シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れない

 
 精神医療が世の中を変えて、世の中が精神医療を変えていく。
 
 そういう視点で、精神医療と世の中の相互作用を眺めていると、つい、ブロガーっぽいことを考えたくなる。
 
 
1.昔の精神医療には「狂気」しか無かった。
 
 「発達障害」も「社交不安性障害」も「境界性パーソナリティ障害」も昔は存在していなかった。今日ではよく知られている心の病気が出揃ったのは、20世紀になってからのことだ。
 

 十八世紀には、たったひとつしか心の病気が存在しなかった。狂気 insanity である。狂気という診断が意味していたのは、今日の臨床家が精神病という語で意味しているもの、あるいは口語的に「狂った crazy 」と言われているものだった。「狂気」とは、多くの場合妄想や幻覚を伴ったり、重いメランコリ―や高揚状態を伴うなど、患者が現実となんらかのかたちで接触を失っている状態のことを意味していた。
(中略)
 狂気というひとつの病気だけが存在するというこの単純な疾病分類は、十九世紀の大半を通じて米国とほとんどのヨーロッパを支配下においた。
 ナシア・ガミー『現代精神医学原論』 より引用

 
 心の病気が「狂気」ひとつだった頃、メンタルヘルスの問題として治療の対象になっていたのは、かなり重症の「狂気」に該当する、比較的少数だった。しかも、すべての「狂気」が精神医療を受けているわけではなく、「狂気」の多くは街に存在し、放浪者の群れ、居酒屋の酔客の殴り合い、路上での痴話ゲンカといった風景のなかに含まれていた。
 
 医療制度や福祉制度が弱く、警察力も行き届かなかった過去の社会では、「狂気」という単一の分類でもおそらく十分だったのだろうし、そこまで絞ってすら、すべての「狂気」を手当てする見込みが無かったのだろう。
 
 黎明期の精神医学は、未来への発展可能性という意味では疑いなく重要だった。だが、当時の世の中を塗り替えるほどの影響力があったとは、考えにくい。
 
 ところが、19世紀に統合失調症*1が発見されたのを皮切りに、「狂気」は細かく分類されはじめた。今日、精神疾患として知られている諸々の原型は、20世紀の中頃までにはだいたい発見されて、研究家によって詳しく書き残された。なかでも、治療方法や治療の見通しについて大きな違いの見出せるいくつかの精神疾患が注目されていった。
 
 80代ぐらいの大先輩から昔話をうかがうと、昭和時代の精神科医は、3つか4つの病名に分類できれば、だいたい間に合ったらしい。
 
 つまり、統合失調症、躁うつ病(うつ病含む)、神経症の3つ、あるいは、癲癇(てんかん)を加えて4つ、ということだったらしい。
 
 20世紀の中頃から、精神医学の世界でも有用な薬物が発見されはじめた。が、抗うつ薬や抗精神病薬や抗てんかん薬は、こうした分類に概ね収まるものだった。そして、精神医療を実際に受ける人の割合は、まだまだ少なかった。
 
 
2.ところが20世紀の後半あたりから状況が変わっていく。
 
 これまでのシンプルな分類には当てはまらない、しかし当人や周囲が困り果てて精神医療の門をノックする人の割合が、少しずつ増えていった。
 
 たとえば、境界性パーソナリティ障害などもそれにあたる。
 
 人間関係が不安定で、衝動的で、情緒も安定しない――境界性パーソナリティ障害のような人物像はとりたてて新しいものではない。太宰治はそれに近いし、ドストエフスキーの作品にもそれらしい人物像が描かれている。
 
 だが、そのような人物が精神医療の門をノックすれば、それは「患者」や「症例」となり、病気として認識されることになる。この、新しい治療ニーズに応じるべく、精神科医は研究を重ね、疾患概念を確立し、知識を広めていった。
 
 日本でも、1980年代には、この境界性パーソナリティ障害*2が知られるようになり、90年代後半の心療内科ブームを経て一般にも広く知られるようになった。「ボダ」というネットスラングが生まれたのも、そういった経緯の延長線上にある。
 
 うつ病や神経症と同じ手当てが通用しない、しかし20世紀後半の社会には適応しにくい境界性パーソナリティ障害のような病気を、新しい病気として定義し、手当てを確立していったのは、世の中に対する精神医学の貢献だったと私は思う。
 
 社交不安性障害(SAD)などについても同じことが言える。人的流動性が高まり、産業の大黒柱がサービス業となった社会状況のなかで、コミュニケーションに際して動悸や不安が生じる病気をピックアップし、SSRIや認知行動療法で手当てしていけるようになったのは、精神医学の面目躍如といえる。
 
 このように、新しい病気が治療の対象となり、それらが世の中に広く知られるようになって、より多くの患者さんが適切な手当てにアクセスできるようになった。統合失調症やうつ病も、早期発見・早期治療の合言葉のもと、重症になるまで放っておかれる人が減少し、より多くの人が精神医療を受けるようになった。これらは、「受診した患者さんの生活の質に貢献する」という医療の原則にも合致しているし、社会全体の経済生産性にも貢献しただろう。
 
 
3.しかし、本当に良いことづくめだったのだろうか?
 
 さきに書いたように、「受診した患者さんの生活の質に貢献する」という点では、精神医療は良いことをしてきたし、診療の現場では、目の前の患者さんに貢献すること以外は考えなくても構わないと、私は思う。
 
 では、精神医療とは無関係に街で暮らしている人や、世の中全体にとっても、これは良いことづくめだったのだろうか?
 
 「世の中が変わって、それに伴って新しい治療ニーズが生まれて、それで受診した患者さんの生活の質に貢献できるなら、良いことに決まっているじゃないか」と人は言うかもしれない。
 
 然り。
 
 世の中が変わって、それに伴って治療ニーズが生まれて、それで患者さんの生活の質が向上すること自体は、良いに決まっている。
 
 ここで私がちょっと引っかかっているのは、世の中の変化にあわせて新しい治療ニーズが生まれ、境界性パーソナリティ障害や社交不安性障害といった病気が広く知られるようになったことをとおして、世の中の常識や人間観が精神医療によって修正を受けているんじゃないか、というものだ。
 
 この引っかかりを、もう少し疑い深い路線にすれば、「精神医療のシステムが、世の中の常識や人間観をコントロールしているんじゃないか」となろうし、もう少し控え目な路線にすれば、「精神医療のシステムは、世の中の常識や人間観の変化をブーストしているのではないか」となるだろう。
 
