シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

これからの消費アイデンティティ

blogos.com

 
 リンク先は、『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』にかこつけてBLOGOSさんにインタビューしていただいた記事です。これからの時代の「大人」について、私の考えを述べてみました。
  
 インタビュー記事の常として、喋った内容を全部載せられるわけではなく、インタビューが終わった後にも考えが膨らんできました。そのあたりについて書き遺したくなったので、ゴチャゴチャとメモを書き残します。
 
 

アイデンティティを「買う」のが当たり前の社会

 
 インタビュー記事には、都会で生活する人のアイデンティティについて触れた箇所があります。
 

付け加えると、都会の人は消費や購買によってアイデンティティを構築しているところがあるんです。
 
たとえば、都内のタワマンに住んでいるような層のライフスタイルを見てみると、飲むならクラフトビールのあの銘柄がいいとか、子どもに着せる洋服はあのブランドがいいというように消費にこだわりがあって、それがその人の特徴につながっている。
 
あるいはタワマンに住むこと自体もそうかもしれませんね。「私たちはタワマンに住む夫婦です」というのがアイデンティティの構成要素になっているケースもあると思います。
 
これはライフスタイルそのものが商品として売られるようになった影響も大きいのではないでしょうか。

 
 どこのどんな住まいを選ぶのか。
 どんなクラフトビールを選ぶのか。
 子どもに着せる洋服はどこのブランドが良いのか。
 
 いずれも消費に関わることですが、案外、こういうことに現代人はこだわりを持って、そのこだわりによって、自分自身の心理的輪郭を成しているのではないでしょうか。
 
 人間は、自分自身だけでは自己規定や自己イメージをつくることができません。自分が大切に思うものや、「私はこういう人間」と示せるようなものに囲まれているという実感を介して、自己規定や自己イメージをかたちづくっています。それが、アイデンティティと呼ばれるものです。
 
 例えば、誇りに思える出身大学、かけがえがないと思える友達、絶対にやめたくない趣味、等々を持っている人は、それらが自己規定や自己イメージをかたちづくる材料になっていて、それらはその人のアイデンティティの一部と呼べます。
 
 でもって、現代社会では、お金を払って買う・選ぶ行為もまた、自己規定や自己イメージをかたちづくる一端として用いられがちです。自分が買い求めるもの・自分がチョイスするものが、自分が何者であるかを規定する、というわけです。
 
 このことは企業の側もよく心得ていて、ただモノを宣伝するのでなく、消費者が自己イメージを想起しやすいように宣伝し、モノを売るのと同時に自己イメージの材料を売る企業が成功するようになりました。アップルなどはその典型ですよね。アップルの商品を買い求める人は、生活必需品としてそれらを買い求めているのと同等以上に、アイデンティティの構成要素になるような、自己イメージの材料を買い求めているわけです。
 
 この数十年の間に、消費を介した自己イメージの獲得とアイデンティティの補強はごく当たり前になりました。かつての庶民は、ほとんど生活必需品だけを買い求めていたため、買うという行為にアイデンティティを見出す余地はありませんでした。身分、イエ、土地、人間関係、そういったものがそのままアイデンティティと自己イメージをかたちづくっていたわけです。
 
 しかし庶民がいわゆる中産階級化し、職業や土地や人間関係の流動性が高まるとともに、旧来のアイデンティティは少しずつ退潮し、その隙間を埋めるように、買う・選ぶという行為をとおして自己イメージの材料を手に入れ、アイデンティティの一部とすることが珍しくなくなっていきました。モノを買うことで何者かになり、モノを選ぶことによってアイデンティティを補強する風潮はバブル景気の頃にひとつの到達点を迎え、人々は慣れない手つきでモノを買い漁り、ブランド品で自己イメージを肥大化させることに夢中になりました。
 
 バブル景気が終わった後、さすがに成金的な消費は少なくなったものの、消費によってアイデンティティを補強する営みはなくなりませんでした。地縁も、血縁も、勤務先も、ますますアイデンティティの求め先として頼りなくなったことにより、消費を介したアイデンティティ補強の必要性は、むしろ高くなったとさえ言えるかもしれません。
 
 

消費によるアイデンティティ補強の是非

 
 モノを買う・選ぶことによるアイデンティティの獲得には、良い面も悪い面もあります。
 
 良い面は、なんといっても自分の意志でアイデンティティを自由に選べる点でしょうか。
 
 どんな住まいを選び、どんな食べ物を愛好して、どんなライフスタイルを演出するか──こういった細々としたチョイスは個人の采配に任されています。アニメオタクとして生きることも、オーガニックな食品にこだわって生きることも、クルマにお金をかけてみるのも、全部個人の自由です*1。アイデンティティを構成するものの多く、たとえば人間関係や仕事や勤務先といったものは、モノを買う・選ぶことほどには個人の思い通りには選べません。モノを買う・選ぶことには、従来からのアイデンティティの構成要素に比べて強制力が少なく、人間関係の状態にもそれほどは左右されません。その人らしさ・自分らしさを自由につくりあげていけるところがあります。
 
