シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

昭和映画を観て、あの頃の野蛮な感覚を思い出した

 

 
 ゆうべ、子ども時代に観た映画が急に見たくなって、Amazonのプライム・ビデオから『ビーバップハイスクール』やら『トラック野郎』やら『男はつらいよ』やら、昭和映画を何本か引っ張ってきた。
  
 汚い街並み。やたら汗まみれの男達。
 酒、たばこ、女。
 ことあるごとに出て来る拳や棍棒。
 映画で描かれる昭和は、もちろん昭和そのものではない。
 それでも、カジュアルに登場する身体的暴力や、男尊女卑を隠そうともしない物語の描かれ方は、やはり昭和ならではで、平成っぽくないとは思った。
 
 

平成時代の子どもには『ビーバップハイスクール』が殺し合いに見える

 
 
 ちょうど映画『ビーバップハイスクール』を見始めた時間に子どもが帰ってきて、一緒に視聴しはじめたが、子どもの反応は強烈だった。ものの数分で「これはひどい」「割りばし鼻に突っ込んだら死ぬ!」「高校生が殺し合いするなんておかしい!」と異常を指摘しはじめた。それでいて、画面に釘付けではあるのだが。
 
 今、『ビーバップハイスクール』を再視聴すると、街並みの汚さにびっくりする。上っ面だけ綺麗になった街の至るところに、バラックのような建物やゴミの山が存在している。登場人物の血や汗も含めて、臭そうなシーンが次々に登場する。そういえば、「朝シャン」をはじめとするデオドラント文化が日本に定着したのは80年代後半あたりだったが、そういった清潔志向は『ビーバップハイスクール』には現れていない。
 
 うちの子どもには、学生同士の「果し合い」が「殺し合い」に見えるらしかった。これが喧嘩であるという発想、これが学生同士の身体的なコミュニケーションであるという発想は、平成生まれの子どもには存在しない。「こんなに乱暴な高校生はおかしい」「中学生はともかく、高校生が喧嘩するのは聞いた事がない」といったコメントは、いまどきの子どもの感想として妥当だと思う。殴る蹴るが身体的コミュニケーションやマウンティングの様式としてまかり通っていた時代を知らない者には、「果し合い」と「殺し合い」は区別のつかないものかもしれない。
 
 警官の振る舞いにも驚いていた。相手が不良とはいえ、学生を殴る警官。果し合いのことを学校には黙っておくと言ってのける警官。『トラック野郎』に出て来る警官もひどい。平然とトラックの装飾を蹴り破っている。子どもは「こんな警官はおかしい」と何度も連呼していて、うん、それもそのとおりなのだが、平成時代では考えられないある種のおおらかさが、子どもには異様にうつるようだった。
 
 

昭和の頃の私は、それらを普通に楽しんでいた

 
 平成生まれの子どもには異様とうつった『ビーバップハイスクール』を、かつての私は楽しんでいた。
 
 私は昭和の終わりごろに、『ビーバップハイスクール』をリアルタイムで観た。『トラック野郎』はそれよりも後に観た。それらが、ちょっとバイオレンスに誇張された喜劇だということはわかっていた。
 
 それでも、トオルとヒロシは恰好良かった。不良たちが面子やなわばりを賭けて争う姿、殴り合う姿に違和感は感じていなかった。汗まみれになりながら殴り合う男たち、キャーと叫ぶ女たち、そういった描写をごく自然に受け取っていた。誇張された表現とわかっていたにせよ、その誇張は、日常の延長線上にあるものだと感じていた。
  
 その後、私は中学校に入学した。地元中学は、校内暴力のピークが過ぎた頃に校内暴力が吹き荒れたような遅れた地域だったので、不良がたくさんいた。教師の大半はナメられ、生徒会より番長が偉く、長いスカートを履いて鎖をジャラつかせる「スケ」が肩で風を切って歩いていた。中学生の喫煙。飲酒。不純異性交遊。近隣の学校との小競り合い。でかい屋敷の息子とその周辺。
 
 私はその中学でいじめに遭って不登校になったわけだけど、不登校になっている間に私を支えていたのは『ウィザードリィ』だけでなく、自分の町内の人間関係だったから、不良的なものを全否定することはできなかった。なぜなら、私の助けになった町内の先輩や後輩にしても、ある部分では不良的で、ある部分では喫煙や飲酒を良いこととしていて、本質はさほど変わらなかったからだ。当時の私にとっての男子学生としてのロールモデルは、たとえば『桐島、部活やめるってよ』に出て来る高校生などに比べれば『ビーバップハイスクール』寄りだった。
 
 私の生まれ育った時代と地域では、暴力がコミュニケーションの手段として日常的で、男尊女卑的で、汗まみれだった。だから私も、そういった感覚の延長線で昭和喜劇の暴力を受け取っていたのだろう。
 
 

