シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

あの頃、俺達はゲーム障害/ネット依存だったのだろうか

 
「バイトテロ」でも話題になったネットと承認欲求について専門家に聞いてみました! | 一般社団法人 日本産業カウンセラー協会ブログ 「働く人の心ラボ」
 
   
 リンク先は、産業カウンセラー協会さんが、先日のインタビュー記事の一部をオンラインに抜粋してくださったものだ。全文掲載ではないけれども、特に後半に述べた私の問題意識はほとんど丸ごと掲載していただいた。
  
 これを再読しているうちに、私が一番ゲームやネットをやり込んでいた頃を思い出したりもした。
 
 

皆、何かを切り詰めてハイスコアを目指していた

 
 1990年代の私は大学より長い時間をゲーセンで過ごしていた。とはいえ臨床実習はサボったことが無いし、留年もしなかったので一応の線引きはできていたのだろう、たぶん。
 
 そんな私でも、『バトルガレッガ』と『怒首領蜂』がゲーセンに登場した時は危うかった。1990年代の弾幕シューティングゲームを代表するこの二作品に、私は熱狂した。四六時中ゲーム攻略のことを考えていた。
 

首領蜂 / 怒首領蜂 / 怒首領蜂II サウンドトラック(2CD)

首領蜂 / 怒首領蜂 / 怒首領蜂II サウンドトラック(2CD)

 
 私の出身大学の近くには数件のゲームセンター(ゲーセン)があったが、弾幕シューティングゲームの上手いプレイヤーがあまりいなかった。市内には、"全一"*1の栄誉に輝いたことのある一流プレイヤーも何人かいたが、彼らは弾幕シューティングゲームがあまり得意ではなく、敬遠していた。
 
 そうしたいきさつで、私に出番が回ってきた。ゲーセンの店員さんが「君、『ゲーメスト』にスコアネームとスコア載せようよ」と声をかけてくれたのである。地方のゲーセンという小さな世界で、私はだんだんハイスコアを目指すようになっていった。それが、当時の私にはすごく重要なことのように思われた。
 
 朝の臨床実習が終わるや、私はゲーセンに直行した。11時ぐらいのゲーセンは店が空いていて静かなので、集中してゲームをやるにも情報交換するにも都合が良かった。午前の常連のなかには私以外にも大学生が何人かいたが、彼らは私以上にゲームに対して熱心で、やがて留年したり退学したりしていった。もし、彼らの父兄が彼らを2019年の精神科や心療内科に連れていくとしたら、ゲーム障害(ゲーム症)と診断されるだろうか?
 
 いずれにせよ、ゲーセンという空間にはそういう学生がまったく珍しくなかったし、首都圏のゲーセンも似たようなものだったことを私は知っている。
 
 1990年代ということもあって、ハイスコアラーのなかにはフリーターも何人かいた。まだeスポーツなんて言葉は無く、ゲームが上手くてもお金にならない時代だったが、それでも彼らは人生を賭けてゲームに打ち込んでいた。とはいえ、フリーターとして働きながらハイスコアを目指す生活は傍目に見ていてもギリギリで、健康を損ねてしまう人もいた。
 
 ゲーセン仲間から、こんな逸話を聞いたこともある。
 
 曰く。A君は今月の『ゲーメスト』の集計〆切までにどうしてもハイスコアを更新したかったが、ゲームを練習するためのお金が足りなかったので食費を切り詰めることにした。一日に6本の「うまい棒」だけで食いつないでゲーセンに通っていたが、ある日、とうとうゲーセンで倒れてしまって救急車で運ばれた。栄養不良の治療を受けてゲーセンに帰ってきてからは、A君のあだ名は「うまい棒」になった、と。
 
 このA君ほど極端な人は稀だとしても、ゲームに夢中になっている私たちは、必ず何かを切り詰めていて、その切り詰めたぶんをゲームに充てていた。切り詰めていたのは、金銭だったり、睡眠時間だったり、交通費だったり、学校の授業や単位だったりした。そういう人々が血眼になってゲームをやっていても違和感のない雰囲気がマニア系ゲーセンには漂っていた。
 
 ゲームの話しかしないメンバーもいたし、色々な話をするメンバーもいたが、どちらであっても構わなかった。その、どちらでも構わない感じが居心地が良かった。失うものがあったのは間違いないが、私にとってかけがえのない居場所には違いなかった。たぶん、他のメンバーもそう思っていたことだろう。
 
