シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「ふわっとした仕事をタスクに落とし込む」はゲームで鍛えた

 
今の時代、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」だけで十分食えると思う | Books&Apps
 
 現代人にとって、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」が重要なのは間違いないだろう。ただし、リンク先でしんざきさんが書いているように、
 

この「タスク具体化能力」って、必ずしもテクニカルな側面だけではなくって、もうちょっと根本的なところに能力の淵源があるような気がするんですね。
つまり、「その目的を達成するにはどんな工程が発生するのか」ということを、細かく状況つきで想像、想定する能力。
そして、「どの工程を終えたらどんな状態になるか」ということを導出する論理力。
そういうものが大事であって、これ、たとえ技術的な知識があったとしても、苦手な人はとことん苦手な分野なのかも知れないなあ、と。
少なくとも、色んな人と仕事をしていると、経験や知識とは全く関係なく、こういう「タスク分解」が出来る人は凄く上手に出来るし、出来ない人は全然出来ないんだってことが分かるんですよ。

 こうしたスキルがしっかり身に付いている人もいる反面、それなりの年齢でも全然ダメな人がいるのも事実だ。
 
 精神医療の世界でも、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」は重要だ。
 
 たとえば看護師長~看護師長補佐クラスの人材は、精神科看護という、フワフワしまくった仕事を具体的なタスクに落とし込み、看護チーム全体を導くことに長けている。他方で、ひとつひとつの業務はしっかりしているけれども、具体的なタスクに落とし込むのは不得手な看護師もいる。
 
 精神科医にも同じことが言える。社会環境について話し合う必要性が高いケースや、患者さんの病気が典型例から遠いケースなどは、精神科医の仕事はかなりふわっとした感じになる。「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」次第で、治療の道のりも変わるので、こういう部分も腕の見せどころだと私は思う。
 
 幸運なことに、私はこういうスキルには不自由していないほうだと思う。なぜなら、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」を、ゲームで鍛えてきたからだ。
 
 

「自分でゴールやタスクを見つけなければならないゲーム」

 
 世の中にはさまざまなゲームがあって、プレイヤーの目指すゴールやタスクが明確なものもある。
 
 たとえば『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』では、ラスボスを倒すことが目標になっている。経験値やお金を稼ぎ、武器や防具を揃えていくという意味では、タスクが共通していてわかりやすい。こうしたゲームをテンプレからはみ出さずに遊ぶぶんには、ゴールやタスクを自分で考えなければならないことはあまり無い*1
 
 反対に、ゴールやタスクが曖昧なゲームもある。
 
 

 
 
 日本でもプレイヤーの多いシミュレーションゲーム『シヴィライゼーション』には、複数の勝利条件があり、プレイヤーは状況を見極めながらゴールを目指すことになる。敵国を滅ぼすのが最適なこともあれば、ロケットを打ち上げて宇宙に脱出するのが最適なこともある。文化振興が近道のこともあれば、国連のリーダーを目指すしかないこともある。スタート時点の地形や資源配置がランダムなこともあって、プレイするたび新しい戦略を考えなければならない。そこがこのゲームの楽しいところでもある。
 
 
ヨーロッパユニバーサリスIII コンプリートパック版 【完全日本語版】

ヨーロッパユニバーサリスIII コンプリートパック版 【完全日本語版】

 
 
 もう少しマイナーな『ヨーロッパユニバーサリス』というゲームになると、勝利条件が無い。プレイヤーは、15世紀~19世紀の世界じゅうの国家のどれかを選んで、好きなように遊んで構わない。全盛期のスペインやフランスを選んで世界征服を目指しても構わないし、セイロンや琉球といった小国を選択して「いつ潰されるかわからない小国プレイ」を満喫したって構わない。プレイヤーに採れる選択肢はものすごく多く、初めてプレイする時は自由すぎて戸惑ってしまうかもしれない。
 
 
 『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』をテンプレどおりに遊ぶのに比べると、『シヴィライゼーション』や『ヨーロッパユニバーサリス』は自分でゴールを設定し、そのために必要なタスクを自分で探してこなければならないるゲームだと言える。
  
 ただ私の場合、それら以前にも「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」を鍛えさせられるゲーム体験があった。それはゲーセンでのハイスコア争いのことだ。
 