昭和映画の世界に「おとなの発達障害」はいない

 
 あの頃の学生のヒエラルキーは、今日のスクールカーストのソレとは違っていた。もっと直截的な暴力、あるいは「ゴリラの胸叩き」のようなものが威力を発揮していて、喧嘩さえ強ければ一目置いて貰える部分があった。精神科医として思い出すと、今だったら発達障害の病名に加えて「行為障害」「素行症」とも呼ばれそうな不良が、あの中学には結構いた。そういえば、『男はつらいよ』の寅さんも、現代なら、発達障害とカテゴライズされてしまうだろう。
 
 現代の、洗練されたスクールカーストのヒエラルキーでは、発達障害はコミュニケーション上の大きな問題になる。しかし、昭和時代の野蛮なヒエラルキーでは、多少の落ち着きの無さや空気の読めなさは、腕っぷしや威圧力でカヴァーできた。昭和時代の学校や世間、とりわけ不良や荒くれ者が影響力を誇れるような学校や世間では、いわゆる「大人の発達障害」は、障害というかたちでケース化しにくく、あまりにも社会から逸脱した者だけが少年非行や犯罪者として摘発されたに違いない。
 
 とはいえ、昭和時代は安易に肯定できるものでもない。
 
 今日、これらの作品を見返してみると、昭和時代には許容されても平成時代には忌避されるもののオンパレードだ。昭和時代の社会状況は、平成時代の社会状況、もっと言うと、先進国で適切とみなされている規範に妥当していない。コミュニケーションの手段として、ヒエラルキーの決定因子として、腕っぷしや威圧を行使することは先進国では正しくないとされている。男性の暴力に女性が屈し、甘んじているのも、先進国にあってはならないことである。
 
 してみれば、発達障害がブームになっていく背景の一部分として、暴力や恫喝の禁止、喧嘩の禁止といった、先進国的な正しさの普及も挙げていいように私は思う。発達障害がブームになっていった背景として、産業構造の変化やコミュニケーション能力を重視する社会への移行がしばしば語られるし、それはそのとおりだろう。ただ、それらの変化には、人間間のヒエラルキーの取り決め方やコミュニケーションの方法に関する、大きなルール変更も伴っていた。コミュニケーションから殴打や威圧が追放され、ヒエラルキーの序列から暴力という要素が取り除かれれば、暴力で弱点をカヴァーしていた人々・暴力で弱点をカヴァーしなければならなかった人々は、それそのままでは社会に適応できなくなる。 
 
 『ビーバップハイスクール』に出て来る不良たちは、発達障害でもなければ行為障害でもなく、昭和時代の不良のカリカチュアだった。しかし、より平穏で、暴力の否定された平成時代の子どもからみれば、コミュニケーションしているのか殺し合っているのか区別のつかない、理解しがたい何かだった。子どもが昭和映画に異質なものを感じ取っているのを見て、ああ、時代が流れて、社会が変わって、人の捉え方も変わったのだと、しみじみ思った。
 
 

「小説家になろう」を読んでいると「どけ、俺が書く!」と言いたくなる

 
 屋外はうだるような暑さのなか、エアコンの効いた部屋でスパークリングワインを飲みながら物語を読むのは至福のひとときだ。疲れた頭でも読みこなせる読み物が、いまどきはweb上にたくさんある。
 
 そんなこんなで、「小説家になろう」を読む。
 
 我が家のPCには「小説家になろう」のブックマーク入れがあって、ここに、なろう小説がどこからともなく集まってくる。のどを鳴らしたくなる作品が入っていることもあれば、水っぽいワインのような作品が入っていることもある。何がブックマークされているのかはわからない。ともあれ、自分で一から探すのに比べればありがたいことではある。
 
 で、エアコンの効いた部屋でスパークリングワインを飲みながら読んでいるせいで、ときどき、「どけ!俺が書く!」と言いたくなることがある。
 
 「中世~近世ファンタジー風に書くなら、透明感のあるワインを居酒屋で出しちゃあ駄目だ、そんなのは最高級品だ」
 
 「蒸留酒?なんで蒸留酒なんてものが出てくるんだ?おまえらは米で作ったどぶろくでも飲んでろ」
 
 「別に冷えた発泡酒を出すなとは言いませんが、せめて冷気魔法を使っているとか、なんか適当な言い訳をお願いできませんかー」
 
 こういう難癖は、テレビに向かってブツブツとつぶやき続ける、孤独なテレビ視聴者のソレと変わらない。
 
 ところが、言い訳なり説明なりがあったならあったで、別の難癖をつけ始める俺がいる。
 
 「冷気魔法で食品を保存できる世界なのはわかりました。でも、この場面で、その説明にくだくだしい説明を書き連ねるよりも、3話前の貴族様のお話しで触れてしまっておけばスマートだったのでは?」
 
