シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「枠内の個性」とその行方

 
cybozushiki.cybozu.co.jp
 リンク先のサイボウズ式さんで、就活についてインタビューを受けました!
 
 

「個性」「自分らしさ」は生き残っていた!

 
 今回、若い就活生のなかに「個性」というワードがまだ残っているらしい、ということに改めて感動を覚えた。
 
 自分の個性を売り込みたい・個性にあった仕事を選びたいといった願望は、90年代~00年代の若者には頻繁にみかけたし、私達の世代もそういう事を口にしていた。精神科/心療内科の外来診察でも、社会適応に行き詰まった人達から「自分らしい仕事ができていない」「自分がわからない」的な悩みを聴く機会は非常に多かった。
 
 ところが十余年が経って、私はそういう「個性」や「自分らしさ」の話をあまり耳にしなくなった。その背景には、私が地方郊外で働いていること、私自身が年を取ってしまったこともあるだろう。それを差し引いても、外来診察中などで「個性」や「自分」やアイデンティティについて悩みを耳にする機会も大幅に減った。さいきんの思春期青年期の症例で目につくのは、もっと抜き差しならない根本的な精神疾患や、いわゆる発達障害圏についての悩みばかりである。
 
 だから地方の国道沿いで生活しているぶんには、「モラトリアム人間の時代は終わり、ポストモラトリアム人間の時代が到来した」という見立てはだいたい合っているようにみえる。
 

モラトリアム人間の時代 (中公文庫)

モラトリアム人間の時代 (中公文庫)

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

 
 ところが今回、少なくとも首都圏の学生さん達が「個性」や「自分らしさ」の意識を持っていらっしゃる話を耳にして、正直、ホッとした。ああ、ここにはまだモラトリアムが残っている、自分が知っている思春期心性に近い性質が生き残っている、そういう感慨を禁じ得なかった。
 
 ただし冒頭リンク先でも書いたように、そういう「個性」や「自分らしさ」を模索する自意識は、もはや首都圏の選ばれた子弟だけが持てるものかもしれない。自己選択するための意志・能力・時間を兼ね備えた若者が、今の世の中に、一体どれぐらいいるだろう? 大学生の5割以上が奨学金制度を利用している社会状況のなかで、「個性」や「自分らしさ」を取捨選択する“ゆとり”を持っている若者は、ただそれだけで強者であり、選ばれた者ではないか。そして私が地方の国道沿いで出会う若者達の大半は、そのような“ゆとり”に恵まれない(相対的に)弱者ではないか。
 
 もちろん【首都圏=恵まれている=強者】【地方=恵まれない=弱者】という二分法で説明できるものではなく、地方の若者にも「個性」や「自分探し」の片鱗は残っているのだろう……というかそう信じたい。しかし、こういう「個性」や「自分探し」の領域にも、いわゆる格差の問題がへばりついているようには感じられ、多数の青少年がモラトリアムに耽っていられた一時代が、とても豊かで、“一億総中流”の名に恥じないものだったと回想せずにはいられない。
 
 

「枠内の個性」

 
 さらに興味深かったのは、そんな「個性」や「自分らしさ」を模索している彼らが、「普通でありたい」という欲求を持ち合わせていることだった。一見、これらは相反しているようにみえるが、インタビュアーの伊藤さんの口から、両者を結び付ける鍵が飛び出してきた。
 

就活に限らず、基本的に「普通でありたい」と願っているような気がします。「枠内の個性」しか認められていない、という思いが土台にあって。周りのみんなもそうなんじゃないでしょうか。
たとえば、わたしは漫画が好きなんですが、わざわざ大学の友達に明かさなくてもいいかな、とか。就活においても、理想とされる就活生像と異なる部分を持っていても、わざわざ口にしなくていいや、とか。


「枠内の個性」。
 
 「個性」や「自分らしさ」を求めると言っても、野放図にやって良いわけではない。枠からはみ出した個性は自分自身も周囲も望まないし、尖り過ぎた個性がどのような命運を辿るのかは、学校生活が嫌というほど教えてくれている。
 
