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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

異世界転生系コンテンツと21世紀の「浄土信仰」

 
 サブカルチャーの作品それぞれを楽しむのもいいが、シーンごとに盛り上がって来る「流行り廃り」と、社会心理学的な欲求ニーズを絵合わせをするのも趣深い。00年代の頃は、そうやって“セカイ系”だの「いつまでも終わらない夏休み」だのを話し合った。
 
 『小説家になろう』の異世界チート転生モノについても、そんな賑やかな議論が起こっているみたいで、眺めていると胸が弾む。
 
 [関連1]なろう系異世界転生モノへのよくある批判への個人的対応と、その本質理解について - Togetterまとめ
 
 上記リンク先のコメント欄は、『なろう』系異世界転生モノについてあれこれの視点が入り乱れていて面白い。たとえば、この種のweb小説が“ゲーム実況”的であるという指摘には魅力を感じた。
 
 『なろう』系異世界転生モノのweb小説は、しばしば、ステータス・属性・魔法体系などについてのゲーム的・アニメ的・ライトノベル的知識に読者は親しんでいる、という前提にもとづいて構成されている。ある程度は文中でも補足されるにせよ、その補足自体、ゲーム的・アニメ的・ライトノベル的な基礎知識を持っていることを前提にしたものだったりする。周辺のサブカルチャー、特にゲーム系のカルチャーに親和的でハイコンテキストなジャンルだと思うし、そのハイコンテキストぶりが書き手と読み手の間に理解のショートカットを形成しているのだろう*1
 
 である以上、ゲーム実況、それも過去のTRPG実況ではなく現在の動画配信によるゲーム実況に近いテイストに寄るのも不思議ではないし、テンプレートがそれに似た様式になるのもわかる話だ。
 
 それにしても、なぜ、異世界転生モノのweb小説が、数あるバリエーションのなかから頭一つ抜き出て、メジャーなテンプレートと言えるところまで急浮上してきたのか?
 
 [関連2]海法紀光氏による「小説家になろう」系の異世界チート物についての解説 - Togetterまとめ
 
 リンク先の結論は「異世界転生モノも、わりとちゃんとしたビルドゥングスロマンですよ。」で、この視点には別に疑問を感じない。問題はそこから先で、ではなぜ、わりとちゃんとしたビルドゥングスロマンが、「異世界の」「転生モノ」でなければならなかったのだろうか?どうして主人公は、一度死んで異世界(と言いつつ、実のところ主人公にとって馴染み深い概念やシステムの充満する既知世界でもあるのだが)でビルドゥングスロマンしなければならないのか?
 
 これについて、はてなブックマーク上でid:otokinokiさんは、

海法紀光氏による「小説家になろう」系の異世界チート物についての解説 - Togetterまとめ

id:p_shirokumaさん、いきなり正解書いちゃうと、レーベル創刊ラッシュの中で、新規参入組が早急に売れる作品を求め(特にリクルートの分析ノウハウ持つMF文庫Jなどで)、収斂が一気に進んだ。逆に老舗は対応遅かった。

2016/02/04 17:22

 と、レーベル同士のシェア争いの観点からの正解を詳らかにしておられる。
 
 ただし、これは「なぜ、異世界転生モノがシェア争いの有力な武器として急浮上し得たのか」「どうして90年代や00年代には数あるバリエーションの一つでしかなかったものが、10年代に時宜を得ることができたのか」といった私の疑問に対する解答とは方向性が違うものだ。
 
 上記リンク先の[関連1]で議論されているように、異世界転生モノが現実逃避のコンテンツだからだ、ストレスに弱い読者層がいるからだ、というのも意見もある。それが全くの見当違いとも私は思わない。そのような読者層が大勢存在するのはたぶんそのとおりで、『小説家になろう』のナーバスな読者コメントはそうした精神性を多かれ少なかれ反映していると思われる。
 
 問題は、そういった現実逃避やストレス回避を果たしながらストーリーを楽しめるコンテンツが、なにも異世界転生モノの独壇場だったわけではなく、2010年代にしか存在しなかったわけでもない点だ。
 
 00年代にも、現実逃避やストレス回避を果たしながらもストーリーを楽しめるコンテンツはたくさん存在していたが、たとえばエロゲージャンルやライトノベルジャンルの急先鋒が異世界転生モノだったわけではない。90年代末も同様だ。現実逃避やストレス回避の機能を担保しながらわりとちゃんとしたビルドゥングスロマンを実感できるからといって、それが異世界転生モノでなければならない理由など存在しなかった。
 
 じゃあ、なぜ2010年代という時宜を得て『なろう』の異世界転生モノがジャンル文芸として繁栄するに至ったのか?
 
