シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

それはゲーム障害なのか、思春期のトライアルなのか、それとも。

 
 
20190220150519
 
 日本産業カウンセラー協会さんの機関誌『産業カウンセリング』2019年2月号の特集「インターネットと承認欲求」にて、インタビュー記事を掲載していただきました。
 ※こちらにインタビュー記事の抜粋が公開されています。→http://blog.counselor.or.jp/business_p/f244

 
 さんざんオフ会に出まくってゲームをやりまくってきたブロガーとしての実体験と、1人の精神科医としてネット依存やゲーム障害と呼ぶべき症例を経験した精神科医としての実体験が融合した内容になったかと思っています。
 
 
 

私がゲーム障害に抱いている懸念

 
 
 このインタビューのなかで、私は以下のようなことを言いました。
 

 総論としてはインターネット依存、ゲーム障害が治療されていくということは、良いことだと思っていますが、過剰診断になってしまうような未来は見たくないんです。世の中には、治療を必要とする人だけでなく、思春期のはみ出しとみなすべき人や、それらに助けられて何とか適応している人もたくさんいます。彼らを肯定的にみる視点を、私は臨床の先生方にも知っていただきたいんです。障害未満のネットやゲームの世界が知られていくことを、切に願っています。

 ゲーム障害(ゲーム症)は、ICD-11という国際診断基準で新たに採用された疾患名で、十分な期間、ゲーム以外の活動や社会機能に重い障害を呈していて、依存の兆候を示しているものが該当するといった感じになっています。ほかの依存症*1の診断基準と比較して、それほどおかしな診断基準だとは思えず、字面のうえでは妥当だと私は思っています。
 
 精神科医をやっている手前、数こそ少ないものの、ゲーム障害が主たる問題とみて差し支えなさそうな症例を経験したこともありました。私自身もネットやゲームにのめり込んできた経験から、過剰診断しないよう細心の注意を払っているつもりですし、それらの診断をする以前に問題とすべき重大な精神疾患(双極性障害、統合失調症、全般性不安障害、等々)や背景としての発達障害には目を光らせてきたつもりです。それでもなお、主たる問題をネット依存やゲーム障害とみなさざるを得ず、ゲームと自分自身との距離がコントロールできておらず、切迫していると判断せざるを得ない症例が存在するのも事実です。 
 
 である以上、ゲーム障害という概念はいまの社会に必要で、そのような症例に対処するメソッドは整備されるべきでしょう。
 
 反面、ゲーム障害と呼んで構わないのか迷う症例も少なくありません。少なくとも私の場合は、ゲーム障害以外の診断を優先させなければならない、まぎらわしい症例のほうが多いと感じています。
 
 
 第一に鑑別診断として。(こちらは専門家にもわかりやすい)
 
 ネット依存やゲーム障害を疑ってご両親が連れてきた青少年を診てみたら、その正体が双極性障害や統合失調症だったことはままあります。種々の不安障害・発達障害・境界知能といった土台のうえに依存がかたちづくられている症例も経験しました。そういった症例においても、ネットやゲームは確かに問題ではありますが、精神科医としてまず対処しなければならないのは、本態としての精神疾患であったり、土台としての発達障害や境界知能のほうであったりします。少なくとも、そういった本態や土台に相当するような精神医学的イシューを放っておき、ネット依存やゲーム障害にフォーカスをあてるのは、本末転倒ではないかと思います。
 
 また、家族内力動*2や家庭外の問題が透けてみえる症例に出会うこともあります。家族内の人間関係や、家庭外の不適応状況を土台として、ネット依存やゲーム障害と呼ぶべき問題が立ち上がってきているような症例です。「悪いのは本人ではなく家族」という考え方は精神科臨床に馴染むものではないとしても、家庭内で起こっている人間関係の問題や家庭外の適応状況にも意識を回したうえで、総合的に診断と治療を考えるのが精神科医の仕事であると私は考えています。こういった症例の場合、(たとえば)両親の求めるままネット依存やゲーム障害と診断して十分とは思えません。よしんばそう診断する必要性があるとしても、家庭内外の諸問題を無かったこととして「本人だけの問題」「本人の病気」として矮小化されないよう、意識はすべきだと思っています。
 
 
 第二に、そもそも障害という枠組みで扱って構わないのか。(こちらは専門家に否定されるかも)
 
 かつては精神疾患や精神障害とは呼ばれていなかった色々なものが、ここ数十年で精神医学の担当範囲になりました。
 そのこと自体は、社会の変化にあわせて必要なことではあったでしょう。
 
 それでも、人間の行動・発達・人生には多かれ少なかれの寄り道があってもおかしくないはずですし、症例として事例化すべき人と、症例未満のものとして目をつむるべき人の境目はつねに曖昧であるはずではないか、と私は考えています。
 
 私は一人のゲームオタクとして、あるいはネットフリークとしてそうした界隈に棲み続けてきました。ゲームをやりこんで大学を留年する者、オンラインゲームで夜更かしを繰り返してしまう者、ソーシャルゲームのガチャに何万円もつぎ込む者が知人友人のなかにはたくさんいました。現在でもそうです。
 
 白状してしまえば、私もそのなかの一人でした。授業をサボって朝から晩までゲーセンに入り浸り、眠い目をこすってオンラインゲームに興じ、ネットサーフィンにたくさんの時間を費やしてきました。現在は、それらがたまたま芸の肥やしになっている側面はあるにせよ、一般的な医師のキャリアとしては褒められたものではないと自覚していますし、見る人によっては「ゲームやネットで身を持ち崩した精神科医」という風にも見えるのではないかとも思います。
 
 そうしたゲームオタクやネットフリークの営みは、eスポーツという言葉もネット依存という言葉も無かった時代から存在していました。私たちは毎日何時間もゲームに打ち込んでいて、いわゆる実生活の機能に多かれ少なかれ支障をきたしていたように思います。どんなにマイナーなゲームでも、全国一のスコアを叩き出そうと挑戦する者は恐ろしく長い時間をゲームに費やさなければならず、そのプロセスのなかで、ゲーム筐体やゲームコントローラに八つ当たりするようなこともありました。イライラしたりゲームのことを四六時中考えずにはいられないこともありました。睡眠時間や学業に影響が出た者もいました。私だってその一人です。
 
 そんな私達のゲームライフを、もし現代の精神科医が操作的診断基準にもとづいて「診断」したら、ゲーム障害という言葉が脳裏をよぎるのではないかと思います。ゲームオタクにとって思春期を賭けたトライアルだとしても、たとえば精神科医からみた時、たとえばご両親からみた時、それは思春期のトライアルとうつるでしょうか。それとも障害とうつるでしょうか。ネットに関する活動にしても同様です。トライアルと障害とを分け隔てているものは、一体なんでしょうか。
 
