シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「声」が集まって影響力が生じる、その形式がネットメディアの普及によって変わりました。私はそれを面白がっているんです。

 
「スマホやSNSが生み出した権力」と、その行方 - シロクマの屑籠
多数決でマナーを決めよう!(仮) - ←ズイショ→
 
 こんにちは、ズイショさん。先日は私のブログ記事をお読みくださり、またreplyを書いてくださり、ありがとうございました。
 
 「スマホやSNSが権力を生み出している」という表現は、あまり良くない表現だったかもしれません。「権力」ではなく「影響力」と書いたほうが良かったでしょうか。私自身は「影響力=権力」という理解を改めるつもりはないので、影響力と書き換えても私自身にとって文意は同じです。
 
 で、影響力が今、社会のどこに存在していて、メディアがその影響力をどんな風に集めたり配ったりしているのか、私が書きたいことを好きなように書いておきます。
 
 原理的には、人間同士の影響力は帝釈天の帝網のように無限に関連しあい、連なっていると私は理解しています。人が集い、人がお互いに影響を受けたり与えたりしながら生きている以上、娑婆世界とは、影響力が働きあい、せめぎあい、拮抗しあう場です。この原理原則から逃れるためには、コミュニケーションをやめなければなりませんが、社会的引きこもりの人ですら、親との間で、あるいは引きこもり支援者との間で、影響-被影響の相互作用を起こしているわけですから、「意識や意志のある限り、人間はコミュニケーションをやめられないし影響力の重力空間を逃れられない」と考えて差し支えありません。
 
 家族同士でも、友達同士でも、中学校や高校のクラスルームでも、影響力はいつだって波及しあっています。誰の言うことなら耳を貸すのか、誰と誰が仲良しなのか、誰が人気者で誰が不人気なのか――これらは、すべて影響力の相互作用の所産です。お互いが対等で仲の良い夫婦関係や友人関係も、それらは影響力や権力が「無い」のではなく、影響力や権力の「勾配が無い」にすぎません。お互いの影響力が拮抗しているけれども、ものすごく影響を受けあっている夫婦や友人同士は珍しくありません。さながら、人間の連星系ですね。
 
 「影響を与える力」、すなわち影響力には色々な種類があって、キチンと整理していないことを承知で幾つか挙げてみると
 
 ・他人のアテンションを引き付ける力 
 ・他人になんらかの感情を与える力
 ・他人の考え方を変える力
 ・他人に考えることを強いる力
 ・他人の行動を制限したり強制したりする力
 
 などがあります。そしてコミュニケーションとは他人の行動確率を左右する営みなので、影響力を及ぼすコミュニケーションとは「他人の考え方を変えるか、否か」みたいな作動の仕方をするのでなく、「他人の考え方を変える確率が高くなる」みたいな、確率を変えるものだと私は捉えています。たとえば、クラスのなかにコミュニケーション能力抜群な生徒がいたとしても、「すべての生徒を意のままに操れる」わけではありません。彼の持つアドバンテージとは「他生徒に話を聞いてもらえる確率が高い」「何かを提起した時にクラス内でコンセンサスができあがる確率が高い」といったものでしょう。
 
 また、文化祭の出し物を選ぶ時などがそうですが、一部の反対派を抑えて話をまとめなければならない際には、反対派が黙って言いなりになるのではなく、「反対派に貸しをつくって言いなりになっていただく」「反対派に配慮したかたちで取りまとめる」ことがよくあります。この場合、クラスのまとめ役や主流派だけが影響力を行使しているのでなく、反対派の生徒もそれなり影響力を行使している、と言えるでしょう。クラスメートと一切話をしない空気人間が内心で反対しているだけならともかく、クラスの一員としてそれなりコミュニケーションしている人が、「私は反対だ」と表明できる限りにおいて、少数派でも影響力を振るうって事は全然珍しくありません。影響力の勾配がよほど極端か、コミュニケーションを行う意志と能力を著しく欠いているのでない限り、その場で声をあげられるすべての人間・その場で発言するすべての人間が、影響力の相互作用の当事者であり、インフルエンサーでもあります。
 
