シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

おじさんおばさんの「横着」について思うこと

 
 
“ちょい悪オヤジ”も要因!?「大人になり切れないおっさん」が生まれる5つの理由 - FNN.jpプライムオンライン
「少年の心を持ったおっさん」からの脱却はどうすればいい?専門家に聞いた - FNN.jpプライムオンライン
 
 先日、FNNプライムニュースさん関連でインタビューをお引き受けする機会があって、拙著『「若者」をやめて、「大人」を始める』について色々な話をした。
 
 その後、身の回りで色々な出来事があって、おじさんやおばさんの「横着」について(どちらかといえば肯定的に)考える機会があったので、紹介がてら、ちょっと書き残しておく。
 
 
 
 
 

「歳を取ったら横着できる」の意味がわかるようになってきた

 

横着
1 すべきことを故意に怠けること。できるだけ楽をしてすまそうとすること。また、そのさま。「横着を決め込む」「横着なやりかた」「横着して連絡しない」
2 わがままで、ずうずうしいこと。ずるいこと。また、そのさま。
(goo辞書より)

 
 私が十代の頃から、四十代、五十代の人々が「歳を取ると横着がきくようになるよ」「あの人、自分の年齢を意識して横着した」といった言葉を耳にすることがあった。歳を取ると、すべきことを故意になまけたり、楽をして済ませることができる……という意味が、当時の私にはいまひとつわからなかった。
 
 ただ、年を追うにつれて、私もなんとなく「歳を取ると横着ができる」の意味がわかってきた、ような気がする。
 
 十代の頃は、とにかく目の前の現実を生きること・生き残ることに精一杯だった。今から思えば些細なことにも一生懸命にこだわって、笑ったり泣いたり怒ったりしていた。思春期のありかたとして、それは自然なことだったのだろう。二十代の頃もそれはあまり変わらない。覚えなければならない仕事はあまりにも多く、コミュニケーション能力をはじめ、社会人として求められるものがあまりにも多かった。とうてい、横着もクソもあったものではなかった。
 
 それが変わり始めたのは三十代になった頃からだ。
 
 二十代の頃は全神経を集中させなければならなかった事柄が、あまり頑張らなくてもこなせるようになった。仕事のなかでもルーティンにあたる部分は、短時間に片付けられるようになった。衣服を買うこと・大人向けの飲食店でそれらしい食事をとること・ラッシュアワーの山手線に乗ること──そういった日常の細々とした行動に際して、頭や身体を使う度合いが少なく感じられるようになった。緊張したり肩ひじ張ったりしないで済むようになった、とも言えるかもしれない。
 
 「歳を取るとは、若さを失うことで、可能性を喪失することだ」と捉える人がいる。
 それはそれで事実の一面なのは否めない。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 だが、実際に三十代になってみると、若さと引き換えに身に付けた経験によって、できることが大幅に増えていた。二十代の頃には100の力が必要だったことを40ぐらいの力で片付けたり、三か月はかかったであろうタスクを一カ月でこなせるようになった。生涯、という尺度でみれば確かに可能性がすり減っているのだろうけれども、二十代の頃と三十代の頃を比べると、一年あたりでこなせることは圧倒的に三十代のほうが多い

 少なくとも私の場合、子育ても、書籍やブログの執筆も、若さと引き換えに手に入れた経験によって成り立っている部分が大きく、到底、若けりゃできるってものだとは思えない。
 
 さらに歳を取り、四十代になると、なるほど、横着の世界が見えてきた気がした。
 
 若かった頃は気付きもしなかったことだけど、四十代の男女は、それぞれに横着のきく側面があるように思う。それは、社会経験による面の皮の厚さのせいかもしれないし、自分よりも年下の人間が相対的に増えていくおかげで経験上のアドバンテージが活きる場面が多くなるからかもしれない。あるいは、進歩的な考えの人には許しがたいことかもしれないが、この国に残る儒教的な年功序列意識の残滓が、若かった頃より有利に働くようになったのかもしれない。
 
 周りの同世代を見ても、そういうのはなんとなく感じられる。
 
 経験を活かし、楽に済ませられることは楽に済ませる。今までの社会経験を踏まえて、手を抜くべきところは手を抜き、面の皮の厚さを活かすべきところではちゃんと面の皮を厚くする。そういう同世代がそれなりいると気付くようになった。もちろん、五十代や六十代も同様だ。良い意味で、彼らは横着することをよく知っている
 
 まだ若かった頃の私には、年上の人々の横着がよく見えていなかった。より大きな責任や立場、子育てと仕事の両立といった、タスクの多いことを引き受けている彼らが、ただただ辛そうに見えてならなかった。だが、それは二十代の頃の私の尺度でみればそうだということで、現在の私からみると「なるほど、経験を活かして、あれもこれもショートカットしまくって生活を成立させているんだな」とみてとれる。
 
 診察室で出会うおじさんおばさん、街ですれ違うおじさんおばさん、飲み屋でたまたまカウンターで出会ったおじさんおばさんの話の端々に、そういった「横着」のノウハウが漂っている。「ああ、この人達も横着のおかげで中年のライフスタイルを維持できているんだなぁ……」と気付く時、私は戦友をみるような頼もしい気持ちになる。
 
 生涯の残り時間は短くなったかもしれないけれども、この人達は経験を活かして、その残り少ない時間を精一杯使って楽しんだり働いたりしているのだろう。二十代や三十代に比べて老いたとはいえ、そうやって横着を重ねながら生き抜く今を、それほど悲観してもいるまい。少なくとも私はそうだ。
 