 もし、「長時間ゲームをやっているから」「ゲーム筐体やコントローラを叩いたから」「大学の単位を落としたから」社会機能の障害や嗜癖の兆候と即断されてしまうようなら、そもそも、ゲームアスリート文化じたいがゲーム障害の温床、またはゲーム障害そのもの、ということになってしまうのではないか──と、私は懸念します。ゲーム障害という診断の普及が、ゲームアスリート文化と共存できるものであって欲しいと願っています。
 
 
 

両親次第では十代のウメハラだって「ゲーム障害」

 
 
 一例を挙げてみます。
 
 先日、eスポーツの草分け的存在である梅原大吾さん(通称ウメハラ)のインタビュー記事が紹介されていました。
 
www.itmedia.co.jp
 

 両親の理解に助けられたところはとても大きいですね。うちの父親の教育方針として、「好きなことを見つけたらとことんやれ」というのがありました。それに対して親は口を出さないと。実は梅原家というのは、ひいおじいちゃんの考え方で、おじいちゃんは自分のやりたいことができず、そのおじいちゃんの考え方でうちの父親はやりたいことができず、というふうに悩まされてきた歴史があります。そこで親父は、時代によって考え方が違っていくから、親の価値観で子どもの将来を決めちゃいけないとずっと心に決めていたみたいです。

 だから、実際ゲームをやめろって言われたことは一度もないんですよ。そのおかげで20代に麻雀にのめり込んだりして、気苦労をかけさせたとは思います。ただ、プロになる時も両親に背中を押してもらった部分もあります。ですから、自分がプロゲーマーになれたのは両親のおかげともいえるでしょうね。
 プロゲーマー「ウメハラ」の葛藤――eスポーツに内在する“難題”とは #SHIFT より)

 なるほど、ご両親の価値観ぬきには今日のウメハラの成功譚は語れなさそうです。
 
 しかしこのようなご両親は少数派でしょうし、「精神科医のもとに『ゲーム障害ではないか』という疑いをもって我が子を連れてくる両親」においてはとりわけ稀でしょう。ウメハラに限らず、思春期をゲームに捧げる青少年のプレイスタイルは、教育熱心な親を怯ませるには十分です。
 
 もし、ウメハラのご両親が「好きなことを見つけたらとことんやれ」という価値観の持ち主ではなく、「しっかり勉強し、良い大学を出て良い企業に就職しなさい」という価値観の持ち主だったとしたら、そしてウメハラを2019年の精神科病院に引っ張っていったら、そこで診察を求められた精神科医は「ゲーム障害」という診断を回避できるものでしょうか。
 
 未成年の教育方針は親が決めることである以上、「ご両親の価値観という文脈によって『ゲーム障害』かそうでないかが左右される」という考え方はある程度理解できることではあります。その一方で、eスポーツが興隆する以前から、ゲームカルチャーには少なからず思春期を捧げるという側面があり、ゲームカルチャー全般が逸脱とみなされやすい文化的背景があることを、ゲーム障害という診断をくだす立場の人は忘れないでいただきたい、と私は願っています。
 
 たとえばの話、ラグビーやサッカーや将棋の部活動に思春期を捧げ、留年することに「障害」や「逸脱」という単語を想起するご両親はそれほど多くはないでしょうけれど、ゲームに思春期を捧げ、留年することに「障害」や「逸脱」という単語を想起するご両親はかなり多いのではないでしょうか。今日の文化的文脈と照らし合わせて考えた時、そうしたご両親の受け取りかたは理解できることではあります。だとしても、ご両親が心配しているから・多かれ少なかれの遠回りがあるから、その青少年をゲーム障害という精神医学の問題系に引っ張りこんで良いのか、それなりの慎重さは求められるのではないでしょうか。
 
 私自身はゲームオタクやネットフリークの世界に長く身を置いていたので、クンフーを積むようにゲームに挑んでいる者や心から楽しんでいる者と、そうでない者を、多少なりとも嗅ぎわけられるつもりです。と同時に、ゲームやネットによって社会不適応が促進されている者と、ゲームやネットによってむしろ生かされている者の違いを意識し続けてきたつもりです。ですが、世の精神科医や臨床心理士の先生がたに、そうした嗅ぎわけをお願いするわけにはいかないでしょう。
 
 なのでせめて、それがゲーム障害やネット依存と呼ぶべき問題なのか、思春期のトライアルやはみ出しと呼ぶべき問題なのか、それとももっと重大な精神科的イシューであるのかに関して、これまでも・これからも慎重に丁寧に見極めていただきたいとお願いしたいのです。
 
 私は精神科医としてのアイデンティティと、ゲームオタク・ネットフリークとしてのアイデンティティを並立させたまま、四十代まで生きてきました。精神医学も、ゲームやネットもどちらも愛しています。ゲーム障害やネット依存の診断が適正になされて、真に治療すべき青少年の助けとなることを願っています。と同時に、真摯にゲームを愛している青少年のトライアルが片っ端から逸脱とみなされないよう、ゲームやネットによってむしろ生かされている青少年を温かく見守っていただけるよう、願ってもいます。
 
 
 つけ加えると、ゲーム業界の方々にも一層のご配慮をいただきたいものです。いまどきのゲームデザインにありがちな、あまりにもプレイヤーをコントロールし過ぎるアレは……もう少しどうにかならないものでしょうか。
 
 
 ゲーム障害やネット依存の適正かつ丁寧な診断と治療、ひいては今後のゲームカルチャーやネットカルチャーのますますの発展を祈念して、本文の結びとさせていただきます。
 
 

*1:より専門的に言えば行動嗜癖

*2:注:家族関係の問題

むしろ「バカッター」が少ないことに驚く

 
俗に言う「バカッター」は学校教育の敗北でもある。気がする。 - パパ教員の戯れ言日記
 
 リンク先の記事は、学校の先生によって書かれた「社会問題になるようなSNSへの書き込み(いわゆるバカッター)は学校教育の敗北ではないか」という記事だった。とても真摯なご提言だと思う。
 
 しかし、私はいわゆるバカッター騒ぎには反対の印象を持っている。
 
 バカッター騒動があるたび、若者のネットリテラシーの不足を嘆く声が聞かれるし、それはわからない話でもない。後述するように、若者のネットリテラシーの啓発には私も賛成だ。
 
 だからといって、一握りのバカッターが若者のネットリテラシーの主要な問題をあらわしているとは思っていないし、いまどきの若者はそれなり頑張ってネットに食らいついているのではないかとも思う。
 
 

「バカッター」の水面下に存在するトラブル

 
 バカッターは、一夜にしてインターネットじゅうの噂になる。一件のバカッター案件がネットで何重にも波紋をつくり、そのたびに過去のバカッター案件までもが掘り起こされるから、やたらと目につく。
 
