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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「がんばる」しかないんだよね、惣流アスカラングレーさん

オタク趣味

 orangestar.hatenadiary.jp
 
 リンク先を眺めていると、つい、現実との戦いを強いられる人達、とりわけ“不遇”と言われそうな人達に思いを馳せたくなります。
 
 でも、これって小島アジコさんの卓抜した表現力がそう感じさせるのであって、嘆いている暇があったら戦うしかないと思うんですよ、現実と。いや、現実と戦わないように回避行動をとっている最中ですら、人間は、「がんばっている」じゃないかと思うのです。
 
 筋肉少女帯『戦え!何を!?人生を!』で絶唱されているように、人生とは、悲しいぐらいに戦いであると私は思います。実際、選べるコマンドは、「がんばる」「がんばる」「がんばる」「がんばる」しか無いのではないでしょうか。逆説的に、だから「うつ病の患者さんは励ましてはいけない」という言説が信憑されているのではないかと。
 
 つねづね臨床場面を眺めていて思うんですが、うつ病の患者さんなどは、たとえ励まされていなくても(形は違うにせよ)がんばっているように思います。
 
 やり方はいろいろですが、彼らもまた、回復を目指して「がんばって」いるようにみえるんです。「がんばらないことをがんばっている」というか、休息しているんだけど、生命としての輝きを取り戻すために苦心している、という気配があります。あるいは、そうした気配が乏しい場合も、生命としてのホメオスタシスを保つために苦慮している、と。なにより、うつ病を安楽の境地として楽しんでいる人なんていないわけで、彼らは苦しい時間をのたうつように生きて、「がんばって」、ようやく回復の目途をつけるようにみえるのです*1
 
 慢性期の統合失調症で長期入院しているような患者さんにしても。高等遊民のように暮らしながら形ばかりメンタルクリニックに通っているような患者さんにしても。時折みせる人生の翳り、悲しみ、怒り、そういったものに触れる時、世間的には「がんばっていない」とみられそうな人々もやはり人生を戦っている、「がんばっているんだ」と感じるんですよ。第三者的にどう見えるのかはわからないけれども、主観レベルでは、彼らもまた、人生を戦う戦士なんだと推定します。
 
 どういう立場・どういう状況で「がんばる」のかは、無論、個人差があります。起業家としてせわしなく活躍している人、国会議員の人、創作活動に命を燃やす人、彼らはもちろん「がんばって」いる。ブラック企業で働かざるを得ない人、中間管理職的に板挟みにあっている人、モンスター顧客の要望に振り回されている人、そうした人達も「がんばって」います。皆、本当に困り果てるまで踏みとどまっているし、逃げたら逃げたで逃げ場なんて無いというか、逃げるにも全力、逃げた先でも新しい境遇に対して全力、結局、どこへ行ったって「がんばる」以外にコマンド選択の余地が無いと思うのですよ。たぶん、phaさんのような人ですら、それは同じ。
 
 そして、今という時を享楽しているようにみえる人々――親のすねをかじって贅沢に耽る廃学生/・優雅な生活を見せびらかすアルファツイッタラー・界隈のナンバーワンとして権勢をふるう人――にしたって、その優雅さ・その権勢は「がんばって」維持しなければ明日には失われてしまうもので、彼らなりに全力疾走しているじゃないですか。そして全力疾走に成功できている人達だけが余裕綽々の外観をキープできるわけで、失敗しようものなら、たちどころに五衰の相があらわれる。 
 
 まずはおめでとう。7億は人生を買えるお金で、あなたは賢く立ち回れば一生..
 
 ↑これなんかもそうですよね。宝くじで7億当てたとしても、それを自分の人生に組み込むには相応の勉強・時間・情熱を傾けなければなりません。追記に書かれているとおり、お金があるからといって暇なわけじゃなく、かなり「がんばらなければならない」――たぶん、資産を形成している人はみんなそうやって「がんばって」いるのでしょう。そして、宝くじを当てたぐらいで「がんばるのをやめた」人には恐ろしい未来が待っている……。
 
 娑婆世界の人達、特に自分と年回りが近い人達を眺めていて、私はしばしば思います――「安楽の続く人生って、いったいどこにあるんだろう?」。古傷を見せびらかす人間はいつも少数派だし、どこの家庭の戸棚にだって“事情”の一つや二つぐらいは潜んでいるでしょうし。
 
 

