シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れない

 
 精神医療が世の中を変えて、世の中が精神医療を変えていく。
 
 そういう視点で、精神医療と世の中の相互作用を眺めていると、つい、ブロガーっぽいことを考えたくなる。
 
 
1.昔の精神医療には「狂気」しか無かった。
 
 「発達障害」も「社交不安性障害」も「境界性パーソナリティ障害」も昔は存在していなかった。今日ではよく知られている心の病気が出揃ったのは、20世紀になってからのことだ。
 

 十八世紀には、たったひとつしか心の病気が存在しなかった。狂気 insanity である。狂気という診断が意味していたのは、今日の臨床家が精神病という語で意味しているもの、あるいは口語的に「狂った crazy 」と言われているものだった。「狂気」とは、多くの場合妄想や幻覚を伴ったり、重いメランコリ―や高揚状態を伴うなど、患者が現実となんらかのかたちで接触を失っている状態のことを意味していた。
(中略)
 狂気というひとつの病気だけが存在するというこの単純な疾病分類は、十九世紀の大半を通じて米国とほとんどのヨーロッパを支配下においた。
 ナシア・ガミー『現代精神医学原論』 より引用

 
 心の病気が「狂気」ひとつだった頃、メンタルヘルスの問題として治療の対象になっていたのは、かなり重症の「狂気」に該当する、比較的少数だった。しかも、すべての「狂気」が精神医療を受けているわけではなく、「狂気」の多くは街に存在し、放浪者の群れ、居酒屋の酔客の殴り合い、路上での痴話ゲンカといった風景のなかに含まれていた。
 
 医療制度や福祉制度が弱く、警察力も行き届かなかった過去の社会では、「狂気」という単一の分類でもおそらく十分だったのだろうし、そこまで絞ってすら、すべての「狂気」を手当てする見込みが無かったのだろう。
 
 黎明期の精神医学は、未来への発展可能性という意味では疑いなく重要だった。だが、当時の世の中を塗り替えるほどの影響力があったとは、考えにくい。
 
 ところが、19世紀に統合失調症*1が発見されたのを皮切りに、「狂気」は細かく分類されはじめた。今日、精神疾患として知られている諸々の原型は、20世紀の中頃までにはだいたい発見されて、研究家によって詳しく書き残された。なかでも、治療方法や治療の見通しについて大きな違いの見出せるいくつかの精神疾患が注目されていった。
 
 80代ぐらいの大先輩から昔話をうかがうと、昭和時代の精神科医は、3つか4つの病名に分類できれば、だいたい間に合ったらしい。
 
 つまり、統合失調症、躁うつ病(うつ病含む)、神経症の3つ、あるいは、癲癇(てんかん)を加えて4つ、ということだったらしい。
 
 20世紀の中頃から、精神医学の世界でも有用な薬物が発見されはじめた。が、抗うつ薬や抗精神病薬や抗てんかん薬は、こうした分類に概ね収まるものだった。そして、精神医療を実際に受ける人の割合は、まだまだ少なかった。
 
 
2.ところが20世紀の後半あたりから状況が変わっていく。
 
 これまでのシンプルな分類には当てはまらない、しかし当人や周囲が困り果てて精神医療の門をノックする人の割合が、少しずつ増えていった。
 
 たとえば、境界性パーソナリティ障害などもそれにあたる。
 
 人間関係が不安定で、衝動的で、情緒も安定しない――境界性パーソナリティ障害のような人物像はとりたてて新しいものではない。太宰治はそれに近いし、ドストエフスキーの作品にもそれらしい人物像が描かれている。
 
 だが、そのような人物が精神医療の門をノックすれば、それは「患者」や「症例」となり、病気として認識されることになる。この、新しい治療ニーズに応じるべく、精神科医は研究を重ね、疾患概念を確立し、知識を広めていった。
 
 日本でも、1980年代には、この境界性パーソナリティ障害*2が知られるようになり、90年代後半の心療内科ブームを経て一般にも広く知られるようになった。「ボダ」というネットスラングが生まれたのも、そういった経緯の延長線上にある。
 
 うつ病や神経症と同じ手当てが通用しない、しかし20世紀後半の社会には適応しにくい境界性パーソナリティ障害のような病気を、新しい病気として定義し、手当てを確立していったのは、世の中に対する精神医学の貢献だったと私は思う。
 
 社交不安性障害(SAD)などについても同じことが言える。人的流動性が高まり、産業の大黒柱がサービス業となった社会状況のなかで、コミュニケーションに際して動悸や不安が生じる病気をピックアップし、SSRIや認知行動療法で手当てしていけるようになったのは、精神医学の面目躍如といえる。
 
 このように、新しい病気が治療の対象となり、それらが世の中に広く知られるようになって、より多くの患者さんが適切な手当てにアクセスできるようになった。統合失調症やうつ病も、早期発見・早期治療の合言葉のもと、重症になるまで放っておかれる人が減少し、より多くの人が精神医療を受けるようになった。これらは、「受診した患者さんの生活の質に貢献する」という医療の原則にも合致しているし、社会全体の経済生産性にも貢献しただろう。
 
 
3.しかし、本当に良いことづくめだったのだろうか?
 
