シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

現代人にインストールされた「適切な努力をすべし」という規範意識

 
 現代人は、適切な努力を積み重ねるよう求められている。
 
 


 
 
 [詳しくはこちら→]我々はどこかで、「努力は無条件で尊い」から「適切でない努力をするべきではない」に思考を切り替えないといけない: 不倒城
 

 「適切でない努力には意味がない」という現実は確かにあって、とりわけ大学受験は、適切な努力をとおして学力を獲得できるかどうかで成否が決まるし、くわえて、妥当な努力目標を設定できるかどうかによっても成否が左右される。
 
 人生の前半において、努力の適切さと努力目標の妥当性を問うという点では、受験というハードルほど似つかわしいものはないだろう。
 
 と同時に、受験というハードルによって、現代人は訓練づけられ、選別されている、とも言える。
 
 適切に努力を積み上げられるか否か・妥当な努力目標を選べるか否かによって受験というゲームは争われ、学校教師や塾講師もその前提にもとづいて教育する。このため、受験勉強に乗れば乗るほど「適切な目標に向かって適切な努力をする」傾向がインストールされるし、と同時に、そのような素質に恵まれた生徒ほど上位に浮上するようになっている。
 
 社会人になってからも、妥当な努力目標の設定と、適切な努力の積み重ねが問われ続ける。高級ホワイトカラー層や実業家ばかりでない。窓口業務や土木建設業の最前線にいる人々も、いまどきはそうした能力を期待される。控えめに言っても、妥当ではない努力目標・不適切な努力の積み重ねをしてしまう人が適応しやすい職種は少ない。
 
 そういった、いまどきの受験勉強や就労状況をサバイブした男女が、親世代となって子育てを始める。必然的に、親から子へと「適切な目標に向かって適切に努力する」傾向はますますインストールされていくだろう──冒頭リンク先のしんざきさんがおっしゃるように、小学生時代は努力の積み重ねそのものを尊び、やがては目標選択の妥当性をも尊ぶようなかたちで。
 
 つまり「妥当な目標に向かって適切な努力をする」という意識は再生産され、強化され続けている。教育機関と受験勉強という制度を潜り抜けた人々が、子々孫々に対してもそのように教え込んでいく。実際、それは現代社会をサバイブしていくには必要なもので、現代社会から強く期待されていることでもある。
  
 "「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」は、現代人のたしなみ"と言っても過言ではない。
 
 

「不適切な努力」を許さない社会と、内なる規範意識

 
 さて、妥当な目標に向かって適切な努力を積み重ねるようトレーニングされ、そのように生きる現代人が増え続けたことによって、社会は高度化し、効率化し、サービスも向上した。
 
 重要なポジションを占める人々は、たいていは「妥当な目標を設定して、適切な努力を積み重ねる」人だ。強力なコネで地位を獲得したような例外はともかく、受験勉強・就活・就労をとおして頭角を現した人なら誰しもそうだろう。そのような人物が重用されて、そのような人物が尊敬される社会になっているからだ。
 
 コンビニの店員や鉄道会社の駅員も、いまどきは的外れな努力で客を苛立たせるような人は珍しい。警察官などもそうだ。昭和時代の店員や国鉄職員や教育関係者などには見かけた、的外れな努力をやたらと積み上げるようなタイプは淘汰されてしまったのだろうか?
 
 おおむね、そうなのだろう。
 
 妥当な努力目標を選べない人や適切に努力を積み重ねられない人は、現代社会では活躍の場が狭い。「不適切な努力」になってしまう人を私達が意識的に排除しているわけではなかろうし、この国には制度として福祉のセーフティネットが幾重にも張り巡らされてはいる。それでも、結果として社会全体は「不適切な努力」を減らす方向に圧力をかけ続けているし、そういった能力にまつわる競争原理は、福祉というセーフティネットが存在することによって、ある意味、正当化されている。
 
 [関連]:テキパキしてない人、愛想も要領も悪い人はどこへ行ったの? - シロクマの屑籠]
 
 圧力をかけているのは社会の側だけではない。
 
 私達自身の内面には「適切な目標に向かって、適切な努力を積み重ねよ」という規範意識がインストールされている。ホワイトカラー的な出自を持っている人においては、とりわけそうだろう。だからもし、妥当な努力目標を見失ったり、適切に努力ができなかったりした時には、その内面化された規範意識が葛藤を生むことになる。
 
 「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」が強固にインストールされている人は、実際、なるへまく妥当な目標に向かって適切な努力を積み重ねるだろうし、それは現代社会に適応し、競争を勝ち抜くうえで有利には違いない。反面、それが強固にインストールされていればいるほど、いざ、自分自身が「不適切な努力」を積み重ねてしまったと気付いた時には、そんな自分自身が許せなくなってしまう。
 