 こういう影響力の相互作用が、家族、学校、職場、議会、世論、そういったあらゆるレイヤーで間断なく起こっている(しかも多重的に錯綜している)わけです。
 
 ただし、こういう影響力の相互作用と、声をあげる/あげないの問題は、個人の意志や能力だけで決まるものではありません。メディアが介在することによって、どこに・どんな・どれぐらいの声が届き、どの程度の影響力を振るうのかは大きく変わってきます。
 
 まだ文字や構築物*1が少数の人間に独占されていた頃、文字や構築物はすごいマジックアイテムでした。なぜなら、石碑に刻まれた王を讃えるメッセージや石碑の存在そのものによって、あるいはカテドラルの外観や屋内の絵画などによって、権力者はその場にいなくても影響力をばらまき続けることができたからです。ゲームっぽい比喩をするなら、これらは影響力の“遠隔攻撃”“影響力の無限スポット”にも等しかったでしょう。
 
 ほとんどの人が話し言葉(=会話)でしか他人に影響力を行使できなかった以上、文物によって他人に影響力を及ぼせる人間は圧倒的に優勢だったことでしょう。まだまだ社会システムが未熟だったにもかかわらず、一時的とはいえ、特権階級が国家レベルで権勢を振るえたのは、文字や構築物に助けられていたところ大だったと言わざるを得ません。もっとダイレクトな影響力の顕現である軍隊ですら、文字や構築物の助けを借りなければシステムとしての体裁を維持できませんでした。ほとんどの人がメディアを保有していない状況下でメディアを独占している人間は、圧倒的に強い。
 
 ところが、活版印刷やら産業革命やらが起こってから、状況が変わってきます。もう、文字や構築物は王侯貴族や僧侶だけの独占物ではありません。新聞や書籍が介在するかたちで、市民*2が影響力を持ち得るようになりました。情報伝達手段と複製技術と流通網の発達によって、市民が流行をつくりだせるようにもなっていきました。
 
 絵画や音楽にしたってそうでしょう。それまでは王侯貴族の影響下で専ら絵画や音楽がつくられていたし、絵の具の値段などを考えると、それは仕方のないことだったでしょう。けれども、市民が絵画や音楽を買い求めるようになり、絵の具やカンバスといったメディアが手頃な価格になるにつれて、絵画や音楽による表現とその影響力は、市民と芸術家のものになっていきました。
 
 つまり、技術や産業や商業の発展によって、「メディアを使って自分の声をあげられる人」が増えた結果、娑婆世界のなかで声をあげられる人・影響力を行使できる人の幅が広がった、ということです。
 
 こうした変化は、90年代~00年代のメディア世界でも起こっているものです。かつて、出版社やテレビ局の独占物だった「不特定多数に情報配信する」行為は、この数十年間でものすごく敷居が下がりました。ブログも、YouTubeも、『小説家になろう』もそうです。それまではメディア業界の影響下で専らコンテンツがつくられ、選ばれていました。出版や放送にかかるコストを考えるとそれは致し方なかったでしょう。けれども、新聞や雑誌やテレビを介さずとも100万1000万単位のトラフィックが流れるようになり、情報配信が手軽になるにつれて、ネット上のテキスト配信や動画配信と、その影響力が拡大していったのです。
 
 変化を象徴しているのが、昼間の情報番組が垂れ流している「twitterやLINEの声」と称するあれです。あれらは番組にとって都合の良い「ネットの声」ではあるけれども、ああやって「ネットの声」と称するテキストをテレビが流しているということは、「ネットの声」の内容がなんであれ、「私達はネットの影響を受けています、私たちはネットの声を意識しています」と白状していることにほかなりません。もちろん、ああすることによって番組側が獲得する影響力ってのはあるでしょう――「私達はネットの生の声にもアンテナを張っているんですよ!」的な――、でも、「ネットの声」がテレビに垂れ流されるたび、メディア空間全般における「ネットの声」の位置づけや意味づけがテレビに近づいて、世論としての正統性、「声」としての確からしさが高まっていったのではないでしょうか。そうでなければ、東京オリンピックのロゴ問題や「保育園落ちた日本死ね!!」があそこまでの騒動になったとは、私には思えません。
 
