シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

本物の自己実現欲求の人に出会うと、真似たいとは思えなくなる

 

認められたい

認められたい

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

 
 
 ここ数年のインターネットの様子をみていると、承認欲求をモチベーション源として活動するのが、あたかも卑しいことであるかのような言説がまかり通っている。
 
 褒められたい。認められたい。一目置かれたい。
 
 そういった、他者からの承認をモチベーション源にすることは卑しいこと・良くないこと・しようもないことであり、他人の顔色に左右されるという点で不自由である、云々といった感じである。

 私は、こうした承認欲求-批判がぜんぶ間違っていると主張したいわけではない。

 実際、世の中には承認欲求の下僕としか言いようがない人、承認欲求に振り回され、誰のための人生かわからなくなってしまっている人もいる。インターネット上なら、PV数に囚われて自己コントロールができなくなっているブロガーや動画配信者のようなたぐいは、承認欲求の残念な例としてわかりやすい。

 そうは言っても、人は承認によって心動かされるものであり、承認を得たい気持ちと、承認を得た時の嬉しさによってもモチベーションを獲得しているのも、また事実である。

 子どもなどがその典型だが、承認される行為によって、何が社会的に望ましい振る舞いなのかを窺い知り、承認されない行為によって、何が社会的に望ましくない振る舞いなのかを知る。そういったことの無数の積み重ねのなかで、人はスキルアップし、人は社会性を身に付けていく。
 
 承認欲求「だけ」をモチベーション源とするのは良くないとしても、人間のモチベーション源全体のある割合は、やはり、承認欲求とカテゴライズできるもので占められていて、そこを無碍にするのはいかがなものかな、と私は思う。
 
 

自己実現欲求のレベルに辿り着いたとおぼしき人は、実在する

 そんなわけで、私は承認欲求肯定派である。承認欲求の奴隷になるべきではないが、承認欲求とは上手くつきあっていったほうがモチベーションは太くなる。ほとんどの人間は、高尚なモチベーションや自家発電的なモチベーションだけでは駆動力が足りない。

 で、自己実現欲求、である。
 

マズローの心理学

マズローの心理学

 
 
 自己実現欲求は、いわゆるマズローの欲求段階説のピラミッドのてっぺんに位置する欲求で、承認欲求や所属欲求の次元を超えた、より高尚でよりレアな欲求とされている。マズローによれば、自己実現欲求はすべての人が芽生えるようなものではなく、リンカーンやシュヴァイツァーといった人達がその典型とされている。
 
 そういう高尚でレアな欲求ゆえに、私は、青少年向けの自著(『認められたい』)では「自己実現欲求なんて、そんな簡単に目覚めるものじゃないよ、それより承認欲求や所属欲求のレベル(=社会的習熟度)を高めるよう」といったことを書いた。青少年という想定読者に対して、それは妥当な書き方だったと思っている。
 
 とはいえ、自己実現欲求とカテゴライズされそうなモチベーション、自己実現欲求に目覚めているとおぼしき個人が存在しないわけではない
 
 世の中のところどころには、「この人は、自己実現欲求に目覚めているとしか考えられない」というモチベーションをもって活動している人が確かに存在している。
 
 先日私が出会ったご老人にしてもそうで、もう、承認欲求とか所属欲求とか、そういったカテゴリーでは絶対に説明できないような、まさに自己実現欲求によってモチベートされているとしか思えない振る舞いをするご老人で、社会への貢献や組織の発展といったことを真摯に追求しているさまがみてとれた。
 
 私利私欲を感じさせるところがなく、誰に対しても分け隔てなく振る舞い、長年の経験や知識をできるだけ沢山の人の役に立てようとする姿勢を見て、私は感銘を受けずにはいられなかった。ああ、これが、承認欲求と所属欲求の彼岸に辿り着いた人の姿であるか、と。
 
 このご老人ほどではないにせよ、私はこれまでの人生の中で何度か「自己実現欲求まで辿り着いた人」を見かけてきた。それは、地域の医療のために長い努力を積み重ねてきた人であったり、大学医局で教授職に就いた人であったり、後進のために骨折りを惜しまないメディア人士であったり、いろいろである。
 
 ただし、彼らにはある程度共通点があって、

・比較的年齢が高い。若くても30代後半、典型的には60代以降
・自分がすべきことを十分な期間、すでにやってきた
・私利私欲や承認欲求のロジックでは行動が説明できない
・金銭的にも社会的にも不安定な立場ではない
・現在の立場のために汲々としてきた素振りも感じられない
 
 これらの共通点を誰もがみたすのは難しいように思える。
 
 「自己実現欲求まで辿り着いた人」は、私には、カリスマ的な人物とうつる。ここでいうカリスマとは、インターネット上のインフルエンサーにありがちな、ギラギラとカリスマっぷりを自己顕示するような感じのものではない。むしろいまどきのインフルエンサーのギラギラさには、承認欲求の匂いが立ち込めていて、自己実現欲求の匂いがしない。「自分の知名度や金銭のためにインフルエンサーをやっている」というオーラを放っている人々は、私がいう「自己実現欲求まで辿り着いた人」のソレとは全然違う。
 
 