 「これが、ヒロインの後輩君の内面パートなのはわかっているんですが、この後輩君の内面、すごく……昭和後半っぽいです……」
 
 「この世界で金属や穀物がユニバーサルに流通しているのは交易網のおかげとありますが、魔物がこんなにいる世界で、交易網をどうやって成立させているんでしょうか?」
 
 小姑のような難癖をつけ始めると、ツッコミどころを楽しめるような作風でない限り、興ざめしてしまう。優れたweb小説の場合は、ツッコミどころを楽しめるか、むしろ優れたデフォルメとみなせて「設定に乗れてしまう」けれども、そういう作品はそんなに多くはない。そりゃあそうだろう、あらゆる書き手が参加している・参加できるのがweb小説の世界なのだから。
 
 

「だったらお前が書けよ」→「どけ!俺が書く!」と言いたくなる

 
 そんなに難癖をつけるぐらいなら、お前が書けよ!と突っ込む人もいるかもしれない。実際、そのとおりだと思う。なろう小説を読んでいると、「どけ!俺が書く!」と言いたくなることがよくある。
 

ダンジョンズ&ドラゴンズ ダンジョン・マスターズ・ガイド第5版(改訂版)

ダンジョンズ&ドラゴンズ ダンジョン・マスターズ・ガイド第5版(改訂版)

 
 魔物と魔法の系統はD&Dに近いものにしていこう。D&Dとわざわざ書かなくても、伝わる人には伝わるし、そのほうが設定のブレが少なくて済むはずだ。
 
地図でみる図鑑 世界のワイン (GAIA BOOKS)

地図でみる図鑑 世界のワイン (GAIA BOOKS)

  • 作者: ヒュー・ジョンソン,ジャンシス・ロビンソン,山本博,遠藤誠,戸塚昭,塩田正志,福西英三,大田直子,緒方典子,宮田攝子,大野尚江,豊倉省子,藤沢邦子,乙須敏紀
  • 出版社/メーカー: ガイアブックス
  • 発売日: 2008/08/01
  • メディア: 単行本
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 ワインは甘みがぜいたく品だった時代に近づけて、糖尿病になりそうな甘いワインをドカドカ出そう。甘くないワインなどというヘルシーな志向が、近現代のテクノロジーを崇め奉るような異世界で珍重されるわけがない。
 
金と香辛料 〈新装版〉: 中世における実業家の誕生

金と香辛料 〈新装版〉: 中世における実業家の誕生

 
 ギルドカードにお金が振り込まれるような異世界なら、クレジットのあり方を根本的に変えなければならないし、通貨として金貨を登場させるなら、金と銀の産出量をいじらなければならず、それなら、惑星の重金属比率が違っている前提で進めたほうが良いかもしれない。
 
 
  
 いまどきは、異世界の物語を書くための「種本」や、先行作品が無尽蔵に存在している。だから、自分にとっての「それらしい」作品を創ろうと思ったら幾らでも資料が存在するし、言い方を変えると、各人にとっての「それらしい」作品は、各人が参考にした「種本」や先行作品によってバラバラになってくるはずだ。
 
 そうなると、他人の創ったweb小説を読むぐらいなら、「自分が手持ちの資料や作品と矛盾しない、自分で創ったweb小説を読んだほうがきっと満足できる」という怪しげな結論に辿り着いてしまう。だからついつい、「どけ、俺が書く!」と言いたくなってしまう。
 
 

でも「参りました。」と言わせる作品だってある

 
 ところが、実際には「どけ、俺が書く!」とはいかない。
 
 時間が無い、体力が無い、甲斐性も無い。ブログをはじめ、自分の領分で自分が書かなければならないことが山積しているのに、web小説に時間をかけるわけにはいかない。そういったお決まりの言い訳を乗り越えて、かりにweb小説づくりにリソースを突っ込んでも、早々、うまくまとまるとは思えない。
 
 web小説づくりは、自分が書きたい設定や世界背景を定めただけではうまくいかないことを、私は知っている。異世界にリアリティを与えようとゴテゴテやってしまうと、「クドクドとした、知識開陳の目立つ腐った何か」ができあがってしまう。だからといって、異世界の説明や風景描写を飛ばしすぎると「スッカラカンの何か」ができあがってしまう。
 
 してみれば、商業的に成功しているweb小説、あるいはライトノベルあたりは、たいてい、本当にうまくできているのだと思う。
 
 その世界の説明に無駄な行数を費やすことなく、知識の押し売りになってしまうことなく、できるだけ少ない文字数で、それでもスッカラカンとは感じさせずに気持ち良く異世界を読ませてくれる作品には、真似できるようで真似しきれない何かがある。ああいうのは、相応のテクニックや才能があればこそなのだと私は思う。作り込まれた異世界を見せてくれるけれども、読者への負担や知識開陳は最小限とし、キャラクターの挙動が異世界のスタイルと調和している作品は、とても素晴らしい。
 
 世の中は広い。優れた書き手はたくさんいる。
 
 だから「どけ、俺が書く!」と言いたくなった時は、「素晴らしい書き手の作品を待とう」と思ったほうが精神衛生に良いのだろう。もっとも、そこを突き詰めてしまうと、web小説なんて読まずに商業化された上澄みだけつまみ食いするのが効率的、ってことになってしまうのだろうけれども。
 