 まだ、境界性パーソナリティ障害も社交不安性障害も知られていなかった時代、たとえば1980年頃のことを思い出してみて欲しい。
 
 世の中には、それらに相当する人がまだたくさんいて、その大半は精神医療を受けていなかった。その状況を、「精神医療が行き届いていなかったから、生活の質の低い状態に甘んじていた」ということもできよう。だが、正反対に考えるなら、それらに相当したとしても社会に包摂されていたということでもあり、それそのままでも生きていけた、という見方もできるのではないだろうか。
 
 たとえば昭和演歌の歌詞を思い出してみて欲しい。今にして思えば、昭和演歌で歌われるロマンは、境界性パーソナリティ障害、アルコール依存症、共依存といった、現代では精神医療と馴染みの深いもので満ち溢れていた。
 
 いや、演歌に限らず、たとえば尾崎豊の『15の夜』にしても、チェッカーズの『ギザギザハートの子守歌』にしてもそうだ。心療内科が一大ブームになる以前の歌謡曲には、今だったらメンタルヘルスの病気とみなされそうなフレーズがゾロゾロと出てくるが、そういった歌はたくさんの人に支持されていた。特定のニッチがそうなのでなく、テレビや有線放送のメインストリームとして、今だったら精神医療を連想させるような歌詞がどんどん流れ、みんながそれを当たり前のものとして受け取っていた。
 
 80年代においても、『15の夜』や『ギザギザハートの子守歌』で歌われていた人物像は、社会適応の雛型から遠かったに違いない。演歌に出てくる人物像も同様で、手堅い生き方をしている人達からみて、眉を顰めるような人物像だったには違いない。
 
 それでも、社会はそのような人々を含んでいたし、そのような人々がそれそのまま社会に存在することに、誰も疑問は感じていなかった。ましてや、精神の病気として治療が必要だと考える人は、一部の精神科医をのぞけば非常に少なかっただろう。
 
 しかし、精神医療の新しいニーズが世の中にどんどん浸透し、境界性パーソナリティ障害などが病気として広く知られるにつれて、そのような人々は医療機関を受診するようになり、診断を受けるようになり、治療を受けるようになった。やがて社会は、そのような人々が医療機関を受診するのが望ましい、いや、未受診・未治療であるのはおかしい、とみなすようになった
 
 「あなたは情緒が安定していない。だから精神科や心療内科に行きなさいよ」「これは心の病気だから、治療を受けて治す必要があるね」――こういった台詞の該当範囲が、重い精神病の領域から、かなり軽く、かなり広い範囲に広がっていったのである。
 
 そして、心の病気の該当範囲が広がって、そのことが周知徹底された結果として、心の病気に該当しない範囲は相対的に狭くなった。もはや、昭和演歌や『15の夜』の歌詞のような人物像は、それそのままで社会に存在することを許されない。
 
 誤解を受けたくないのでしつこく繰り返すが、私は、新しい病気が治療の対象となり、それらが広く知られるようになり、より多くの患者さんが適切な手当てにアクセスできるようになったこと自体は良いことだと思っている。
 
 また、こうした変化が、精神医療の活動だけによってもたらされたと主張したいわけでもない。
 
 こうした変化をもたらした要因としては、都市化や郊外化、人的流動性の高まり、個人主義的イデオロギーの浸透、ライフスタイルの“先進国化”といった、世の中そのものの変化による影響のほうが大きいと見積もるのが筋だろう。
 
 とはいえ、変わりゆく世の中に歩調を合わせるように、精神医療は次々に新しい病気をクローズアップし、世の中に知られるよう努力し、治療ニーズを開拓していった。そして、境界性パーソナリティ障害や社交不安性障害といった病気がみんなに知られるようになると、それらに該当する人をそれそのままに社会のなかで受け容れるよりも、治療を受けるのが望ましいように、常識や人間観が変わっていった。こうした変化を促したという点において、精神医療は、変わりゆく世の中の変化に加担したと言えるし、現在の私達の常識や人間観をかたちづくる重要な一要素になったとも言える。
 
 境界性パーソナリティ障害や社交不安性障害などを誰も知らなかった時代には、もう戻れなくなった。
 
 
4.そして21世紀の日本では、発達障害がトピックスとなった。
 
 自閉症スペクトラム障害(ASD、いわゆるアスペルガー障害を含む)も、注意欠陥多動性障害(ADHD)も、病気としての概念自体は20世紀のうちに存在していた。が、診断されることは比較的稀だった。これらの発達障害に該当している人のうち、当人や周囲が困り果てて精神医療の門をノックする比較的重症な患者さんについても、統合失調症や境界性パーソナリティ障害といった他の診断名で対処されていることが多かったといわれている。
 
 だが、発達障害がにわかにトピックスとなり、日本全国の精神科医が積極的に診断と治療に取り組むようになると、ASDとADHDの診断頻度はものすごい速度で増加した。メディアでも啓蒙活動が盛んに行われ、これらの病名は、非常に有名になった。今までは男性に多いと思われていたASDやADHDが、実は女性にもかなり多いことも判明した。
 
 ASDやADHDがトピックスとなり、みんなに知られるようになっていった背景には、精神医療の進歩だけでなく、21世紀の人々が社会適応するためのハードルが20世紀よりも全般的に高まり、一部のホワイトカラー層にだけ求められていた資質が、より多くの人々に求められるようになった、という変化があるだろうとは思う。少なくとも、ことの始まりに関しては、この両者だけでほとんどの説明がつくはずだ。
 
 しかし、燎原の火のごとく病名が広まり、たとえば、空気を読めないクラスメートを高校生が「アスペ」などと呼ぶようになり、夫婦間のディスコミュニケーションはカサンドラ症候群ではないかと積極的に疑われるフェーズに入ってからは、それだけとも思えない。ASDやADHDに該当する人は、まず診断・治療を受けるべきと誰もが思うようになったことによって、(特に軽度の)ASDやADHDに相当する人がそれそのままに社会のなかで受け容れられる可能性はむしろ低くなったのではないか?ますますもってASDやADHDを精神医療が引き受けなければならない、診断や治療をしなければならない、一種のマッチポンプ現象が起こっているのではないだろうか?
 
 個別の患者さんがASDやADHDと診断され、それに見合った手当てを受けたり処世術の再構築を期したりするのは良いことである。とりわけ、ASDやADHDに該当する子どもが早々に発見されて、養育が工夫されたり治療が導入されたりすることには大きな意義がある。
 
 しかし、そのことは別にして、ASDやADHDにぎりぎり該当する人までもが次々に精神医療の対象となり*3、誰もがASDやADHDを病気として認識するようになって「あなたは空気が読めていない。だから精神科や心療内科に行きなさいよ」「不注意で落ち着きが無い子だから、治療を受けて治す必要があるね」とみなすようになった社会は、果たして、ASDやADHDに該当する人が、それそのままに社会のなかで受け容れられやすい社会になったと言えるのだろうか?
 