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 「ネットの声」を伝えるネットメディアが既存のメディアに近い位置づけや意味づけを獲得するにつれて、当然、ネットは影響力合戦のホットな最前線となりました。その兆候は00年代以前からありましたが、本格化したのは、twitterやFacebookがブームになった2009年以降でしょう。10年代におけるインターネットは、オタクやサブカルの陣地戦・洗脳戦よりもずっと生々しい影響力合戦、というより権力闘争の舞台となりました。
 
 ここで思い出していただきたいのが、さきほど私がアンダーラインを引いた“「私は反対だ」と表明できる限りにおいて、少数派でも影響力を振るうって事は全然珍しくない”というクラス内政治の傾向が、インターネットでもだいたい該当するということです。
 
 たとえば、あるイシューについて、誰かが肯定的な意見を言って「500万いいね」された一方で、別の誰かが否定的な意見を言って「100万いいね」されたとします。こういう時、絶対多数決の原理で「500万側の意見がそのままネット世論になる」ということは、あまり無いのではないでしょうか。
 
 東京オリンピックのロゴ問題を巡ってのネット世論を思い出すと、人によっては「インターネットは絶対多数決だ」と言いたくなるかもしれませんが、実際には、あの問題が窮地に立たされていく過程には幾度もの歯止めのプロセスがありましたし、あのロゴが使われなくなると決定した後も、ロゴの使用中止にすべての人が納得したわけでもなく、「最初のロゴのままであるべき」という声はインターネット上に木霊していました。「最初のロゴのままであるべき」という声は、完全に無駄だったわけでも完全に死んだわけでもありません。
  
 ましてや、映画『シン・ゴジラ』についての賛否などは、賛同/否定どちらかが絶対になることなど決して無いでしょう。だからといって肯定派の意見、否定派の意見、どちらも影響力を持たないわけではなく、どちらも、支持される度合いに見合ったかたちで影響力を保持することになります。
 
 だから、インターネットの影響力合戦で“勝利”したい人は、別に多数派でなくても構わないのです。少数派だったとしても、いくらかでも支持者がいて、声や影響力として認知され得れば、“勝ち”と言って差し支えないでしょう*3。「ラウドマイノリティ」という言葉もありますが、少数派がみずからの影響力を収集するのにインターネットは格好のメディアだと思いますよ。情報配信や支持者収集が非常にやりやすくなって、オピニオンのロングテールといいますか、これまでだったら言葉を発することもシンパシーの輪を広げることも難しかった人達までもが、大なり小なり寄り集まって影響力として、あるいは「勢力」や「声」として認知されるチャンスを獲得したのです。自分だけでは意見を表明できない人でも「いいね」や「リツイート」さえ押せば、自分が推す意見をそっくりそのまま広げられるから、例えば、1980年代だったら「話し言葉」の世界では珍しくなくても「書き言葉」の世界では黙殺されていたであろう人達までもが、意見を、嗜好を、不満を、影響力合戦の空間に投射できるようになったのです。
 
 インターネット、特にSNSの「いいね」や「リツイート」のたぐいには、話し言葉に近い性質もあります:つまり、書籍や映画に比べて忘れ去られやすく、後から顧みられにくい、という性質ですが、そこはそれ、インターネットには「消さない限り記録が消えないしアクセスされ続ける」「拡散範囲に制限が無い」といった特質もありますから、案外、古代のマジックアイテムと比較しても見劣りしないぐらいにはマジックアイテムっぽさがあります。この比喩で言えば、コンビニの冷蔵庫に入って人生を炎上させた人とは、強力なマジックアイテムを面白半分に使ってみたら、びっくりするほどエネルギーが集まって燃えちゃったって感じでしょうか。
 