 高級ホワイトカラーなうつ病の患者さんや、高級ホワイトカラーな家庭の子弟のうつ病の患者さんのなかに、まさに、そのような自罰モードに陥っている人を見かけることがある。本人の規範意識が強固なだけでなく、家族や職場同僚も同じような規範意識を共有しているケースともなれば、そうした規範意識に根差した自罰感情は簡単には変えられないし、抗うつ薬を処方すれば済むというわけにもいかない。
 
 一般に、インストールされた規範意識は無意識のうちに社会適応を助けてくれるように働く。しかし、そこから逸れてしまった時には自分自身のメンタルに罰を与えるものである。19世紀~20世紀前半の欧米社会では、そうした規範意識の典型例が性にまつわる規範だったし、フロイトの研究もそこから広がっていった。
 
 フロイトの時代に比べれば、現代社会は自由になったといわれる。けれども私は、そんなに簡単ではない、と思う。「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」をはじめ、自由な社会で自由に生きていくための前提条件として、さまざまな規範意識がみんなにインストールされて、それでもって社会も私達の暮らしも成り立っているからである。
 
 

「カチコチの規範意識を避ける」

 
 では、どうすれば良いのか?
 
 解答としては、「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」をあまりにも強固にインストールしないことだろう。そのためには人間関係には幅があったほうがいい。家庭でも学校でも職場でも、そのような規範意識をしっかりインストールした人しかいなければ、どうしたって規範意識は強まってしまう。規範意識の外側にいる人や、規範意識をそれほど強くインストールしていない人との付き合いがあれば、まだしも意識の幅は広がる。
  
 それが無理な場合は、せめて、努力を上手に積み重ねられない人を罰したがるような人間にはならないこと。他人を罰する呪詛は、自分の努力がうまくいかなかった時に自分に跳ね返ってくる。この件に限らず、やたらと他人を罰してまわる生き方はお勧めできない。
 
 それと、日常生活のなかに無駄な努力や「あそび」を組み込んでおいて、あまりにも真っ直ぐに適切さを追いかけ過ぎないこと。
 
 いまどきの現代人が、「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」という規範意識を撥ねのけて生きるのは、たぶん難しい。だから、それをインストールするのは構わないし必要ですらあるけれども、カチコチなインストールを避けるための方策や迂回路はあったほうが良いと思う。何事も、過ぎたるは猶及ばざるが如し。
 
 

ボジョレーヌーボーの値段で買えるもっと美味しい赤ワイン

  
 今年もボジョレーヌーボーの季節がやってきますね。
 
 ボジョレーヌーボー。ワインとしてはイマイチな代物です。まあその、イベントアイテムだし、飲みやすくはあるし、フルーティーといえばフルーティー……でしょうかね? 果実味も微妙に足りなくて、かったるいワインという印象があるのですが。
 
 それともあのかったるさが良いのでしょうか。
 
 もし「飲みやすさ」を目当てにボジョレーヌーボーを買っているのだとしたら、もったいない! 世の中には、もっと飲みやすくて、そのうえ果実味や香りも恵まれたワインがたくさんあります。
 
 また、11月はキノコ料理やジビエ料理のおいしい季節ですがボジョレーヌーボーでは歯が立ちません。スーパーで売っているお惣菜をとにかく流し込むだけならなんでも構わないのですが。
 
 ボジョレーヌーボーは果実味も酸味も香りもかったるいので、ある意味、クセの少ないワインではありますが、クセが少なすぎて「のっぺらぼうに仕上げられたワイン」とも言えるでしょう。
 
 

同じ金額で買える「顔のある赤ワイン」を

 
 最近はボジョレーヌーボーも値段が安くなり、1000円ぐらいのものも出回るようになりました。それでも2000~3000円ぐらいの価格帯が主流ですし、製造過程や割高な運送費を考えるにつけてもお買い得とは思えません。
 
 なので、もっとちゃんとした味や香りがして、そのなかでは割と飲みやすい部類のものをツラツラ挙げてみます。
 
 

1000円台

 
 
 まるき葡萄 まるきルージュ
 
 
 こいつは日本製のワインで、ボジョレーヌーボーを売れ筋として意識しているのか、本格的な赤ワインにありそうな渋みや苦みをギリギリまで減らしてあります。それでも、ストロベリーのような果実味はそこらのボジョレーヌーボーなんて比較にならないほど強烈で、はっきりフルーティーな味が楽しめます。ボジョレーヌーボーに親しんだ日本人のためにつくられた日本人によるワイン、ではないでしょうか。すっきりとした味わいも美質のひとつかもしれません。ボジョレーヌーボー以外、ほとんど赤ワインを飲まない人には、これをお勧めします。
 
 
 