 

インターネットという不夜城

 
 それから数年後、私は夜な夜なインターネットを徘徊するようになっていた。
 
 研修医になって以来、だんだんゲーセンに通うのが難しくなっていくなかで、私はインターネットに軸足を移しはじめていた。個人サイトのリンク集をネットサーフィンして、気が済むまでゲームやアニメの情報を読み漁った。と同時に、テキストサイトをはじめ、いろいろな個人サイトでコミュニケーションを楽しんでいた。『PSO』や『ウルティマオンライン』には乗り遅れたけれども『ラグナロクオンライン』には間に合い、20代後半の活力を惜しげもなく流し込んでいた。
 
 インターネットという名の不夜城に、私はすっかり魅了されていた。
 
 もちろん夜更かしをしているのは私だけではなかった。インターネットにおいて午前0時は正午も同然で、誰もその時間を「遅い」とは感じていなかった。テレホーダイの生活習慣の名残り、という部分もあったかもしれない。2ちゃんねるでも、夜はレスポンスが早かった。あの時代のインターネットは、午前2時に向かって加速していくような性質だった。2007~08年頃の、まだマイナーだった時代のtwitterにしても同じだ。真夜中のtwitterは、サバトのごとし。
 
 2019年から回想すると、よくもまあ、みんな不健康なことをやっていたものだと思わずにはいられない。
 
 睡眠不足や昼間の集中力低下をもって「生活への支障」と呼べるなら、当時の私は生活に支障をきたすことがあったように思う。インターネットへのアクセスがきちんとコントロールできていない、と指摘されても、そのとおりとしか言いようが無かった。「午前0時にプロンテラ南口に集合して、午前2時までハイオーク狩りをする」生活は、00年代の私には自然なのものだったが、2019年の私には不健康とうつる。その不健康なネットライフの代償を、当時の私たちは確かに支払っていたように思う。
 
 当時の私にとって、インターネットの不夜城は心理的に必要だったが、その頼りかた、そのコントロールしきれていないありようは、現在の基準では不健康なものと言わざるを得ない。
 
 

「疾病の関連要因」とも「貴重な居場所」とも解釈できる

 
 あの頃、ネットで出会った人々の少なくない割合が、メンタルヘルスの治療を受けていたか、後日受けるに至っていた。2010年代以降に発達障害の診断を受けるに至った人もいる。研究報告では、ネット依存はADHDや諸々の精神障害との合併が多いという*2が、少なくとも私が属していた00年代のネットのヘビーユーザーの集まりは、実際、だいたいそんな感じだったと思う。出会った時点では元気だったけれども、後々になって気分障害や不安障害やパーソナリティ障害と診断されるに至った人、発達障害と診断されるに至った人も珍しくなかった。
 
 
 このように、思春期の私が居場所と感じ、アイデンティティを仮託していた場所はどれも、社会適応の王道からは遠いものだった。多かれ少なかれみんな、何かを切り詰めていたり、不健康をおして娯楽やコミュニケーションを求めていたように思う。みようによっては、社会適応しがたい人々がかろうじて社会にぶら下がるための貴重な場所だったとも解釈できるし、みようによっては、アンコントローラブルで不健康なライフスタイルをもたらす吹き溜まりという風にも解釈できるかもしれない。
 
 ただ、ここ30年ほどの社会変化の潮流を踏まえるなら、90年代のハイスコアラーや00年代のネットのヘビーユーザーのような存在が健康/不健康という尺度でまなざされ、疾病という概念に回収されていくことに必然性は感じる。現在の制度下でも医療保護入院になっておかしくないような(ゲーム障害やネット依存の)中核群だけに病名が適用されるのでなく、もっと広い範囲にも適用されるようになるとしたら……おそらくそれは、精神医学自身の奮闘によってという以上に、社会の側にそのような病名を適用しなければならないニーズが潜在していて……ということになるだろう。
 
 

「進歩」が「社会に適応する」を変えていく

 
 平成時代にあり得た居場所が、令和時代に居場所としてNGになる可能性は、私はあると思う。社会適応のマイナーバリエーションとして黙認されていたものが、社会不適応のマイナーバリエーションとして認知される可能性も十分あり得ると思う。そうした可能性は、ゲーム障害やネット依存に限った話でも、精神医学と社会が関わる領域に限った話でもない。平成の30年ほどの歳月のなかで、「社会に適応する」ということの形式や条件はかなり変わった。
 