 悪い面は、お金がかかること・やり方が拙いと全く安定しないことでしょうか。
 
 消費によるアイデンティティの補強には、多かれ少なかれお金がかかります。お金のかかりにくい趣味を選び、お金のかかりにくい消費を心がけることは不可能ではありませんが、お金をケチるほど実践難易度は高くなり、自由度が低下します。ソーシャルゲームのように、無料を謳ったものがかえって高くつく、ということも往々にしてあります。格差が大きくなっていると言われている今日では、モノを買う・選ぶ余裕を失った人も増えているでしょう。
 


 
 消費者としての庶民が成立しなくなりつつあるとしたら、モノを買うことでアイデンティティを補強する手法自体が一種の贅沢品になってしまうでしょう。まるで、戦前社会への逆戻りのような話ですが。
 
 また、モノを買う・選ぶことによるアイデンティティの獲得は、ともすれば流行に流されやすく、流されてばかりでは「私はこういう人間」という自己イメージが得られないおそれがあります。ただモノを買う・選ぶのでなく、それらが自分が大切に思うもの、「私はこういう人間」と示せるものにならない限り、消費によるアイデンティティは獲得には至りません。
 
 たとえば、ワインがブームになっている時に高級ワインを飲んだからといって、ワインがアイデンティティになるわけではありません。趣味やライフスタイルや嗜好として、ワインが自分自身に定着してはじめて、ワインは自己イメージの材料たりえるわけです。もちろんこれは、他の趣味や志向にも当てはまります。どんなにお金があったとしても、それらを趣味やライフスタイルや嗜好として定着させられなければ、お金でアイデンティティは買えません。
 
 

「モノ」から「コト」に変わっても、ラクになったわけじゃない

 
 21世紀になってからは、「コト消費」という言葉が使われるようになりました。バブルの頃のようなモノの消費はなりを潜めて、これからはコト(=体験など)の時代だ、というわけです。
 
 実際、90年代に比べれば高価な自動車や衣服は売れなくなり、自分がどういう人間であるのかを他人に示す手段として、自分が持っているモノをじかに他人に見せびらかすより、自分がやったコトをSNSやInstagramで見せびらかす趨勢になりました。であれば、「モノ消費」のウエイトが下がって「コト消費」のウエイトが上がったのは事実のように思われます。
 
 しかし、消費によるアイデンティティの本質・本態は、さほどには変化していないのではないでしょうか。
 
 確かにバブル景気の頃に比べればお金はかからなくなったかもしれない。モノを選ぶのとは違ったセンスがコトを選ぶにあたっては必要かもしれない。そういった違いはあるでしょう。
 
 反面、コトを消費するにもお金がかかり、ときにはモノを消費する以上に散財を余儀なくされることもあります。趣味やライフスタイルや嗜好として定着させられなければ、アイデンティティの獲得に至らない点は変わりません。流行に流されてばかりでは何も定着せず何も残らないのは、モノ消費と同じです。いや、モノなら流行の後にもモノが残るぶんマシですが、コトの流行が終わった後には何も残りません。
 
 モノからコトへと消費のトレンドが変わったとはいえ、消費を介してアイデンティティを補強する難易度が落ちたとは、私にはあまり思えません。現代社会において、消費をアイデンティティ確立の一端と位置付けることに異存は無いのですが、まあその、結局は地に足の着いた取り組みが必要なのだなぁと改めて思う今日このごろです。
 
 

*1:こうした個人の自由が成立する背景には、家庭のなかで個々人が別々のプライベートを持ち、ほかの構成員の趣味趣向に干渉しないという、これまた現代的な考え方が存在します。消費によるアイデンティティの今日的な在り方ができあがる前に、まず、プライベートという観念が準備されなければならなかったわけですが、ここを書き続けると長くなるのでやめます

エヴァやガンダムの昔話で盛り上がる中年の心理

 
anond.hatelabo.jp
 
 数日前、はてな匿名ダイアリーに上のような文章がアップロードされたところ、はてなブックマークには沢山のはてなユーザーが集まり、昔話に花が咲きました。楽しそうですね。
 
 その少し前、ガンダムがいつからブームになっていたのかを問う文章にもはてなユーザーが集まり、これも賑わっていました。
 
 10代~20代には、おじさんおばさんがアニメの昔話に耽るのを、みっともなく思っている人もいるかもしれません。それにしても、どうして彼らは、いや、私達は、昔のアニメの話で盛り上がってしまうのでしょうか。
 
 

コンテンツの昔話は、アイデンティティの指差し確認

 
 ちょうど、新R25さんのインタビューでも触れたのですが、心理学でいうアイデンティティの概念に沿って考えると、おじさんおばさんが昔のアニメやゲームの話で盛り上がるのは妥当でコスパの良い行動であるようにみえます。
 
