シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

人が集まって、同輩意志を持つということ

 
 
 昔は忘年会や新年会のたぐいはひたすら嫌悪の対象だったけれども、最近は、幾ばくかでもメンバーシップを感じるようになった。余所の研究会や勉強会でもそういう感覚を覚えることがある。はてなブログ・はてなブックマーク関係のオフ会に関しては言うまでもない。
 
 別に、それぞれの集団に私が忠誠を誓っているわけではない。
 
 それでも、メンバーの一員であること、この人達と一緒に行動できることを実感するだけで、自分の気持ちが多少なりとも充たされていくのを感じる。と同時に、このメンバーの参加者からみて面目の立つようなことをやっていこう、リスペクトできる集団の末席にいても構わないように過ごそう、という気持ちがちょっとしたモチベーション源になる。
 

認められたい

認められたい

 
 
 ここで私が感じている気持ちは、承認欲求がメインではなかろう。もちろんメンバーに認められたい・承認されたいという思いもあるに違いない。だが、それだけが私の心を温めているのではなく、メンバーの一員であることの喜び、上司、部下、先輩、後輩といった区別なく、その人達にリスペクトの念を向けていることによる高揚感のようなものが、私の心を温めている。
 
 承認欲求といえばマズローだけど、マズローの分類でいけば、私は所属欲求を充たされているのだと思う。
 
 人間関係にまつわる欲求といえば、承認欲求が今日では有名だが、すべての人間が承認欲求だけで生きているわけではないし、すべての時代において承認欲求こそがメインの社会的欲求だったわけでもない。個人として他人に承認されるだけでなく、集団に所属しているという実感、あるいは仲間やライバルと共にあるという実感も、しばしば人の心を温め、ときに、モチベーションの源として役に立つ。
 
 そうした社会的欲求が、ときには残念な結果を生むこともある。カルト集団が濃密な同輩意識のなかで暴走することもあるし、ナチスの頃のドイツなども、そうした所属欲求の暴走をかなりの割合で含んでいたのだろう。承認欲求が暴走するとネット炎上をはじめ残念なことが起こるのと同じように、所属欲求も暴走すれば残念なことになる点には注意しなければならない。
 
 けれども、さしあたって職場や趣味仲間といったコミュニティ内で心理的に満ち足りるための秘訣は、承認欲求だけをモチベーションにするのでなく、この所属欲求をもモチベーションにすることだと私は確信する。承認欲求onlyの人にとって、忘年会や新年会は、自分が注目されない限り苦痛の場でしかないが、所属欲求をも大切にしている人にとっては、そういった集まりはメンバーシップを介してほんのりモチベーションを再獲得するチャンスを含んだ場となる。
 
 宴席の片隅で、はんなりしているだけでも満更ではないという幸せ。
 
 私は、ある時期まで承認欲求をどう充たすのか、どう転がしていくのかが社会適応の重要な鍵だと思っていた。だが、最近は承認欲求だけが重要なので無く、むしろ、所属欲求がモチベーションの源として機能するのか、しないのかが重要ではないかと思うようになってきた。
 
 だってそうだろう、承認欲求onlyの人に比べて、所属欲求も充たせる人は、モチベーションや心理的充足感を得られるチャンスが二倍あるようなものなのだ。自分自身が承認されることしか考えていない人は、自分自身が承認される状況以外は苦痛でしかないが、メンバーシップを喜べる人、誰かと一緒に行動できることに喜びを感じられる人は、そうとは限らないのである。
 
 承認欲求にウエイトが傾きまくった心の持ち主にとって、これは、さっぱりわからない話に聞こえるかもしれないし、飲み会のたぐいでメンバーシップを介して心が温まるとは一体どういう境地なのか想像しにくいかもしれない。私自身も、二十代前半の頃は承認欲求にウエイトが傾きまくっていたので、今、私が書いている文章をタイムリープマシンで18年前の私に届けたら「お前は何を言っているんだ」と首を傾げるだろう。
 
 だが、ここまで生きてみて、そして多くの人を実際に観察してきて段々気づいたのは、承認欲求にモチベーションを頼りきっている人より、所属欲求との両方をモチベーション源にできるような人のほうが気持ちの欠乏にも苦しまなくて済むってことだ。たいていの場合、そういう人のほうが出世もしやすく、人望も得やすいのではないか。
 
 この視点で見ると、所属欲求をもモチベーション源とする習慣が早くから身に付いている人は、たぶん生きやすいのだろうなと思う。インターネットの世界では体育会系のノリを毛嫌いする向きもあるけれども、ああいう体育会系をはじめ、部活動のような集まりを介して早くからメンバーシップに慣れておくのは、社会適応していくうえで重要なことなのだと思う――たとえ、すべての部活動メンバーが所属欲求の充足に慣れていけるとは限らないとしても。
 
