シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「金がなくても楽しい老後」は始まっている。ああでも生きていられるだろうか。

 
 
老後に金がなくても楽しく暮らすために今から準備しておくべきこと|ふろむだ@分裂勘違い君劇場|note
 
 
 ふろむださんが、楽しい老後についてnoteで記事を書いていて、主旨には同意するのだけど、私の思考はそこからどんどん離れていき、変な着地点にたどり着いたので書き残すことにした。
 
 
 

「金がなくても楽しい老後老後」は、もうここにある

 
 
 まず私は、ふろむださんが書いている内容は、大きくわけて二つの意味でもう実現している、と思った。
 
 
1.ひとつめは、いまどきの高齢者たち。
 
 図書館に行くと、いつも高齢者がたくさんいて、本や新聞をを読んでいる。ふろむださんが述べたような、教養ある読書をしている人も混じっているだろう。本が読める老後というのは、きっと良いものに違いない。
 
 子どもとハイキングに登るような山にも、高齢者の姿が多い。どんどん山を登り、景色を写真に撮ったりしている。山に登れて写真が撮れる老後というのは、きっと良いものに違いない。
 
 で、『ブラタモリ』。これを楽しみにしている高齢者も多い。同じNHKでも『鶴瓶の家族に乾杯』よりも人を選ぶのかもしれないが、それでもファンは多く、最近は、ブラタモリ的な小旅行が企画されることだってある。そういった地誌に興味が持てる老後というのは、きっと良いものに違いない。
 
 だから、ふろむださんが勧めている「金がなくても楽しい老後」は、現在の高齢者の老後といくらか重なり合っているように思う。
 
 
2.もうひとつは、小説家になろうの一部コンテンツを眺めていて。
 
 私のサーチ範囲に入ってくるweb小説のなかには、なんというか、晩年、という印象を受けるものが少なくない。今を生きるより創作の世界を生きている、ちょっと世捨て人が入ったフレーバーを隠そうともしない作品というか。
 
 web小説のいいところ(悪いところでもある)は、筆者自身のフレーバーを脱臭しないで文章をアップロードしてくる人が少なくないことだ。いや、私がたまたまそういう筆者自身のフレーバーの強いweb小説に当たるだけなのかもしれない。ちなみにカクヨムでは、筆者自身のフレーバーがかなり脱臭された、作家じみた文章に出会うことがしばしばある。対して小説家になろうでは、ときに、はてな匿名ダイアリーより筆者のフレーバーが濃厚で、のけぞってしまうこともある。念のため繰り返すが、私はそのことを悪いと思っているのでなく、web小説の良いところでもあり、つまり特質なのだろうと思って楽しんでいる。
 
 で、そういう目線でweb小説を読んでいると、「この筆者は、もう老後を生きているんじゃないか」といった書き手に遭遇する。
 
 ここでいう老後とは、年齢的なものではない。言い回しやネットスラングから40±10歳ぐらいとおぼしき年齢だけど、厭世的だったり、社会との距離感を漂わせていたりするような、それでいて豊富な知識を駆使して異世界の物語を書き綴るような、そういう佇まいのことだ。
 
 私は、冒頭のふろむださんの文章を読んでいるうちに、そういった、厭世観や社会との距離、あるいは窓際族的なフレーバーを思い出していた。そうしたweb小説の書き手の実年齢は、老後というにはまだ若いだろう。しかし心の佇まいとしては晩年であり、いわば、「金がなくても楽しい老後」を一足早く始めているのではないだろうか。
 
 
 

高齢者がコンテンツ生産者/消費者となったインターネット

 
 
 数年前、○○出版社の編集者の方から「最近、村上春樹にかぶれた団塊世代の持ち込み小説が増えている。文体は村上春樹風だけど、肝心の中身は似たり寄ったり」という話を聞いたことがある。しかし現在は、小説をわざわざ出版社に持ち込まなければならない道理はない。web小説として公開してしまえば、そこには書き手だけでなく読み手もいる。
 
 今、web小説を書いている人の多くは30代~40代ではないかと思う。おそらく読み手も同世代だ。20代、50代もいるだろうけれども、さしあたり、web小説の書き手と読み手に壮年期のボリュームゾーンがあるのは間違いないだろう。
 
 そんな彼らも、あと20年もすれば50代~60代になる。
 
 いや、web小説に限った話ではない。ブログだってそうだ。そうやって、インターネットの色々なコンテンツの前線にいる人々が歳を取っていく。20年後には、彼らも(そして私も)還暦前後だ。そうなれば、インターネットは「金はなくても楽しい老後」を担う場になっていくのではないか。
 
 まなめはうす風に言うなら、『良いインターネットで、良い老後を』といったところだろうか。私は、これはそこそこ期待できる筋だと思うので、ネットに特別な思い入れのある往年のネット古参兵は、健康に気を配りながらネットライフを楽しんでいれば、それでOKなのかもしれない。
 
 
 

なぜ、老後を、楽しく、生きなければならないのか

 
 それにしても、どうして私たちは老後なるものを想定しなければならないのだろうか。
 
 ふろむださんの文章にいちいち頷きつつ、私は、老後をこうやって見据え、楽しく過ごすために戦略的に生きるのは、奇妙な風習ではないか、という思いも捨てきれずにいる。
 
 人は生まれながらに苦を抱え、苦楽とともに生きるものだが、やがて痩せ犬のように死んでいくものではなかったか。
 
 臨終までの時間がきわめて長くなり、健康寿命もおそらく長くなり、老後という、ちょっとおかしいぐらい健康な例外にだけ与えられたボーナスステージを誰もが享受するようになった。ところが半分以上が80代を迎える時代になってみると、人は簡単に死ななくなり、死ねないがゆえに、長い人生を楽しむ──いや違うな、長い人生を楽しまなければならなくなった。
 
 長い人生に苦しかないのは文字どおりの苦行なので、私たちはなんとか楽しく、いやせめて苦楽が共にあるぐらいにしなければならない。だから私たちは老後について考える。その老後に到達するための壮年期を考える。その壮年期をよりよく生きるために思春期に備え、とうとう小学生のうちから受験に追われる者もいる。
 
 それらすべてが、ふと奇妙な風習にみえる瞬間がある。
 
 なぜ、老後を見据えて生きなければならないと、私たちは思い込んでいるのだろうか?
 