 冒頭で紹介したしんざきさんは、以前、こんな記事も書いている。
 
「人生の息抜きにゲーム」ではなく、「ゲームの息抜きに人生」を送っていた時期の話。 | Books&Apps
 
 しんざきさんは、『ダライアス外伝』の全国一スコアを獲るためにPDCAサイクルをグルグルと回していたという。それに及ばないものの、私も『バトルガレッガ』や『斑鳩』といったゲームでハイスコア目指してPDCAサイクルをグルグル回していた。
 
 「ハイスコアを狙う」という課題はクッキリとしているようにみえて、かなりフワッとしている。敵をたくさん倒せば良い・ボーナスアイテムをたくさん取れば良い、と思ってかかると、別のところにその皺寄せが来る。たとえば後半で武器が足りなくなるとか、ボーナスアイテムがトリガーになって難易度が急上昇するとか、そういったたぐいの皺寄せだ。
 
 私はゲームで身上をつぶしたくなかったので、「現在の自分の腕前で」「学生として留年しない範囲で」という制限のなかでハイスコアに挑んでいた。となると、全国級のプレイヤーの猿真似をするだめでは駄目で、彼らのやっていることを自分向けにデチューンしたり、自分独自のパターンを開発しなければならなかった。
 
 この点では、「ハイスコアを狙う」は、山登りにも似ている。
 
 6000mの山に登るのか。7000mの山に登るのか。8000mの山に登るのか。どの山に、どのルートから挑むのかを事前に考えなければならないし、登山者が経験や体力を考慮しながら登山を決意するのと同じように、ハイスコアラーは自分の技量や手持ち時間を考慮しながら目標スコアを決めなければならない。途中でトラブルがあればタスクを組み直す必要が生じるかもしれないし、ときには「引き返す勇気」が必要になることもあるかもしれない。そうしたことを考えながら、自分だけのPDCAサイクルを回していかなければならない。
 
 

「具体的なタスクに落とし込むスキル」には師匠が必要?

 
 そういう、ハイスコア狙いの世界を私が知ったのは大学生になってからだった。
 
 大学生になって、あちこちのゲーセンに行けるようになった私は、ハイスコアを目指す人々と接点を持つようになり、それまでとは違ったゲームの世界を初めて知った。
 
 

レイフォース

レイフォース

 
 
 当時の行きつけのゲーセンには、私よりも動体視力や反射神経の弱い、Dさんというプレイヤーがいた。
 
 身体能力で勝る私は、いつもDさんより早くゲームの勘所を掴み、ハイスコア争いでも優勢だった。ところが『レイフォース』というシューティングゲームでは、初期こそ圧倒していたものの、すぐに追いつかれ、到底追いつけないほどの大差をつけられた。それがきっかけになって、Dさんと話をするようなった。
 
 Dさんはゲームごとに「攻略ノート」を作っていた。自分が目指すべきスコアを出すためにどんなタスクをこなす必要があるのか・そのための練習方法、などなどがノートに綴られていた。ハイスコアを更新するたび、次の目標と課題をノートにまとめて、そのとおりに練習する──そういったプレイの積み重ねが、Dさんを全国一に迫るハイスコアに導いていた。
 
 Dさんほど几帳面ではないにせよ、ハイスコアラーの世界には似たようなことをしている人がたくさんいた。自分の目標を見定めて、そのために必要なタスクを見積もって、そのための練習を繰り返して、ハイスコアを更新したら次のステップをまた自分で考える。そういう遊び方が当然とみなされ、誰もがゲームと、いや自分自身と戦っていた。
 
 動体視力や反射神経にモノをいわせていた私にとって、彼らの方法は革新的だった。単純なトライアンドエラーを越えた、もっと遠いゴールまで辿り着ける遊び方がここにあると思って、彼らから多くのことを学んだ。Dさんはハイスコアを狙う方法だけでなく、素晴らしいエロゲーも教えてくれる変態紳士だったが、そこはさておき、私のゲーム人生のかなりの部分は彼に依っているし、たぶんだけど、私の仕事人生のかなりの部分も彼に依っている。
 
 このことを振り返るに、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」は、漫然とゲームを遊んでいれば身に付くものではないように思う。私にとってのDさんのように、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」を実践している人から直接に教わるか、せめて傍にいて眺めるかしなければ、身に付きにくいのかもしれない。
 
 しかし逆に言うと、たとえば子育ての際に、親が「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」を実践しているさまを子どもが眺めたり、教わったりできれば、なにかの足しになるのではないか。その際の教材は、夏休みの自由研究でも構わないし、海辺でのキャンプでも構わないし、『マインクラフト』や『スプラトゥーン2』のようないまどきのゲームでも構わないはずだ。とにかく、そういうチャンスを提供して、一緒にやって、そこに楽しさを見出すことに、意義はないものだろうか。
 