「敬して、自己を慎みたくなる」

 
 くだんのご老人をはじめ、自己実現欲求まで辿り着いた人には、コミュニケーション能力が高いとか、知名度があるとか、センスが良いとか、そういった尺度だけでは説明のつかない、もっと違った魅力が宿っている。彼らを見ていても「俺も有名になりたい」「俺も出世したい」といった気持ちは沸いてこない。ましてや、嫉妬の感情など恐れ多い。
 
 どちらかと言うと、自己実現欲求の人々からは「この人のもとで働きたい」「この人といると、きっと何かが得られる」「この人の爪の垢を煎じて飲みたい」といった気持ちが沸いてくる。「リスペクトを感じる」という言葉では巷のインフルエンサーと区別がつきにくいかもしれないけれども、「敬して、自己を慎みたくなる」という気持ちが沸いてくる点がやっぱり違っている。自己実現欲求の境地に至った人々を真似たいとか、彼らのようになりたいなどと願うのは、私には、不遜なことのように感じられる。だからこそ、彼らが一段と尊い存在にみえる。
 
 自己実現欲求の境地は、がんばって辿り着くものではなく、一部の人がいつの間にか辿り着いているものだと私は思わざるを得ない。凡夫は、承認欲求や所属欲求の次元で生きていくぐらいの気持ちで十分なのだ。
 
 1990年代~00年代にかけて、「自己実現に目覚めよう」的な自己啓発書が大量に出版されたが、ああいうノリも、実在の自己実現欲求にそぐわない。「自己実現したい」と考えているうちは、承認欲求の次元にとどまっているとみて間違いないだろう。自己実現欲求の次元に到達してしまった人々の、どことなく尊い雰囲気を目の当たりにすると、ただ凡人の一人として、彼らの薫陶を精一杯吸い込み、なるべく善く生きていきたいと願うばかりである。
 

『ふろむだ本』は現代の魔術書だ。だから使う側には力量が求められる

 

人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている

人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている

 
 
 最近、ふろむださんの書籍が早くも四刷を迎えたと知った。このこと自体が、書籍に書かれた内容を証明しているように思えてならない。運や実力に加え、書籍に書かれている「錯覚資産」をうまく生かしたからこそのヒットだろう。見事というほかない。
 
 

実力や運を呼び込むためにも「錯覚資産」が必要

 
 ふろむださん( id:fromdusktildawn さん)は、2006年頃から『分裂勘違い君劇場』という人気ブログを運営していた。現在の基準で考えると異様な長文ばかりだったけれども、読む人を楽しませ、巧みにちゃぶ台をひっくり返してみせて、たくさんのファンを作った。00年代の有名ブロガーの一人だと思う。
 
 その ふろむださんが2018年に書籍を出版するという。はたして、読みやすくアレンジされ、イラストでわかりやすく説明した、たくさんの人にリーチする書籍になっていた。それでいて『分裂勘違い君劇場』のテイストは残っている。そのあたりのパッケージの出来栄えに、見事なものだなぁ……と思わずにいられなかった。
 
 
 
 
 「錯覚資産」、つまり人間を勘違いさせる力は、人間社会に遍在している。
 
 錯覚というと、視覚上の錯覚が有名だが、ものごとの優劣や取捨選択の判断でも人間の脳は錯覚を起こしている──ふろむださんは、さまざまな研究結果を引用しながらその性質を紹介し、その錯覚が遍在しているという前提で人間社会を見据えて、人生を豊かにしていきませんかと提言している。
 
 人間の脳は、知名度やルックス、言葉遣い、肩書きなどによって、気付かぬうちに影響を受けてしまう。実力優先とみなされる場面でも、その実力の優劣を判断し、取捨選択を決めるのは人間だから、その手の錯覚や勘違いがまかり通っている。たとえ錯覚や勘違いによって獲得したチャンスだとしても、そのチャンスによって実力が育まれるから、最終的には、錯覚や勘違いを生かした人間のほうが実力面でも上回ることになりがちだ。
 
 だから実力重視な人も「錯覚資産」をバカにしてはいけない。「錯覚資産」はチャンスの運び手であり、運が舞い込んでくる確率にも影響を与える、きわめて重要なファクターである──こういったことを、ふろむださんは懇切丁寧に説明している。
 
 文中、ふろむださんは本書を「実用書」と位置付けているが、実際、この「錯覚資産」を軽んじていた人には「実用書」たり得るだろう。「錯覚資産」というコンセプトの根拠を疑う人は、文中に出て来る実験や心理学者について調べてみてもいいかもしれない。いずれにせよ、これから力を手に入れたいと思っている人、チャンスや実力を掴みたいけれどもうまくいっていないと感じている人にはオススメできそうな本だし、おそらく、そのような人が想定読者層なのだろう。また、知名度やルックスや言葉遣いや肩書きを軽蔑してかかっている人にも、いい薬になるかもしれない。
 
 

「錯覚資産」を増やして破滅する人もいる

 
 さて、褒めてばかりでは芸が無いので、この本には書かれていない、けれども私自身が気を付けていることについて書いてみる。
 
 「錯覚資産」が実力や運を呼び込む重要なファクターなのは述べたとおりだし、「錯覚資産」それ自体も大きな力を持っている。有名であること・ルックスが優れていること・肩書きが立派であることは、虚構といえば虚構だが、他人に影響を与えるという意味では、やはり「力」には違いない。いや、他人だけではない。自分自身にもその「力」は少なくない影響を与える。
 