 

「横着」が「老害」に転じる瞬間

 
 ここまでは横着の良い側面について触れてきた。だが、横着というからには良くない側面もまたあろう。
 
 経験を活かしてといえば聞こえがいいが、経験の差にモノを言わせてと言い直せば聞こえは悪くなる。なにより、その経験が足枷になって視野が狭くなったり、その経験によって年下の人間を無碍にしてしまったりする可能性は常についてまわる。
 
 そこに、社会的地位をかさにきた横柄な態度が加われば、公道を黒塗りの高級車に乗って乱暴に運転するドライバーのごとく、迷惑だが手の付けられない存在と化する。
 
 迷惑だが手の付けられない中年が、自分の経験のおかげで横着できている・そのおかげで今の地位でうまくやっていけていると思い込めば、「老害」まっしぐらだろう
 
 四十代というのは、経験に脂が乗ってきているのに加えて、生物学的加齢がまだまだ進んでいない、比較的バランスのとれた時期だと思う。だからこの時期を俗に「分別盛り」というのもよくわかる。
 
 しかし、もっと年齢が上がってくると、経験は蓄積するけれども生物学的加齢は進んでしまうわけだから、四十代の頃と同じ感覚で横着をやっているとバランスを崩してしまうと想定されるし、事実、そのようにバランスを崩している人を見かけることもある。
 
 「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」というフレーズがあるけれど、これは、出生した人だけが気を付けるフレーズではなく、経験を蓄積して横着することを覚えた中年以降はみんな気を付けたほうがいいものなのだと思う。
 
 二十代の頃の感覚で四十代が生きられないのと同じで、きっと四十代の頃と同じ感覚では六十代は生きられない。同じ感覚で生きたら、「横着」の悪い側面が出やすくなってしまうように予感される。それなら、年上の人々の振る舞いやミステイクを今のうちからよく観察しておいて、同じ轍を踏まないようにしたいと思う。
 
 もちろん、こういう警戒感じたいが加齢によって失われてしまって、「歳を取っている私はただそれだけで配慮・尊敬されるべき存在だ」「今まで苦労してきたんだから好きにやらせろ」と言い始めてしまう可能性も否定できない。加齢が、私の心にそういう風化をもたらす可能性はまったく否定はできないからだ。
 
 それでも、歳を取っているだけで勝手にやって構わなかったのは、せいぜい半世紀以上前の日本まで。いや、半世紀以上前の日本ですらそのような人物は年少者から迷惑がられていたわけで、背筋を伸ばしながら歳を取っていかなければなるまい。
 
 そのことをここに書き残しておき、未来の私自身に言い聞かせておきたい。ちゃんと背筋を伸ばして歳を取っていくんだぞ、と。
 
 

【スプラトゥーン2】サブアカを作ったらサブアカ部屋に隔離された

 

Splatoon 2 (スプラトゥーン2) - Switch

Splatoon 2 (スプラトゥーン2) - Switch

 
 
 もうすぐ発売から一周年を迎える『スプラトゥーン2』。最近、この『スプラトゥーン2』でサブアカウント(略してサブアカ)を作ってみたところ、任天堂の工夫というか、ゲームシステムにびっくりさせられた。
 
 
1.「サブアカ作って無双してやんよ」
 
 私は『スプラトゥーン2』が好きだ。とりわけ好きなのはガチマッチだ。おじさんの私が、たぶん高齢者向きの武器と思われる”もみじシューター”を手にとって、若いプレイヤーに立ち向かうのである。
 
 

 
 
 それでも10カ月の修練はゲーム慣れさせてくれるというか、だいぶいいところまで辿り着けるようになった。『スプラトゥーン2』のランキングの頂点である「X」には届かないものの、そのひとつ下の「S+」には無理なく辿り着ける。酸っぱい臭いのする加齢臭を放ちながら若い衆相手にガチマッチを挑むのは、中年ゲーマー冥利に尽きる。
 
 反面、アカウント全体のランク付けが自分の腕前ギリギリまで上がってしまったせいで、苦手な武器でガチマッチを練習しづらくなってしまった。苦手な武器で、もう少し低ランクのプレイヤーと戦ってみたい。ついでに、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ……「C」ランクや「B」ランクのプレイヤー相手に無双してみたい。
 
 そのための一番手っ取り早い方法は、サブアカを作って一からやり直すことだ。
 
 少なくとも最初のうちは、そのように思っていた。
 
 
2.「このサブアカはおかしい」
 
 サブアカをつくり、さっそく苦手武器の練習でも始めてみるか! と意気込んでガチマッチを始めてみると、どうも様子がおかしい。
 
 一番低いランクとされる「C-」のはずなのに、初心者らしい動きをするプレイヤーが少ししかいない。右往左往している初心者は全体の3割ぐらいで、残りはガチマッチ経験者っぽい動きをしている。
 
 最初の2~3回ぐらいは、その3割くらいの初心者が足を引っ張っているチームが負けるかたちで進行していた。ところが4回目あたりからいよいよ様子がおかしくなった。初心者がいない。どこにもいない。「C-」とは名ばかりの戦場でヒイヒイ言わされるようになってきた。
 
 
 チャージャーという武器は、初心者が正確に狙撃できるものではない。
 ホコを中央に戻すための自殺は、ルールを理解している者ならではの挙動だ。
 N-ZAPの間合いも、ある程度の経験がなければ使いこなせないだろう。
 
 

 
 