 よくわからない。まあ、本当のところ、背景は多岐にわたるのだろう。『小説家になろう』そのものの発展背景との混同を自覚しながら、思いつくまま挙げていけば、
 

 ・子ども時代からゲーム的表現に馴染んで育った読者のマスボリュームが十分に膨らんでいた
 ・ライトノベル市場が既に円熟していた
 ・と同時に、無料かつネット端末に最適化した物語の需要が拡大していた
 ・2ch系の二次創作がピークを過ぎ、まとめサイトが叩かれた時期が重なった*2
 ・ビジュアルノベル的コンテンツも退潮期を迎えていた
 ・スマホが普及し、ガラケー小説的文芸とオタク小説的文芸が合流する画期を迎えていた
 ・『なろう』の連載プラットフォームが、短くテンプレ的な第一話の必要性を高めた
 ・サブカルチャーの潮流としても、ガラケー的文芸とオタク的文芸を弁別する必要性が減った*3
 ・タイムリープ系・ループ系コンテンツの系譜が適度に受け継がれつつ、適度に飽きられていた
 ・目鼻のきくレーベルが旬のコンテンツを嗅ぎつけ、コンテンツ生産とシェア拡大の好循環に成功した

 

 ……あたりが重なって、いわゆる異世界転生モノが一大ジャンルに成長する素地ができあがったのだろうと私は想像する。もとより、単一原因にまとめられる性質の話ではないが、こうやって益体も無いことを考えながら、ああでもないこうでもないと捏ね回すのがなんとも楽しい。
 
 

それでも、「死んで生まれ変わる」ジャンルなんですよ。

 
 ダラダラ書いてきたが、ここから本題の、もっとフワフワした与太話に入る。
 
 このジャンル、なんやかや言っても主人公が現世で死に、異世界で生まれ変わって成功する。
 
 「トラックに轢かれて死んで異世界に生まれ変わる」テンプレートなどは気安くトラック転生などと呼ばれているが、転生、リインカネーション、である。どんなにイージーなジャンルでも、どんなに現実生活とは切り離されたコンテンツにみえても、とにかくもこのジャンルは主人公をまず殺し、死んだ後の世界の成功譚を描いているのである。
 
 この点を突っ込んで考えている人は、あまり見たことがない。「お約束だから」「テンプレートとして便利だから」で通り過ぎてしまう。しかし、意識的にせよ無意識的にせよ、この手の死んで生まれ変わって活躍する作品群が「死後の理想」にひとつのかたちを与え、厭世的なファンの厭世的な欲求に、ひとつのかたち・ひとつのはけ口を提供している部分はないものだろうか。
 
 かつて、そのような厭世的な欲求は、たとえば「西方浄土」「浄土信仰」のような様式でもって、ひとつのかたち・ひとつのはけ口を与えられ、流通していた。生きることに倦み疲れた人間にささやかな慰安を与える「南無阿弥陀仏」という言葉は、現代社会を生きる合理的な個人主義者には無駄とうつるかもしれない。しかし、つねに不条理に翻弄され、それでも自死を許されない境遇を生きた人達にとって、「せめてあの世では幸せに」というストーリーラインははささやかな支えになっていたに違いないし、そうでなければ浄土信仰は広がらなかっただろう。
 
 そうした不条理のうちに生きざるを得ない人のための糧は、実のところ、21世紀において再び切実になっているのではないか。
 
 にも関わらず、日本において「西方浄土」「浄土信仰」的なストーリーは既に説得力と想像力を失ってしまった。阿弥陀来迎図をありがたがって胸に秘めているのは、よほど信心深い門徒さんか、さもなくば一部の仏教美術マニアぐらいだろう。伝統宗教とも新宗教とも無縁な若者には、今、「南無阿弥陀仏」に相当するような想像力を引き受けてくれる強い物語が存在しない。
 