 老後も健康でなければならない。
 老後も楽しくあらねばならない。
 
 そういったニーズを理解できる自分がいる一方で、そうはいっても生きるとは苦であり、その苦に楽を織り交ぜるための努力も苦となりかねず、いや苦を増やすために楽しみを見つけろとはふろむださんも言っていないとは理解しつつも、どうしてそんなに巧く生きなければならないのか? と疑問に思うこともある。
 
 どれほど楽しみを知り、教養のある人でも、死ぬときは結局死ぬし、認知症になれば認知機能が奪われる。あるいは老人ホームでアパシーの底に沈むのか、それとも習慣の残骸を繰り返すようになるのかはわからない。ともあれ、いつか必ず人は死ぬ。その日が来るのが65歳なのか、75歳なのか、85歳なのか、それはわからない。わからないが、とにかく終末の時はやってくる。
 
 いやいや。
 
 案外、少子高齢化や地球温暖化や争乱によって、もっと早くに、もっと無情に、私たちはバサリと死ぬのかもしれない。
 
 結局私は何が言いたいのだろう?
 
 現在の延長線上として老後がやって来るのは基本的にはめでたいことだが、老後を戦略的に見据え、ましてや老後の愉しみを見据えて生きるのは、私が奇妙な風習と感じるものの典型のように思える。そこに引っかかりを覚えるものだから、私はこうして駄々をこねているのだろう。
  
 
 「あるがままに歳を取っていく、で、良いではないか。」
 
 
 たぶん私は、老後があるという前提で物事を考えていくことに、抵抗感を覚えている。
 
 老後は迎えて当然と思っている人のほうが現代社会では多いし、平均寿命を見る限り、そのとおりになる人の割合が高いだろう。
 
 だが本当に、私にも老後はやって来るのか?
 
 もし私にも老後があるとしたら、それほどまで長く生きた、それほどまで命を使ったということで、たとい苦によって命が締めくくられようとも、基本的にはありがたいことではないかと思う。
 
 私は、自分が60代、70代まで生きていられる自信があまり無い。生きていたい。いや生きていたら御の字だと思う。這ってでも生きてみたいが、本当に私は、そこまで生きていられるのだろうか。
 
 
 ひょっとしたら、老後を見据えたふろむださんの人生観に、私は嫉妬しているのかもしれない。
 
 私だってどうにか生き続けて、2040年産のワインが飲んでみたい。まずは、生き延びなければ。
 
 

「恋愛も結婚もしなくなった日本は未曾有の先進国」

 
 
未婚の理由「めぐり合わない」 一方で「探していない」も | NHKニュース
 
 先日、内閣府が少子化社会対策白書(2019)を発表した内容をNHKが報道しているのを見かけた(pdf版はこちら)。
 
 日本では、結婚しなければ子育てはほとんど始まらない。だから少子化社会対策白書に未婚男女の意識について記されているのは当然なのだが、白書によれば、結婚を希望している未婚男女の多くが「出会わない」だけでなく「相手を探してもいない」という。
 
 挙児は一人ではできない。少なくとも一般的にはそうである。
 
 にも関わらず、未婚の男女が「出会わなくて」「相手を探してもいない」のだから、結婚は増えないし、子どもの数も増えない。たとえ婚外子を許容する文化風土ができあがったとしても、そもそも、男女が出会わなければ子どもは生まれてこないのである。
 
 少子高齢化という視点で考えるなら、このままでは国力は下がり、税制は混乱し、やがて、人心も荒廃していくだろう。
 
 だが、敢えて視点をズラして考えると、これは日本社会が文明化の最先端をいっている徴候、ある領域においてブッチギリの先進国である徴候ではないだろうか。
 
 
 

恋愛市場主義の浸透、という意味の「一億総中流」

 
 
 欧米に出掛けると私は、いつも男性が男性らしく、女性が女性らしく立ち振る舞っていると感じる。少し前の日本で流行したような「かわいい」立ち振る舞いのかわりに、大人の男性、大人の女性としての立ち振る舞いが洗練されている、と感じる。社会のなかでナメられない男・ナメられない女であることをディスプレイするために、彼らは日本人より高いコストを支払い、緊張しているようにもみえる。
 
 カップル文化、デート文化の圧力も感じる。結婚しているか否か、同性愛か異性愛かは、以前に比べて問題ではないのかもしれないが、カップルでいられない人・デートできない人は、日本社会よりも肩身が狭いのではないか。たとえば「フランスではひきこもりもデートする」というけれども、ならば、フランス社会とは、ひきこもりすらデートしなければならない社会ではないのか。
 
 対照的に、日本ではカップル文化やデート文化は希薄だ。
 
 いや、日本が欧米の模倣にいちばん熱心だった1980-90年代には、資本主義のロジックにもとづいてカップル文化やデート文化をなぞる流行が起こり、たとえばクリスマスをカップルで過ごすことが社会現象にもなった。しかしこれはうまく定着しなかった。
 
 それでどうなったのか?
 
 日本では、恋愛という体裁をとりつつ、実質的には資本主義のロジックにもとづいて男女が結びつくことになる。欧米のような、文化的因習にもとづいて誰もがデート・セックスするような社会に寄り道することなく、まっすぐ資本主義的に男女がデートしたりセックスしたり、ひいては結婚・生殖をする社会ができあがった。共同体やイエのロジックにもとづいて男女を強制的に結びつけるそれまでの社会圧を、恋愛市場主義によって打ち倒したとしても、欧米のような文化的因習が無いのだから、欧米人と同じようにデートやセックスや結婚や生殖をする社会にはならない。
 
 資本主義的に自他を値踏みしあう社会が到来したことによって、恋愛は、バリューを持った男性や女性*1が自由意志にもとづいて行うことはあっても、そうでない男性や女性が背伸びしてまで行うものではなくなった。欧米のように、デートやセックスをしなければならない(旧態依然とした)社会圧は存在しないのだから、背伸びをしなければならない道理も無い。
 
 だから現在の日本、あるいは韓国や中国では、経済的与件が比較的ピュアに男女交際を、ひいては結婚や子育てをも決定づける。少なくとも、自他を資本主義的に値踏みする作法行儀を身に付け、なにごとも資本主義的にコスパやリスクを考える人々においては、そうだといえる。
 
 この点において、東京で生活している未婚男女の大半は「模範的」である。
 
 自分自身が恋愛可能かどうか、ひいては子育て可能かどうかを、模範的な未婚男女はしっかり考える。経済合理性にもとづいてよく考え、可能なら、恋愛や結婚を選択肢のひとつとみなす。もちろん東京のような都市空間では子育ては難しいから、東京の未婚男女はしばしば結婚を諦めるし、ときには恋愛をしようという気持ちすら起こさない。少子高齢化という視点でみればゆゆしき事態だが、経済合理性の透徹という意味では、きわめて洗練された身振りだ。
 