 1980~90年代において、空気が読めないこと・落ち着きが無いことは、精神医療に直結する問題ではなかった。今だったらASDやADHDと診断されるような人々も、当時の社会に適応するのに苦労はしていただろうし、当時だったら、たとえば「オタク」というレッテルを貼られて敬遠されるぐらいのことはあったかもしれない。だとしても、空気が読めないこと・落ち着きが無いことが病気に直結することはなく、そのような人は、社会のあちこちにそれそのままに暮らしていたように記憶している。
 
 私が通っていた小学校や中学校、私が属していた地域社会にも、今にして思えばASDやADHDに該当する生徒はそれなりいたが、苦労しつつも、学校や教師や地域は彼らを包摂していた。彼らは変わり者や困り者と思われていたかもしれないが、病気だとは誰も思っていなかった。
 
 だが、今はそうではない。誰もがASDやADHDといった病名を知っているし、それらが社会適応にどんな問題を引き起こすのかも周知されている。そういった病名が知られていったプロセスのなかで、精神科や心療内科を受診した患者さんそれぞれに福音があったのは間違いなかろう。それは基本的には良いことで、必要なプロセスだった。だが、病名がみんなに知られて、それらが社会適応にどんな問題を引き起こすのかも周知されてしまったことによって、ASDやADHDは、いよいよもって、診断・治療されなければならない病気になってしまった
 
 今日の社会では、精神科医だけでなく、みんなが発達障害に敏感だ。
 
 乳幼児期のスクリーニング検査に引っかからないような、比較的軽めのASDやADHDの生徒が、中学校や大学の先生に指摘されて、受診するようになった。
 
 会社の上司や同僚に「発達障害ではないか」と言われて受診する人もいる。二十代のASDやADHDの若者が不適応を起こして受診するばかりとは限らない。五十代六十代の人生のベテランが、肩を落として精神科の門を叩くこともある。
 
 また、ASDやADHDは夫婦関係の大きなハードルとしてすっかり知られるようになった。伴侶が発達障害であることを知って、それにうまく対応する夫婦もいれば、伴侶が発達障害であることを知って、そこから離婚に至る夫婦もいる。
 
 しつこくて恐縮だが、ASDやADHDが病気として知られるようなって、医療や福祉の手が差し伸べられるようになったことは、個々の患者さんにとって良いことだし、ASDやADHDが病気とみなされ、配慮が必要とみなされるようになったことによって得られるメリットは確かににある。
 
 しかし、ASDやADHDが病気とみなされ、配慮されるようになったということは、ASDやADHDが病気とみなされなければならなくなったということ・配慮されなければならなくなったということと、同時進行だったことを、ときどき思い出しておいたほうが良いのではないだろうか。
 
 発達障害のことを誰もが知っている社会ができあがればできあがるほど、発達障害に該当する人は、精神医療による診断と治療を免れたまま、それそのままに暮らすことが難しくなっていく。変わり者や困り者と思われながら包摂されることも難しくなる。かわりに、発達障害の人は精神医療を受け、医療や福祉の手当ての対象となり、発達障害という診断を前提として社会に受け容れられることとなる
 
 このような大局的な変化は、どこまで良いことで、どこからまずいことなのだろう? そして今まで発達障害と診断されてきた人はともかく、これから発達障害と診断されるであろう人、あるいは発達障害と決して診断されることのない人に、どのような社会的影響を及ぼすのだろう?
 
 なにより、この現在進行形の変化は私達の社会の常識や人間観をどのようなものに変えて、心の病気に該当しない範囲は、これからどうなっていくのだろうか。
 
 
5.白衣を着ている時、私が考えていることは単純だ。
 
 目の前の患者さんにとってのベストを考えること。目の前の患者さんの生活の質の向上や社会適応のお手伝いをすること。精神科医としての診断技能や治療技能は、そのためのツールだし、そこに疑問や不安は存在しない。学界の指導に従いながら、精一杯のことをするだけだ。
 
 だが、白衣を脱ぎ、社会の常識や人々の人間観の移り変わりについてブロガーとして考える時、私は、精神医療という大きなシステムと、社会という更に大きなシステムとが影響を及ぼし合った結果として、どのような相互作用が起こるのか、つい考え込んでしまうし、疑問や不安が生じることがある。
 
 社会は、構造化された診療面接や、医療者の善意や、操作的診断基準の理念のとおりにはできていない。社会の常識や人間観は、精神科医の思惑通りにではなく、社会との相互作用に沿ったかたちで変わっていく。何かを診断すること・何かを名付けること・何かを知らしめることは、医学的・経済的利益だけをもたらすわけではない。社会に広まれば広まるほど社会的影響をも呼び起こし、それが明日の社会のかたちを、ひいては未来の人間が社会に適応するために必要とされるものをも変えていく。
 
 精神医療は、ミクロな個人にも、マクロな社会にも、多くの貢献をしてきた。そのことを疑う必要は無いし、これからも多くの貢献が為されるだろう。ただし、たくさんの良い事を為せば、それに付随して、ひとつやふたつの瑕疵、あるいは副作用のような変化がついてまわるのが世の常でもある。

 つまり、発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れないのだ。

 精神科医としての私は、これからも目の前の患者さんにとってのベストしか考えないが、ブロガーとしての私は、社会の常識や人間観の変遷について、過去と未来をもっと見つめて、もっと勉強したいと思う。
 
 

*1:昔の呼び方で言う、分裂病

*2:厳密に言うと、当初は境界性パーソナリティ障害ではなく、境界例、あるいは境界線例というべき、もう少し広い疾患概念だった。

*3:注:ここで、ASDやADHDがスペクトラムという概念であることを思い出しておいていただきたい。

テキストサイト~はてな村の思い出(シロクマ編)

 
orangestar.hatenadiary.jp
 
 今朝は紅茶を飲みながら、優雅な土曜の朝を過ごしていたが、インターネットに「集会!」の狼煙があがっているのを見つけてしまい、今、キーボードを叩いている。
 
 id:orangestarさん、つまり、小島アジコさんが語ったテキストサイト~はてな村~はてなブログの記憶は、だいたいあってると感じるが、ところどころ私の記憶と食い違ってもいる。それは当然だろう。あの頃から既に、インターネットは広大で、ニッチは細分化されていて、アジコさんが見聞きしたインターネットと、私が見聞きしたインターネットは違っていたのだから。
 