 一般論としては、その変化は「進歩」と呼んで差し支えのないものだ。だが、「進歩」があったということは、その「進歩」から取り残されたもの、「進歩」からはみ出してしまっているものは、誰かが何かのかたちで取り扱い、「進歩」によって変化した社会の枠組みの内側へと回収しなければならない。
 
 ゲーム障害やネット依存を巡る状況がどう変わっていくかを眺めることで、そうした「進歩」の歩みを見定められるのではないだろうか。
 
 これらの概念が、中核群だけに診断が適用されるものに留まるのか。
 それとも数年を経て燎原の火のごときブームになっていくのか。
 注視していきたいと思う。
 

*1:当時の"全一"は、すなわちワールドレコードと考えていただいて差し支えない

*2:例えば https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/23859664

これから意識低くFGOを始めるためのtips

 
『FGO』(Fate / Grand Order)を遊び始めて一年経ったのと、はてなブックマークの人が『FGO』を最近始めたのを見かけたので、意識低く遊び始めるためのノウハウをまとめてみました。
 
 

 もくじ

 
 

サーヴァントをお迎えする際に気をつけること

 

  • 有料ガチャを回しすぎてはいけない

 
 プレイしはじめて最初の半年はわかっていなかったんですが、このゲーム、最初にお金をたくさん使って★5サーヴァントを集めると、かえって難しくなっちゃうんですね。
 
 フレンド申請をとおして知った他のプレイヤーを眺めていて気付いたのですが、初期段階で有料ガチャを回しまくり、★5サーヴァントを迎えまくった人は、しばしば、それらを育成しきれずにやめてしまったり、アンバランスな育成になってしまったりしていました。
 
 ★5サーヴァントをレベルアップさせるためには希少性の高い素材(アイテム)がたくさんが必要で、それらはFGOを始めたばかりのプレイヤーが簡単に揃えられるものではありません。また、★5サーヴァントは種火(経験値のもと)も大量に消費するので、一人前に育てるまでに長い時間とリソースを傾けなければならなくなります。
 
 それより、絶対に役立つと判明している★3を抑えておいたほうが良いのではないかと。
 
 

 
 上に並べたなかで、★3のエウリュアレ、ダビデはメインクエスト第六章で大活躍してくれるだけでなく、ずっと先まで使うので育てて損をすることはありません。★2のゲオルギウスも、最初の3~6か月ほどはマシュと同じぐらい役に立ってくれるはず。★3のクーフーリン(プロト)も粘り強さがあって後々まで頑張ってくれます。もちろん、最初からいるマシュは素晴らしい防御役です。
 
 よほどこだわりがあるのでない限り、★4以上のサーヴァントがせいぜい2~3体ぐらいの状態からスタートして、★1~★3を丁寧に育てたほうが遊びやすいのではないでしょうか。「有料ガチャで、できるだけレアリティが高く、できるだけ新しいキャラを入手したほうが良い」という考えは、FGOの序盤には該当しないように思います。
 
 

  • サーヴァントについて手っ取り早く知るwiki

 
 ネットには、細かいものから大雑把なものまで、おすすめサーヴァントについてのサイトやwikiがありますが、個人的には、
 
 【FGO】検証勢が考えたサーヴァントランキング(4月版) - GameWith
 
 この、Gamewithのおすすめサーヴァント一覧のS+~Sを眺めておけば十分ではないかと思っています。ここより詳しい情報源もあるのですが、通覧性が良く、ざっくりしているのはここです。新しい★3や★4に出会ったら、ここでおおよその性能や潜在性を見積もっておけば良いと思います。
 
 

  • もっと詳しく調べたい時のwiki

 
 ただし、★5をひいた時にはもっと詳しいところを読んでも良いかもしれません。
 
FGO(フェイトグランドオーダー) 攻略まとめwiki
 
 ★5に限らず、本当はすべてのサーヴァントについてここを通読するのが望ましいのですが、意識低くスタートするなら通読は無理でしょう。★5と、どうしても詳しく調べたい★4以下のサーヴァントについてだけ読むといいと思います。たぶん、最終的に一番お世話になるのはこのwikiでしょうから、慣れておくのが好ましいといえば好ましいのですが、初期段階で通読する必要はありません。
 
 

最初の一週間で覚えること

 