 こういう視点で飲み会というものを眺めてみると、これがものすごく重要な社会的機能を帯びていることを再認識せざるを得ない。メンバーそれぞれがメンバーシップ意識をもって、モチベーションを充足させていけば、個々人のメンタルヘルスのためだけでなく、組織の一体感や相互信頼も高まる。だからこそ飲み会は一部のメンバーだけが楽しむものでなく、できるだけ多くの参加者が楽しいと思えるような、そして疎外感よりも一体感を確かめられるような向きであるべきなのだと思う。
 
 そして個々人においては、できるだけ早い段階から、できるだけ望ましいかたちで所属欲求の充足に慣れておくこと、そのような機会をたくさん持てることが重要なのだと思う。なにもハードな運動部である必要はない。どこのコミュニティでも構わないから、人が集まり、同輩意識を持てるようなメンバーシップを体験しておくことが、先々のモチベーションと、そのモチベーションに導かれる人生行路を左右するのだろう。
 
 十代の頃から部活動やサークル活動に当然のように参加している人達は、そういったことを意識するまでもなく、所属欲求の持ちように慣れていくに違いない。それに比べれば私は随分と遠回りをしてしまったけれども、これからは、人の集まりや同輩意識を大切にしていきたいな、と思う。
 
 

「健康は道徳、不健康は不道徳」

 
 昨今のインターネットでは、何が正しくて何が正しくないのかについて、言い争いが続いている。
 
 それは狭い意味での"ポリティカルコレクトネス"に留まらない話で、たとえば特定のメディアコンテンツの趣味の良し悪しについてだったり、自転車運転や自動車運転についてのマナーについてだったりする。
 
 そうした正しさを巡る言葉の揺らぎを眺めていて、数年前から気になって、時間が余った時に調べものを進めていることがある。
  
 それは不健康と不道徳についてのものだ。
 
 2018年現在、健康を損ねているからといって、その患者さんが不道徳とみなされることは一般に無い。交通事故に遭って怪我をした患者さんや、先天的な疾患傾向によって健康を損ねざるを得なくなった患者さん、癌や認知症といった難しい病気によって健康を損ねざるを得なくなった患者さんが、そのことを理由として不道徳な人間だと扱われる心配は無い。
 
 ただし、自己選択によって不健康をもたらしかねない行為についてはどうだろうか。
 
 たとえば喫煙。
 
 喫煙は、副流煙の問題などもあって早くから議論の対象となってきた。本人に癌やCOPDのリスクをもたらすばかりでなく、周囲の人にも不健康をもたらしかねない喫煙は、分煙化の対象となり、分煙化がほぼ完了した現在でもたびたび批判されている。
 
 分煙化が行われた後の批判のなかには、もちろん、分煙を徹底できていない違反者が不道徳であるとする向きもあるが、それだけでない。喫煙するという行為そのもの・喫煙という習慣自体を不道徳・不謹慎であるとみる人も一定の割合で存在する。
 
 喫煙行為そのものを不道徳とみなす人々の背景には、健康を損ねる行為をみずから選択することが不道徳であるとする向きがあり、さらにその背景には、医療関係者による健康増進活動に逆らっているという事実や、医療費を増大させかねないという事実が控えているのだろう。
 
 この、医療関係者による健康増進活動に逆らっているという事実と、医療費を増大させかねないという事実は、喫煙行為を不道徳とみなす際の大きな後ろ盾となっているし、たばこ税の値上げを正当化する大義名分の一部分をも担っているだろう。
 
 

アルコールや清涼飲料水も不道徳

 
 こうした不健康が不道徳とみなされる風潮は、喫煙に限ったことではない。
 
 アルコールやジャンクフード、清涼飲料水といったものも、不健康は不道徳であるというまなざしの対象になりはじめている。フランスのソーダ税やルーマニアのジャンクフード税などがまかり通るのも、不健康が健康増進活動に逆らっているという事実と、医療費を増大させかねないという事実が後ろ盾としてあればこそだろう。
 
 医療費の問題も含めての話にはなるが、現代社会では、健康を妨げかねない選択はあまり良い目でみられていないし、良い目でみられていないからこそ、砂糖入りソーダやジャンクフードのたぐいを課税対象とする法律が成立する。
 
 医療費という問題が関与していることを差し引いて考えたとしても、健康を妨げかねない選択は現代社会では歓迎されていないし、批判の槍玉にしやすい。
 
 その延長線上として、コーラやジャンクフードやアルコールは「悪い」もので、新鮮な野菜や地中海食のたぐいは「良い」という考え方が社会全体に浸透している。ここでも、合言葉は健康である。健康に良い食物は善であり、健康に悪い食物は悪であると考えている人は、けして少なくないのではないだろうか。
 
