シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

人生の次の目標はゾンビキラーだ。

 

ドラゴンクエストIII そして伝説へ…

ドラゴンクエストIII そして伝説へ…

 
 数年前、以下のような文章をブログで読んだのを再発見して、またしても考えさせられた。
 
人生は、『はがねのつるぎ』を手に入れるまでがいちばん面白い - 未来の蛮族
 

異論は認めない。だいたいなんだってそうなのだ。「おうじゃのつるぎ」だの「はかいのつるぎ」だのといったような、伝説級の武具。それらは確かに格好いいかもしれない。しかしだ。それらを手に入れたとき、我々の心はほんとうにときめいているだろうか?
(中略)
「はがねのつるぎ」には、そうした重たさはない。その切っ先が指し示す先には、ただただ限りない自由が広がっている。「はがねのつるぎ」さえあれば、平原を越え、アッサラームの街に渡ることができる。それどころか、少し勇気を出せば、砂漠を越え、イシスの都を目指すことだってできるのだ。はがねのつるぎは、実に様々のものを我々に教えてくれた。

 はがねのつるぎ。
 
 私の人生には、はがねのつるぎに相当するものが無かったと思う。
 
 私の人生はひのきのぼうから始まり、こんぼうを手に入れて、しばらくそこでグズグズして身動きが取れなくなった後、聖なるナイフを手に入れた。どうのつるぎよりも少しだけ強くて、非力な人間でも装備できる聖なるナイフ。ただし、そこから先、はがねのつるぎに相当するような、人生を切り拓いていくための武器は手に入らなかった。
 
 ところがある日、私は自分のアイテム欄にさばきのつえが入っていることに気が付いた。
 
 さばきのつえは、そんなに弱い武器ではない。てつのやりと同じぐらいの攻撃力があって、バギの呪文が無限に使える。やまたのおろちを倒しにいくには力不足かもしれないが、近所をうろつきまわって生きていくには十分だ。調子に乗った私は、今まで聖なるナイフでは心許なかった場所を存分にうろついた。雑魚が集団で襲ってきても、さばきの杖を振りかざせば勝手に退散していった。はがねのつるぎを手にし、人生を切り拓いていく人達が流す美しい汗に心惹かれるところはあったけれども、さばきのつえだって悪くないじゃないか。ここいらで安全に経験稼ぎしていれば生きていくのは大丈夫だな、などと思うようにもなってきた。
 
 しかし、野心を持ってしまったのだ、私は。
 
 私はもっと良い武器を手に入れて、どこか遠いところに出かけられないか、考えるようになった。はがねのつるぎは、私の職業では装備できない。おおかなづち、バトルアックスなども難しい。もっと取り回しが良くて、職業適性的に良さそうな武器はないものか探してまわったら、ゾンビキラーという素敵な武器が存在することに気が付いた。
 
 ゾンビキラーがあれば、今までよりずっと遠くまで出かけられるだろう。なにより、ゾンビをキラーするのがゾンビキラーなのである。死にぞこないがゴロゴロしている死者の土地に赴いて、ときには二フラムを唱えて、ときにはゾンビキラーでバッタバッタと敵を倒す。雑魚が集団で襲ってくるような時にはさばきのつえを使えば良い。そうやって、私は今まで行ったことのない土地を、私なりに冒険してみたいなと思うようになってしまった。
 
 はがねのつるぎを30代までに装備した人達にとっては、私がゾンビキラーを装備して冒険する場所なんて、さほどの冒険とはみえないかもしれない。また、同世代のはがねのつるぎ連中は年季が入っているから、ある者は剣を算盤に持ち替えて街で暮らしていたり、そうでなければドラゴンキラーあたりに装備を換えて、前人未到の地を冒険しているだろう。
 
 それでも、私は右手にゾンビキラーを持ち、左手のさばきのつえを持った状態で、いけるところまでは行ってみようと思う。それは、戦士の武器というより僧侶の武器ではあるのだけど、僧侶だって、冒険したっていいじゃないか。人間だもの。
 
 ということで、当面の人生の目標は決まったようなものだ。
 ゾンビキラーを手に入れること。
 そのために必要なことをやっておくこと。
 ゾンビキラーを売っている暗い街まで辿り着くこと。
 ゾンビキラーを手に入れるだけの代償を支払えるようにすること。
 