 この、私の推定がどのぐらい的を射ているのかはわからない。けれども、冒頭でしんざきさんが書いているとおり、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」は今後も重要であり続けるはずだ。我が家の場合は、ゲームプレイのノウハウがよその家よりも豊富だから、ゲームを介したかたちで親から子に相伝されても不自然ではないように思う。「人生の大切なことはゲームから学んだ」が二代続くような、そういう親子の付き合いを目指してみたい。
 
 

*1:縛りプレイを始めたり面白プレイを始めたりすると、話は変わってくるが。

「ブログで金儲け」から三年後のインターネット

 


 
 三年前、私は「金の匂いがするブログ」について以下のような意見を書いたことがあった。
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 

しつこく繰り返すが、私はブログや動画配信を使ってカネを儲けるなと言いたいのではない。そうではなく、「カネが欲しい」という欲求をどのように取り扱い・どこまで表現するのかに対し、もっと自覚的・戦略的であってもいいんじゃないの? デリカシーへの配慮があってもいいんじゃないの? と問いかけたいのだ。

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20151030/1446145200

 
 インターネットで金儲けをすること自体に異存はない。けれども「カネが欲しい」という欲求を他人にどこまで見せるのか・どう見せるのかは、デリカシーが問われるところであり、はしたない態度は長期的にみて得策ではない──だいたいそういう内容だったと思う。
 
 それから三年近い歳月が流れて、その間にインターネットやブログの世界は三年分変わった。それらを踏まえて、今だから書けることを書いてみる。
 
 

「マルチ商法まがいなブログが気に入らなかった」

 
 まず、あの記事を書いた動機の第一として、「マルチ商法まがいなブログが気に入らなかった」ことを白状しておく。
 
 当時のインターネット上では、「ブログで金儲けできる」という話がまことしやかに語られていた。そのことを証明するかのように、月刊PV○○万、月収○○万円といった数字を公表するブログが爆増していたと記憶している。そして「儲かるブログ運営のノウハウ」をあの手この手で売りつけようとする者が跳梁していた。
 
 彼らがブログをとおして金に言及するさまは、非常に無頓着で、無神経で、私の美意識からすれば最低の振る舞いだった。
 
 でも、それだけではなかった。儲かるブログ運営を売る側と、それを買い、お手本どおりにブログで金儲けをしようとする側、その構図が私にはマルチ商法まがいにみえた。マルチ商法"まがい"と書いたのは、私の知っているところのマルチ商法とまるっきりイコールと言い切る自信が無いからだ。ただ、情報源と下流ブログの位置関係、参加者が増え続けなければ破綻する利益構造、後になって参加してきた人々の危うげな振る舞いなどを眺めていると、構図としてマルチ商法に似ているとは感じた。
  
 あの「ブログで金儲け」では、情報源のブロガーはともかく、下流にはお金がたいして行き届かない。ましてや、プロブロガーが次々に誕生して、彼らに恒常的にお金が入ってくる構図など望むべくもない。結局、「ブログで金儲け」に後から参加してきた人々は、体の良い「養分」でしかないように見えたし、事実、養分となったのだろう。
 
 長年にわたってインターネット愛好家の裏庭だったはてなブログ界隈が、突如、フォロワーを集って養分にせんとする山師の一団に占拠されてしまったのは、当時の私にとって苛立たしいことであり、義憤を感じさせることだった。
 
 その義憤も所詮はエゴでしかなく、ブログは誰でも書けるし、誰でも書けるべきものだというのはわかっていた。それでも苛立ちが理解を上回った。だから私は「ブログで金儲け」な状況に嫌悪を表明しておきたかった。あくまで個人的な嫌悪だとしても、だ。
 
 

2018年。現実とシームレスなインターネット

 
 それから三年の月日が流れて、インターネットも私も変わった。
 
 案の定、「ブログで金儲け」は長続きしなかった。プロブロガーなるものを喧伝していた人々はほかの鉱脈へと移動し、遅れてやってきたフォロワー達のブログは軒並み潰れた。三年経ってもブログを辞めなかったのは、元からブロガーだった人々か、もっと気骨のある精神でブログをやっている人々か、プライベートな記録としてブログを楽しんでいる人々だった。
 
