、不安感や威圧感を与える外観や挙動の女性は、女性でも「キモくて金のないおっさん」のようなものだろう。そのような女性が、この清潔で無臭で安心・安全な社会のなかで浮き上がらないわけがないし、現代の通念のなかで忌避されないわけもない。
 
 そういえば「かわいい」もまた、ある程度まで先天的素養だが、ある程度からはハビトゥスだと言える。というのも、顔貌が多少かわいらしかろうが、臭くて、身なりが整わなくて、不審な挙動や粗暴な挙動があれば、その人物は現代の秩序から浮き上がってしまうからだ。
 
 

だが、弱者といえども秩序のトリクルダウンは享受している。

 
 バッシングして構わないかどうか、差別かどうかといった話から少しズレた話になってしまった。
 まあ、そのあたりは冒頭リンク先のテラケイさん達にお任せするとして。

 さしあたり、この文章で私が一番言いたかったのは、この無臭で安全・安心な社会では、臭う者・不安感を与える者・威圧感を与える者は浮き上がってしまい、それをどうにかするための処方箋は経済資本や文化資本に恵まれない成人男女には容易ではない、ということだ。
 
 しかし、現代社会の快適な暮らしはこうした通念と社会状況によって成立しており、その恩恵は強者はもちろん、弱者も享受しているから簡単には否定できない。強者のほうがより多く恩恵を受けているだろうけれど、いわば秩序のトリクルダウンというか、弱者だってある程度は都市生活の快適さを受け取っていることを私は否定できない。
 
 それに、これほどの人口集中と高温多湿な環境にもかかわらず、東京のようなメガロポリスが未曾有の快適さを誇り、安全と安心を維持できているのも、このような通念と、このような通念を支えるインフラのおかげだということも忘れてはならない。昭和時代の通念のままの東京は、もっと臭く、もっと喧騒や怒号にみちていて、法治はこれほど行き届かなかった。そのような社会に後戻りしたいと考える人は、「キモくて金のないおっさん」のなかにさえ、少なかろう。
  
 無臭で安全・安心な秩序の恩恵を受けとるためには、それにふさわしい無臭さ、外観や挙動の人間にならなければならない──そのためのコストには個人差があり、たとえば、キモくてカネのない中年男性にはハイコストであることを、これからの正しさはどこまで照らし出せるだろうか。
 
 

*1:たとえば女性が政治に参加できるようになったのがずっと後の時代だったように