 だからといって、そのようなバカッター案件が毎晩のように発生するわけではない。
 
 
 総務省統計局によれば、平成28年現在、高校生の総数は330万人、大学生の総数は287万人であるという。現代ではほとんどの学生がなんらかのかたちでSNSを用いていると想定すれば、600万人弱の現役学生さんがSNSを用いていることになる。中学生や社会人も含めれば、若者のSNSユーザー数は1000万人をくだらないだろう。
 
 その一方で、実際にバカッター案件となるような炎上を起こしている学生は非常に少ない。たとえ年間10人やそこらの若者がバカッター案件をやらかしたとしても、それは1000万人のなかの10人程度のことである。交通事故のリスクに比べると、バカッター当事者になるリスクはずっと低い。
 
 炎上をはじめとするネットトラブルについて、少し統計を見てみよう。
 
 総務省の情報通信白書(平成27年)を参照すると、SNS上でトラブルを経験したことのある人の割合はけして低くない。とりわけ二十代以下のトラブル経験数が目を惹く(以下参照)。
 
 

 ※出典:総務省統計局のページ
 
 さらにトラブルの内訳を見てみる。
 
 
 
 ※出典:総務省統計局のページ
 
 経験したことのあるトラブルのうち、かなりの割合が喧嘩や誤解や行き違いといったディスコミュニケーションによって占められている。これらはオンラインに特有のトラブルではなく、オフラインでもほとんど避けられないものなので、特別視する必要はあまり感じない。
 
 では、そうしたトラブルのうち炎上はどれぐらいの割合なのか。
 
 グラフには「複数の人から批判的な書き込みをされた(炎上)」という項目があるが、その割合は1.6%と低値である。この1.6%のうち、一体どれぐらいの割合が社会的損失を伴うような炎上だったかはわからない。が、ベテランではないネットユーザーの反応をみている限り、数十人から批判的な書き込みをされた程度で多くの人は炎上したと感じてしまう様子なので、社会的損失を伴うほどの炎上の割合はそれほど多くはないのではないだろうか。
 
 それより、このグラフを見ていて目を惹くのは、プライバシーやアカウントにかかわるトラブルが意外に多いということだ。
 
 個人情報の暴露、アカウント乗っ取り、なりすまし等を合計すると10%を上回る。これらはまさにオンラインに固有の問題であり、社会的損失にも繋がりやすい。
 
 二十代以下の26%がトラブルを経験したことがあり、そのうち10%がプライバシーやアカウントにかかわる問題を経験しているとしたら、より重点的に啓発されるべきネットリテラシーとは、プライバシー保護やアカウント保護についてのもののように私には思われる。
 
 

1人のバカッターの後ろには、無数のちゃんとしたネットユーザーがいる

  
 
 「1人のバカッターの背景には10人のバカッター予備軍がいて、そのまた背景には100人の予備軍の予備軍がいる」という考え方は確かに可能である。事実でもあろう。 
 
 だが正反対の考え方も可能で、1人のバカッターの背景には1000万人の非バカッター者がいて、900万人ぐらいは炎上を経験したことがなく、700万人ぐらいはネットでトラブルを経験したことすらない、とも言える。
 
総体としてみた場合、社会経験の足りない若者たちもそれなり頑張ってネット炎上やネットトラブルを回避していて、まずまずSNS時代に適応している、とも言えるのではないだろうか。
 
 古くからのネットユーザー同士の会話に、よく「自分たちが若かった頃にSNSが無くて本当に良かった。」といったフレーズが出てくる。実際、ネット黎明期の感覚で現代のSNSをやるのは危険に違いない。逆に考えると、いまどきの若者は、ネット黎明期の若者よりも高いネットリテラシーを要求されるメディア空間でそれなりに立ち回って、それなりに生活しているともいえる。
 
 SNSはその性質上、ユーザーの承認欲求をかきたてる側面があり、そのスピードと拡散力はネット黎明期のウェブサイトとは比較にならない。社会的影響という意味でも、ネットがアングラだった頃とは意味合いが違う。
 
 そんな、取扱いに気を付けなければならない今日のSNSを、黎明期のインターネットよりもずっとたくさんの若者が日常の延長線上として使用しているのにこの程度しかバカッター騒ぎが起こっていないことに、私達はもっと感心してもいいのではないだろうか。
 
 だから私は、一握りのバカッターの背景に、多少危なっかしくはあってもネット黎明期の頃の我々よりもずっとタフにSNSと向き合っているたくさんの若者を想起せずにはいられないし、トラブルも起こさずにSNSに向き合えているいまどきの若者は、とても良く訓練されているとも思う。
 
 

ネットリテラシーをたえず訓練される若者、私達

 
 いまどきの若者は、ネットリテラシーを叩き込まれる機会がとても多い。
 
 親や教師がネットリテラシーに注意を呼び掛けるのに加え、テレビや書籍といったメディアもネットリテラシーを啓発している。友達同士でネットトラブルについて話し合う機会も多かろう。加えて、バカッターのような騒動を横目で見ながら育っていくわけだから、SNSやネット全般のリスクに注意を向ける機会は無数にある。
 
 なにより、SNSを用いる者はほぼ全員、お互いがお互いの一挙一動を観察しあっているわけで、いわば、相互監視の環境下に晒され続けてもいる。
 
 これほどまでにネットリテラシーに注意を払い、そのうえ相互監視環境に晒され続けていれば、いまどきのネットユーザーにはそれにふさわしい姿勢なり使い方なりがインストールされずにはいられない。先日私は、街のインフラが習慣や規律をインストールしていくという話を書いたが、その論法で考えるなら、今日のSNSユーザーは、教師や親や友達からたえず耳にする情報と、SNSの相互監視環境下でのコミュニケーションによって、SNSに適応できるよう訓練づけられ、習慣や規律をインストールされている、と言えるのではないだろうか。
 
 たとえばの話、1980年頃の若者をタイムマシンで連れてきて、友達と喋る感覚でSNSを使ってみてくださいと促しても上手くいかないだろう。2000年頃の黎明期のネットユーザーにしてもそうで、炎上するような書き込みをして退場してしまいそうである。いまどきの若者と違って、20年前や40年前の若者はSNSに適応できるような習慣・規律を身に付けていない――もし、彼らがSNSを使い始めるとしたら、それこそネット古語にあるように「半年ROMって」状況を見極める必要があるだろう。
 
 逆にいうと、いまどきの若者の大半は、そのようなSNS時代にふさわしい習慣や規律を毎日の生活のなかで無意識のうちに身に付けている、ということでもある。バカッターのような案件に発展するのは、いわば、そうした現代のSNS環境に求められる習慣や規律を十分に身に付けられなかった落伍者か、相互監視を行っているローカルな環境全体がバグってしまったか、どちらかである。そして現代の若者の大半は落伍者とはなっていないし、ローカルな環境の大半もバグってはいない。
 