 企業や土地を所有する大ブルジョワや高級ホワイトカラーのような中ブルジョワだけでなく、ほとんどの東京の未婚男女が恋愛や結婚を経済合理性にもとづいて見据え、行動しているのだから、たいしたものである。資本主義のメンタリティの浸透、という意味では「一億総中流」という言葉は死語ではなく、むしろ現代にこそ当てはまるのではないだろうか。
 
 
 もちろん現代の日本にも、本能のままに恋愛をはじめる人や、勢いでセックスする人、あまり考えずに子育てを始めてしまう人はいる。不勉強と言わざるを得ない。この場合、本能が勃起して恋愛や結婚を始めてしまう人は「資本主義のロジックを十分に内面化していない、不勉強で粗暴な人々」と評することができる。
 
 日本の合計特殊出生率のある部分は、そうした不勉強で粗暴な人々によって担われているのだろう。しかし、どこまでも資本主義のメンタリティが浸透してゆく日本社会において、そのような不勉強や粗暴さは時代遅れだし、進歩的な人々ほど、そのような蛮行に走ることはない。
 
 東京とその周辺の低い合計特殊出生率を見ていると、現代の未婚男女が、欧米的な文化的因習やイエや共同体の文化的因習からは自由で、恋愛や結婚に対して経済合理性にかなった判断を行っている、とみることもできる。少なくとも本能や勢いのままに男女がまぐわっていれば、こうはなるまい。
 
 現代日本では、いや、韓国や中国などでも「お金が無いから恋愛/結婚できない」という考え方はそれほど珍しくない。だが、この考え方じたいがきわめて資本主義的な、経済合理性に根ざしている。そしてそのように考えるのが当たり前で、勢いのままに恋愛や結婚や生殖に向かうのはおかしいと、大半の人が思っている。
 
 
 

一人でも生きていける社会では結婚しなくても構わない

 
 
 かつて結婚には経済合理性があった。
 いや、地域共同体にしてもそうだ。
 
 人間が集団をかたちづくって生きるのは、協同し、分業しなければ生きていけないからで、これは狩猟採集社会にも農耕社会にも当てはまった。一人では世話できない水田も集団でなら世話できるし、一人では防げない外敵も集団でなら防げる。20世紀に入ってさえ一人で生活するのはなかなか大変で、使用人を雇えるような身分でもない限り、家族や地域共同体との繋がりは必須だった。
 
 ところが20世紀の後半、とりわけ日本では、家電製品が普及し(コンビニやワンルームマンションなどといった)一人暮らしに適したサービスが進歩・普及したため、一人暮らしの難易度は大幅に下がった。
 
 家族で助け合わなくても、使用人を雇わなくても、ごく簡単に一人暮らしができる。そのうえ一人暮らしは、完全にプライベートな個人主義的生活を実現してくれる───80年代にはそうしたライフスタイルが流行したため、一人暮らしに格好悪さがついてまわることも無かった。
 
 そして仕事はといえば、家族や地域共同体から無縁になって久しい。資本家はもちろん、工場やオフィスで働く人々も、賃金労働をとおして簡単に独立できる。個人が経済的に独立しやすい素地ができていたからこそ、一人暮らしと、それに伴うプライベートな個人主義的生活が80年代に流行した、とも言えるかもしれない。
 
 いずれにせよ人々は経済的に独立し、集団で生きなければならない経済合理性は大幅に低下した。個人単位でお金を稼ぎ、たいがいのことは家電製品や出来合いのサービスに任せておけば済んでしまう社会では、結婚すること・家族をつくることにさほどの経済合理性は無い。むしろ、結婚や家族にはリスクがついてまわる。子育てを始めればお金がかかるし、離婚で失うものは決して小さくない。そうでなくても同居にはストレスやしがらみが生じる。こうしたことを、模範的な未婚男女はよく心得ている。
 
 結婚や家族は、むしろお金がかかり、リスクがある──それでも結婚するに足りるほどの相手がいれば、現代の模範的な未婚男女とて結婚するだろう。しかし、そうでなければ結婚は経済合理性にみあった選択ではないし、そのように不経済な結婚を、わざわざ手間暇かけて探し求めるのは、酔狂な、あるいは趣味的なことでしかない。
 
 結婚の是非が経済合理性にもとづいて判断されるようになり、そのうえ一人でも生きていける……というより一人のほうが生きやすい社会ができあがった以上、結婚がペイしないと判断した未婚男女は結婚しないし、するわけがない。
 
 
 

「『出会い』はノイズ」

 
 
 そのうえ、現代社会では「男女はそう簡単には出会わない」。
 
 冒頭リンク先の記事には、結婚に至らない理由のひとつとして「出会いの少なさ」が挙げられている。では、「出会い」とは一体何か。
 
 現代社会の生活を振り返ってみれば、男性と女性が顔をあわせる頻度はけっして少なくはない。いや、むしろ信じられないほど多い。たとえば電車に乗って出勤し、職場で働き、買い物をして帰宅するまでの間に、未婚男性はいったい何人の未婚女性と顔をあわせるだろうか。あるいは会話するだろうか。
 
 そう、自宅に引きこもっているのでない限り、未婚の異性に顔をあわせる頻度じたいは、現代社会ではものすごく高まっているのだ。仕事中や買い物の最中も、なんらか会話しているはずである。
 
 にも関わらず、日本の未婚男女は「出会い」が無いという。
 
 もちろん。街で未婚の異性といくらすれ違っても「出会い」にはならないし、レジで未婚の異性といくら会話しても「出会い」にはならない。職場に「出会い」を求めることも容易ではない。うかつなことをすれば、セクハラとみなされるだろう。
 
 現代社会のコミュニケーション、特に大人同士のコミュニケーションは、契約社会のロジックに従っていて、そこからはみ出すことはほとんど無い。コンビニでのやりとりは売買に最適化しているし、職場では仕事についてやりとりするべきなのであって、私生活に立ち入るようなやりとりは避けられる。「出会い」という名のノイズは、売買に最適化されたやりとり、仕事に最適化されたやりとりが当たり前になっている社会では発生しなくなる。いや、発生しなくなるというと言い過ぎかもしれないが、発生しにくくなる。
 
