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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「自分探し」は贅沢品になりつつある

執着

 
 「そんなに自分自身に夢中になっていられるなんて、いい“ご身分”ですね」。

 いつか、そんな風に言われる日が来るかもしれない。

庶民のものになった「自分探し」

 
 21世紀が始まった頃までは、世間では「自分探し」が流行していた。当時は思春期モラトリアムが延長していると盛んに言われていた時期で、「思春期は30歳まで」「いや35歳までだ!」といった学説すらあった。
 
 いや、これらを過去形にするのはまだ早い。「いつまでも自分探し」「本当の自分を探す旅」みたいな執着が絶滅したわけではないし、twitterやYouTubeやブログを駆使して「砂金採りのような自分探し」に挑んでいる人もいる。動画配信者やブロガーを眺めていれば一目瞭然だが、そういう「砂金採りのような自分探し」に挑む人は、金銭的に恵まれた人達ばかりではない。お金に困っていそうな人が「今とは違う自分」を夢見て一生懸命頑張っているケースも珍しくない。
 
 あらかじめ書いておくと、私はそのことを批判したいわけではない。
 
 モラトリアムが許される状況のなかで、自分自身の理想を探し求め、理想に近づくためにあがくのは素晴らしいことだと思う。状況が許すなら、あらゆる男女に「自分探し」のチャンスは与えられるべきで、やる/やらないの自己決定権は貴ばれるべきだ。
 
 でも、そういう「自分探し」が許される状況は、いつまで存続するのだろうか?
 
 

「自分探し」は本当は贅沢だった

 
 歴史をひも解くと、「自分探し」や「自分がわからない」といった悩みは、“近代的自我”や“個人主義”が日本にもたらされた後の、かなり新しいものだ。“高等遊民”という言葉が象徴しているように、アイデンティティの空白に悩める身分の若者は非常に限られていた。富裕な家庭に生まれ、イエの都合にもあまり縛られずに済む好都合な若者でなければ、モラトリアムな時間を持つこと自体が困難だった*1
 
 ところが戦後に高度経済成長がおこり、“一億総中流”なんて言葉が流行するぐらいには庶民生活に余裕ができた結果として、「自分探し」という欲求、「自分がわからない」という悩みが一般家庭にも普及していった。そう、「普及」だ!――カラーテレビやエアコンが普及したのと同じように、「自分探し」「自分がわからない」という悩みが普及したのである。このあたりは、アメリカも日本も韓国もおおむね同じだ。アメリカでは「自分探し」や「自分がわからない」が日本より早く普及し、韓国では日本より遅れて普及した。
 
 「家庭の諸事情に縛られない若者が、自分の可能性を模索できる」程度のゆとりが一般家庭に生じたからこそ、「その自由を活かしてどのような自己イメージやアイデンティティを手に入れるのか(or それとも手に入れられないのか)」が世間的な悩みになっていった。

 そうした「自分探し」の庶民化を裏付けているものはいろいろあるだろう。90年代の心理学ブームも、『進め!電波少年』で猿岩石のヒッチハイクが人気を博したのも、「自分探し」の時代に共鳴したものだった。個人的には、『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットも挙げたい。ああいう自己探求的な懊悩をぶちまけたアニメが社会現象になること自体、あの時代が「自分探し」や「自分がわからない」に親和的だったことを暗に示している。
 
 

エリートの子弟でない限り「自分探し」は難しい

 ところが時は流れ、社会状況は一変した。識者は「格差の固定化した社会」「貧富の差の激しい社会」を懸念するようになり、たぶん、それは当たっているのだろう。大学の奨学金がどんどん増え、大学生への仕送りがどんどん減っていることが示しているように、今日、若者の「自分探し」を支えるだけの経済的・時間的余裕は一般家庭からどんどん失われている。それ以前の話として、『サザエさん』や『クレヨンしんちゃん』の家庭が豊かとみなされる程度には、一般家庭とか中流といった言葉が意味を為さなくなってしまった。
 
 私が大学生だった90年代は、まだ「大学は遊びに行くところ」という“不謹慎”な言葉を巷で耳にしたし、実際、良い意味でも悪い意味でも大学生の相当数は“キャンパスライフを謳歌”していたように思う。けれども今、そうやって“キャンパスライフを謳歌”できる大学生はけして多くない。「大学は遊びに行くところ」などと考えている人はあまりいるまい。大学は、生き残るための通過点としての性格を強め、転職もまた、決して足を停めてはいけない生存戦略の一環として為されるようになった。綿飴のようなモラトリアムの気分は、最も豊かな者と最もオットリした者にしか許されない。
  
 まあ、階層や格差が固定化しつつある社会状況のなかでは、「自分探し」に時間やお金をかけたところで、浮上してくる選択肢などたかが知れているともいえる。本当に何者にもなり得て、本当に「自分探し」ができるのは、それを支えるための諸力――財力、学力、時間、コミュニケーション能力など――を揃えた人間ぐらいだということを、現代の若者は数十年前の若者よりもよく知っているのだろう。少しずつ少しずつ、「自分探し」は恵まれた子弟の特権に戻りつつあるのではないか。それこそ昔の「高等遊民」のように。
 

*1:もっとも、高等遊民には「望むような就職先が得られない事態に直面した富裕層の子弟」という側面もあるが、望むような就職先が得られないから高等遊民にたゆたうという姿勢自体は、やはりモラトリアム的である。