 SNS社会についていけない若者への対処は確かに必要であろうし、そのような落伍者に親や教師、ときには精神科医が対処するというのはそれほどおかしな話ではない。冒頭リンク先の先生のように、問題意識をもって取り組んでくださる指導者が存在することを心強くも思う。
 
 ただそれはそれとして、現代の若者は全体としてはよく訓練されていて、ネットの実情にみあった習慣や規律をそれなりに身に付けていることに、私は驚いておきたいのだ。
 
 と同時に、それだけしっかりと習慣や規律を身に付けなければならない現代のコミュニケーション事情に、しんどさを感じずにはいられない。
 
 「気を付けてSNSをやりなさい」「うまくSNSをやりなさい」という親や教師からの教え、あるいは相互監視による訓練づけは、つまり「ネットでは、注意深く、きちんとコミュニケーションしなさい(=それができない奴は黙っていろ)」という要請に限りなく近い。オフラインでのコミュニケーションが苦手な人でさえ、「ネットでは、注意深く、きちんとコミュニケーションしなさい(それができない奴は黙ってろ)」と主張して憚らないことが多いようにも見受けられる。
 
 つまり、ほとんど誰もがこの不文律のごとき要請を当然のものとみなし、きちんとできるのが当然のことだと思いながら相互監視をしている、ということだ。
 
 そういった「ネットでは、注意深く、きちんとコミュニケーションしなさい(=それができない奴は黙っていろ)」という不文律のもとで私達は毎日SNSを用いていて、そのことに疑いの目を向けたり反抗心を持ったりすることはほとんど無い。誰もが疑わず、誰もが当然だと思い込んでいる環境でこそ、習慣や規律は無意識のうちに・強固にインストールされる。そのような社会のなかで発生するバカッターとは、大変な逸脱者であり、驚くべき例外であり、どうしようもない落伍者である。だから気にする必要は無い……とまでは言わないが、現代の社会病理を考える際には、そのようなどうしようもない落伍者について深堀りするよりも、残りの大多数、つまり粛々と今日のSNS社会に馴らされ、そつなくネットコミュニケーションをやってのけている私達の日常をこそ、深堀りすべきではないかと、私は思う。
 
 ネットリテラシーにまつわる啓発活動は、これからも必要とされ、学校もまたSNS時代にふさわしい習慣や規律をインストールしていく社会装置の一部として機能し続けるだろう。だから良い悪いという話ではない。ただ、そうやってネットリテラシーがみんなにとって当たり前のものになり、誰もがSNSのある生活に適応しているという事実を一歩下がって眺めてみると、人間の適応力の高さと社会の柔軟さに私はびっくりせずにはいられない。
  
 「みんながSNSを用いるようになって十年かそこらのうちに、それにふさわしい習慣や規律がみんなにインストールされるぐらいには、社会は人間集団に対して変化をもたらし得る」ということを、この機会に覚えておこうと思う。
 
 

認知症と、自己選択の彼岸について

 
「わが家の介護」と「あの家の介護」は違って当たり前 精神科医の視点で見る高齢者介護|tayorini by LIFULL介護
 
 
 リンク先では、認知症介護についての一般的な話をしたつもりです。認知症にはアルツハイマー型や脳血管性認知症といったさまざまなタイプがあるだけでなく、同じ病名でも目立つ症状は人それぞれで、たとえ症状が同じでも認知症の当人を巡る文脈や環境はそれぞれ、ゆえにベストの介護もそれぞれ……といった話を書いたつもりです。
 
 認知症になった人を診ていて考えさせられることはいろいろありますが、ここでは「自己選択・自己責任の向こう側としての認知症」について、少しばかり思うところを書きます。
 
 認知症が進行するにつれて、その人の自己選択能力は低下していきます。それに伴って、たとえば自動車運転免許返納のように、社会活動にも制限が及ぶことになります。もっとも顕著なのは、成年後見制度(昔でいう禁治産者)という、自己選択の法的な制限でしょう。
 
 人は、赤ちゃん~子どもという、自己選択が能力的にも法的にもできない状態で生まれてきて、やがて認知症になれば再び自己選択が能力的にも法的にもできない状態へと還っていきます。現代社会において人間を語る際、その自己選択能力と、それに伴う責任の問題はしごく当たり前のものとみなされていますが、子どもや認知症の人と向き合う時、それが必ずしも普遍的ではないこと、十全の能力を前提とした発想であることを私はいつも意識します。
 
 赤ちゃん~子どもの「自己選択ができない状態」は、どんな親のもとに生まれたのかをはじめ、境遇は完全に運次第です。もし、インド哲学の輪廻転生の発想で考えるなら、赤ちゃん~子どもがどういう親のもとに生まれ出てくるのかは、前世のカルマ(因縁・縁起)による、ということになるでしょう。輪廻転生の発想を禁じ手とするなら、その由来・その必然性はどのように呼びならえばいいのでしょうか。偶然、と呼ぶしかありませんかね。それとも、そういったことを考えるのは禁忌なのでしょうか。
 
 ですが、認知症、とりわけ高齢者の認知症における「自己選択ができない状態」はそうではありません。赤ちゃんや子どもの場合とは違って、認知症に至るまでに積み重ねてきた自己選択によって、そのときの境遇はかなり左右されます。そのような過去の積み重ねも偶然に左右されるのは言うまでもありません。とはいえ、認知症に至るまでの自己選択によって境遇が左右され得る、という点は赤ちゃんとは決定的に異なっています。
 
 赤ちゃん~子どもの境遇と違い、高齢者の認知症になったときの境遇からは、発病前の本人が積み重ねてきたカルマの脈絡が読み取れる、と言い換えることもできるかもしれません。
 
 認知症症状のなかには、発病前の本人の積み重ねてきたカルマをたちまちひっくり返してしまうような恐ろしいものもなくはありません。ですが全体としては、認知症介護を巡る状況に病前のカルマが多かれ少なかれ反映される、とは言えるように思います。
 
 

自己選択によらず、過去のカルマによって生きるという境遇

 
 このことをもって、「認知症になった後のことを考えて善行を心がけなさい」などと説教したいわけではありません。
 
 そうではなく、私は少し不思議な気持ちになるのです。 
 
 
 現代人全般が自己選択を尊いものとみなし、そうやって生きていくのを自明のこととみなしているというのに、認知症になった高齢者は、自己選択によって生きるのと同等以上に、過去の積み重ねにもとづいて生きています。というより、過去の積み重ねにもとづいて生かされている感じが、認知症介護の風景には漂っているように私には見受けられます。
 