 そう、ここには初心者はいないのである。十分に慣れたプレイヤーだけで構成された「C-」の戦場がそこにはあった。ひょっとして、いつも遊んでいる「A+」~「S+」ランクのプレイヤーとほとんど変わらないのではないか。
 
 この時点で、このサブアカに家族も興味を持つようになり、子どもは"スプラローラー"を、嫁さんは"スプラチャージャー"を持ち寄って遊びはじめた。家族の感想も同じだった。「このサブアカは絶対におかしい」。
 
 
3.「本アカウントよりもガチパワーが高いサブアカ」
 
 昔、私が初心者だった頃は、初心者の群れのなかに2~3人の上手いプレイヤーが混じっていて、「うわあ、サブアカが無双してやがるよ」と思わされることがよくあった。ところがこのサブアカの場合、上手いプレイヤーが混じっている……なんてレベルではなく、初心者が全くいない。ひょっとして、『スプラトゥーン2』の内部サーバのほうで「こいつらは熟練プレイヤーのサブアカ」と判定されて、初心者のいない場所に隔離されてしまっているのではないか?
 
 そのような疑問は、やがて現実のものになった。
 
 

 
 
 「C-」ランクから飛び級で「B」になってみると、なんと、ガチパワーが1820と表示されている。
 
 ガチパワーは、『スプラトゥーン2』のプレイヤースキルの目安となる数字で、これに基づいてプレイヤー同士のマッチングが行われている。初心者のガチパワーはだいたい1000~1200ぐらいで、最上級のプレイヤーでは2100以上になるとされている。ちなみに私の本アカウントのガチパワーは、だいたい1650~1800ぐらいなので、サブアカのほうが本アカウントよりもガチパワーが高いことになる。
 
 やっと理解できた。
 
 『スプラトゥーン2』のガチバトルは、「C」「B」「A」「S」「X」という表向きのランキングはそれほど重要ではなく、ガチパワーによる振り分けのほうが重要だったのだ。このゲームは、連勝し続けるとガチパワーがたちまち上がっていく。だから初心者の混じっている戦場で3連勝ほどすると、初心者のいない部屋に隔離されるようになっているわけか。
 
 ときどきネットで耳にした、「上級者がサブアカで初心者相手に無双」なんていうのは、もともと全てのランクで無双できるほどの剛の者か、途中でわざと連敗するかしない限り、まず起こらないものだと知った。
 
 

 
 その後も遊び続けているうちに、ついにガチパワーは1900を越えるようになった。『スプラトゥーン2』は、自分よりも腕前の低い相手の動きが手に取るようにわかるゲームで、自分よりも腕前の高い相手の動きがぜんぜんわからないゲームでもある。で、ここに来て、周りのプレイヤーの動きがさっぱりわからなくなってしまった。数連敗してガチパワーは1800に戻った。その間、きっと味方の足を引っ張っていたと思う。すまない。
 
 
4.想像以上に任天堂はいい仕事をしていた
 
 これまで私は、『スプラトゥーン2』の対戦マッチングには不満を持っていた。やたらと弱いメンバーとチームになるとか、どう考えても「S」クラスや「X」クラスのサブアカとしか思えないプレイヤーに無双されるだとか、そういう経験が何度もあったからだ。
 
 しかし自分でサブアカを作ってみて考えが変わった。
 
 本当は、対戦マッチングのシステムはそれなり機能していた。最初しばらくは無双できるとしても、連勝し、ガチパワーが上がれば初心者のいない部屋に隔離されて、初心者の迷惑になることはなくなる。そうやって経験者のサブアカを初心者から遠ざけて、それぞれのガチパワーごとにふるいわけることによって、そのプレイヤーの実力にみあった対戦が続けられるように設計されていたのだ。
 
 今回のサブアカの件も、「低ランクの相手に苦手武器で練習したい」「格下相手に無双したい」などというやましい欲求がいけなかっただけだと言える。「C」や「B」といったランクのうちに、事実上「A」や「S」に相当するプレイヤーと対戦させてくれるのは、マッチングシステムがよくできているからに他ならない。
 
 この一件で、『スプラトゥーン2』のマッチングシステムについて文句を言うのをやめることにした。もし、マッチングシステムに不満がある人は、サブアカを作ってみるといいかもしれない。マッチングシステムの見え方が変わると思う。
 
 

「ふわっとした仕事をタスクに落とし込む」はゲームで鍛えた

 
今の時代、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」だけで十分食えると思う | Books&Apps
 
 現代人にとって、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」が重要なのは間違いないだろう。ただし、リンク先でしんざきさんが書いているように、
 

この「タスク具体化能力」って、必ずしもテクニカルな側面だけではなくって、もうちょっと根本的なところに能力の淵源があるような気がするんですね。
つまり、「その目的を達成するにはどんな工程が発生するのか」ということを、細かく状況つきで想像、想定する能力。
そして、「どの工程を終えたらどんな状態になるか」ということを導出する論理力。
そういうものが大事であって、これ、たとえ技術的な知識があったとしても、苦手な人はとことん苦手な分野なのかも知れないなあ、と。
少なくとも、色んな人と仕事をしていると、経験や知識とは全く関係なく、こういう「タスク分解」が出来る人は凄く上手に出来るし、出来ない人は全然出来ないんだってことが分かるんですよ。