 しかし、インターネット全体でいえば、ここ十年でインターネットはますます金の匂いがするようになった。「ブログで金儲け」の連中が漂わせていた、あの品性下劣な振る舞いは目立たなくなったけれども、インターネットを介して金銭を得ることはカジュアルな行為になった。
 
 プロはともかく、副業としてブログや動画配信に手を出すのは珍しいことではない。ヤフオクやメルカリといった、オンラインで個人が金銭をやりとりするサービスはますます繁盛している。そうしたやりとりに対して、若い世代は開かれているようにもみえる。
 
 私自身の認識も、そうしたなかで変わっていった。
 
 このブログはgoogleアドセンスを貼り付けていないし、PVもぜんぜん大したことはない。それでも、書籍に関連したことを書けばなにかしら影響はあるだろうし、そうでなくても影響力を稼ぐという意味合いはゼロではないのである。ここに書いた「PVの金貨、銀貨、銅貨」という発想もその最たるものだ。
 
 インターネットに人がまばらで、オタクと研究者の遊び場だった時代は、インターネットで得られる影響力は金銭とは縁の遠いものだった。そこで得られた人間関係も、「ネットはネット、リアルはリアル」という括りを出るものではなかった。
 
 今は違う。インターネットで得られる影響力は、現実の金銭や影響力に近い。少なくとも、そういった可能性を無視できなくなり、そういった可能性を意識しながらインターネットで立ち振る舞う人が珍しくなくなった。
 
 これは、金銭目当てにブログや動画配信やnoteをやっている人だけの話ではない。フェイスブックやインスタグラムをやっている人々も、ソーシャルキャピタルを再生産するツールとして意識しているなら同じようなものだ。もし、現実の人間関係から逃避するためにフェイスブックやインスタグラムをやっている人がいるなら、その人は例外と言っていいかもしれないが。
 
 「ネットはネット、リアルはリアル」などという括りは、今日では通用しない。少なくとも、以前よりは通用しづらくなった。
 
 現在でも私は、ブログはまず自分自身が読み返すためのもの・自分自身の趣味のツールというスタンスを捨ててはいない。とりわけアニメやゲームやワインについての文章は、趣味性の結晶だ。
 
 だからといって、このブログが現実の金銭や影響力と無縁だと強弁することはもはやできない。
 
 2010年~2012年頃の、過去のインターネットと現在のインターネットの端境期の頃には、「趣味志向のブログライフ」を声高に叫ぶ余地があった。いや、インターネットが現実に吸収されつつある時期だったからこそ、従来のネットのありかたを推して、迫りくる現実に抵抗する余地があったかもしれない。
 
 しかし、インターネットがここまで現実とシームレスになった今、「趣味志向のブログライフ」を、こと私がシュプレヒコールしても、白けてしまうだろう。というか、私自身が白けてしまっている。時代が変わり、私の立ち位置も変わった。変化は、従容と受け入れるしかない。
 
 

美意識や美学は今も重要

 
 ただまあ、現実の金銭や影響力とここまでシームレスになったからこそ、金銭の稼ぎよう、影響力の稼ぎようの美意識や美学が今まで以上に問われるようになった、ともいえるかもしれない。
 
 金銭や影響力の誘惑は、ときに人間を狂わせ、堕落させる。それらを稼ごうと頑張っているうちに、身持ちが悪くなってしまう人・後に引けなくなってしまう人は、いまどき珍しくない。金銭や影響力がダイナミックに浮沈するインターネットに参加すれば、自分の欲望と向き合わなければならなくなる。
 
 そうしたなか、PCやスマホをたえず覗き込んでいる人というのは、金銭や影響力をたえず覗き込んでいるのか、それとも自分自身の欲望に憑りつかれて、自分自身の欲望に魅入られているのか、ちょっとわからない。ああ、ここまで書いてみると、自嘲せずにはいられなくなる、ここに書いたことは私にもそのまま当てはまるじゃないか!
 