 なかには、「自己選択ができなくなったら、もう生きているとは言えないから私は認知症になったら速やかに死ぬ」と鼻息の荒いことを言う人もいるかもしれません。
 
 自己選択=生とみなす世界観の明確な人が、そう主張することは自然なことではあります。が、実際に「自己選択ができなくなっていても実際に生きている人間」としての認知症の人が、家族や福祉と連なるかたちで社会の一部として生きているのを目のあたりにすると、自己選択の彼岸にあっても人間は確かに生きているじゃないか、という事実を突きつけられるのです。そのときの自己選択によってではなく、過去の積み重ねや文脈に引っ張られて生きている(あるいは生かされている)人間という存在の別の側面に、はたと気付かされるのです。
 
 「人は自己選択のみによって生きるにあらず」──介護する人と介護される人の営みをみていると、人は一人で選択して一人で生きているだけでなく、生かし・生かされながら家族や社会システムの一部として存在しているのだということを改めて実感させられます。そもそも、そうでなければ認知症の進んだ人という存在は存在し続けられません。
 
 認知症という疾患は、自己選択という、現代人にとってきわめて重要であるはずの要素を蝕みます。それだけに、自己選択以外の外側で生の輪郭をかたちづくっているものを想起させるところがあるように、私は感じています。
 
 
 
 
 
 この話をこの方向で進めると、いよいよ地に足のつかない、俗世離れした仏教っぽい話になってしまいそうですし、少し風邪気味で頭が熱くなってきたので、今日はこれでおわりにします。
 
 

習慣や規律をインストールする街・東京

 
  

blog.tinect.jp
 
 
人間の意志というものは基本脆弱なものと思っておいた方が間違いなく、「〇〇しようと決意する」というのは基本無意味です。
(中略)
決意しただけで習慣を根付かせられる人というのは、存在しないとまでは言いませんが、まあ稀有でしょう。
 
恐らく「習慣を根付かせる方法」として最強なのは、「自然に動くと、勝手にそれをやっていることになる」という導線とインフラの整備なのではないかなあ、と。

 
 リンク先の話に限らず、「自然に動くと、勝手にそれをやっていることになる」ような導線やインフラは、習慣や規律を身に付けていくにあたって重要だと思う。
 
 たとえば精神科病院などもそうで、病室、ホールの間取り、テレビやテーブルの位置関係次第で患者さんはかなり変わる。
 
 ホールでコミュニケーションをおのずと取りたくなるような病院もあれば、病室に閉じこもっていたくなる病院もある。患者さんが1人でいたい時に1人でいられて、それでいてコミュニケーションしたい時にはコミュニケーションが自然に生まれるような病院空間なら、休息と社会性の回復を両立させやすかろう。
 
 ほとんどの精神科医は、こういった導線やインフラの重要性をよく弁えているから、病院を建て替える際には空間のデザインに細心の注意をはらう。
 
 精神科病院では、医師や看護師のクオリティだけでなく、病院内の導線や空間のクオリティ──患者さんの回復を後押しし、コミュニケーションを促進し、なおかつ安全なインフラとしてのクオリティ──が問われると言っても言い過ぎではないだろう。
 
 
 こういった空間の設計は、もちろん一般企業にも見受けられる。
 
 
 [関連]:場所が変われば、アウトプットも変わる。たかが空間、されど空間。 | Books&Apps
 [関連]:私にはイオンが眩しすぎる - シロクマの屑籠
 
 
 クリエイティブな企業がオフィスに工夫を凝らすのも、ショッピングモールが明るく曲線的な空間づくりに腐心するのも、内部の人間に「自然に動くと、勝手にそれをやっていることになる」を促すためのものだ。いまどきの洗練されたオフィスやショッピングモールは、社員の生産性を高めたいとか顧客の行動を制御したいとか、そういった意図をあからさまにはしない。それでも、間取りから空間設計の意図を逆算する余地ぐらいは残っている。
 
 
 

「東京」というインフラについて考える

 
 このことを、もっと広い範囲で考えてみよう。
 
 東京。
 
 田舎育ちの私には、東京というメトロポリス全体が、行動や習慣を身に付けさせる巨大なインフラにみえてならない。
 
 と同時に、東京に住まう人々は、その東京という巨大なインフラによってすっかり習慣づけられ、規律づけられているとも感じる。
 
 

 
 
 たとえば東京人は、むやみに道路を横切らない。
 
 彼らは横断歩道や歩道橋を使って、定められたとおりに道路を横断する。車の往来が激しい場所はもちろん、車のほとんど通らない住宅地でさえ、横断歩道のない車道を斜めに走り抜けようとはしない。
 
 そして横断歩道でも、赤信号なら律儀に止まる。
 
 自動車がいなくても律儀に赤信号を守り、青になるまで待っている人が、田舎よりもずっと多い。稀に、うらぶれた雰囲気の中年男女や外国人が信号無視するのを見かけなくもないが、そうでない東京人、とりわけ子どもが、信号を無視したり横断歩道の無い場所で車道を横断しようとしたりするのをほとんど見かけない。
 
 これらは東京の平成世代には当たり前かもしれないが、田舎の昭和世代である私からみると、その習慣と規律の徹底ぶりに感動すら覚える。田舎育ちの昭和世代は、横断歩道の無い車道を平気で横断するし、東京の人々ほど(歩行者用の)赤信号を律儀に守ったりはしない。
 
 そして東京人は絶対に立小便をしない! 立小便は、田舎で生まれの昭和世代には珍しくなかったが、東京で立小便を見かけるのはほとんど不可能だ。私は都内の住宅地や周辺郊外を訪れるたび、立小便している男児や男性がいないかチェックしてまわっているが、いまだ、立小便には出会ったことはない。もちろん田舎でも立小便は少なくなっているが、東京に比べればまだまだ見かける。
 
 どうして東京人は、これほどしっかりとした習慣・規律を身に付けているのか?
 
 この疑問の答えを見つけるべく、私は数年間にわたって東京じゅうを徘徊してまわり、人の動きや街のつくりをつぶさに観察して回った。
 
 そうしているうちに、私は気がついた。
 
 「東京という街は、人々に好き勝手な行動をとらせず、おのずと習慣や規律をインストールしていくようなインフラにほとんど覆い尽くされている」。
 
 

 
 
 たとえばこの写真。
 
 都内では珍しくないものだが、この道路には歩行者に歩道を歩かせるためのガードレールが敷かれていて、歩車分離が物理的に徹底されている。
 
 交通量の多い場所はもちろん、交通量の比較的少ない場所でも、都内の道路は歩車分離のためのガードレールが敷かれていることが多い。田舎者の私が横断歩道や歩道橋のない場所で車道を斜めに渡ろうとすると、ガードレールに遮られ、鬱陶しいと感じたりする。
 