 「話し言葉」は、話者の能力次第では瞬発力のある影響力爆発を起こせますが、その効果は話が終わると急速に減衰していき、影響力を蓄積することは容易ではありません。対して、「書き言葉」*4は「話し言葉」に比べて影響力の減衰が弱く、蓄積しやすく、特に活版印刷以降はコピーや増幅も簡単です。だからこそ「書き言葉」は過去においてはマジックアイテムと同義だったわけですが、実は、スマホやSNSの普及によってマジックアイテムが各人に配られちゃったってことなんですよ。情報革命とは、影響力革命でもあり、投票革命でもあり、権力革命でもあったわけです。「書き言葉」の製造・流通・集積・消費の流れが変わったことによって、影響力の製造・流通・集積・消費の流れも変わったんです。プロセスも当事者も権力者も変わったと言って良いでしょう。いや、そもそも「声」や影響力や権力の存在様式自体すら変わってしまいました。インターネットによって新しい影響力の文法が表れたとも言えるでしょう。
  
 影響力や権力の存在様式が変わってしまったので、強力な影響力のなかには過去の範疇的な「権力」の定義に馴染まないものもたくさんあるでしょう。でも、目ざとい連中は、政治家候補であれネットビジネスマンであれ未来のテロリストであれ、そういう影響力の文法変化を把握して“うまいことやっている”わけです。もちろん、グズグズと、嫌々ながら影響力の変化に引きずられている者もいますが。
 
 SNSが普及して間もない2009年~2010年ぐらいまでは、そうした変化を噛みしめている人間はSNSユーザーのなかにもまだそんなにいませんでした。でも、みんながSNSに慣れてきた2014~2016年にもなると、「リツイート」や「いいね」を集めて影響力の渦中に立つ人間も、「リツイート」や「いいね」を押して影響力のクラウドをつくりあげる人間も、すっかりネットメディアの影響力合戦に適応してしまいましたよね。何かを燃やす・何かを批判する・はてなブックマークにコメントする時の、ネットユーザー達の顔つき・手つきを見てやってくださいよ! あいつら、ちゃんと権力者の顔をしているんですよ。いまどきのネットユーザーは、自分が書いたり拡散に寄与したりすることで体感される影響力、その影響力の快楽をちゃんと知っています。そういう快楽が、演説するような人間でもなく、テキストや動画をつくれる人間でもない、ただ「リツイート」や「いいね」を押すだけの人間にまで浸透してしまいました。
 
 炎上案件を矢継ぎ早に批判している、あの泡沫アカウントの書き込みを見てご覧なさい! ボウボウ燃える案件を批評し続けるあの書き込みに、自分が影響力を行使していることに酔っている人間の、愉悦が感じられるでしょう? でも、ああいう酔客みたいな、なんでもいいから他人に影響を与えたい・罰を与えたい連中までもが影響力のクラウド形成の一翼を担っていているわけです。
 
 まあ、上記は極端な例ですが、それでも、多かれ少なかれ私達は、自分がネットメディアを介して影響力を行使できるということを肌感覚として知っていて、そこに魅力を感じちゃったりしているのではないでしょうか。
 
 ともあれ、これらは「書き言葉」が一部の人間に独占されていた時代にはあり得なかったことです。こういう新しい状況に立ち会っていることを、私は嬉しく思います。噛みしめれば噛みしめるほど面白い変化ですし、こんな状態が野放しになっているのを眺めていられるのは眼福としか言いようがありません。これからどうなっちゃうんでしょうね? しっかり眺めて、しっかり書き残しておきたいと思います。
 
 

*1:アーキテクチャ、例えば石碑とか寺院とかカテドラルとか。あるいは玉座や錫杖や兜のたぐいも含めて構わないかもしれません

*2:とは言っても、数百年前の市民ってやつは、それなり恵まれたご身分でしたが

*3:ちなみに、インターネット上できわどい売名を行ってあこぎな商売をやっている人達などは、この、少数派でも認知さえされれば“勝ち”という現況をキッチリ生かしているわけです。

*4:補足しておきますが、このブログ記事で私が「書き言葉」と書いているもののなかには、記録音声、動画、石碑やカテドラルも含みます。すなわち「話し言葉」と違って娑婆世界の影響力の相互作用に持続的に作用し続ける性質を持った記録された「声」や「メッセージ」全般が「書き言葉」と考えられていると見做してください。