 それでも、社会的体裁には相応の意味があるのだから、お下劣に稼ぐのか否かは個々のプレイヤーがよく考えて、戦略にあわせて整形しておくべきポイントだとは思う。自分が稼ぎたいもの・稼ぎやすい方法にあわせて、インターネットの美意識や美学を調整しろ──そういう発想があるのと無いのでは、やっぱりどこか違ってくるんじゃないかなぁ、というのがブログ歴13年の人間としての所感です。
 
 

そもそも、現代人のライフコース自体が生殖に向いていない。

 
anond.hatelabo.jp
 
 リンク先の記事は、女性医師のライフコースの困難さを書きだしている。
 
 以前から、キャリアと子育ての板挟みに悩む女性医師は少なくなかったが、いまの医師研修制度によっていよいよ厳しくなっている話は、もっと知られてもいいように思う。
 
 その一方で、この話は女性医師だけに限らず、働く女性全般、いや、男性も含めたキャリア志向の現代人の大半に適用できる話として読みたくもなった。
 
 ここ十数年ぐらいの日本では、仕事に打ち込み続けるうちに、結婚や子育てのタイミングを逃してしまう女性が後を絶たなかった。そうでなくても、出産や子育てに踏み切ったことによってキャリアが中断してしまった女性や、職場に迷惑をかけていないか気にしている女性が少なくなかった。
 
 少子化がさけばれる昨今は、男性も育児休暇を取れるようになった。もちろんそれ自体は喜ばしいことだが、育児休暇を取る男性にしても、職場を休む際には申し訳ない気持ちが湧くことがしばしばあるように思う。従業員が子育てのために順番に休暇を取ることを当然のサイクルとして設計されている職場は、まだまだ少ないのが実情だ。
 
 こうした現実を振り返るに、私は思わずにいられない。
 
 そもそも、現代人のライフコース自体が生殖に向いていないのではないか。
 
 結婚。出産。子育て。
 
 こういった、生殖にダイレクトに関わる諸々が非常に難しくなっているからこそ少子化には歯止めがかからず、ちょっと大げさな言い方をすると、日本人は絶滅の危機に瀕しているのではないだろうか。
 
 このあたりについて、今の私が疑問に思っていることを少し書いてみる。
 
 

ブルジュワ化していった意識と働き方

 
 さきほどから私は、現代人という言葉を使っている。
 
 ここでいう現代人とは、できるだけ良い学校に入り、できるだけ良い収入や地位を目指すことを良しとする人々のことだ。因襲や宗教よりも社会契約や合理主義を重んじ、勤勉で、仕事をサボることを良しとしない。たとえば21世紀の東京で働いている人のほとんどは、この現代人に該当すると考えて差支えない。
 
 現代人のルーツは、近世以前の第三身分、ブルジュワジーに由来する。
 
 資本家や医師や法律家といった人々、今でいえば高級ホワイトカラーに相当する人々は、近世の頃から高学歴志向・キャリア志向のライフコースを採っていた。彼らは社会契約のロジックにも忠実で、勤勉に働いた。現代人の基準からみれば当たり前に思えるかもしれないが、これらは近世以前の人間のテンプレートではない*1
 
 

「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)

「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)

 
 日本では、そうしたブルジュワ然としたライフコースを採る人が戦前から増え続けてきた。
 
 ホワイトカラーの卵である大卒者は、明治時代にはスーパーエリートだったが、大正~昭和初期にかけてどんどん増え続けた。急激な近現代化を支えるためにはたくさんのホワイトカラーが必要で、高学歴者を生み出すシステムが整備されていった。と同時に、ホワイトカラーならではの文化や意識が社会の主流に、あるいはテンプレートになっていった。
 
 とはいえ、こうした変化が本格化したのは戦後のことだ。
 


 (出典:平成26年度学校基本調査、文部科学省、より)

 
 この、右肩あがりの進学率が示しているように、大卒はエリートでもなんでもなくなった。できるだけ良い学校に入り、できるだけ良い収入や地位を目指す意識は、資本家や医師や法律家の専売特許ではなくなった。どこの家庭も「自分の子どもには高学歴・高収入になってもらいたい」と願うようになり、受験戦争が白熱するようになった。
 
 昭和の終わりに、「一億総中流」という言葉が流行したことがある。「一億総中流」とは、みんなが中流の年収を得るようになったという意味ではない。みんなが中流意識を持つようになったこと、つまり、ホワイトカラー的・ブルジュワ的な意識が社会に行き渡ったことを指した言葉が「一億総中流」だった。
 
 ホワイトカラーが典型的な職業とみなされるようになり、女性に関しても、高学歴・高収入を目指す「働く女性」が当たり前とみなされるようになった。そうした意識の変化と経済成長がマッチしたのが、バブル景気崩壊までの日本社会だったのだろう。
 
 

