シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

ネットde政治闘争がとまらない背景心理

 
 2010年代に入って、インターネットで種々の政治闘争を見かける頻度が激増したように感じる。
 
 2000年代においても、いわゆる「ネトウヨ」は話題になっていて、匿名掲示板ではそういった人々とおぼしき書き込みは目に付いた。また、はてなブックマーク・はてなダイアリーあたりでも、極左的な政治闘争を叫ぶ人々の姿を目にしなくもなかった。
 
 そうはいっても、当時のネット政治闘争はまだしも限定的だった。2010年代に入ると、東日本大震災後の原発/反原発を皮切りに、ジェンダー・国政・表現・道徳秩序といったものについて、あちこちのアカウントが自分の声をあげはじめ、論争に飛び入った。そうやって声をあげはじめた無数のアカウント同士は、シェアやリツイートや「いいね」といった手段を使って繋がりあい、派閥というには曖昧とはいえ、ともかくも、ひとつのオピニオンの塊を為して激しくぶつかり合い、いがみ合うようになった。
 
 ネットでは、極端な主義主張を持った者の声が大きくなりやすい、と言われている。その実感もあるし数字としても裏付けられている。しかしそれだけではなく、2000年代には「ノンポリ」にみえたアカウントが、2010年代ではさまざまな政治闘争に繰り返し言及している、そんな風景を頻繁に見かけるようになった。
 
 そんな風景を十年前の私は予想していなかったし、望んでもいなかった。あの人も、この人も、なんらかの政治闘争に言及・コミットし、なんらかのポジションにもとづいてポジショントークを繰り広げている。そんな風に見えるインターネットが到来した。
 
 どうして、こんな風になってしまったのだろう?
 
 まさか、誰もが運動家になりたがったわけでもあるまい。そういう闘士気質の人なら、十年以上以前から闘争に参加しているだろう。そうではなく、およそ政治闘争など望んでいなかったはずの「市井の人々」までもがこぞって政治闘争に参加し、ときに、口汚いボキャブラリーを用いながらシンパの擁護とアンチの排斥にのめり込んでいるのは何故なのかを考えているうちに、一側面として思い当たるものがあったので、書き残しておくこととした。
 
 

消極的理由──不安や憤りを払いのけるための闘争

 
 誰もがなんらかの政治闘争にコミットするようになったのは、「みんなが政治闘争をしたくなった」といったポジティブな理由だけではあるまい。
 
 インターネットにありとあらゆる人が集まり、繋がり過ぎてしまったがゆえに、自分の思想信条や生活実態とは相いれないオピニオンが視界に入るようになってしまったからなのだろう。自分とは相いれないオピニオンが、一人や二人の発言ならまだしも、シェアやリツイートや「いいね」で繋がりあった、何百人~何万人ものオピニオンの塊をなして眼前にあらわれた時、その心理的な圧迫感・存在感を無視するのは難しい。大人数の政治闘争に慣れていなかった人々においては、とりわけそうだろう。
 
「自分の思想信条や生活実態に否定的な、巨大なオピニオンの塊が、大きな声で、きつい口調で、自分に向かって批判や非難を投げかけているような状況」に不安や憤りを感じないのは、なかなかに肝のすわった人物か、よほどメディア慣れしているプロな人物か、どちらかだろう。
  
 それ以外の大多数の人が、不安や憤りといったネガティブな感情にとらわれ、自分に近しい思想信条や生活実態を持った者同士で繋がりあい、対抗できるオピニオンの塊をつくろう・その一部に所属しようとするのは、動機としてはナチュラルなものだ。
 
 少なくとも私が観察している限りでは、そういった不安や憤りを動機として、政治闘争に口を出すようになっていったアカウントはそんなに珍しくないように思う。
 
 スマホでSNSを眺めている時の私達は一人きりだが、その際、対抗的なオピニオンの塊は何百~何万人もの大集団をもって目に飛び込んでくる。本当は、それは心理的にイージーな状況ではないはずなのである。
 
 そんな折、自分の思想信条や生活実態を代弁してくれるかのような別のオピニオンの塊が目に飛び込んでくれば、そちらに参加したくなる──というよりすがりつきたくなる──のは人情としてよくわかる。実のところ、政治闘争がやりたくて参画している人は少数派で、不安や憤りといったネガティブな感情にとらわれ、やむを得ず声をあげて群れるに至った人のほうが多いではないだろうか。
 
 

積極的理由──承認と所属

 
 とはいえ、不安や憤りが全てというわけでもない。
 
 現在のインターネットでは、どのような思想信条や生活実態の人でも、かならず近しい立場のアカウントやオピニオンの塊にどこかで出会える。政治闘争に参加し自分の意見を述べてみれば、稚拙な内容でもシェアやリツイートや「いいね」が獲得できる。というより、いくらか稚拙で極端な物言いのほうが歓迎されるふしすらある──自分では極端なことは言いたくないけれども、誰かに代弁してもらいたい人々だってインターネットにはたくさんいるからである。
 