 アイデンティティとは、大雑把に言ってしまうと「自分を自分たらしめている、必要不可欠なもの」のことです。【自分にとってかけがえなく感じられるもの・代わりの効かないもの・自分自身の成立基盤や構成要素になっているもの=アイデンティティ】と考えていただいて差し支えありません。
 
 この定義にあてはまるなら、仕事も、友達関係も、地域も、宗教も、趣味も、個人のアイデンティティたり得ます。また、忘れがたいインパクトを受けた作品、たくさんの思い出を残してくれたコンテンツも、その人のアイデンティティの一部分、と言えるでしょう。
 
 たとえば私は、以下に貼りつけたコンテンツから強いインパクトを受けましたが、
 

機動戦士ガンダム F91 [DVD]

機動戦士ガンダム F91 [DVD]

銀河英雄伝説 Blu-ray BOX スタンダードエディション 1

銀河英雄伝説 Blu-ray BOX スタンダードエディション 1

AIR - PS Vita

AIR - PS Vita

CLANNAD メモリアルエディション 全年齢対象版

CLANNAD メモリアルエディション 全年齢対象版

 
 コンテンツそのものから影響を受けただけでなく、オタク仲間と語り合うことによって沢山の思い出も作りました。私の人生や価値観を左右したこれらのコンテンツは、私のルーツとも、アイデンティティの一部とも言えます。
 
 これらについて、当時の仲間と昔話をすると、私は自分のルーツを思い出し、趣味領域のアイデンティティのなんたるかを再確認することができます。たぶん、集まった仲間たちも同じでしょう。ガンダムやエヴァンゲリオンの話をして、当時のエピソードなども語りあうことによって、私達は「アイデンティティの指さし点検」をして、自分自身の輪郭をメンテナンスしている、のだと思います。
 
 [関連]:“ガンダム念仏会” - シロクマの屑籠
 
 こうした昔話によるアイデンティティの指さし確認は、流行を追いかけるのに夢中だった頃に比べればローコストで済みます。なにせ、春夏秋冬の新作アニメにべったり張り付いていなくても、話題になった時だけ皆と思い出せば良いのです! それこそ冒頭で紹介した、エヴァンゲリオンの話題で盛り上がるはてなユーザー達のように、話題が出た時だけ語り合うのも良し。『宇宙戦艦ヤマト2199』のようなリバイバル作品が作られた時だけ復帰するのも良し。
  
 若者に比べてアイデンティティが確立しているはずの中年も、変化や不安は人生につきもので、アイデンティティがぐらつきかける時もあります。そういう時には、こういう昔話のたぐいが案外救いになったりするのです。若者からみればみっともないかもしれないけれども、中年が自分を見失わずに生きていくための、立派な一材料ではないでしょうか。
 
 

「昔話もできる新しいコンテンツ」

 
 余談ですが、最近のヒットコンテンツのなかには、新しい作品でありながら、中年に昔話のネタを提供しているものも少なくありません。
 
 ちょっと前の『這いよれ! ニャル子さん』にしても、今期の『ポプテピピック』にしても、昔話のネタをしこたま仕込んで、中年オタク同窓会をやりやすいつくりになっていました。『Fate』シリーズなども、昔話をしたくなる場面ってありますよね。
 
 アニメ視聴者のボリュームゾーンとしてアラフォー世代も無視できなくなり、かといって、新しい視聴者も開拓しなければならない事情を踏まえて、それらの作品は狙って作られているのでしょう。
 
 ともあれ、エヴァネタやガンダムネタで喜んでいるおじさんやおばさんをtwitterや居酒屋で見かけたら、「ああ、あの人はアイデンティティの自己メンテナンス中なんだな」と思って生暖かく見守ってやってください。私も来期は、『シュタインズ・ゲート ゼロ』や『銀河英雄伝説 Die Neue These』を観て、存分に自己メンテナンスしたいと思います。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

※kindle版が3/8にリリースされます。そちらもよろしくです。
 
 

「大人」になるメリットが見えていた社会/見えにくい社会

 
「若者」を欲しがる企業が、「成熟できない中年」を生み出している。 | Books&Apps
 
 リンク先の記事では、企業が「若者」を欲しがっていること、資本主義の現状が「大人」よりも「若者」を求めていることが指摘されている。本当にそのとおりで、現代人が「若者」的なメンタリティを畳んで、次の段階に移行することの妨げになっていると私も思う。
 
 少し話がそれるが、「若者」であるメリットがはっきりしている現代社会は、「大人」的なメンタリティに移行するメリットがはっきりしない社会でもある。
 
 流行や社会の変化に敏感で、自分自身の成長を最優先にできるメンタリティは、資本主義のバトルロワイヤルを戦い抜く人にとって有利なものだ。バトルロワイヤルの渦中にいる人にとって、自分自身の成長を最優先にしないメンタリティなど、自死にも等しくうつるかもしれない。「若者」であり続けることが、現代の資本主義社会への適応である側面は決して見逃せない。
 