経済資本・人的資本まではブルジュワ化できなかった

 
 しかし、意識や働き方がブルジュワ化したからといって、なにもかも戦前のブルジュワと同じになったわけではなかった。
 
 かつてブルジュワと呼ばれた人々は上昇志向で勤勉だっただけでなく、経済資本に恵まれ、人を使える立場だった。
 
 仕事熱心なブルジュワの実生活を支えていたのは、使用人や家政婦のたぐいだ。子育ての領域でも、乳母・教育係・寄宿学校といったさまざまなリソースを利用できたからこそ、ブルジュワは自分自身のキャリアに集中できていた。
 
 ブルジュワの意識と実生活の背景に、「生活のことなんて考えなくても構わない」「子育てもアウトソースして構わない」があったことは、現代人の意識と実生活を考えるうえで忘れてはならないものだと私は思う。
 
 さきに述べたとおり、日本社会ではブルジュワ的な意識や働き方が庶民にどんどん広まっていった。ところが、ブルジュワ化した庶民の生活を支えるための使用人や家政婦が増えたわけではなかった。乳母・教育係・寄宿学校といったリソースは高嶺の花であり続けた。
 
 ブルジュワ化した庶民は、ブルジュワのように意識してブルジュワのように働くけれども、実生活や子育てを他人任せにできるほどの経済資本や人的資本を授けられなかったのである。
 
 その結果、「ブルジュワのように意識し、ブルジュワのように働くけれども、実生活や子育てを自分でやらなければならない人々」がものすごい勢いで増えた。
 
 はじめ、この問題は「専業主婦」というシステムで一応の解決をみた。戦後しばらくの間は、国が専業主婦というシステムを後押しするかたちで、夫がブルジュワ的に働き、妻が乳母や家政婦の役割を担う分業が広く採られた。『サザエさん』や『ドラえもん』を見ると、当時の家庭のテンプレートをうかがい知ることができる。
 
 現代から見た専業主婦システムは、家父長的な、問題のあるシステムとみなされようし、実際、母親に偏重した子育ては、マザーコンプレックスをはじめとする家族病理を引き起こした。
 
 それでも、父親一人の収入で家族が賄えた頃は、専業主婦システムはひとつの解決法たりえた。急速に普及した家電製品も母親の助けになったし、平成にさしかかる頃にはレトルト食品やコンビニなども利用できるようになった。配偶者の片方だけで十分な収入が選られて、家族病理を回避する素地があるなら、専業主婦/専業主夫による分業システムは現在でも十分通用する。
 
 ところがバブル景気が崩壊してからの日本では、片方が働いて片方が養う……という分業が成立しにくくなってしまった。
 
 ブルジュワ的な意識や働き方はますます庶民に広がっていったのに、それにみあった年収はますます庶民から遠のいていった。末広がりなブルジョワの裾野に位置している人々は、勤勉に働いているにも関わらず、使用人ひとりも雇えない。それどころか、夫婦二人で食っていくのに精一杯という人や、結婚なんて経済的にとんでもないという人すら珍しくなくなっている。
 
 生活面では、家電製品やレトルト食品やサービス業の進歩によってカヴァーできていると言えるかもしれないが、生殖、子育ての領域はこの限りではない。保育所だけではカヴァーできない部分はまだまだあるし、その頼みの綱の保育所ですら、待機児童問題を呈して順番待ちのありさまである。のみならず、ブルジュワ的な意識においては、子どもには上昇志向な教育をカネをかけてほどこすのが当然とみなされているから、ただ子どもを食わせるだけでは駄目なのである。
 
 だから、ブルジュワ的な意識をじゅうぶんに内面化した現代人は、子育てにカネがかけられる見込みがない限り結婚したがらないし出産したがらない。「貧乏の子だくさん」などという事態を、ブルジュワ的な現代人は選ぼうとしない。それは、男も女も同じである。
 
 庶民がみんながブルジュワ化し、それでも生活や生殖が破綻しないようにするためには、本当は、生活や生殖を支えるための経済資本や人的資本が必要だったはずなのだ。
 
 だが、実際にブルジュワ化したのは意識や働き方ばかりで、在りし日のブルジュワ“階級”のような、豊かな経済資本や人的資本は望むべくもない。そうした理想と現実のはざまを専業主婦システムで間に合わせていた時代もあったが、バブル景気崩壊後の日本、とりわけ東京ではそれが困難になってしまった。
 
 もちろんこれは、日本や東京に限った話とは言えない。ソウルや台北の出生率を確かめてみればいい。あるいは、アメリカのネイティブの出生率を見てみればいい。程度の差こそあれ、これは、庶民のブルジュワ化が進んでいく先進国にあって、わりと普遍的な現象のようにみえる。
 