 シェアやリツイートや「いいね」が絡んでくる以上、ネットの政治闘争に参加する者には承認欲求や所属欲求がついてまわることになる。
 
 反原発であれ、政治的な正しさについてであれ、表現を巡る諸問題であれ、それらについての自説を述べ、近しい立場のアカウントやオピニオンとシェアやリツイートや「いいね」で繋がりあえば、承認欲求や所属欲求が充たされる。ネットで政治闘争に参加すると、そういったソーシャルな欲求が必ずといって良いほど充たされてしまうのだ。
 
 かつての「ネトウヨ論」でも語られたことではあるが、そうした政治闘争への参加によるソーシャルな欲求充足は、日頃、そういった欲求に飢えている人や、充足の強度・純度が足りないと感じている人にはまたとない機会となる。日常では得にくい欲求充足を政治闘争の場で知ってしまって、なお節制をきかせるのは簡単ではないだろう。とりわけ、ハイレベルな承認や所属でなければ要求水準をみたせないような人*1にとっては、政治闘争の最前線で極論を繰り返すことが、最も簡単で現実的な欲求充足の手段たり得る点には注意しなければならない。
 
 よく、オンラインゲーム依存者やソーシャルゲーム依存者へのインタビューに「何者でもない自分でも何者かになれる」といった言い回しが登場するけれども、これは、ネットでの政治闘争にも適用できよう。ネットの政治闘争は、何者でもない人間を、なんらかのポジションを主張する何者かに仕立て上げる。たとえそれが、大多数からみれば燃え続ける泥人形だとしても。
 
 少なくともそういう論法が当てはまるとおぼしきインターネットアカウントは存在する。だからやめにくいし、エスカレートしやすいし、制御しにくい。ともすれば、政治闘争の悪鬼羅刹のようなアカウントになり果ててしまう。
 
 

繋がり過ぎてしまうネットメディアは人類には早すぎた

 
 不安に動機づけられるのであれ、欲求に味をしめてやめられなくなるのであれ、結局、この問題の根底には、あまりにも繋がり過ぎてしまうネットメディアの性質と、そうしたメディアの進化に全く追いついていない人間の心理構造とのギャップがあるのだろう。
 
 人間は社会的生物だから、他人の意見には敏感だし、ソーシャルな欲求をとおして不安も憤りも充足も感じる。その性質そのものは、太古の昔からほとんど変わっていない。
 
 しかし、SNSをはじめとするネットメディアは、あまりにもたくさんの人を繋ぎ過ぎてしまう。自分の思想信条や生活実態に敵対的なオピニオンが、毎日のように何千何万と群れているさまが可視化され、と同時に自分のシンパの巨大な集団がソーシャルな欲求を充たしてくれる状況が十年足らずでできあがったものだから、その政治闘争の磁場にあらゆる人が引きずり込まれ、不安と憤りと充足の坩堝にとらわれてしまった。
 
 2010年代以前は、「ネトウヨ」をはじめとする比較的少数の人々と少数のポジションがこの構図に当てはまっていたが、SNSが普及した2010年代以降、もっとたくさんの人々がインターネットに参加するようになると、より多くの立場のより多くの人々が政治闘争の磁場に呑み込まれていき、インターネットはあらゆるポジションのあらゆるポジションに対する闘争の舞台となり果てた。
 
 そうしたネットでの政治闘争の陰には、もとから政治闘争に血道をあげていた人々の姿が見え隠れすることがあり、もちろん彼らの"努力"もこうした状況に一役買っているのだとは思う。けれども、こうも収拾のつかない政治闘争の常設戦場と化してしまった背景には、あまりにも繋がり過ぎてしまい、あまりにも可視化され過ぎてしまうネットメディアというツールが、不安や憤りや充足によって動機づけられる人間の心理構造には早すぎた、という側面も多分にあるだろう。
 
 かくも過熱してしまったネットでの政治闘争の現状に、参加者の大半が不安や憤りや充足に動機づけられながら参加しているとしたら、そうした政治闘争が妥協点の摺り合わせや合意形成に向かわず、欲求充足に都合の良い、排他的で攻撃的なものになってしまうのは仕方のないことではある。もし、この構図をどうにかする余地があるとしたら、ネットアーキテクチャの変更や制御、制限のたぐいということになりそうだが、そんなことを誰が望み、誰がやってのけられるだろうか?
 
 一昔前までは、ノンポリのようにみえたあの人も、あの人も、みんな政治闘争の磁場に吸い寄せられ、運動家クローンのようになった姿を見て、私は寂しく思うことがある。しかし私とて他人事ではなく、現在のインターネット、ありとあらゆる思想信条や生活実態が衝突するこの環境のなかでは、多かれ少なかれ人はそうならざるを得ないのだろう。使い古された表現をするなら、「人間にはインターネットは早すぎた」、ということなのだろうけど、この構図は、いったいどのような結末に辿り着くのだろうか。
 
 

*1:ハイレベルな承認や所属でなければ要求水準を充たせない人については、拙著『認められたい』を参照。ナルシシズムの要求水準が高い人、と言い換えることもできる

「一生アニメを観ていれば幸せ」は簡単じゃない。

 

