シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

子どもの権利を守りながら出生率を増やすなら、核家族的な子育てをやめるしかないのでは

 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 先週公開した、「母親が儲かるようにならない限り、個人主義社会の少子化解決は無理」というブログ記事にはアクセスが集まって、はてなブックマークにも色々なご意見が寄せられた。
 
 だが、全体の半分しか書いていないので、続きを書いておくことにする。
 
 前回は、「女性個人が子どもを産むほど、また、上手に育てるほど、お金が儲かる仕組みにならない限り、女性個人は子どもを育てない」と書いたが、そこではメリットの話しか書いてなくて、責任や負担の話が書かれていない。
 
 はてなブックマークのコメントにも、そのことを察知している人が散見されている。
 

個人主義社会の少子化対策は、母親が儲かるようにすべきだが、できないので日本の衰退待ったなし - シロクマの屑籠

いや、女性は割と少なからず、「自然に」産みたいと思うケースも多いんだよ。ただ、にもかかわらず増えないのは、「得しない」からではなく、「ものすごく損するから」である。ニュートラルになるだけでも増える。

2017/11/06 15:04
b.hatena.ne.jp
個人主義社会の少子化対策は、母親が儲かるようにすべきだが、できないので日本の衰退待ったなし - シロクマの屑籠

立派に・順調に育てるという言葉が出てくるが、障害含め子供の生まれ持った性質や、変えられない家庭環境で難易度は変わるので、順調に行かなかった時のセーフティーネットの充実も併せて必要。

2017/11/06 11:00
b.hatena.ne.jp
 
 もし、子どもを順当に育てればお金が儲かるとしても、子育てには様々なリスクがあり、責任や負担も大きい。メリットやベネフィットだけを意識して、責任や負担を意識しない親など、そういるものではあるまい。
 
 この、個人主義社会の子育ては、だいたい親の自由裁量に委ねられている反面、子育ての責任もまた、親が全面的に引き受けることになっている。子どもが先天的な障害を持って生まれてきた場合などは、障害相応の支援がなされることになっているが、だからといって、親という役割を誰かに交替できるわけではなく、親としての責務は一生をかけて引き受けなければならない。
 
 もちろん、先天的な障害だけではなく、後天的な障害も、いや、(21世紀の社会において)障害とは呼ばれない種々の問題やトラブルも、親が引き受けなければならない部分は長く残る。
 
 個人主義社会の個人が、自分自身の権利と責任を越えて、子どものぶんまで責任を負うということ自体、なまなかなことではない。個人という単位でメリットやデメリットを計算し、それらを“できるだけ合理的に”判断するようトレーニングされている個人が、子育てという、大きすぎる責任や負担を引き受けなければならない営みにチャレンジするとしたら、それは、非-合理的なのではないか。
 
 そのあたりの非-合理性を、子どもへの愛情とか、人生の体験とか、そういった合理的とは言えない概念を使って有耶無耶にしたがる人もいるが、それはナンセンスだと私は思う。子どもへの愛情や人生の体験と、合理性の追求は、トレードオフの関係とみるより、別個の命題とみるべきではないか。
 
 合理的に判断する個人主体が、子育てをやるかやらないかを決断する際には、メリットやベネフィットと同等かそれ以上に、責任や負担に注意を払わずにはいられない。だというのに、今日の社会では、ひとたび親になってしまったら、子どもを育てること・子の親であることを、当然のように引き受けなければならないのである。これは、合理主義を良いものとする個人にとって、なかなか受け入れにくいことではないか?
 
 そしてもし、親としての責任を引き受けきれなかったらどうなるかというと……親としての欠格者、つまり、ネグレクトや虐待をしている親だというレッテルを張られることになる。
 


 
引用:こちらより

 
 近年、児童相談所が対応するケースが増大の一途を辿っている。これは、子ども個人の権利を擁護するという観点からみれば喜ばしい変化だが、親としての欠格という観点からみると、それだけ、欠格者が増えているということでもある。
 
 子どもの数が右肩下がりに減っているにも関わらず、虐待対応が右肩上がりに増えているということは、それだけ出来の悪い親が増えている、ということだろうか? それとも、出来の悪い親と判定される閾値が下がっている、ということだろうか? 私は、前者である以上に、後者であるのではないかと疑っている。
 
 あれもこれも児童虐待として摘発する社会とは、親が欠格者と判定されやすい社会でもある。子育てに関して、福祉や法律が定めたルールを、従来よりも厳格に守らなければ罰せられる社会である。たとえば昭和時代以前と比べると、親としての資格がより厳正に問われ、なんとなれば、罪科に処される社会である。
 
 そのような方向に傾き続けている社会のなかで、背負わなければならない責任や負担にひるむことなく、のうのうと子どもをもうけられる親は、一体どれぐらいいるだろうか?
 