 実のところ、ゾンビキラーを手に入れるまでが私にとっての冒険で、もしかすれば、ゾンビキラーを手に入れたらそれで冒険が終わってしまうのかもしれない。それか、武器屋であまりの金額にびびってしまって、引き返すことだってあるだろう。だけど私は、ゾンビキラーが欲しいと思う。執着ですね。そうですね。でも欲しい、キラキラ光るゾンビキラーで、生ける屍をバッタバッタと昇天させたい、ドラゴンゾンビと戦ってみたい、中年期に入った人生の冒険者としては不遜な願いかもしれないけれども、欲しいものはしようがないので、俺はゾンビキラーを手に入れるために生きあがいてやろうと思う。
 
 

自主性の乏しさが罪になってしまう社会

 
blog.tinect.jp
 
 リンク先を読み、自主性が乏しいけれども仕事が優れている人っているよね、と思った。
 
 出しゃばらず、言われた仕事はきっちりこなし、上司やパートナーの采配次第では抜群の仕事をやってのける人材が、自主性を求められる状況に直面し、困惑して、メンタルヘルスを損ねて来院する……というパターンは精神科では珍しくないものだった。
 
 今では死語になりかかっている感があるけれども、「メランコリ―親和型うつ病」などと呼ばれていた類型の患者さんのなかには、そういうタイプが少なくなかったように思う。フリーハンドを与えられるまではものすごく重用されて、本人も報われた感触を得ていたけれども、フリーハンドを与えられた瞬間にマゴマゴしてしまい働けなくなってしまうタイプ。そういう患者さんは2000年頃に比べて減ってしまった。ひょっとして、自主性が乏しいけれどもしっかり働く働き手は淘汰されてしまったのだろうか。
 
 今日の社会では、自主性というものが非常に重んじられている。
 
 自己選択。
 自己主張。
 自己判断。
 
 それらをこなせるのが「良き大人」であり「良き働き手」でもある。今日の社会では、誰もが自分自身に対して「一国一城の主」でなければならない。誰かの「家臣」であってはいけないのだ。
 
 そういう考え方に競争社会の考え方を混ぜ込んだのか、「自主性の乏しい奴は報われなくても仕方がない」「自主性の乏しい奴は搾取されても仕方がない」といったことを平然と言い放つ人もいる。自主性の乏しさを誰かがカヴァーしてくれれば最優秀の人材になり得る人は、かつての日本には相当数いたはずだし、本当は現在もいるのだろう。いやいや、欧米にだっているはずなのだ。だのに、いまどきの人々は、そういう人の存在を顧みるよりは、自主性というお題目を口にして、自主性の乏しさを問題点として──ときには"障害"として──指摘する。「自主性が乏しいからお前は駄目なんだ!」
 
 世の中には、生まれながらに「一国一城の主」に最適なパーソナリティの人がいる。自主性を重んじる現代社会では活躍しやすく、どこへ行っても自分の人生を歩いていけるような人だ。そういう人が成功するのは素晴らしいことだし、そのようなパーソナリティを尊ぶことに私も反対するつもりはない。
 
 しかし、「一国一城の主」でなければ活躍できない、人生を豊かにできないとしたら、その社会はちょっと偏っているのではないだろうか。現代日本でも、欧米社会でも、多様性なるものが尊重されると耳にしているが、その多様性とやらのなかには、自主性の乏しい人々が豊かになって構わない可能性は含まれているのだろうか。それとも、自主性という基盤があってはじめて享受できる多様性でしかなく、自主性の無い人間には多様性もクソもあったものではないのが実情なのだろうか。どうも、そのあたりがわからない。
 
 多様性が尊重される前提として、まず、個人は自主性を完備していなければならないとしたら。そして「一国一城の主」でなければならないとしたら。それもそれで窮屈な話ではないか。
 
 ところが、欧米のゴールドスタンダードとして自主性があって然るべきとみなされ、日本もそれに倣えということになっているから、誰もが自主性を備えているべき・自主性を備えていない奴は損をしても仕方がないという考え方に、疑問を差し挟む人はあまりいない。匿名掲示板やtwitterの泡沫アカウントのようなインフォーマルな場では、自主性を当然のものとする考え方に疑問を差し挟む人を見かけなくもないが、場がフォーマルになればなるほど、自主性の尊重という金科玉条に異をとなえるのは難しくなる。
 
