シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

hagexさんの件について

「ネット上で恨んでいた」 福岡のIT講師刺殺容疑者:朝日新聞デジタル
 
 
 今朝起きたら、hagexさんが殺害されたという報せが入っていて、にわかには信じられなかった。 
 
 出来事の背景・目撃情報・この件に関連したインターネットについての意見などは、もう色々な人が書いてくれているので、以下にリンクを貼りつけるにとどめる。
 
hagex氏のこと - Everything you've ever Dreamed

友人が殺された。(2,799字):ハックルベリーに会いに行く:ハックルベリーに会いに行く(岩崎夏海) - ニコニコチャンネル:社会・言論
 
hagexさん以外考えられない。 - はてこはときどき外に出る

古来からのネット作法に総括を迫られているのかもしれない - 日毎に敵と懶惰に戦う

「ネットウォッチャー」Hagex氏の訃報に際して | @raf00
 
やまもといちろう 公式ブログ - Hagexに王様はいなかった - Powered by LINE
 
 こうやって並べ、そこについたはてなブックマークのコメントを観るにつけても、多くの人が関心を持つ、顔の広い方だったことがうかがわれた。
 
 私も、先日の借金玉さんのトークイベントの数日前にメールをいただいて、会場で会いましょうということになった。「hagex」というハンドルネームのイメージとはちょっと違った、理知的で礼儀正しい、リアルでも人をよく見ている人の雰囲気を漂わせた人だった。はてな村周辺やイベントについて色々と話し合った。
 
 「またいずれ会いましょう」と言葉を交わしたのが最後になってしまうとは思ってもいなかった。
 
 スラリとした背筋で、黄色っぽい帽子を被って帰途につくhagexさんの後姿を、私は決して忘れられなくなった。
 
 この件の背景については、いろいろと考えたいことがあるし、同世代のインターネット愛好家の一人として、いろいろ考えなければならないのだと思う。
 
 だけどそういうのは後にして、今はhagexさんの死を悼むほかない。インターネットが繋いだ縁とはいえ、知っている人が亡くなるのは堪えることだ。悲しい。許し難い。もっとずっとインターネットの生き証人であり続けて欲しかった。
 
 hagexさんのご冥福をお祈りします。
 
 

『艦これ』のノウハウは『FGO』にも通用した

 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 先月、『Fate Grand Order』にドハマリしてゴールデンウィークを溶かしたことを告白したところ、以下のような心温まるコメントをはてなブックマークでいただいた。
 

FGOでゴールデンウィークが溶けた - シロクマの屑籠

6章で同じことが言えるだろうかと思うとニヤニヤする

2018/05/05 15:58
b.hatena.ne.jp
FGOでゴールデンウィークが溶けた - シロクマの屑籠

ようこそいらっしゃいました。そして6章でブチ切れエントリが書かれるのをお待ちしております。

2018/05/05 21:03
b.hatena.ne.jp
 
 第六章が難関らしく、そこで苦しむのを期待しているらしい。 
 
 だが、私は『艦これ』の"甲提督"である。
 

 
 2015年の冬以降、最高難易度でイベントをクリアすると貰える甲種勲章を集め続けてきた。このノウハウで『FGO』に挑めば問題などあるまい。『艦これ』をやっていないプレイヤーから「第六章で苦しみなさい」と言われると反骨精神が湧いて来るわけで、むしょうに突破したくなった。
 
 
 
 で、実際に第六章をやってみると……。
 

 
 
 確かに敵が強い! このガウェイン、やたら宝具を撃ってくるうえ、堅くて堅くてどうしようもない。ここで令呪を使わされて、もっとサーヴァントを強くしなければ詰まってしまう、という気持ちになった。
 
 だが、育成なら『艦これ』で慣れている。
 
・毎日かならずログインすること。
・ウイークリーのクエストは確実にこなすこと。
・wikiのたぐいをよく読むこと。
・漫然とサーヴァントを育成せず、今、必要なことと不必要なことをしっかり区別すること。
 
 『FGO』は、サーヴァントを手に入れる段階はガチャの運次第だけど、サーヴァントを手に入れた後の采配はプレイヤーに完全に任されている。しかも、『艦これ』と違って戦闘の采配もプレイヤーに任されているから、プレイヤーの采配とマネジメントが一層重要なゲームのようにみえる。
 