 だが、資本主義のバトルロワイヤルが「大人」的なメンタリティを衰退させた張本人かといったら、そうではない。まだバトルロワイヤルが本格化していなかった20世紀の後半のうちには、「大人」的なメンタリティに移行するメリットは見えなくなっていた。
 
 

NHK中学生・高校生の生活と意識調査2012 失われた20年が生んだ“幸せ

NHK中学生・高校生の生活と意識調査2012 失われた20年が生んだ“幸せ"な十代

 
 上記書籍によれば、1980~90年代の中高生は、既に「大人」になりたがっていなかった。今日ほど資本主義的バトルロワイヤルが苛烈でなかった時代でさえ、「大人」になりたいと思う者は少なかった。バブル崩壊前から、日本社会は「大人」になるメリットが見えにくくなっていた、というわけだ。
 
 

「大人」になるメリットが見えていた社会

 
 対照的に、戦前社会には「早く『大人』になりたい」という言葉があった。
 
 こちらの記事で引用した土井健朗のフレーズに、【青春の季節は、大人に早くなりたい、子どもだとあなどられたくない、という生き急ぎの季節だと思っていたが、昨今はどうも生き遅れの季節であるらしい。】とあるように、昔は「早く大人になりたい・子どもだとあなどられたくない社会」が存在していたわけだ。「大人」になるメリットが可視化されていた社会だった、ともいえる。では、「大人」になるメリットとはどういったものだったのか。
 
 別の調べ物をしていた際に、これに関連した記述に出会ったので、引用してみる。
 

「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)

「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)

 

 内閣統計局の工場労働者賃金調査では、昭和六年の工場労働者の一日あたり平均賃金は一円八十七銭で戦前の最低だが、小学校を出たばかりの見習工ではさらにその四分の一か五分の一しかもらえなかったらしい。当時の工場労働者の一日平均労働時間は九時間から十時間なので、子供でもしっかり大人並みに働かせたわけだ。一般労働者の月の就労日数は二十六日から二十八日が普通で休みは週一回あればいいほうだった。子供でもそれだけ働けば十円以上になったはずだが、実際はそんなに払ってくれなかったようだ。

 
 昭和以前の日本社会には、見習いや年季奉公といったかたちで、「大人」ではない者を労働力として酷使するようなシステムが存在していた。これは日本に限った話でもなく、19世紀~20世紀のイギリスやスペインでも、子どもは安価な労働力として酷使されていた。親の側もまた、子どもをそのような労働力として期待している向きがあった。
 
 このような社会では、子どもであることのメリットは乏しい。子どもは親の言いなりで、望むと望まざるとにかかわらず働かなければならない。高等教育を受けられる者ですら、見習い労働力として安い賃金を稼いで家計の足しとしなければならないことがしばしばあった。この時代の「苦学生」の苦労っぷりは、並大抵ではない。
 
 

【文庫 】君たちはどう生きるか (岩波文庫)

【文庫 】君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 
 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』には、豆腐屋の手伝いをしながら学校に通い続ける、浦川君というクラスメートが登場していた。エリートの集う学校において彼は貧しい存在であり、「油揚げ」というあだ名をつけられ苦労をしていた。しかし、そんな浦川君の家庭にも豆腐屋の事業を行うための機械装置が据え付けられ、使用人が雇われていた。
 
 浦川君が苦しい思いをしているのは事実だが、彼に丁寧な言葉を使っていた若い使用人のほうが一層シビアな境遇にあったことに、『君たちはどう生きるか』はきちんと触れていた。
 
 子供の大半が安心して育ち、進学できるようになったのはごく最近のことだ。また、今日では虐待やネグレクトに相当するものも、かつては常識の範疇に入っていた。そのような時代の子どもたちが思春期を迎えて、一刻も早く「大人」になりたいというのはよくわかる話だ。早く一人前になって一人前の給料を貰いたい、というのは切実なニーズだっただろう。
 
 「大人」になるメリットが見えていた社会とは、一刻も早く一人前にならなければならず、一人前にならなければ生存もままならない社会だった、ともいえる。勿論このような社会にも例外はいて、江戸川乱歩の作品にしばしば登場する"高等遊民"などはその最たるものだろう。ただし、金持ちの家の三男坊ぐらいにしか許されないものだったが。
 
 