  • すぐ宝具が撃てるフレンドサーヴァントを覚える

 
 FGOの最序盤でいちばん有用な情報は、「フレンドのサポートサーヴァントのなかで、敵を全部やっつけられるものを覚える」だと思います。
 
 最初の一週間は、手持ちの戦力はあてになりません。フレンドから借りてくるサポートサーヴァント、それも出来るだけ強く、できるだけ宝具を早く撃てるサーヴァントを覚えましょう。それだけで最初の一週間はほとんど困らないはずです。ゆっくりとしたペースでやるなら、一か月程度は大丈夫でしょう。
 

 
 たとえば↑のような、★5で1ターンめから宝具を撃てるサーヴァントを探し出しましょう。こういったフレンド(+概念礼装)のサーヴァントをいち早く覚えて、徹底的にこき使いましょう。そのためにも、フレンド申請は節操なくやっておくのが良いと思います。
 
 NPが最初から溜まっているサーヴァントは、黒い背景の爺さんの概念礼装を装備しているものなので、
 

  
 ↑この、黒っぽい概念礼装を目印にしましょう。ここに並んでいる「バーサーカー+カレイドスコープ」の組み合わせは、どんな相手でも大ダメージを与えてくれるので、最初はこいつらを借りてくるだけでだいたい何とかなります。
 
 

  • 最初一週間の種火(経験値)稼ぎ

 
 wikiには「種火超級以外はやる価値なし」と書かれていますが、これは、ある程度成長してからの話で、最序盤に種火超級をやるのは難しいと思います。
 

 
 自信のないうちは種火中級か、種火上級をやっておいたほうが無難です。一番下の種火超級は、手持ちのサーヴァントがいくらか強くなってからでも構いません。
 
 それと、wikiでは「銀色の種火はマナプリズムと交換したほうが良い」とかなんとか書いてありますが、これもはじめの一週間に限っては無視したほうが良いと思います。すべて、サーヴァント強化に使ってしまいましょう。
 
 

  • サーヴァントの相性を確かめるボタンを覚える

 

 
 FGOにはサーヴァントクラスごとに相性があります。「暗記しなさい」「ゲームの基本的なシステムだ」と言う人もいるでしょう。
 
 しかし、こんなのはやっているうちに覚えていくべきもので、一生懸命に暗記するのは私の性に合いませんでした。
 
 そのかわり、戦闘が始まる前に必ずクラス相性を確認するクセをつけたほうがやりやすいと思います。クラス相性はすぐ覚えなくてもいいですが、このボタンの存在は最初の一週間で覚えたほうが良いと思います。
 
 

  • 困ったらマスタースキルや令呪を使ってみる

 
 マスタースキルや令呪は適当に使っているだけでも便利さがわかると思うので、困った時にポチポチ触っていれば十分ではないかと思います。令呪は毎日回復するので、使って休んでを繰り返すと健全なゲームライフを心がけることもできます。
 
 

最初の一カ月で知っておくと便利なこと

  
 

  • そろそろバスター・アーツ・クイックを覚える

 
 一ヶ月もすればバスター(赤)・アーツ(青)・クイック(緑)の三種類のコマンドカードに慣れてくる頃でしょうから、ここらで色を揃えてみたり、最初に出すカードを意識してみたりすると良いかもしれません。
 
 参考:【FGO】コマンドカードの切り方、効率的な順番や選び方を紹介! | AppMedia
 
 でも、こんなのは慣れてからでも構わないと思います。
 
 

  • クリティカルスターも慣れてからで十分

 
 FGOは慣れれば慣れるほどクリティカルスターを意識するようになるでしょうけど、はじめの一ヶ月は狙って集めるのは難しいはずなので、気にしなくて構いません。
 
 たまたまスターが集まり、たまたまクリティカルが出た時に喜んでおきましょう。
 
 

  • 育成素材に困った時に見るサイト

 
 手持ちのサーヴァントを育てるうちに、素材が足りないという事態を迎える日が来るはずなので、そういう時はwikiを調べましょう。
 
【FGO】素材一覧とドロップ効率まとめ|今集めやすい素材も一目でわかる! | AppMedia
 
 こちらのページから素材それぞれについて調べれば、たいていのことがわかるはず。毎月のログインボーナスの素材に迷った時も、ここを参考にすればとりあえず大丈夫。
 
 