 さきに書いたように、「受診した患者さんの生活の質に貢献する」という点では、精神医療は良いことをしてきたし、診療の現場では、目の前の患者さんに貢献すること以外は考えなくても構わないと、私は思う。
 
 では、精神医療とは無関係に街で暮らしている人や、世の中全体にとっても、これは良いことづくめだったのだろうか?
 
 「世の中が変わって、それに伴って新しい治療ニーズが生まれて、それで受診した患者さんの生活の質に貢献できるなら、良いことに決まっているじゃないか」と人は言うかもしれない。
 
 然り。
 
 世の中が変わって、それに伴って治療ニーズが生まれて、それで患者さんの生活の質が向上すること自体は、良いに決まっている。
 
 ここで私がちょっと引っかかっているのは、世の中の変化にあわせて新しい治療ニーズが生まれ、境界性パーソナリティ障害や社交不安性障害といった病気が広く知られるようになったことをとおして、世の中の常識や人間観が精神医療によって修正を受けているんじゃないか、というものだ。
 
 この引っかかりを、もう少し疑い深い路線にすれば、「精神医療のシステムが、世の中の常識や人間観をコントロールしているんじゃないか」となろうし、もう少し控え目な路線にすれば、「精神医療のシステムは、世の中の常識や人間観の変化をブーストしているのではないか」となるだろう。
 
 まだ、境界性パーソナリティ障害も社交不安性障害も知られていなかった時代、たとえば1980年頃のことを思い出してみて欲しい。
 
 世の中には、それらに相当する人がまだたくさんいて、その大半は精神医療を受けていなかった。その状況を、「精神医療が行き届いていなかったから、生活の質の低い状態に甘んじていた」ということもできよう。だが、正反対に考えるなら、それらに相当したとしても社会に包摂されていたということでもあり、それそのままでも生きていけた、という見方もできるのではないだろうか。
 
 たとえば昭和演歌の歌詞を思い出してみて欲しい。今にして思えば、昭和演歌で歌われるロマンは、境界性パーソナリティ障害、アルコール依存症、共依存といった、現代では精神医療と馴染みの深いもので満ち溢れていた。
 
 いや、演歌に限らず、たとえば尾崎豊の『15の夜』にしても、チェッカーズの『ギザギザハートの子守歌』にしてもそうだ。心療内科が一大ブームになる以前の歌謡曲には、今だったらメンタルヘルスの病気とみなされそうなフレーズがゾロゾロと出てくるが、そういった歌はたくさんの人に支持されていた。特定のニッチがそうなのでなく、テレビや有線放送のメインストリームとして、今だったら精神医療を連想させるような歌詞がどんどん流れ、みんながそれを当たり前のものとして受け取っていた。
 
 80年代においても、『15の夜』や『ギザギザハートの子守歌』で歌われていた人物像は、社会適応の雛型から遠かったに違いない。演歌に出てくる人物像も同様で、手堅い生き方をしている人達からみて、眉を顰めるような人物像だったには違いない。
 
 それでも、社会はそのような人々を含んでいたし、そのような人々がそれそのまま社会に存在することに、誰も疑問は感じていなかった。ましてや、精神の病気として治療が必要だと考える人は、一部の精神科医をのぞけば非常に少なかっただろう。
 
 しかし、精神医療の新しいニーズが世の中にどんどん浸透し、境界性パーソナリティ障害などが病気として広く知られるにつれて、そのような人々は医療機関を受診するようになり、診断を受けるようになり、治療を受けるようになった。やがて社会は、そのような人々が医療機関を受診するのが望ましい、いや、未受診・未治療であるのはおかしい、とみなすようになった
 
 「あなたは情緒が安定していない。だから精神科や心療内科に行きなさいよ」「これは心の病気だから、治療を受けて治す必要があるね」――こういった台詞の該当範囲が、重い精神病の領域から、かなり軽く、かなり広い範囲に広がっていったのである。
 
 そして、心の病気の該当範囲が広がって、そのことが周知徹底された結果として、心の病気に該当しない範囲は相対的に狭くなった。もはや、昭和演歌や『15の夜』の歌詞のような人物像は、それそのままで社会に存在することを許されない。
 
 誤解を受けたくないのでしつこく繰り返すが、私は、新しい病気が治療の対象となり、それらが広く知られるようになり、より多くの患者さんが適切な手当てにアクセスできるようになったこと自体は良いことだと思っている。
 