 けれども、こういうテキストサイト老人会みたいなイベントが起こり、はてな村の古いアカウントが集まりそうなネットの風が吹いた日には、みんなの思い出話を並べて、読み比べることができる。ひとつひとつの思い出話は食い違っていても、当時を思い出す一助にはなろうし、小さな物語が寄り集まって、インターネット・サーガができあがるのだろうと思う。
 
 というわけで、アジコさんに便乗して、私なりに、テキストサイト時代~はてな村時代~はてなブログを使用している現在までを回想してみる。
 
 

テキストサイトと私

 
 テキストサイト。
 
 わかったような、わからないようなインターネットの文化圏だが、それが、ひとまとまりのコミュニティ=カルチャーだったのは間違いないと思う。アジコさんがおっしゃっているように、それはreadmeにだいたい登録しているものだったと思うし、readmeについてグダグダと言及しているテキストサイト運営者はそれなりに見かけたと思う。21世紀初頭のささやかなインターネットの一幕とはいえ、侍魂をはじめ、アクセス数*1の大きなテキストサイトは存在していたのだから、readmeに執着する人がいたのは当然だと思う。今でいえば、twitterのフォロワー数にこだわるようなものだろうか。
 
 私はテキストサイトといわれる文化圏の、辺境に住んでいた。
 
汎用適応技術研究[index]
 
 オタクの社会適応と、脱-オタクファッションがメインテーマだった私のサイトは、テキストサイト文化圏の中心からはかなり遠かったと思う。それと、当時の私の中二病感覚がこう告げていた――「readmeを気にするなんて、格好悪いんじゃないか」と。
 
 そのreadmeと距離を置く感覚は、当時やりたかったことがテキストサイトの本流とズレていたこと・テキストサイト文化圏で囁かれていた「モテるモテない」「ネゲットがどうたらこうたら」「オタク自虐芸」が気に入らなかったこと、等々と繋がっていた。ゲームをやりこむことよりアニメを視ることが流行っていて、アニメを視ることよりミステリーを読むことが流行っていたのも、私の感覚にはフィットしていなかった。だから私は、自分はテキストサイト文化圏の辺縁にいるのがお似合いだと思っていた。
 
 けれども、テキストサイト運営者とコミュニケーションするのは楽しく、ドキドキすることだった。日記を書いている者同士がお互いをdisったり、議論らしきことをやったりするのを視ているだけで、やたら楽しかった。結局それは、2017年のアルファツイッタラーの醜聞やらネット人士の屈辱やらをヤンヤと眺めるインターネット愉悦行為とだいたい同じだったのだが。
 
 私も、BBSにあれこれの意見を書いたりお話をしたりした。コメントを書き、そのコメントについたレスポンスを読むに至るまでの時間は、今よりもゆっくりしていたけれど、見知らぬ人と人が、ウェブサイトの運営者同士であるということで繋がれるのは、かけがえのない喜びだと感じた。BBSに投稿する際、自分のハンドルネームと自分のウェブサイトのURLを書き込むのが名刺のような感覚で、ああ、ウェブサイト持ってるっていいよなーと思っていた。
 
 いろいろな人とお喋りした。そのなかには、後のはてな村時代にコミュニケーションしていく人や、はてなブログ時代にすら健在な人も存在する。手斧文化なところがあった反面、馴れ合い的なところもあったと思う。ただ、みんな素朴で、みんな若かった。そして社会的オーソリティがテキストサイトのオーソリティと結合するような雰囲気は、私にはまったく感じられなかった。たとえば弁護士のアカウントだから偉いとか、たとえば起業家のアカウントだから偉いとか、そういう雰囲気はテキストサイト時代にはなかったと思う。そして、小さなテキストサイトという圏域で、人気を巡って、ネゲットを巡って、小さなプライドを巡って、人はお互いを見つめ合いながら、基本的には、自分が書きたいテイスト、自分が書きたい情念を大切にしていたと思う。
 
 「芸」をやるテキストサイトはたくさんあった。だが、「芸」をやるテキストサイトは、自分の「芸」を信じていたと思う。それじゃあ現在のブロガーやツイッタラーが「芸」を信じていないかのようにみえるかもしれないけど、いや、実際そうなのだ。これは、私が歳を取ったからそう感じるのかもしれないし、「芸」や「キャラ」を巡っての人々の捉え方やマネジメントが変わったか、私よりも若い世代のメンタリティの構造自体が変わっていったせいなのかもしれない。
 
 

はてなダイアリーと私

 
 私がはてなダイアリーに引っ越してきたのは2005年10月なので、それ以前に盛り上がっていたといわれる、ギークや知識人がはてなダイアリーを持て囃していた頃のことをあまり知らない。ただ、はてなダイアリーというものが盛り上がってきたという空気自体は入植以前から感じていて、はてなブックマークが実装され、それが自分のウェブサイトにもたくさん承認トークンを落としていってくれるのを実感して、これはいいなぁと思った。そんな矢先にお誘いを受け、はてなダイアリーをスタートした。
 
 はてなダイアリーは、手斧の飛び交うモヒカン族の土地だった、らしい。
 
 ただ、テキストサイト時代と比較しても、はてなダイアリー、いや、旧はてな村は、賞賛も批判も憎悪も率直に言い合う文化圏であるなぁと感じていた。私がそう感じた原体験のなかには、おおつねまさふみさん(otsuneさん)の存在があったと思う。いや、彼ははてなダイアリーを書いていたのでなく、はてな村のあちこちに出没して言及をしていたのだけど。この、おおつねさんに限らず、はてな村にいる人達は、ストレートにモノを書く性質があった。私はオタクの社会適応についてあれこれ書いていたので、非モテ論壇をはじめ、色んな人からブッ叩かれた。非常に心を打つ批判もあった反面、ただの罵倒、ただの脅迫も少なくなかった。しかし、それがブログの世界なのだと私は思うことにしてしまっていた。はてな村だけがブログの世界、インターネットの世界ではなかったのに。
 
 アジコさんは、はてなダイアリーの全盛期を2008-2009年頃と書いておられたし、「ハックルベリーに会いに行く」「ちきりんの日記」に軸を置くなら、それはそうだったのかもしれない。
 