 始めてすぐに孔明を召喚できたものの、そこで運を使い果たしたらしく、それからのガチャはさんざんで、結局、★3~★4のサーヴァントを育てることになった。ところが、育成に手間暇のかかる★5が孔明だけだったおかげで、短時間に働き者のサーヴァントがどしどし育ってくれた。
 
 

 
 
 無課金にも等しいパーティーだけれど、戦えないわけじゃない。
 で、彼らと旅するストーリーは、第六章以降、どんどん面白くなっていった。
 
 

 
 
 よどみない中二病的テキストの数々に、胸が高鳴ってしようがない。00年代以前のエロゲーのテキストを思い出させる冗長さは、クラシックな日本語として上手いとは言えない。『FGO』のテキストの巧さは、たとえば日本語ネイティブではない人に伝わるとは考えにくいし、団塊世代の小説愛好家からみれば『FGO』のテキストはそびえたつクソの山とうつるかもしれない。
 
 けれども、『FGO』のテキストは90年代後半~00年代の、オタク界隈で勃興した文芸的なフレーバーをはっきりと継承していて、その頃に思春期を過ごした身にはたまらなかった。エロゲ―やライトノベル、そしてweb小説に至るまで、この手の、やや誇張的で冗長な表現は幅広くみられたものだけれども、『FGO』のソレは商業的に成功した典型例のひとつとして記憶されるのではないかと思う。
 
 

 
 
 そうやって文章を楽しんでいるうちに、6月の新イベントが始まった。このイベント、参加するには第一部最終章まで突破していなければならず、このあたりは誰でも参加できる『艦これ』のイベントより厳しいと感じた。
 
 しかし、育てたサーヴァント達はよく戦ってくれて、第一部最終章を突破してイベントに間に合わせることができた。以下のスクリーンショットはその証明書だ。
 
 

 
 
 ゲーム開始から二か月ちょっとでイベントに間に合ったのも、ひとえに『艦これ』で養ったノウハウがあったからに他ならない。もっと言うと、00年代のネトゲ時代に染みついた「プレイヤーのプレイ時間あたりの時給効率を最適化せよ」という習慣に忠実だったおかげとも言える。
 
 効率最適化の習慣は、ゲームだけに通用するものでもあるまい。『艦これ』のノウハウは『FGO』にも通じているし、きっと実生活にも通じている。効率性を追求したほうが良いところはきちんと追求して、ゲームライフも実生活もうまくこなしていきたい。
 

なし崩しの人生を恥じる必要はない

 
www.pasonacareer.jp
 
 
 リンク先では「キャリアなんて後から勝手にできあがってくるものだから、やりたい仕事がわからなくてもいいじゃない」的なことを書きましたが、ここは私のブログなので、もうちょっと私自身のことを書いてみます。
  
 リンク先でも書いたとおり、私の精神科医としてのキャリアは精神薬理学からスタートしました。薬の効果や代謝機序を片っ端から覚えて、仕事のなかでそれらを確認するのはやり甲斐のあることで、患者さんの治療成績にも直結していたこともあって真剣にやっていました。
 
 当時の私がぼんやり思い描いていた精神科医としてのキャリアは、たぶん、そういうオーソドックスなものだったと思います。
 
 しかし、紆余曲折を経るうちに私は精神分析や社会心理学に惹かれるようになり、と同時に、書籍を書くチャンスが巡ってきました。私と同じぐらいの年齢で、私のようなスタイルでブログをやっている精神科医が他に存在しないこと*1、私が娑婆について書き記したいことと同じことをやっている精神科医が周りに見当たらないことから、私は、私の行く道を行くことにしました。今の私は、精神医学~精神分析~社会心理学~社会学の境界線あたりの、モヤモヤっとしたところをライフワークにしているつもりです。
 
 「ライフワークにしているつもり」と書くと能動的にみえるかもしれませんが、この気持ちとて、はじめから持っていたわけではありません。十数年の歳月を経ていつの間にかできあがった、成り行きの産物でしかありません。
 
 もちろん、精神薬理学時代もそれなりインターネットはやっていましたし、斎藤環さんのようなユニークなことをやっている先輩精神科医に憧れてもいました。それでも、まさか自分がブロガーを十数年も続け、何冊も本を書くことになるとは想像していませんでした。
 