ファルネーゼ モンテプルチアーノ・ダブルッツォ
 
 
 少し赤ワインを飲み慣れている人ならこちら。1000円台ボジョレーヌーボーとあまり変わらない価格帯で、まともな赤ワインで、なおかつ日本の食卓に出て来るお手軽洋食や、スーパーの総菜コーナーに売られている「オードブル」のたぐいに合わせるにはぴったりです。上の日本製ワインと同様、赤ワインに不慣れな人をひるませる重たさや渋さが少なく、香りはたっぷり。味はさっぱり。まったく難しくありません。この「モンテプルチアーノ・ダブルッツォ」という赤ワインのジャンルには、少し土臭いワインや汗臭いワインもありますが、このファルネーゼが作っているワインなら大丈夫。日本の「オードブル」に合わせやすい赤ワインとしてこれをお勧めします。
 
 
 
サンコム リトルジェームスバスケット
 
 「もっと濃い赤ワインでも大丈夫!」っていう人には、1000円台でも無限の選択肢がありますよね。チリ産のカベルネソーヴィニヨンあたりでもいいし、南仏のメルローでもいいし。でも今回は、こちらの滅茶苦茶濃くて風味の強いワインを挙げてみます。ジャム、鼈甲飴、お線香、それからビーフジャーキー。赤ワインに慣れていない人を怯ませる要素満点の濃いワインですが、「俺は濃い赤ワインでもいけるぜ」という人にはコスパ抜群のワインです。値段の安い特濃赤ワインは、パワー重視のあまりバランスが崩壊しているものも多いですが、こいつはぎりぎり破綻していないのも好感。
 
 
 .

2000円台

 
 
アッレグリーニ ヴァルポリチェッラ スペリオーレ
 
 
 2000円台になると、軽くて飲みやすい系統の赤ワインのなかにも、香りや味が華やいでいる品がぽつぽつ見つかるようになります。とはいえ、いまどきの2000円台赤ワインの主流は「パワー重視の、赤ワインを飲み慣れている人向けのワイン」なのですが、このワインのように、ボジョレー系の上位互換的な感覚で飲めて、それでいて味や香りの複雑さはケタ違いのものもあります。このワインは店頭ではあまり見かけないものですが、見かけたら買ってみて損はありません。
 
 
 
ルイ・ジャド ボジョレーヴィラージュ クーヴァン・デ・ジャコバン
 
 
 いや、もっと単純に、丁寧につくられたボジョレーを飲むってのも手です。ボジョレーヌーボーの時期だからって、ヌーボーじゃないボジョレーを飲まなければならない理由なんてどこにもありません。ひとことでボジョレーと言っても、ピンからキリまでいろいろありますが、最上級のクリュ・ボジョレーは風味が強すぎることがあるので、中の上のボジョレーヴィラージュをお勧めします。飲み始めはヌーボーよりも少し酸味が強いと感じるかもしれませんが、酸味が苦手でなければこっちのほうがいけると思います。
 
 
 
ゴラン・ハイツ・ワイナリー マウント・ヘルモン インディゴ
 
 
 濃い赤ワイン上等な人には、こいつをオススメします。イスラエル産の赤ワインですが、香りが派手なのに口当たりはソフトタッチ、ちょっとだけ甘味もあるせいか、人当たりの良いワインと感じます。それでいて、飲み進める肉付きの良さ・ワインの複雑さみたいなものがジワジワこみあげてくるので、濃い赤ワインが好きな人なら喜んでもらえるんじゃないかと。なお、このワイン、ネット通販では2000円を切っていることもあるので、値段が安い今のうちに飲んでおきましょう。じきに値上がりする可能性が高いワインだと思っています.
 
 
 

3000円台

 
 
 世の中には、3000円台のボジョレーヌーボーが売られています。信じられません! 3000円もあったら、どれだけでも美味い赤ワインが買えるじゃないですか。
 
 
ミシェエル・ラファルジュ ブルゴーニュ・ルージュ(2014)
 
 
 3000円台になってくると、ボジョレーヌーボーによって作柄が占われるところの本命、「ブルゴーニュ産の赤ワイン」が射程に入ってきます。このワインなどは、赤ワインとしては異様な軽さの品ですが、それでいてチョコやバニラやローソクの匂いがたっぷりで、少し時間が経つと味わいがグッと濃くなってきます。「重たくて酸味の少ない赤ワインでなければイヤ」という人でなければオススメです。もっとも、そういう人はとっくの昔にボジョレーヌーボーに見切りをつけていそうですが。
 
 
 
トルブレック キュヴェ ジョブナイルズ (2016)
 
 
 濃い赤ワインをお望みなら、3000円もあれば結構なものが買えます。このワイン、とにかく濃くて風味強烈ですが、風味のバリエーションは豊かで、渋みもあまり攻撃的でなく、赤ワインの複雑な風味を楽しむには十分です。ただし、なにせ濃い赤ワインなので、一日で飲み切ってしまうのは大変ですし、和食などに合わせると食事を蹴散らしてしまいます。濃い赤ワインが苦手ではなく、しっかりした肉料理がお供という条件付きなら、赤ワインの可能性が垣間見えていいんじゃないでしょうか。
 
 .
 