 エアコンの効いた部屋で「小説家になろう」を読んでいる時に、独りでつまらなさがヒートアップしてしまった時に思ったことを書きました。オチはありません。
 

人が「何者かになる」というのは、不純なことでもあります。

 
ネット文化の主役になりつつある、「何者か」になりたい若者たち【りょかち】 | Agenda note (アジェンダノート)
おっさんになる覚悟<猫を撫でて一日終わる>pha - 幻冬舎plus
 
 先月、久しぶりにブログでも読んでみるかーと巡回したところ、たまたま対照的な二つのブログ記事にほぼ同時に出くわし、何者かになろうと飛翔する若者と、その若者の季節が終わった非-若者のコントラストに、ちょっと頭がくらくらした。
 
 自分自身を何者かにするために無我夢中でもがくこと。
 
 世界の主人公は自分であるという確信。
 
 人生のハンドルを握っているのは自分自身であると信じて疑わない姿勢。
 
 これらは、若者の特権だと私は思う。
 
 元気の良い若者には似つかわしいものだし、悪性の自己中心主義だとは思わない。そういう若者でも社会に貢献できる世の中になっているし、なにより、こういった確信や姿勢を持っていられるのは、まだ何者でもない、若いうちだけなのだから。
 
 自分を世界の主人公とみなして、自分自身のために、真摯に頑張れるのは若者の輝きだ。若者ではなくなった私は、そのように思う。
 
 

三十代という曲がり角

 
 だけど、冒頭リンク先でphaさんがおっしゃっているように、若者という立場には時間的な限界がある。
 
 一人でいる時や、同世代とつるんでいる時には、たとえば「三十代だけどまだ若い」と思い込み、そのように振る舞うのは難しくはない。四十代、五十代になってすら不可能ではないだろう。
 
 けれども自分よりも年下の若者と接点を持っていると、じきに気付くはずだ。自分よりも若者然としているのは、年下の連中であるということに。自分自身に無我夢中になっている度合いも、人生を操縦してやろうと必死にハンドルを握っている必死さ加減も、年下の彼らほどではなくなっていることに。新しいカルチャー、新しい習慣、新しいテクノロジーを造作もなく身に付けていくのも、彼らであるということに。
 
 そういったことは20代のうちから推測できなくもないし、ひょっとしたら、理解も可能かもしれない。しかし、推測が理解になり、理解が現実となって肌に吸い付いてくるのはもっと後のことである。
 
 三十代は、そうした肌に吸い付いてくる現実を脇に置いて、若者的な心理をキープするのがそれほど難しくない時期だ。それでも我が身を振り返れば、そういった若者仕草が意図的になっていることに気づくはずだ。無意識のうちに流行の渦中にいるのでなく、意識して流行をトレースするようになったら、もうド真ん中の若者とは言い難い。自分自身に無我夢中な心理も、醒めていくスープを暖め直すような意図的なものになってしまったら、ド真ん中の若者とは言い難い。
 
 「ド真ん中の若者とは言えない境地になっても、若者としての自分をどこまで引っ張るのか? それとも、自分はもう若者ではないと割り切って、ネクストステージを迎えるための心の準備をしていくのか?」
 
 この疑問文の答えは、その人のライフコースの速度によって違ってくるから一概なことは言えない。若者真っ盛りの十代~二十代の人は意識する必要すらないだろう。けれども三十代の人は、そろそろ気にしておいて、若者ではなくなった境地に思いを馳せてもいいのではないか、と私は思う。
 
 三十代も後半になってくると、いい加減、自分が世界の主人公だなんて思い込めなくなってくるし、自分で自分の人生のハンドルを握っているという感覚もボヤけてくる。立身出世の有無、既婚か未婚か、子育てしているかしていないか等々にかかわらず、自分というものが自分だけで成立しているという天動説的世界観が三十代以降も成立する人は、たいしたものだと思う。少なくとも現在の私には不可能な思い込みだ。
 
 世間で生きて、世間に絡めとられると、自意識の天動説が維持できなくなってくる。
 
 

ホリエモンも、世間に絡めとられていると私は思う

 
 こういうことを書くと、たとえば堀江貴文さんのような例を挙げて「いつまでも自由に生きる人がいる」と反論する人もいるかもしれない。
 
 私の見解は違う。
 
 私は、ホリエモンが本当に自由に生き続けている永遠の若者だとは思っていない。あの人は、これまでの行いの積み重ねの結果として、自由に生き続けているタレントを続けなければならなくなった人ではないか、と思っている。
 
 いわゆる「何者かになる」というのも、究極的にはこういうことなんじゃないだろうか──ホリエモンのように生き続けようが、典型的なサラリーマン人生を生き続けようが、これまでの行いの積み重ねによってひとつのタレントができあがり、それが生活と不可分に結びついたら、その人はもう「何者かになった」と言えるのではないか。それは喜ばしいことばかりとは限らない。一般に、できあがったタレントや立場は、生活と結びついているから着脱自由とはいかない。ホリエモンのようなタレントでも、プロの小説家でも、一般的なサラリーマンでも、たぶんそれは同じだ。若者としての可能性がタレントや立場に転換されてしまった時、人は「何者かになる」と同時に、世間に絡めとられて不自由になる。
 