 元来人間には、自主性がたっぷりある人もいれば、自主性が乏しい人もいる。「自分らしく生きる」「自分が生きやすいように生きる」という観点からみれば、自主性の乏しい人でも活躍できる社会のほうが懐が深いはずだし、自主性が乏しい人にも活躍の場を与えられる社会のほうが人材活用という意味でも効率的なはずである。ところが自主性がやたらと重視されて、誰もが自主性のある人間であるべきとみなすようになってくると、そういった懐の深さや効率性は失われるのではないだろうか。というか、現に失われつつあるのではないだろうか。
 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (日経BPクラシックス)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (日経BPクラシックス)

 
 マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』には、プロテスタントの宗教的ニーズが勤勉に働く市民を生んだという話だけでなく、そうした宗教的ニーズが自主的な個人の出現とも関わっている……といった話もふんだんに書かれている。彼の論述がどこまで事実に即しているのかはともかく、自主的な個人を当たり前とみなす考え方が、キリスト教世界で発展した文化的な所産であるというのは、たぶんそのとおりなのだろう。
 
 だとしたら、自主性の乏しい人が社会に適応するのが困難な状況もまた、ある程度までは文化的な所産であり、自主性の乏しいことがハンディキャップのごとくみなされる事態は文化症候群的な側面を持ち合わせている、と考えずにはいられない。
 
 宗教的ニーズを背景として自主性が尊重されてきた社会で暮らしてきた人達にとって、自主性があって然るべきという考え方に疑問を差し挟むのは、許しがたいことかもしれない。たとえキリスト教を信仰していない現代人でも、そこで形作られた自主性尊重という人間観、あるいは世界観に深く"帰依"している人はごまんと存在している。キリスト教は日本や中国にそれほど信者を作ってはいないかもしれないが、キリスト教世界で磨き抜かれた自主性という人間観、あるいは世界観に"帰依"している者は見事に増えている。そしてこの個人主義社会においては、信教の自由が保障されているとしても、自主性というやつは、地獄の果てまで追いかけてくるのである。
 
 冒頭リンク先のタイトルは「自由にやらせると、潰れてしまう人」となっている。不自由と比較すれば、現代人のほとんどは自由のほうが良いと思うだろうし、私もその一人だ。だからといって、自由や自主性が現代人の宿命として万人に背負わされ、それが苦手であることがボトルネックとなって活躍の場を奪われてしまったり、搾取されても仕方がないとみなされてしまったりするのは、褒められたものではないと思う。イデオロギーとしてそう思いたがる人がごまんといるのは理解できるが、それをすべての人にとっての理想のように吹聴することには疑問の念を禁じ得ない。たとえ現代社会が、もう、そのように出来上がっているとしても、である。
 
 

「バルス!」は滅びんよ、何度でも蘇るさ。

 
 金曜ロード―ショーで『天空の城ラピュタ』が報道されるたびに、「バルス!」という決まり文句がtwitterに木霊するようになってだいぶ経つ。
 
 知っている人がほとんどだろうが、「バルス!」とは、『天空の城ラピュタ』の最終盤に、主人公達が唱える滅びの呪文だった。この呪文によってラピュタは急激に自己崩壊し、ムスカ大佐の世界征服の野望は阻止されたのだった。
 
 ところで、twitter上で「バルス!」と声をかけあうようになったのはいつからなのか。
 
surumekuu.blog.shinobi.jp
 
 上記リンク先のブログ記事にまとめられているところによれば、2009年頃はtwitterもニコニコ動画もまだまだ人が少なくて盛り上がっていなかったという。その後、元旦の挨拶と良い勝負を繰り広げた後、2013年頃から、本格的にtwitterで「バルス!」と一斉にツイートするのが主流となっていったらしい。瞬間ツイート世界一を記録したのもこの年だ。
 
 それ以後、「バルス!」は急激に知られて、テレビ局側も意識するようになった。「バルスまでカウントダウン!」などという局側の“お節介”に白けてしまった人も多かろうけれど、少なくとも数年間にわたって、「バルス!」はtwitterの風物詩として君臨し続けた。
 
 