どうしても旬のものが飲みたいなら

 
 
 「品質は二の次、ヌーボーのお祭り感がいい!」という人には以下のワインをオススメします。
 
 
ファルネーゼ ノヴェッロ 2018
 
 
 はい。イタリア産のノヴェッロですね(ノヴェッロとは、イタリア語でヌーボーの意味)。
 
 イタリア産のノヴェッロにも、なんというか、便乗商売をしているメーカーが無いわけではありません。それでもこのノヴェッロはまだマトモです。葡萄酒の味がちゃんとします。果実っぽさを前面に出したつくりで、飲んでいて苦しくなるようなつくりではありません。とりあえず試してみたいだけなら、4割以上お値段の安い船便版を買い求めるのも手です。どうしても新酒でお祭りしたい人は航空便版をどうぞ。
 
 .
 

何を買って、何を飲むかは自由ですが

 
 
 まあ、どんなワインをいくらで買ってどう飲むかなんて個人の自由なんですが、ボジョレーヌーボーを毎年買っている人には、値段にみあった内実のワインに触れてみて貰いたいなーと思います。あの、クセの少ない赤ワインにもいいところはあるかもしれない。でも、もう少し個性があって、風味も豊かな赤ワインが、世の中にはたくさんあるように思えるのです。
 
 

『ソロモンの鍵』を攻略する子ども氏から多くのことを学んだ

 
mubou.seesaa.net
 
 Nintendo Swichのオンラインサービスに加入しているともれなくついてくるファミコンソフトを親子で遊んでいるうちに、10月が過ぎてしまった。
 
 Nintendo Switch Onlineを見てのとおり、ファミコン時代の名作や大作がゾロゾロと揃っていて、さすがに今遊んでも色褪せない。
 
 ゲームをしたり顔で語る人のなかには、「いまどきのゲームに比べると、古いゲームはグラフィックもシステムも拙いから、わざわざ遊ぶには値しない」などという人がいる。けれどもうちの子ども氏を見ている限り、『熱血高校ドッジボール部』、『ゼルダの伝説(初代)』、『バルーンファイト』あたりは現代でも十分に通じる様子だった。
 
 ファミコン時代の名作、とりわけバッテリーバックアップに頼れなかった頃の名作には、ハードウェアの限界に制約されないタイプの面白さがあると思う。
 
 操作しているだけで楽しいゲーム。
 攻撃するだけで楽しいゲーム。
 考えているだけで楽しいゲーム、等々。
 
 だから色褪せないし、21世紀の子どもにもちゃんと通用するのだろう。
 
 そんな名作だらけのファミコンソフトのなかで、子ども氏が一番のめり込んでいるのが『ソロモンの鍵』だ。
 
 

 
 
 リンク先の記事にも書かれているとおり、『ソロモンの鍵』はファミコン時代有数の難易度を誇るアクションパズルゲームだ。Switch版はどこでもセーブ&ロードができるとはいえ、パズルは難しいし、操作のきわどい場面もある。私は二十年ぶりぐらいに遊んでみたが、早々に投げ出してしまった。
 
 ところが子ども氏は、『ソロモンの鍵』を猛然と攻略しはじめた。
 
 父親に「俺はそのゲーム、22面までしか攻略できなかったから、オマエはその手前で詰まるよ」と言われて意地になったのか? それとも石の魔法とファイヤーボールのギミックが病みつきになったのか? それとも『ソロモンの鍵』独特のBGMや雰囲気に惹かれたのか?
 
 ソロモンの鍵は難しい。何度もミスするし、何度もやり直す。
 
 フフフ、21世紀の親切なゲームに慣れきった身には堪えるに違いない、そろそろ怒りはじめるぞ、そろそろ投げ出す頃だぞ……と思っていたのだが。
 
 ところが子ども氏、何度やられても怒らない。めげない。投げ出さない。
 
 私は驚いた。なぜなら、何度もやられるとじきに怒りだすのが子ども氏の常だったからである。
 
 そんな子ども氏が、『ソロモンの鍵』では何も言わず、淡々とリトライを繰り返している。どうした、子ども氏。
 
 わからない時にYouTubeで動画を調べて、それを参考にしながら攻略するのはさすが21世紀生まれといったところだが、動画で大筋を理解し、自分でもできるかたちにデチューンしながら攻略しているのだから、よくやっているほうだろう。
 
 そうこうするうちに私が力尽きた22面も突破し、30面、40面と進むうちに着実に上達していった。現在は45面まで辿り着いているから、ゴールまであと3面である。
 
 

 
 
 まさかファミコンゲームで子ども氏に追い越される日が来るとは、想像していなかった。
 
 

『ソロモンの鍵』のミスには納得感がある

 
 子ども氏が、あれほど難しいゲームを怒らずに淡々と攻略できているのは一体なぜなのだろう?
 