 

生殖という観点からブルジュワを批判する

 
 大昔の、本家本筋のブルジュワが乳母や使用人を雇うことができたのは、国内の階級による格差や、宗主国と植民地との格差が存在していたからだ。だが、途上国に追いつかれ、追い越される日本において、在りし日のブルジュワの特権を庶民すべてに授けるなど不可能である。
 
 近代から現代にかけて、日本人は、いや世界じゅうの人々は、ひたすら総ブルジュワ化の道を歩み、みんなが高学歴を志向して、みんなが勤勉に働くようになった。それは自体は良かったのだろう。
 
 他方で、意識と働き方ばかりブルジュワ化して、その生活と生殖を支えるためのバックボーンを授けられなかった(それどころか、バックボーンを失う一方の)人々に、やれ、子どもをつくりなさい、世代を再生産しなさい、と迫るのは厳しいことだと思う。その厳しいことを、日本は、いや先進的な国々の大半は、あの手この手で誤魔化しながらやり過ごしてきた。だけれど、とうとうやり過ごしきれなくなったから、みんな生殖を後回しにするようになった。それは仕方のないことだと私は思う。
 
 冒頭の女性医師などが典型だが、現代人のライフコースは、みずから生活や子育てを実践していくことを前提につくられていない。あくまでブルジュワ的に働き、ブルジュワ的に「稼ぐ」ことが前提になっていて、社会も個人の内面もそのようにつくられてしまっている。これまではそれで良かったのかもしれないが、これからもそれで良いのだろうか?
 
 「ブルジュワの打倒」と書くとマルクス的に聞こえるかもしれないけれども、生殖という観点からみても、ブルジュワは、打倒すべき対象ではないだろうか。今のところ私は、生殖という観点からブルジュワの理想と現実について批判している論説を見たことがない。もし、この散文を読んで「そういう論説なら、以前に読んだことがあるよ」という人がいたら、是非紹介して欲しい。今の世の中を理解するためには、そういう視点も必要な気がしてならないからだ。
 
 

*1:途上国の片田舎には、こうした現代人らしさの乏しい人が今でも残っている

hagexさんの件について

「ネット上で恨んでいた」 福岡のIT講師刺殺容疑者:朝日新聞デジタル
 
 
 今朝起きたら、hagexさんが殺害されたという報せが入っていて、にわかには信じられなかった。 
 
 出来事の背景・目撃情報・この件に関連したインターネットについての意見などは、もう色々な人が書いてくれているので、以下にリンクを貼りつけるにとどめる。
 
hagex氏のこと - Everything you've ever Dreamed

友人が殺された。(2,799字):ハックルベリーに会いに行く:ハックルベリーに会いに行く(岩崎夏海) - ニコニコチャンネル:社会・言論
 
hagexさん以外考えられない。 - はてこはときどき外に出る

古来からのネット作法に総括を迫られているのかもしれない - 日毎に敵と懶惰に戦う

「ネットウォッチャー」Hagex氏の訃報に際して | @raf00
 
やまもといちろう 公式ブログ - Hagexに王様はいなかった - Powered by LINE
 
 こうやって並べ、そこについたはてなブックマークのコメントを観るにつけても、多くの人が関心を持つ、顔の広い方だったことがうかがわれた。
 
 私も、先日の借金玉さんのトークイベントの数日前にメールをいただいて、会場で会いましょうということになった。「hagex」というハンドルネームのイメージとはちょっと違った、理知的で礼儀正しい、リアルでも人をよく見ている人の雰囲気を漂わせた人だった。はてな村周辺やイベントについて色々と話し合った。
 
 「またいずれ会いましょう」と言葉を交わしたのが最後になってしまうとは思ってもいなかった。
 
 スラリとした背筋で、黄色っぽい帽子を被って帰途につくhagexさんの後姿を、私は決して忘れられなくなった。
 
 この件の背景については、いろいろと考えたいことがあるし、同世代のインターネット愛好家の一人として、いろいろ考えなければならないのだと思う。
 
 だけどそういうのは後にして、今はhagexさんの死を悼むほかない。インターネットが繋いだ縁とはいえ、知っている人が亡くなるのは堪えることだ。悲しい。許し難い。もっとずっとインターネットの生き証人であり続けて欲しかった。
 
 hagexさんのご冥福をお祈りします。
 
 