 本書の後半には、ふろむださん自身がtwitterを使って「錯覚資産」を増やし、本書の出版に備えていたプロセスが描かれている。実際に本書が売れているところをみるに、嘘いつわりのない成功譚なのだが、私は、ふろむださんの成功は「錯覚資産」以外の要素によって裏打ちされている、と思う。
 
 私は、「ふろむださん自身に、「錯覚資産」を増やしてもブレない心の強さ、いわば『力量』や『器量』があったから成功した」という風に解釈したのだった。
  
 私もインターネットを長くやっているので、いろいろなアカウントの栄枯盛衰を眺めてきたつもりである。
 
 眺めるに、インターネットで急成長するアカウントは、「錯覚資産」を膨らませる術に長けている。たとえばtwitterで短期間に数万単位のフォロワーを獲得するようなアカウントは全員、「錯覚資産」を膨らませていると言って構わないだろう。意識してやっているようにみえる人もいれば、本能的にそうしているようにみえる人もいる。
 
 しかし、そうやって「錯覚資産」を手に入れた者の未来が明るいとは限らない。
 
 むしろ、比較的短期間に手に入れた「錯覚資産」を活かしきれなかった人や、それが仇になってしまった人のほうが多いぐらいではないか。
 
 
 繰り返すが、「錯覚資産」は力である。
 
 インターネットを活用するような分野では、とりわけそうだろう。しかし、力はそれを御する「力量」や「器量」を持たない人間には危険なものでもある。
 
 手に入れた力を暴走させ、手を広げ過ぎて心身を損ねる者もいれば、手に入れた力にのぼせあがり、致命的炎上をやらかしてしまう者もいる。あるいは、力を行使して自分がやりたいことをやっているのか、力に振り回されてやりたくもないことをやっているのか、わからなくなってしまう者もいる。
 
 よく、ファンタジーロールプレイングゲームの寓話として、力量も器量も足りない魔術師が、偉大な力を持ったマジックアイテムを手に入れて、結局、マジックアイテムに振り回されて破滅するものがあるが、これは、「錯覚資産」にもだいたい当てはまると私は思う。
 
 「錯覚資産」は、いわば現代の魅了魔術であり、現代のコミュニケーション錬金術でもある。「力量」や「器量」の十分な人がこれを駆使すれば、大きなことを成し遂げられるだろう。しかし、その人の「力量」や「器量」をオーバーするような「錯覚資産」を手にした場合、思うように力を行使できないか、膨張した「錯覚資産」に振り回されてしまいかねない。
 
 また、実力と「錯覚資産」によって膨張した見かけ上の総合力とのギャップが大きくなり過ぎても、錯覚資産の運用難易度は変わってくる。「錯覚資産」の伸びと実力の伸びは、あるていどシンクロしていたほうが良いように個人的には思う。実力とかけ離れた「錯覚資産」を運用できるのは、この方面で天才的素養を持っている人だけである。
 
 だからこそ、私はふろむださんが「錯覚資産」を手ずから運用して本書をベストセラーにもっていった手つきに、感服せずにはいられなかった。「錯覚資産」を構築する手つきも、「錯覚資産」を使いこなしてみせる力量も、私はふろむださんにはかなわない。むろん、10年前の私に比べれば、現在の私のほうが成長していて、取り扱える「錯覚資産」のキャパシティも大きくなってはいるだろう。だとしても、である。
 
 

ディフェンシブな「錯覚資産」の運用もいいのでは

 
 というわけで、『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』を読んで力がみなぎってきた人は、その力を自分がどこまで生かせるのか、あるいはどう生かすのか、熟慮して欲しい。私は、本書は実用的な現代魔術の書物*1だと思っているが、強い力には、それにふさわしい力量や器量が必要だ。たとえば私のように力量や器量が不足していると感じる人は、「錯覚資産」を無制限に追い求めるのでなく、とりあえずコントローラブルな水準に抑えておいて、自分の力量や器量、あるいは実力が育ってくるのを待つのも一手だと思う。力がみなぎってきたからといって、制御不能なレベルまでパワーアップしなければならない人なんて、それほどいるまい。「錯覚資産」を意識しつつ、制御可能な水準でディフェンシブに運用するのも、本書の使い方のひとつだと思う。
 
 ともあれ、「錯覚資産」という力の存在を知っているのと知らないのとでは、渡世の難易度は大きく変わるので、そのあたりに疎い人にはおすすめしたい。
 
 

*1:錯覚を活用するという意味でも、やはり、本書には魔術書という言葉がふさわしい

失われた「田舎の子育てのアドバンテージ」

 
blog.tinect.jp
 
 リンク先を読みながら、地方で子育てをやっている我が身を振り返って、少し悲観的な気持ちになった。
 
 私は、地方の国道沿いの、イオンやユニクロやニトリから程遠くない郊外に住んでいる。家族で普段の買い物を済ませるには便利だし、東京のような不動産の高騰にも直面していない。
 
 私立中学校にお受験させなければならないわけでもなく、公立高校の進学校を選べば学費はそれほどかからない。高専に進学するならもっと安くて済むだろうし、地元の国立大学を選べば大学でも費用は少なめになる。「子育てを地元で完結させる」ぶんには、地方は子育てしにくい土地だとは思えない。
 
 けれどもリンク先のfujiponさんがおっしゃるように、都会で色々な文物に触れてまわっている子どもたち、早くから進学校に通い、都内や海外の大学へ進学していくであろう子どもたちと比べた時、地方暮らし・田舎暮らしに利点があるかというと、昔ほどアドバンテージが思いつかない気がする。そのことについて、この機会に少し書いてみるにする。
 