 こうしたスキルがしっかり身に付いている人もいる反面、それなりの年齢でも全然ダメな人がいるのも事実だ。
 
 精神医療の世界でも、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」は重要だ。
 
 たとえば看護師長~看護師長補佐クラスの人材は、精神科看護という、フワフワしまくった仕事を具体的なタスクに落とし込み、看護チーム全体を導くことに長けている。他方で、ひとつひとつの業務はしっかりしているけれども、具体的なタスクに落とし込むのは不得手な看護師もいる。
 
 精神科医にも同じことが言える。社会環境について話し合う必要性が高いケースや、患者さんの病気が典型例から遠いケースなどは、精神科医の仕事はかなりふわっとした感じになる。「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」次第で、治療の道のりも変わるので、こういう部分も腕の見せどころだと私は思う。
 
 幸運なことに、私はこういうスキルには不自由していないほうだと思う。なぜなら、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」を、ゲームで鍛えてきたからだ。
 
 

「自分でゴールやタスクを見つけなければならないゲーム」

 
 世の中にはさまざまなゲームがあって、プレイヤーの目指すゴールやタスクが明確なものもある。
 
 たとえば『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』では、ラスボスを倒すことが目標になっている。経験値やお金を稼ぎ、武器や防具を揃えていくという意味では、タスクが共通していてわかりやすい。こうしたゲームをテンプレからはみ出さずに遊ぶぶんには、ゴールやタスクを自分で考えなければならないことはあまり無い*1
 
 反対に、ゴールやタスクが曖昧なゲームもある。
 
 

 
 
 日本でもプレイヤーの多いシミュレーションゲーム『シヴィライゼーション』には、複数の勝利条件があり、プレイヤーは状況を見極めながらゴールを目指すことになる。敵国を滅ぼすのが最適なこともあれば、ロケットを打ち上げて宇宙に脱出するのが最適なこともある。文化振興が近道のこともあれば、国連のリーダーを目指すしかないこともある。スタート時点の地形や資源配置がランダムなこともあって、プレイするたび新しい戦略を考えなければならない。そこがこのゲームの楽しいところでもある。
 
 
ヨーロッパユニバーサリスIII コンプリートパック版 【完全日本語版】

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 もう少しマイナーな『ヨーロッパユニバーサリス』というゲームになると、勝利条件が無い。プレイヤーは、15世紀~19世紀の世界じゅうの国家のどれかを選んで、好きなように遊んで構わない。全盛期のスペインやフランスを選んで世界征服を目指しても構わないし、セイロンや琉球といった小国を選択して「いつ潰されるかわからない小国プレイ」を満喫したって構わない。プレイヤーに採れる選択肢はものすごく多く、初めてプレイする時は自由すぎて戸惑ってしまうかもしれない。
 
 
 『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』をテンプレどおりに遊ぶのに比べると、『シヴィライゼーション』や『ヨーロッパユニバーサリス』は自分でゴールを設定し、そのために必要なタスクを自分で探してこなければならないるゲームだと言える。
  
 ただ私の場合、それら以前にも「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」を鍛えさせられるゲーム体験があった。それはゲーセンでのハイスコア争いのことだ。
 
 冒頭で紹介したしんざきさんは、以前、こんな記事も書いている。
 
「人生の息抜きにゲーム」ではなく、「ゲームの息抜きに人生」を送っていた時期の話。 | Books&Apps
 
 しんざきさんは、『ダライアス外伝』の全国一スコアを獲るためにPDCAサイクルをグルグルと回していたという。それに及ばないものの、私も『バトルガレッガ』や『斑鳩』といったゲームでハイスコア目指してPDCAサイクルをグルグル回していた。
 
 「ハイスコアを狙う」という課題はクッキリとしているようにみえて、かなりフワッとしている。敵をたくさん倒せば良い・ボーナスアイテムをたくさん取れば良い、と思ってかかると、別のところにその皺寄せが来る。たとえば後半で武器が足りなくなるとか、ボーナスアイテムがトリガーになって難易度が急上昇するとか、そういったたぐいの皺寄せだ。
 
 私はゲームで身上をつぶしたくなかったので、「現在の自分の腕前で」「学生として留年しない範囲で」という制限のなかでハイスコアに挑んでいた。となると、全国級のプレイヤーの猿真似をするだめでは駄目で、彼らのやっていることを自分向けにデチューンしたり、自分独自のパターンを開発しなければならなかった。
 
 この点では、「ハイスコアを狙う」は、山登りにも似ている。
 
 6000mの山に登るのか。7000mの山に登るのか。8000mの山に登るのか。どの山に、どのルートから挑むのかを事前に考えなければならないし、登山者が経験や体力を考慮しながら登山を決意するのと同じように、ハイスコアラーは自分の技量や手持ち時間を考慮しながら目標スコアを決めなければならない。途中でトラブルがあればタスクを組み直す必要が生じるかもしれないし、ときには「引き返す勇気」が必要になることもあるかもしれない。そうしたことを考えながら、自分だけのPDCAサイクルを回していかなければならない。
 
 

「具体的なタスクに落とし込むスキル」には師匠が必要?