図説オタクのリアル―統計からみる毒男の人生設計

図説オタクのリアル―統計からみる毒男の人生設計

 
 
 目覚めの瞬間に、ふだん意識していない考えが浮かび上がってくることがある。
 
 こないだ、うたた寝から目が覚めた時に「思春期の男女がビチビチと動き回るアニメを40代になっても観ている自分自身」を直視させられた。
 
 10~20代の頃は、思春期然としたアニメを眺めることになんの疑問も無かった。アニメを観るのはとても自然なことで、そこに登場する同世代~少し年下のキャラクター達は近しい存在だった。感情移入することも嫉妬することも、ときめくことすらできた。
 
 40代になった今は、たぶん、そうではない。
 
 アニメに登場する思春期のキャラクター達を、私はもっと遠い存在として眺めている。昔はもっと近しい存在で、感情移入することも、嫉妬することも、ときめくことすらできたはずだったのに。
 
 ときどき、脇役としておじさんやおばさんキャラクターが出て来る時に感情移入することはあるが、そのこと自体が、私のアニメの見方が変わってしまったことを証明している。10代や20代の頃は、おじさん・おばさんキャラクターをそんな風には眺めていなかったはずだ。
 
 アニメに登場するキャラクター達が変わった以上に、私自身が変わったから、アニメを違った風に観るようになった。それでも楽しんではいるから、大問題だとは思わない。それでも私はもう、10代や20代の頃と同じようにはアニメを観れていないとは言える。
 
 こういうことを考えた瞬間に、歳月の重みが私自身の自意識をキュッと締め付けたような、気がした。
 
 

「一生アニメを観て幸せ」は変化を前提としている

 
 歳月は人を変える。
 それはアニメ愛好家とて例外ではない。
 
 10代や20代の頃に出会った傑作アニメは、人格形成の一部になり得る。まだそれほど沢山のアニメを観てはいないから。まだ生きた時間が短いぶん、感動や衝撃に晒された回数が少ないから。まだ感情が太く、瑞々しいから。
 
 そういう境遇の若きアニメ愛好家が語る「俺は一生アニメを観ていれば幸せ」という言葉には、かけがえのない輝きが宿っていると思う。
 
 だが、私はもう知ってしまった。

 若き愛好家の「一生アニメを観て幸せ」という言葉は、若さという前提に支えられていることを。熟慮するまでもなく「一生アニメを観て幸せ」と言えてしまう能天気さじたいが若さの証であり、私や私と同世代の愛好家、そして愛好家とは言えなくなってしまった連中が喪ってしまったものであることを。
 
 
 本気で「一生アニメを観て幸せ」で居続けるためには、幾つもの条件をクリアしていく必要がある。
 
 
・第一に、アニメを観る自分自身の心が変わっていくから、それに適応しなければならない。
 
 いつかは思春期は終わりを告げる。それまでの間、思春期のキャラクター達は近しいものとして感じられるが、思春期が終わると、それらは過去を描いた何か、あるいは年下世代のファンタジーを描いた何かに変貌する。青春群像なりビルドゥングスロマンなりを「我が身に引き寄せて」楽しむ筋は、制限されることになる。
 
 だから、キャラクターへの感情移入に頼ったかたちでアニメを楽しんでいる人は、そうでないアングルから楽しむ方法を確立しない限り、思春期の終わりで「一生アニメを観て幸せ」の難易度が跳ね上がる。そして思春期には必ずといって良いほど終わりがあり、結婚しようがしまいが、子育てをしていようがしていまいが、中年という新時代が幕を開ける。きわめて稀に、何歳になっても思春期を続ける人がいないわけでもないが、これは一種の異形であり、なろうと思ってなれるものではない。
 
 
・第二にキャラクターや筋書きには流行があるから、変化を前提としなければならない。
 
 90年代後半に流行していた作風、00年代後半に流行していた作風、10年代後半に流行している作風はみんな違う。これから先もそうだろう。若くして「一生アニメを観て幸せ」と言っている人が、もし現代の流行がベストと感じているなら、その感覚は間もなく去っていくと心得ておいたほうがいい。
 
 最近は、アニメの作風も多様化が進み、リバイバルもある程度期待できるようになった。それでも、「俺のためのアニメが溢れている!」といった気持ちになれる時期は思うほど長くない。アニメを観て幸せな理由が流行に依存しているようでは、流行が終わってしまったら尻すぼみになってしまう。
 
 ということは……長くアニメを観て幸せでいたければ、好みではないアニメもときにはチョイスして、眺めかたを知っておいたほうが良い、ということでもある。「一生アニメを観て幸せ」とのたまうような人なら、そうしているかもしれないが。
 
 
・第三に、アニメを観る自分自身は社会的な存在だから、辻褄をあわせなければならない。
 
 社会的な存在だから、歳を取ったらアニメを観に映画館に行きにくいとか、同人誌を買いに行きにくいとか、そういうことを言いたいわけではない。その程度の自意識の疼きなど、本当にアニメが好きな人には小さな問題でしかないだろう。
 