 また、こうした変化が、精神医療の活動だけによってもたらされたと主張したいわけでもない。
 
 こうした変化をもたらした要因としては、都市化や郊外化、人的流動性の高まり、個人主義的イデオロギーの浸透、ライフスタイルの“先進国化”といった、世の中そのものの変化による影響のほうが大きいと見積もるのが筋だろう。
 
 とはいえ、変わりゆく世の中に歩調を合わせるように、精神医療は次々に新しい病気をクローズアップし、世の中に知られるよう努力し、治療ニーズを開拓していった。そして、境界性パーソナリティ障害や社交不安性障害といった病気がみんなに知られるようになると、それらに該当する人をそれそのままに社会のなかで受け容れるよりも、治療を受けるのが望ましいように、常識や人間観が変わっていった。こうした変化を促したという点において、精神医療は、変わりゆく世の中の変化に加担したと言えるし、現在の私達の常識や人間観をかたちづくる重要な一要素になったとも言える。
 
 境界性パーソナリティ障害や社交不安性障害などを誰も知らなかった時代には、もう戻れなくなった。
 
 
4.そして21世紀の日本では、発達障害がトピックスとなった。
 
 自閉症スペクトラム障害(ASD、いわゆるアスペルガー障害を含む)も、注意欠陥多動性障害(ADHD)も、病気としての概念自体は20世紀のうちに存在していた。が、診断されることは比較的稀だった。これらの発達障害に該当している人のうち、当人や周囲が困り果てて精神医療の門をノックする比較的重症な患者さんについても、統合失調症や境界性パーソナリティ障害といった他の診断名で対処されていることが多かったといわれている。
 
 だが、発達障害がにわかにトピックスとなり、日本全国の精神科医が積極的に診断と治療に取り組むようになると、ASDとADHDの診断頻度はものすごい速度で増加した。メディアでも啓蒙活動が盛んに行われ、これらの病名は、非常に有名になった。今までは男性に多いと思われていたASDやADHDが、実は女性にもかなり多いことも判明した。
 
 ASDやADHDがトピックスとなり、みんなに知られるようになっていった背景には、精神医療の進歩だけでなく、21世紀の人々が社会適応するためのハードルが20世紀よりも全般的に高まり、一部のホワイトカラー層にだけ求められていた資質が、より多くの人々に求められるようになった、という変化があるだろうとは思う。少なくとも、ことの始まりに関しては、この両者だけでほとんどの説明がつくはずだ。
 
 しかし、燎原の火のごとく病名が広まり、たとえば、空気を読めないクラスメートを高校生が「アスペ」などと呼ぶようになり、夫婦間のディスコミュニケーションはカサンドラ症候群ではないかと積極的に疑われるフェーズに入ってからは、それだけとも思えない。ASDやADHDに該当する人は、まず診断・治療を受けるべきと誰もが思うようになったことによって、(特に軽度の)ASDやADHDに相当する人がそれそのままに社会のなかで受け容れられる可能性はむしろ低くなったのではないか?ますますもってASDやADHDを精神医療が引き受けなければならない、診断や治療をしなければならない、一種のマッチポンプ現象が起こっているのではないだろうか?
 
 個別の患者さんがASDやADHDと診断され、それに見合った手当てを受けたり処世術の再構築を期したりするのは良いことである。とりわけ、ASDやADHDに該当する子どもが早々に発見されて、養育が工夫されたり治療が導入されたりすることには大きな意義がある。
 
 しかし、そのことは別にして、ASDやADHDにぎりぎり該当する人までもが次々に精神医療の対象となり*3、誰もがASDやADHDを病気として認識するようになって「あなたは空気が読めていない。だから精神科や心療内科に行きなさいよ」「不注意で落ち着きが無い子だから、治療を受けて治す必要があるね」とみなすようになった社会は、果たして、ASDやADHDに該当する人が、それそのままに社会のなかで受け容れられやすい社会になったと言えるのだろうか?
 
 1980~90年代において、空気が読めないこと・落ち着きが無いことは、精神医療に直結する問題ではなかった。今だったらASDやADHDと診断されるような人々も、当時の社会に適応するのに苦労はしていただろうし、当時だったら、たとえば「オタク」というレッテルを貼られて敬遠されるぐらいのことはあったかもしれない。だとしても、空気が読めないこと・落ち着きが無いことが病気に直結することはなく、そのような人は、社会のあちこちにそれそのままに暮らしていたように記憶している。
 
 私が通っていた小学校や中学校、私が属していた地域社会にも、今にして思えばASDやADHDに該当する生徒はそれなりいたが、苦労しつつも、学校や教師や地域は彼らを包摂していた。彼らは変わり者や困り者と思われていたかもしれないが、病気だとは誰も思っていなかった。
 
