シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

脳が否定をストレスと感じる、ならば発信者はどうすべきなのか

  
blog.tinect.jp

 上記記事を読みました。大筋としてはそのとおりだと思いましたが、おっしゃるところの「批判過敏症候群」について、所感を書きたくなったので書きます。
 
 

少数の批判でも刺さることがあるのは事実

 
 しんざきさんが指摘されたように、たくさんの賛意を集めているにも関わらず、ごく少数の批判がやけに気になる・ストレスを感じる場面はある、と思います。
 
 たとえばブログに記事を書いて、PVが40000ぐらい、はてなブックマークのコメントが300個、twitterでの言及が300個ぐらいついたとします。コメントの内訳は、賛成や肯定に近いコメントが6割、中立的なコメントが2割、批判や誹謗中傷をあわせた、否定的なコメントが1割、文章が読めていないコメントが1割、ぐらいとしましょうか。
 
 多数決の理屈で考えるなら、これは、大成功なブログ記事です。
 
 しかし、このような場合ですら、私は自分がストレスを感じている、と認識しています。
 
 批判的なコメントや誹謗中傷が1割でも、300個の1割は30個です。30人が、自分の記事になんらか否定的なことを書いているさまが目に飛び込んでくるわけです。残りのコメントが賛成~中立だったとしても、ストレスになることがあります。文章が読めていない反応も、あまりに多ければ地味に嫌なものですね。
 
 こういう時に、よくある反論は「批判されているのは文章であってあなたじゃない」ですが、そんなに簡単に割り切れない、と私は思っています。また、文章への批判ではなく、人格攻撃に類するコメントも混じってくるのがインターネットの日常ですから、この手の反論は、大量の否定コメントに出くわした時の気休めにはなりません。
 
 長くブログを書き続けていると、こうしたストレスが澱のように蓄積して、心を澱ませていくのではないか、と私は疑っています。
 
 もちろんブロガーたるもの、そう簡単にはストレスは通らないし、98%ぐらいは防げているとは思うんです。数十人からの批判や誹謗中傷ぐらいで精神をやられてしまうようでは、ブロガーなんてやってられません。
 
 でも、そういったストレスが「絶無」というわけではないのです。そうしたストレスの蓄積による影響が、本当に「無い」と言えるでしょうか?
 
 「たくさんの人が集まった時に不可避的に混じってくる、否定にともなうストレス」は、かつては、政治家や芸能人といった、一握りの人だけの問題でした。
 
 ところが情報技術が発展し、とくにインターネットが普及したことにより、こうした問題にたくさんの人が曝され得るようになりました。誰もが繋がりあい、いつでも集まれるインターネットでは、数百人以上から注目されることなどザラです。それで一撃ノックアウトになってしまう人もいれば、うまくやり過ごしている人もいます。なんにせよ、否定が飛び込んでくる状況に対応できなければ、インターネット上で何かを発信し続けるのは難しいでしょう。面倒くさいことですね。
 
  

それは人間の脳の“仕様”ではないか

 
 私は、人間の精神というものは、数人程度から否定されてしまうと、かなりのストレスを感じるようにできているのではないかと疑っています。
 
 人類の遺伝的傾向ができあがった新石器時代には、人間は300人ぐらいの集団で生活していたと聞きます。その小集団のなかでは、数人程度に否定されるだけでも、生存や生活が脅かされたことでしょう。だから人類の遺伝子には、「数人程度から否定されると強いストレスを感じて、そういう状況を全力で回避したくなってしまう」ような“仕様”があると私は想定しています。
 

昨日までの世界(上) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

昨日までの世界(上) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

 
 
 「数人程度に否定されるとストレスに感じる」ような“仕様”よりも、「過半数に否定されるとストレスに感じる」ような“仕様”のほうが理にかなっているようにみえますが、あくまでそれは現代人の感覚。つい100年ほど前まで、人類社会では警察力もあてになりませんでしたから、「数人程度に否定されるとストレスに感じる」のほうが実地に即していたでしょう。怒りや恨みによる殺人や復讐が横行していたのが、人類社会の常でしたからね。
 
 じゃあ、王や英雄はどうなんだと言う話になりますが、私に言わせれば、王や英雄は異常者だと思います。何千人~何万人を束ねて、護衛がいるとはいえ、ときには憎まれたり敵対されたりしても人の上に君臨した彼らは、まさに、王や英雄に相応しい存在です。
 
 王や英雄がしばしば傲慢で、逆らう者に容赦しなかったのも、そのような性格、そのような振る舞いが、王や英雄がストレスを防衛するうえで適していたからではないでしょうか。これは、古代の王や英雄に限らない話で、たとえばチャーチルやレーニン、たとえば歴代のアメリカ大統領などを思い出すと、そのような傲慢な性格や振る舞いは、ときには数万人からの否定に曝される立場には必要なんじゃないかと思います。
 