 そういう観点でいうなら、ホリエモンはまごうかたなき「何者か」であって、若者ではない。
 とうてい、人生の余白多き、まっさらな若者と同列に論じられる存在ではない。
 
 

「大人は汚い!」「それでも生きていくんだよ!」

 
 だんだん話がズレてきたのを承知のうえで、個人のブログらしく終わりに持っていこう。
 
 まだ人生の余白が真っ白な若者には、タレントや立場といったものができあがっていない。それは、とても清純なことだ。対して、長く生き、結果としてなんらかのタレントや立場ができあがって「何者」かになりおおせた大人たちは、不自由であり、ある面で不純でもある。
 
 だから今の私には、「大人は汚い!」という言葉がすごくわかる。「何者か」になった大人のポジショントークを汚いと指摘する資格が、まっさらな若者にはあると思う。
 
 ただし、可能性がタレントや立場が転換されるにつれ、若者はまっさらではなくなり、「大人は汚い」という台詞が似合わなくなる。この観点でいえば、いかなる「何者」であってもタレントや立場に立脚して発言し続ける人間は一律に汚い。
 
 とはいえ世間で生き続ける限り、人は、世間に絡めとられて「何者」かになっていかざるを得ない。それこそギークハウスのphaさんですらそうだったように。繊細な若者のなかには、「何者」かになることの、この不純性に耐えられなくて潰れてしまう者もいるだろう。そうやって潰れていく者の姿を横目で見つつも、人生の歩みは止められないし、「何者」かから降りることもできない。不純にまみれても、それでも生きていくだけの意識・覚悟・諦念に辿り着いたら、その人はもう、若者ではなくなったとみていいのだと思う。
 
 

「ダイレクトな怒りがタブーになった社会」

 
togetter.com
 
 昨年末に、「今の世の中では怒りをコントロールすることに高い価値が置かれている」というtogetterを見かけた。@marxindoさんの投稿を中心に、怒りの表出が困難になった現代社会についてあれこれ書かれている。
 
 marxindoさんの投稿は私もリアルタイムで読んでいて、以下のようなツイートを書かずにはいられなかった。
 





 
 怒りをコントロールするとは何か。
 
 一部の人は、怒りを表出しないことだという。
 
 私はそうは思わない。それは単なる抑圧である。怒りの感情をただ押し殺して、それを我慢と感じている限りにおいて、怒りはコントロールできていない。その我慢がストレスとなって心身を蝕んだり、どこかで異なったかたちで爆発したりしているなら、その人の怒りはコントロール不能になっていると言わざるを得ない。
 
 また別の人は、怒りを「感情的に」表出しないことだという。
 
 これも完全には同意できない。確かに、怒りを感情的に表出しないことが最適な場面は少なくない。現代社会の大半の場面では、感情的な怒りの表出を良しとしないので、だいたいベターなのは認める。しかし、怒りを感情的に出したほうが上手くいくコミュニケーション場面はまだ残っている。たとえば感情的な怒りの表出によってコミュニケーション対象に与える効果やインパクトが高められる場面では、怒りはしっかり出していったほうが効果がある。また、怒りを感情的に表出しないことに伴うストレスに耐えきれず、その他の手段では怒りを放出できない場面では、怒りを感情的にそのまま出してしまうことが一番マシであることもあり得る。後述するように、怒りを他の手段で発散することも可能だが、いつでも誰でもそれができるかといったら、そうではない。怒りをゴチャゴチャと加工していられず、放電のように手放してしまったほうがトータルでは望ましい、という場合はゼロではない。
 
 怒りをコントロールするとは、怒りを抑圧することでも怒りをひたすら冷静にすることでもない。私なら、怒りを刺激するツボを回避するよう訓練されることだとも思わない。場の状況や相手の出方をキチンと見定め、最適なかたちで怒りの表出方法を選び、必要ならば、感情的な怒りの表出も厭わないのが、怒りがコントロールできている人だと私は思う。付け加えて、自分自身のストレス耐性や心理的圧迫を弁えて、そこまで勘案して怒りの表出手段や表出の程度を選べる人だとも思う。
 
 そういう意味では、たとえば、どこかの病院の時間外外来で怒りをあらわにしている患者が「怒りをコントロールできていない人」とは限らない。その患者が直面している社会的状況次第では、そうして"みせる"のが最もベネフィットが見込まれ、リスクも少なくて済むことだってある。外来の医師や病院事務に対するコミュニケーションの効果を最大化し、失うものが何も無い場合にも、"わざと"怒りを感情的に表出をするのが最適な状況が無いとは言えない。
 