 街や職場で、やりとりのノイズとして「出会い」が混入することが減ってしまった以上、「出会う」ためには「出会い」に特化した場、たとえば合コンや婚活といった「出会い」を目的としたコミュニケーションの場に赴かなければならない。少なくとも、社会契約のロジックに忠実な未婚男女ならばそうだ。売買の場や仕事の場に「出会い」というノイズを持ち込むのは、合目的で効率的なコミュニケーションを旨とする契約社会のロジックからの逸脱であり、不心得なことである。
 
 現代の未婚男女は、目的にみあった合理的で効率的なコミュニケーションを是とし、そうでないコミュニケーションを不心得とする社会に生きている。このような社会では、売買に際しては売買のやりとりしかしないし、すべきでもない。仕事に際しても仕事のやりとりしかしないし、すべきでもない。そのおかげで売買も仕事も効率的に進むようになり、セクハラに遭遇したり私生活に首を突っ込まれたりする面倒も減ったわけだが、裏を返せば、男女の「出会い」というノイズも追放してしまった。
 
 学習のための場、仕事のための場、売買のための場それぞれでコミュニケーションが合目的かつ効率的であるためには、ノイズは消去しなければならないし、実際、ノイズは消去されている。現代の模範的な未婚男女は、「出会い」というノイズを学校や会社やコンビニに持ち込まない程度には、契約社会のロジックをよく内面化している。このような社会ができあがったにもかかわらず「出会い」をあちこちに見出してしまう未婚男女のほうが、どこかおかしいのではないか。
 
 現代の結婚は、見合いによらず、もっぱら恋愛によると言われている。ところが、合理的で効率的なコミュニケーションを旨とする現代社会では、男女はそう簡単には「出会わない」し、出会うべきでもない。なぜなら「出会い」は、たとえばセクハラとみなされかねないノイズだからである。だとしたら、恋愛結婚の少なくない割合は、契約社会のロジックからの逸脱の産物に依っている、ということになる。
 
 もし、このまま契約社会のロジックがますます徹底していくとしたら、恋愛という名の逸脱の産物もますます減ってゆくだろう。オフィスラブなど、洗練された契約社会にはふさわしくない。
 
 
 

資本主義・社会契約・個人主義が徹底した行先としての少子化

 
 恋愛も結婚も挙児もしない社会ができあがった背景にはさまざまな要因があるだろうし、さまざまな対策が講じられるだろう。それはそれとして、資本主義・社会契約・個人主義のロジックをみんながここまで内面化し、それを阻害するような文化的因習からも自由になった現代日本を振り返ると、どうしてわざわざ結婚し、子どもを育てようなどという動機が生まれるのか、よくわからなくなる。
 
 この、資本主義と社会契約と個人主義のイデオロギーが徹底した社会では、不用意に「出会い」を求めようとしない男女、資本主義的な自他の評価を逸脱してまで「出会い」に向かおうとしない男女のほうが模範的だ。恋愛は、最終的には合コンや婚活といった、合理的かつ効率的なシステムへと吸収されていくのかもしれない。すでに恋愛資本主義の意識はじゅうぶんに浸透しているのだから、リクルートのような企業の草刈り場になる余地はじゅうぶんある*2。もちろん一人でも生きていける現代社会だから、一人で生きていくほうが経済合理性にかなうなら、わざわざ結婚しなければならない道理はない。
 
 私のみるところ、今日のイデオロギーは、分不相応な恋愛願望や結婚願望を是としてはいないし、脈絡もないところに「出会い」を見出すような未婚男女を是ともしていない。
 
 資本主義や社会契約や個人主義が徹底して、「出会い」というノイズが減っていくのは、少子高齢化という視点でみればおそらく危機だろう。しかし、資本主義・社会契約・個人主義の進展、civilizationという視点でみれば未曾有の達成であり、社会制度や慣習が人間の生殖本能を制圧した記念碑的状況といえるのではないだろうか。
 
 資本主義や社会契約や個人主義を司る人々は、この現状を嘆くべきではなく、賛美すべきではないかと私は思う。
 「自分たちの思想は成った」、と。
 
 

*1:ここでいう経済的与件には、年収だけでなく、たとえば女性の年齢や肌ツヤのようなものも含まれる。よって恋愛市場におけるバリューは年齢や社会的地位によって変化する。

*2:というより、『ゼクシィ』が象徴しているとおり、すでに草刈り場となっている

そうか、私は「40代のネクストステージ」を考えたいのか

 

 
THE BIG ISSUE JAPAN361号 | ビッグイシュー日本版
 
 先日、『ビッグイシュー』361号の特集にて、年の取り方についてのインタビュー記事を掲載していただきました。
 
 ひととおりバックナンバーをチェックしてからインタビューに臨んだのですが、綺麗な文体の媒体だったのでちょっと緊張してしまいました。が、「若者」と呼ばれる社会的境遇がそろそろ難しくなって、その先を展望したくなる心持ちについてはしっかり喋ったつもりです。
 
  

もう、次のことを考えなければと気付いた

 
 以前から私は人間の社会的加齢に関心があって、ウェブサイト時代からいろいろと書き続けてきました。
 
www.nextftp.com
 
 最初期は「オタクとしてどう歳を取っていくのか」に関心の中心があったため、上掲のようなことも書いていましたが、12年前はまだ、趣味生活に没頭するオタクが歳を取ったらどうなっていくのかを展望した文章はほとんど見かけませんでした。
 
 そこからふたつの出版企画を経て今に至るのですが、
 

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 こうした過去の文章を読み返すと少し恥ずかしいと同時に、「これらは過去の通過点だ」という感覚を禁じ得ません。
 
 数年前の私にとって、自分が「若者」という境遇を通り過ぎ、「大人」とか中年や壮年といわれる境遇を迎えたことは大変新鮮な事実でした。この事実に興味をおぼえて、「若者」という社会的境遇と「大人」という社会的境遇の違いを面白く確かめていたように思います。
 
 が、今はそうでもありません。今はもう「大人」になったことに新鮮味を感じていないし、「若者」ではないことへの愕然とした感覚も遠のきました。「大人」、中年、あるいは壮年としての最適解が自分なりにできあがって、心の構えが一段落ついたように感じます。向こう5~10年くらいは、今のスタイルでだいたいいけるでしょう。
 
 
 それなら、このまま安穏として良いのかといったら……答えはもちろんNoです。
 
 
 これまでの人生経験を振り返っても、たかだか5~10年程度の安定なんて儚いものだし、途中でいつ中断されるとも限りません。安定した時期を安逸のうちに使い果たしてしまえば、ネクストステージでうろたえてしまうのは目にみえています。だから私は、40代のネクストステージを考え始めなければならないし、この安定した時期を30代の結果としてではなく、50代の原因として生かしたいとも思うのです。
 