 いや、あまりいないからこそ、子どもの数は減っているという側面はないものだろうか。
 
 

子ども個人の権利をここまで厳正に守った社会は存在しない

 
 私も含めて、現代人は、子ども個人の権利を守ることを当然の責務だと思っている。親個人の責任や負担がどれだけ増えようが、子ども個人の権利を守らなければならない、と考えるのが現代人の常識であろう。
 
 子どもは生まれた時から、否、生まれる少し前から、権利を保証されるべき一個人とみなされる。そのことを証明しているのが、毎日のように摘発される、虐待やネグレクトの事案である。
 
 かつて、児童相談所が手広く仕事をしていなかった頃は、今日、虐待やネグレクトとして観測され、摘発されている多くの事案がまかり通っていた。
 
 のみならず、昭和以前の社会では、子ども個人の権利、という概念自体も怪しいものだった。
 
 かつて言われていた、「七つ前までは神のうち」とは、子どもが死にやすい存在だった、というだけでなく、共同体のメンバーシップとしての立場を確立していなかった、という意味でもあった。
 
 子どもは病魔によって命を落としただけでなく、今日の基準で言えば不十分な子育てや、ネグレクトに相当する状態のなかでの事故や行方不明によって命を落としていた。
 
 民俗学の書籍には、以下のようなことも書かれている。少し長いが、抜粋してみよう。
 

 子どもが死にやすくかつすぐに生まれ変わってくるとみられてきたことが、伝統的な子ども観に色濃く反映してきたと思われる。子ども、とくに障害を持つ子どもに対しては、現代とは異なった対応がなされ、一見残酷なようであるが捨て子や嬰児殺しの形で処理したり、他方では見世物やイタコなどに弟子入りさせ、子どもの自立や自活ができるような手だてを講じようとしていたようなところもあった。嬰児殺しの形で口減らしする間引きは、カエスとかモドスという言葉で表現されたが、これはもと来た世界に戻してやることであり、子どもは生まれやすく死にやすい存在、あるいは死と再生を繰り返す存在とみられていたのである。
(中略)
 母親が自分の子どもに対してたっぷりと愛情を注ぎながら育てるようになるのは、夫婦と少数の子どもからなる近代家族が出現してからであり、それまでは「親はなくても子は育つ」という諺があるように、ムラの年齢集団や兄姉などの両親以外のさまざまな子育てのルートがあったのである。親子心中のような事件が頻繁に発生するようになるのはむしろ昭和時代に入ってからであり、大正半ば頃に今日のサラリーマン家庭の原型をなす都市の新中間層が社会的に顕著な存在として出現するようになって、直接血のつながった親子だけを親子とするという心性や態度が広まって以降のことなのであり、これと反比例して捨子の数は激減していったのである。
 
 吉川弘文館『日本の民俗 8 成長と人生』P64-65より抜粋

 
 この、民俗学の記述内容は、現代社会の善悪の基準から言って、許されるものではない。しかし、こうした子ども観は日本だけにみられた特異なものではなく、大筋では、洋の東西を問わずにみられたものでもある。人類社会は、そういう仕組みで長らく回っていた。
 

マザー・ネイチャー (上)

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〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

 
 こうした、子どもに個人主義が適用される前の社会を、遠い過去とみる人もいるかもしれない。祖父母の代からアーバンライフに馴染んできた家の人などは、特にそうだろう。
 
 だが、現在の中国やインドの男女比の歪さが暗に示しているように、いわゆる“途上国”だった頃には、これに類する話は日常茶飯事だった。少なくとも、「親は無くとも子は育つ」は、昭和時代の田舎では決して珍しいものではなかった。
 