 気になったので子ども氏の挙動をじっと観察しているうちに、気付いたことがある。
 
 それは、『ソロモンの鍵』でミスをする時には必ず理由があり、ある種の納得感が伴うということだ。
 
 21世紀の「親切な」ゲームのなかには、ミスの判定がはっきりしないものも多い。たとえば『スーパーマリオオデッセイ』や『スプラトゥーン2』などには、ミスしたのかミスでないかの判定がはっきりわからない瞬間がある。
 
 過去のファミコンゲームにも、ミスの判定がわかりにくいものは多かった。Nintendo Switch Onlineのゲームのなかでは、たとえば『アイスクライマー』や『サッカー』には、成否のよくわからない瞬間というのはある。
 
 『ソロモンの鍵』はそうではない。ひとつひとつのミスにはわかりやすい理由がある。さすがアクションパズルゲームの金字塔というべきか、理不尽なミスや不明瞭なミスが『ソロモンの鍵』には存在しない。
 
 と同時に、はっきりとしたミスの理由をひとつひとつ取り除いて、着実にゴールに近づいていくのが『ソロモンの鍵』の楽しさでもあったわけだ。私は子ども氏のプレイを見て、はじめてそのことに気づいた*1。どうやら子ども氏にとっての『ソロモンの鍵』とは、ミスを繰り返しながらミスの原因を潰していく作業にカタルシスを感じるゲームらしく、何重にも張り巡らされた死因をひとつひとつ除去しては、嬉しそうな顔をするのだった。
 
 

『ソロモンの鍵』をとおして親子の違いを知った

 
 今回の一件で『ソロモンの鍵』について理解が深まると同時に、なるほど、親子というのは違うものだなと思い知った。
 
 ゲームプレイヤーとしての素養も、ゲームに対するアプローチも、もうだいぶ違っている。子ども氏は、私とは異なるプレイヤーなのだ。もちろん、私とは異なる人間でもあろう。当たり前といえば当たり前のことだけど、私はそのことをNintendo Switch Onlineをとおして知った。
 
 

*1:そういうことに気付けなかったからこそ、子ども時代の私は『フラッピー』や『ロードランナー』を楽しめなかったのだろう

人が集まって、同輩意志を持つということ

 
 
 昔は忘年会や新年会のたぐいはひたすら嫌悪の対象だったけれども、最近は、幾ばくかでもメンバーシップを感じるようになった。余所の研究会や勉強会でもそういう感覚を覚えることがある。はてなブログ・はてなブックマーク関係のオフ会に関しては言うまでもない。
 
 別に、それぞれの集団に私が忠誠を誓っているわけではない。
 
 それでも、メンバーの一員であること、この人達と一緒に行動できることを実感するだけで、自分の気持ちが多少なりとも充たされていくのを感じる。と同時に、このメンバーの参加者からみて面目の立つようなことをやっていこう、リスペクトできる集団の末席にいても構わないように過ごそう、という気持ちがちょっとしたモチベーション源になる。
 

認められたい

認められたい

 
 
 ここで私が感じている気持ちは、承認欲求がメインではなかろう。もちろんメンバーに認められたい・承認されたいという思いもあるに違いない。だが、それだけが私の心を温めているのではなく、メンバーの一員であることの喜び、上司、部下、先輩、後輩といった区別なく、その人達にリスペクトの念を向けていることによる高揚感のようなものが、私の心を温めている。
 
 承認欲求といえばマズローだけど、マズローの分類でいけば、私は所属欲求を充たされているのだと思う。
 
 人間関係にまつわる欲求といえば、承認欲求が今日では有名だが、すべての人間が承認欲求だけで生きているわけではないし、すべての時代において承認欲求こそがメインの社会的欲求だったわけでもない。個人として他人に承認されるだけでなく、集団に所属しているという実感、あるいは仲間やライバルと共にあるという実感も、しばしば人の心を温め、ときに、モチベーションの源として役に立つ。
 
 そうした社会的欲求が、ときには残念な結果を生むこともある。カルト集団が濃密な同輩意識のなかで暴走することもあるし、ナチスの頃のドイツなども、そうした所属欲求の暴走をかなりの割合で含んでいたのだろう。承認欲求が暴走するとネット炎上をはじめ残念なことが起こるのと同じように、所属欲求も暴走すれば残念なことになる点には注意しなければならない。
 
 けれども、さしあたって職場や趣味仲間といったコミュニティ内で心理的に満ち足りるための秘訣は、承認欲求だけをモチベーションにするのでなく、この所属欲求をもモチベーションにすることだと私は確信する。承認欲求onlyの人にとって、忘年会や新年会は、自分が注目されない限り苦痛の場でしかないが、所属欲求をも大切にしている人にとっては、そういった集まりはメンバーシップを介してほんのりモチベーションを再獲得するチャンスを含んだ場となる。
 