 

かつてはあった「田舎暮らしのアドバンテージ」

 
 私が生まれ育った頃、昭和時代の私の田舎には、いかにも田舎らしいメリットがあったと思う。
 
 ひとつは「自然との触れ合い」。
 
 海、山、川、堤防、沼沢地、雑木林。そういったものはすべて遊び場で、私たちは文字どおり自然と触れ合いながら育った。昭和20-30年代はもっと自然が豊富で、身体をフル稼働させるような遊びがもっと多かったという。
 
 そういった自然だけでなく、町全体も遊び場だった。近所の家の裏庭も、空き地も、私有地か公有地かにかかわりなく子どもが遊んで構わず、軒下に出てきた近所のジジババと会話することもよくあった。町内のあらゆる隙間を知り、町内のあらゆる住人を知り、老若男女とたえずコミュニケーションすること自体が、社会性の獲得を後押ししてくれていたと思う。親と対立したとしても、だから孤独になることはあり得なかった。親以外にも年上がたくさんいたし、親の価値観が絶対ではないことを肌で感じさせてくれる年上に囲まれて育ったからだ。
 
 野山を駆けまわり、草野球ができる空き地がどこでも利用できて、町内の年上や年下と豊富な接点が持てたあの頃の生活は、私の社会性の基礎になっていると思うし、これが無ければ、不登校時代の遠回りを挽回できなかったと思う。
 
 

東京の劣化コピーとしての「現在の田舎暮らし」

 
 ところが、現在の私の子どもを見ていると、そういったメリットのことごとくが失われてしまったようにみえる。
 
 海も山も川も沼沢地も、子どもが遊んで良い場所ではなくなった。道路や私有地は子どもが遊んではいけない場所になり、子どもたちは決まった時間に、決まった場所で遊ぶようになった。その公園も、代々木公園や世田谷公園のような広大なものではなく、古い時代の都市公園法に従ってほとんど嫌々作られた、お粗末なものでしかない。そのような狭い公園のうえボール遊びも制限されていて、かつての私たちの頃のような、伸び伸びとした草野球など望むべくもない。
 
 町全体が遊び場ということもなくなってしまった。近所の家の裏庭や空き地に子どもが入ることは、21世紀の郊外では非常識なこととみなされている。それぞれの家の家主がそう思っているだけでなく、子どもも、子どもの親も、そのことを不文律とみなしている。新しく建てられた家屋には、軒下なんてものは存在しない。現代の家屋は、家族がスタンドアロンに過ごすことに最適化されていて、近所の人々と繋がりあうことを前提につくられているとは言えない。
 
 結局、田舎に住んでいるからといって、自然を謳歌する機会も、伸び伸びと草野球をする機会も、地域社会に根付いた社会性をマスターする機会も、あまり無いのである。どうしても自然を謳歌させたかったら、お金を払って自然を謳歌できる場所に行くしかないし、どうしても草野球をさせたければ、お金を払ってスポーツクラブに通わせるしかない。学校と自宅を往復するばかりで、専らゲーム機で遊んでいるような子どもは、田舎ならではのアドバンテージなど望むべくもない。
 
 それなら、塾や稽古事の選択肢が多いぶん、大都市圏のほうが子育てに有利ではないか。
 
 「それは、お前が田舎とはいえ中途半端な郊外に住んでいるからだ。もっと過疎地に行けば自然を謳歌できるはずだ」と反論する人もいるかもしれない。だが、私の知る限りではそうとも限らない。
 
 過疎地に行くと、熊や猪、猿がかなりの頻度で出没する。人の手がほとんど入っていない場所もたくさんあり、切り立った崖や怪しい獣道のたぐいといった、安全面の覚束ない場所がたくさんある。平成時代の親の感覚としては、熊や猪や猿がしばしば出没する場所で子どもを放っておくわけにはいかない。
 
 また、近所の家の裏庭や私有地で子どもが遊ぶ行為も昔ほど許容されない。「子どもといえど、私有地には勝手に入ってはいけない」という意識が、過疎地にもそれなり流れ込んでいるのがわかるからだ*1。それでなくても、少子高齢化が進み過ぎた地域には、子どもにバリエーション豊かな社会的経験を提供するだけのゆとりがない。
 
 かつて、都会の子どものステロタイプとして、「学校から塾への行き帰りに携帯用ゲーム機で遊び、帰った後も自宅で一人で遊ぶ」というものが語られたけれども、結局、どこに住んでいてもあまり変わらないのではないか。子どもが外遊びしなくなったのも、ボール投げの成績が年々落ちていくのも、子どもがゲームで遊ぶのが悪いというより、街全体として、いや社会全体として、子どもを街で遊ばせておいて勝手に経験を積み重ねてもらうことを許容できなくなっている故のように、私にはみえてしまう。
 
 結局、親が子どもにバリエーション豊かな経験を積ませようと思ったら、カネを積んで、経験を買うしかない。
 
 
 [関連]:学力だけじゃない、体力もカネで買う時代 - シロクマの屑籠
 
 

「契約社会の論理」が子どもにも適用されるようになった

 
 こうした、子どもを勝手に外で遊ばせない意識の浸透は、人格形成期の人間関係や社会性の獲得に響くので、私は小さくない問題だと思っている。そして、この意識の浸透はいろいろな切り口で語り得るものだろうとも思う。
 