  • イベントは完走するものでなく、手に入る限りのアイテムを手に入れるもの

 
 プレイして1か月かそこらのうちに、「期間限定イベント」みたいなのが始まることがありますが、これは、ベテランの人でも暇をつぶせる……もとい楽しめるように作られているので、最初の一か月のうちは、手が出せる範囲で手を出してみて、素材アイテムを幾らか入手できれば大成功じゃないかと思います。
 
 ちなみにうちは「期間限定イベント」を完走できるようになるのに3か月以上かかりました。素材が足りなくて困っている時は期間限定イベントを半端でもやったほうが良いこともありますが、本編クエストを進めたほうが幸せになれることもあるので、やってもやらなくてもどちらでもいいし、本編が進んでいないから参加できないとしてもあまり気にしないほうがいいような気がします。
 

  • NPが増える概念礼装を使う

 
 フレンドサーヴァントみたいに宝具を早く撃ちたくなったら、まずは★3の概念礼装でNPが増えそうなものをとりあえず集めておくと後々まで役に立ちます。
 

 
 ここに挙げた概念礼装の左側2つは一年経った今も現役です。真ん中とその右側は、ときどき使っています。一番右端の「虚数魔術」は序盤では大当たりのNP+60%。小さなことからこつこつと集めていきましょう。
 
 

気張ってやるゲームではない……はず

 
 ここに書いたことをやっていれば、とりあえず、意識は低いかもしれませんがFGOは何とかなっちゃうと思います。
 
 上手なプレイヤーからみれば手ぬるいことばかりでしょうけど、ソーシャルゲームをいきなり意識高く始めるのはどうかと思うし、FGOも齢を重ねたタイトルになってきているので、ムキになってはじめるものではないように私は思います。
 
 最後に、うちの初期メンバーを貼っておきます。
 

 
 最初はこれぐらいの面子でもじゅうぶん。フレンドさえ申請していれば途中までは何とかなります。意識低くスタートしてもどうにかなるのもFGOのいいところじゃないかなぁ……と私は思っています。
 
 

「steamのセールだから買う」は良くない習慣だと思う

 
 
 
 我が家では、ここしばらくゲームショップの店頭でゲームを買っていない。ときどきAmazonで買うことならあるが、大半はダウンロード販売で済ませてしまっている。
 
 なかでもPCのゲームを買う時は、steamというプラットフォームに頼りきっている。
 
 store.steampowered.com
 
 PCで遊びたくなるようなゲームはだいたいここにある。しかもクリスマスをはじめ、年に何度かのセールの時は非常にお買い得な値段がついているから、つい、ゲームを買ってしまいたくなる。PCゲームには、1つのタイトルで100時間ぐらい遊びたくなる大作も多いので、セールの時に大量購入すれば10年間はゲームに困らないほど買うことだってできるだろう。
 
 steam上でゲームを買っておけば、かさばらないし、他のPCに移ってもすぐダウンロードできるし、便利なことこのうえない。
 
 

「家族みんなsteamのセールの虜」

 
 ただ、steamというプラットフォームが我が家に定着して、少し、困ったことが起こりはじめている。
 
 というのも、嫁さんや子どもがsteamのセールをあてにしてゲームを買うようになった……だけでなく、「steamのセールだから買う」という習慣を身に付けはじめているからだ。
 
 セールになっている時のsteamのゲームは安い。
 
 最新作の値引き率はあまりあてにならないけれども、数年前にリリースされたゲームなら、傑作や大作でも非常に安い価格で購入できる。追加ダウンロードコンテンツのたぐいを省いた場合は、特にそうだ。
 
 そういった、異常な安さで名作が揃い踏みしているセールを目の前にして、「セールだから買ってしまおう」という感覚で嫁さんや子どもがゲームを選んで、実際に買い求めておく(ときには「いずれ遊ぶためにと称して買っておく」)ことが、私には怖く感じられるのである。
 
 半額とかセールとか、そういう言葉にもうちょっと耐性つけてくれよー。
 
 

「値段の安さ」でゲームを選んではいけない

 
 steamのセールに限らず、いまどきは高品質なゲームを低価格で手に入れるのはそれほど難しくは無い。Nintendo Switch Onlineが提供しているファミコン時代のゲームだけでも、名作の数々を安い利用料で遊ばせてもらえる。いまどき、ゲームに大枚をはたかなければならないのは発売直後のゲームとソーシャルゲームの有料アイテムのたぐいぐらいだ。
 