80年代~90年代は、「大人」を急ぐ理由が全く無かった

 
 このことを踏まえたうえで、昭和の後半~平成の前半に立ち返ってみよう。 
 
 戦後の数十年で、子どもの置かれている社会状況は激変した。
 
 子どもが食うや食わずのために働かなければならない状況は、どんどん減っていった。戦後しばらくは、新聞配達をしながら働く学生なども珍しくなかったが、親の仕送り額の増大とともに減っていった。大学進学率は増え続け、仕送りの金額もどんどん増えていった。"一億総中流"と言われる頃には、お金の稼ぎ方についての考え方が変わって、子どもを若い頃から働かせるより、大学に進学させて年収を高くすることをみんなが願うようになった。
 
 こうした高学歴・高収入志向は、前掲の『「月給百円」のサラリーマン』の時代にも存在していたが、高学歴を目指せたのは一部に限られていた。ところが高度経済成長が終わってからは、それこそ国じゅうが高学歴・高収入志向に変わっていき、中卒で働く人は皆無に近くなり、大卒の割合は急激に高まっていった。
 
 バブル崩壊後も、こうした考え方は残った。親は子どもに高学歴・高収入を夢見て、子どもの側もまた、気に入った勤め先や居場所を見つけるまではモラトリアムで構わない、と捉えるようになった。モラトリアム期間のうちは好きなように過ごすことが許容されがちで、海外を放浪するなど「自分探し」をする者も珍しくなかった。テレビ番組『あいのり』がヒットしたのも、そういう時代の空気を汲み取った企画だったからだろう。
 
 子どもでなく、さりとて旧来の大人でもなく、大人の役割を免れているようなモラトリアムな立場・状況のことを、「若者」という。もともと、「若者」という心性は、高学歴化や家庭の経済事情の変化、モラトリアムの許容に裏打ちされて成立してきた。日本に先立ってアメリカで「若者文化」が花開いたのも、豊かな大衆社会をアメリカが一回り早く実現させたからだ。豊かさによってモラトリアムが許容されるようになり、世界に先んじてアメリカの「若者」と「若者文化」が開花したわけだ。
 
 

「若者」を成立させていた豊かさは失われ、「若者」的に働くニーズが残った

 
 しかし周知のとおり、このような経済的豊かさはだんだんに失われていった。少なくとも、一億総中流といわれるような、誰もが親のすねをかじって大学に進学できるような世の中ではなくなってきた。
 
 じゃあ、「大人」になるメリットを皆が思い出すかといったら、そんなことは全く無かった。
 
 高学歴・高収入志向を地で行くようなアッパーミドルな人々は、新しいテクノロジーや流行を追いかけ続け、職場や人間関係を固定するのでなく、転職や転属を厭わずキャリアアップしていくことを望んだ。冒頭リンク先で指摘されているとおり、今日の資本主義の現状は「若者」的な働き方を強いてくるところがある。資本主義のバトルロワイヤルに適応するためには、いつまでも若者のように生きていくことがベターにみえてしまう。
 
 他方で、非正規雇用や派遣労働といった言葉を頻繁に目にするようになってからも、そうした立場の人々が「大人」という言葉と正規雇用や正社員を結び付けることはなかった。ましてや、そういった立場の人々が「一人前になりたい」「若者扱いされるのは嫌だ!大人とみなされたい!」などと声をあげることもなかった。
 
 なぜなら、【「大人」=「一人前の給料がもらえる」→早く「大人」になりたい!】という考え方自体が、すっかり忘れ去られてしまっていたからである。
 
 

まとめ

 
 このように、「大人」という言葉からは経済的なニュアンスが切り離され、「若者」に比べて資本主義バトルロワイヤルで不利なだけの、メリットも捉えどころもわかりにくい言葉になってしまった。
 
 当初、「大人」が廃れて「若者」が流行になっていった背景には、経済的な豊かさを前提とした、思春期のモラトリアム期間の浸透があったし、だからこそ子どもは「大人」へと急くことなく、「若者」という立場に留まるようにもなった。
 
 しかし、不景気が続いて再び経済事情が厳しくなってきた今日でも、「大人になりたい」は思うほどには復活しなかった。子どもや若者が教育・療育の対象として大切にされ続けているのがその一因であろうし、今日の資本主義バトルロワイヤルに勝ち抜くためには「若者」のままでいたほうが有利というのも一因だろう。また、【「大人」=「一人前の給料がもらえる」→早く「大人」になりたい!】という考え方が、あまりにも遠い昔のことになって、忘れられてしまったというのもあるだろう。
 
 いずれにしても、「大人」になるメリットが見えていた社会は遠い昔のことで、現在は「大人」になるメリットが見えにくいままである。こうしたことも、人生を年齢にあわせてシフトチェンジさせていくことの難しさに繋がっているのだろう。
 
 

ブログ書くなら、余所のブログより本を読みなさい

 
 ゆうべ、遊たろうさんというブロガーの方から、以下のような質問をいただいた。
 


 
 
 これに対して、「強いて似ているといえば、しんざきさんの『不倒城』」や、Books`Apps に投稿しているブロガーじゃないでしょうか」と答えたけれど、その後、考えが変わったので、以下にまとめてみた。
 