「バルス!」と所属欲求

 
 なぜ、皆はtwitterで「バルス!」と言ったのだろうか。
 
 「バルス!」と書き込んでお金が儲かるわけではないし、承認欲求が充たされるわけでもない。サーバが落ちるかどうかを試す好奇心ならあったかもしれない。
 
 だが、人々を「バルス!」へとかきたてた一番の心理的欲求は、所属欲求ではなかったろうか。
 
 人は、自分が評価されたり注目されたりすることによっても心理的欲求(=承認欲求)を充たされるが、他人と群れて何かを一緒に達成しても心理的欲求が充たされる。これが所属欲求だ。
 
 所属欲求は、もともとは地域社会のメンバーシップに所属することで、しがらみや摩擦が付随するかたちでながら、充たされてきた。しかし、20世紀の後半からは、しがらみや摩擦が伴うかたちのメンバーシップ自体が少なくなり、承認欲求のような、個人単位で心理的欲求を充たしていく形式がクローズアップされたことで、あまり目立たなくなっていた。
 
 しかし、その間に所属欲求が消失したなんてことはない。スクールカースト内の微妙な派閥のメンバーシップといったかたちをとったり、部署ごとの身内意識といったかたちをとったりすることで、世の中に遍在していた。流行りが承認欲求サイドに傾いたから目立たなくなっただけのことである。
 
 また、インターネットのほうでも、2ちゃんねるはスレッドごとにローカルルールが強く、匿名性が高いため、承認欲求ベースでスレッドに定住するというより、所属欲求ベースでスレッドに定住する感が少なくなかった。世にいう「ゲハ論争」にしてもそうで、あれは、ゲーム機をネタにして敵と味方に分かれて、それぞれの陣営が所属欲求を充たし合えるレクリエーションの意味合いを伴ってると思いながら私は眺めていた。扇動によってつくられた論争に過ぎず、大半のゲームファンには鬱陶しい以外の何物でもない争いだったが、ゲーム会社を旗印として、陣営にわかれて言葉の砲弾を飛ばし合うのは、所属欲求を充たせるレクリエーションとしてはわかりやすかった。 
 
 また、「バルス!」がムーブメントになっていく前段階にも、たとえばニコニコ動画のコメント弾幕などは所属欲求によってドライブされていたし、それに先んじて、2ちゃんねるの実況板ではたくさんコメントが連なってホカホカしていたのだった。たとえば私なども、ドラマや時代劇を眺めながら2ちゃんねるの実況板を開きっぱなしにしておいて、みんなとコメントを共有して楽しんでいた。自分自身が承認されていなくても、ひとつのコンテンツをみんなでシェアして、気持ちもシェアできる瞬間というのは、とても気持ちの良い体験だったし、その気持ち良さは、SNS上のリツイートやシェアにも引き継がれている。
 
 金銭的欲求も承認欲求も充たしてくれない、「バルス!」のようなアクションに何十万何百万もの人々が集まってくるのはそのためだろうし、そういったことは『君の名は。』や『シン・ゴジラ』をテレビ朝日が放映した時にも、『けものフレンズ』が大ヒットした時にも当てはまる。大河ドラマのtwitter実況も、ハッシュタグを用いたソーシャルゲームのイベントの盛り上がりも、だいたいそういうものだ。群れる楽しみ。群れる喜び。承認欲求では説明できない心理的欲求が間違いなくドライブしている。
 
 「バルス!」そのものは二番煎じ三番煎じを繰り返したので、これからは下火になっていくことだろう。だが、ムスカ大佐の台詞を借りるなら「「バルス!」は滅びんよ、何度でも甦るさ。それが人々の欲求だからだ」とは言える。げんに、なにかしら話題性のある出来事があるたび、所属欲求を充たすべく人々が集まり、しようもない話で盛り上がっているではないか。承認されるだけが気持ち良いのでなく、群れること、所属することにも気持ち良さがある――人がその先天的な性質を捨てる日が来ない限り、第二、第三の「バルス!」は生まれてくる。それが人々の欲求だからだ。
 

俺がインターネットをとおして出会う人が、みんな賢くみえる件について

 
 私はインターネットが好きで、オフ会も好きで、そういう生活をずっと過ごしてきた。色んな場所で、色んな人にも出会えてきた。最近は忙しくもなり、フットワークも少し重くなったけれども、今でもインターネットは新しい世界への入り口だと思っている。
 
