シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「ちょっとした代償」の蓄積

 
 社会の進歩には、表裏一体な代償や副作用がかならず伴う。
 
 農耕社会が始まった時、虫歯をはじめとする健康上の問題が現れたのも、産業革命が起こって都市周辺で公害が進行したのも、大きな進歩に対するちょっとした代償だった。
 
 私はときどき現代社会の変化のスピードについていけないと感じるが、これとて進歩に対する「ちょっとした代償」に過ぎず、歴史的には似たような感覚がたくさんあったのだろう。
 
 しかしだからこそ、そうした大きな進歩に伴う「ちょっとした代償」が蓄積したらどうなるのかについて、折に触れて考えてみたくなる。
 

技術と文明 (1972年)

技術と文明 (1972年)

 
 ルイス・マンフォードが『技術と文明』でまとめたように、人間は、技術や文明の発達とともに新しい豊かさと可能性を開拓していった。と同時に、さまざまな弊害や問題に何度となく直面してきた。無数の獲得があったと同時に、無数の喪失、無数の苦しみが生まれ、あるものは克服され、あるものは“それが当たり前”とみなされたまま今日に至っている。
 
 そうした一つ一つの進歩はいい。
 
 だが、狩猟採集社会の生活からどんどんかけ離れ、どんどん新しい生活に移行していく人間は、こうした「ちょっとした代償」の蓄積や堆積にどこまで耐えられるのだろうか?
 
 進歩に伴う代償のなかには、克服されたものもある。
 
 公害の克服などはその最たるもので、それ自体が進歩の対象とみなされて克服された。19世紀の都市生活者は、公害がひどかったからこそ田園地帯に憧れの目を向けていたというが、いまや、田園地帯に憧れるまでもなく、都市の生活環境は向上している。日本の川崎市や四日市市にしてもそうだ。
 
 しかし、克服されることなく、「ちょっとした代償」や「仕方の無いもの」とみなされたまま“それが当たり前”になってしまった代償だって少なくない。
 
 先進国の暮らしの至るところに、そうした代償は潜んでいる。照明の普及による不夜城のごとき生活は、睡眠、ひいてはメンタルヘルスに影を落としているが、これなどは“それが当たり前”とみなされている代償の筆頭格だ。先進国で生活している大半の人は、太陽と共に寝起きする生活に戻るぐらいなら、明かりのもとで活動し続ける生活を選ぶだろう。だとしても、現代風のライフスタイルは着実に睡眠を妨げてはいるし、生活リズムの不安定な境遇をも生み出している。
 
 ちょっとした代償はまだまだある。書籍の普及とともに近視が増大し、一人暮らしを可能にするインフラによって孤独が問題になった。インターネットやSNSの普及によって、私達の社会的な繋がりもタイムスパンの極端に短いものへと変質しつつある。
 
 考えようによっては、暴力を否定した安全な生活でさえ、「個人それぞれが怒りの感情をどのように表出・処理するのか」という問題に難しい疑問を投げかけている。酔って喧嘩する暴れん坊の少ない社会はもちろん望ましいものだが、逆に、酔って喧嘩することが許されない社会がやって来たということでもある事を、一体どれぐらいの人が懸念しているだろうか? 社会の表舞台では決して処理されることのなくなった怒りの感情が、今、どのようなかたちで表出され、“事例化”しているのかに思いを馳せると、「怒りは野蛮人のもの」と断じて澄まし顔をしていればそれで良い、とも思えないのだが。
 
 こうした「ちょっとした代償」のひとつやふたつで人間存在が疎外されきってしまうわけではない。恩を忘れないためにも、改めてテクノロジーの勝利を讃えておこう。だとしても、こうやって幾つもの「ちょっとした代償」が積もり積もれば、人間と人間社会にとって無視できない負荷や疎外となりはしないだろうか。
 
 私は精神科医なので、この方面における精神生活や情動生活の問題について考えたくなる。しかし、ロコモティブ症候群やメタボリック症候群が象徴しているように、それは身体全体の問題でもあり、進歩によって生じたライフスタイルや価値観と切り離せない問題でもある。
 
 進歩に渋い顔をすると愚か者扱いされるのが世の常としても、その進歩に伴う「ちょっとした代償」の蓄積や堆積については、やはり私は渋い顔をせざるを得ない。なぜなら、不可避的に自分自身がその進歩に巻き込まれていて、逃げられないからだ。かつて公害が克服されたのと同じように、本当は、もっと沢山の「ちょっとした代償」が克服されなければならないんじゃないのかな、と思う。