 ただ、そこはそれ、見える風景は個人によって変わるわけで、私にとってのはてなダイアリーの全盛期は2006~2007年頃だった。
 
 つまり、「分裂勘違い君劇場」が、現在の基準では非常に長いブログ記事を投稿していたにも関わらず、連日のようにホットエントリを賑わせて、その周辺に綺羅星のようなブログが輝いていた頃だ。文学フリマに親和性のありそうな、ポストモダンをかじって中毒症状が出ているような若いオタクサブカルが、考え抜かれたような、それとも考えの足りないようなテキストを、ブログ上にモリモリ吐き出していた。非モテ論壇は非モテ論壇で、気炎をあげていたと思う。涼宮ハルヒの憂鬱。秋葉原の路上パフォーマンス。はしごたん。要は、勇気が無いんでしょ。
 
 2006-2007年のはてなダイアリーは、いや、はてな村は「層が厚かった」と思う*2
 
 テキストサイト時代の生き残り、オタクサブカル論壇、2005年以前からのギークや知識人、新たにスタートするブロガー、等々が本当に入り乱れていた。そうした人達が、はてなブックマークやトラックバックを通じて文通したり、手斧を投げ合ったり、賛意を示したりしていた。一部のアルファブロガーだけが目立つのでなく、新参から古参まで、なんとなくお互いを認識しあいながら、手斧を投げ合うことが許容される狭い狭いネットコミュニティ。もちろん、それが快適だった人もいれば、それが不快だった人もいただろう。私も、良い思いばかりしていたのでなく、ときには嫌な思いをすることもあった。でも、それがブロガーの世界、はてな村の世界だと思っていた。
 
 ところが、2008年頃から、その多様なはてな村の層が薄くなったと私は感じていた。
 
 ちょっと目先の利く人はtwitterに魂を奪われ、そちらで承認欲求を充たしてしまうようになった。今のような、あざといアルファツイッタラー狙いな人は珍しかったけれども、「ふぁぼ界隈」には、readme時代から連綿と受け継がれる、承認欲求の匂いがふんわり漂っていて、近付きすぎないようにしようと思ったものだ。
 
 綺羅星のようなブロガー達も、一人、また一人とブログからtwitterに軸足を移していった。海燕さんのように、niconicoに向かった人もいる。非モテ論壇は壊滅し、オタクという言葉も急速に陳腐化し、アイデンティティを仮託できるようなものではなくなった。2ちゃんねるのまとめサイトが隆盛をきわめた時期だから、読み専の人達は、多くが2ちゃんねるまとめサイトに向かったのではないだろうか。なんにせよ、はてな村・はてなダイアリーが寂れたような印象を当時の私は持っていた。
 
 あと、はてな村の衰退にちょっと関係しているのは、はてなダイアリーのフォーマットを使って中堅ニュースサイトをやっていた人達の撤退だと、個人的には思っている。はてなダイアリーに存在していた幾つかの中堅ニュースサイトが、オタク寄りなブロガーのコミュニケーションに果たした役割は小さくないと思う。たとえばSu-37さん、神コップさん、後発のゴリラブーツさん、これらに代表されるようなはてなダイアリー内のニュースサイト網は、放っておくとはてな村の歴史から漏れてしまいそうなので、ここに書き記しておきたい。
 
 2013年にブログがSNSにトラフィックを奪われる時代は終わった。ブログがSNSからトラフィックを集める時代が始まっている。 - シロクマの屑籠に書く少し前まで、はてな村は、一部のアルファブロガーや準アルファブロガーはともかく、滋味深い中堅がどんどん流出し続ける状態だったように私の目にはうつった。それは寂しいことだった。しかし、旧はてな村が衰退しはじめたとしても、新はてなタウンが興隆しつつあったのだ。
 
 

はてなブログと私(の2017年現在)

 
 (株)はてなは、はてなダイアリーの後継としてはてなブログをリリースしていた。しかし私はノーマークだった。せいぜい、「B!KUMA」程度の意味しかないとたかをくくっていた。あるいは「どうせ、はてなハイクみたいに失敗するんでしょ」と。
 
 ところが、はてなブログは頑張った。旧はてな村とはどこか違ったユーザーがどんどん入ってきて、存在感が増していった。私は、旧はてな村とコミュニケーションの作法がちょっと違うなと戸惑った。
 
 私がはてなブロガー内のまとまりをはじめて意識したのは、「サードブロガー」だった。
 
d.hatena.ne.jp
 
 未知との遭遇。
 
 しかし、今にして思えば、この「サードブロガー」に含まれていたブロガー達の文化習俗は、自分が慣れ親しんだものとそれほど隔たってはいなかった。その後、はてなブログで遭遇した様々なブロガー達の文化習俗は、サードブロガー以上に、はてな村のソレと違っていた。
 
 そして、はてな村の、殺伐とした、それでいて拳に力と心を込めて殴り合って、喧嘩しても仲直りできる者同士が友誼を培っていくような文化習俗は、明らかに時代遅れになっていった。
 
 もう、見知らぬブロガーに力一杯噛み付いてはいけないらしいのだ!そういう言及は、いけないこととみなされかねない。
 
anond.hatelabo.jp
 
 上記リンク先は、「いまどきの若者や子どもにとって「批判」はタブーだ、はてなの中高年はそれがわかっていない」という主旨だ。だが、これは、旧はてな村民と、最も新しいはてなブロガーの間にもあるていど当てはまるように思う。
 
 旧はてな村民の流儀でもって、新規のはてなブロガーに批判記事を書くのは難しくなった。少なくとも、批判を通して意思疎通し、「雨降って地固まる」のような、友誼のきっかけとして批判的な記事をやりとりできる若いブロガーというのは、なかなかいないと思う。昔のはてな村では、それが一種の流儀として強制されていたが、同じことを新規のはてなブロガーに対してやったら、悪役とみなされるだけだろう。
 
 

 *3
 
 もちろん、旧はてな村の流儀は、単なる批判というより、手斧というメタファーが似合うようなものだった。だから、それを蘇らせるべきだとは思わない。しかし、旧はてな村民が手加減に手加減をほどこし、そっと言及したものですら、新規のブロガーが目を回したり、怒りを感じたり、絶対にスルーするのをみて、ブロガーがブロガーに言及すること、ブロガーがブロガーに批判や意見を書くことの根本的な意味が、テキストサイト時代やはてなダイアリー時代とも違っているのだろう、と私は感じるようになった。
 
 現在も私は、はてなブログに言及する時に、どう言及をすれば良いのかわからなくなることが多い。テキストサイト時代からの知り合いや、旧はてな村民が相手なら、今までどおりの言及で構わない。あざなわさん、hagexさん、ポジ熊さん、サードブロガーの皆さんなどに関しても、そんなに気にしなくても構わないだろう。
 
