シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ネットの正論や世論に包囲されても、言いたいことは言うべきだと思い出した。

 


 
 かわんごさん(ここでは、かわんごさんという呼び名で通す)の上掲ツイートには、例によってはてなブックマークコメントが沢山くっついていた。私も含め、「それは時代錯誤だ」「立場というものを考えろ」的なコメントが多い。
 
 しかし以降のツイートを読んでみると、かわんごさんは「ネットを公共の場として責任を求める風潮」が既にできあがっていることを知悉したうえで、それでも「ネットでは自分の言いたいことを言いたいように言っていく」というスタンスを考えている様子だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 かわんごさんは、「今日のインターネットは正論の巨大な同調圧力の場と化している」と記している。そのうえで、そのような正論の同調圧力の場、あるいは公共空間へとネットが変容していくことは、私達の生活空間(あるいはコミュニケーション)全般がそれらに呑みこまれていくことである、とも危惧している。
 
 こうした変化は、インターネットを長くやっている人なら肌で感じ取っているだろうし、私も例えばこのブログ記事で所感を書いたことはある。メイロウィッツ『場所感の喪失』に書いてあることがインターネットで起こっている、と言い直すこともできるだろう。
 
場所感の喪失〈上〉電子メディアが社会的行動に及ぼす影響

場所感の喪失〈上〉電子メディアが社会的行動に及ぼす影響

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 だから、今回のかわんごさんの話自体はそれほど目新しいものではない。
 
 

「もうそうなってしまったから」で何もしないのはどうなのか

 
 しかし私は、一連の文章を読んで割とハッとさせられた。ここ十数年のインターネットの変化を踏まえて、もう変わってしまったのだから何もしない・みんながそうだと決めているとおりに唯々諾々と従うしかないのは、本当に良いことなのか?
 
 インターネットが公共空間寄りのメディアに変容し、21世紀の権力分配のシステムの一翼として機能しはじめている現状のなかで、その現状を追認する行為に終始して、それで私は満足なのか。
 
 「現在の世の中がこうである」「現在のインターネットはこうである」という命題と、「世の中にはこうであって欲しい」「インターネットはこうであって欲しい」という命題には、何かしらのズレがある。そして現状のなかで最大のベネフィットを得たいなら、こうであるべきは引っ込めて、現状追認に徹するのが利口だろう。そして私自身も含めて、インターネットで長く暮らしている人は多かれ少なかれ現状追認になびいていて、それで適応している。
 
 多かれ少なかれ現状追認になびくのは、適応していくための手段として仕方のないことだし、それを非難してもはじまらない。第一、私だってそうしている。
 
 しかし、もし本当に「世の中にはこうであって欲しい」「インターネットはこうであって欲しい」と願うのなら、現状追認に徹するのでなく、必要とあらば現状に抵抗する・現状とは違ったカラーを出していく姿勢があってもおかしくない……と、私はかわんごさんの文章を読んで思い出した。
 
 かわんごさんの“なかのひと”は、社会的には軽視されないポジションにいて、それゆえ、公共空間寄りになったインターネットにおいては相応の態度を期待されがちだ。少なくとも、そういう風に期待する向きは一定割合で存在する。
 
 にもかかわらず、かわんごさんは、損を承知のうえで、現状のインターネットの正論・定法に逆らうようなことを(今回に限らず)書き込むことがある。もしそれが乱心のたぐいでなく、かわんごさんなりのスタンスであるとするなら、私は「面白いな」と思う。
 
 本当は「面白いな」ではなく「素敵だな」とでも書きたいみたいが、私は臆病で、インターネットの正論に攻囲されるのがおっかないので、今回は「面白いな」という表現に留めておく。
 
 そういえば、かわんごさんは皆が正論や常識だと思っていることでも、自説を曲げずにぶつけてくることのある人だった。
 
 5年ほど前に、私が『"叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点』というブログ記事を書き、はてなブックマークで割とバッシングされた時も、かわんごさんは「ブコメで普段から”正義の虐め”を実践しているひとたちが憤慨していて笑える。」と書いておられた。
 
 思えばこの時も、「正論や常識の名のもとに」がテーマだった。だから私は、かわんごさんのなかでは、正論や常識によって言説空間が窮屈になっていく問題に対して、首尾一貫した考え方があるのだろうと推測することにした。
 
 少し話が逸れたので戻るが、とにかく、今回のかわんごさんのツイートを観て、私は自分が忘れていた何かを思い出した気がした。自分自身の対外評価がいくらか下がるかもしれないけれども、自分が思っていることを思っているようにインターネットに書くということを忘れてしまったら、一体何のためにインターネットをやっているのかわからない。何のためにはてなブログを続けているのかもわからなくなってしまう。そういう根っこのところを、私は思い出すことができた。
 
 

どんなインターネットを自分がやりたいのか思い出した

 
 もちろん、既存のインターネットの正論や世論を無暗に逸脱してもしようがない。たとえば、自分があまり関心を持っていないジャンルの政治的正しさに対して、考えもなく逆らってみせたところで、無意味に政治的失点を重ねるだけだろう。
 
 けれども、政治的失点を回避することに汲々として、正論や世論からはみ出したものをバッシングしてまわって“得点稼ぎ”に満足するインターネットライフというのも、それはそれで虚しい。インターネットには、そうやって正論や世論からはみ出したものをバッシングし、得点稼ぎに明け暮れている人々が、それなりの割合で存在するけれども、彼らと同じようなマイクロ権力屋に成り下がった未来に、私がやりたいインターネットがあるとは思えない。
 
 たとえインターネットが、その正論や世論からはみ出した者に強い圧力をかける社会装置になったとしても、自分自身がその社会装置と同一化しなければならない道理はなかったのだ。そのような社会装置と同一化したくないなら、心のどこかでキチンと線引きはしておいて、本当に主張したいことがあったら主張すべきなのだった。
 
 そのような、当たり前だったはずのことを忘れてしまう程度には、私はインターネットの正論や世論におもねってしまっていた。そのことを恥じたい。と同時に、来るべき時に、インターネット正論や世論から攻囲されることを恐れずに主張していく勇気を養いたい。