 
 そういう、ハイスコア狙いの世界を私が知ったのは大学生になってからだった。
 
 大学生になって、あちこちのゲーセンに行けるようになった私は、ハイスコアを目指す人々と接点を持つようになり、それまでとは違ったゲームの世界を初めて知った。
 
 

レイフォース

レイフォース

 
 
 当時の行きつけのゲーセンには、私よりも動体視力や反射神経の弱い、Dさんというプレイヤーがいた。
 
 身体能力で勝る私は、いつもDさんより早くゲームの勘所を掴み、ハイスコア争いでも優勢だった。ところが『レイフォース』というシューティングゲームでは、初期こそ圧倒していたものの、すぐに追いつかれ、到底追いつけないほどの大差をつけられた。それがきっかけになって、Dさんと話をするようなった。
 
 Dさんはゲームごとに「攻略ノート」を作っていた。自分が目指すべきスコアを出すためにどんなタスクをこなす必要があるのか・そのための練習方法、などなどがノートに綴られていた。ハイスコアを更新するたび、次の目標と課題をノートにまとめて、そのとおりに練習する──そういったプレイの積み重ねが、Dさんを全国一に迫るハイスコアに導いていた。
 
 Dさんほど几帳面ではないにせよ、ハイスコアラーの世界には似たようなことをしている人がたくさんいた。自分の目標を見定めて、そのために必要なタスクを見積もって、そのための練習を繰り返して、ハイスコアを更新したら次のステップをまた自分で考える。そういう遊び方が当然とみなされ、誰もがゲームと、いや自分自身と戦っていた。
 
 動体視力や反射神経にモノをいわせていた私にとって、彼らの方法は革新的だった。単純なトライアンドエラーを越えた、もっと遠いゴールまで辿り着ける遊び方がここにあると思って、彼らから多くのことを学んだ。Dさんはハイスコアを狙う方法だけでなく、素晴らしいエロゲーも教えてくれる変態紳士だったが、そこはさておき、私のゲーム人生のかなりの部分は彼に依っているし、たぶんだけど、私の仕事人生のかなりの部分も彼に依っている。
 
 このことを振り返るに、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」は、漫然とゲームを遊んでいれば身に付くものではないように思う。私にとってのDさんのように、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」を実践している人から直接に教わるか、せめて傍にいて眺めるかしなければ、身に付きにくいのかもしれない。
 
 しかし逆に言うと、たとえば子育ての際に、親が「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」を実践しているさまを子どもが眺めたり、教わったりできれば、なにかの足しになるのではないか。その際の教材は、夏休みの自由研究でも構わないし、海辺でのキャンプでも構わないし、『マインクラフト』や『スプラトゥーン2』のようないまどきのゲームでも構わないはずだ。とにかく、そういうチャンスを提供して、一緒にやって、そこに楽しさを見出すことに、意義はないものだろうか。
 
 この、私の推定がどのぐらい的を射ているのかはわからない。けれども、冒頭でしんざきさんが書いているとおり、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」は今後も重要であり続けるはずだ。我が家の場合は、ゲームプレイのノウハウがよその家よりも豊富だから、ゲームを介したかたちで親から子に相伝されても不自然ではないように思う。「人生の大切なことはゲームから学んだ」が二代続くような、そういう親子の付き合いを目指してみたい。
 
 

*1:縛りプレイを始めたり面白プレイを始めたりすると、話は変わってくるが。

「ブログで金儲け」から三年後のインターネット

 


 
 三年前、私は「金の匂いがするブログ」について以下のような意見を書いたことがあった。
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 

しつこく繰り返すが、私はブログや動画配信を使ってカネを儲けるなと言いたいのではない。そうではなく、「カネが欲しい」という欲求をどのように取り扱い・どこまで表現するのかに対し、もっと自覚的・戦略的であってもいいんじゃないの? デリカシーへの配慮があってもいいんじゃないの? と問いかけたいのだ。

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20151030/1446145200

 
 インターネットで金儲けをすること自体に異存はない。けれども「カネが欲しい」という欲求を他人にどこまで見せるのか・どう見せるのかは、デリカシーが問われるところであり、はしたない態度は長期的にみて得策ではない──だいたいそういう内容だったと思う。
 
 それから三年近い歳月が流れて、その間にインターネットやブログの世界は三年分変わった。それらを踏まえて、今だから書けることを書いてみる。
 
 

「マルチ商法まがいなブログが気に入らなかった」

 
 まず、あの記事を書いた動機の第一として、「マルチ商法まがいなブログが気に入らなかった」ことを白状しておく。
 
 当時のインターネット上では、「ブログで金儲けできる」という話がまことしやかに語られていた。そのことを証明するかのように、月刊PV○○万、月収○○万円といった数字を公表するブログが爆増していたと記憶している。そして「儲かるブログ運営のノウハウ」をあの手この手で売りつけようとする者が跳梁していた。
 
 彼らがブログをとおして金に言及するさまは、非常に無頓着で、無神経で、私の美意識からすれば最低の振る舞いだった。
 
 でも、それだけではなかった。儲かるブログ運営を売る側と、それを買い、お手本どおりにブログで金儲けをしようとする側、その構図が私にはマルチ商法まがいにみえた。マルチ商法"まがい"と書いたのは、私の知っているところのマルチ商法とまるっきりイコールと言い切る自信が無いからだ。ただ、情報源と下流ブログの位置関係、参加者が増え続けなければ破綻する利益構造、後になって参加してきた人々の危うげな振る舞いなどを眺めていると、構図としてマルチ商法に似ているとは感じた。
  
 あの「ブログで金儲け」では、情報源のブロガーはともかく、下流にはお金がたいして行き届かない。ましてや、プロブロガーが次々に誕生して、彼らに恒常的にお金が入ってくる構図など望むべくもない。結局、「ブログで金儲け」に後から参加してきた人々は、体の良い「養分」でしかないように見えたし、事実、養分となったのだろう。
 
 長年にわたってインターネット愛好家の裏庭だったはてなブログ界隈が、突如、フォロワーを集って養分にせんとする山師の一団に占拠されてしまったのは、当時の私にとって苛立たしいことであり、義憤を感じさせることだった。
 