 だが、今はそうではない。誰もがASDやADHDといった病名を知っているし、それらが社会適応にどんな問題を引き起こすのかも周知されている。そういった病名が知られていったプロセスのなかで、精神科や心療内科を受診した患者さんそれぞれに福音があったのは間違いなかろう。それは基本的には良いことで、必要なプロセスだった。だが、病名がみんなに知られて、それらが社会適応にどんな問題を引き起こすのかも周知されてしまったことによって、ASDやADHDは、いよいよもって、診断・治療されなければならない病気になってしまった
 
 今日の社会では、精神科医だけでなく、みんなが発達障害に敏感だ。
 
 乳幼児期のスクリーニング検査に引っかからないような、比較的軽めのASDやADHDの生徒が、中学校や大学の先生に指摘されて、受診するようになった。
 
 会社の上司や同僚に「発達障害ではないか」と言われて受診する人もいる。二十代のASDやADHDの若者が不適応を起こして受診するばかりとは限らない。五十代六十代の人生のベテランが、肩を落として精神科の門を叩くこともある。
 
 また、ASDやADHDは夫婦関係の大きなハードルとしてすっかり知られるようになった。伴侶が発達障害であることを知って、それにうまく対応する夫婦もいれば、伴侶が発達障害であることを知って、そこから離婚に至る夫婦もいる。
 
 しつこくて恐縮だが、ASDやADHDが病気として知られるようなって、医療や福祉の手が差し伸べられるようになったことは、個々の患者さんにとって良いことだし、ASDやADHDが病気とみなされ、配慮が必要とみなされるようになったことによって得られるメリットは確かににある。
 
 しかし、ASDやADHDが病気とみなされ、配慮されるようになったということは、ASDやADHDが病気とみなされなければならなくなったということ・配慮されなければならなくなったということと、同時進行だったことを、ときどき思い出しておいたほうが良いのではないだろうか。
 
 発達障害のことを誰もが知っている社会ができあがればできあがるほど、発達障害に該当する人は、精神医療による診断と治療を免れたまま、それそのままに暮らすことが難しくなっていく。変わり者や困り者と思われながら包摂されることも難しくなる。かわりに、発達障害の人は精神医療を受け、医療や福祉の手当ての対象となり、発達障害という診断を前提として社会に受け容れられることとなる
 
 このような大局的な変化は、どこまで良いことで、どこからまずいことなのだろう? そして今まで発達障害と診断されてきた人はともかく、これから発達障害と診断されるであろう人、あるいは発達障害と決して診断されることのない人に、どのような社会的影響を及ぼすのだろう?
 
 なにより、この現在進行形の変化は私達の社会の常識や人間観をどのようなものに変えて、心の病気に該当しない範囲は、これからどうなっていくのだろうか。
 
 
5.白衣を着ている時、私が考えていることは単純だ。
 
 目の前の患者さんにとってのベストを考えること。目の前の患者さんの生活の質の向上や社会適応のお手伝いをすること。精神科医としての診断技能や治療技能は、そのためのツールだし、そこに疑問や不安は存在しない。学界の指導に従いながら、精一杯のことをするだけだ。
 
 だが、白衣を脱ぎ、社会の常識や人々の人間観の移り変わりについてブロガーとして考える時、私は、精神医療という大きなシステムと、社会という更に大きなシステムとが影響を及ぼし合った結果として、どのような相互作用が起こるのか、つい考え込んでしまうし、疑問や不安が生じることがある。
 
 社会は、構造化された診療面接や、医療者の善意や、操作的診断基準の理念のとおりにはできていない。社会の常識や人間観は、精神科医の思惑通りにではなく、社会との相互作用に沿ったかたちで変わっていく。何かを診断すること・何かを名付けること・何かを知らしめることは、医学的・経済的利益だけをもたらすわけではない。社会に広まれば広まるほど社会的影響をも呼び起こし、それが明日の社会のかたちを、ひいては未来の人間が社会に適応するために必要とされるものをも変えていく。
 
 精神医療は、ミクロな個人にも、マクロな社会にも、多くの貢献をしてきた。そのことを疑う必要は無いし、これからも多くの貢献が為されるだろう。ただし、たくさんの良い事を為せば、それに付随して、ひとつやふたつの瑕疵、あるいは副作用のような変化がついてまわるのが世の常でもある。

 つまり、発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れないのだ。

 精神科医としての私は、これからも目の前の患者さんにとってのベストしか考えないが、ブロガーとしての私は、社会の常識や人間観の変遷について、過去と未来をもっと見つめて、もっと勉強したいと思う。
 
 

*1:昔の呼び方で言う、分裂病

*2:厳密に言うと、当初は境界性パーソナリティ障害ではなく、境界例、あるいは境界線例というべき、もう少し広い疾患概念だった。

*3:注:ここで、ASDやADHDがスペクトラムという概念であることを思い出しておいていただきたい。