 現在の私は44歳ですが、あと10年もすれば54歳。50代になったらやりにくいこと・できなくなることは、たくさんあるでしょう。だから私は40代のうちにできることをやっておかなければならないし、50代を見据えた布石をスタートしておかなければならない。
 
 私は20代の中盤や30代の中盤にも似たようなことを考え、ライフスタイルを大きく塗り替えてきたので、たぶんこれは、私の性分なのでしょう。その性分が『ビッグイシュー』さんのインタビューによって再起動して、「おい、そろそろ次を考えないと駄目だぞ」と警告ランプを点滅させはじめたようなので、深謝申し上げるとともに、今後のインターネット上での活動も含め、現状を変えていく決意を新たにしました。
 
 10代や20代が一度きりなのと同じように、30代や40代も一度きりしかありません。
 だからこの、中年の命を費やして何ができるのか・何をすべきなのかをよく考えて、私にできることをやっていこうと思います。
 
 

まさに現代版のROだ!―『ラグナロクマスターズ』雑感

 
 
 

 
 
 
 いにしえの時代、「かわいいキャラクターのオンラインゲーム(MMO)」として愛好家を熱中させた『ラグナロクオンライン(通称RO)』。そのモバイル版続編ともいうべき『ラグナロクマスターズ』がサービス開始して10日ほど経った。
 
 
 本作品が、いまどきのスマホゲーム市場のなかでセールス的にどれぐらいなのかは知らない。が、サーバ内の雰囲気はまさにRO時代を彷彿とさせる賑やかさがあって、雰囲気が出てきた。
 


 
 サービス開始から二回目の週末にあたる昨日の土曜日は、ワールドチャット上でお喋りする人達の声が賑やかで、たいへん風情があった。インターネットは十余年の間に進化して、コンソールもモバイル化したのに、ラグナロクのプレイヤーは何も変わらなかったとでもいうのか。
 
 とはいえさすが現代のMMORPG、可処分時間の少ない人でも「ラグナロクらしさ」を楽しめるよう、さまざまに工夫されている。10日ほど攻略してみて遊び方がだんだん判ってきたので、これから遊ぶ人向けに書いてみる。
 
 

ちゃんとMMOしている&ラノベっぽい

 
 一週間前、私は「これは面白くないクエストをこなさなければならないゲームではないか」と書いたけれども、ゲームに慣れてくるうちに、そうでもないと思うようになった。
 
 実際、ゲーム開始~序盤にかけてはクエストの占める割合が大きく、慣れてないうちは面倒な時期があった。
 
 しかしゲームに慣れてくるにつれてクエストの占める割合は下がり、クエストの内容も『○○を300匹倒せ』とか『××を150個集めよ』といったものが増えてきて、俄然、ラグナロクオンラインっぽくなってくる。前作でマゾい経験稼ぎに情熱を燃やしてきたプレイヤーにとって、これらはクエストミッションというより、ちょっとした御褒美のようなものだろう。
 
 そのうえ今作は自動戦闘*1がシステムに組み込まれているので、狩りの間は放置しておいて構わない*2。その間、仕事をしていたって勉強をしていたって構わないのである。
 
 狩りで手に入れたアイテムは、もちろん売買の対象になるが、前作とは違って、今作では「取引場」という公式が運営している市場でアイテムが売買されている。
 
 はじめのうち、私はこのシステムが好きになれなかった。プレイヤー同士が直接にする前作のほうが自由度が高かったし、街の露店に賑わいがあったからだ。
 
 なにより、この「取引場」と引き換えにプレイヤー同士のアイテムトレードや譲渡ができなくなってしまった。このため、今作は「ベテランプレイヤーがビギナーを物質的に援助して促成栽培する*3」のが難しくなっている。
 
 

 
 それでも相場は動いている!
 
 「取引場」を介していても、相場はキチンと動いている。そしてこの画面のように、プレイヤーは執事システムを用いて相場の動きをある程度把握することができる。もちろん執事システムが教えてくれるのは相場の一部だけなので、欲しいアイテムの相場は自分で監視しておく必要がある。サービス開始から日が浅いためか、現在は値動きが激しい。それだけに、非常にエキサイティングな相場を楽しめる。
 
 

 
 
 『ラグナロクマスターズ』のMMOっぽさに華を添えているのが、このクエスト依頼掲示板だ。掲示板に載っている簡単な討伐クエストや探検クエストをこなすと、経験値もお金もたくさん手に入る。この、掲示板でクエストを請け負うシステムは『ラグナロクオンライン』を元ネタにつくられたライトノベルからの逆輸入のようにみえるが、このライトファンタジー的な世界観にフィットしていて違和感が無い。
 
 
 いわゆる本編筋のクエストも、かなり頑張っていることが判ってきた。
 
 

 
 
 前作に比べてクエストの登場人物が覚えやすく、都市それぞれのクエストに関連性があって覚えやすい。流し読みをしているのに、登場人物もストーリーも意外に覚えていてびっくりした。演出面も含めて、クエストにはかなりリソースを割いているように思われる。
 
 砂漠の街・モロクのクエストを終わらせた時点で、なんとエンディングまで流れた。
 
 

 
 
 ラグナロクオンライン、ラグナロクマスターズの世界観にぴったりのエンディングだと思う。こうしたクエストが相当先まで用意されているようなので、ライトファンタジーっぽい世界観に抵抗の無い人ならクエストもかなり楽しめそうだ。少なくとも私は抵抗が無いので楽しんでいる。
 
 

MMORPGの、資本主義的な顔が見えてきた

 
 こう書くと「ロールプレイングゲームのカジュアルプレイヤー向けの簡単なゲーム」のように読めるだろうし、実際、ある程度はそのとおりではある。
 
 しかし10日ほど遊んでみると、「優秀な生産手段を持ったプレイヤーほど利益を得られる」というMMOらしさというか、資本主義的な顔つきがあらわになってきた。
 
 たとえばペットシステム。
 
 

 
 
 前作のペットは、もっぱらプレイヤーが見せびらかすための自己顕示アイテムだったが、今作のペットは戦闘を手伝ってくれるだけでなく、ペット専用のクエストやバイトを請け負ってくれる。このペット専用のクエストやバイトの稼ぎが良いので、今作のペットは、生産手段である。ペットをクエストやバイトに派遣していると、小さな派遣会社の社長になったような気持ちになってくる。
 