 

長続きしているブログは、お互いに「あまり似ていない」

 
 考えてみれば、Books&Appsに投稿している人々のブログスタイルはやっぱり違う。
 
 テキストサイトの芸風で長文を書く人もいれば、書籍を引用しながら日常の感慨を書き綴るスタイルの人もいる。また、ゲームと社会適応のことを書くという点では、前述の「不倒城」とこのブログは共通しているけれども、方向性はだいぶ違っていると思う。
 
 結局、わりと近く感じるブログですら、似ている点よりも違っている点のほうが多くて、他人に「『シロクマの屑籠』はここと似ています」と紹介するのは難しい。
 
 そもそも、ブログを書いている人それぞれの、書きたいと思う動機や興味、ブログの人生に対する位置づけみたいなものが皆違っているように感じられる。
 
 自分が知っている面白いブログは全員、書きたいと思う動機や関心がまちまちだ。みんな書きたいように書いていて、誰かの真似をして書いている感じがしない。これは、2018年の現在においてそうだというだけでなく、もう10年ぐらい前から生き残っているブログは10年前からそうだった。もちろん、私のブログ『シロクマの屑籠』も、自分が書きたいと思う動機や興味のままに書き綴っている。
 
 書きたいと思う動機や関心が違っていれば、そのブログは、他とは違ったものに自ずとなっていくと思う。
 
 だからもし、何か他とは違ったユニークなブログが書きたい人がいたら、その人が書きたいと思う動機や関心がユニークであったほうがいいのだろう、と思う。いや、ちょっと違うか。最初はそれほどユニークである必要すらないのかもしれない。ただ、動機や関心が何年も積み重なっていくと、小さなユニークネスも蓄積効果によって大きなユニークネスになり得る。だから自分がブログを書きたいと思う動機や、ブログに書き記したいものへの関心がしっかりしていれば、「ユニークさ×継続時間」によってそのブログは珍しいものになっていくのかもしれない。
 
 

コピーするなら「ブログ」ではなく「本」では

 
 一方で、ブロガーが何も参照にしていないとは思わない。
 
 自分が知る限りでは、ブロガーは、よそのブログやウェブサイトを参考にする以上に、本や作家を参考にしているように思う。
 
 たとえば、LINEに移って「やまもといちろうブログ」に改名してしまった旧・切込隊長は、「写経」が役にたったとおっしゃっている。
 
 [参考]:「切込隊長が、やまもといちろうになるまで」--ウェブ時代の文章読本より : Blog @narumi
 
 

やまもと:していないです。それも変わらないです。書くということのスタイルはこの時点で。もっと前にパソコン通信をやっていたんですね。その時もある程度長文を書いたりというのに慣れていたのと、当時から結構本の虫だったので、筒井康隆とかの写経をずっとやっていたんです。
 
佐々木:好きな小説を選んで?
 
やまもと:選んで、頭から全部、何遍も書くというのをやってました。どんな作品かは言いませんけど、そういう文体とかリズムとかいうのを自分に叩き込もうというのはかなり当時から、中学高校からやってたという。
 
竹内:それすごい効くらしいんですよ。いろんな書き手の方が仰ってました。
 
いちる:僕もやりますよ、写経。

 
 こういう話は、やまもといちろうさんに限った話ではない。自分の記憶が間違っていなければ、他にも似たようなことを言っていたブロガーがいたはずだ。そうでなくても、私がよく知っているブロガーは皆、本をよく読んでいる。あるいは、特定の本をよく読み、文体やリズムや構成の参考にしている。
 
 かくいう私も、昔は田中芳樹の文章をお手本にしていたきらいがあるし、ここ10年くらいは、たぶん以下の二冊から文体やリズムの影響を受けてきたと思う。
 

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版

  • 作者: ジャンボードリヤール,Jean Baudrillard,今村仁司,塚原史
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 1995/02
  • メディア: 単行本
  • 購入: 12人 クリック: 108回
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イタリアワインがわかる

イタリアワインがわかる

 
 どちらも訳本なので、正確には翻訳者の文体やリズムの影響も受けているってことだろう。
 
 これらに加えて、自分自身が気に入ったフレーズを写経すると良い影響があると思って、写経専用のブログを運用したりもしていた*1。引用したい時にすぐに引用できるのもありがたい。
  
 だからもし、これから文章主体で自分オリジナルの思いや考えを綴るブログを書きたい人は、
 
 1.自分が書きたいと思う動機や関心を大切にして
 2.たくさん本を読んで、気にったものを写経する
 
 が一番近道なんじゃないかなと思う。 
 
 十年前に比べると、いまどきのインターネットは競争の烈しい世界になってしまったかもしれない。SNSや動画も存在する今という時代だからこそ、「なぜ、ブログに自分が文章を書くのか」がはっきりしていないと長続きしづらいようにも思う。これからブログを書いていきたい人は、本当に自分が書きたい関心領域のことを、自分が書きたいように書くべきだ。
 