 こうした自分の来歴を思うにつけても、キャリアは前に向かって展望するより、事後的に、いつの間にか、自分が歩いた足跡としてできあがっていくものだと思わずにいられないわけです。
 
 

たぶん、人生も事後的に、足跡としてできあがっていく

 
 ここまでは仕事の話でしたが、人生も、だいたい同じだと思います。
 
 学生時代に思い描いたとおりの人生をおくる人なんてまずいません。結婚すると思っていなかった人が結婚し、結婚するつもりでいた人が結婚しないなんてことも人生ではザラにあります。「人生、一寸先は闇」といいますが、良いことも悪いことも本当に予測がつかず、思うにままなりません。
 
 むろん世の中には、順風満帆、ストレートな人生を歩んでいるように"みえる"人もいます。若い頃からプロの世界に飛び込み、活躍している人などはその典型と言えます。しかし、そういう人生を歩む人でさえ、他人に見えないところで「雑巾がけ」をこなしていたり、関わりたくもないことにも関わったりしながら、案外、くねくねとした人生を歩んでいるのが実情ではないでしょうか。
 
 なし崩しの、くねくねとした人生を恥じる必要はありません。というより、なし崩しでない人生なんて、この世のどこに存在するのでしょう? 計画どおりの人生なんて机上の空論にすぎず、ほとんどの人間はなし崩しに生きて、なし崩しに死にます。もし、そのことをもって悪い人生と言ってしまったら、ほとんどの人生が悪い人生ということになってしまいます。
 
 私は、人生を自分の思い通りに進めるかどうか、計画どおりか否かで人生の良し悪しをはかるのはナンセンスだと思っています。そんなことより、曲がりくねった自分の足跡をどう肯定していけるか、あるいはせめて否定せずにいられるかに心を砕く、あるいはそのための方法論を磨き上げるほうがいいんじゃないでしょうか。
 
 自分の足跡を肯定し、やたら否定しないための方法論はとうてい書き尽くせるものではありません。この問題には色々な要素が絡み、個人の努力だけでは追いつかない要素を含んでいることも認めなければなりません。それでも、おそらく確からしいことがひとつあります。
 
 それは、自分の人生の許容範囲を狭く取るより広く取ったほうが、自分の足跡は肯定しやすい、ということです。
 
 自分の人生を許容範囲を狭く取るとは、たとえば、「一流企業に入社して、30歳までに結婚して、子どもをもうけて、夫婦仲も良くなければ駄目な人生」みたいな人生の捉え方を指します。このような人は、一流企業に入社できなくても、30歳までに結婚できなくても、不妊に遭遇しても、離婚しても、人生を否定的に捉えてしまうことになってしまいます。
 
 それに比べれば、特別なポリシーを持つことなく、なし崩しを前提に生きている人のほうが、自己否定に陥らない生き方の範囲が広く、まだしも自分の足跡を肯定しやすいのではないでしょうか。
 
 誤解されたくないので断っておきますが、志を持つな・意識の高い人生を目指すなと言いたいわけではありません。志を持つのは素晴らしいことですし、意識が高い時には意識の高い人生を突っ走ってみるのもいいでしょう。また、未来に対してある程度の計画性や展望を持つことも否定されるべきではないとは思います。
 
 それでも、志を持つことと、実際に起こるであろうなし崩しの人生を肯定することとは、けして両立しないわけではありません。計画性や展望を持つことと、人生の許容範囲を広く取ることも、必ずしも両立しないわけではありません。だからその、ぐねぐねと生きる性根って渡世の技法として意外と大切だよね、というのが今日の私の意見(らしきもの)です。
 
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 
 

*1:ちなみに、他のスタイルでブログやウェブサイトをやっている同世代の精神科医なら存在していました

『GODZILLA 決戦機動増殖都市』誰得かわからないながら楽しみました。

 
 ※この文章はネタバレを含みます。見たくない人は先を読まないようにしてください。
 
 

 
 
 先日、平日の遅い時間に『GODZILLA 決戦機動増殖都市』を観に行った。館内は人気がまばらだったが、上映期間もじきに終わりだろうから、観るべき人はあらかた観ているのだろう。
 