 怒りの不適応な側面だけを強調して、怒りの適応的な側面を無かったことにするのは、事実の一部分を強調するあまり、他の一部分を見失っているか、特定の思想信条に基づいてわざと見ないようにしているか、どちらかだと思う。なんにせよ、それは娑婆世界の実情どおりの観察とは言えない。
 
 

怒りがタブーになることで、誰が得をして、誰が損をしたのか

 
 そうは言っても、現代社会全般で、怒りのダイレクトな表出がタブーになりつつあるのは事実である。
 
 会社でも、居酒屋でも、学校でも、家庭でも、今日では怒りのダイレクトな表出はあってはならないこととされている。怒りにまかせて何かをすれば、怒りをこうむる側に烈しいストレスが加えられる点が注目され、ときにはトラウマの原因として語られることもある。怒りによって周囲にストレスを振りまく者が精神科を受診すると、伝統的に診断されていた典型的な躁状態や、幻覚や妄想を背景とした興奮や、てんかん性不機嫌などに該当しなくとも、治療の対象になり得るようになった。
 
 今日、怒りをダイレクトに表出している人は異端視されかねない。冒頭リンク先のtogetterにも書かれているとおり、現代人は怒りを表出することにも、怒りを表出されることにも慣れていない。私が子どもだった頃と現代とを比べると、子どもが怒りを表出する頻度も、子どもが誰かに怒りを表出される頻度も、びっくりするほど減った。盛り場での喧嘩、キレる若者、殺人事件の認知件数なども、昭和時代に比べれば軒並み減少している。数十年前は、もっと街に金切り声や怒号があふれていたはずなのだが。  
 
 こうした、ダイレクトな怒りがタブーになった社会がどのようなプロセスを経て完成したかは於いておくとして、「誰がこのような社会で得をしたのか」について考えてみたいと思う。
 
 ダイレクトな怒りがタブーになった社会でいちばん得をしたのは、もともとダイレクトに怒りを表出できなかった人、専らダイレクトに怒りを表出されて、その威力にひれ伏していた人達だろう。
 
 つまり、子ども全般と、強くない女性である(強い女性は、昔からダイレクトに怒りを表出してきた)。また、怒りの表出が困難な立場の男性も含めて構わないだろう。
 
 腕力や経済力や影響力といったものが足りない人は、怒りをダイレクトに表出する機会がもともと乏しかった。なぜなら、ダイレクトな怒りを表出することのベネフィットとリスクの比率は、背景にある腕力や経済力や影響力によって大きく変わるからだ。たとえば専制国家の王ともなれば、怒りのダイレクトな表出と称して部下の首をその場で跳ねたとしても、さほどのリスクは無く、ベネフィットが勝る可能性が高い。
 
 してみれば、怒りがたくさん表出される社会とは、強者に優しく、弱者に厳しい社会だったわけである。昭和時代が平成時代よりも怒りがたくさん表出されていたということは、昭和時代のほうが強者有利なルールだったということでもある。平等や、弱い立場の者の権利を守るといった観点からみれば、やはり怒りの表出は制限されるべきだったろうし、制限されて良かったのだろう。この視点でみれば人類は"進歩"している。
 
 

表出されない怒りはどこへ行く?

 
 しかし、怒りの表出が制限されたとしても、内心にわだかまり、ふきだまる怒りの感情が消えてなくなったわけではない。人間は喜怒哀楽といった感情を有しており、感じた怒りは、なんらかのかたちで加工・処理・発散してしまわなければならない。ダイレクトに怒りをあらわせないなら、そうでないかたちで怒りを自分の身体の外に出してしまわなければ、ストレスが残る。
 
 そうした怒りが、たとえば、スポーツのようなかたちで社会化されて発散できるなら、文句を言う人は少なかろう。あるいは社会運動への参加というで怒りが社会化されて、世の中の役に立つこともあるだろう。
 
 だが、スポーツが必ず・すべての人の怒りを発散できるわけではないし、社会運動への参加も良いことばかりとは限らない。怒りの発散が主目的になってしまって社会運動のほうは形骸化し、とにかく集まってみせて、とにかく何かを壊してみせること自体が目的になってしまっているケースもままあるように見受けられる。
 
 とはいえ、都内のあちこちを巡ってみても、やはり、ほとんどの人は怒りを表出することなく生きている。彼らの、よく考えれば不思議なほど静かな営みを眺めていると、どうして怒り=タブーをここまで弁えて行動できるのか、ものすごい不思議の念に駆られる瞬間があって、ブルブルっと寒気をおぼえることがある。
 
 都市生活者の大多数を占めている、あの怒りを表出しない人々は、さも、市民としては適切に違いない。だが、動物としての人間としては、あれもあれで不自然な姿にみえる。怒りが欠けているようにみえても生活できているということは……その欠如を、彼らはどこでどうやって補償しているのだろうか。ダイレクトな怒りがタブーになった社会の怒りは、いったい何処へ?
 