 宴席の片隅で、はんなりしているだけでも満更ではないという幸せ。
 
 私は、ある時期まで承認欲求をどう充たすのか、どう転がしていくのかが社会適応の重要な鍵だと思っていた。だが、最近は承認欲求だけが重要なので無く、むしろ、所属欲求がモチベーションの源として機能するのか、しないのかが重要ではないかと思うようになってきた。
 
 だってそうだろう、承認欲求onlyの人に比べて、所属欲求も充たせる人は、モチベーションや心理的充足感を得られるチャンスが二倍あるようなものなのだ。自分自身が承認されることしか考えていない人は、自分自身が承認される状況以外は苦痛でしかないが、メンバーシップを喜べる人、誰かと一緒に行動できることに喜びを感じられる人は、そうとは限らないのである。
 
 承認欲求にウエイトが傾きまくった心の持ち主にとって、これは、さっぱりわからない話に聞こえるかもしれないし、飲み会のたぐいでメンバーシップを介して心が温まるとは一体どういう境地なのか想像しにくいかもしれない。私自身も、二十代前半の頃は承認欲求にウエイトが傾きまくっていたので、今、私が書いている文章をタイムリープマシンで18年前の私に届けたら「お前は何を言っているんだ」と首を傾げるだろう。
 
 だが、ここまで生きてみて、そして多くの人を実際に観察してきて段々気づいたのは、承認欲求にモチベーションを頼りきっている人より、所属欲求との両方をモチベーション源にできるような人のほうが気持ちの欠乏にも苦しまなくて済むってことだ。たいていの場合、そういう人のほうが出世もしやすく、人望も得やすいのではないか。
 
 この視点で見ると、所属欲求をもモチベーション源とする習慣が早くから身に付いている人は、たぶん生きやすいのだろうなと思う。インターネットの世界では体育会系のノリを毛嫌いする向きもあるけれども、ああいう体育会系をはじめ、部活動のような集まりを介して早くからメンバーシップに慣れておくのは、社会適応していくうえで重要なことなのだと思う――たとえ、すべての部活動メンバーが所属欲求の充足に慣れていけるとは限らないとしても。
 
 こういう視点で飲み会というものを眺めてみると、これがものすごく重要な社会的機能を帯びていることを再認識せざるを得ない。メンバーそれぞれがメンバーシップ意識をもって、モチベーションを充足させていけば、個々人のメンタルヘルスのためだけでなく、組織の一体感や相互信頼も高まる。だからこそ飲み会は一部のメンバーだけが楽しむものでなく、できるだけ多くの参加者が楽しいと思えるような、そして疎外感よりも一体感を確かめられるような向きであるべきなのだと思う。
 
 そして個々人においては、できるだけ早い段階から、できるだけ望ましいかたちで所属欲求の充足に慣れておくこと、そのような機会をたくさん持てることが重要なのだと思う。なにもハードな運動部である必要はない。どこのコミュニティでも構わないから、人が集まり、同輩意識を持てるようなメンバーシップを体験しておくことが、先々のモチベーションと、そのモチベーションに導かれる人生行路を左右するのだろう。
 
 十代の頃から部活動やサークル活動に当然のように参加している人達は、そういったことを意識するまでもなく、所属欲求の持ちように慣れていくに違いない。それに比べれば私は随分と遠回りをしてしまったけれども、これからは、人の集まりや同輩意識を大切にしていきたいな、と思う。
 
 

「健康は道徳、不健康は不道徳」

 
 昨今のインターネットでは、何が正しくて何が正しくないのかについて、言い争いが続いている。
 
 それは狭い意味での"ポリティカルコレクトネス"に留まらない話で、たとえば特定のメディアコンテンツの趣味の良し悪しについてだったり、自転車運転や自動車運転についてのマナーについてだったりする。
 
 そうした正しさを巡る言葉の揺らぎを眺めていて、数年前から気になって、時間が余った時に調べものを進めていることがある。
  
 それは不健康と不道徳についてのものだ。
 
 2018年現在、健康を損ねているからといって、その患者さんが不道徳とみなされることは一般に無い。交通事故に遭って怪我をした患者さんや、先天的な疾患傾向によって健康を損ねざるを得なくなった患者さん、癌や認知症といった難しい病気によって健康を損ねざるを得なくなった患者さんが、そのことを理由として不道徳な人間だと扱われる心配は無い。
 
 ただし、自己選択によって不健康をもたらしかねない行為についてはどうだろうか。
 
 たとえば喫煙。
 
 喫煙は、副流煙の問題などもあって早くから議論の対象となってきた。本人に癌やCOPDのリスクをもたらすばかりでなく、周囲の人にも不健康をもたらしかねない喫煙は、分煙化の対象となり、分煙化がほぼ完了した現在でもたびたび批判されている。
 
