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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

コミュニケーションのプロトコルを「茶番」って呼ぶのは、身に付けてからにしましょうね

syakkin-dama.hatenablog.com
 
 世の中には、上記リンク先で「茶番」と言われているような場面が尽きません。
 
 その典型が就活面接ですが、似たような「茶番」は、仕事に就いた後もずっと人生についてまわります。
 
 必要な時に、大きくハッキリした声を出せること。
 嘘ではないが本音どおりでもない「夢」や「目標」を語ること。
 無意味に思える指示にも、「わかりました」と答えること。
 
 こうした「茶番」に対し、はてなブックマークには「未開民族の儀礼や慣習に似ている」って書いている人もいます。ですが、それを否定的にでなく、肯定的に捉えるべきだと私は思いました。
 
 もし部族Aで、会った者同士が頭を下げる慣習があるとわかっているなら、それを身に付けておいたほうが部族Aではコミュニケーションしやすいでしょう。その慣習を突っぱねたら、無用な誤解や無礼を招くかもしれません。
 
 同じことは、相手が部族Bや部族Cの時にも言えます。いや、先進国でも事情は同じでしょうし、宇宙人とコミュニケーションする時も同じでしょう。
 
 どの部族、どの文化圏にも、そこで重視され、通用するコミュニケーションのプロトコル、様式が存在するのですから、上手くコミュニケーションしたい人は、それらを知って身に付けるのが望ましいはず。それらを身に付けずに軽蔑してばかりでは、そのぶん、コミュニケーションに失敗しやすくなるでしょう。
 
 コミュニケーションにまつわる風習やプロトコルは、無意味なものではありません。それが通用する人々の間で円滑にコミュニケーションできるようにするための、共通の決め事なんですよね。
 
 冒頭で借金玉さんが仰っている「茶番」も、これとまったく同じだと思うのです。日本文化圏、特に日本のホワイトカラー文化圏でコミュニケ―ションしていくための、基本的なプロトコルが就活では問われているのだと思います。もちろん、昨今の就活状況は「やりすぎ」の域に突入しているように聞こえますし、プロトコル以外の部分もきちんとチェックされているのだと思いますが。
 
 こういう、コミュニケーションにまつわる風習やプロトコルって、就活になって唐突に姿をみせるわけではありません。学校の入学式、卒業式、運動会、文化祭、参観日、さまざまな場所で、さまざまに姿をみせるわけです。ときには生徒指導のようなかたちで伝授され、ときには先生や親が集まる場でお手本を見ることもあったはずです。
 
 つべこべ言っても、学校ってのはホワイトカラーな人間を再生産する場ですからね。
 
 テレビや新聞で、やたらとキラキラした学生のスピーチを見かけることがありますが、あれだって「茶番」といえば「茶番」ですね。「茶番」というより「盛っている」という表現のほうが妥当かもしれませんが。でも、メディアに向かってああいうことが言えているのは、コミュニケーションのプロトコルをキチンと守れているってことだと思いますし、あれはあれで社会適応のスキルの発露と言えます。

 ああいった「茶番」やプロトコルによって失われてしまうもの・隠蔽されてしまうものがあるのも事実でしょう。青臭い若者なら、「ありのままじゃない」「嘘くさい」とか言い出す人もいるかもしれません。正直に言うと、私にもそういう感覚は残っています。
 
 でも、逆に考えると、「茶番」すなわちコミュニケ―ションのプロトコルを守ることによって、自分自身の内心のゴチャゴチャしたところを丸出しにすることなく、社会的に適切な表現にモディファイできているってことでもあるんです。それって、便利なことではないでしょうか。
 
 

「茶番に慣れていない」=「コミュニケーションに慣れていない」

 
 就活のような、「茶番」をやるべき時にやれない人は、「コミュニケーションする意志と能力が足りていない」とみなされるかもしれません。
 
 だって、日本じゅうで採用されているコミュニケーションのプロトコルなのに、就活という重要場面ですらそれが実行できないってことは、「ははあ、この人は、コミュニケーションする意志が無いか、コミュニケーションする能力が無いか、どちらかなんだろうなぁ」と思われても仕方ないとは思うんです。
  
 さきほど述べたように、こうしたコミュニケーションのプロトコルは、就活の時期に唐突に現れるわけではありません。学生時代から繰り返し学ぶ機会があったはずです。「大きな声で返事をしなさい」などは、学校の先生、特に、生徒指導の先生あたりが耳にタコができるほど言っていたはずじゃないですか。
 
 他方で、体育会系の人達などは、生徒指導の先生には忠実でなくとも、先輩-後輩の関係をとおしてプロトコルを叩き込まれます。彼らは、自分のアタマで考えて「茶番」を身に付けたのではなく、先輩の言うとおりに「茶番」を強制インストールしただけなのかもしれませんが、結局、世渡りがうまいのは後者です。
 
 「下手な考え休むに似たり」といいますか、自分のアタマで考えて「茶番」は要らないと判断した人達は、就活に限らず、コミュニケーションのあらゆる場面で損をし続けるのでしょう。プロトコルの不実行によって負うことになるコミュニケーションの失敗確率が、-3%程度のペナルティだったとしても、何年も、何十年も続けば、計り知れない損失です。人生と社会適応に大きな影を落とすでしょう。このあたりは、オンラインゲームやソーシャルゲームをやり込んでいる人なら実感できるんじゃないでしょうか。
 
 

「茶番」スイッチをon-offにできる人間が最強

 
 ちなみに、芥川龍之介は『侏儒の言葉』のなかでこんな箴言を言っています。
 

侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫)

侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫)

 

 最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。
 芥川龍之介『侏儒の言葉』より

 ここまで述べてきた「茶番」=コミュニケーションのプロトコルとは、まさに社会的因襲にほかなりません。
 
 この箴言を私なりに解釈すると、“「茶番」をこなしながらも、それに呑まれず、自分自身は醒めていなさい”って感じになります。
 
 ただ、冒頭リンク先で借金玉さんがおっしゃっているように、「茶番」に対してシニカルになりすぎると、それが態度に出てしまってトラブルの元になるので、実際には、「茶番」モードとシニカルモードを on-off できるのがベストだと思います。
 
 コミュニケーションのプロトコルは便利ですが、しょせん、因襲でしかありません。万有引力の法則などに比べれば、揺らぎやすいものです。本当の本当に必要な場面では、あえて破ったほうが良いこともあるかもしれません。だから「茶番」を絶対視してしまうのも、それはそれで融通のきかない生き方です。
 
 まあしかし、コミュニケーションの決め事やプロトコルを「茶番」と呼んで軽蔑するのは、そのあたりの切り替えがスムーズにできるようになってからであるべきで、ロクにできないまま放置しておくのは、長い目でみて損の多い生き方だと思います。
 
 コミュニケーションは、剥き出しの真実や純粋な心がぶつかり合うのでなく、風習とか因襲にコーティングされた、プロトコルのなかで進んでいくものです。これは、仕事場面だけでなく、恋愛や友人関係についても言えることです。そういったプロトコルによって助かっている部分もあるし、それで捉えにくくなっている部分もありますが、とにかく、そういうものとして、適応していくっきゃないよね、と私は思います。