 この文章では、「社会契約の論理の徹底」という切り口でこのことについて考えてみたい。
 
 かつて、地域社会が社会関係の大きなウエイトを占めていた頃は、地域の子どもはまったき「他人」の子どもではなく、「地域」の子どもでもあった。地域の子どもの遊び場は、地域の共有材だった。親子関係にせよ、地域の年上と年下の社会関係にせよ、その共有のありかたには契約社会のロジックが浸入していなかった。社会学者のテンニースのフレーズを借りるなら、「子育ての相当部分がゲマインシャフトのなかで行われていた」と言えるかもしれない。
 

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト 下―純粋社会学の基本概念 (岩波文庫 白 207-2)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト 下―純粋社会学の基本概念 (岩波文庫 白 207-2)

 
 ところが、大都市圏では比較的早く、地方や郊外ではそれより幾らか遅れて、地域社会は希薄化していった。子どもの一人一人は「他人」の子どもでしかなく、「地域」の子どもとはみなされない。私有地という概念が浸透するにつれて、軒下コミュニケーションも裏庭を歩く子どもも少なくなり、子どもの遊び場=地域の共有財という意識はなくなった。道路で遊ぶ子どもや空き地で草野球をする子どもは、許容されなくなった。人々の意識も、街のつくりも、数十年の間にすっかり変わってしまった。
 
 このことは、「子育てが契約社会に完全に組み込まれた」と表現することもできるし、「契約社会化した街から子どもが締め出されて、子どもも契約社会のロジックに従わなければならなくなった」と表現することもできよう。
 
www.cnn.co.jp
 
 先日、アメリカのバス停近くの個人が、庭に子どもが入らないよう電気柵をもうけたニュースがあった。結局電気柵は撤去されたそうだが、契約社会のロジックに従って考えるなら、私有地への子どもの闖入を防ぐために土地所有者が電気柵をもうけても、おかしくないように思える。契約社会のロジックに従って考えるなら、「農家が田畑を荒らす猪を避けるために電気柵をもうけるのと変わらない」と考えるべきなのだろう。
 
 これはアメリカの話だが、周囲の子どもたちを眺めていると、わざわざ電気柵をもうけるまでもなく、「私有地に勝手に入ってはいけない」という意識はインストール済みのようにみえる。外遊びに最適な空き地があっても、ご近所の庭に好奇心をそそるものがあっても、2010年代の子どもはまず侵入しない。少なくとも、私が育った頃の子どもと現代の子どもでは、契約社会のロジックを内面化している度合いがぜんぜん違っているようにみえる。
 
 

契約社会化した子育てに、社会は、あなたはどこまで対処できるのか

 
 こうした社会の変化に対して、行政はそれなり手を打っているようにみえる。
 

 
 首都圏の湾岸マンションに限らず、比較的新しい住宅街には、だいたい広々とした公園が併設されている。契約社会のロジックに沿ったかたちで子どもが遊びやすい空間を確保するためには、「公園」とレッテルづけされた空間を増やしていくしかない。このあたりは、都市公園法の改正、少子高齢化を懸念する行政の思惑、不動産販売業者の戦略などが絡み合っての結果だろうけれども、少なくとも、二十年前ぐらいの住宅街に比べればマシになった。
 

 
 また、上掲の自転車の練習写真のような、近所でやりづらくなった体験を授けるためのイベントや場所も、都市部には存在している。こういった計らいも、契約社会のロジックから逸脱しにくくなった子育ての助けになっているとは思う。
 
 それでも、これらですべてが解決するわけではないし、これらは"恵まれた"都市部で行われていることだ。数十年前のニュータウンがそのままになっている地方の郊外などでは、こうした恩恵に与るチャンスが少ない。
 
 結局のところ、契約社会のロジックのもとでは、ほとんどの部分は親の能力と判断でどうにかしなければならないのである。
 
 「田舎=自然や地域社会のアドバンテージが得られる」という図式が無くなった今、契約社会のロジックに即したかたちで子育てのアメニティが取り揃えられた大都市圏の子育てに、田舎の子育てが太刀打ちできるものだろうか。
 
 我ながら、ちょっと少し先走ったことを文章にしてしまったとは思う。だけど地方で子育てしている者の一人として、最近は大都市圏の公園の芝が青くみえてならないので、今の気持ちを書いてしまうことにした。
 

*1:こうなった背景には、過疎地の私有地に勝手に闖入し、山菜やキノコを根こそぎ奪い取っていったりする余所者がたえないことも関係しているかもしれない

「自分に刺さるコンテンツ」がなくなったっていいじゃないか

 
 https://anond.hatelabo.jp/20180829224019anond.hatelabo.jp
 b.hatena.ne.jp
 ※このブログ記事を書いて数時間後、ブログ記事本体が削除されたのではてなブックマーク上の反応を追加しました。
 
 
 
 
 2018年は季節の移り変わりのテンポが早くて、もう、朝夕はめっきり涼しくなった。
 そのためか、ちょっとメランコリ―なブログ記事に、はてなブックマーカーが殺到しているのを見かけた。
  
 いまどきの人生を四季に例えるなら、20歳までは春、20代~40代は夏、50代~60代は秋だろうか。40代を「夏の終わり」とみるのは早すぎる気がしなくもないけれども、20~30代から見れば、40代は人生の後半にみえるかもしれない。もちろん、50代以降の人には40代はまったく違ったものとしてうつるのだろうけれども。
 