 

クソリプはクソだが、クソリプが書けること自体は尊い。

 
「はてなブックマーク」廃止論 - いつか電池がきれるまで
アメリカの銃規制と「はてなブックマーク廃止論」その後 - いつか電池がきれるまで
 
 6月28日にfujiponさんが書いた「『はてなブックマーク』廃止論」というオピニオンは、いかにもfujiponさんらしい文章だと思いましたが、私自身、はてなブックマークについて考えがまとまっていないので言及しませんでした。
 
 しかし、7月20日の記事で、こんなくだりを見つけてしまいました。
 

 こちらとしても、このエントリに「はてなブックマーク」で賛意が集まるとは全く予想してはおらず、ある意味、予想通りの反応ではありました。甲子園で巨人の応援をするようなものですよね。
 「ブックマークコメント」以外の手段でこのエントリに言及してくれたブログは『はてなブログ』にはたくさんあったのですが、twitterやメールで僕に直接何か言ってきた人はほとんどいなかったのです(というか「皆無」でした)
 『はてなブックマーク』を大切に思っていた人たちに反発されるのは仕方がないのだけれど、ブックマークコメントやこのエントリへの反応を読んでいると、「なんだかなあ」と思ったんですよやっぱり。
 (注:強調文字はシロクマによるものです)

 これを読み、私はfujiponさんが誰かのリアクションを求めていたのだ、と推定しました。
 
 twitterはともかく、「メールで直接何か言ってくる」とは懐かしい響きですね。90年代~00年代の頃は、ウェブサイト管理者同士がメールで意見交換することがよくありました。BBS(掲示板)やICQを使うこともあったけれど、個人的な長文をやりとりする際にはメールを選んでいましたよね。
 
 そのメールを使ったやりとりがブログのトラックバックに取って代わられ、最近はSNSに取って代わられました。しかし、SNS、とりわけtwitterなどは長文の意見交換には向いていません。はてなブックマークも同様です。
 
 140字以内や100字以内のコメントを短冊のようにくくりつけて済ませるのが、いまどきのネットコミュニケーションの流行りなのでしょう。
 
 しかし、そのような短文をコミュニケーションのツールとして赤の他人に対して用いるのは、本当は難易度が高いのではないか、とも思います。俳句や短歌の文字数で伝えたいことを伝えきるのが難しいのと同様に。
 
 長文をメールでやりとりする際には、長い文章を書く手前、それなりに考えて、それなりに時間をかける必要がありました。意見を言語化する際、時間的・認知的コストを十分に費やす必要があり、費やさずに返答するというのはあまりありませんでした。あまりにもぞんざいだと、メールを読んでもらえない懸念もありましたからね。
 
 対して、twitterやはてなブックマークの短文はそうではありません。時間をかけずにコメントできてしまいます。認知的コストを支払わずともコメントできてしまいます。ただコメントするだけという意味では「難易度が低くなった」と言えますが、短時間かつ短文で適切にコメントし、コミュニケーションとして成立させるという意味では長文より「難易度が高くなった」とも言えます。
 
 最近のSNS全般を眺めていて思うのは、「コメントはしやすくなったけれども、双方向的なコミュニケーションはかえって難しくなった」ということです。
 
 一方的にコメントするだけなら、SNSやはてなブックマークは簡便ですし、「数的優勢をもってブロガーやウェブマスターに圧力をかける」「オピニオンの多数決的優劣をつけあう」という観点でのコミュニケーションには適しています。しかし、マンツーマンでお互いの意図を推し量りながら双方向的にコミュニケーションするには適していません。短文に自説を圧縮するのも、短文から相手の意図を汲み取るのも、とても難しいことですよね。
 
 


 
 
 2018年7月20日の夜間にfujiponさんとズイショさんがtwitter上で交わしていたやりとりを見ても、双方向的なコミュニケーションに向いていないメディアだなぁ……とつくづく思いました。
 
 にも関わらず、ネットユーザー同士のやりとりが短文で済ませられるようになっているわけですから、巧くないコメントの応酬、ディスコミュニケーションの氾濫が起こるのは当然の帰結ではあります。きっと、短文カルチャーは思考のありようにも影響を及ぼしていることでしょう。短文で考え、短文でコメントするカルチャーは、長文で考え、長文を交換するカルチャーとは異なる人々をはぐくみ、異なる傾向へと導いていくと思われます。いや、現在のネットの風景は、その傾向が既にできあがったものかもしれません。
 
 

1を読み10を知る者もいれば、何も読み取れ(ら)ない者もいる

 
 それに、短文~長文というネットメディアの特質を抜きにしても、「ちゃんと読まれ、応答になっているコメント」というのは簡単に成立するものではありません。
 
 まず、読解力には大きな個人差があります。
 
 筆者の意図や文章の論旨を95%ぐらいの確率で読み取れる人もいれば、25%ぐらいの確率でしか読み取れない人もいます。そもそも、論旨とか主旨とかいう概念が欠如している人だって今日日のネットユーザーには多いでしょう。「ネットの読者の少なからぬ割合は、センター試験の国語で120点取れない」ことは、前提として忘れてはならないように思います。
 