 と同時に、「ジムに足しげく通っている私は良い」「不摂生な生活をしている彼らは悪い」といった価値判断がこっそりと社会全体に忍び込んではいないだろうか。
 
 たとえ、「良い食物」や「ジム通い」がお金や時間に余裕のある人の嗜みで、「悪い食物」や「不摂生な生活」が貧乏人や多忙な人が甘んじざるを得ないという傾向があるとしても、である。
 
 

[道徳-不道徳]の裁定者としての医療者

 
 また、健康診断のたぐいを通して、現代人は健康は守らなければならないもので、不健康は罪悪感の伴うものであることを毎年のように実体験している。
 
 不摂生や偏った食生活をしている人なら、健康診断や人間ドックのたぐいで何度も経験しているはずだ。「ちょっとコレステロールが高いですね」「もう少し運動をすることをお勧めします」「そろそろタバコをやめてはいかがですか」といった言葉は、それが良くないこと・正さなければならない行動であることを知らしめる。
 
 ゆえに、生活習慣に由来するとおぼしき不健康の兆候を医療者から指摘される際には、ある種の後ろめたさや罪悪感が伴う。もちろん、先天的疾患や進行性の疾患を患っている時はこの限りではないが、「身に覚えのある」場合、医師からの不健康の宣告は、現代社会には珍しいタイプのインパクトをもたらす。
 
 いまどき、万人に向かって面と向かって「あなたの行動選択は良くないです」と言えて、それが忠告としてマトモに受け取られる立場が、医療者以外にいったいどれだけあるだろうか? 
 
 医療者からの不健康の宣告に後ろめたさや罪悪感を伴わないようにするためには、健康という概念そのものに対する信心と、その健康を司っている医療者に対する信頼を欠いていなければならない。
 
 ところが、現代社会では健康概念と医療者に対する信頼は非常に広く浸透しているので、たいていの現代人は、健康診断や人間ドックの結果に気をもむことになる。たとえ重大な病気が見つからないとしても、コレステロール値やγ-GTP値や血圧といったバロメータに一喜一憂するのが、現代人しぐさというものだろう。
 
 このような事実を踏まえるなら、現代社会の医療者が担っているもうひとつ役割に私は思いを馳せずにはいられない。
 
 すなわち、道徳-不道徳を裁定する者としての医療者である。
 
 現代の医療者は、健康という見地にもとづいて、何が道徳的で、不道徳なのかを実質的に決定している。少なくとも、健康という分野に関してはそうである。
 
 医学教授の○○先生や、医学博士の××先生が語った健康増進にかなった食物や行動は、社会的にも「良い」ものとみなされ、不健康であると指摘した食物や行動は社会的にも「悪い」ものとみなされる。そうした医療界からのメッセージを私達は半ば神託のように受け止め、(みずから科学的検証や論証に取り組むのではなく)善悪の基準、道徳の規準として受け止める
 
 なぜなら、健康なことは良いことで、不健康なことは悪いことだからである。健康を犯すべからざる御神体とみなし、医学教授や医学博士を司教、医師や看護師を司祭、一般民衆を信者という風に考えるなら、この構図は、宗教組織とよく似ている。異端が発生すれば異端審問が行われ、健康に対する適切な信心と方法論が防備されるという点でも、宗教組織に似ているかもしれない。
 
 むろん、医療者は宗教家ではなく、医学組織は宗教組織ではないので、あくまでこれは健康という次元に限定して起こっていることである。また、個々の医療者に、自分たちが道徳と不道徳を意図的に裁定しているという自覚があるとは思えない。
 
 しかし、健康概念が非常に広く浸透している現代の社会状況では、たとえ健康という次元だけといえ、医療者や医療組織による道徳-不道徳の裁定機能は決して小さくない。
 
 昔の西洋社会では、人々の行動や罪悪感を司り、道徳-不道徳を裁定していた代表的な組織はキリスト教会だった。が、今日においては、案外、医療組織がそういったものを裁定する最も有力な組織なのかもしれない。
 
 というのも、個人の自由や多様性が良いものとされる現代社会において、健康と肩を並べられるほど普遍的と言えそうな価値はほとんど存在しないし*1、医療者や医療組織は、ときの政権などよりよほど信頼されているからである。
 
 健康を巡っての道徳-不道徳の価値判断は、もちろん、病院だけで作られているのではない。
 
 テレビや新聞、雑誌、インターネットをとおして、健康は広く喧伝されている。健康を守るものを良きものとし、不健康に至るものを悪しきものとする情報がメディアには氾濫している。こうした情報の氾濫を、家の中でも、家の外でも、間断なく浴び続けて現代人は育つのだから、健康は、私達の超自我の一部をなしていると言っても過言ではない。
  