 もっと重要なのは、家庭とか、仕事とか、地域とか、介護とか、そういった問題と無縁ではいられない、ということだ。
 
 20代独身でアニメを愛好しているうちは、趣味に時間やお金を割くことはそれほど難しくないかもしれない。最悪、時間やお金の足りなさを健康を代償としてカバーすることすら可能だ。もちろん、健康の前借りは、後で負債となってのしかかってくるのだが。
 
 しかし年を取るにつれて、そういう自由がきかなくなってくる。結婚・出産・子育てで自分の時間が少なくなる人もいれば、仕事で重要なポジションに就いて時間が少なくなる人もいる。介護に手間暇をとられる確率も少しずつ高くなる。
 
 だったら、そういったしがらみの無い人生なら「一生アニメを観て幸せ」かといったら、さて、どうだろう。
 
 しがらみが無いということは、ポジションが無いということでもある。その結果、収入やソーシャルキャピタルが脆弱になって、趣味を楽しむ土台が脅かされるようでは元も子もない。一生アニメを観て幸せに過ごすなら、なんらか、堅牢なライフスタイルをつくっておく必要がある。
 
 
・第四に、アニメを観る自分自身はフィジカルな存在だから、健康を守らなければならない。
 
 若い気持ちでアニメを観ようとしても、肉体までは若くできない。皮膚のしわぐらいなら誤魔化せても、集中力や記憶力の低下まではどうしようもない。ニコニコ生放送でアニメ全話を通しで観るとか、だんだん辛くなってくるし、深夜アニメをライブで見た翌日の疲れ具合も厳しくなる。老眼をはじめ、目に関する問題もだんだんに出て来るだろう。
 
 人は、年を取るにつれて「身体が資本」といったことを言い出すものだが、アニメ愛好家の道も、たぶんそうなのだ。二十代の頃は歯牙にもかけていなかった健康問題が、じわじわ迫ってきて趣味生活を圧迫する。メンタルもまた肉体に宿るものだから、フィジカルをないがしろにしているとメンタルの側から健康が脅かされるおそれもある。健康に関心を持っていかれてアニメへの関心が減ってしまうこともあるし、健康に時間やお金を費やさざるを得ない局面も増えてくる。こんなことは思春期の頃は考えなくても良かったのだが。
 
 
 

君は、朽ちていった屍を乗り越えられるか?

 
 このように、「一生アニメを観て幸せ」を実際にやってのけるのは簡単ではない。いくつもの変化、いくつもの条件をクリアしてようやく成立するもので、実際にやってのけるのはなかなか難しいのではないだろうか。
 
 私はインターネットの内外で二十年以上、アニメ愛好家の生きざまを見つめ続けてきたけれども、たくさんのアニメ愛好家が朽ち果てていった。
 
 ある者は仕事が面白くなるにつれてアニメから遠のいていき。
 
 ある者は健康問題によってアニメを楽しめる土壌を侵食され、精彩を欠いていった。
 
 「俺は○○と結婚する!」と豪語していた者も、リアルで妻帯者となってからはアニメを観なくなった。
  
 そして彼らよりもずっと大多数として、年に1~2本はアニメを観るけれども、趣味と呼べるほどでも幸せと呼べるほどでもなくなった大勢の元アニメ愛好家のおじさんの群れが存在している。
 
 もちろん、インターネットの雑居ビルさながらの「はてなブックマーク」あたりには、四十代になっても矍鑠としている古参アニメ愛好家もいないわけではない。だが彼らはあくまで少数派であり、朽ちていった者達を乗り越えて生きながらえてきた、アニメ古老的な何かである。彼らのなかから、やがてアニメじじいやアニメおばばも現れるのかもしれない。だが、その道のりは険しく遠い。険しく遠いからこそ、生きながらえたアニメ古老は貴重な存在だともいえるが。
 
 
 
  

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 

現代人にインストールされた「適切な努力をすべし」という規範意識

 
 現代人は、適切な努力を積み重ねるよう求められている。
 
 


 
 
 [詳しくはこちら→]我々はどこかで、「努力は無条件で尊い」から「適切でない努力をするべきではない」に思考を切り替えないといけない: 不倒城
 

 「適切でない努力には意味がない」という現実は確かにあって、とりわけ大学受験は、適切な努力をとおして学力を獲得できるかどうかで成否が決まるし、くわえて、妥当な努力目標を設定できるかどうかによっても成否が左右される。
 
 人生の前半において、努力の適切さと努力目標の妥当性を問うという点では、受験というハードルほど似つかわしいものはないだろう。
 
 と同時に、受験というハードルによって、現代人は訓練づけられ、選別されている、とも言える。
 
 適切に努力を積み上げられるか否か・妥当な努力目標を選べるか否かによって受験というゲームは争われ、学校教師や塾講師もその前提にもとづいて教育する。このため、受験勉強に乗れば乗るほど「適切な目標に向かって適切な努力をする」傾向がインストールされるし、と同時に、そのような素質に恵まれた生徒ほど上位に浮上するようになっている。
 