 だが、たとえばミニマリストのブロガーの集まりに言及するとしたらどうすべきなのか? たとえば「勉強になりました!」「参考にさせていただきます!」とブックマークするのが当たり前だと思っているブロガーコミュニティに言及するとしたら、どうやるべきか? こういった事が、今の私にはわからない。
 
 旧はてな村は、はてなブロガーの増加によって、はてなタウンに吸収された、と言われることがある。それが間違っているとも思えない。
 
 だが、結局私は、テキストサイト時代~はてな村時代に身に付いた文化習俗をフォーマットとして考えたがり、コミュニケーションしたがるので、新はてなタウンに流入してきた人達からみれば、「得体の知れない、野蛮な原住民」とみなされるのは不可避なのだろう。同じはてなブログを使っているとしても、歳の差があり、価値観の差があり、奉じるインターネットの規範意識の違いがある。
 
 旧はてな村民は、さしずめ、若い世帯がたくさん暮らすピカピカのニュータウンの真横の限界集落で、動物の皮を剥いで肉を取り、ゲテモノを料理して屋台に並べ、焚き火を囲んで焼酎を飲みながら大声で喚いている、そのような中年存在とうつるのではないか、と自嘲気味に思うこともある。だが、それでいい。
 
 すっかり長くなったのでそろそろ終わるが、ここに書いた回想は、id:p_shirokumaという個人の思い出話で、当然、他の人には違った風景が見えていたはずだ。だから、違和感がある人や、もう少し違った角度から昔を振り返りたい人は、どしどし記憶を書き記して欲しい。たくさんの人の記憶が寄り集まって、どうか、良いサーガを。
 
 [関連]:俺の主観で書いたインターネットの文化と流行の歴史(2005-2007)
 [関連]:俺の主観で書いたインターネットの文化と流行の歴史(2008〜2016)
 

はてな村奇譚上

はてな村奇譚上

 
 

*1:PVという表現は当時はあまり使われていなかったと思う

*2:はてなダイアリーのなかには、当然、はてな村とは言えない、もっと静かな圏域や、ハロプロ界隈のように独自の文化圏を築いているものもあった。この文章でいうはてなダイアリーとは、はてな村とその周辺を指していると思っていただきたい

*3:このシロクマは小島アジコさんが描いたもので、転載をご承諾いただきました。ありがとうございます。

素晴らしいワインを飲むと、おしっこの匂いも素晴らしくなる

 
 
 下ネタっぽくて恐縮ですが、今日はおしっこの匂いの話です。
 
 「おしっこの匂いなんてどうでもいい」という人が大多数だと思うでしょうし、普段は私もそうなんですが、時々、おしっこの匂いに感動することがあるのです。
 
 

「素晴らしい白ワインの匂いがするおしっこ」

 
 
 気づいたのは、数年前のことでした。
 
 その日私は、柄にもなく高級なブルゴーニュワインを飲んでいました。ワインなんてただの飲み物に過ぎないわけですが、そのワインは、大理石の神殿で蜂蜜壺をぶちまけたような香りに、石鹸、バタークッキー、ザラメ糖、花束を全部詰め込んだような、七色の香りがドカドカ沸いてくるとんでもない代物でした。なるほど、高級ワインの世界は底なし沼と言わざるを得ません。
 


 
 で、このワインを飲んだ時に、思わぬオマケがついてきたのです。
 
 なんと、自分のおしっこまでもが、大理石の神殿で蜂蜜壺をぶちまけたような、素晴らしい香りになっているじゃないですか!
 
 信じられないことに、石鹸、バタークッキー、ザラメ糖、花束。そういった要素までおしっこから漂っていて、思わず、「おお、シュヴァリエ・モンラッシェの匂いがするおしっこだ!」と叫んでしまいました。
 
 その日は、ワインを飲んではトイレに行って、トイレを充たす芳香までも楽しんでしまったのでした。
 
 

素晴らしい赤ワインを飲むと、全身が素晴らしい匂いで包まれる

 
 この時から、私は飲み食いした後の自分のおしっこの匂いを意識するようになりました。
 
 おしっこは血液から作られて排泄されるものですから、面白いほど飲食物の匂いを反映します。カレーを食べるとカレーの匂い。コーヒーを飲むとコーヒーの匂い。ニンニクを食べればニンニクの匂い、等々……。
 
 さすがにおしっこを飲むわけにはいきませんが、少なくとも香りの面では、飲食物の素晴らしい香りをもう一度確かめるチャンスがあるわけです。
 
 香りの寂しい残念なワインのおしっこは、必ず、寂しい匂いのおしっこになってしまいます。
 
 対照的に、香り豊かで人を虜にするようなワインのおしっこは、やはり、陶然とした匂いが漂っているのでした。
 
 


  
 こういった高級赤ワインをいただいた時には、おしっこだけでなく、身体じゅうから素晴らしい香りが立ち昇って、自分自身が高級ワインになったかのような感覚を覚えました。シャワーを浴びた後も芳香が残り、翌朝のおしっこにまで余韻が漂っていることには、いつも驚いてしまいます。
 
 「素晴らしいワインとは何か」という問いには、いろいろな答えがあるでしょう。が、私なら、その要件のひとつとして「素晴らしいワインたるもの、おしっこの匂いも素晴らしくあるべき」と答えます。
  
 嘘だと思う人は、今日はプレミアムフライデーなので、素晴らしいワインを飲んでトイレで確認してみてください。素晴らしいワインは、おしっこの匂いも素晴らしい――これは本当です!
 
 

萌えアニメを観て(*´Д`)している人間は電灯に集まる昆虫に似ている

 
 さいきんの変換ソフトは、「ハアハア」って打つと(*´Д`)って顔を打ち出してくれるんですね。いや、だいぶ前からか。
 
 それはともかく、自嘲を込めつつ振り返るに、美少女や美少年がたくさん出てくるアニメを観て大喜びしている私達、あるいはキャラクターなるものに心酔している私達って、ものすごく生物っぽいと思う。
  
 ここでいう生物的とは「理性的・合理的に判断し行動する人間」とは対照的な、もっと昆虫的で、反射と反応でもって行動している生物に近い性質を持っていた生物、という意味だ。
 
 自嘲を込めて振り返るに、つくりもののキャラクターに寄り集まって身も心もメロメロになっている人は、「飛んで火にいる夏の虫」に似ていると思う。
 
 炎や電灯に集まる昆虫は、自然界には(原則として)存在しない人工的な明かりに寄せられて集まってくる。人間がアニメを観るのとは違って、それは性欲や承認欲求とは無関係な、もっと単純なメカニズムに基づいて集まってくるわけだが、ともかく、月光より強い人工的な灯りに出会うと、それに引き寄せられてしまうわけだ。それで炎に焼かれ、命を落とすものもいる。
 