 健康という概念じたい、19世紀に発展した生理学によって基礎づけられ、そこから少しずつ広まっていったものだった。ゆえに、21世紀の先進国の人々は、自分自身が健康診断や人間ドックで引っかかるだいぶ前から、不健康に罪悪感をおぼえるように育てられているし、だからこそ、健康を司る医師や医療組織にはpape(法皇)的な権能が宿らずにはいられない。
 
 

科学的な営みだから道徳とは無縁、というわけにはいかない

 
 繰り返すが、今日の医療者や医療組織が往年のキリスト教組織と同じだと私は主張したいわけではないし、彼らが意図的に道徳-不道徳を裁定しているとも思えない。そのような、あたかも法皇のような振る舞いをしている医療関係者を私は見たことが無いし、WHOなどがそういう方面の権力欲に歪んでいるとも考えられない。
 
 しかし、健康がほとんど普遍的な価値観とみなされ、それ以外の領域では価値観の多様化が進んでいるような世の中では、健康という万人共通の次元において、医療者や医療組織が道徳-不道徳の価値基準の問題と無縁でいられるとは、考えられない。たとえ現代医学それ自体は科学的な営みだとしても、である。
 
 どのような社会の、どのような組織も、多かれ少なかれこういった問題には関わっているものだが、今日では、医療がそのような問題のかなりフロントライン寄りの場所に位置している。だから医療は出しゃばるべきではないなどと言いたいわけではない。ただ、医療者に対する信頼と重要性がかように増している社会においては、医療や医療行為のたぐいが個別の患者さんのフィジカルな問題だけを解決していると考えるのは片手落ちもいいところで、マクロな社会全体の道徳や価値基準の次元にも意図せぬ影響を与えている点にも、一応の把握が必要ではないか、と私は思う。
 
 

[道徳-不道徳]は人間の欲するもの

 
 ちなみに、先天的な健康問題や偶発的な健康問題が不道徳とみなされなくなった社会だからこそ、本人の行動選択による健康問題がよりますます槍玉に挙げられやすくなって、いわば、安全にバッシングできる不道徳であるとみなされているとしても、是非はともかく、私はあまり疑問を感じない。
 
 しばしば人間は、道徳とみなされるをもの尊びたがるのと同じぐらい、不道徳とみなされるものを蔑みたがるものだからである。
 
 と同時に、人間は、道徳とみなされる行動選択をもって自らの正しさを示したがり、不道徳とみなされる行動選択をもって他者の過ちを示したがるものだからでもある。
 
 現代人にとっての健康は、個人のフィジカルなコンディションだけにとどまらない何かである。
 
※この問題については、2020年発売の新著でたくさん書いてます。
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

*1:例外は金銭である

朝はマルコメ『料亭の味』+冷凍ネギに限る

 
 
anond.hatelabo.jp
 
 ダシをとって作った味噌汁が美味いのは当然だが、独り暮らしでは味噌汁が余ってしまい、残りを温め直してもあまりおいしくない。
 
 なので、独り暮らしの味噌汁はインスタントが正解……なんだけど、永谷園の「あさげ」「ゆうげ」あたりは美味いっちゃ美味いけれどもコスパがあまり良くない。
 
 コスパと美味さをインスタントで両立させるなら、「マルコメ」の料亭の味に冷凍ネギや冷凍あさつきを入れるのが一番手っ取り早いんじゃないか、と思う。
 
 

マルコメの即席味噌汁は最高

 
 
 マルコメの味噌汁は大学在学中に覚えた。
 

マルコメ だし入り料亭の味 750g

マルコメ だし入り料亭の味 750g

 
 私は北陸出身なので、もともとは「日本海味噌」のファンだった。石川県人と富山県人にはおなじみの、「ゆきちゃんのたよりの麹味噌」ってCMを小さい頃から聴き続けてきたのだから当然だろう。
 

【懐かCM】日本海味噌 春夏秋冬フルバージョン【CM特集】
 
日本海 雪ちゃん こうじみそ カップ 1kg

日本海 雪ちゃん こうじみそ カップ 1kg

 
 
 ところが長野県に来てマルコメの味噌に出会い、即席味噌汁の「料亭の味」を覚えてからは、これに鞍替えしてしまった。あらかじめネギを刻んで冷凍庫に大量保存しておき、「料亭の味」にお湯を注ぐ際に刻んだネギをまぶすと、即席味噌汁としては十分すぎる。ぜいたくではないが、独り暮らしの朝食にはこれで十分だ。いろいろ試したけれど、市販の乾燥野菜を入れるよりは、冷凍ネギのほうが断然いい。
 
 かつて、ある先輩が「朝、味噌汁を飲むと血圧が上がってシャッキリするぞ」と言っていたので私も真似するようになったのだけど、実際、この習慣が身に付いてからは午前中にボヤボヤすることが減ったように思う。そんなこんなで、私はマルコメの即席味噌汁のファンになった。ファンだから、こうやって宣伝している*1
  