 ただ、自分では常に新しい世界を開拓してきたつもりでいたのが、最近、自分が開拓している世界に偏りが生じている気配が感じられるようになってきたので、メモしておく。
 
 

最近、やけに賢い人とばかり会っている気がする。

 
 どうも自分が見ている、というよりフォーカスをあてて深堀りしているインターネットが、賢い領域や表現力の豊かな領域に限られてきているのではないか、と、今更ながら思うようになってきたのだ。
 
 もちろん、ネットで馬鹿な人を見かけることはある。
 

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

 
 中川淳一郎さんの著書を読むまでもなく、インターネットには愚昧な暇人が溢れているし、昨今のインターネットのインフラ全体に、本来は賢い人をも愚かにしていくような「愚の巻き込み力」が宿っているようにもみえる。だから、インターネットで馬鹿を見かけること自体は珍しくないし、自分自身もまた、馬鹿と一緒に馬鹿騒ぎをやっているのだろう……と自省させられることも多い。馬鹿をやる羽目になっている本当は賢い人が、インターネットにはたくさん存在するのではなかろうか。
 
 反面、ここ5年ぐらいの間にインターネットを介して新たに知り合った人達には、ストレートな馬鹿がいないように感じられるのだ。無能がいない、表現力の乏しいやつがいない、とも言い換えられるかもしれない。オフ会などを通して確認した限りにおいて、ここ5年ぐらいでネットで知り合った知己に、なかのひとが馬鹿だったり面白くなかったり無能だったりした形跡は感じられない。いわば「アタリ」を引く度合いが高くなっている。昔はこうではなかったはずだ。
 
 00年代のインターネットでの出会いを思い出すと、もっと手応えのない人が沢山いたように記憶している。大袈裟なレトリックを振り回しているけれども思考内容は平凡そのものな人、元気はあるけれども何も考えていない人、表現すべき情熱も表現するための手段も持ち合わせていない人――そういった、スカッスカッとした人がもっとたくさんいたのだ。

 もちろん当時とて、よく考えている人、面白い人、手強い人はたくさんいた。ときには相手に圧倒されることもあった。それでも、初対面時の「打率」は2010年代以降ほど高くなかった。どうやって会話を続ければ良いのか戸惑う場面が00年代以前にはもっとあった。コミュニケーションの扉を開いても、なかなか情熱や知性や面白みが伝わってこないこともあった。そのひとの知性、そのひとの面白さに気付くのに3年かかることもあった。それが当たり前だとも思っていたし、おそらく、世間とはそういうものなのだろう。
 
 ところが、10年代に入ってからのオフ会で出会う人々は、初手から考えている徴候がみられたり、会話の機敏が面白かったり、情熱に溢れたソウルを宿していたりした。見解の相違や立場の違い、年齢の違いはあるにせよ、「なるほど」と思わせるものを宿した人々に魅了された。3年待たなければそのひとの知性、そのひとの面白さが伝わって来ないという経験が減った。インターネット人士として、これは幸せで、イージーなことではある。
 
 

いつの間にか、出会う人が狭くなっているのかもしれない

 
  
 ただ、そんなオフ会冥利に尽きる日々を振り返ってみて、何かがおかしい、と思うこともある。
 
 私のほうから出会いに行く人も、私のほうに出会いに来る人も、いつの間にか、かなり偏ってしまっているのではないだろうか。
 
 世の中には「類は友を呼ぶ」とか「朱に交われば赤くなる」といった諺が存在していて、インターネットもまた例外ではない。むしろ、インターネットこそ、どこかが似通った者同士や共通点を持った者同士を繋げるツールではある。だとしたら、現在の私は、知的で面白い人達のグループと繋がりやすいぐらいには知的で面白くなっていると自惚れてかまわないのだろうか?
 