 でも、それだけでは心もとないから、文章を書くためのテクニックやテイストを身に付けるために、読書を大事にして、真似するに値する本を探し出すのも大切だ。なんやかんや言っても、一流作家や一流著述家の文章は素晴らしい。書いてある内容だけでなく、文体、リズム、気の利いた言い回しなども本当に凄い。真似するなら、ブログを読むより本を読んだほうが手っ取り早い。そのうえブログ記事のネタもざくざく手に入るし、写経しておけば引用用のストックまで手に入るから最高である。これから文章主体のブロガーをやる人は、読書を大切にしよう。これまでブロガーだった人達も、みんな読書を大切にしていたはずなのだ。
 
 出先で片手間に書いたので乱文かもしれませんが、ご参考まで。
 

*1:※リンク先の『シロクマの物置』は2016年以降、非公開のはてなブログに移行しました

飲むと元気が出るワインについて、ダラダラ書いてみる

 
 
 
 
 今週から来週にかけて、すごく忙しいせいで元気が出ない。
 だから今日は、飲んだら元気が出そうなワインが飲みたい。
 
 以前、「くたびれた金曜日に呑みたいワイン」というブログ記事を書いたことがあった。そこで紹介したワインは金曜日の夜をグダグダに過ごすには十分で、そのうえお手頃なものだった。
 
 ただし、あくまでくたびれた金曜日をグダグダに過ごすためのワインであって、土曜朝のコンディションはお察しである。そうじゃなくて、今欲しいのは飲んだら元気が出るワイン、飲む者に活気をもたらしてくれるワインだ。いわば、「アガるワイン」が欲しい。
 
 ワインもアルコールである以上、基本的には元気を奪うものであるはずだ。アルコールは酩酊状態をもたらすから、飲んでいる最中は安酒でさえ「アガる」と体感されやすい。しかし肝臓に負荷をかけるうえ、体内にアセトアルデヒドを発生させて全身にも負荷をかけているわけだから、翌日、グニャグニャになっているリスクは高いと言わざるを得ない。
 
 だから、どれほど活気をもたらしてくれるワインでも、沢山飲んでしまえば元気が奪われる。原則、飲まないほうが元気が出ると言って構わない。飲んだら元気が出るワインという言葉も、「適量を飲むぶんには元気が出るワイン」と書くべきなのだろう。
 
 適量を飲むぶんには元気が出るワインは、実際存在すると思う。少なくとも私にとってはそうだ。そういうワインが恋しくなってきたので、私にとっての「飲んだら元気が出るワイン」を、ダラダラ書いて気分転換してみる。
 
 
カビッキオーリ ランブルスコ ロッソ アマビーレ
 まずは定番のランブルスコ。パルマハムの里でつくられた微発砲赤ワインのなかでは、この、カビッキオーリという作り手のアマビーレが群を抜いて元気が出る。似たような価格のいろんなワインが売られているけれども、滋養があって悪酔いしにくいという点では、こいつが群を抜いている。
 
 ランブルスコにはちょっと甘口の品が多くて、こいつもちょっと甘口なんだけど、こってりとしているおかげか、甘口が嫌味には感じられない。飲むヨーグルトのような不思議な爽やかさもある。悪いランブルスコは、飲めば飲むほど甘さがクドなり、生臭さすら漂ってくるけれども、こいつはそれが無い。ちなみに倍の値段を払えば「高級品のランブルスコ」も買えるけれども、これを2本買って1本ストックしたほうがたぶん幸せ。
 
 
ピエロパン ソアーヴェクラシコ カルヴァリーノ
 これも、前に紹介したことの白ワイン。チリやカリフォルニアで作られた濃厚白ワインを油絵に例えるなら、ソアーヴェは水彩画。ただ、コンビニで売られているソアーヴェだと疲れがぜんぜん取れないし、ソアーヴェの高級路線のなかには、濃厚白ワインっぽくて飲み疲れるやつがある。高級な濃厚系って、疲れていない日に呑むぶんには楽しいけれども、疲れた日には呑めたもんじゃない。
 
 で、このカルヴァリーノは、水彩画にたとえたくなる淡い飲み心地そのままに、襟を正したような端正さがある。風味に奥行きがあるおかげで飽きにくく、ソアーヴェならではのホンワリとした飲み心地のおかげで、風味の奥行きを押し付けてくる鬱陶しさも無い。カリフォルニアやフランスの高級ワインは、しばしば、風味の奥行きを押し付けてくるから疲れた日には敬遠したくなるが、こいつにはそういう心配をしなくていい。楽しい日にも、悲しい日にも、そっと寄り添ってくれるワインだと思う。
 