 
 マルコメの「料亭の味」には、いくつもの美点がある。 
 
マルコメ 生みそ汁料亭の味しじみ 152g

マルコメ 生みそ汁料亭の味しじみ 152g

 
 美点その1。価格が安いこと。
 
 Amazonで買ってさえ、一食あたり20円もしない。スーパーで安売りしている時には、一食あたり10円程度で手に入ることもある。一カ月欠かさずに飲んでも300円。永谷園の「あさげ」やクノールカップスープも安いのだけど、本当に安売りしている時のマルコメには一歩及ばない。
 
 この程度の出費で午前中のクオリティが大きく変わるのだから、安いものである。電子レンジで温めたご飯と冷凍ネギさえ揃っていれば、朝食のコストパフォーマンスはほとんど最高レベルに到達する。それでいて満足がある。バッチリだ。
 
生みそ汁 料亭の味とん汁 4食×12袋

生みそ汁 料亭の味とん汁 4食×12袋

マルコメ 生みそ汁料亭の味わかめ 216g

マルコメ 生みそ汁料亭の味わかめ 216g

 
 美点その2。
 
 ふたつ。種類が多いこと。
 
 激安な即席味噌汁にも関わらず、「料亭の味」にはそれなりバラエティがあるので、ローテートさせるとなかなか飽きない。月曜日はわかめ、火曜日はしじみ、水曜日は赤味噌、木曜日はあさり……といった風にやれば永久機関である。ネギをちゃんと入れればどれもおいしい。
 
 どうしても飽きが感じられた時や、「今日は気合を入れていきたい」と思った時にはとん汁の出番だ。「料亭の味」シリーズのなかでは少し値段が高いけれども、具材には力が入っている。このとん汁をローテーションに時々混ぜてやることで、独り暮らしの味噌汁永久機関は完璧になる。
 
 
マルコメ 生みそ汁 料亭の味減塩しじみ 8食×12個

マルコメ 生みそ汁 料亭の味減塩しじみ 8食×12個

マルコメ 生みそ汁 料亭の味減塩わかめ 12食×12個

マルコメ 生みそ汁 料亭の味減塩わかめ 12食×12個

 
 美点その3。
 
 減塩バージョンがあること。
 
 味噌汁は素晴らしい日本の文化だが、塩分が嵩むのが欠点だ。しかし「料亭の味」には減塩バージョンがあり、欠点をある程度は補える。わかめやしじみを買うなら減塩バージョンをお勧めしたい。値段も味もそこまでは違わない。売っていたら即ゲットだ。
 
 

マルコメ味噌は信州の味でもある

 
 ちなみに、マルコメ味噌は長野県長野市が本社の「地方企業」だ。長野県の大学を出た私としては、マルコメの「料亭の味」シリーズを買い続けることで、ほんの少しだけ、長野県を応援している気持ちになれるので、いつでもどこでも買っている。長野県を応援したい人にもオススメだ。おいしい味噌汁を飲んで、元気出していきましょう。
 
 

*1:注:別にお金をもらっているわけではありません。ファン活動です。

「超自我」は滅びんよ、何度でも甦るさ

 
 フロイトは、自我とイド*1と超自我の三つの概念を用いて精神機能を説明した。「精神分析なんて古い」と考えている人にとって、この精神機能のモデルはいかにも古風に聞こえるだろうし、時代遅れにも感じられるだろう。
 
 わけても、時代遅れに聞こえそうなのが超自我だ。
 
 自分の行動が社会のルールからはみ出さないか、禁じられた行為をしていないかを自己検閲し、自分自身の行動どころか思考にまでブレーキをかける、そういう精神機能のことを超自我と呼ぶ。
 
 昔、超自我はしばしば性的な取り決めと関連づけて語られていた。精神分析が生まれたころのヴィクトリア朝時代のヨーロッパ、とりわけフロイトが顧客とした中~上流階級の子弟においては、性についての社会のルールは厳格をきわめていた。とりわけ女性は、その厳格な性的な取り決めによって束縛されていた。
 
 当時の女性たちは、ジェンダーやセクシャリティについて、実社会で束縛を受けていただけではなかった。女性たちへの束縛は、物心つく頃までにはプリインストールされていて、意識すらされないような、内面化された規範意識や常識のレベルにまで及んでいた。彼女たちは厳格な性的取り決めを内面化していて、しかも、それを意識することすら難しかったからこそ、束縛は逆らい難いものだった。本来なら奔放な性衝動がある女性でも、その衝動には無意識の水準でブレーキがかけられ、それが葛藤を、ひいては神経症症状を生み出す──というわけだ。フロイトが活躍したフィールドには、そのような葛藤を抱え、神経症症状を呈していた女性が珍しくなかったことを思えば、フロイトが持論のとっかかりとして性の問題に着眼した(というより着眼し過ぎてしまった)のはわかる気がする。
 