 もちろんペットには性能差があって、稼ぎの良いペットは手に入れにくい。見た目がかわいく、性能にも優れ、レアリティも高いペットを手に入れるためのアイテムの値段は、早くも値上がりしている。
 
 

 
 
 前作でも大人気だったデビルチを手に入れるための『闇の契約書』は250万ゼニー超、ソヒーを手に入れるための『純潔の小太刀』は120万ゼニー超で動いていて、ちょっと手がつけられない。
 
 もちろんこれはペットだけではなく、優秀な武器・優秀な料理・優秀なキャラクターを持つことが、そのまま稼ぎに直結するわけだ。
 
 いち早く優れた生産手段に――つまり希少性の高いペットや武器や料理に――アクセスできるか否かが問われている、という点では、ラグナロクマスターズはぬるいゲームとは言えないし、現実社会と同じく資本主義的だ。前作に比べて、今作は見栄えの良さと生産性の高さが一致している傾向が強いので、見栄えの良いキャラクターは、資本家階級や貴族階級とみてほぼ間違いない。そういう意味では、現実世界よりも世知辛い地平が拡がっている。
 
 
 

「疲労度システム」がもたらしたもの

 
 前作の頃は、「廃人プレイ=24時間プレイし続けてカネを稼ぐ」ことで資本主義的なルールをひっくり返す余地があった。言うまでもなく「廃人プレイ」は身体に良くないし、今日ではゲーム依存・ゲーム障害と関連して批判されるものだろう。
 
 そのあたりを見越してか、ラグナロクマスターズには「疲労度」というシステムがあって、プレイヤーは一日300分しか狩りができなくなっている。それだけではない。前述のペット専門のクエストを1回オーダーするたびに60分が差し引かれるため、ペット専門のクエストを頻繁に出していると、プレイヤーの残り時間は無くなってしまう。
 
 

※蓄音機の前にキャラクターを置いておくと、一日60分ぶんだけ疲労度を回復させることができる。
 
 
 しかし逆に考えるなら、長時間ゲームに張り付いていられないプレイヤーでも、ペット専門のクエストや掲示板のクエストをこなしていれば、暇人に対抗できる、ということでもある。
 
 自動戦闘システム・ペット専門のクエスト・疲労度システムなどのおかげで、ラグナロクマスターズというゲームは、プレイ時間の長短がそこまで決定的ではなくなった。そのかわり、「一日300分という制約のなかで何を選択するのかがプレイヤーに峻厳に問われるようになった」、とも言える。
 
 一応、課金アイテムを用いれば、一日の残り時間を(重いペナルティ付きとはいえ)狩りにまわすこともできる。ただしその場合でさえ、プレイヤーが為すべきことは労働者の手作業ではない。ペットの派遣も含めて、プレイヤーに問われているのはホワイトカラー的な判断であって、労働者的な手作業ではない
 
 ラグナロクマスターズは、前作以上に「労働者がどれだけ手作業を積み重ねても、優れた資本力と判断力を持ったホワイトカラーには太刀打ちできないゲームシステム」だ。労働者としての体力や根性よりも、資本家やマネージャーとしての情報収集力や判断力が問われるようになっている。
 
 
 

現在の情報源は「5ちゃんねる」か「海外」

 
 このように現代MMORPG然としたラグナロクマスターズにもかかわらず、現時点では国内のゲームサイトはほとんど役に立たない
 
 


 
 
 昨今はゲーム攻略サイトの企業が栄華を誇っているが、それらの企業系サイトの情報で役に立ったのは料理のレシピぐらいのものである(しかも、材料の名前が間違っていることもあった)。前作でいう『RAG.D Project』みたいな総合サイトは今のところ存在しない。
 
 一覧性があって、ある程度役に立つ国内サイトといえば、現段階では『ラグマス情報まとめサイト』ぐらいだろうか。ただし、ここも海外版に基づいているため、国内版に準じた読み替えは必要だ。 
 
 一覧性では劣るけれども、5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)のスマホゲーム板のスレッドはたいへん役に立った。アイテムの入手方法も、攻略情報も、相場のヒントも、ここが一番まともで何度もお世話になった。有志によるwikiは企業系サイトによって滅んだが、匿名掲示板は滅んでいない。
 
 海外からの情報もかなり役立つ。モンスターが落とすアイテムや各職業のビルドは、英語圏のサイトが参考になった。ペットに入手方法については、外国人の動画に助けられたことさえあった。検索ワードを工夫すれば色んなところに引っかかる。
 
 総じて、現段階では『ラグナロクマスターズ wikl』とgoogle検索しただけではあまり情報は得られない。プレイヤーの情報収集力が試されている、と言えよう。
 
 そういった意味でも、現段階のラグナロクマスターズにはMMORPG然とした手触りがあって、眠っていた魂が奮い起こされるようだ。かわいらしいMMORPGが好きな人、とりわけ前作の雰囲気が気に入っていた人で、手作業を省略したい人なら、きっと楽しめるんじゃないかと思う。
 
 
 

*1:昔の言葉でいうならBOT狩り

*2:いにしえの言葉を使うなら、「afk」ってやつである

*3:いわゆる「養殖」

「私のワイン沼」について語ってみる

  
hikakujoho.com

 
  
 冒頭リンク先は「ワイン沼にこれからはまっていく人向けの記事」だ。
 ワインに興味があるけれどもスタート地点に戸惑っている人には役立つと思う。
 
 で、せっかくの機会なので、既にワインを愛好している人向けの文章、というより自分のワイン沼の現状をそっくり書いてみようと思う。
 
 ワイン沼の住人と言っても、沼の内実はだいぶ違う。 
 
 ボルドーの赤ワインが好きでひたすら貯め込んでいる人もいれば、カリフォルニア産のやたら値段の高いワインを攻めている人もいる。なかには、安ワイン道場の師範さんのように低価格帯のゾーンを攻め続けている人だっていないわけではない。
 
 好みもまちまちだ。軽くて繊細なワインを好む人もいれば、ずっしりとした、味や香りの強いワインを選ぶ人もいる。
 
 で、私も御多分にもれず、かなり偏ったワインの飲み方をしている。
 
 ここからの文章をワイン沼の住人が読んだら、「なるほど、あなたはこういうワイン沼住人なんですね」という理解があるだろう。しかし、そうでない人にはチンプンカンプンな内容かもしれない。まあでも個人ブログなので、構わず書いてしまおう。
 
 
 

ブルゴーニュ(赤)ワインが好きだ!