 ところがここに、主人公が不条理のうちに死に、異世界に生まれ変わって着実に成果を発揮する物語がたわわに実っている!のだ! 与太話を更に加速して、ここはひとつ、「南無阿弥陀仏」の不在を縫うように異世界転生モノが立ち上がってきた、と曲解すべきか。
 
 まじめな仏教徒的な物言いではないが、私は「西方浄土」や「浄土信仰」は「死後の世界」に関連した一種のコンテンツだと思っている*4。かつては、こうしたコンテンツを寺院の蒔絵や僧侶の説法が提供していたわけだが、その供給源が断たれ、80年代的な前世-現世-来世ブームも忘れ去られた時機に、一連の転生コンテンツ群が栄えているのである。
 
 これを偶然と切って捨てて構わないものだろうか。
 
 所詮は与太話の世界、白黒つけられるものではない。単なる偶然と切って捨てるのもアリだろう。しかし、私の文芸妄想脳は、ある種の掛け金の置き所として、「『なろう』系の異世界転生チートものは、21世紀風の浄土信仰的フレーバーを帯びている!」と虚空に叫んでみたがっている。な、なんだって~! だって、そういうエッセンスがサブカルチャーの最前線に息づいているとしたら、それってすごく面白いじゃないですか。
 
 サブカルチャーの最前線にして「若者にいちばん間近な異世界」たるゲーム的・ライトノベル的なジャンル文芸のうちに、長年人々が置き去りにしてきた想像力が何食わぬ顔で甦っているって与太話、私はしたくてたまらない。ねえ、21世紀の浄土信仰的想像力について、ワイン呑みながら語りましょうよ? もちろんこれは、諸宗教が継承してきた「いわゆるガチな死後の物語」ではない。むしろ、パワースポットやスピリチュアルな癒しに近い、宗教がポスト近代化社会で断片化した果てに甦った、合理主義の向こう岸に咲いた彼岸花のような欲求充足ではある。
 
 だが、私はそういう彼岸花のような欲求充足とそのための想像力を切って捨てたくはないし、それらを担っている可能性を含んだコンテンツに出会ったら注視したいと思う。

 人間は、世間で思い込まれているほどには合理的には生きられない。生きたくなくても生きなければならない現実を生き、死にたくても死ぬことを許されないまま日常をしのいでいる人がたくさんいる。誰でも幸せに辿り着けるとは信じにくい時代になってきたから、当然、彼岸に咲く花を夢想、あるいは補償*5する想像力のニーズは高まっていると想定されて然るべきで、そうした想定の一部分が異世界転生系コンテンツの様式そのものに反映されているとしたら、これは凄く面白い――そして00年代には乏しかった――現象のように思えるのだ。
 
 『なろう』系コンテンツを読んでいる高年齢な人が、皆が皆、現実生活を祝福しているとは思えない。うまく立ち回っている若年世代ですら、現世の理不尽さが剥き出しになっている風景をそれなり見聞しているかと思う。そういう状況のもと、死んで甦り、現世では生かし切れなかったものを生かしたり、現世で果たせなかった雪辱や願望を叶えたりする転生コンテンツは、案外とかつての浄土信仰*6に近いような位相を占めていたりするんじゃないか、と思ったりするのだ。
 

浄土真宗の信心がこんなにわかりやすいわけがない (響流選書)

浄土真宗の信心がこんなにわかりやすいわけがない (響流選書)

 

*1:この構図は、ライトノベルをはじめとする他の、いわゆるオタク系コンテンツにも多かれ少なかれ言えることであり、そして想定読者以外に対しては敷居の高いところでもある。

*2:この点、「なろう」が初期に二次創作を受容し、少しずつパージする方向に傾いていったのは界隈の流れに即した戦略だったと思う

*3:このあたりは、拙著『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』参照のこと

*4:もちろん、葬祭の問題なども絡むので、ただそれだけのコンテンツではない。また、このように考えることもあるクセに私はそれなり南無阿弥陀仏をありがたいと思っている。このあたりは、私個人の、ねじれた信仰の姿だと思って頂きたい。

*5:ほしょう。ここでいうほしょうとは、精神分析で言うところの補償。代償、と言い換えたほうがわかりが良いかもしれない

*6:ここでいう「かつての浄土信仰」とは、まだ浄土宗や浄土真宗がカウンターカルチャーだった頃、という意味である