 "誰得"なのかいまひとつはっきりしない映画だった。
 
 ゴジラはいる。前回のストーリーを引き継いでもいる。公開前から宣伝していた「メカゴジラ」もいるにはいた。そして『シドニアの騎士』以来の美しいグラフィックと、鋭角的な機動をみせるメカもあった。"目の焦点の合っていないヒロインを描かせたら天下一品"な脚本家にふさわしいシーンもあって、私としては「幕の内弁当的なアニメ映画」という風に取れなくもなかったし、事実、私は楽しんだ。
 
 逆に言えば、幕の内弁当的なアニメ映画でしかなかった、ともいえるかもしれない。
 
 短い尺にあれこれ詰め込み過ぎたせいか、ゴジラが思いっきりゴジラしているとも感じられず、種族間の価値観の違いについての描写もとってつけたようなところがあるというか、「こんなにフラグ管理の甘い対立に、みんな納得ずくでついていけるのか?」と心配になった。メカコジラに至っては、メカコジラがその威容をあらわしてくれるのかと思いきや、増殖都市として、兵器の塊として稼働し続けるばかり。この第二部、メカコジラが出て来るのを期待して観に行った人も多いだろうに、大丈夫なのか、これ。
 
 他方で、自分はかなり楽しめていた。前作も含め、このアニメ版のゴジラには、大量のプロットや情報を無理矢理に映画の尺に詰め込んで、それがためにシーンが飛び石のように滑っていくところがある。だから私は、「この作品は、シーンの描写もフラグ管理も飛び石状だから、そのつもりで見よう」と割りきった。しかしその速度に万人が楽しめるような器用さが伴っていなかったのは、残念なことではある。
 
 それに、たまたま私はアニメ版『シドニアの騎士』が好きで好きでしようがなかったので、このアニメ版『GODZILLA』を、なかば『アニメ版シドニアの騎士ver2』的な位置づけで眺めていた。機銃掃射、推進剤、メカメカしい描写などは『シドニア』から更に進化していて、見応えがあった。
 
 でも、『GODZILLA』を観に行った人が皆、私のような『シドニア』ファンだったとは思えないし、機銃掃射や推進剤の瞬きにうっとりしていたとも思えない。たぶん、ものすごく人を選ぶ作品になってしまったと思う。
 
 私としては、私が好みのフレーバーをぶちまけた作品を大スクリーンで見られるのは、それはそれで嬉しかったし、館内が混雑していなかったおかげですこぶる快適でもあった。そのうえ、世間的にはウケがあまり良くなさそうな作品を自分は楽しめたってのは背徳感があり、そういう意味でもお得だった。とはいえ、この『GODZILLA』だってひとつの興行なのだから、もっと売れなければ困る人がいるはずだし、「こんなはずじゃなかった」と思って映画館を後にした人がたくさんいてもまずかろう。そのあたり、ギドラが出て来る第三部ではどうなるんだろうか。とりあえず私は、自分好みのフレーバー満載なので最後まで観に行きます。
 
 

年下のオタが「俺らはおっさんだー!」と叫ぶのを見てグラグラした

 
 先日、自分よりも一回り年下の人々、年齢にしてアラサーぐらいとおぼしき人々が「俺らはおっさんだー!!」と叫んでいる場所に飛び込んで、ちょっとグラグラすることがあった。
 
 
 1.
 
 都内で編集者さんと打ち合わせをした後の午後九時、私はそこにいた。
 
 店内には“古き良き”20世紀のゲームや漫画のポスター、関連グッズなどが飾られ、ゲームBGMやアニソンが大音量で流れていた。大きな投影型スクリーンには、DJの選んだものであろう、アニメやゲームの映像が浮かび上がっている。その空間で人々は酒を飲み、煙草を喫し、リズムを楽しみ、語らいに耽っているのだった。
 
 知人が言うには、今日は客層が若い部類なのだという。「普段は平均年齢がもっとあがって、40代になりますよ」「ここは、懐かしいコンテンツの場所ですから」──彼の話を聞きながら店内を眺め直してみると、確かに、ほぼ全員がアラサーぐらいにみえる。酒に対する態度をみるにつけても、自分より一回りぐらい若々しい。自分はもう、あんなにアガった酒の飲み方を数年以上やっていない。これから先、未来永劫やらないかもしれない。
 