マックマニスファミリー ピノ・グリージョ
 ピノ・グリージョという品種でつくられた、カリフォルニア産のワイン。カリフォルニアのお手頃白ワインって、だいたい濃くてクドくて飲みにくくて、翌日に元気が出る感じじゃないけれども、ピノ・グリージョは割と例外。もともと、イタリアでたくさん作られていた日常品種だからか、安くてもおいしい。高級ワインに期待するような「リッチな雰囲気」には程遠いけれども、酸がさわやかで、台所洗剤みたいな匂いがパーッと開いて、くどくなくて、それでいて味がスカスカになることもない。
 
 この品種、フランス産*1やイタリア産もあるんだけど、フランス産は美味いけど呑み疲れる品がチラホラ。イタリア産はチープをきわめすぎていることが稀によくあるので、カリフォルニア産が安全牌じゃないかなーと思ったりもする。チープで構わないなら安いイタリア産でも可。
 
 
リースリング セレクション ド ヴィエイユ ヴィーニュ [2014]
【トリンバック】 リースリング キュヴェ フレデリック エミール [2007]
 フランスはアルザス地方でつくられた、リースリングという品種の白ワイン。ワインをいくらか知っている人だと、リースリングってドイツの甘口ワインを連想するかもだし、あれはあれでいいものだけど、自分の場合、ドイツの(しばしば高級な)甘口白ワインはつい「鑑賞」してしまいがちで、かえって疲れてしまう。甘すぎるのもちょっと。
 
 その点、アルザス産のリースリングは甘口ってわけじゃないし、まだしも気楽に飲める。ここに挙げた銀ラベルと金ラベルは、並品より味も香りも多彩で、それでいて押し付けがましいほどでもない。スッスッと飲みたいなら銀ラベル、ちょっと欲張りたいなら金ラベルか。ただし、金ラベルはお値段が。
 
 
ジゴンダス オー・リュー・ディ [2012] ドメーヌ・サンタ・デュック
 フランス南部、ローヌ地方でつくられた「濃い」赤ワイン。濃い赤ワインの常として、たくさん飲むとしんどくなるので、3日以上かけて飲むのがちょうど良いと思う。で、これも濃い赤ワインの常として、ある程度赤ワイン慣れしているというか、渋みがOKな人じゃないとこいつは飲めない。
 
 赤ワインが飲める人には、果実味がしっかりして飲み応えのあるワインだ。価格の割に香りの多様性に恵まれていて、ときどき、香木のような目を見張る香りがしたり、ビーフジャーキーみたいな肉系の香りが混じったりして、「おお、畑でつくられた良いワイン飲んでるぜ!」って気持ちが高鳴ってくる。赤ワインの高級路線は欲張るときりがないし、値段が気になって「鑑賞モード」に入ってしまうおそれがあるので、疲れている日には適さない。疲れている日に呑むなら、値段の割に風味が豊かで、しかも栄養を飲んでいるような感覚を伴ったワインがいいと思う。ボルドーやブルゴーニュの赤ワインだと、お値段や品種の関係もあって、こうした条件が揃いにくい。開拓するならローヌ地方の赤ワインじゃないかなと。私はローヌ地方のジゴンダス地区のものを贔屓しています。高騰するフランスワインのなかではマシ。
 
 
フェヴレ モンテリ 一級 レ・デュレス 2013

 あとは「値段のあまり高くない、マイナーな地区のブルゴーニュ」もいいかも。
 
 この、モンテリという地区のワインは、威張るようなワインからはかけ離れていて、軽い飲み心地で滋味がわりとあって、ワインを飲む際に緊張を強いるところがない。本来、ワインなんて緊張しながら飲むようなモンじゃなく、「高級ワインと真剣勝負!」みたいな飲み方のほうがどうかしているのだと思う。モンテリには「果し合い」を迫るところが乏しく、『艦これ』でいうならしばふ絵のような芋っぽさ、いや、包容力がある。パチパチの美人に例えたくなるワインより、「おかん」に例えたくなるワインのほうが、疲れた日にはふさわしい。
 
 
 あと、ボルドーはあんまり飲んでないけれどもシャトー ラネッサンは割と穏やかに楽しめて良かった。ボルドーの1000円台の赤ワインは気持ちが落ち着くけれども、飲む人を楽しませてくれるサービス精神に乏しいものも多いので、元気が出るワインは少ないかも。あと、ごく一部、やたら風味が濃くて、エキスを飲んでいるみたなボルドーワインも、呑み疲れやすいので疲れた日に向かない。
 
 「味や香りが強いワイン」は「おいしいワイン」としばしばみなされるけれど、こと、疲れた日に元気を出すには向かないと思う。味や香りが多彩なのは良いことだけど、押しが強いとワインに押されてしまう。そういうワインは、元気な時に呑みたい。
 
 だらだら書いてちょっと気持ちが落ち着いたので、今日はこのなかから一本選んで飲もうかと思います。おわり。
 
 

*1:フランスではピノ・グリと呼ばれる