 これについて、ブログ記事筆者の気持ちとはほとんど無関係に、思うところを書いてみる。
 
 

「自分に刺さるコンテンツが無くなっていく」理由

 
 若い頃はサブカルチャーコンテンツに夢中だった人が、30代、40代と進むにつれて夢中になれるコンテンツを喪失していくことは多い。昔はゲームオタクとしてならしていた人が純粋な仕事人間になったり、昔は深夜アニメをよく観ていた人が定番のシリーズものしか観なくなったりするのを、私は何遍も見てきた。
 

 活動的なオタクライフを続けられなくなった人々は、趣味活動から身を引いていくか、昔のコンテンツを懐古するばかりになりました。なかには、無理矢理にでもオタクライフを続けようとした結果、趣味に時間や金銭といったリソースを食われて生活がだんだん苦しくなったり、身体を壊してしまったりする人もちらほら見かけるようにもなりました。
 このように、趣味を楽しむという一事についても、時間の流れは人を変えていきます。若者向けのコンテンツをいつまでも若者の気持ちのままに楽しめる人はそれほどいません。
「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?より抜粋

 大学生ぐらいの頃、「自分に刺さるコンテンツ」を見つけてくるのは難しくない。記憶と経験がまだ少なく、情緒が揺れ動きやすいことが、この場合はアドバンテージになる。
  
 しかし、30代40代になって「自分に刺さるコンテンツ」を新しく見つけて来れる人はそんなにいない。少なくとも、『ガンダム』や『頭文字D』や『ジョジョ』を"永遠の思い出"にしているような30代40代に比べれば少ない。それは、なぜか。
 
 理由の第一は、時間も注意力を十分にコンテンツに差し向けていられなくなったから、というのはあるだろう。
 
 思春期の彼岸には、仕事や子育ての充実した時間が待っている。 
 
 もちろん仕事や子育てには苦痛や我慢も伴うけれども、そのかわり、仕事や子育てをとおしてやり遂げられることも増えてくる。俗に、「働き盛り」という言葉もあるけれども、立場的にも、経験と体力のバランス的にも、40代にできて20代や60代にはできないことが沢山あると思う。だから、コンテンツに時間や注意力を回す暇が惜しいほど頑張っている中年がたくさんいることに違和感は無い。
 
 さまざまなフィールドで活躍している40代の男女から話を聞いていると、彼らがサブカルチャーの体内時計を何年も前に停まってしまっていることにしばしば気付かされる。20代の頃にファンになったアーティストや漫画家だけを追いかけていたり、『ドラクエ3』や『ストリートファイター2』を懐かしむことはできても現代のFPSやソーシャルゲームについては何も知らなかったりする彼らは、サブカルチャー愛好家としては完全に枯れている。
 
 たぶん、それで構わないのだろう。実生活が充実していれば、刺さるコンテンツが無くても生きていくには困らない。せいぜい、同窓会の時に話題にできればそれで事足りるのだから。
 
 そのことに加えて、実生活が充実していようが充実していまいが、忙しさや精神的プレッシャーはオフタイムからゆとりを奪う。本当はもっとコンテンツに向き合いたいと思っていても、帰宅してからの僅かな自由時間を、アルコールを片手にぼんやり過ごすしかない人も少なくはない。疲労はコンテンツへの没入を容赦なく妨げ、コンテンツの印象を散漫にしてしまう。それでも、年を取るにつれて、仕事が終わった後の肉体疲労は堪えるレベルになっていく。ただ疲れているだけで、コンテンツは刺さりにくくなる
 
 世の中には、年を取っても新しいコンテンツを次々に開拓していく人も幾らかはいる。だが、彼らは多数派とは言えないし、「自分にコンテンツが刺さるだけのゆとり」をなんらかのかたちで確保しているとみてとったほうがいいように思う。それは、時間や注意力を確保するための方策だったり、夜遅くに帰宅してから新しいゲームやアニメと向き合えるだけのバイタリティだったりする。まこと、中年になって思うのだけれど、時間と注意力とバイタリティはあらゆる活動のボトルネックだ。最近は、バイタリティに優れた同世代~年上の人が羨ましくてたまらない。
 


 
 ネットライフについても同様だ。
 いまどきなネット愛好家がやっていることを、今の私ができているとは思えない。ブログやtwitterやはてなブックマークといった馴染み深いフィールドでさえ、時間やバイタリティが足りなくなってくると巡回範囲が狭くなる。20代の私はそのことに耐えられなかったけれども、40代の私は、そのことをどこかで諦めてしまっている。見る人が見れば、それはネット愛好家としての堕落とうつるだろう。
 
 
 理由の第二には、すでに多くのコンテンツを経験済みで、それらと比較できてしまう……というのもあるだろう。
 
 ひとつのジャンルを10年も20年も続け、十分にクンフーを積んでいれば、おのずと見る目が肥えてくる。目が肥えると、良いコンテンツを良いと評価するには有利だが、あまりにもたくさんのコンテンツを経験していると、新しく出会うコンテンツはおのずと相対化されてしまう。記憶と経験がまっさらな若者にとって、ひとつひとつの名作や大作は絶対的なものになり得るし、ましてや『君の名は。』や『艦これ』や『UO』のように、界隈のシーンとなってコンテンツが立ち現れてくる場合には、コンテンツの相対化は難しくなる。コンテンツの相対化が難しくなるのは、批評家にとってはハンディでも、「自分にコンテンツが刺さる」には都合がいい。ところが、長いことコンテンツを噛み分け続けていると、コンテンツの相対化の罠にかかりやすくなってしまう。若い頃に絶対的なものとして体験した作品のことを、つい、思い出してしまう。
 