 むろん、当時の男性も「男性かくあるべき」という規範意識や常識を内面化していたし、当時は男性役割についての取り決めも現在よりも厳格だったから、これは女性だけの問題ではなかった。まとめると、「19世紀のヨーロッパの中~上流階級に広まっていた規範意識・常識が、物心つくまでにプリインストールされ(=超自我)、自分自身の衝動や境遇との間に齟齬が生じていれば、葛藤や神経症症状を起こす余地がある」となるだろうか。
 
 

21世紀に「超自我」はあるやなしや

 
 それから長い歳月が流れて、社会は大きく変わった。
 
 19世紀には厳格だった性的な取り決めは、20世紀をとおして大幅に緩和された。21世紀の先進国では、「男性かくあるべき」「女性かくあるべき」を個々人に押し付けることは好ましくないこととみなされている。個人の自由や個性が尊重され、自主的選択にもとづく多様性が尊重される社会では、フロイトが論じた頃と同じような超自我も、それに起因する葛藤や神経症症状も、そう滅多にお目にかかれるものではなくなった。
 
 では、「超自我」は無くなってしまったのだろうか。
 
 すなわち、「物心つくまでにプリインストールされ、意識すらされないけれども、自分の行動が社会のルールからはみ出さないか、禁じられた行為をしていないか検閲して、自分自身の行動どころか思考にまでブレーキをかける、そういう精神機能」はもう無くなったのだろうか。
 
 私の記憶が間違っていなければ、20世紀後半の精神分析方面の論者のなかには、「現代人には超自我があまりみられない」「超自我に束縛される精神性より、歯止めのきかない精神性のほうが今日的だ」といった論調の人ががいたように思う。
 
 フロイトが活躍した頃と同じ内容の超自我がみられなくなった・フロイトが語ったとおりの葛藤や神経症症状が少なくなったという意味では、それは間違っていないだろう。
 
 では、現代人には本当に超自我は無くなったのだろうか?
 
 私にはそうは思えない。
 
 たとえば、少し前に人気を博した漫画『東京タラレバ娘』の内容は、「女性の生き方かくあるべし」を強固に内面化したいまどきの女性たちを描いたものだった。
 
 [関連]:『東京タラレバ娘』という神経症的葛藤 - シロクマの屑籠
 
 彼女たちのような「女性の生き方かくあるべし」は、2018年現在、早くも時代遅れになりつつある感はあるし、女性がみな同様の「かくあるべし」をプリインストールされているとは思えない。だが、この漫画がそれなりのセールスを記録したということは、「かくあるべし」を多かれ少なかれ内面化した女性がそれなりいたことを暗に示しているように、私には思われた。
 
 のみならず、現代社会には現代社会なりに、たくさんの「かくあるべし」が存在している。いくつか挙げてみると、
 
 ・私達は自己主張し、自己決定して、独立した意志にもとづいて生きるべし。
 ・私達は資本主義のロジックに基づいて考え、行動すべし。
 ・私達は多様化した社会に相応しいモノの考え方と言動を心がけるべし。
 ・私達は街で他人に迷惑をかけないように行動すべし。
 ・私達は他者から承認される個人たるべし。
 
 19世紀の日本と21世紀の日本を比べると、これらの「かくあるべし」は、21世紀のほうが段違いに強力で、幅広いものとなっている。たとえば、大都市圏のホワイトカラー層の家庭で生まれてきた子どもが、こういった「かくあるべし」をプリインストールされることなく成長することは、おそらく不可能だろう。20世紀後半に生まれてきた子どもらも、多かれ少なかれ、こうした考えをプリインストールされていた側面はあろうけれども、これらの「かくあるべし」が社会のなかで当然視されている度合いは段違いである。これらの「かくあるべし」に関する限り、21世紀は20世紀よりも「かくあるべし」が強固にプリインストールされ、自明とみなされやすい社会だ。
 
 言い換えれば、これらの「かくあるべし」から本当は逸脱したい個人や、逸脱することしかできない個人にとって、神経症的葛藤や罪悪感が生じやすい社会だとも言える。そこまでいかなくても、「かくあるべし」によって生き方や社会適応のありかたを制限され、不自由な状況に甘んじている人が生じやすい社会だとは言えよう。
 
 だとすれば、21世紀において超自我について考える際には、フロイト時代の「かくあるべし」に基づいて考えるのでなく、21世紀ならではの「かくあるべし」に即して考えるのが妥当ではないだろうか。
 
