シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

故人の肉筆

 
 ちょっと前に、恩師の一人が亡くなった。
 
 その人は、統計的な根拠に基づいた精神医学を厳しく教えてくれた人で、DSMやICDといった診断基準がなぜ必要なのかを身をもって示してくれた人だった。
 
 その人の過去をみる限り、その人も、最初から統計的な精神医学を愛好していたわけではないようだった。が、教鞭を執る時のその人は、そういったことをおくびにも出さず、統計的な根拠に基づいた診断と治療を私達に勧めていた。
 
 結局、私が専攻領域*1として選んだのは、その人が教えてくれたことの外側だった。統計的な根拠が蓄積しにくい領域、時代の一回性にもとづいて変転していく領域こそが、私の戦場だ。けれどもそれだけでは精神科医としてまともな仕事はできないわけで、これからも、根拠に基づいた診断と治療を教わり続けるだろう。その土台を与えてくれた一人が、その人だった。
 
 で、仕事中にカルテ倉を調べていたら、その人が書いた古いカルテがたくさん見つかった。まるで、その人が蘇って語りかけているように感じた。病歴、診断とその根拠、治療方針が簡潔にまとめられて、見事なものだった。
 
 技倆と知識と知性に裏打ちされた、そして縮れたラーメンのような自体が一種独特な、故人の肉筆。
 
 ああ、肉筆というのはこんなに生々しいものなのか、と思わずにいられなかった。
 
 私はインターネットが大好きなブロガーだから、文章と文体だけから人をウォッチすることには慣れているつもりだ。だが、それだけに、肉筆の字体から人をプロファイルするのは苦手だ。恩師の字体からも、「この人の字体はこうだから、こういうパーソナリティである」とはちっとも想像することができない。
 
 だけど、この縮れたラーメンのような肉筆を眺めていると、文章や文体とはまた違ったかけがえのなさ、故人の気配を思い起こさせる何かが宿っている気がして、えらく強い刺激だな、と私は思った。
 
 文章をPCやスマホで綴ることが増えて、肉筆でモノを書く機会がめっきり減った。それによって得たものもあるが失ったものもある。肉筆に宿る“そのひと性”は、その失われたものの筆頭格だろう。
 
 普段、デジタル媒体を介して文章を読み書きしている私のような人間は、肉筆に宿った“そのひと性”を忘れてしまっている。忘れてしまっていて、さも、それが当たり前のように思い込んでいる。肉筆の字体からデジタルの字体に移行したことによって剰余として切り捨てられたものなど、最初から無かったかのように文章を目で追い、文体から滲み出るものを吸い上げては、これで足れり、と思い込んでいる。
 
 古いカルテを眺めて故人を偲ぶと同時に、肉筆から離れて生きている自分自身の境遇を顧みて、少し驚き、少し悲しくなった。
 
 これからの社会は、きっと、今以上に肉筆を忘れていき、ますます多くの文章はデジタルメディアに占められていくのだろう。それは基本的には進歩であり、恩恵をもたらすものに違いないのだが、その進歩の陰で忘れられていく、というより意識しなくなっていくものもあるのだなぁ、と、かび臭い部屋で詠嘆したのだった。
 

*1:いや、そんなにご立派なものではなく、趣味道楽として選んだ領域と言ったほうが誠実だろう