 だが、都内に住み続けていて、ガードレールによる歩車分離に慣れ親しんでいる東京の人々は、私ほどガードレールを鬱陶しがったりしないのではないだろうか。
 
 なぜなら、ガードレールや歩道橋や歩行者専用レーンといったインフラに囲まれて暮らしていれば、意識するまでもなく、ごく自然に「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣が身に付くだろうからだ。
 
 私は田舎で生まれ育ったから、「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣があまり身に付いていない。地方の道路にも歩車分離をほのめかす白線はひかれているし、道路交通法は、全国共通ではある。しかし歩行者に歩道を歩かせるための物理的なインフラや導線は都内に比べれば貧弱で、歩行者はいつでも車道にはみ出すことができる。
 
 歩車分離の徹底していない田舎で「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣を身に付けるためには、かなり意識的な努力を積み重ねなければならない。そもそも、中核都市の駅前大通りやバイパス沿いを例外として、そのような習慣は意味をなさない。
 
 ガードレールのほかにも東京には、習慣や規律を守らせ、人々に好き勝手に行動させないようなインフラや決め事がたくさん存在している。決まりきった時刻にやって来る電車を、決まりきったホームの決まりきったレーンで待つこと。標識やガイダンスに従って、立体交差する通路を定められたとおりに歩くこと。自動改札を必ず通過すること、etc...。
 
 東京で暮らす人々は、そういった導線の内側でつねに行動しているし、また行動しなければならない。インフラが提供する導線の内側で動くよう、絶えず訓練させられている、とも言えるだろう。その度合いは地方中核都市の郊外などと比べても顕著だし、まして、地方の町村部とはまったく比較にならない。
 
 と同時に、そのようなインフラと決め事のおかげで東京の人々の流れや行動はコントロールされ、このメトロポリスの秩序が維持されている。
 
 東京は、全国的にみても高い人口密度と、多様な価値観を内包したメトロポリスだが、このメトロポリスが秩序整然とした状態を維持できている背景には、東京の精巧なインフラや導線が人の流れをコントロールしているだけでなく、人々が意識するまでもなく習慣や規律をインストールし、訓練づけられるよう機能しているという側面もあるのではないだろうか。

 
 だとしたら、歩車分離のガードレールも、標識どおりに歩けば目的地に着くようになっている地下通路も、自動改札も、定刻どおりに運行されてホームの停車位置どおりに停車する電車や地下鉄のたぐいも、単に東京を整然とさせているだけでなく、そこで暮らす人々に習慣や規律をインストールし、たえず訓練するための社会装置としても役立っている、ということになる。
 
 
 

施策者の意図にかかわらず、インフラは人の行動や習慣を変える

 
 
 断っておくが、だからといって東京のインフラを作った人々が東京人に習慣や規律をインストールしてやろうと企んでいたとは、あまり考えにくい。
 
 たとえば歩車分離のガードレールの設置目的については第10次東京都交通安全計画に以下のように記されている。
 

(2) 防護柵の整備
歩行者の横断歩道以外の場所での車道横断の抑止と、車両の路外等への逸脱防止を図ることにより、歩行者の安全を確保するとともに、乗員の傷害や車両の損傷を最小限にとどめるため、防護柵を整備します。
(関東地方整備局、都建設局)

 
 ガードレール以外の整備についても、その目的は安全のためや流通の維持のためとされていて、習慣や規律をインストールするといった意図は見受けられない。*1
 
 鉄道会社やメトロがつくりあげた通路網にしても、規則正しい交通機関にしても、本来はトラフィックを維持するためのものであって、地域住民に習慣や規律を埋め込んでやろうなどという意図はおそらく無いだろう。
 
 しかし施策者に意図があろうがなかろうが、インフラや導線は、人を習慣づけて、人に規律を与えて、決め事を守ることが当たり前になった人間をつくりあげていく。交通安全やトラフィック維持のためにつくられたインフラが、結果として習慣や規律にも影響していくのを批判する筋合いはないが、さしあたり、その影響は意識されるべきだろうし、見定められるべきだろう。
 
 東京の諸インフラが、そこに住まう人々に習慣や規律をたえずインストールし、たえず訓練し続けるシステムとして機能して(しまって)いると考えるようになってから、私は東京の街並みが面白くてたまらなくなった。東京のインフラ、導線、決め事が人々に影響を与え続けているということは、ある種、東京は習慣や規律を人々にインストールする超巨大メディアである、と言い換えることもできよう。この、東京というメディアは、なんと面白いのだろう!
 
 さらにここから遡って考えると、「ある時代・ある地域において優勢な習慣や規範意識は、その社会環境のインフラや導線によって少なからず左右される」という一般論を想定したくなる。
 
 どのような思想が流行してどのようなメンタリティが一般的となるのか、ひいては、どのような精神疾患がトレンドとなるのかは、都市のインフラ構造によってかなり左右されるのではないだろうか?
 
 

監獄の誕生 ― 監視と処罰

監獄の誕生 ― 監視と処罰

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

 
 
 この現象のヒントは、もちろんミシェル・フーコーがあれこれ書き残しているし、都市全体をメディアとして捉えるなら、マクルーハンとその弟子筋からもヒントが得られそうではある。とはいえ、「インフラ・導線・決まり事によって、ある地域・ある時代の習慣や社会病理やメンタリティがどのような影響を受けるのか」をテーマにした有力な書籍を、私はまだ知らない。
 
 もし、これをお読みになった人でご存じの方がいらっしゃったら、教えていただけるとありがたい。もし誰もやっていない場合は……できる範囲で調べてみようと思う。
 
 
 

田舎者のほうが考えやすい

 
 
 今の私には、東京のインフラに含まれている導線や決め事と、そこに住まう人々の挙動や意識は、かなり一致しているようにみえるし、おそろしく秩序だってみえる。だから興味が沸くし、そのメカニズムがちょっと恐ろしくもある。
 
 とはいえ、東京に長く暮らしている人には、この感覚はなかなか共有してもらえないかもしれない。
 
 東京というインフラの内側で暮らし続けている人々が、意識するまでもなく身に付けた習慣や規律を省みるのは大変だろう。なぜならこれは、東京というインフラのなかで生活しているだけで、無意識のうちにインストールされるたぐいのものだからだ。
 
 だからこの現象は、東京の人々ではなく、私のように東京を外側から見つめている田舎者が語るのがお似合いではないかと思う。私はこれからも東京のあちこちを巡って、東京というインフラについて、田舎者ならではの視点を書き連ねていきたいと思う。
 
 

*1:交通にかんする習慣や規律については、別個に啓発活動が行われている。

「ガチャを回せば自由になれる」

 
 
ガチャよくわからん - 「隠居」
 
 
 こんにちは、隠居さん。ブログ記事を拝見しました。「ガチャよくわからん」というタイトルに沿った内容でしたね。
 
 最初に、私が重要だと感じたキーセンテンスを切り抜きしておきます。
 
 