 さて、人間の自己愛について研究したハインツ・コフートは、自己愛が傷つきやすい人が自分のメンタルを守るための防衛機制として、「1.面の皮の厚い傲慢さに徹する」と「2.目立たないようにする」を挙げていました。このことは、たくさんの人から注目を集め続ける人が、だんだん面の皮が厚くなって傲慢になっていく(または、面の皮が厚くて傲慢な人が、たくさんの人の注目を集めていく)ことと合致しているように私は思います。
 
 コフートが語ったは、自己愛が傷つきやすい人の防衛機制でしたが、たくさんの人から注目を集め続ける人にも、似たようなことが当てはまるのではないでしょうか。たくさんの人の注目を集めて、たくさんの否定を目の前にしてもメンタルを守るための適応のかたちとして、厚顔無恥や傲慢、鈍感のたぐいは、ときに必要のように思われるのです。
 
 もちろん、ストレスに耐えながら、あらゆる否定に耳を傾けられる「理性の人」をやってのけられるなら、それもいいでしょう。ですが、それもそれで一種の異常者です。傲慢な王や英雄のたぐいより、よほど人間離れした異常者かもしれません。
 
 私が人間を眺める時のお気に入りのアングルは、「人間は、どんなに理性的に行動しているつもりでも、内心の情動やストレスの影響を受けずにはいられない」です。人間は、理性的・社会契約的存在である前に、一匹の動物なのですから、理性によるブロックやフィルタリングには限界があると想定せずにはいられません。芸能人がファンレターを事務所を通して受け取るように、否定に対しては、もっと即物的なブロックやフィルタリングもときには必要だと思います。それは、自分の理性や悟性をあまり信じるな、という話にも繋がっているのですが、私はシロクマ、つまり一匹の動物を自認するブロガーですから、もちろん、理性や悟性より、情動や反応を信じています。
 
 情動やストレスの影響を受けてしまうのは、現代社会の人間にとって厄介なことです。ですが、自分は理性的な人間だから情動やストレスの影響をコントロールできると思い込むのは、輪をかけて厄介なことだと思います。だから、「自分は、数人程度の否定に曝されるだけでも影響を受けかねない、そういう動物だ」と認めてしまっておいたほうが、かえって良いように私は思っています。
 
 

結局、発信者はどうすれば良いのか?

 
 では、否定に曝されてストレスを感じてしまう私達は、どうすれば良いのでしょうか。
 
 極端な解決法は、一部の炎上ブロガーのように、思いっきり傲岸不遜になったうえで、気に入らないコメントを片っ端からブロックやミュートで視界から追い出してしまうことですが、そこまでやらなければならない人はあまりいないでしょう。
 
 四六時中炎上しているわけでも、記事を書くたびに否定のコメントが何十何百と殺到するわけでもない発信者は、ブロックやミュートをそこまで使う必要はありません。
 
 ブロックやミュートを使い過ぎてしまうと、どうしてもインターネットが視野狭窄気味になってしまいます。傲岸不遜も似たようなもので、イエスマンにばかり耳を傾けて、役に立つ批判にも耳を塞いでしまえば、どんどん頭が悪くなっていくでしょう。多少のストレスに耐えられるなら、ブロックやミュートを使い過ぎないほうが利口でいられるとは思います。
 
 ただし、ブロックやミュートは、ストレスの防御というだけでなく、インターネット上のノイズを除去する手段としても無視できません。自分のタイムライン、自分のインターネットの視界は、自分の責任でもってメンテナンスしなければなりません。むやみに視界を狭めて、思考まで偏ってしまうのは考え物ですが、それはそれとして、ノイズコントロールの必要はあります。
 
 結局、自分のブログやアカウントの運用状況、自分自身のストレス耐性、性格傾向などによって、ベストな解決法は違っていると考えるべきなのでしょう。全面的にブロックやミュートを用いるのがベストの人や、傲岸不遜で厚顔無恥なスタイルがベストの人もいるでしょう。もちろん、それらは視野狭窄にまっしぐらなやりかたですが、諸事情により他に選択肢が無いなら、視野狭窄を起こしてでもそうするしかありません。
 
 また、ブログやtwitterアカウントの注目度が変わるにつれて、否定に曝される頻度や程度も変わっていきますから、ベストを絞り込まず、状況に応じてベターを変えていく必要もあるでしょう。同じブロガーでも、10年前と現在ではやりかたが全然違う、というのは珍しくありません。私だってそうですし、おそらく、しんざきさんもそうなのではないでしょうか。
 
 このあたり、しんざきさんとじかに話し合えばもっと知見が得られて楽しい気はするのですが、ブログ上で、大っぴらに社会適応の手の内を明かし合うのもなんですから、今日はこのあたりでお開きとさせていただきたいと思います。