 
 私のワイン沼の総面積のうち、だいたい6割はブルゴーニュワインで占められている。
  
 

 
 
 ブルゴーニュワイン!
 
 ああ、どうしてこんなに素晴らしい飲み物が存在するのだろう。
 
 世間ではボルドーやカリフォルニアの陰に隠れ、あまり注目されないけれども、世界じゅうのワイン沼住人がブルゴーニュワインに大枚をはたいてきた。もちろん私も好きだ。もともと値段が高かったのに、ここ最近は中国の人々もブルゴーニュワインに注目するようになったせいか、値段が信じられないほど高くなった。
 
 それでも!
 買うことをやめない!
 
 口当たりが軽く、繊細で、ときに信じがたく濃密で、おかしくなりそうなほど香り高く、醸造の不思議を一身に集めたブルゴーニュの赤ワインは、どれだけ飲んでも飽きる気配がない。値上がりしてしまったから上物はなかなか飲めない。それだけに、体調の良い日に、五感すべてで賞味せずにはいられない。
 
ジョセフドルーアン ラフォーレ ブルゴーニュ ピノノワール
 この、一番ベーシックなお値段のブルゴーニュ赤ワインでさえ、さくらんぼのような香りと涼しげな飲み心地があって気持ち良い。さすがに上位クラスに比べると、複雑な香りや滋養は足りないけれども、酸味のある赤ワインが好きな私にとっては、こういう品で十分だ。
 
 
クロード・デュガ ブルゴーニュ ピノ・ノワール
 でもって、同じベーシックなクラスなのに、値段が約3倍の高いメーカーのやつを連れてくると、品質の差がたちまち明らかになるのがワインの世界。クロード・デュガは香りも口当たりもごついワインを作っているから、特に違いがわかる。自分の好みよりキツい作り手ではあるけれど、だからといって嫌いになるわけもなく、うめえうめえと飲んでしまう。
 
 
ダンジェルヴィーユ ヴォルネ カイユレ
 
 ブルゴーニュ南部はヴォルネ村の一級畑のワイン。味の濃さではほとんどの赤ワインに負ける。収穫年の作柄や熟成期間によって品質は気まぐれで、抜栓してみるまでわからない。はっきり言って、こいつはジャジャ馬だ。
 
 でも、とにかく繊細なつくりのおかげか、収穫年の作柄の特徴を、私みたいな素人でも感じやすい。抜栓するたび、希望が出るのか絶望が出るのかドキドキするけれどもやめられない。気まぐれなところすら魅力に思えてしまう。まるで悪い友達みたいだ。
 
 
ダンジェルヴィーユ ヴォルネ フレミエ
 
 でもって、(ヴォルネも含めた)ブルゴーニュのいいところは、「同じメーカーが作った、同格品の、ぶどう畑だけ違っている品」を買ってきて飲み比べしやすいところ。ぶどう畑が違うとワインにも違いがある様子を何度も確認すると、ものすごく自己満足が高まる。「フムフム、2002年のこの畑はこうで、あの畑はこうだ」などと訳知り顔に飲み比べるのが最高に楽しい。
 
 いざラベルを隠して当てっこをしてみると、もっと面白くなるが、そう簡単には当たらない。当たらないから面白いし、いざ当てられると有頂天になる。「芸能人格付けチェック」で、中級ワインと最高級ワインを飲み比べるやつがあるけれども、ああいうのは、他人のを見るより自分でやったほうが5倍ぐらい興奮します。
 
 
プス・ドール ヴォルネ カイユレ
 
 収穫年・ぶどう畑が同一の、違う作り手のワインを飲み比べてみるのも楽しい。作り手が違うと、同じ畑のワインでも作風がぜんぜん違ったりする。たとえば、このプス・ドールのワインと一個前のダンジェルヴィーユのワインは、同じ畑でもびっくりするほど違っている。
 
 ブルゴーニュ以外もそうだろうけど、ワインの味や香りの違いは【誰が作っているか(作り手)】【どこで作られたか(エリアや格やぶどう畑)】【いつ作られたか(収穫年)】によってだいたい左右される。とりわけ日本でワインを買う場合は【流通経路】によって品質が変わるかもしれないので、ワイン沼の人々は流通経路にも結構うるさい。
 
 だから、ワインを知ろうと思えば思うほど、この3+1の条件のうち、3つを揃えて比較検討をしてみたくなる。たとえば同一のインポーターが仕入れた、2009年につくられたブルゴーニュの赤ワインを複数の畑で飲み比べてみる、など。
 
 これがまた、とにかく面白い。比べて飲んでみると、すごく学びがある。
 
 「そんなことを学んで何になる」だって?
 
 もちろんなんにもならない。
 少なくともお金にはならないだろう。
 それでも、大地で実った奇跡に触れた気分にはなる。
 
 それと、こうやって飲み比べていくことで、好きなワインを選び取る力がついていく、ような気がする。自分の嗜好についても以前より詳しくなった。
 
 ブルゴーニュワインは、フランスのAOC法のおかげで【誰が作っているか】【どこで作られたか】【いつ作られたか】を確認しやすく、その良しあしのヒエラルキーを把握しやすい。少なくともイタリアワインや日本酒などに比べれば体系がしっかりしている。最初は覚えにくいし、最近は価格が暴騰してどうしようもなくなってしまったけれども、ここまで値上がりする前のブルゴーニュは本当に良いワイン沼だった。
 
 
 

ブルゴーニュワイン(白)もメチャクチャ好き

 
 ブルゴーニュの白ワインといえばシャルドネで、これまたひたすら素晴らしい。赤ワインは理知的に比較する余地があるというか、あるていど分析的に飲めるのだけど、シャルドネはどうも駄目だ。幸福感でどろどろになってしまう。
 
 快楽!
 驚嘆!
 畏怖!
 
