シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ネットの同期がことごとくおじさん・おばさんになった世界で思うこと

 
 インターネットを使い始めてから20年余りの時間が経ち、私はおじさんになった。と同時に、私が見知っているインターネットの同世代も、みんなおじさん・おばさんになった。
 
 西暦2000年代のインターネットやオフ会には、いろいろな年齢の人がいた。二十代前半の若者が過半数を占めてはいたけれども、高校生もいたし、アラフォーのおじさん・おばさんも混じっていた。今日、30代後半をもっておじさん・おばさんと呼ぶことに抵抗のある人もいるかもしれないが、20代だった当時の私からみたアラフォーは、どう見ても中年だった。あの頃に出会ったおじさん・おばさんのおかげで、私は「現在の自分は、若者から見ておじさんである」と自己認識できている。過去に出会った年上の人々には、そういう意味でも感謝しなければならない。
 
 さて、私がおじさんになったということは、20年前からインターネットにのめり込んできた同世代の連中も、ことごとくおじさん・おばさんになった、ということである。
 
 あの日、インターネットの片隅で気宇壮大な、しかし痛々しい夢を描いていた若者は、いつしか落ち着いたインターネットおじさんになっていた。
 
 あるいは、カネとは無縁の名誉を賭けてぶつかり、煽りあっていたインターネット剣闘士の人々も、ネットの揉め事の第一線から退いていった。
 
 定職にも就くことなく、ワンダーな人生を回遊していた元・若者たちも、ある者は定職に就き、ある者は立場を手に入れて、とにかくも何者かになっていった。
 
 インターネットで若い時間を共にした同世代のうち、今、消息のわかっている人々は、インターネットおにいさん/おねえさんからインターネットおじさん/おばさんになった。この変化は絶対的なもので、例外は無い。なぜなら、自分ではどんなに若者を気取っていたとしても、それか、同世代のなかで比較的若くみえる部類に入ったとしても、年下の世代から年上とみられることは避けられないからである。私がネット黎明期にアラフォーの人々をおじさん・おばさんとみていたのと同じように、私と同世代のインターネット愛好家は皆、現在の20代からはおじさん・おばさんとみられているはずである。おじさん・おばさんを作り出すのは、本人の自覚ではない。世間に厳然と存在する歳の差と、年下からのまなざしである
 
 しかし、嘆くべきではあるまい。
 
 あの日若者だった連中が、揃いも揃っておじさん・おばさんになっているということは、それだけ長く生きたということだし、それだけ歴史を重ねてきたということでもある。無病息災とはいかず、波乱万丈だった人も少なくないだろう。だが、とにかくも今日まで生き続けて、おじさん・おばさんと呼ばれる年齢まで生きおおせたことを寿いだっていいじゃないか。
 
 と同時に、それは若者としての制限時間をキッチリ使いきった結末でもあるし、中年として──あるいは「大人」として──新しい時間が始まっているということでもある。中年は、若者の終着駅ではあるが、人生の終着駅ではない。若者だった頃に積み重ねたものを前提として、中年の人生は、これからも続いていく。
 
 自分と同じぐらい歳を取った人々を見ていると、みんな年相応に歴史を重ねていて、それが、一種の年の功になっているようにみえる。既婚も独身も、子持ちもそうでない者も、その点ではほとんど変わらない。なぜなら既婚には既婚者というかたちで、独身には独身者というかたちで、その人の歴史が積み重なっていき、かけがえなく取り返しもきかないもの点ではどちらも変わらないからだ。アラフォーになってもオタクやサブカルを続けている者も、足を洗った者も同じである。どちらかの人生だけが重いのではない。どちらの人生も相応に重く、その人ならではの歴史がある。その歴史にこそ、中年期以降の生き甲斐と使命が宿っているのではないか。
 
 世間には、カネとか名誉とか世間体といった、誰にでもわかりやすいトロフィーに基づいて人生の品定めをする人達がいる。いや、そのような品定めの目線は、私自身も含め、多くの人の評価尺度にこびりついているものでもあろう。
 
 しかし、中年にとっての生き甲斐や使命、あるいは宿命といったものは、そういうわかりやすいトロフィーによって是非が論じられるものではないように私は思う。カネや名誉や世間体を手に入れているおじさんやおばさんも、そうでないおじさんやおばさんも、自分自身の歴史からは逃れられず、年下の前では一個の中年として立っていなければならない点では違わないからだ。わかりやすいトロフィーに囲まれ、そこに執着して生きている中年と、わかりやすいトロフィーに囲まれずに生きている中年の、苦悩や人生の価値は違ってはいよう。だが、かけがえがない歴史と、取り返しがつかない人生を背負って歩いている点では共通している。
 
 若者はしばしば、中年になることを恐れ、若いライフスタイルが永遠であれと望む。その気持ちもわからなくもない。けれども、いざ中年になってみて周りの同世代の生きざまを見ていると、取り越し苦労だったというか、中年には中年の良さがあり、かけがえのなさがあるように思う。それと、インターネットの同期がことごとくおじさん・おばさんになり、もっと若者然とした年下がtwitterやYouTubeで若者らしい活動に励んでいるのを見ていられるのも、これもこれで幸せなことではないだろうか。あの日、インターネットで若者をやっていた私達は、確かに中年になったのである。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

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