 その義憤も所詮はエゴでしかなく、ブログは誰でも書けるし、誰でも書けるべきものだというのはわかっていた。それでも苛立ちが理解を上回った。だから私は「ブログで金儲け」な状況に嫌悪を表明しておきたかった。あくまで個人的な嫌悪だとしても、だ。
 
 

2018年。現実とシームレスなインターネット

 
 それから三年の月日が流れて、インターネットも私も変わった。
 
 案の定、「ブログで金儲け」は長続きしなかった。プロブロガーなるものを喧伝していた人々はほかの鉱脈へと移動し、遅れてやってきたフォロワー達のブログは軒並み潰れた。三年経ってもブログを辞めなかったのは、元からブロガーだった人々か、もっと気骨のある精神でブログをやっている人々か、プライベートな記録としてブログを楽しんでいる人々だった。
 
 しかし、インターネット全体でいえば、ここ十年でインターネットはますます金の匂いがするようになった。「ブログで金儲け」の連中が漂わせていた、あの品性下劣な振る舞いは目立たなくなったけれども、インターネットを介して金銭を得ることはカジュアルな行為になった。
 
 プロはともかく、副業としてブログや動画配信に手を出すのは珍しいことではない。ヤフオクやメルカリといった、オンラインで個人が金銭をやりとりするサービスはますます繁盛している。そうしたやりとりに対して、若い世代は開かれているようにもみえる。
 
 私自身の認識も、そうしたなかで変わっていった。
 
 このブログはgoogleアドセンスを貼り付けていないし、PVもぜんぜん大したことはない。それでも、書籍に関連したことを書けばなにかしら影響はあるだろうし、そうでなくても影響力を稼ぐという意味合いはゼロではないのである。ここに書いた「PVの金貨、銀貨、銅貨」という発想もその最たるものだ。
 
 インターネットに人がまばらで、オタクと研究者の遊び場だった時代は、インターネットで得られる影響力は金銭とは縁の遠いものだった。そこで得られた人間関係も、「ネットはネット、リアルはリアル」という括りを出るものではなかった。
 
 今は違う。インターネットで得られる影響力は、現実の金銭や影響力に近い。少なくとも、そういった可能性を無視できなくなり、そういった可能性を意識しながらインターネットで立ち振る舞う人が珍しくなくなった。
 
 これは、金銭目当てにブログや動画配信やnoteをやっている人だけの話ではない。フェイスブックやインスタグラムをやっている人々も、ソーシャルキャピタルを再生産するツールとして意識しているなら同じようなものだ。もし、現実の人間関係から逃避するためにフェイスブックやインスタグラムをやっている人がいるなら、その人は例外と言っていいかもしれないが。
 
 「ネットはネット、リアルはリアル」などという括りは、今日では通用しない。少なくとも、以前よりは通用しづらくなった。
 
 現在でも私は、ブログはまず自分自身が読み返すためのもの・自分自身の趣味のツールというスタンスを捨ててはいない。とりわけアニメやゲームやワインについての文章は、趣味性の結晶だ。
 
 だからといって、このブログが現実の金銭や影響力と無縁だと強弁することはもはやできない。
 
 2010年~2012年頃の、過去のインターネットと現在のインターネットの端境期の頃には、「趣味志向のブログライフ」を声高に叫ぶ余地があった。いや、インターネットが現実に吸収されつつある時期だったからこそ、従来のネットのありかたを推して、迫りくる現実に抵抗する余地があったかもしれない。
 
 しかし、インターネットがここまで現実とシームレスになった今、「趣味志向のブログライフ」を、こと私がシュプレヒコールしても、白けてしまうだろう。というか、私自身が白けてしまっている。時代が変わり、私の立ち位置も変わった。変化は、従容と受け入れるしかない。
 
 

美意識や美学は今も重要

 
 ただまあ、現実の金銭や影響力とここまでシームレスになったからこそ、金銭の稼ぎよう、影響力の稼ぎようの美意識や美学が今まで以上に問われるようになった、ともいえるかもしれない。
 
 金銭や影響力の誘惑は、ときに人間を狂わせ、堕落させる。それらを稼ごうと頑張っているうちに、身持ちが悪くなってしまう人・後に引けなくなってしまう人は、いまどき珍しくない。金銭や影響力がダイナミックに浮沈するインターネットに参加すれば、自分の欲望と向き合わなければならなくなる。
 
 そうしたなか、PCやスマホをたえず覗き込んでいる人というのは、金銭や影響力をたえず覗き込んでいるのか、それとも自分自身の欲望に憑りつかれて、自分自身の欲望に魅入られているのか、ちょっとわからない。ああ、ここまで書いてみると、自嘲せずにはいられなくなる、ここに書いたことは私にもそのまま当てはまるじゃないか!
 