 そういったものが押し寄せてきて、だんだん冷静でいられなくなる。
 
 とあるワインの専門家は、「シャルドネがはびこって世界の白ワインはだめになってしまった」的なことを言ったという。なるほど、そうかもしれない。ほかにも立派な白ワインの品種はあるけれど、シャルドネは、かなり広いレンジの美味しさや香しさや快楽を表現してしまう。
 
 
レ・ゼリティエール・デュ・コント・ラフォン マコン・ヴィラージュ
 
 ベーシックなブルゴーニュのシャルドネとして。気軽に飲むにはちょっと高いというか、もう少し安いシャルドネで妥協したいけれど、新世界のシャルドネとブルゴーニュのシャルドネはジャンルが違うというか、微妙に味覚体系が違うので、ブルゴーニュのシャルドネのベーシック品を時々飲まないとシャルドネの座標系がわからなくなってしまう。このワインあたりがシャルドネ座標系の基準点のひとつ。
 
 
エティエンヌ・ソゼ ブルゴーニュ ブラン
 
 フランスワイン、特にブルゴーニュワインの高騰は「高級品ほど値段が跳ね上がる」はずなんだけど、これは「ブルゴーニュ・ブラン」というジェネリック品のくせにすごく値上がりしてしまい、5000円以上になってしまった。昔はこれが2000円ちょっとで買えたので、シャルドネ座標系の基準点にしていたけれども、今ではすっかり高級品になってしまった。
 
 じゃあ、よその地域の5000円のシャルドネがこいつに対抗できるかというと……意外に難しい気もする。冒頭リンク先の記事ではオススメしなかったけれど、この、エティエンヌ・ソゼの「ブルゴーニュ・ブラン」を基準点としてひたすら飲み続けたら、シャルドネを味わう舌がかなり鍛えられると思う。
 
 2ダースぐらいは欲しい。いや、蛇口をひねったらジャーッとこのワインが出るようになって欲しい。そういうワイン。
 
 
ドメーヌ・ルフレーヴ バタール・モンラッシェ
 
 でもって、シャルドネも特級クラスになると値段があまりに高く、おいそれと口に運べない。それでも好きだ! 特級クラスのシャルドネの香りのインパクトと破壊力は、一度知ってしまったら忘れることができない。もちろん赤の特級も素晴らしいけれども、赤の特級には思考を加速し、私を理知的にさせる何かがある。対して白の特級は、私の思考を溶かし、味と香りの世界に溺れさせてしまう。
 
 一時期、「ブルゴーニュの高級シャルドネは頭がパッパラパーになってしまうからもう買わない」と決めていた時期もあるけれども、いつの間にか買ってしまう。身体が快楽を覚えてしまったからだろうか。
 
 幸か不幸か、値段が高くなってしまったので実際にはなかなか飲めない。だからこいつで人生を駄目にされるリスクはほとんど無い。こんなものが一本1000円で買えたら大変なことになってしまう。
 
 
 

人気なさそうだけど大好きなワインたち

 
シャトーラネッサン
 
 安いボルドーって、いいなと思う。
 
 高級なボルドーを長いこと熟成させると、とてつもない味と香りに化けるのは知っているが、うちはブルゴーニュだけで精一杯なので高級ボルドーに手がまわる気がしない。
 
 でも、安ボルドーには安ボルドーのいいところがある;それは、むやみに味や香りで煽ってこないこと。ブルゴーニュのワインたちは、赤も白も魅力がヤバいというか、グラスいっぱいに香りが立ち込めて人間をたぶらかすところがあるけれど、安ボルドーは味や香りに節度があるというか、しっとりして穏やかで、ミルキーだけど甘ったるくなくて、落ち着いた気持ちで飲める。香りや味の自己主張が強いワインばかり追求していると、ふと、こういう品が欲しくなる。
 
 
アルジオラス コスタモリーノ
 
 イタリアのサルディニア島はコスパの良いワインがごろごろしていて、なかでも、このアルジオラスの作るワインは「ただの安い田舎ワイン」ではなく、微妙に洗練された気配があって、お手頃品も高級品も全部いい。このコスタモリーノも、ただ「酸っぱくて石灰岩のフレーバーが強いサルディニア白ワイン」ではなく、愛嬌もあってよくできていると思う。
 
 イタリアワイン沼には、シャルドネやメルローといった有名な国際品種とは違った土着のぶどう品種がたくさんあって、それらを追いかけているだけで終わる気配がない。サルディニア島の土着品種だけを相手にしていても、たぶん飽きないだろう。
 
 
アッレグリーニ アマローネ デッラ・ヴァルポリチェッラ クラシコ
 
 イタリアは不況が続くためか、ごく一部のワインを除いてそれほど値上がりしていない。で、アマローネは苦みや渋みをものともしないワイン沼住人*1にとって別天地のような状態で、超高級フランスワインには対抗できないにせよ、へたな赤ワインを打ち負かす旨味と香りをぶちかましてくれる。アルコール度数のせいか、イタリアの人々の気質のせいか、「ワイン鑑賞のために緊張を強いる」ような難しさが無いのもいい。
 
 でもこれは秋~冬のワインなので、これからしばらくは飲まないだろう。それとアルコールが強すぎるのでこれを一日で飲み切ってしまうのはほとんど不可能だ。金曜の夕方にあけて日曜の夜に飲み終わると、週末がハッピーになる。
 
 
カンテ エクストロ
 
 このワインはキワモノ系で、なんと、「よく振ってからお飲みください」とボトルに書いてある。実際にボトルを振ってみると、酵母みたいな沈殿物がぶわーっと舞い上がって、たちまち不透明な飲み物になる。
 
 味も白ワインとしては異質で、ビックルみたいな風味があって、ザラザラした舌ざわりと苦みがずーっと残る。すごい精気を伴っていて、この点では数万円の格上ワインに匹敵するほど。正統な白ワインのヒエラルキーからは逸脱しているけれど、これはこれで面白く、生命力のある飲み物なのは間違いない。
 
 
カッパ チ シャルドネ カンテ
 
 で、上掲のエクストロの下位ランクにシャルドネもあるんだけど、こちらはこちらでヘンテコというか、ボトルのなかに蜃気楼が揺れているかのようで、発酵食品の王道を行くような雰囲気がある。よそのワイン沼の人たちがこのヘンテコなシャルドネを飲んだ時、どういった感想を持つのか興味ある。私はこういうのも好きです。
 
 
 

好きなワインを、好きなように。

 
 ここに挙げたワインは自分が好きで好きでしようがない、手に取りたくなる品ばかりだけど、すべてのワイン沼住人の贔屓たりえるとは思えないし、まして、ワインに慣れていない人々に勧められるものとも思えない。
 
 ただ、広大なワイン沼のなかで自分が出会い、馴染んだワインはこれらなので、もしワイン沼に住所があるとしたら、ここに挙げたワインたちが私のワイン沼のアドレスということになる。
 
 ワイン沼は広い。広いから、いろんな嗜好の人のいろんな楽しみ方を受け入れてくれる。これからも我が道を行こうと思う。
 
 

*1:それと、若干の甘味と濃厚なアルコール度数にも抵抗感がないワイン沼住人