 そうではあるまい。たぶん、自分にとって馴染みやすい知的さ、自分にも理解しやすい面白さを私がどこかで選んでいるのだろうし、私に声をかけてくださる方においても、それは同じなのだろう。お互いに、上手く選んで、上手く選ばれるようになってしまったから、お互いにとって「アタリ」な人間同士が繋がってしまう。それは豊かなことでもある反面、考えようによっては、閉じたことでもある。
 
 してみれば、00年代に私が経験したオフ会は、豊かかどうかはさておき、多様性が凄かったのは間違いない。「アタリ」も「ハズレ」もある世界、面白さや知性に気付くのに3年かかる人のいる世界のほうが、ある面において娑婆世界の実態にも近いだろう。人間がしっかりとシャッフルされたオフ会だった。だからこそ、オフ会はいつも異世界への扉でもあった。
 
 今はそうではない。もちろん、出会う人は全員違っているが、「アタリ」ばかりというのは娑婆世界の実態からは乖離しているし、なんらかのかたちですぐに面白さや知性を知覚するというのも偏った事態だ。
 
 どうしてこうなった。
 
 私が年を取って、いろいろな面白さが既知になったせいもあろうし、冒険心が委縮している部分もあるのだろう。インターネットが繋げる縁、インターネットで繋がる縁というものが、ウェブサイト時代とブログ時代とSNS時代で違っているのもあるかもしれない。なんにせよ、インターネットをとおして出会う人が、みんな賢くみえるという一事について、良い側面だけを見つめて自惚れているのはまずくて、なにかしら偏りが生じていると警戒しておくのが、臆病なシロクマという動物の、あるべき姿勢ではないかと自省する年末であった。
 
 

コーヒーでスプラトゥーン2の勝率が上がるか、確かめてみた

 

  
【実験のまとめ】
 
 コーヒーに含まれるカフェインには、精神活性作用がある。この効果を確かめるため、コーヒーを飲んだ時と飲まない時の『スプラトゥーン2』のナワバリバトルの勝率を比べてみた。
 
 コーヒーを飲まない時のナワバリバトルの勝率が58.33%だったのに対し、コーヒーを飲んだ時の勝率は79.17%だった。筆者がコーヒーを飲んだ際には『スプラトゥーン2』の勝率が高くなると判明した。コーヒーの作用を垣間見ることができたと思う。
 
 
【はじめに】
 
 コーヒーに含まれるカフェインは世界じゅうで広く飲まれる精神活性物質で、その作用は19世紀から知られている。『カプラン臨床精神医学テキスト』によれば、コーヒー一杯ぶん程度のカフェインには、集中力や気力の向上、仕事への動機づけの高まり、眠気や疲労の減退といった主観的効果があるという。しかし、実際にどれぐらい効くのか確かめてみたことはない。そこでコーヒーを飲んだ時と飲まない時で『スプラトゥーン2』のナワバリバトルの勝率がどれぐらい変化するのか、確かめてみることにした。
 
 
【方法】
 
 ゲームの勝率はカフェイン以外にも大きく左右されるし、コーヒーに含まれるカフェインの量によっても左右されるだろう。今回の実験では以下のような方法をとることで、できるだけフラットな条件での比較を心がけた。
 
1.同じ曜日の同じ時間帯に、コーヒー有りとコーヒー無しで勝率を測定してみた。
 

 
 2017年9月から10月にかけて勤務スケジュールが一定の時期があったた.ため、
 
 1.休日Aの午前9時から合計8回のナワバリバトル
 2.休日Aの午後3時から合計8回のナワバリバトル
 3.休日Bの午前9時から合計8回のナワバリバトル
 4.休日Bの午後3時から合計8回のナワバリバトル
 5.平日Cの午後9時から合計8回のナワバリバトル
 6.平日Dの午後9時から合計8回のナワバリバトル
 
 を、二週間にわたって行った。
 
 第一週において、1.3.5.はコーヒーを飲んだプレイ8回を行い、2.4.6.はコーヒーを飲まないプレイ8回を行った。第二週において、1.3.5.はコーヒーを飲まないプレイ8回を行い、2.4.6.はコーヒーを飲んだプレイ8回を行った。
 
 都合、コーヒー有り/無しのそれぞれで64回ずつ、合計128回のナワバリバトルを行ったことになる。
  
 比較条件をさらにフラットにするべく、1.3.は必ず午前7時30分に起床して30分後に同じメニューの朝食を食べて検証した。2.4.も必ず同じメニューのに昼食を食べた後に30分の居眠りを行い、プレイ前の条件を統一した。5.6.は帰宅時間や夕食を摂る時間、夕食のメニューをできるかぎり同一とした。
 