 フロイト時代の論説をそのまま現代人に当てはめるなら、「精神分析は時代遅れ」「超自我なんて時代遅れ」というのはそのとおり。
 
 だが、今日の社会に蔓延している常識やルールを踏まえて、それなら今日の超自我とは何なのかをキチンと考えられるなら、葛藤まみれで自縄自縛な現代人について考える際にはいぜん有効ではないだろうか。
 
 あるいは、現代人の精神の自由について考える際には、あったほうが良い思考モデルではないだろうか。
 
 尤も、超自我という概念は無意識を前提としていて、この、無意識というやつが、現代人にはすこぶる受けが悪い。現代人の大半は「無意識なんて考える必要はない、すべては意識的に、自分で考え自分で決めたとおりのことだ」と考えたがる。本当はそんなはずが無いのに。それもまた、今日の「かくあるべし」のひとつかもしれないし、現代人にとっての躓きの石たりえるのかもしれない。
 
 

*1:またはエス

「あの頃の秋葉原」として眺める『シュタインズ・ゲート』

 

STEINS;GATE ELITE - Switch

STEINS;GATE ELITE - Switch

 
 
 2018年も3カ月を切って、秋アニメが始まった。そのため、連休中に『シュタインズ・ゲート ゼロ』の録画を慌てて見て、秋という季節のせいか感傷的な気分になった。というか、最近どうも感傷的になりやすく、思い出話ばかりブログに書いている。良くない傾向だ。
 
 
【アニメ版『シュタインズ・ゲート ゼロ』そのものについて】
 
STEINS;GATE 0 - PS Vita

STEINS;GATE 0 - PS Vita

 
 
 アニメ版の『シュタインズ・ゲート ゼロ』は、かなり頑張っていた。
 
 予習としてゲーム版をプレイしてはいたけれども、正直、2009年の『シュタインズ・ゲート』の正統な続編というにはシナリオが弱いというか、元気の出ない岡部倫太郎と、その周辺の鬱々とした物語を魅力的にみせるだけの精緻さを欠いているように思われた。ファンディスク『比翼恋理のだーりん』では許容されたシナリオのユルさも、正統な続編ではちょっと許容しづらい。個人的には「これなら初代だけで美しく完結していたほうが良かったのでは?」と思わなくもなかった。
 
 それでも、アニメ版は頑張っていた。
  
 おそらく制作予算にそれほど余裕は無かっただろう。にも関わらず、できるだけ美しく、できるだけ面白くしようと工夫した跡がたくさんみられたし、端折って構わないところはできるだけ端折り、補うべきものを補っているように見受けられた。もちろんゲーム版が一方的に劣っているわけではなく、ゲーム版のほうが描写の細かい部分もあるが、マルチエンディングなゲーム版と一本ルートなアニメ版の違いをカバーした「移植」はたいしたものだったと思う。
 
 
【ガラケーからスマホに持ち替えても、雰囲気は00年代】
 
 それより本題に移ろう。
 
 かつて、ガラケーに向かって「エル・プサイ・コングルゥ」とつぶやいていた岡部倫太郎は中二病をやめ、『シュタインズ・ゲート ゼロ』ではスマートフォンに持ち替えていた。ラボメン同士の連絡もメールではなく、LINEを使っている。
 
 ところが『シュタインズ・ゲート ゼロ』が2010年代風かというと……そんなことはない。ゲーム版がリリースされたのが2015年だが、体感的には、00年代後半の雰囲気にみえてしまう。
 
 リリースが2015年で舞台が2011年だから、懐かしい雰囲気になるのは不思議ではないし、そうでなければ『シュタインズ・ゲート』っぽくもないのだろう。良きにつけ悪しきにつけ、『シュタインズ・ゲート』シリーズは2011年以前の雰囲気、もっと言えば00年代の秋葉原の雰囲気から逸脱していない。
 
 スマホやLINEを使うようになっても、結局、ラボメンは00年代の雰囲気を手放さなかった。コスプレ。メイド喫茶。2ちゃんねる用語。そしてダルという「変態紳士」。初代『シュタインズ・ゲート』では、そういった00年代のオタクカルチャーやオタク仕草がストーリー進行に不可欠な要素として描かれていたが、10年代の『シュタインズ・ゲート ゼロ』でも基調は変わらない。
 
 秋葉原の描かれかたにしてもそうだ。『シュタインズ・ゲート ゼロ』で描かれる秋葉原もまた、00年代後半っぽい、「オタクの街」としての面影が残っている頃のものだ。ダルと阿万音由季のデートシーンあたりは「普通の街」になりつつある秋葉原を連想させるけれども、それでもなお、作中の秋葉原は「普通の街」や「観光の街」にはなっていない。
 