 社会人になってからも、妥当な努力目標の設定と、適切な努力の積み重ねが問われ続ける。高級ホワイトカラー層や実業家ばかりでない。窓口業務や土木建設業の最前線にいる人々も、いまどきはそうした能力を期待される。控えめに言っても、妥当ではない努力目標・不適切な努力の積み重ねをしてしまう人が適応しやすい職種は少ない。
 
 そういった、いまどきの受験勉強や就労状況をサバイブした男女が、親世代となって子育てを始める。必然的に、親から子へと「適切な目標に向かって適切に努力する」傾向はますますインストールされていくだろう──冒頭リンク先のしんざきさんがおっしゃるように、小学生時代は努力の積み重ねそのものを尊び、やがては目標選択の妥当性をも尊ぶようなかたちで。
 
 つまり「妥当な目標に向かって適切な努力をする」という意識は再生産され、強化され続けている。教育機関と受験勉強という制度を潜り抜けた人々が、子々孫々に対してもそのように教え込んでいく。実際、それは現代社会をサバイブしていくには必要なもので、現代社会から強く期待されていることでもある。
  
 "「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」は、現代人のたしなみ"と言っても過言ではない。
 
 

「不適切な努力」を許さない社会と、内なる規範意識

 
 さて、妥当な目標に向かって適切な努力を積み重ねるようトレーニングされ、そのように生きる現代人が増え続けたことによって、社会は高度化し、効率化し、サービスも向上した。
 
 重要なポジションを占める人々は、たいていは「妥当な目標を設定して、適切な努力を積み重ねる」人だ。強力なコネで地位を獲得したような例外はともかく、受験勉強・就活・就労をとおして頭角を現した人なら誰しもそうだろう。そのような人物が重用されて、そのような人物が尊敬される社会になっているからだ。
 
 コンビニの店員や鉄道会社の駅員も、いまどきは的外れな努力で客を苛立たせるような人は珍しい。警察官などもそうだ。昭和時代の店員や国鉄職員や教育関係者などには見かけた、的外れな努力をやたらと積み上げるようなタイプは淘汰されてしまったのだろうか?
 
 おおむね、そうなのだろう。
 
 妥当な努力目標を選べない人や適切に努力を積み重ねられない人は、現代社会では活躍の場が狭い。「不適切な努力」になってしまう人を私達が意識的に排除しているわけではなかろうし、この国には制度として福祉のセーフティネットが幾重にも張り巡らされてはいる。それでも、結果として社会全体は「不適切な努力」を減らす方向に圧力をかけ続けているし、そういった能力にまつわる競争原理は、福祉というセーフティネットが存在することによって、ある意味、正当化されている。
 
 [関連]:テキパキしてない人、愛想も要領も悪い人はどこへ行ったの? - シロクマの屑籠]
 
 圧力をかけているのは社会の側だけではない。
 
 私達自身の内面には「適切な目標に向かって、適切な努力を積み重ねよ」という規範意識がインストールされている。ホワイトカラー的な出自を持っている人においては、とりわけそうだろう。だからもし、妥当な努力目標を見失ったり、適切に努力ができなかったりした時には、その内面化された規範意識が葛藤を生むことになる。
 
 「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」が強固にインストールされている人は、実際、なるへまく妥当な目標に向かって適切な努力を積み重ねるだろうし、それは現代社会に適応し、競争を勝ち抜くうえで有利には違いない。反面、それが強固にインストールされていればいるほど、いざ、自分自身が「不適切な努力」を積み重ねてしまったと気付いた時には、そんな自分自身が許せなくなってしまう。
 
 高級ホワイトカラーなうつ病の患者さんや、高級ホワイトカラーな家庭の子弟のうつ病の患者さんのなかに、まさに、そのような自罰モードに陥っている人を見かけることがある。本人の規範意識が強固なだけでなく、家族や職場同僚も同じような規範意識を共有しているケースともなれば、そうした規範意識に根差した自罰感情は簡単には変えられないし、抗うつ薬を処方すれば済むというわけにもいかない。
 
 一般に、インストールされた規範意識は無意識のうちに社会適応を助けてくれるように働く。しかし、そこから逸れてしまった時には自分自身のメンタルに罰を与えるものである。19世紀~20世紀前半の欧米社会では、そうした規範意識の典型例が性にまつわる規範だったし、フロイトの研究もそこから広がっていった。
 
 フロイトの時代に比べれば、現代社会は自由になったといわれる。けれども私は、そんなに簡単ではない、と思う。「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」をはじめ、自由な社会で自由に生きていくための前提条件として、さまざまな規範意識がみんなにインストールされて、それでもって社会も私達の暮らしも成り立っているからである。
 
 

「カチコチの規範意識を避ける」

 
 では、どうすれば良いのか?
 