 
2.コーヒーの量や濃度を統一するため、市販のスティックタイプのコーヒーを使用することとした。
 

AGF ブレンディ インスタントコーヒースティック 2g×100P

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 コーヒー有りの場合には、『AGF Blendy stick ブラック 甘さなし』のスティック1本ぶんのコーヒーをプレイ10分前に飲用し、それ以外の飲食物はプレイ中には摂らないこととした。コーヒーを飲まないプレイでは、同一量の白湯を同じコーヒーカップ一杯ぶんだけ飲むこととした。
 
3.『スプラトゥーン2』のプレイ条件も、できるだけ統一した。
 

 
 ブキは「プロモデラーMG」とし、装備やギアは全プレイで同じものを使用した(画像参照)。この検証を行っている間は「プロモデラーMG」によるナワバリバトル・ガチバトルは禁止とし、クマサン商会のバイトだけを行った。
 
 
【結果】
 
 以上の方法のもとで検証を行った結果、コーヒーを飲んだプレイ群とコーヒーを飲まなかったプレイ群では、以下のような勝率の違いを確認した。
 

 
 
 コーヒーを飲まない64回のナワバリバトルにおいて、勝率は58.33%だった。対してコーヒーを飲んだ64回のナワバリバトルにおいて、勝率は79.17%だった。
 
 コーヒーを飲んだプレイにおいて、筆者の『スプラトゥーン2』のナワバリバトルの勝率が高くなるという結果が得られた。片側検定で有意差が得られたことから、今回に限らず全般的に、私はコーヒーを飲んだ時のほうがナワバリバトルの勝率が高いと考えられる。
 
 
 【考察】
 
 予想どおり、コーヒーを飲んだ時のほうが勝率が高くなったが、コーヒーの有無で勝率がほとんど変わらなかったこともあった。これは、体調の微妙な違いによるものかもしれないし、バトルに参加したメンバーの違いによるものかもしれない。また、「新しいステージが追加されて、不慣れな状態でバトルを余儀なくされた」影響もあったかもしれない。
 
 今回の検証の真っ最中に、『スプラトゥーン2』に「モズク農場」というステージが追加された。これまで無かったタイプのステージに苦戦した記憶があり、このステージが検証に与えた影響はあるかもしれない。
 
 そもそも、本検証ではステージの統一はできていない。これは『スプラトゥーン2』のナワバリバトルのシステム上どうしようもないことで、同一のステージで検証を統一しようとすると、今度はプレイする時間帯がバラバラになってしまい、それはそれで結果にバラつきが生じることを避けられないだろう。
 
 この検証のデータをとり終えた直後、『スプラトゥーン2』には大規模なアップデートが施され、「プロモデラーMG」をはじめとする多くのブキの仕様が変更されてしまった。アップデートにより内容が変わってしまうゲームを用いている以上、短い期間でデータをとり終えてしまわなければならないため、ステージの統一は諦めることとした。
 
 また、今回の検証は私がAGFのスティックタイプのコーヒーを用いて行ったものであり、他のプレイヤーが検証した場合に異なる結果が出る可能性を否定できないし、よりカフェイン含有量の高い飲料や糖分を含んだ飲料を用いた場合は違った結果が出るのかもしれない。いずれにせよ、このあたりは検証してみなければわからないことではある。
 
 なお、この検証は二重盲検試験のような厳格なデザインをとっておらず、エビデンスとしてはあまり頼りにならない。「コーヒーを飲んだ」という心理的バイアスも結果に含まれている。あくまで日曜研究としてご笑覧いただければ幸いである。
 
 カフェインにはさまざまな薬理作用があり、過剰摂取は心身に良くないとされている。私の場合も、コーヒーがきつく感じられるきらいがあるため、普段はカフェインを摂らないようにしている。今回の検証で「私がコーヒーを飲めば『スプラトゥーン2』の勝率が上がる」とはっきりわかったが、飲む機会は限定して、コーヒー無しでも勝てる技量を磨いていくつもりである。
 
 コーヒーを飲むとゲームの勝率が上がる・勉強や仕事がはかどる、という人は珍しくないだろう。しかし、コーヒーに頼る者はいつもコーヒーを飲んでいなければならなくなってしまうし、それは、ありていに言って不健康である。カフェイン含有飲料の過剰摂取による死亡事故が報じられているのをみるにつけても、コーヒーをはじめとするカフェイン含有飲料の取扱いには注意が必要だろう。
 
 コーヒーを飲めば『スプラトゥーン2』の勝率は上がるが、コーヒーに依存したプレイヤーにはなりたくないものである。