 それでも、社会的体裁には相応の意味があるのだから、お下劣に稼ぐのか否かは個々のプレイヤーがよく考えて、戦略にあわせて整形しておくべきポイントだとは思う。自分が稼ぎたいもの・稼ぎやすい方法にあわせて、インターネットの美意識や美学を調整しろ──そういう発想があるのと無いのでは、やっぱりどこか違ってくるんじゃないかなぁ、というのがブログ歴13年の人間としての所感です。
 
 

そもそも、現代人のライフコース自体が生殖に向いていない。

 
anond.hatelabo.jp
 
 リンク先の記事は、女性医師のライフコースの困難さを書きだしている。
 
 以前から、キャリアと子育ての板挟みに悩む女性医師は少なくなかったが、いまの医師研修制度によっていよいよ厳しくなっている話は、もっと知られてもいいように思う。
 
 その一方で、この話は女性医師だけに限らず、働く女性全般、いや、男性も含めたキャリア志向の現代人の大半に適用できる話として読みたくもなった。
 
 ここ十数年ぐらいの日本では、仕事に打ち込み続けるうちに、結婚や子育てのタイミングを逃してしまう女性が後を絶たなかった。そうでなくても、出産や子育てに踏み切ったことによってキャリアが中断してしまった女性や、職場に迷惑をかけていないか気にしている女性が少なくなかった。
 
 少子化がさけばれる昨今は、男性も育児休暇を取れるようになった。もちろんそれ自体は喜ばしいことだが、育児休暇を取る男性にしても、職場を休む際には申し訳ない気持ちが湧くことがしばしばあるように思う。従業員が子育てのために順番に休暇を取ることを当然のサイクルとして設計されている職場は、まだまだ少ないのが実情だ。
 
 こうした現実を振り返るに、私は思わずにいられない。
 
 そもそも、現代人のライフコース自体が生殖に向いていないのではないか。
 
 結婚。出産。子育て。
 
 こういった、生殖にダイレクトに関わる諸々が非常に難しくなっているからこそ少子化には歯止めがかからず、ちょっと大げさな言い方をすると、日本人は絶滅の危機に瀕しているのではないだろうか。
 
 このあたりについて、今の私が疑問に思っていることを少し書いてみる。
 
 

ブルジョワ化していった意識と働き方

 
 さきほどから私は、現代人という言葉を使っている。
 
 ここでいう現代人とは、できるだけ良い学校に入り、できるだけ良い収入や地位を目指すことを良しとする人々のことだ。因襲や宗教よりも社会契約や合理主義を重んじ、勤勉で、仕事をサボることを良しとしない。たとえば21世紀の東京で働いている人のほとんどは、この現代人に該当すると考えて差支えない。
 
 現代人のルーツは、近世以前の第三身分、ブルジョワジーに由来する。
 
 資本家や医師や法律家といった人々、今でいえば高級ホワイトカラーに相当する人々は、近世の頃から高学歴志向・キャリア志向のライフコースを採っていた。彼らは社会契約のロジックにも忠実で、勤勉に働いた。現代人の基準からみれば当たり前に思えるかもしれないが、これらは近世以前の人間のテンプレートではない*1
 
 

「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)

「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)

 
 日本では、そうしたブルジョワ然としたライフコースを採る人が戦前から増え続けてきた。
 
 ホワイトカラーの卵である大卒者は、明治時代にはスーパーエリートだったが、大正~昭和初期にかけてどんどん増え続けた。急激な近現代化を支えるためにはたくさんのホワイトカラーが必要で、高学歴者を生み出すシステムが整備されていった。と同時に、ホワイトカラーならではの文化や意識が社会の主流に、あるいはテンプレートになっていった。
 
 とはいえ、こうした変化が本格化したのは戦後のことだ。
 


 (出典:平成26年度学校基本調査、文部科学省、より)

 
 この、右肩あがりの進学率が示しているように、大卒はエリートでもなんでもなくなった。できるだけ良い学校に入り、できるだけ良い収入や地位を目指す意識は、資本家や医師や法律家の専売特許ではなくなった。どこの家庭も「自分の子どもには高学歴・高収入になってもらいたい」と願うようになり、受験戦争が白熱するようになった。
 
 昭和の終わりに、「一億総中流」という言葉が流行したことがある。「一億総中流」とは、みんなが中流の年収を得るようになったという意味ではない。みんなが中流意識を持つようになったこと、つまり、ホワイトカラー的・ブルジョワ的な意識が社会に行き渡ったことを指した言葉が「一億総中流」だった。
 
 ホワイトカラーが典型的な職業とみなされるようになり、女性に関しても、高学歴・高収入を目指す「働く女性」が当たり前とみなされるようになった。そうした意識の変化と経済成長がマッチしたのが、バブル景気崩壊までの日本社会だったのだろう。
 
 

経済資本・人的資本まではブルジョワ化できなかった

 
 しかし、意識や働き方がブルジョワ化したからといって、なにもかも戦前のブルジョワと同じになったわけではなかった。
 
 かつてブルジョワと呼ばれた人々は上昇志向で勤勉だっただけでなく、経済資本に恵まれ、人を使える立場だった。
 
 仕事熱心なブルジョワの実生活を支えていたのは、使用人や家政婦のたぐいだ。子育ての領域でも、乳母・教育係・寄宿学校といったさまざまなリソースを利用できたからこそ、ブルジョワは自分自身のキャリアに集中できていた。
 
 ブルジョワの意識と実生活の背景に、「生活のことなんて考えなくても構わない」「子育てもアウトソースして構わない」があったことは、現代人の意識と実生活を考えるうえで忘れてはならないものだと私は思う。
 
 さきに述べたとおり、日本社会ではブルジョワ的な意識や働き方が庶民にどんどん広まっていった。ところが、ブルジョワ化した庶民の生活を支えるための使用人や家政婦が増えたわけではなかった。乳母・教育係・寄宿学校といったリソースは高嶺の花であり続けた。
 
 ブルジョワ化した庶民は、ブルジョワのように意識してブルジョワのように働くけれども、実生活や子育てを他人任せにできるほどの経済資本や人的資本を授けられなかったのである。
 