 解答としては、「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」をあまりにも強固にインストールしないことだろう。そのためには人間関係には幅があったほうがいい。家庭でも学校でも職場でも、そのような規範意識をしっかりインストールした人しかいなければ、どうしたって規範意識は強まってしまう。規範意識の外側にいる人や、規範意識をそれほど強くインストールしていない人との付き合いがあれば、まだしも意識の幅は広がる。
  
 それが無理な場合は、せめて、努力を上手に積み重ねられない人を罰したがるような人間にはならないこと。他人を罰する呪詛は、自分の努力がうまくいかなかった時に自分に跳ね返ってくる。この件に限らず、やたらと他人を罰してまわる生き方はお勧めできない。
 
 それと、日常生活のなかに無駄な努力や「あそび」を組み込んでおいて、あまりにも真っ直ぐに適切さを追いかけ過ぎないこと。
 
 いまどきの現代人が、「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」という規範意識を撥ねのけて生きるのは、たぶん難しい。だから、それをインストールするのは構わないし必要ですらあるけれども、カチコチなインストールを避けるための方策や迂回路はあったほうが良いと思う。何事も、過ぎたるは猶及ばざるが如し。
 
 

ボジョレーヌーボーの値段で買えるもっと美味しい赤ワイン

  
 今年もボジョレーヌーボーの季節がやってきますね。
 
 ボジョレーヌーボー。ワインとしてはイマイチな代物です。まあその、イベントアイテムだし、飲みやすくはあるし、フルーティーといえばフルーティー……でしょうかね? 果実味も微妙に足りなくて、かったるいワインという印象があるのですが。
 
 それともあのかったるさが良いのでしょうか。
 
 もし「飲みやすさ」を目当てにボジョレーヌーボーを買っているのだとしたら、もったいない! 世の中には、もっと飲みやすくて、そのうえ果実味や香りも恵まれたワインがたくさんあります。
 
 また、11月はキノコ料理やジビエ料理のおいしい季節ですがボジョレーヌーボーでは歯が立ちません。スーパーで売っているお惣菜をとにかく流し込むだけならなんでも構わないのですが。
 
 ボジョレーヌーボーは果実味も酸味も香りもかったるいので、ある意味、クセの少ないワインではありますが、クセが少なすぎて「のっぺらぼうに仕上げられたワイン」とも言えるでしょう。
 
 

同じ金額で買える「顔のある赤ワイン」を

 
 最近はボジョレーヌーボーも値段が安くなり、1000円ぐらいのものも出回るようになりました。それでも2000~3000円ぐらいの価格帯が主流ですし、製造過程や割高な運送費を考えるにつけてもお買い得とは思えません。
 
 なので、もっとちゃんとした味や香りがして、そのなかでは割と飲みやすい部類のものをツラツラ挙げてみます。
 
 

1000円台

 
 
 まるき葡萄 まるきルージュ
 
 
 こいつは日本製のワインで、ボジョレーヌーボーを売れ筋として意識しているのか、本格的な赤ワインにありそうな渋みや苦みをギリギリまで減らしてあります。それでも、ストロベリーのような果実味はそこらのボジョレーヌーボーなんて比較にならないほど強烈で、はっきりフルーティーな味が楽しめます。ボジョレーヌーボーに親しんだ日本人のためにつくられた日本人によるワイン、ではないでしょうか。すっきりとした味わいも美質のひとつかもしれません。ボジョレーヌーボー以外、ほとんど赤ワインを飲まない人には、これをお勧めします。
 
 
 
ファルネーゼ モンテプルチアーノ・ダブルッツォ
 
 
 少し赤ワインを飲み慣れている人ならこちら。1000円台ボジョレーヌーボーとあまり変わらない価格帯で、まともな赤ワインで、なおかつ日本の食卓に出て来るお手軽洋食や、スーパーの総菜コーナーに売られている「オードブル」のたぐいに合わせるにはぴったりです。上の日本製ワインと同様、赤ワインに不慣れな人をひるませる重たさや渋さが少なく、香りはたっぷり。味はさっぱり。まったく難しくありません。この「モンテプルチアーノ・ダブルッツォ」という赤ワインのジャンルには、少し土臭いワインや汗臭いワインもありますが、このファルネーゼが作っているワインなら大丈夫。日本の「オードブル」に合わせやすい赤ワインとしてこれをお勧めします。
 
 
 
サンコム リトルジェームスバスケット
 
 「もっと濃い赤ワインでも大丈夫!」っていう人には、1000円台でも無限の選択肢がありますよね。チリ産のカベルネソーヴィニヨンあたりでもいいし、南仏のメルローでもいいし。でも今回は、こちらの滅茶苦茶濃くて風味の強いワインを挙げてみます。ジャム、鼈甲飴、お線香、それからビーフジャーキー。赤ワインに慣れていない人を怯ませる要素満点の濃いワインですが、「俺は濃い赤ワインでもいけるぜ」という人にはコスパ抜群のワインです。値段の安い特濃赤ワインは、パワー重視のあまりバランスが崩壊しているものも多いですが、こいつはぎりぎり破綻していないのも好感。
 
 
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2000円台

 
 
アッレグリーニ ヴァルポリチェッラ スペリオーレ
 
 
 2000円台になると、軽くて飲みやすい系統の赤ワインのなかにも、香りや味が華やいでいる品がぽつぽつ見つかるようになります。とはいえ、いまどきの2000円台赤ワインの主流は「パワー重視の、赤ワインを飲み慣れている人向けのワイン」なのですが、このワインのように、ボジョレー系の上位互換的な感覚で飲めて、それでいて味や香りの複雑さはケタ違いのものもあります。このワインは店頭ではあまり見かけないものですが、見かけたら買ってみて損はありません。
 