 すなわち、学校という空間ではコミュニケーション能力を駆使しながら、学校空間・教室空間という枠組み、あるいは秩序に則ったかたちでサバイブしなければならない*1。枠組みや秩序を破ることも不可能ではないが、そのような個人はコミュニケーション困難な存在とみなされ、孤独な境遇に耐えなければならず、教師もあまり肩を持ってはくれない。
 
 本当の意味で「個性」や「自分らしさ」に尖れば尖るほど、枠組みや秩序に適応しにくくなり、少なからぬ割合が不適応や不登校の憂き目に遭うことになる。
 
 だから学校空間・教室空間を順当にサバイブして、順当に進学し就職していく人達は、良くも悪くも枠組みや秩序を内面化し、枠組みや秩序に紐付けられた精神を育んでいく。枠組みや秩序になじみやすい「個性」や「自分らしさ」だった、と言い換えてもいいかもしれない。いずれにせよ、そういう粒揃いの人間が中学高校大学にうまく適応し、うまく進学していく以上、就活状況に適応する人達の大半が「枠内の個性」を内面化していることに不思議はない。
 
 しかし、伊藤さんのようにそういう「枠内の個性」を意識し言語化できることは望ましく、それを無意識の領域にのさばらせておくよりは安全で融通が利くと思う――「枠内の個性」を内面化しまくっているのに自覚が無いのが一番厄介で、そういう人は、枠組みをはみ出す可能性も枠外の人間を許容する可能性も非常に乏しくなる。
 
 

「枠内の個性」は出発点でしかない

 
 だから、「枠内の個性」の内側にいる人は、本当は「個性」や「自分らしさ」の振れ幅が小さいのだと思う。少なくとも思春期の時点ではそうだろう。思春期に「個性」や「自分らしさ」を体現しているのは、ドロップアウト組や退学組のほうではないだろうか。
 
 ところが、思春期の尖り具合は摩耗しやすく輝きを失いやすい。大芸術家級の例外をのぞいて、思春期の「個性」や「自分らしさ」は年を取るにつれて価値を失っていく。
 
 かわりに台頭してくるのは、思春期以来の「個性」や「自分らしさ」を小さな核として、雪だるま式に育っていく社会人以降の個性だ。核となる「個性」や「自分らしさ」は「枠内の個性」をはみ出していないかもしれないが、そこにキャリアや人間関係や家庭といった要素が堆積することで、社会人の「個性」や「自分らしさ」はかけがえのないものとなる。そして歳月を経て、雪だるまはどんどん成長していく*2
 
 かけがえのないものとは逃げようのないものでもある。が、とにかくも、その人だけの代替困難で修正困難な何かが出来上がってくる。「そのひとの歴史」も「そのひとの文脈」も、そこに現れてくる。人生は、一度きりだから。
 
 ただ、社会人になってからどのような「個性」や「自分らしさ」が立ち上がってくるのかは、やはり日々の積み重ねとコミュニケーションに左右されるので、よく品定めをしながら、できるかぎりクンフーを積んだほうが望ましいと思う。いや、品定めをし過ぎても良くないか? 塩梅が難しいですね。
 
 とにかく、なるようになるし、なるようにしかならないけれども、ただクンフーを積む意識――自分自身に最善を尽くす意識――だけは捨てちゃいけないと思う。クンフーを積む意識を捨てた社会人の「個性」や「自分らしさ」は、いじけたものになりやすい。かけがえのないものは意外とどこにでもあるけれど、クンフーを積むのをやめてしまう人のところには、良いものが堆積されにくいように思う。
 
 飽きてきたのでこのへんで。
 就活生のみなさん、頑張ってください。
 

*1:この枠組みや秩序には、もちろんスクールカーストも含まれる

*2:だんだん汚れた雪だるまになっていくかもしれないが、それは仕方のないことではある。もし完璧に身ぎれいな雪だるまができあがったら、それはそれは驚くべき雪だるまだが、無理にそうならなくても良いと私は思う。