シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

2010年代とはどういう時代だった(である)のか

 
 2016年が終わって2017年が始まった。
 
 正月放談というには少し時期が遅いけれども、そういう気分なので第三次世界大戦の不安とか、つらつらと書いてみる。
 
 よく、「90年代はこういう時代だった」「00年代はこういう時代だった」といった物言いがされるけれども、そういった十年単位の時代の眺め方ってのは、だいたい、それぞれの時代の6年目から7年目ぐらいにみえてくると私は思っている。
 
 たとえば00年代で言うと、インターネットではYouTubeやニコニコ動画やSNSが躍進し、サブカルチャーの勢力図が「オタク」*1方面に大きく塗り替わった。こうした兆候は00年代の前半からみられてはいたし、慧眼な人はとっくに察知していたのだろうけれど、そういった変化に多くの人が気付いたのは、00年代の中頃を過ぎたあたりだった、と言いたいわけだ。
 
 で、そういう目線で過去のdecadeを振り返ってみると、
 
 80年代:
 冷戦終結に向けて大きく針が動いた十年。J-POPがバカ売れする時代ができあがっていった十年。コンビニエンスストア、デオドラント文化、ワンルームマンションといった90年代以降の個人生活の基盤ができあがった十年。
 
 90年代:
 資本主義陣営がヘゲモニーを握って図に乗っていた十年。バブル景気が崩壊し、「失われた十年」が約束された十年。制服少女の性が「商品」として定着していった十年。恋愛をベースとした結婚システムが爛熟し、その限界に向かって突き進んでいった十年。
 
 00年代:
 アメリカをはじめとする西側陣営が「テロ」に直面しつつも、国際介入には失敗し続けた十年。「自己責任」や「コミュニケーション至上主義」が意識として浸透していった十年。サブカルチャーの傍流だった「オタク」的なコンテンツが社会に浸透しはじめた十年。若者にとってのメディアが、テレビからインターネットになっていった十年。
 
 
 こうした事は、それぞれの十年の前半にはわかりにくいが6年目、7年目ぐらいになってくるとあるていど輪郭が掴めるようになっていた。少なくとも00年代の頃には私はそのように感じていたので、同じように10年代のこれまでを振り返り、これからを想像してみたいなぁと思う。
 
 

2010年代は「新しい戦前」の十年

 
 もう、各方面の偉い人が散々述べていることではあるが、私も、2010年代は「新しい戦前」と「閉じこもり」への十年と記憶されるだろう、と思う。
 
 10年代の前半から、軍靴の足音を想像せずにいられない出来事が何度も何度も続いている。
 
 北朝鮮。尖閣諸島。アラブの春とその顛末。欧米で繰り返されるテロ。シリア内戦と難民問題。ロシアと中国の跳梁。そして、ホワイトカラー層の好むレトリックで言うところの“ポピュリズムの台頭”と“反グローバル主義”。
 
 思想という意味でも、勢力という意味でも、90年代には盤石にみえて、00年代にも優勢が続いているようにみえたこれまでの「秩序」が、この数年間で大きく揺らいだ。ソ連が崩壊した頃には想像もできなかったような国際社会の地平が、眼前に広がっている。
 
 「秩序」に挑戦する側から「秩序」をメンテナンスする側にいつの間にか鞍替えしていたマスメディアも、2016年に相次いで起こった出来事を踏まえてようやく、「2017年は何が起こってもおかしくない」と記すようになった。まあ、“ポピュリズムの台頭”という言葉を使って世の中を憂いてみせる時の筆致には、「秩序の守り手」としてのポジショントークとも「秩序の無謬性」へのイノセントな信仰ともみえる、独特な固執が感じられるが。
 
 ともかく、00年代には小さかった「秩序」のほころびは10年代には大きなクレバスとなり、各国が、各地域が、各民族が、南極大陸の氷棚のようにばらばらに動き始めたようにみえる。10年代のはじめには先進国の“善良な市民”が安穏ともたれていられた「秩序」とそのルールは、10年代の終わりには今以上に危うくなっているだろう。
 
 GoogleやAmazonといった国際企業はきっとこれからも健在だろうし、資本主義に基づいた取引が絶えることもない。けれども、人間は国際企業や資本主義の原理だけに基づいて生きているわけではないし、それらさえあれば紛争や混乱が防げるわけでもない。むしろ、国際企業や取引が健在でも、戦う時には戦うし衝突する時には衝突するのが人間だ。「商取引があるから戦争は起こらない」という考え方は、過去の歴史に照らし合わせると、信頼できる気休めではない。
 
 正面切っての戦争が起こらないとしても、戦争未満の縄張り争いやテロなら起こるかもしれない。いや、現に起こっている。その縄張り争いやテロとて、一種の均衡状態を維持しているのなら、多少の犠牲者が出ようとも些事なのかもしれない。だが、2015~2016年に起こってきたそれらは、これまでの「秩序」を乱し、これまでの均衡を崩すような連続体であるようにみえる。
 
 だから、私のような「秩序」にもたれかかって生きてきた臆病な一庶民としては、これまで当たり前のように守られてきた権利や権益が脅かされるのではないか、ある日、大震災とは異なるタイプのクライシスが降って沸いてくるのではないかと、肝を冷やさずにいられないのだ。
 
 この放言の冒頭で、私は第三次世界大戦という言葉を挙げたが、こんな言葉は、ノストラダムスの大予言が外れてからはずっと忘れていた。でも、去年おととしあたりから不意に頭に蘇ってくるようになり、誰かが譫言のように繰り返していた「今は戦前だ」という台詞に飛び付きたくなるようになったのだ。
 
 