 
 
ルイ・ジャド ボジョレーヴィラージュ クーヴァン・デ・ジャコバン
 
 
 いや、もっと単純に、丁寧につくられたボジョレーを飲むってのも手です。ボジョレーヌーボーの時期だからって、ヌーボーじゃないボジョレーを飲まなければならない理由なんてどこにもありません。ひとことでボジョレーと言っても、ピンからキリまでいろいろありますが、最上級のクリュ・ボジョレーは風味が強すぎることがあるので、中の上のボジョレーヴィラージュをお勧めします。飲み始めはヌーボーよりも少し酸味が強いと感じるかもしれませんが、酸味が苦手でなければこっちのほうがいけると思います。
 
 
 
ゴラン・ハイツ・ワイナリー マウント・ヘルモン インディゴ
 
 
 濃い赤ワイン上等な人には、こいつをオススメします。イスラエル産の赤ワインですが、香りが派手なのに口当たりはソフトタッチ、ちょっとだけ甘味もあるせいか、人当たりの良いワインと感じます。それでいて、飲み進める肉付きの良さ・ワインの複雑さみたいなものがジワジワこみあげてくるので、濃い赤ワインが好きな人なら喜んでもらえるんじゃないかと。なお、このワイン、ネット通販では2000円を切っていることもあるので、値段が安い今のうちに飲んでおきましょう。じきに値上がりする可能性が高いワインだと思っています.
 
 
 

3000円台

 
 
 世の中には、3000円台のボジョレーヌーボーが売られています。信じられません! 3000円もあったら、どれだけでも美味い赤ワインが買えるじゃないですか。
 
 
ミシェエル・ラファルジュ ブルゴーニュ・ルージュ(2014)
 
 
 3000円台になってくると、ボジョレーヌーボーによって作柄が占われるところの本命、「ブルゴーニュ産の赤ワイン」が射程に入ってきます。このワインなどは、赤ワインとしては異様な軽さの品ですが、それでいてチョコやバニラやローソクの匂いがたっぷりで、少し時間が経つと味わいがグッと濃くなってきます。「重たくて酸味の少ない赤ワインでなければイヤ」という人でなければオススメです。もっとも、そういう人はとっくの昔にボジョレーヌーボーに見切りをつけていそうですが。
 
 
 
トルブレック キュヴェ ジョブナイルズ (2016)
 
 
 濃い赤ワインをお望みなら、3000円もあれば結構なものが買えます。このワイン、とにかく濃くて風味強烈ですが、風味のバリエーションは豊かで、渋みもあまり攻撃的でなく、赤ワインの複雑な風味を楽しむには十分です。ただし、なにせ濃い赤ワインなので、一日で飲み切ってしまうのは大変ですし、和食などに合わせると食事を蹴散らしてしまいます。濃い赤ワインが苦手ではなく、しっかりした肉料理がお供という条件付きなら、赤ワインの可能性が垣間見えていいんじゃないでしょうか。
 
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どうしても旬のものが飲みたいなら

 
 
 「品質は二の次、ヌーボーのお祭り感がいい!」という人には以下のワインをオススメします。
 
 
ファルネーゼ ノヴェッロ 2018
 
 
 はい。イタリア産のノヴェッロですね(ノヴェッロとは、イタリア語でヌーボーの意味)。
 
 イタリア産のノヴェッロにも、なんというか、便乗商売をしているメーカーが無いわけではありません。それでもこのノヴェッロはまだマトモです。葡萄酒の味がちゃんとします。果実っぽさを前面に出したつくりで、飲んでいて苦しくなるようなつくりではありません。とりあえず試してみたいだけなら、4割以上お値段の安い船便版を買い求めるのも手です。どうしても新酒でお祭りしたい人は航空便版をどうぞ。
 
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何を買って、何を飲むかは自由ですが

 
 
 まあ、どんなワインをいくらで買ってどう飲むかなんて個人の自由なんですが、ボジョレーヌーボーを毎年買っている人には、値段にみあった内実のワインに触れてみて貰いたいなーと思います。あの、クセの少ない赤ワインにもいいところはあるかもしれない。でも、もう少し個性があって、風味も豊かな赤ワインが、世の中にはたくさんあるように思えるのです。
 
 

『ソロモンの鍵』を攻略する子ども氏から多くのことを学んだ

 
mubou.seesaa.net
 
 Nintendo Swichのオンラインサービスに加入しているともれなくついてくるファミコンソフトを親子で遊んでいるうちに、10月が過ぎてしまった。
 
 Nintendo Switch Onlineを見てのとおり、ファミコン時代の名作や大作がゾロゾロと揃っていて、さすがに今遊んでも色褪せない。
 
 ゲームをしたり顔で語る人のなかには、「いまどきのゲームに比べると、古いゲームはグラフィックもシステムも拙いから、わざわざ遊ぶには値しない」などという人がいる。けれどもうちの子ども氏を見ている限り、『熱血高校ドッジボール部』、『ゼルダの伝説(初代)』、『バルーンファイト』あたりは現代でも十分に通じる様子だった。
 