 いっぽう、現代社会の人間もまた、自然界には存在しない、コンテンツという名の人工的な刺激をみせられると、それに寄せられて集まってしまう。もちろん、人間は昆虫より複雑にできているので、性欲や承認欲求も含めた、一層ややこしいメカニズムが背景にはあるのだろう。だがメカニズムの違いはあるにせよ、人工的な超刺激を与えられると反射的に引き寄せられて、影響を受けずにいられないという点では、やはり昆虫に似ている。
 
 アニメやソーシャルゲームのキャラクターに限らず、ある種のアイドルタレントやドラマに無我夢中になっている人達だってそうだ。コンテンツとして仕立てられた、自然界には存在しないはずの超刺激をドカーン!とぶつけられて、それでメロメロになってしまっている。
 
 

人間だから超刺激にも耐えられるなんてことはない。

 
 人間は高等な動物とみなされているけれども、超刺激には案外弱い。
 
 「万物の霊長」の性質のなかにも、なんだか下等で、昆虫のことをとやかく言えないような、脊髄反射的なところがある。それが嫌いだと言う人もいるし、それが人間の妙味だと言う人もいる。私はどちらかといえば後者だけど、その、昆虫的・反射的な部分によって世の中が面倒なことになっていることも知っているので、嫌悪する人の気持ちもわからなくはない。
 
 ともあれ、どんなに理性的で合理的な人間を装ってみたところで、しょせん人間は超刺激を与えられるとビクンビクン反応してしまう生物なんだってことは、片時も忘れないでいたいと思う。あのキャラクター、あのコンテンツに夢中になっている自分自身と昆虫とは、どこまで違っていて、どこまで同じだろうか。
 

雑感『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』

 
 
 
 

 
 家族みんなで一カ月ほど遊んで非常に楽しかったので、『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』(以下、本作)について、遊んだ感想を書き残しておきたくなった。
 
 

筆者の立ち位置

 
 ゲームの感想は、どういうプレイヤーがどういう経緯で遊んだかが重要だと思うので、少し書いておく。
 
 私はファミコン時代からずっとゲーム漬けだったが、任天堂の熱心なファンではない。『ゼルダの伝説』シリーズは、ファミコンディスクシステム時代はやり込んだけれども、スーパーファミコン版以降の、謎解きを強制する雰囲気が好きになれず、敬遠していた。
 

リンクのボウガントレーニング+Wiiザッパー

リンクのボウガントレーニング+Wiiザッパー

 
 ところが、数年前にプレイした『リンクのボウガン』が期待以上に面白かった*1。しかも、「本作は、ファミコン版の『ゼルダの伝説』に先祖返りしている」という噂を聞いたので、すごく久しぶりに買ってみたのだった。
 
 なお、私はいわゆるオープンワールド型のRPGをやりこんでいるわけでもない。『Oblivion』や『Skyrim』は大好きだが、『アサシンクリード』や『Fallout4』は遊んでいない。シューティングゲームを中心にまんべんなく遊んできた、中年ゲーマーの感想であることを断っておく。
 
 

「うへー!日本人の仕事だ!任天堂臭い!」

 
 この『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』の第一印象は、「これは、任天堂臭いゲームだ!」だった。
 
 nintendo switchの、オモチャ然とした、しかし良くできているコントローラーからして任天堂臭い*2。ゲームをスタートし、リンゴやドングリを拾って焚火にくべたり、斧で木を切り倒したりしていると、それだけでも楽しい。が、早くも、「ほら、リンゴを取ってくださいね? はい、次はお料理の時間です。 さて、次は木を伐りましょう……」と見えないチュートリアルに誘導されてゲームを遊んでいる感がある。
 
 
 
 
 もちろん、昨今のゲームにはしばしばチュートリアル機能がついているし、チュートリアルとは、そういうものだろう。本作の導入部は、そのチュートリアルの手つきが自然、かつ、行き届いていて、よほどひねくれたプレイヤーでない限り、必要な行動を適切な順番で体験できるよう、計算された造りになっていた。プレイヤーの行動を、制約によってではなく、専ら意欲によって牽引する、その手つきの完成度がハンパない。
 
 「うへー!日本人の仕事だ!任天堂臭い!」とは思ったが、感心せざるを得ない。
 
 ちなみに、ここでいう「任天堂臭い手つき」とは、スクエア&エニックスのチュートリアルの手つきとも、ベセスダのチュートリアルの手つきとも違っている。うまく言えないのだが、たとえるなら、本作のチュートリアルは、ちょっとお節介なおばさんが、ニコニコしながらゲームの手引きをやっているような雰囲気がある。他社のゲームでチュートリアルをやっていても、“お節介おばさん”を連想することはない。だが、本作のチュートリアルは、任天堂っぽいBGMや演出も相まって、“お節介おばさん”をどうしても連想してしまう。
 
 で、ゲームを先に進めても、行く先々で、この、“お節介おばさん”の意志というべきか、無言の干渉というか、そういったものを私は感じ取ってしまったのだった。
 
 本作『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』は自由度の高いオープンワールドなゲームと言われている。それは事実として間違っていない。プレイヤースキルの非常に高いプレイヤーにとっては、とりわけそうだろう。
 
 だが、一般プレイヤーである私にとっての本作は、見た目ほど自由度の高いゲームではなかった。いや、自由度そのものは高いが、「おまえは、ハートの器も装備も不十分だから、ここから先には進んじゃ駄目だよ」という任天堂の見えざる意志に遮られながら、あるいは任天堂の意志に逆らいながら、ゲームを進めていくような感覚が先立った。
 
 モンスターの体力や攻撃力。
 手に入る装備。
 崖の高さ。
 絶妙な地形配置。
 シーカータワーや祠の位置関係。
 などなど。
 
 それらのオブジェクトの絶妙な配置の結果として、本作は、プレイヤーが十分にゲームに慣れるまでは、無茶がしにくく、しなくても良いようにようにつくられている
 
 「登りにくい崖があったら、それは後回しにしても構わないし、後回しにすべきなのです。勝てない敵に出くわした時は、避けて通るか、余所をあたってみましょう。それより、あちらにシーカータワーが見えるでしょう? あちらに登りましょうよ?」
 
 ……そんな、チュートリアル担当の“お節介おばさん”の声が聞こえるような気配が、ゲーム全体に漂っている。オブジェクトの配置があまりにも行き届いているからこそ、極端に難しいことに出会うたびに、「この難しさは、任天堂による意図的な配置だから、きっと今すぐやらなくても良いのだろう」……などと考えてしまう。
 
 この、すべてのオブジェクトが意図的に配置されている感覚は、よくできたショッピングモールをぶらつく時の感覚に似ている。一見、無駄にみえる構造物やデザインにも必ず理由があり、ショッピングモール内部の人の流れは、そういったデザインや配置によってコントロールされている。徹底的に計算された空間では、本心のままにぶらつこうとすればするほど、構造物やデザインによって流されていく。
 
 はたして、カカリコ村やハテノ村を目指した私の序盤の冒険は、どこまで自由意志によるものだったなのか? どこから、任天堂がオブジェクトを配置してデザインした、コントロールに基づいた冒険だったのか?
 