 そして格安の名作たちの外側には、在野のフリーゲームがたくさん控えている。
  
 そういう時代だからこそ、ゲームは価格の安さで選んではいけないのではないだろうか。
 
 steamでは顕著だけど、いまどき、セールでお買い得だからと名作に手をつけてまわると、金額的限界を迎える前に時間的限界にぶちあたる。そして未プレイのゲームが溜まり、ゲームオタクの言葉でいうところの「積みゲー」状態になっていく。
 
 かつての「積みゲー」は、まさに「ゲームが積みあがる」ものだった。パソコンゲームの大きなパッケージをたくさん買おうものなら、たちまち本棚や押し入れを占拠し、やがて部屋の床にも積まれていく。積みあがったゲームが崩れて大変な思いをしたことのある愛好家も珍しくないはずだ。
 
 ところがダウンロード販売が普及したことによって、「積みゲー」が本棚や押し入れを占拠しなくなり、空間的限界が解決してしまった。
 
 なまじかさばらないから、いくらゲームを「積みゲー」しても平気になってしまっている。そのうえセール期間には非常に安くゲームを売ってくれるので、「セール期間に買わなければ損」といった気持ちになってしまうから性質が悪い。自分の意志できっちり歯止めをしなければ、なし崩しにゲームを買ってしまう。
 
 現在のゲーム愛好家にとって本当にボトルネックになり得るのは、金銭的限界ではなく空間的限界でもなく、時間的限界、あるいはアテンションの限界だろう。だとしたら、セール期間にやたらとゲームを買い込み、時間的限界やアテンションの限界に予約的圧力をかけるのはそれほど「コスパ」の良い習慣ではない、という風に私は思う。
 
 もちろん、それが狙いに狙った購入である限り、セール期間にゲームを買うのはあらゆる意味でお買い得と言えるだろう。それでも、価格の安さに目を奪われ、「セール期間に買わなければ損」と称してもともと買わない予定だったゲームまで積んでしまうのは、ゲームが氾濫する2019年においていかがなものだろう。
 
 steamのセールに魂を奪われる家族の姿を見ていて、そんなことをよく思う。早くセールに対する免疫をつけてもらいたい。
 
 
 補足:「積みゲー」の動機として「お布施」を挙げる人もいるかもしれない。その感覚はわかる。私だって『シュタインズ・ゲート』や『斑鳩』は複数のゲームハードで何度も買ってきたし、ケイブやタイトーのシューティングゲームも「お布施」感覚で購入してきた。「お布施」の話も、これはこれで長くなるのでまた別の機会に。
 
 

若者でなくなったら「成長のルール」が変わった

 
 
 ひたむきに成長しようとする若者を観るのが好きだ。
 
 オンラインでもオフラインでも、10代~20代、ときには30代前半ぐらいの年齢の人が、しゃにむに成長しようとして、あれこれ試みたり、ジグザグに努力したりするのを観るのが好きだ。一点集中突破の成長を目指す若者も気持ちいいし、3つ~4つの成長の芽を隠し持ちながら、したたかに成長を目指す若者にも惹かれるものがある。
 
 私が若者の成長に惹かれるのは、過去の自分自身の姿がダブるからでもあるし、成長に対してスレきっていない感じがするからでもあろう。若者は、肌ツヤが瑞々しいだけでなく、成長に対する感性という点でも瑞々しい。
 
 

若者はフラフラしていても成長する

 
 そして若者の可能性。
 
 長くブロガーをやっていると、年下のブロガーや年下のSNSアカウントの成長過程を、数年にわたって眺める機会がままある。ときには、オフ会でそうした成長過程をつぶさに確かめることさえある。
 
 20代の人が語る成長戦略は、いつも上を向いている。前を向いている……というより上を向いて歩いている感じがするから、ちょっと危なっかしいと思うこともある。それでも意外に上手くいくのだから面白い。遠回りも効率性も度外視して上を向いて歩いていた若者が、数年後にはちょっとした肩書きを手に入れていたり、知識を蓄積して書籍を出版していたりすることがあった。尖ったガラスみたいだった若者が、いつの間にか分別を身に付け、それでいて尖った感性を奥に秘めたまま仕事を続けているのを確認することもあった。
 
