シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『ガンダム 鉄血のオルフェンズ』と所属欲求

 

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 1 (特装限定版) [Blu-ray]

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 『機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズ』が佳境を迎え、いよいよ面白くなってきた。
 
 この作品の登場人物からは承認欲求がほとんど感じられない*1。かわりに所属欲求をモチベーション源にしているさまが丹念に描かれていて、そこが面白くてしようがないので書き残しておく。
 
 

彼らのモチベーション源は承認欲求ではなく所属欲求

 
 知らない人もいそうなので説明しておくと、所属欲求とは、マズローの欲求段階説の上から三番目、承認欲求のひとつ下に位置づけられている欲求だ。
 

 承認欲求と所属欲求は人間関係にまつわる欲求で、モチベーション源として有力だ。だが両者はかなり違っていて、「個人として褒められたい」「個人として注目されたい」承認欲求に対し、所属欲求は「皆と仲間意識を共有したい」「同じユニフォームに袖を通したい」「親しい人と一緒にいたい」……といった集団的な特徴を持っている。
 
 昔の日本では、承認欲求よりも所属欲求のほうがモチベーション源として重要で、そうした状況のもとで封建制度や地域社会が成立してきた。そのかわり、所属欲求が優位な社会は“しがらみ”も大きく、個人が自由に生きようと思っても、そう簡単には生きられなかった。
  
 で、ここからが本題。このマズローに沿って『鉄血のオルフェンズ』の登場人物達のモチベーションの描かれかたを示してみる。まずは鉄華団。
 

 
 鉄華団のメンバーは貧しく危険な状況に晒されているわけで、モチベーション源としての生理的欲求や安全欲求は無視できない。じゃあ、人間関係にまつわる欲求はどうかというと、個人的な承認欲求はほとんど欠落していて、もっぱら所属欲求をモチベーション源として行動している。
 
 鉄華団のメンバーは勤勉に働く。だが、それは自分自身のためではない。喜びも、達成も、誇りも、メンバーみんなのものだ。目立ちたがりのユージンはいくらか承認欲求寄りかもしれないが、彼ですら個人的栄達を求めて行動しているわけでなく、鉄華団のメンバーシップの一員でありたい・鉄華団の内輪で認められたい気持ちが危険任務を買って出るモチベーション源になっている。
 
 全体として、鉄華団のメンバーは自分自身の問題に悩むのでなく、みんなのため・鉄華団のために悩み、解決の糸口を必死に探っている。ビスケットにしても、彼自身の欲のために火星に帰りたがったのではなく、皆で火星に帰りたいと願っていたのだった。
 
 似たような傾向がギャラルホルンの登場人物にも当てはまる。
 

 
 社会的地位が安定しているためか、ギャラルホルン側の登場人物は安全欲求や生理的欲求をモチベーション源にしているようにみえず、人間関係にまつわる欲求が専らモチベーション源となっている。だが、カルタ・イシューとその配下をはじめ、家門・組織・上司と部下の関係に強く動機づけられていて、個人的な欲求を丸出しにしているのは小物のコーラル*2ぐらいだ。
 
 「登場人物の行動原理とモチベーション源」という視点でみるなら、両陣営の描かれかたはそれほど遠くない。宇宙ヤクザ・テイワズのメンバーシップにしても、承認欲求よりも所属欲求が優勢だ。良く言えば心を寄せ合う仲間集団や組織の物語であり、悪く言えば“しがらみ”の物語でもある。
 
 

クーデリアは自己実現?

 
 このように所属欲求の目につく作品ながら、例外っぽい登場人物が少なくとも一人いる*3。それはクーデリアだ。
 
 クーデリアは夢見がちな少女で、そんなクーデリアをフミタンは「現実に直面すれば色褪せていくだろう」と予想していた。だが、後にフミタンが評価を改め、みずから命を投げ出すに至ったように、厳しい現実に直面してもなおクーデリアは理想を捨てず、むしろ理想に身を投げ出した。
 
 世間知らずの青少年はしばしば崇高な理想を口にする。だが、少し現実に触れて地歩を獲得するや、保身に走ったり、自分自身の欲求に溺れたりする。それか、理想と現実のギャップに打ちのめされて理想を捨てる。フミタンが予想したのはそうした陳腐な青少年としての未来で、マズロー風に言うなら“自己実現欲求モドキの承認欲求が暴露される”未来だった。
 
 ところがクーデリアは現実に直面しても理想に進み続けた。少なくとも、フミタンを心変わりさせる程度には理想の輝きを失わなかった。
 

 
 本作品において自己実現欲求に最もモチベートされていそうなのは、クーデリアである。それが彼女にとって良いことか悪いことかはわからない――崇高な理想に身を投げ出して大きな奇跡を実現させるほど、相応の反動や副作用が生じるのも世の常だからだ。いずれにせよクーデリアは理想に殉じる生き方に踏み入った。三日月は、その出来事の表層を眺めて「凄い」と呟いていたが、その「凄さ」はクーデリアとその周辺に跳ね返って来るだろう。彼女が昇ってしまった“賭場”は、もはやフミタン一人で釣り合うものではない。
 
 

所属欲求の危険が露わになりはじめた

 
 本題に戻ろう。
 
 物語も後半に入って重要人物が命を落とし、鉄華団もギャラルホルンも雲行きが怪しくなってきた。
 
 今、鉄華団は「弔い合戦」を旗印として皆が同じ方向を向き、復讐心で団結を維持しようとしている。このあたりも承認欲求では説明のしようがなく、所属欲求のなせるわざと言わざるを得ない。
 
 蒔苗(まかない)は、そうした鉄華団の様子を「何も考えていない」と切って捨てた。実際、メンバー個々人はあまり深く考えていないのだろう。みずから考えるためのトレーニングも経験も彼らには欠如している。だが、それでも集団として皆が同じ方向を向ける……というより同じ向きに易々とまとまってしまうのは、彼らが鉄華団という集団に所属意識を抱き、メンバーシップに強い繋がりを感じ、それが心理的なモチベーション源になっていればこそだろう。
 
 オルガの指示を待たずに独走した三日月と、それを肯定的に眺める年下の鉄華団メンバーの姿が示しているように、このあたりは所属欲求の危険なところで、無分別にドライブさせればどんどん暴走してしまう。オルガとビスケットが制御装置の役割を果たせなくなった鉄華団は、おそらく、思慮も経験も足りない所属欲求の暴走によって更に命を散らしていくのだろう。個人的には、所属欲求のプラス面とマイナス面をキッチリ描こうとしている本作品の姿勢は、潔いものだと思う――そうでなければ帳尻が合わないというものだ。
 
 なお本作品において所属欲求はけっして主題ではなく、作品をかたちづくる一要素でしかないと私は思う。因業(カルマ)の問題こそが、作品を貫く通奏低音だろう。とはいっても、所属欲求の視点で眺めてもそれはそれで面白くてしようがない。もうすぐ最終回なので、固唾をのんで見守りたい。
 

*1:それ自体は、ガンダム系作品としておかしなことではない。

*2:火星支部のトップだったおじさん

*3:マクギリスもそうかもしれないが、まだわからない