 ファミコン時代の名作、とりわけバッテリーバックアップに頼れなかった頃の名作には、ハードウェアの限界に制約されないタイプの面白さがあると思う。
 
 操作しているだけで楽しいゲーム。
 攻撃するだけで楽しいゲーム。
 考えているだけで楽しいゲーム、等々。
 
 だから色褪せないし、21世紀の子どもにもちゃんと通用するのだろう。
 
 そんな名作だらけのファミコンソフトのなかで、子ども氏が一番のめり込んでいるのが『ソロモンの鍵』だ。
 
 

 
 
 リンク先の記事にも書かれているとおり、『ソロモンの鍵』はファミコン時代有数の難易度を誇るアクションパズルゲームだ。Switch版はどこでもセーブ&ロードができるとはいえ、パズルは難しいし、操作のきわどい場面もある。私は二十年ぶりぐらいに遊んでみたが、早々に投げ出してしまった。
 
 ところが子ども氏は、『ソロモンの鍵』を猛然と攻略しはじめた。
 
 父親に「俺はそのゲーム、22面までしか攻略できなかったから、オマエはその手前で詰まるよ」と言われて意地になったのか? それとも石の魔法とファイヤーボールのギミックが病みつきになったのか? それとも『ソロモンの鍵』独特のBGMや雰囲気に惹かれたのか?
 
 ソロモンの鍵は難しい。何度もミスするし、何度もやり直す。
 
 フフフ、21世紀の親切なゲームに慣れきった身には堪えるに違いない、そろそろ怒りはじめるぞ、そろそろ投げ出す頃だぞ……と思っていたのだが。
 
 ところが子ども氏、何度やられても怒らない。めげない。投げ出さない。
 
 私は驚いた。なぜなら、何度もやられるとじきに怒りだすのが子ども氏の常だったからである。
 
 そんな子ども氏が、『ソロモンの鍵』では何も言わず、淡々とリトライを繰り返している。どうした、子ども氏。
 
 わからない時にYouTubeで動画を調べて、それを参考にしながら攻略するのはさすが21世紀生まれといったところだが、動画で大筋を理解し、自分でもできるかたちにデチューンしながら攻略しているのだから、よくやっているほうだろう。
 
 そうこうするうちに私が力尽きた22面も突破し、30面、40面と進むうちに着実に上達していった。現在は45面まで辿り着いているから、ゴールまであと3面である。
 
 

 
 
 まさかファミコンゲームで子ども氏に追い越される日が来るとは、想像していなかった。
 
 

『ソロモンの鍵』のミスには納得感がある

 
 子ども氏が、あれほど難しいゲームを怒らずに淡々と攻略できているのは一体なぜなのだろう?
 
 気になったので子ども氏の挙動をじっと観察しているうちに、気付いたことがある。
 
 それは、『ソロモンの鍵』でミスをする時には必ず理由があり、ある種の納得感が伴うということだ。
 
 21世紀の「親切な」ゲームのなかには、ミスの判定がはっきりしないものも多い。たとえば『スーパーマリオオデッセイ』や『スプラトゥーン2』などには、ミスしたのかミスでないかの判定がはっきりわからない瞬間がある。
 
 過去のファミコンゲームにも、ミスの判定がわかりにくいものは多かった。Nintendo Switch Onlineのゲームのなかでは、たとえば『アイスクライマー』や『サッカー』には、成否のよくわからない瞬間というのはある。
 
 『ソロモンの鍵』はそうではない。ひとつひとつのミスにはわかりやすい理由がある。さすがアクションパズルゲームの金字塔というべきか、理不尽なミスや不明瞭なミスが『ソロモンの鍵』には存在しない。
 
 と同時に、はっきりとしたミスの理由をひとつひとつ取り除いて、着実にゴールに近づいていくのが『ソロモンの鍵』の楽しさでもあったわけだ。私は子ども氏のプレイを見て、はじめてそのことに気づいた*1。どうやら子ども氏にとっての『ソロモンの鍵』とは、ミスを繰り返しながらミスの原因を潰していく作業にカタルシスを感じるゲームらしく、何重にも張り巡らされた死因をひとつひとつ除去しては、嬉しそうな顔をするのだった。
 
 

『ソロモンの鍵』をとおして親子の違いを知った

 
 今回の一件で『ソロモンの鍵』について理解が深まると同時に、なるほど、親子というのは違うものだなと思い知った。
 
 ゲームプレイヤーとしての素養も、ゲームに対するアプローチも、もうだいぶ違っている。子ども氏は、私とは異なるプレイヤーなのだ。もちろん、私とは異なる人間でもあろう。当たり前といえば当たり前のことだけど、私はそのことをNintendo Switch Onlineをとおして知った。
 
 

*1:そういうことに気付けなかったからこそ、子ども時代の私は『フラッピー』や『ロードランナー』を楽しめなかったのだろう