 そこらへんが曖昧なまま冒険が進んでいくので、私は「これは任天堂の仕業だ!」「これも任天堂の差し金だ!」とつぶやきながらゲームを進めていた。そのうち、子どもも同じことを言うようになった。すまない。
 
 後述するように、実際に本作はオープンワールドゲームではある。だが、考え抜かれ、配慮され尽くしたデザインのために、特に序盤は、プレイヤーの行動に介入してくる“お節介おばさん”の意志をひしひしと感じた。本作の被-コントロール感は、外国産のゲームではあまり感じない類のもので、一昔前の国産ロールプレイングゲームにありがちな、ストーリーラインに束縛された感覚とも違っていた。
 
 どうあれ、このゲームのサブタイトルは「Breath of the wild」よりも「Breath of the Nintendo」のほうが似合っているように思った。あるいは「おばさんの吐息」とすべきか。
 
 

それだけに、任天堂を、デザイナーを信頼できるゲームでもある

 
 こう書くと、私が本作を気に入っていないと早合点する人がいるかもしれないが、そうではない。
 
 オブジェクトの配置が緻密で、すべてが有意味にデザインされていると感じるから、プレイヤーである私は、ゲームデザイナーを信用して、もたれかかることができた
 
 

 
・手ごわいモンスターに出会ったら、その難易度にみあった成果があると想定できる。
・到底勝てそうにないモンスターは、避けて通っても構わないと考えられる。
・怪しげな地形には、必ずなんらかのご褒美やミッションが存在すると想定できる。
 
 ハイラルの世界は、優秀な“お節介おばさん”によってデザインされている。ということは、あらゆる地形、あらゆるオブジェクトは有意味なはずだし、実際、そのとおり有意味だ。たとえば、高山の頂上にはコログが隠れているし、いかにも怪しい現象が起こる場所には、かならず祠が隠されていた。アイテムも、手に入った場所で使ってしまって構わないし、むしろ、手に入るアイテムは「ここで、このアイテムを使えなさいな」という“お節介おばさん”からのメッセージとみなして構わない。
 
 20世紀のゲームに比べると、21世紀のゲームは、ゲーム世界の造物主の意図、つまりゲームデザイナーからのメッセージの信頼度が高くなっていると感じる。だとしても、本作の信頼度は群を抜いていて、地形・モンスター・アイテムの配置をメッセージと解釈して、裏切られたと感じることがほとんど無かった。
 
 任天堂の息遣いを「被コントロール性が高い」とみれば、これは短所かもしれないが、「造物主の意図を信頼できる」とみれば、これは長所だ。それだけ、プレイヤーに気を配っているということでもあり、それだけ、もてなし上手だとも言える。
 
 

最後は、“お節介おばさん”を越えていく

 
 ところが、プレイヤーがゲームに慣れてくると、今度はコントロールを越えたくなる。
  
 がんばりゲージを増やすアイテムをメチャクチャに使って、高い崖を登りたい。もの凄く強い敵に、無鉄砲に突撃してアイテムを奪いたい――そういう「無茶」がしたくなった頃には、このゲームは、ちゃんと無茶をさせてくれた。もてなすようにプレイヤーをコントロールしていた枷を、遂にぶち破って好きなようにうろつく自由が、だんだん手に届くようになってくる。
 
 もちろん、これもこれで任天堂のゲームデザイナー陣によってデザインされた、一種の「おもてなし」なのだろう。だが、まあいい、とにかくも充分に戦いのノウハウを身に付け、アイテム等の使い方を心得たプレイヤーが、自分の力で自由になる感覚を得られるのは、素晴らしい体験だった。そして、この頃になって来ると、はじめは使いこなせないと思っていた戦闘アクションも、いつの間にか身に付いている。
 

 
 「はじめは使いこなせないと思っていた戦闘アクションが、いつの間にか身に付いていて、できるようになっている」というのは、とてもゲームっぽいカタルシスだと思う。そして、任天堂という会社は、ファミコン時代から、そういうカタルシスをいつだって提供してくれていたのだった*3
 
 ゲームプレイに慣れないうちは、“お節介おばさん”のゆるやかなコントロールのなかでゲームを遊ばせてもらい、プレイヤーに実力がついてきたら、オープンワールドを自由に遊ばせて、思う存分に戦闘アクションを楽しませてくれる手腕手管には、本当に感心するしかない。ゲーム体験として、これほどのものが一体どれだけあるだろうか?
 
 

 
 すっかり文章が長くなってしまい、昼間っからワインを呑んでわけがわからなくなったのでこれぐらいにするが、とにかく、本作『ゼルダの伝説 Breath of the wild』は面白く、任天堂的なコントロールのしっかりしたゲームで、最終的にはオープンワールドを満喫させてくれる作品だった。「おもてなし」の精神がちりばめられ、プレイヤー自身の上達が肌で感じられる、真性のゲームらしいゲームでもある。まず、傑作と言って良い水準なんじゃないだろうか。
 
 まだ終わっていないクエストもあるし、今後、ダウンロードコンテンツも追加されるというので楽しみだ。興味はあるけれどまだ購入していない人は、買ってみていいと思う。この、任天堂らしいハイラルの土地を、転げまわって欲しい。
 

Nintendo Switch Joy-Con (L) / (R) グレー

Nintendo Switch Joy-Con (L) / (R) グレー

ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド

ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド

 
 

*1:ちなみに、『リンクのボウガン』を買った理由は、ナムコの『スターブレード』をWiiザッパーで遊んでみたかったから、そのついでにというもの。

*2:そういえば、このコントローラで弓を撃っている時は、本当に楽しい。『リンクのボウガン』の感覚の良いところを、そのまま受け継いでいると感じた。手許がグラグラ揺れるのが、弓というフィーチャーにバッチリ合っている

*3:他方で、たくさんの救済措置が準備されていてるのも気が利いている