 『シュタインズ・ゲート ゼロ』のストーリーでは、その秋葉原で第三次世界大戦が始まり、平和だった世界は失われていく。そういう筋書きのせいか、いよいよもって私には「あの頃のオタクと秋葉原」がノスタルジックに、失われゆく世界に感じられた。ラボメンたちの奮闘が、失われゆく一時代に拘泥している自分自身、あるいは周囲の中年(元)オタクにダブってみえることもある。
 
 ラボメンたちの奮闘が、私自身の懐古の気分と混じり合って、なんとなく混乱してしまうのだ。世界線だのタイムマシンだのが登場する作品だけに、その混乱も楽しみのうちなのかもしれないが。
 
 現実世界では第三次世界大戦は起こっていないが、それでも秋葉原の街並みは変わり、オタクもオタク仕草も変わっていった。今となっては、『シュタインズ・ゲート』シリーズで描かれる諸々は思い出の領域だ。それだけに、00年代のオタクや秋葉原に思い入れのある人にはたまらないものがある。
 

 
 2010年代からみた『シュタインズ・ゲート』シリーズは、在りし日のオタクにとっては素晴らしいタイムカプセルだ。そういう意味でも、『シュタインズ・ゲート エリート』初回版特典としてファミコン版がついてくるのはいかにもお似合いだった。『シュタインズ・ゲート』シリーズは、在りし日を懐古するためのタイムカプセルという位置づけに(少なくとも現在は)おさまっているのだろう。
 
 
 
【10年代と「中二病」の死】
 
 で、岡部倫太郎、である。
 
 『シュタインズ・ゲート ゼロ』では岡部倫太郎がすっかり普通の大学生になっていて、初代『シュタインズ・ゲート』で「鳳凰院凶真」を名乗っていた面影が失われている。
 
 ストーリー上、ほかのラボメンたちは「鳳凰院凶真」の復活を望んでいるのだが、2018年から眺めると、これがちょっと奇妙にうつる。というのも、中二病を捨てた岡部倫太郎だけが10年代風の雰囲気をまとっていて、他のラボメンたちが00年代のオタクの雰囲気を引きずり、その古いありように岡部倫太郎を引きずり戻そうとしているようにもみえるからだ。
 
 『シュタインズ・ゲート』シリーズは、中二病的なパワーが物語の駆動力になっているから、ラボメンたちが「鳳凰院凶真」の復活を望むのはおかしくない。
 
 ところが、現実世界における中二病の位置づけが変わってしまったことで、『シュタインズ・ゲート』で描かれる中二病を、00年代の頃と同じ風には見られなくなってしまった自分自身に気づいてしまった。
 
 
 一般に、「中二病」という言葉は伊集院光のラジオ番組が初出とされている。いくらかニュアンスの変化はあったにせよ、その後、この言葉は広く知られるようになり、今ではそこらのママさんや小学生でさえ「中二病」という言葉を知っている。広く知られてしまったことによって、中二病概念は良くも悪くも陳腐化してしまった。小学生のうちから中二病という言葉を知り、それが滑稽な仕草だと世間に知られてしまうと、もはや、中二病はかつてと同じようには存在し得ない。
 
 中二病は、あまりにも広く知られてしまったことで神秘性を失い、ベタにやるものではなく、メタかネタとしてやるものになってしまった。
 
 そうした社会変化のもとで眺める「鳳凰院凶真」は、まだ中二病という言葉が死んでいなかった頃の「鳳凰院凶真」とは違った風にみえる。岡部倫太郎というキャラクターの面白さは、ある部分で中二病という言葉の尖り具合に依存していたというのが、今ならよくわかる。中二病という言葉が陳腐化し、すり減ってしまった2018年において、「鳳凰院凶真」とは、戻らぬ輝きだ。その戻らぬ輝きを、時間遡行によって取り戻そうというのである。
 
 このあたり、ゲーム版ではちょっと食い足りない感じがあったけれども、アニメ版は精一杯「鳳凰院凶真」の輝きを描こうとしていて好感が持てた。その輝きには「残光」という言葉がよく似合うようには思われたが。
 
 
【過去を思い、時の流れに思いを馳せる】
 
 『シュタインズ・ゲート』と『シュタインズ・ゲート ゼロ』は00年代後半の雰囲気をまとっているが、見る側は歳を取り、平成の世も終わりを迎えようとしている。今、このシリーズを鑑賞し直してつくづくわかるのは、時間は流れていくということ、私達も時代も街も変わっていくということだ。
 
 それだけに、タイムカプセルとしての『シュタインズ・ゲート』シリーズには記念碑的な価値があるともいえるし、時間遡行という作品のテーマにもよくマッチしていたようにみえる。
 
 今後、このシリーズがどのように変わっていくのかはわからないけれども、今は「あの頃の秋葉原の思い出」として大切にしておこうと思う。エル・プサイ・コングルゥ。