 加えて、コメントを書く人のなかには、読解したい人もあれば、ぜんぜん読解したくない人だっています。
 
 文章を読んでコメントしたいのでなく、ただタイトルにかこつけて自分が言いたいことをコメントしていくだけの人なんてごまんといるじゃないですか。本来は読解力がある人でも、気分や状況によっては「タイトルだけ読んで自分の書きたいコメントを書く」ことがあってもおかしくはありません。それを禁止すべきでもないでしょう。
 
 読解力に個人差があり、読解したい人もしたくない人も集っているとしたら、SNSやソーシャルブックマークのコメントが多種多様になるのは一つの必然です。必然だから良い、と言いたいわけではありませんが、必然ではあります。本来は居酒屋の毒舌やテレビの前のつぶやきで済んだはずの言葉までもが、一覧になったり、クソリプの山になったりするのが、今のインターネットですから。
 
 fujiponさんは「はてなブックマーク」を殊更に批判しておられるけれども、この問題は、インターネット全体にもほとんど言えることで、たとえば90年代のインターネットにだって「話の通じない人」はそれなりに存在していました。だから、はてなブックマークが廃止されなければならないとしたら、ほとんど同じ理屈でインターネットも廃止するか、インターネットを選民制度にしなければならないのではないでしょうか。
 
 それでも、はてなブックマークに絞って問題点を考えるなら、私は、「はてなスター」が悪く働いているように考えています。はてなスターは、ブログ記事とブックマーカーとの双方向的なコミュニケーションを促すより、ブックマーカー同士の党派性を助長し、「はてなブックマークというメディア上で目立つ」ことを促しているように見えるからです。
 
 本来、穏やかな目的に供されるはずだったはてなスターが、ユーザーの攻撃性を煽るメカニズムと化しているとしたら、痛ましい限りです。
 
 また、多くの方が指摘しているとおり、現在のidコールの仕様にも問題があるように思います。
 
 はてなスターやidコールといった仕様をこれからどうしていくのか。私は、(株)はてな の内部の人に真剣に考えていただきたいと願っています。
 
 

「コメントできること」のかけがえのなさ

 
 さて、ここまで書いた文章を読み返すと、「ああ、結局私もfujiponさんにかこつけて自分が書きたかったことを書いただけだなぁ……」と思い至らずにはいられません。ブログ記事にブログ記事をリンクしたからといって、この出来事が双方向的なコミュニケーションになっているのか自信がありません。
 
 ただ、ブログとブログ、SNSとSNSでもそうですが、言葉に言葉が重ねられるということには、一種のかけがえのなさがあり、こうやって言葉を交わせること自体を私は否定したくありません。
 
 最近、とある旧はてなダイアリーユーザーの方とメールでやりとりした際に、「それでも言葉を放てるというのは、強いことです」といった主旨のご意見をいただきました。私も同感です。
 
 何かを言えること・何かを表現できることは、強いことです。これは、逆を考えてみるとすぐにわかるはずです。何も言えないこと・何も表現できないことは弱い。言葉や表現がすべてのインターネットにおいては、とりわけそうでしょう。
 
 たとえば、何百何千とリツイートされた文章にクソリプが連なること自体は悲しいことですが、クソリプしか書けないような人でもクソリプが書けること自体は、ほんらい、尊ぶべきことではないでしょうか。
 
 インターネットのおかげで、これまでの社会では沈黙するしかなかった人々にも言葉や表現が与えられました。独裁国家のような国ならともかく、表現の自由を良しとする国では、そのことはまず尊ぶべきことです。見事な文章が書けるような人、影響力のある人だけが声をあげられ、そうでない人からは声を剥奪するなんてことは、あってはならないように思います。はてなブックマークにしても同様です。読解力も読解意図も欠いている人のコメントがそびえたつクソの山を作るのは悲しいことですが、読解力も読解意図も欠いている人でもコメントしてそびえたつクソの山を作れること自体は否定しがたい、というのが今日の私の意見です。
 
 むろん、はてなブックマークをはじめ、個別のネットメディアには改善すべき問題はたくさんあります。うんざりすることや偏っていることもたくさんあるでしょう。コメント言いっぱなしばかりを助長し、双方向的コミュニケーションが志向されにくいネットメディアの現アーキテクチャにも、個人的には言いたいことが無いわけではありません。
 
 それでも、こうやって私達がブログを書けていることや、誰でも気軽にコメントできること自体は、原則として尊く、かけがえのないことのはずなんです。たとえ人が集まり過ぎてガンジス川の川辺のようなカオスな風景が現れたとしても、インターネットで書けること・表現できることに救われた人間は、その出発点を忘れてはいけない──そんなことを今日はやけに思い出したものですから、私は書きたいことを書きました。
 
 
 [関連]:はてなブックマークの多様性は、そんなに馬鹿にしたものじゃない - シロクマの屑籠(なにぶん5年前の文章なので、いささか楽観的ではありますが)