 私自身の子ども時代も、21世紀に比べれば「親は無くとも子は育つ」に近かった。
 
 私は、それなり親から大事にされていたはずだが、それでも、小さな子ども同士で池や川に遊びに行くような場面はたくさん経験した。私のクラスメートに死人はいなかったが、他の学年では、事故死や行方不明があると聞いていた。私も一度、川に落ちて自力では上がれず、クラスメートに命を救われたこともある。現在よりもずっと子どもは自由に動き回れたとも言えるし、子どもは危険から保護されていなかったとも言える。ともあれ、それが自然だったし、そのことを殊更に非難する人もいなかった。
 
 
となりのトトロ [DVD]

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 私が生まれ育った、昭和時代後半の田舎でさえこうなのだから、より多くの子どもが死んでいた昭和時代前半や、それ以前の田舎については推して知るべし、である。そういう目線で『となりのトトロ』を観ると、あれは“神隠し”と紙一重な物語にみえる。そして、現代社会にはもうトトロはいないんだ、出会えないんだということもよくわかる。
 
 なぜなら、子どもが独りで森に入ることを許すような親は、児童相談所が、社会が、許さないであろうからである。
 
 

個人主義、子どもの権利、親の責任や負担のヘッジを鼎立させるには

 
 子ども個人の権利を守ること自体は、結構なことである。
 
 だが、これほどまでに厳正に守られる子どもの権利を、では誰が背負い、庇護しているのかといったら、子どもの養育者である親である。このことは、個人主義や合理主義の浸透した現代人のイデオロギーと、すこぶる相性が悪かろう。どうしてそんな不条理を、親という個人が引き受けなければならないのか。
 
 だからといって、昔に帰れば良いというものでもなかろう。
 
 私達は、個人主義を良いものとし、子ども個人の権利が守られる社会を良い社会だと決めている。「七つ前までは神のうち」を蘇らせるのは、こうしたイデオロギーに反するものだ。私達が良いと思うイデオロギーを守りながらこの問題を解決するためには、子ども個人の権利が守られつつ、それでいて、親が背負わなければならない責任や負担を減らせるようなシステムが立ち上がってこなければならない。
 
 そうなると、核家族で親個人がすべてを引き受けて子どもを育てるという、個人主義社会にありがちなテンプレートでは、どうにも立ちいかないのではないだろうか。
 
 個人主義と、子どもの権利と、親の責任や負担のヘッジを鼎立させようとしたら、最終的には、子育ては再び複数の養育者が複数の子どもを同時に育てて、きょうだいやきょうだい的な年上-年下関係を含んだものに戻るのではないかと、私は思う。責任も負担も、喜びも苦しみも、親個人がダイレクトに負うのでなく、もっと集団的・分業的なものにならない限り、それらを鼎立させたうえで出生率を上げるのは無理ではないか。*1
 
 今日の社会でも、保育所や幼稚園や学校といったかたちで、子育ての一部分は親の手を離れている。しかし、これらは親の時間的負担や教育的負担を減らすものではあっても、親の責任や金銭的負担を分担してくれるものではない。責任や金銭的負担、あるいは喜びや成果といった部分も協同・分担しなければ、結局、親が背負わなければならないものは大きいままである。
 
 現在の子育てシステムは、親に責任や負担が集中するのを避けきれていなくて、それもあって子どもの数が増えにくくなっている。そこを改善させつつ、個人主義と子どもの権利を守れるようなシステムへの再編が待ち望まれる。
 
 いや、それができなくても日本人が衰退するだけだ、という見方もできなくはない。日本人が衰退すれば、子どもが増え続ける別の国の人や、別の社会によって置き換えられていくだけのことだ。どうあれ、後の社会に受け継がれていくのは、子をもうけて社会を維持した生者と、彼らの信じるイデオロギーや価値観だけである。
 
 死者のイデオロギーや価値観は、後の社会に受け継がれていかない。
 
 

*1:ちなみに、子育てが集団的な新しいスタイルに移行した暁には、旧来の家父長的な抑圧はもちろん、核家族システムにありがちな抑圧の問題も、システムの再編によって消失するだろう。つまり、「エディプスコンプレックス」も「母子密着」も、そのような未来社会では問題とはならない。そのかわり、家父長的な抑圧が無くなった後に、核家族的な抑圧が新たに立ち上がってきたのと同じ理屈で、システムの再編によって、新しい抑圧が立ち上がってくると思われる。