 分煙化が行われた後の批判のなかには、もちろん、分煙を徹底できていない違反者が不道徳であるとする向きもあるが、それだけでない。喫煙するという行為そのもの・喫煙という習慣自体を不道徳・不謹慎であるとみる人も一定の割合で存在する。
 
 喫煙行為そのものを不道徳とみなす人々の背景には、健康を損ねる行為をみずから選択することが不道徳であるとする向きがあり、さらにその背景には、医療関係者による健康増進活動に逆らっているという事実や、医療費を増大させかねないという事実が控えているのだろう。
 
 この、医療関係者による健康増進活動に逆らっているという事実と、医療費を増大させかねないという事実は、喫煙行為を不道徳とみなす際の大きな後ろ盾となっているし、たばこ税の値上げを正当化する大義名分の一部分をも担っているだろう。
 
 

アルコールや清涼飲料水も不道徳

 
 こうした不健康が不道徳とみなされる風潮は、喫煙に限ったことではない。
 
 アルコールやジャンクフード、清涼飲料水といったものも、不健康は不道徳であるというまなざしの対象になりはじめている。フランスのソーダ税やルーマニアのジャンクフード税などがまかり通るのも、不健康が健康増進活動に逆らっているという事実と、医療費を増大させかねないという事実が後ろ盾としてあればこそだろう。
 
 医療費の問題も含めての話にはなるが、現代社会では、健康を妨げかねない選択はあまり良い目でみられていないし、良い目でみられていないからこそ、砂糖入りソーダやジャンクフードのたぐいを課税対象とする法律が成立する。
 
 医療費という問題が関与していることを差し引いて考えたとしても、健康を妨げかねない選択は現代社会では歓迎されていないし、批判の槍玉にしやすい。
 
 その延長線上として、コーラやジャンクフードやアルコールは「悪い」もので、新鮮な野菜や地中海食のたぐいは「良い」という考え方が社会全体に浸透している。ここでも、合言葉は健康である。健康に良い食物は善であり、健康に悪い食物は悪であると考えている人は、けして少なくないのではないだろうか。
 
 と同時に、「ジムに足しげく通っている私は良い」「不摂生な生活をしている彼らは悪い」といった価値判断がこっそりと社会全体に忍び込んではいないだろうか。
 
 たとえ、「良い食物」や「ジム通い」がお金や時間に余裕のある人の嗜みで、「悪い食物」や「不摂生な生活」が貧乏人や多忙な人が甘んじざるを得ないという傾向があるとしても、である。
 
 

[道徳-不道徳]の裁定者としての医療者

 
 また、健康診断のたぐいを通して、現代人は健康は守らなければならないもので、不健康は罪悪感の伴うものであることを毎年のように実体験している。
 
 不摂生や偏った食生活をしている人なら、健康診断や人間ドックのたぐいで何度も経験しているはずだ。「ちょっとコレステロールが高いですね」「もう少し運動をすることをお勧めします」「そろそろタバコをやめてはいかがですか」といった言葉は、それが良くないこと・正さなければならない行動であることを知らしめる。
 
 ゆえに、生活習慣に由来するとおぼしき不健康の兆候を医療者から指摘される際には、ある種の後ろめたさや罪悪感が伴う。もちろん、先天的疾患や進行性の疾患を患っている時はこの限りではないが、「身に覚えのある」場合、医師からの不健康の宣告は、現代社会には珍しいタイプのインパクトをもたらす。
 
 いまどき、万人に向かって面と向かって「あなたの行動選択は良くないです」と言えて、それが忠告としてマトモに受け取られる立場が、医療者以外にいったいどれだけあるだろうか? 
 
 医療者からの不健康の宣告に後ろめたさや罪悪感を伴わないようにするためには、健康という概念そのものに対する信心と、その健康を司っている医療者に対する信頼を欠いていなければならない。
 
 ところが、現代社会では健康概念と医療者に対する信頼は非常に広く浸透しているので、たいていの現代人は、健康診断や人間ドックの結果に気をもむことになる。たとえ重大な病気が見つからないとしても、コレステロール値やγ-GTP値や血圧といったバロメータに一喜一憂するのが、現代人しぐさというものだろう。
 
 このような事実を踏まえるなら、現代社会の医療者が担っているもうひとつ役割に私は思いを馳せずにはいられない。
 
 すなわち、道徳-不道徳を裁定する者としての医療者である。
 
 現代の医療者は、健康という見地にもとづいて、何が道徳的で、不道徳なのかを実質的に決定している。少なくとも、健康という分野に関してはそうである。
 
 医学教授の○○先生や、医学博士の××先生が語った健康増進にかなった食物や行動は、社会的にも「良い」ものとみなされ、不健康であると指摘した食物や行動は社会的にも「悪い」ものとみなされる。そうした医療界からのメッセージを私達は半ば神託のように受け止め、(みずから科学的検証や論証に取り組むのではなく)善悪の基準、道徳の規準として受け止める
 