にしても、俺はガチャに限らず、この手の「射幸性をあおる」ものと非常に相性が悪い。ギャンブルはパチンコくらいしかやったことがないが、疲れるので飽きる。仮に儲かったとしても、なんか「俺がなにをしたというので儲かったのだろう」みたいなことをぼんやりと考えてるうちにアホらしくなってくる。しかしやるからには儲からないと意味がないわけで、そうすると「儲かるか儲からないか」を気にしている自分というものにいらいらしてくる。俺はなんのために金を出してこんな状態を買ったんだ。不快になるためか。意味がわからん。そうなる。

 

俺にとってコンテンツとは「買う」ものである。自分の商売のせいもあるだろうが、俺はとにかく「買う」ということに異常なこだわりがある。買うという行為は「金払ったかわりに、なんか自分にいいことがある」というのがその原風景である。で、そう考えると俺にとって単位のひとつとなるのが文庫本である。

 

というわけで、ガチャにお金を払う人は、おそらく俺がよく知らない、あるいは拒絶しているものに金を払っていることになる。この頑迷さによって俺が得られないものはたぶんけっこうあるのだが、幸いなことにコンテンツの供給はまだまだ豊富である。物語を得るために、そういう課金のしかたが必要不可欠になってきたら話はまた別だろうが、そうなったときには、たぶんもう新しいものを見る必要はない、と開き直って青空文庫を端から端まで読んでると思う。

 
 これらを下敷きにしたうえで、隠居さん個人にお返事を試みてみます。
 
 

私も「ガチャ」や「ギャンブル」がよくわからなかった

 
 実は私もガチャというやつがわからなかったんですよ。ガチャやギャンブルといった射幸性のある娯楽に夢中になる人々の気持ちがわかりませんでした。
 
 私はギャンブルとは縁の遠い人生を歩んできました。
 
 パチンコや宝くじは「得られる報酬の期待値が100%を必ず下回っている」ので、お金を期待できるものではないと考えていました。お金以外の何かを期待するならわからなくはないですが、かといってコンテンツとみなした時、アニメやゲームに比べてパチンコや宝くじがアドバンテージをもっているとはどうしても思えなかった。パチンコパチスロは21世紀になってコンテンツ性を強化しているとはいえ、任天堂やベセスダがつくるゲームに比べて魅力的とも思えませんでした。 競馬? 地方のロードサイドには競馬を楽しむという文化が無かったので、競馬についてはよくわかりません。
 
 コンテンツを「買う」という視点で見た時、ギャンブルは単回での費用対効果が読めません。対価を支払って商品を買うという「売買」の視点で見るなら、ギャンブルは売買としてあまりにも不条理で気まぐれです。そのうえ報酬の期待値が100%を必ず下回っていることだけは判明しています。だったらその金でゲームを買ったほうがいいだろ……と私は考えていました。これは、隠居さんのお考えとそれほど違わないものだと推察します。
 
 ガチャについても同じで、単に期待値が低いだけでなく、対価を支払って商品を買うという「売買」の視点にそぐわない、不条理で気まぐれなものと私は考えていました。いや、今でもある程度はそのように考えています。
  
 1%の確率でSSRカードが引けると銘打たれていても、100回ガチャを回せば確実にそれが手に入るかといったら、そういうわけではない──「出現確率1%」とは、あくまで1回ガチャを回した時の確率を示すものでしかなく、そのSSRカードが実際に出るのは、1回目かもしれないし、100回目かもしれないし、1000回目かもしれません。つまりガチャというシステムは「売買」の基礎原理から逸脱しています。ガチャには、対価を支払って商品を買うという、資本主義社会のロジックが適用できません。
 
 「売買」というロジックが適用できないからこそガチャはやりたくなかったし、そんなものにのめり込むのはロクなもんじゃない、と私は思い続けてきました。
 
 そのうえ、精神医学というフィールドには行動嗜癖というジャンルが存在し、そこにギャンブル嗜癖も含まれているわけですから、なおさら「触らぬガチャに祟りなし」といった気持ちでソーシャルゲーム界隈の様子を眺めていました。
 
 

ガチャはお手軽だが人を組み敷く

 
 ところが『FGO (正式名はFate Grand Order)』が流行ってしまいました。私はTYPE-MOONの作風がいけるクチで、口コミ情報からもFateファンなら鉄板のコンテンツであることは明らかだったので、これには困り果ててしまいました。
 
 で、実際にやってみるとストーリーもキャラクターも私のストライクゾーンど真ん中で、ガチャもいっぱい回して課金したわけですが、なるほど、お金を払う人がいるってことには納得がいきました。
 
 「ガチャは(そしておそらく他のギャンブルも)、比較的簡単に神経伝達物質が出まくった状態をつくりだすコンテンツである」
 
 精神医学の教科書を読んでいる私は、そういうことを知識として知っていました。でも、世の中には当事者側になってみて腑に落ちることもあるわけで、『FGO』に出会ってはじめて「なるほど、これは瞳孔が開くやつだな」と得心がいきました。──「当たっても当たらなくても興奮するし、当たれば馬鹿みたいに快楽が出る。手間もかからない。特別な技術も要らない。お金さえ突っ込めばいいつくりになっている。」
 
 ガチャやギャンブルによる快楽は、お金さえかければ体験できます。人間一般が幸福になるためのややこしい世間知やハビトゥスを身に付けている必要はないし、研究や商売についてまわる困難を克服する必要もない。異性の心を射止める必要もない。そういったことが何もできない人にも、ギャンブルやガチャは等しく神経伝達物質の出まくった状態を提供する。常識からあえて外れた視点で考えると、ガチャやギャンブルには人を選ばない平等性のようなものがあります。まあだから性質が悪いとも言えるのですけどね。
 
 私は小学生時代からゲームオタク専攻として生きてきたので、ゲームに関してはノウハウの蓄積があるつもりです。面白いゲームを探し出す嗅覚も、そのゲームを楽しむための作法行儀も、研鑽し続けてきました。だから私は、ゲームというフィールドで自分の瞳孔を開きっぱなしにするのはそれほど難しいことではありません。ガチャなどに頼らなくても。
 
 

 
 
 これは『斑鳩』のプレイ画面ですが、『斑鳩』なんて3面~最終面まで瞳孔開きっぱなしです。私はガチャやギャンブルに頼るまでもなく、ゲーム、とりわけシューティングゲームではしょっちゅう瞳孔開きっぱなし状態になっているわけです。
 
 しかし、ゲームにせよ、たとえば音楽演奏のたぐいにせよ、エキサイトな体験を得るためには相応の知識や下積みや意志が必要です。知識・技能・習慣・意志力。そういったものを伴っていなければ、『斑鳩』のようなゲームにエキサイトすることは難しいでしょう。仕事でエキサイトする瞬間を得るのも同様です。仕事の場合、より一層、知識や下積みや意志が求められます。そしてエキサイトできる瞬間は少なめで、もっと退屈だったり苦痛だったりする時間を乗り越えなければなりません。
 