 

「コンテンツが刺さらなくなってからを生きる」

 
 じゃあ、コンテンツが自分に刺さらなくなってはいけないのかといったら……全然そうは思わない。
 

 私ぐらい年代では、昔の人気作品とその続編ばかりを楽しみにしている人がかなりいます。たとえば、『キン肉マン』や『ドラゴンボール』の関連作品だけを追いかけている中年、『宇宙戦艦ヤマト2199』のようなリバイバル作品や、『スターウォーズ』シリーズの新作を楽しみにしているような中年です。彼らは、ジャンルの新しいところを開拓していくだけの情熱や甲斐性を失っていますが、昔馴染みの作品は今でも愛しています。
(中略)
 このような保守的で、時計の針が止まってしまったかのような愛好家の姿は、新しいコンテンツにも目を通している若い愛好家からはまったく誉められないものでしょうし、反面教師にしたいと感じる人もいるに違いありません。
 ですが、サブカルチャーを心底楽しんできた青春時代が終わってからの落としどころとしては、いちばん無理がありませんし、そういった道を選んだからといって、人生の選択を誤っているとは私には思えません。むしろ、自分にとって本当に大切なコンテンツに的を絞ることで、最小の努力で自分の趣味の方面のアイデンティティをメンテナンスし続けられているとも言えます。
「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?より抜粋

 「自分に刺さるコンテンツ」を開拓しない・開拓できない境遇は、少なくとも中年にとっては困るものではなく、むしろ、メリットも大きいように思う。仕事や子育てなどの忙しさを抱え、疲れやすくなった中年が、学生時代と同じ情熱と時間をコンテンツに傾け続けるのは、ハイコストなことでもある。今の自分にとって為すべきことを為しながら、それでいてサブカルチャー領域の自分のアイデンティティをキープする一番たやすい方法は、思春期の頃に自分の心に刺さったコンテンツを愛し続けること・その続編コンテンツや周辺コンテンツを拾い続けていくことだと思う。多くの中年は、それに即した振る舞いをごく自然に身に付けている。
 
 むろんこれはゲームやアニメに限った話ではなく、たとえば『B'z』や『ドリカム』を聴き続ける人も、20世紀のSF小説で時計の針が止まってしまった人も、だいたい同じだ。そういう中年がたくさんいるということは、たぶん、それでも構わないってことなのだろう。「自分に刺さるコンテンツ」がいつまでも見つかり続ける人生もきっと良いものだろうけれど、だからといって「若い頃に自分に刺さったコンテンツ」を頼みとする人生がそれに劣っているとは、私にはどうしても考えられない。また、新しいコンテンツが刺さらなくなったことをもって趣味人や愛好家としての終焉とみなすのも、ちょっと違うと思う。
 
 現在進行形でコンテンツが刺さりまくっている人や、ごく最近までコンテンツが刺さっていた人は、「コンテンツが刺さらなくなってからを生きる」ことを否定的にとらえるかもしれない。けれども、コンテンツが刺さらなくなってからも、新しい地平、新しい心境が待っているので、気にしないで年を取っていけばいいと思う。「フレッシュなことはいいことだ」という思い込みを捨ててしまえば、案外、楽になるんじゃないだろうか。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 

「ガチャは悪い文明」だとやっとわかった

 
 界隈では「ソーシャルゲームはガチャで派手に儲けている」と耳にするし、それは事実らしい。しかし、私はお金のあまりかからない部類のソーシャルゲームを、あまりお金のかからない遊び方で遊んでいたので、「射幸性」だの「依存性」だのと言われてもイマイチ実感が乏しかった。
 
 
 
 
 
 『FGO』にしてもそうで、ガチャは初期投資の金額だけで十分と感じていた。メインストーリーを進めるにつれてサーヴァント*1がどんどん強くなり、★1~★4のサーヴァントもちゃんと活躍してくれるおかげで詰まる気配が無かった。そのうえ、ストーリーが進むと聖晶石*2がどんどん手に入り、戦力が増強できる。
 
 「メインストーリーで得られる聖晶石と、ごく稀に出てくる★5サーヴァントがいれば、とりあえずゲームストーリーを進めるには問題ない。だから『FGO』は無課金~微課金で完結できるゲームだ。めちゃくちゃ課金してガチャを回している人達は、どこかおかしな遊び方をしている」
 
 そんなふうに考えていた時期が俺にもありました。
 
 

五百個の聖晶石を一気に使ったらおかしくなった

 
 
 ところがそんなに甘くなかった。
 
 おかしくなりはじめたのは、2018年夏のアニバーサリーイベントが始まってからだ。まず、★5サーヴァントが確実に手に入る「福袋ガチャ」で、なんと★5サーヴァントが二体も手に入ってしまった。そのうえ、運営側からものすごい量の聖晶石が振る舞われたこともあって、この時点で聖晶石が五百個ぐらい溜まっていた。
 
 アニバーサリーイベントの最中は、★5サーヴァントをラインナップした「ピックアップガチャ」がいつまでも続く。溜まった聖晶石を使うなら今しかない!……が、さすがに★5サーヴァントは簡単には出てくれない。そうこうするうちに聖晶石が底をつき、ガチャを回したいという渇望と、欲しいサーヴァントのピックアップでも指をくわえて見ているしかない渇愛が残った。
 
 ああ、ガチャを回しまくった先にはこんな景色が広がっていたのか!
 