『艦これ』のノウハウは『FGO』にも通用した

 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 先月、『Fate Grand Order』にドハマリしてゴールデンウィークを溶かしたことを告白したところ、以下のような心温まるコメントをはてなブックマークでいただいた。
 

FGOでゴールデンウィークが溶けた - シロクマの屑籠

6章で同じことが言えるだろうかと思うとニヤニヤする

2018/05/05 15:58
b.hatena.ne.jp
FGOでゴールデンウィークが溶けた - シロクマの屑籠

ようこそいらっしゃいました。そして6章でブチ切れエントリが書かれるのをお待ちしております。

2018/05/05 21:03
b.hatena.ne.jp
 
 第六章が難関らしく、そこで苦しむのを期待しているらしい。 
 
 だが、私は『艦これ』の"甲提督"である。
 

 
 2015年の冬以降、最高難易度でイベントをクリアすると貰える甲種勲章を集め続けてきた。このノウハウで『FGO』に挑めば問題などあるまい。『艦これ』をやっていないプレイヤーから「第六章で苦しみなさい」と言われると反骨精神が湧いて来るわけで、むしょうに突破したくなった。
 
 
 
 で、実際に第六章をやってみると……。
 

 
 
 確かに敵が強い! このガウェイン、やたら宝具を撃ってくるうえ、堅くて堅くてどうしようもない。ここで令呪を使わされて、もっとサーヴァントを強くしなければ詰まってしまう、という気持ちになった。
 
 だが、育成なら『艦これ』で慣れている。
 
・毎日かならずログインすること。
・ウイークリーのクエストは確実にこなすこと。
・wikiのたぐいをよく読むこと。
・漫然とサーヴァントを育成せず、今、必要なことと不必要なことをしっかり区別すること。
 
 『FGO』は、サーヴァントを手に入れる段階はガチャの運次第だけど、サーヴァントを手に入れた後の采配はプレイヤーに完全に任されている。しかも、『艦これ』と違って戦闘の采配もプレイヤーに任されているから、プレイヤーの采配とマネジメントが一層重要なゲームのようにみえる。
 
 始めてすぐに孔明を召喚できたものの、そこで運を使い果たしたらしく、それからのガチャはさんざんで、結局、★3~★4のサーヴァントを育てることになった。ところが、育成に手間暇のかかる★5が孔明だけだったおかげで、短時間に働き者のサーヴァントがどしどし育ってくれた。
 
 

 
 
 無課金にも等しいパーティーだけれど、戦えないわけじゃない。
 で、彼らと旅するストーリーは、第六章以降、どんどん面白くなっていった。
 
 

 
 
 よどみない中二病的テキストの数々に、胸が高鳴ってしようがない。00年代以前のエロゲーのテキストを思い出させる冗長さは、クラシックな日本語として上手いとは言えない。『FGO』のテキストの巧さは、たとえば日本語ネイティブではない人に伝わるとは考えにくいし、団塊世代の小説愛好家からみれば『FGO』のテキストはそびえたつクソの山とうつるかもしれない。
 
 けれども、『FGO』のテキストは90年代後半~00年代の、オタク界隈で勃興した文芸的なフレーバーをはっきりと継承していて、その頃に思春期を過ごした身にはたまらなかった。エロゲ―やライトノベル、そしてweb小説に至るまで、この手の、やや誇張的で冗長な表現は幅広くみられたものだけれども、『FGO』のソレは商業的に成功した典型例のひとつとして記憶されるのではないかと思う。
 
 

 
 
 そうやって文章を楽しんでいるうちに、6月の新イベントが始まった。このイベント、参加するには第一部最終章まで突破していなければならず、このあたりは誰でも参加できる『艦これ』のイベントより厳しいと感じた。
 
 しかし、育てたサーヴァント達はよく戦ってくれて、第一部最終章を突破してイベントに間に合わせることができた。以下のスクリーンショットはその証明書だ。
 
 

 
 
 ゲーム開始から二か月ちょっとでイベントに間に合ったのも、ひとえに『艦これ』で養ったノウハウがあったからに他ならない。もっと言うと、00年代のネトゲ時代に染みついた「プレイヤーのプレイ時間あたりの時給効率を最適化せよ」という習慣に忠実だったおかげとも言える。
 
 効率最適化の習慣は、ゲームだけに通用するものでもあるまい。『艦これ』のノウハウは『FGO』にも通じているし、きっと実生活にも通じている。効率性を追求したほうが良いところはきちんと追求して、ゲームライフも実生活もうまくこなしていきたい。