 なぜなら、健康なことは良いことで、不健康なことは悪いことだからである。健康を犯すべからざる御神体とみなし、医学教授や医学博士を司教、医師や看護師を司祭、一般民衆を信者という風に考えるなら、この構図は、宗教組織とよく似ている。異端が発生すれば異端審問が行われ、健康に対する適切な信心と方法論が防備されるという点でも、宗教組織に似ているかもしれない。
 
 むろん、医療者は宗教家ではなく、医学組織は宗教組織ではないので、あくまでこれは健康という次元に限定して起こっていることである。また、個々の医療者に、自分たちが道徳と不道徳を意図的に裁定しているという自覚があるとは思えない。
 
 しかし、健康概念が非常に広く浸透している現代の社会状況では、たとえ健康という次元だけといえ、医療者や医療組織による道徳-不道徳の裁定機能は決して小さくない。
 
 昔の西洋社会では、人々の行動や罪悪感を司り、道徳-不道徳を裁定していた代表的な組織はキリスト教会だった。が、今日においては、案外、医療組織がそういったものを裁定する最も有力な組織なのかもしれない。
 
 というのも、個人の自由や多様性が良いものとされる現代社会において、健康と肩を並べられるほど普遍的と言えそうな価値はほとんど存在しないし*1、医療者や医療組織は、ときの政権などよりよほど信頼されているからである。
 
 健康を巡っての道徳-不道徳の価値判断は、もちろん、病院だけで作られているのではない。
 
 テレビや新聞、雑誌、インターネットをとおして、健康は広く喧伝されている。健康を守るものを良きものとし、不健康に至るものを悪しきものとする情報がメディアには氾濫している。こうした情報の氾濫を、家の中でも、家の外でも、間断なく浴び続けて現代人は育つのだから、健康は、私達の超自我の一部をなしていると言っても過言ではない。
  
 健康という概念じたい、19世紀に発展した生理学によって基礎づけられ、そこから少しずつ広まっていったものだった。ゆえに、21世紀の先進国の人々は、自分自身が健康診断や人間ドックで引っかかるだいぶ前から、不健康に罪悪感をおぼえるように育てられているし、だからこそ、健康を司る医師や医療組織にはpape(法皇)的な権能が宿らずにはいられない。
 
 

科学的な営みだから道徳とは無縁、というわけにはいかない

 
 繰り返すが、今日の医療者や医療組織が往年のキリスト教組織と同じだと私は主張したいわけではないし、彼らが意図的に道徳-不道徳を裁定しているとも思えない。そのような、あたかも法皇のような振る舞いをしている医療関係者を私は見たことが無いし、WHOなどがそういう方面の権力欲に歪んでいるとも考えられない。
 
 しかし、健康がほとんど普遍的な価値観とみなされ、それ以外の領域では価値観の多様化が進んでいるような世の中では、健康という万人共通の次元において、医療者や医療組織が道徳-不道徳の価値基準の問題と無縁でいられるとは、考えられない。たとえ現代医学それ自体は科学的な営みだとしても、である。
 
 どのような社会の、どのような組織も、多かれ少なかれこういった問題には関わっているものだが、今日では、医療がそのような問題のかなりフロントライン寄りの場所に位置している。だから医療は出しゃばるべきではないなどと言いたいわけではない。ただ、医療者に対する信頼と重要性がかように増している社会においては、医療や医療行為のたぐいが個別の患者さんのフィジカルな問題だけを解決していると考えるのは片手落ちもいいところで、マクロな社会全体の道徳や価値基準の次元にも意図せぬ影響を与えている点にも、一応の把握が必要ではないか、と私は思う。
 
 

[道徳-不道徳]は人間の欲するもの

 
 ちなみに、先天的な健康問題や偶発的な健康問題が不道徳とみなされなくなった社会だからこそ、本人の行動選択による健康問題がよりますます槍玉に挙げられやすくなって、いわば、安全にバッシングできる不道徳であるとみなされているとしても、是非はともかく、私はあまり疑問を感じない。
 
 しばしば人間は、道徳とみなされるをもの尊びたがるのと同じぐらい、不道徳とみなされるものを蔑みたがるものだからである。
 
 と同時に、人間は、道徳とみなされる行動選択をもって自らの正しさを示したがり、不道徳とみなされる行動選択をもって他者の過ちを示したがるものだからでもある。
 
 現代人にとっての健康は、個人のフィジカルなコンディションだけにとどまらない何かである。
 
※この問題については、2020年発売の新著でたくさん書いてます。
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

*1:例外は金銭である