 ところがガチャはそうではないんですね。ビギナーもベテランも等しく神経伝達物質が出る。出ちゃう。どびゅー。「射幸心」というものが、これほどストレートに人を魅了するものだとは。そしてコントロールを失いかけた「射幸心」は人を簡単に組み敷き、思考力と尊厳を奪ってしまうのだとも知りました。シューティングゲームや音楽演奏に法悦の瞬間を求める人が、ゲームや演奏によって思考力や尊厳を奪われるかといったら、そういうことはあまり無いように思うのですが、ガチャは、思考力や尊厳を奪いかねません。
 
 
 ガチャと対面している時、人がガチャを支配しているのでなくガチャが人を支配している。
 不条理で気まぐれな神として、ガチャは眼前に君臨する。
 あたかも人間が無力だった頃の森羅万象のように。
 
 
 私はガチャを回している時には迷信にすがっていました。不条理も気まぐれも最小化された現代の都市空間には神は必要ありませんが、不条理と気まぐれの権化であるガチャには神が、祈りが必要とされるのです*1
 
 こうした経験を経て私は、初心者でも神経伝達物質が脳内でドバドバ出せ、不条理と気まぐれで人を組み敷くガチャとは、なかなかに難しい娯楽だと知りました。
 間口は広いし、誰でもすぐエキサイトできるけれど、ガチャに手綱を握られたら大変なことになってしまう。きっと、ギャンブルもそうなのでしょう。
 
 

「ガチャ」を回している瞬間、私はロジックの埒外にいた

 
 このように、ガチャとは神経伝達物質を対価としてプレイヤーを組み敷き、理不尽に晒す(そしてお金を使わせる)娯楽です。「圧制者」と言っても良いかもしれません*2。ガチャを前にしたプレイヤーは、ガチャという不自由に晒されているのです。
 
 ただし、それだけとも言い切れません。
 私には、ガチャを回している時に自由を感じる側面もあったのでした。
  
 ガチャは不条理で気まぐれですが、まさにその点において、現代社会の条理性や規則性の通用しない何者かです。
 
 この文章のはじめに、私は隠居さんのセンテンスを幾つか引用しましたが、いずれのセンテンスも対価を支払って商品を買うという「売買」のロジックに根差していました。現代人のならいとして、私も「売買」というロジックはそれなり内面化しているつもりですが、おそらく隠居さんは私以上に「売買」を内面化しておられるのでしょう。
 
 で、この「売買」というロジックは、21世紀の日本人には今までにないほど内面化されていると思うんですよね。
 
 コンビニやメルカリで商品を売買する時だけじゃなく、ネットで人間関係を築いたり余暇を過ごしたりする時さえ、対価を支払って商品を買うというロジックが浸透しているように思われるんですよ。ちょっと前から、ネットでは「コスパ」という言葉をやたらと見かけます。なかには人生なんて大問題をも「コスパ」で論じようとする人もいます。「いいね」や「フォロワー」の数をバリューとみなし、そういったものまで換金化されていく社会とは、資本主義的なロジックが人間関係にまで染み込んでいる社会です。
 
 モノを考えるロジックが資本主義化すればするほど、その人は買い物をする時だけでなく、それ以外の諸々にも「コスパ」や「売買」といった考え方を導入していく。私達は、どうやらホモ・エコノミクスの極致に向かって突き進んでいるらしい。もし、現代の社会病理について考えるなら、この人間のホモ・エコノミクス化、「コスパ」「売買」のロジックの内面化の問題は絶対に避けて通れないものだと私は考えています。一見、お金にガツガツしていない人でも、別の何かを対価として計算している人はごまんといる。
 
 ところがガチャには「コスパ」や「売買」のロジックが通用しない。ガチャを回している刹那、人間は、資本主義化した現代社会のロジックの埒外にはみ出すのです。
 
 現代社会を覆い尽くしている「コスパ」や「売買」のロジックからはみ出したその瞬間は、ガチャに組み敷かれている不自由も含めて、私にとって新鮮な体験でした。と同時に、日常生活のなかでどれほど私がホモ・エコノミクス化しているのかを逆照射する体験でもありました。「ああ、私はこんなに普段は合理主義的・資本主義的に考え、行動していたのだな」と。
 
 昔の人々は、「売買」というロジックを現代人ほどには内面化していませんでした。
 
 

賭博・暴力・社交―遊びからみる中世ヨーロッパ (講談社選書メチエ)

賭博・暴力・社交―遊びからみる中世ヨーロッパ (講談社選書メチエ)

 
 
 例えば上掲書を読む限りでは、中世ヨーロッパの人々は現代人よりもずっと野蛮で、ずっと賭博に親しんでいたようです。昭和時代の人々も、現代人に比べれば野蛮や賭博に近かったように思います。資本主義のロジックではナンセンスとしか言いようの無いものが、数十年前の日本には今よりもずっと溢れていたはずです。
 
 まあだから資本主義のロジックが悪いと言いたいわけではありません。私のような人間の場合、社会が資本主義のロジックに傾くほど自分が得をすることを自覚してもいますから、趨勢がこのままでも私自身は別に困りません。隠居さんにおかれても、そうした「売買」の前衛に位置しておられるでしょうから、定めし、ガチャのような「売買」のロジックにそぐわないものは性に合わないことでしょう。
 
 それでも私は、ガチャを回している時に自分が確かにエキサイトしているのを発見しました。
 それは「コスパ」や「売買」といったロジックで覆われ抑圧されていた私の内面の叫びではなかったか?
  
 だからといって、他人にガチャを勧めるつもりはありませんけどね。意志の弱い人はたちまち餌食にされてしまうだろうし、そうでなくても、自分の内面を発掘するなんて、いまどき流行らないでしょうから。
 
 
 隠居さんへのお手紙は、以上です。
 

*1:ガチャというシステムをマクロにみる場合、ガチャは統計的な問題としてシンプルにみることができます。しかし、プレイヤー個人にとって、統計的な数値はそれほどの意味を持ちません。ガチャを1000回回しても出現確率1%のカードが出て来なくて腹を立てているプレイヤーにとって、統計的な数字がどんな意義を持ち得るでしょうか? ちなみにこの問題は、統計学的なエビデンスを積み重ねた疾病予防と実際に疾病になってしまった人にもいくらか敷衍できるものですが、脱線し過ぎるのでここでは省きます

*2:『FGO』プレイヤーなら、ここで圧制者と戦うサーヴァント、スパルタクスを思い浮かべることでしょう。でもってスパルタクスは★1のサーヴァント、つまり彼はガチャという圧制から自由です。スパルタクスはこんなところでも圧制と戦っている!