 コロナビールを飲みながらボンヤリと投影型スクリーンを眺めていると、気が遠くなるような幸福感に包まれて、ああ、こういう場所もいいものだなと思った。『Air』『水月』『Fate Stay/Night』といった遠い昔のエロゲ―が現れることもあれば、『この素晴らしい世界に祝福を!』『けものフレンズ』『りゅうおうのおしごと!』といった最近のアニメが現れることもある。映像が切り替わる際に、「萌える」というタイトルを見た気がした。なるほど、「萌える」か。だから今、幸福感に包まれているのか。
 
 「萌える」という言葉は、少なくともパソコン通信時代から存在し、2010年頃までにピークをこえて、最近はあまり見かけなくなった。
 
 [関連]:弛緩した「萌え〜」からは、萌えオタ達の複雑で必死な心情が伝わってこない - シロクマの屑籠
 [関連]:オタクとサブカルチャー関連のテキスト――汎用適応技術研究
 
 
 ゲーム。アニメ。ライトノベル。
 
 そういったジャンルの垣根とは無関係に、「萌える」という言葉が使われていた一時代があった。そして今、眼前に映し出されている映像も、鳴り響くゲーム音楽やアニソンも、「萌える」というキーワードで取り揃えられていて、それがコロナビールとともに五臓六腑に染み渡っていく。どうやら今宵のDJは、2010年代のコンテンツも含め、「萌える」という言葉がよく似合うセレクトを心がけているようだった。
 
 
 2.
 
 ビールのおかわりを受け取っている時、唐突に大きな歓声があがった。往年のエロゲ―『君が望む永遠』や『CROSS†CHANNEL 』、さらに『らき☆すた』や『けいおん!』といった、懐かしのメドレーに重なる、幾つかの野太い声。甲高い声。
 
 「俺らはおっさんだー!!」
 「おっさんマジサイコー!!」
 
 
 そのとき、世界がぐらりと揺らいだ気がした。お店にたゆたう私よりも一回り若い人々が、懐かしのコンテンツを眺めながら意気投合し、拳をあげて、祝杯をあげている。
 
 そのことに私は驚き、驚くのをやめるのに数秒かかった。
 
 私は自分が中年になっていることはよく理解していたけれども、自分より一回り若い世代が中年を名乗っているのを見たことがなかった。いや、ネット上で30歳ぐらいのアカウントがおっさんを自称しているのはまったく珍しくない。けれどもネットではない場所で、年下の人々、それも一人や二人ではなく十数人もの人々がまとまっておっさんを名乗っているのを見るのは初めてだった。
 
 自分より肌つやが良く、相対的に若い酒の飲み方をしている人々が、おっさんを自称しあって、アガっているのである。
 
 それともうひとつ。彼らが「萌える」コンテンツに懐かしさを感じていることに私はうろたえていた。誰にだって歴史はあるし、思い出もある。それは当たり前のことで、本来なら驚くに値しないことなのだけれど、年下の人々が「萌える」コンテンツを懐かしのコンテンツとして受け取っていることに、私は時の流れを感じ、うろたえてしまったのだと思う。
 
 急にアルコールが回ったような気がした。
 
 普段はワインやリキュールを飲んでいる私にとって、コロナビールのアルコール度数などたかがしれているはずなのに。
 
 ああ、そりゃあ俺も中年になるわけだ、とも思った。自分より十歳は若い人々が、おっさんを自称しあいながら、「萌える」コンテンツを懐かしみ、歳月を思い返す時代がやってきたのだ。きっと私は、この感慨をこれから何度も何十度も反芻しながら生きていくのだろう。自分自身を見つめていなくとも、年下の人々の変化を見つめていれば歳月は実感できる。いつかは、自分より年下がおっさんを名乗ったりおばさんを名乗ったりする日が来る。そんな当たり前のことでも、知識として知るのと眼前の現実になるのでは、実感がまったく違う。
 
 しかし彼等を羨ましがる道理はどこにもない。きっと私だって数年前に同じ道を通ってきたはずだし、そんな私の姿を数歳年上の人が見て、似たような感慨をもったに違いないからだ。
 
 
 3.
 
 一時代を共有した者同士が集まって、思い出のコンテンツを振り返り、「俺らはおっさんだー!」「おっさんマジサイコー!!」と拳をふりあげる姿は、年下世代からみて心地よい風景ではないかもしれない。しかし、都内にはそういうことを気にしないで済む空間がほうぼうにあり、好きな酒を飲みながら懐かしい映像や音楽に耽れることを、その日私は知った。まだまだ知らないことばかりだ。