シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ネットの炎上火力が強くなった話と、ネットが狭くなった話

 
 
 
 
「FF外から失礼します」に違和感を覚える人は、完全に遅れている(熊代 亨) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
 
 
 リンク先の記事は、「FF外から失礼します」からスタートして、インターネットの“世間化”について書き綴ったものです。
 
 とはいえ、ひとつの記事になにもかも詰め込むのは不可能だったので、書ききれなかった話を、ここに書きます。
 
 

過剰な繋がりが、炎上火力を強くした

 
 インターネットが“世間化”が進行した要因としては、マスメディアがSNSやYouTubeの投稿を引用するようになったから・日常的にネットを使う人が増えたからなどが挙げられます。
 
 それらに加えて、私が重要だと思っている要素は、「繋がりの過剰」、少し古い言葉を使うなら「ハイパーリンクに相当するものの過剰」です。
 
 昔、ネットサービスのインフラが充実していなかった頃は、個人のウェブサイトとウェブサイトを繋いでいたのは、各人が作ったハイパーリンクでした。google検索やyahoo!検索に頼れなかった頃、欲しい情報に辿り着く際にきわめて重要だったのがハイパーリンクで、ネットユーザーは、リンクからリンクへと“ネットサーフィン”しながら、目当ての情報を探して回ったものです。
 
 こうした“古き良き”インターネットにも、難しい騒動はありました。
 
 掲示板に攻撃的な書き込みを繰り返す輩や、接続情報をほのめかしたりするような輩が、そこここに存在しました。騒動が続いた結果、掲示板やウェブサイトが閉鎖され、ささやかなローカルコミュニティが壊滅する……といったこともありました。
 
 また、当時のインターネットは今よりも無法地帯だったこともあって、プロキシサーバ(串)を用いるなど、セキュリティに注意を払いながらやるのが当然、と考えているユーザーが多くいました。今日の炎上のような、何万人も集まってくる事態を心配する必要こそありませんでしたが、「ネットは危ない」という意識は一般的だったように思います。
 
 対して、現在のインターネットは、“ネットサーフィン”という言葉が死語になるほどアカウント同士、サイト同士は繋がりあっています。SNSをとおして、特にシェアやリツイートをとおして、情報はあっという間に拡散するようになりました。ネット上の素晴らしいもの・最低最悪なものにはコンテンツとしての価値があるので、まとめサイトやキュレーションサイトがすぐさま飛びつき、拡散をブーストします。もちろん、google検索やtwitter検索なども拡散に一役買っていることでしょう。
 
 結果、どうなったかというと、素晴らしいものへの「いいね!」も、最低最悪なものに対する炎上も、大規模なものが、急速にできあがるようになってしまったのです。
 
 リンク先で私は、「インターネットは“世間的”になった」と書きましたが、そこでいう“世間”とは、相互監視社会的な“世間”であり、正義感に酔った人々が徒党を組んで炎上を起こす“世間”でもあります。そのような“世間”ができあがった背景には、この、あまりにも繋がり過ぎてしまって、素晴らしいものも、最低最悪なものも、たちどころに拡散していってしまう情報環境があるのではないでしょうか。
 
 

過剰な繋がりが、インターネットを“狭く”した

 
 
 と同時に、過剰な繋がりによってインターネットは“狭く”なりました。
 
 10年以上前、インターネットを語る言葉として「ネットは広大だわ……」というものがありました。実際、過去のネットユーザーは、回線のスピードが遅かったことも相まって、本当に長い時間をかけてハイパーリンクをたどる旅を続けていました。
 
 それとは対照的に、現在のネットユーザーの情報収集に「長旅」という体感はありません。
 
 極端なことを言えば、自分のSNSのアカウントを開きっぱなしにしているだけでも、ちょっとした情報収集になってしまうのです。あるいは、検索エンジンに検索ワードを入力して、ものの数分で情報収集を“終えてしまったつもりになる”こともしばしばです。
 
 どちらの場合も、実際にはネットの情報環境の手近なところを撫でたに過ぎないのですが、だとしても、ものの数分で目的の情報に辿り着いた気分になってしまえば、「長旅」という体感は伴いません。そのぶん、インターネットの体感は“狭い”と感じられるようになります。
 
 東海道五十三次を徒歩で行いていたものが、新幹線で移動するようになったことで「東京と京都は近くなった」と体感するのと似たことが、インターネットという情報環境でも起こっているのではないでしょうか。
 
 付け加えると、「日本語圏のネットのどこに行っても、似たようなネット文化になってきた」のも、ネットが“狭く”体感されるようになった要因なのかもしれません。
 
 かつてのウェブサイトは、ハイパーリンクの細い糸で繋がりあっていたので、繋がり合わない者同士が出会うことは比較的少なく、お互いにローカルルールを墨守しながら、独自のローカルカルチャーを形成する傾向がありました。
 
 現在でも、ジャンルや思想信条によってはそういった傾向がみられないこともありません。しかし、現在進行形で起こっているのは、かつてはそれぞれにローカルルールを守っていた、いや、ローカルルールに守られていたローカルカルチャー同士が、さまざまに繋がりあうようになったことによって衝突や混淆を繰り返し、より共通したルールやカルチャーにまとまっていく、そんなプロセスではないでしょうか。
 
 たとえば2017年において、twitter、はてなブックマーク、アメブロ、匿名掲示板の言い回しやスラングは、どのぐらい違っているでしょうか? 10年前は、もっとそれぞれがそれぞれにに、ローカルカルチャー然としていたのではなかったでしょうか?
 
 東京にいようが京都にいようが、同じような人がいて、同じような店が立ち並び、同じようなモノが売られていれば、遠くまで旅に来たという感覚は薄まります。それと同様に、ネットのどこに行っても、同じようなネットスラングが使われ、同じようなコンテンツが並んでいれば、遠いところに繋がったという感覚は薄まってしまうわけで、これもひとえに、(国内の)ネットがあまりにも繋がり過ぎてしまった結果のように思われるのです。
 
 

本当は広大なインターネットを、“狭い世間”と体感する

 
 
 なお、実際のインターネットはwwwの内側も外側も拡大の一途をたどっていて、手の届かないところには知らない情報がたくさん眠っています。
 
 しかし、検索エンジンに頼ったネットライフや、フォロワーから情報が運ばれてくるネットライフに慣れきってしまった私達には、そのような手の届かないインターネットの彼方を意識したり体感したりする機会がありません。
 
 だから一連の話は、インターネットが「本当に」狭くなった主張するものではありません。
 
 そうではなく、インターネットが“狭い世間”と体感されるようになった、という話です。そして、その“狭い世間”という体感を生んでいるのは、個別のウェブサイトやアカウントというより、それらを繋げている現状のネットの仕組み――リツイートやシェア、検索エンジン、まとめサイト、キュレーションサイト、等々――なんじゃないか、といった話です。
 
 こうやって考えると、繋がり過ぎるのも良し悪しですよね。
 
 飽きてきたので、今日はこのへんで。