 私自身を振り返ってみても、20代の頃、地に足の着いた、目の前の現実に寄り添った成長戦略だったとは全く思えない。
 
 20代~30代前半の私は、自分がどんな医療者になるのかもよくわからないまま、興味や関心の赴くまま勉強していた。上司から勉強しろと言われたことはひととおり勉強したつもりだけど、そこに最適化されていたとは到底言えない。
 
 インターネットやブログにしてもそうで、今にして思えば無謀な出版企画にとりつかれ、いろいろな出版社に連絡をしたり、いろいろな人に相談をしたりしていた(当時お世話になった人達には頭があがらない)。地に足がついていなかったともいえるし、前よりも上を向いて歩いていたともいえる。
 
 でも、そんなことができたのは私が若かったからだろうし、当時やったことは全て現在の私の根っこになっている。
 
 上を向いて歩いていても、フラフラしていてもそれなり成長し、血肉になるというのは若かったからだと思う。
 
 そうやって上を向いてフラフラ歩いた足跡が、いつの間にか自分自身の人生のレールの材料になり、そこから降りようにももう降りられない感じになってきたら、「若者終了」なのだろう。上を向くのでなく、前を向いてレールに沿って成長するようになると、若者というより大人、いや、中年といった趣が漂いはじめる。もちろんこれは悪い意味で言っているわけではない。人生の成長プロセスが次の段階に入った、というだけのことだ。
 
 

「何かできるようになりたい」から「残り時間でやるべきことをやりたい」へ

  
 じゃあ、「若者終了」して悲しいかと言われると、あまりそういう気はしない。
 
 フラフラしていても血肉になる若者の特性が羨ましくはあるけれど、逆に考えると、若かった頃は、自分にとってのベストな成長戦略や成長効率性が今よりぜんぜんわかっていなかった。何をやっても伸びるとはいえ、右も左もわかっていなかった若者時代に戻りたいとは思えない。
 
 世間のことや自分自身のことがおぼろげながら把握できるようになったおかげで、現在の私は、だいたいどれぐらいの時間と労力でどれぐらい自分が成長するのか、おおよその見当がつくようになった。少なくとも20~30代の頃に比べて目星がつけられるようになった、とは言える。
 
 ロールプレイングゲーム風に言うと、若者時代の成長戦略は、経験値効率も必要なスキルや知識もほとんど不可視の状態だったのに対して、中年になってからの成長戦略は経験値効率がだいたいわかって、必要なスキルや知識もあるていど推定できる。必要なステータスや知識にアクセスするための方法やコストが見積もりやすい。若者時代に比べて、自分の成長が「計画的」「効率的」になったように思う。
 
 そのかわり、残り時間が気になるようになった。
 
 たぶん、現在の私なら、計画性と効率性の許す限りにおいて、私はまだ成長できるだろう。少なくとも自分が関心を持っている分野については。
 
 しかし、成長の計画性や効率性と、自分の寿命や加齢による衰えを掛け合わせてみると、最大でどれぐらいステータスや知識にアクセスできるかの最大値も逆算できてしまう。
 
 私は「還暦になってからが第二の人生」みたいなことは還暦を迎えた人しか考えてはいけないと思っているので、とりあえずの成長限界点として還暦を仮定している(還暦まで生きていられる自信があまり無い)。
 
 還暦までのたかだか十数年の間に、計画性と効率性をもって成長に費やせる余地は有限だ。たとえば、全力を尽くして執筆するような本を3冊ほど書いたら、私の残り時間は終わってしまうだろう。少し方向性を変えて、メディアへの露出度の高い精神科医を目指すことも不可能ではないだろうけれど、それをやってしまえば書籍に全力を尽くすわけにはいかなくなるだろう。メンタルクリニックの開業? それもいいかもしれない。だけど他の選択肢を欲張るわけにはいかなくなる。
 
 だから「成長のルールが変わった」と私は感じる。
 
 20~30代前半までの成長は「何でもいいから成長しろ」「とにかく成長しろ」というルールだったが、40代以降の成長は「成長はできよう。だが、有限の伸びしろの使い道をよく考えろ」というルールになった。少なくとも私は、そのように感じている。
 
 もちろんこれは40代の私が現在進行形で感じているルールの所感で、60代の人がこのように考えているとは思えない。たぶん、60代の成長にはそれはそれで別のルールがあるのだろう。だがさしあたり、若者との対比で言えば、残り時間を意識するというのが成長を巡るルールの一番大きな違いだと思う。
 
 