「昭和の終わり」と「平成の爛熟」

 
 国内に目を移すと、00年代に準備された諸々がいよいよメインストリームとなって、80~90年代的な諸々がきっちり失効した、そんな風景にみえる。
 
 冷戦後ならリベラルと呼ばれていたであろう、当時のオピニオンリーダー達の信用は大きく低下した。また、政治面では与党が勝っている……というより対抗馬たり得るまとまった政治勢力が見当たらなくなった。この状態は、2010年代の残り3年間も継続する可能性が高い。「自民党か、対立政党か」ではなく「自民党の得票率を何%にするのか」が焦点となる選挙の構図は、一体どれぐらい続くのだろうか。
 
 メディアの世界では、テレビや新聞といったマスメディアはおよそ老人のものとなり、若者向けのメディアは実質としてインターネットに移った。これは、00年代から始まっていたことだったけれども、SNSやLINEやInstagramの浸透、なにより、メディア端末としてのスマホの台頭によって決定的、かつ盤石なものになった。
 
 旧来のマスメディアは老人の、老人による、老人のためのメディアとなった。
 テレビのゴールデンタイムに出てくる面々と、番組内容をみるがいい。
 新聞の社説が誰に向かって語り掛けているのか、新聞の広告欄にどんな品物が並んでいるのかを確かめるといい。
 
 新聞やテレビ、たいていの雑誌は、インターネットやスマホを常用していない年代にアッピールを繰り返している。年取ったタレントの定番演技。老人向けの広告。中年向け恋愛番組。流行りの曲よりも懐メロを流す音楽番組。それらは、従来の顧客にアッピールし続けている結果かもしれないし、マスボリュームが大きくてカネ払いの良さそうな層に訴えたいがためかもしれない。が、いずれにせよ、これではテレビのゴールデンタイムや新聞購読に若者を呼び込むのは不可能だし、たぶん、なかのひとも半ば諦めているのだろう。一部のプログラムを若者向けにチューンしつつも、基調としては、中高年をお客さんとすることを決め込んでしまったかにみえる。
 
 他方で、30代より下の世代にはネットメディアが浸透した。その結果のある部分は、あれこれのソーシャルゲームやアニメの大ヒットとなって現れ、また別のある部分は去年の暮れに「パクリサイト問題」として話題となったような、質の低い情報を大量生産・大量消費する構図となって現れた。全国的な規模のネット炎上の頻発も、ここでは、同じような原因に基づく現象とみて良いだろう。
 
 テレビや新聞が老人にモノを買わせているのとは別世界の出来事のように、ネットを介した情報伝達とビジネスは浸透し、インターネットは特別で面白いメディアというより、上下水道や電気と同じような存在になった。
 
 インターネットを上下水道や電気と同じように当たり前だと捉えている“本当の意味でデジタルネイティブな世代”にとって、インターネットとは、タップをするだけでできて然るべきものだし、呼吸するように情報収集と情報発信をするものだし、テレビや新聞では代替することのできない、これこそが正真正銘のメディアなのだろう。そういう人間がいよいよ一定の割合を占めるようになったのが2010年代で、その存在感は、世論やヒットチャートに陰に陽に浮かび上がるようになった。テレビや新聞や書籍で一次情報を得ようとするのでなく、とにかくもネットで第一報を得ようとする人の割合は、今後もしばらくは増えると想定される。なにせ、テレビやPCは無くてもスマホはみんな持っているし、たぶん、個人向け情報端末よりもテレビや新聞が必要とされる日はもう来ないだろうからだ。

 総じて、昭和時代には当然で、良いと思われていたはずの諸々がそうではなくなって、平成時代になってから芽吹いてきた諸々にいよいよ取ってかわられたのが2010年代だったのだと思う。昭和の栄華は遠のいて、平成が爛熟したのだなぁ、と。
 
 

なんでもいいから平和であって欲しい

 
 まあ、私としてはとにかく平和であって欲しい。
 
 冷戦が終わった80年代末~90年代初頭は「激動の時代」という表現がお似合いだった。それに比べれば10年代の変化はジリジリしているように感じられるが、時代の流速は加速しているようにも感じられる。その行く先には、90年代から、否、もっと昔から積もりに積もってきたモノが清算を待っていて、その瞬間に立ち会わなければならないことに怖さを感じる。経済成長とか自然災害とかそういった次元を超えたクライシスにならなければ良いのだが。自分や自分の知っている人達が、銃弾や爆発に巻き込まれて死ぬのは、あるいは飢餓と闘わなければならないのは、ぞっとしない。
 
 言うまでもなく、ここに書き散らかした放言は私自身の主観に基づいた、きっと自分自身の年齢だから考えてしまうものなのだろう。これらが良い意味で外れて、「ハハハ、2017年の俺は心配性だなぁ、空を見上げて空が降って来ると思い込んでいるよ、この人は。」と笑い飛ばせるような2020年が来て欲しい。世界が平和で、日本も平和で、「秩序」が思ったほど動揺しなくて、みんなが健康で、インターネットが楽しい、そんな未来が来て欲しい*2。だが、私の脳内に住んでいる小人達が「クライシスが来るという前提で行動せよ」とうるさくて仕方がないので、連中を黙らせるにはこういう事をインターネット上に公開して恥をかかなければならないように感じられたので、時期遅れの正月放談を垂れ流して、正気度を取り戻すことにした。
 

*1:ここでいう「オタク」とは、アニメーションやゲームやライトノベルといった、いわゆる“二次元”と呼ばれるコンテンツを消費する人々と捉えていただきたい。鉄道オタクなども含めると話がややこしくなるのでここでは含めない

*2:これは、完全に 「秩序」の側の人間のポジショントーク丸出しな願いではあるが