 そこからは良くない展開だった。
 

 
 ほんの二週間ほど前まで、私は「めちゃくちゃ課金してガチャを回している人達は、どこかおかしな遊び方をしている」と本気で思っていたし、特定の★5サーヴァント欲しさにガチャで大爆死しているユーチューバーの実況などを見ては「馬鹿だなぁ」などと思っていた。
 
 いいや、馬鹿だったのは私のほうだ。
 
 ガチャを回し続けた彼岸には、経験したことのない世界が広がっていた。戦力的には十分なプレイヤーが、どうして躍起になってガチャを回すのか、やっと私にもわかってきた。今なら私も、"葛飾北斎"や"マーリン"のピックアップガチャが来たら爆死するに違いない。
 
 たぶん私は『FGO』の半分も見えていなかったのだと思う。
 
 

「今まで見えていなかった世界」が見えてきた

 
 人がゲームを遊ぶ理由はいろいろだろう。
 が、私の場合、「今まで見えていなかった世界を見る」ことが理由としては大きい。
 
 『スターソルジャー』や『グラディウスII』や『怒首領蜂』をやっていた頃は、少しでも長く生き残って、出会ったことのない敵と戦ってみたいと思っていた。ゲームをやり込むほど新しいステージに進める──それが何よりのご褒美だった。

『シヴィライゼーション4』や『スプラトゥーン2』の場合は、上達しなければ気付かないこと・見えてこないことがたくさんあり、できるだけ上達して、その境地を自分の目で確かめてみたいと思っていた。
 
 そして『FGO』では、未読のメインストーリーを読むことが目的だった。以前も書いたとおり、私は『FGO』をヴィジュアルノベルの末裔だとみなしていて、ストーリーを先に進めるためにガチャを回して、サーヴァントを育成していた。今にしてみれば、それはそれで幸福な『FGO』観だったし、それで十分だったとも言える。
 
 ところが短期間にガチャを回しまくった結果、後頭部がジリジリするような、新しい『FGO』観を私は知ってしまった。
 
 私のtwitterのタイムラインには、『FGO』に課金する人が珍しくない。彼らは、この、執着無間地獄を苦しいと感じているのだろうか? それとも御褒美や喜捨のたぐいと割り切って身銭を切っているのだろうか? どちらにせよ、「ストーリーを進めたい」から「欲しいサーヴァントが欲しい」になってしまった時点で、運営のいい金蔓になってしまったといわざるを得ない。
 
 

「詫び石」は「ドラッグの売人」の手口

 
 どうしてこんなに★5サーヴァントが欲しいなどと思うようになってしまったのか。
 
 色んな理由が思いつく。
 
 サーヴァントが格好良い(またはかわいい)から。それもそうだろう。
 サーヴァントが強い(または使える)から。それもそうだろう。
 
 でも、サーヴァントの魅力だけでは足りない。事実、最初の数カ月はそこまでサーヴァントに執着していなかった。
 
 私がおかしくなったのは、「ガチャをたくさん回す快楽」を覚えてしまったせいだと思う。ため込んだ聖晶石をアニバーサリーイベントで一気に使い込んでから感覚がおかしくなってしまった。
 
 してみれば、運営がことあるごとに石を配って回るのも、お盆と正月に気前の良い福袋イベントを催すのも、「ドラッグの売人は、最初は無料でドラッグを配る」のと同じロジックなのだろう。
 
 「詫び石」というのも、なかなかいやらしいコンセプトだ。プレイヤーに対するお詫びという体裁を取りながら、一人でも多くのプレイヤーを執着無間地獄に堕とすための罠を配ってまわっているわけだから恐れ入る。
 
 メインストーリーを進めていた頃は無料でどんどん手に入っていた聖晶石が、ストーリーが進み尽くすと入手しにくくなるのもいやらしい。無料で聖晶石を手に入れるための手間暇がだんだん厳しくなってくるから、ますます課金したくなってしまう。「ストーリーを進められる戦力が揃えば、聖晶石は要らない」と考えていた頃は、これがガチャへの導線になっているとは気づかなかった。聖晶石を掘るのに手間暇がかかるようになって、ガチャに手を伸ばしたくなるようにデザインされていただなんて。
 
 『FGO』に限らず、我が世の春を謳歌しているソーシャルゲームはどれも、こうやってプレイヤーをガチャへと引きずり込むための仕掛けを用意しているのだろう。『マンガでわかるFGO』には「ガチャは悪い文明」という台詞が出て来るけれども、なるほど、ここまで来てみてやっとわかった。今、ガチャを回している時、私はプレイヤーとして自制がとれている自信が無い。とはいえガチャの恐ろしさを知るというこの体験も、これはこれでゲーム体験であり、辿り着いてみなければわからない世界ではあった。ひと夏の過ちをとおして、私はゲームの世界のことをまた少しだけ知った。
 
 

*1:手駒

*2:ガチャを回すために必要なアイテム