じきに衰え、死ぬという前提で成長を見据える

 
 人間の寿命は有限で、現実の生活を営みながら成長に傾けられるリソースには限りがある。
 
 私は不老不死を信じていない。私は生きあがくなかで年を取り、やがて死んでいくだろう。だけど、だから悪いとはあまり思っていない。
 
 自分の生と時間が有限であることがひしひしと実感できるようになったおかげで、私は生きること・成長することに対して以前よりも真面目に構えるようになった。同じく、今という時間を生きている同世代の他人の生きざまにも真面目に構えるようになった。メタに構えるなら、そういう構えに変わったこと自体もひとつの成長なのかもしれない。
 
 成長のルールが変わっても、ともあれやっていくしかない。
 
 

アニメ版『転スラ』が力尽きていた件

 

転生したらスライムだった件 1 (特装限定版) [Blu-ray]

転生したらスライムだった件 1 (特装限定版) [Blu-ray]

 
 
 当初予想のとおり、アニメ版『転生したらスライムになっていた件』(以下、『転スラ』)はなかなかよくできていた。
 
 『小説家になろう』版は嫁さんのお気に入りのひとつで、「必ず試してみなさい」と言われていた。はたして、展開良し、ギミック良し、キャラクターはみんな個性的。シズさんや暴風竜ヴェルドラのような大物だけでなく、細かいキャラクターの見せ場も面白く、とても良かった。
 
 第1クールはオークロード討伐の話でまとまっていて、良い意味でなろう小説のご都合主義が結実したような内容に満足した。
 
 第2クールも、魔王ミリムがひたすらかわいく、ご都合主義といえばご都合主義かもしれないが、よく磨き抜かれたご都合主義でのどごしが良かった。うんうん、こういうのでいいんだよ。
 
 ところが第2クールの終盤、なんだかよくわからなくなった。
 
 原作の尺から察するに、2クールアニメとして『転スラ』をまとめるのは容易では無かったと思われるけれども、それにしても、正規ストーリー最終話にあたる23話は、過去のカットの使い回しに満ち満ちていて、本当にこんなものを最終回にしたかったとは思えない内容だった。
 
 続く外伝24話、外伝25話。
 
 外伝24話はシズさん大活躍でそれなり楽しかったけれど、わざわざ放送しなければならない必然性がよくわからなかった。間に合わせとして挿入された外伝ではないのか?
 
 なにより外伝25話!
 
 過去のカットの使い回しをひたすら映しながら声優さんが頑張るという、シュールな内容! 二期放送の決まった人気作の最終話とはとうてい思えない暴虐っぷりで、びっくりさせられてしまった。
 
 第2クールの途中までのアニメのクオリティと『転スラ』自体のハイクオリテティを考えるに、この23話~25話はちょっとおかしい。少なくとも、放送当初からこんな23話~25話を放送したいと思っていたとは考えられない。
 
 深夜アニメでは、こういう、「放送当初からこんな話を放送したいと思っていたとは考えられない」話が混じることが時折あるけれども、『転スラ』でそれに出遭うとは予想していなかった。
 
 人気作において、このような23話~25話をオンエアーせざるを得なくなった関係各位の気持ちは、推して知るべしだろう。なんらかのトラブルがあったのかもしれない。
 
 クオリティが落ちてしまったことを嘆く気持ち以上に、『転スラ』制作陣が力尽きてしまったであろうことに思いを馳せ、念仏を唱えたい気持ちになってしまった。
 
 

がんばれ『転スラ』2期

 
 それでも『転スラ』は2期作成が決まっているという。
 
 アニメの2期は、1期に比べて台所事情が厳しくなるのかもしれない。それでも、『転スラ』はキリのいいところまで終わっていないのだから、どうにか頑張って欲しい。この、とても作り込まれたご都合主義と、なんとも魅力的なキャラクター達をもってすれば、リソース少なめでもなんとかなるかもしれない。……というか、なんとかなって欲しい。
 
 世の中には、低予算でも作品としての体裁を見事にまとめあげたものもあるけれど、一般には、そこまでのクオリティを2期アニメに期待するのは酷だろうとは思う。それでも、今回の『転スラ』23~25話のように「完走した」というよりは「棄権せざるを得なかった」ような転帰では困る。
 
 『転スラ』2期の制作に携わる方々におかれては、今は英気を養いつつ、破綻しないような構想を練っていただきたいと思った。