 その結果、「ブルジョワのように意識し、ブルジョワのように働くけれども、実生活や子育てを自分でやらなければならない人々」がものすごい勢いで増えた。
 
 はじめ、この問題は「専業主婦」というシステムで一応の解決をみた。戦後しばらくの間は、国が専業主婦というシステムを後押しするかたちで、夫がブルジョワ的に働き、妻が乳母や家政婦の役割を担う分業が広く採られた。『サザエさん』や『ドラえもん』を見ると、当時の家庭のテンプレートをうかがい知ることができる。
 
 現代から見た専業主婦システムは、家父長的な、問題のあるシステムとみなされようし、実際、母親に偏重した子育ては、マザーコンプレックスをはじめとする家族病理を引き起こした。
 
 それでも、父親一人の収入で家族が賄えた頃は、専業主婦システムはひとつの解決法たりえた。急速に普及した家電製品も母親の助けになったし、平成にさしかかる頃にはレトルト食品やコンビニなども利用できるようになった。配偶者の片方だけで十分な収入が選られて、家族病理を回避する素地があるなら、専業主婦/専業主夫による分業システムは現在でも十分通用する。
 
 ところがバブル景気が崩壊してからの日本では、片方が働いて片方が養う……という分業が成立しにくくなってしまった。
 
 ブルジョワ的な意識や働き方はますます庶民に広がっていったのに、それにみあった年収はますます庶民から遠のいていった。末広がりなブルジョワの裾野に位置している人々は、勤勉に働いているにも関わらず、使用人ひとりも雇えない。それどころか、夫婦二人で食っていくのに精一杯という人や、結婚なんて経済的にとんでもないという人すら珍しくなくなっている。
 
 生活面では、家電製品やレトルト食品やサービス業の進歩によってカヴァーできていると言えるかもしれないが、生殖、子育ての領域はこの限りではない。保育所だけではカヴァーできない部分はまだまだあるし、その頼みの綱の保育所ですら、待機児童問題を呈して順番待ちのありさまである。のみならず、ブルジョワ的な意識においては、子どもには上昇志向な教育をカネをかけてほどこすのが当然とみなされているから、ただ子どもを食わせるだけでは駄目なのである。
 
 だから、ブルジョワ的な意識をじゅうぶんに内面化した現代人は、子育てにカネがかけられる見込みがない限り結婚したがらないし出産したがらない。「貧乏の子だくさん」などという事態を、ブルジョワ的な現代人は選ぼうとしない。それは、男も女も同じである。
 
 庶民がみんながブルジョワ化し、それでも生活や生殖が破綻しないようにするためには、本当は、生活や生殖を支えるための経済資本や人的資本が必要だったはずなのだ。
 
 だが、実際にブルジョワ化したのは意識や働き方ばかりで、在りし日のブルジョワ“階級”のような、豊かな経済資本や人的資本は望むべくもない。そうした理想と現実のはざまを専業主婦システムで間に合わせていた時代もあったが、バブル景気崩壊後の日本、とりわけ東京ではそれが困難になってしまった。
 
 もちろんこれは、日本や東京に限った話とは言えない。ソウルや台北の出生率を確かめてみればいい。あるいは、アメリカのネイティブの出生率を見てみればいい。程度の差こそあれ、これは、庶民のブルジョワ化が進んでいく先進国にあって、わりと普遍的な現象のようにみえる。
 
 

生殖という観点からブルジョワを批判する

 
 大昔の、本家本筋のブルジョワが乳母や使用人を雇うことができたのは、国内の階級による格差や、宗主国と植民地との格差が存在していたからだ。だが、途上国に追いつかれ、追い越される日本において、在りし日のブルジョワの特権を庶民すべてに授けるなど不可能である。
 
 近代から現代にかけて、日本人は、いや世界じゅうの人々は、ひたすら総ブルジョワ化の道を歩み、みんなが高学歴を志向して、みんなが勤勉に働くようになった。それは自体は良かったのだろう。
 
 他方で、意識と働き方ばかりブルジョワ化して、その生活と生殖を支えるためのバックボーンを授けられなかった(それどころか、バックボーンを失う一方の)人々に、やれ、子どもをつくりなさい、世代を再生産しなさい、と迫るのは厳しいことだと思う。その厳しいことを、日本は、いや先進的な国々の大半は、あの手この手で誤魔化しながらやり過ごしてきた。だけれど、とうとうやり過ごしきれなくなったから、みんな生殖を後回しにするようになった。それは仕方のないことだと私は思う。
 
 冒頭の女性医師などが典型だが、現代人のライフコースは、みずから生活や子育てを実践していくことを前提につくられていない。あくまでブルジョワ的に働き、ブルジョワ的に「稼ぐ」ことが前提になっていて、社会も個人の内面もそのようにつくられてしまっている。これまではそれで良かったのかもしれないが、これからもそれで良いのだろうか?
 
 「ブルジョワの打倒」と書くとマルクス的に聞こえるかもしれないけれども、生殖という観点からみても、ブルジョワは、打倒すべき対象ではないだろうか。今のところ私は、生殖という観点からブルジョワの理想と現実について批判している論説を見たことがない。もし、この散文を読んで「そういう論説なら、以前に読んだことがあるよ」という人がいたら、是非紹介して欲しい。今の世の中を理解するためには、そういう視点も必要な気がしてならないからだ。
 
 

*1:途上国の片田舎には、こうした現代人らしさの乏しい人が今でも残っている