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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

子どもが子どもでいられる時間と空間が減ってしまった

 
blog.tinect.jp

 
 リンク先のBooks&Appsに飛び込むことになりました。
 はてな村の精神科医・p_shirokumaです。
 
 「これ以上、記事のお届け先が増えたら死ぬかもしれない」と思っていたんですが、このBooks&Appsのボスの方、なんと私に「ライターっぽい文章じゃなくていいんです。ブログを!ブロガーらしい記事を!書いていただきたいのです」と仰ってくださいまして。それなら好き勝手に書いちゃうぞ、ということでお引き受けいたしました。この『シロクマの屑籠』以上に執着丸出しの文章をジャカジャカ投稿するかもしれません。ノーガードでゴー!
 
 で、リンク先の話です。
 
 現代の都市空間や郊外って、つくづく、大人*1のための空間だな、と改めて思いまして。
 
 バリアフリーとか、そういう配慮の面では障碍者も都市空間や郊外に存在して構わなくなっていると思います。盲導犬を連れて入れるお店が増えたとか。そして、そういった配慮を推し進めるのが正しいというコンセンサスが社会のなかにできあがっています。
 
 じゃあ、子どもが子ども然とした状態のまま、現代の都市空間や郊外に存在して構わないってことになっていると思いますか?
 
 私は、子どもが子ども然とした状態のまま、街を歩いたりお店に入ったりしにくくなっていると感じます。
 
 新幹線のなかで子どもは騒いではいけない。公園で子どもが騒いだり悪戯したりしてはいけない。ファミレスはともかく、ちょっと気取った場所では子どもの大きな声は許されない。……的な風潮は、昭和時代より増えてはいても減ってはいないのではないでしょうか。
 
 例外的に、郊外のショッピングモールやスーパーマーケットは比較的子どもの子どもっぽさを許容しているようにみえますが、それでさえ、子どもが調子に乗って構わない程度は限られています。
 
 結局、今、子どもが子ども然としたまま過ごせる場所は「隔離」された特定の空間や状況に限定されています。最近は【子どもOK】を掲げる旅館やレストランも現れてきていますが、それを特色にする店があるということ自体、社会全体の風潮として子どもが「隔離」の対象になっていることを反映しているのではないでしょうか。
 
 家の外に子どもを連れ歩く際には、子どもも親も「子どもは大人世界と同じルールを守らなければならない」という暗黙の了解に曝されます。駄々をこねる子ども、ふざけて笑う子ども、泣く子ども、こういったものは街では忌避されます。それは住宅地に点在する公園でも同様らしく、子どもが年齢相応のハシャギ声をあげること、失敗や迷惑を幾分含んだ行動に身をゆだねることを、地域住民も、公園管理者も、許したりはしません。
 
 [関連]:「何もできない」公園が増加 自由な遊び場が減り子供にも影響か - ライブドアニュース
 
 現代の、特に住宅地に点在する公園は、どうやら「子どもが子ども然とした姿で遊び回るための空間」ではなくなり、「子どもも大人世界に準じたルールを守り、大人のような行儀良さで過ごさなければならない空間」に変貌してしまったようです。モスキート音の設置なども、そういった変化の一部とみなして良いかもしれません。
 
 大人には限りなく自由な空間と時間を提供している現代社会が、子どもには、子どもが子ども然としたまま過ごすための空間と時間をどんどん制限しているわけですよ。空間については今言ったようなとおりで、時間については通塾や稽古事や学童保育といった「管理された時間」によって。
  
 自分達の権利や自己主張にはセンシティブな大人や青年が、子どもが子ども然とした状態で過ごせる空間や時間が制限されていくことにこうも無頓着でいられることが、私には信じられません。あなた達だって、子ども時代を通り過ぎて大人になったんじゃないんですか?
 
 現代の大人、特に子育てにまったくコミットしたことがなく子ども慣れしていない人達にとって、子どもの子ども然とした言動は、不快だったり迷惑だったりするのでしょう。だから、大人のための空間を守るためには、子どもに大人世界と同じルールをキッチリ守らせ、そうでない子どもを排除するのが一番手っ取り早い。けれども、それは子どもが子ども然としていられること・子どもの言動の不可欠な一部分を侵す選択肢であり、親子が大人社会に溶け込んでいくための経路を減らし、難易度を高くしてしまうものではないでしょうか。大人にとって一番都合の良い都市空間や郊外とは、子どもにとって、ひいては親子にとって一番厳しいものではないでしょうか
 
 こうした変化は21世紀に始まったものではなく、遅いところでも1990年代から全国各地で進行してきたものでした。新幹線や特急列車は静かになり、市中の公園の子ども達は携帯ゲーム機で遊ぶようになり、騒がしい子ども達の外食はファミリーレストランへ「隔離」されました。静かで、清潔で、快適になりましたね! 大人のみなさん! でもそれは手放しで歓迎して構わない変化だったのか、そろそろ功罪について皆が考えなければならないフェーズに来ているんじゃないかな、と私などは思います。
 
 

「子どもが子どもでいられる」時間や空間は、親が購うしかない

 
 で、こういうかたちで街から子どもが締め出されてしまった以上、「子どもが子ども然」としていられる時間と空間には希少価値が生じていると思うんですよ。
 
 自宅以外で子どもが子ども然として過ごすためには、親がカネや手間暇を費やさなければなりません。カネや手間暇を惜しまず、意識して選択肢を手繰り寄せるなら、年齢相応のハシャギ声をあげて構わない空間は見つかります。伸び伸びと動き回れるような運動公園、自由度の高いプレーパーク、ちょっと変わった塾のたぐいは、そうだと言えるでしょう。
 
 ただし、それは親がカネや手間暇を惜しまなければのこと。
 
 放っておけば子どもが子ども然として過ごせる時間はどんどんやせ細り、子どもが「大人世界と同じルールを守らなければならない」時間がどんどん増えてしまいます。
 
 小さい頃から大人世界のルールに包囲されて過ごす子ども時代とは、良いものなんでしょうか?
 
 ある程度はそうでしょう。でも、度が過ぎれば子どもの精神発達に――ひいては次世代全般の社会病理に――思わぬ副作用を残すのではないでしょうか。
 
 私は昭和五十年代の田舎で生まれ育ちました。当時の記憶と比べると、街で見かける平成時代の子ども達は、なんとも行儀良く、静かに、“お利口に”なったように見受けられます。でも、それが不気味に感じられることもあります。「なんて子どもっぽくない、行儀の良い子ども達なんだろう!」と。

 そうやって、ひたすらに大人世界のルールを遵守させられるのって、はるか昔に家父長的なルールを遵守させられていたのと同じとは言わないにしても、似たような酷薄さを含んでいるとは思うんですよ。ルールを強制するためのシステム、背景にある思想、制限を蒙るレイヤーは異なるにしても。
 
 だから親としての私は、自分の子どもに「子どもが子どもでいられる」時間や空間をどうにか提供したいと願います。せめて、私の頃の1/3でも確保できれば……。そうしたほうが、子どもの自律性や自発性を、大人世界への服従作法で塗り潰さずに済むような気がするからです。でも、そのためには相応のリソースを差し出さなければなりません。まるで、子どもが子どもでいられる時間や空間が、「商品」になっちゃったような。キツい。
 

*1:というより、思春期中盤以降の年齢層