  • それでも人間世界(ただし先進国に限る)は恵まれている

 
 それでも人間世界(というより、現在の日本のような先進国世界)は、色々な制度のおかげで凋落に歯止めがかけられています。凋落に歯止めがかけられるからこそ、苦しげな生がこれほどまでに溢れているのかもしれませんが。自然界を観察すれば、たとえば野鳥の世界などは残酷ですよね。野鳥はみんな美しい。では、なぜ美しいかと言えば、弱い者は速やかに淘汰されるからです。あの美しい自然ってやつは、「がんばらない」あるいは「がんばっても駄目だった」者にとことん残酷な世界なわけですから。
 
 幸い、現在の先進国世界はあの残酷な摂理を免れています。しかし、だからといって「がんばらない」という選択肢は渡世においていかにも難しい。メタな話になりますが、「がんばらない」という外観を選択すること自体、たいてい、個人それぞれのメリットに従って「がんばらない」のであって、メタレベルでは「最善を尽くして」いるわけじゃないですか。
 
 だから、野鳥の世界はもちろんのこと、私達の住まう世界においても、人生や適応のコマンド選択には「がんばる」「がんばる」「がんばる」「がんばる」しか無い……というのが私の娑婆観・世界観です。「がんばる」の私的世界内定義がそうだということです。
 
 そんな私の目には、娑婆とは、生きるとは、根本的には苦界とうつります。その苦界に閃く一瞬の輝きが、生命なのでしょう。どうやら私は、その生命が嫌いにはなれないようです。生きるとは、苦しいことなのにね。
 
 生物は生きている限り、総論としては「がんばるしかない」。各論としては「休息する」「生き急ぐ」「加減を加える」「逃げる」といったチョイスはありましょう。でも、どのチョイスを選ぶにしたって、生物たるもの、いつも全力ですよね。この文章を読んで「でも俺は全力じゃないよ」と想起した人においてさえ、ほら、その想起そのものにシナプスのざわめきが感じられるじゃないですか。「がんばって」る。
 
 ですから、冒頭リンク先のアジコさんのイラストの白眉は、コマンドが「がんばる」しかない点ではなく、その「がんばる」に対する要請が多彩で矛盾だらけで無慈悲な点かな、と私は思います。
 
 例外的な「がんばらない」人いうのは、よっぽどのものですよ。過量服薬している人達ですら「辛いから、がんばって」過量服薬しているわけで。自殺だってたぶんそう。生物としての枠組みを超越してしまう跳躍力は、私には常軌を逸して見えます。生物としての一線を踏み越えてしまう人とは、やはり、医療保護入院や措置入院が必要な特別な状態だと思います。
 
 

  • がんばるしかないんだよね、アスカ

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 式波・アスカ・ラングレー

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 式波・アスカ・ラングレー

 
 ダラダラとした言及ですみません。ですが、今日は『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流アスカラングレーさんの誕生日なので、生きるということ、「がんばる」ということを、何か書き殴りたい気分になったのです。
 
 今年は2015年の誕生日だというのに、いまでは祝う人もめっきり少なくなってしまいましたね。
 
 私は、この惣流アスカラングレーさんが好きで好きでしようがありません。もちろん式波アスカラングレーさんも好きですが。
 
 アスカは、「がんばる」ひとでした。
 
 当初、私はこの「がんばる」アスカが嫌いで、「逃げちゃ駄目だ」の碇シンジくんに共感気味でしたが、いつしか彼女が「がんばる」姿に胸を打たれるようになりました。
 
 一般的なものの見方に基づくなら、アスカにも「がんばっていなかった」ようにみえる時期があります。22話で使徒の精神汚染を受け、綾波レイに助けられるという最低最悪な戦いを経た後のアスカは、洞木ヒカリの家に逃げ込んでセガサターンで現実逃避していました。で、ヒカリに「私は、アスカがどうしたっていいと思うし、何も言わないわ。アスカはよくやったと思うもの。」と言われ、さめざめと泣いていました。
 
 それでも私には、彼女はがんばっているように見えました。がんばって、がんばって、がんばった末に、逃げるしかなくなった彼女の、精神のホメオスタシスを保つための最後の「がんばり」が、同級生の家に逃げ込んでのセガサターンだったのでしょう。未練がましく弐号機に乗り、シンクロ率が出なくて一層みじめな思いをするのもそう。最後まであがき続けた末に、彼女はだめになりました。
 
 で、劇場版25話『Air』。偽りの復活を遂げた彼女は生存困難な戦いに挑み、内臓を食い散らかされて死にました。私は1997年7月19日にソレを目撃しましたが、あまりの衝撃に、最初は「ククク……」と変な声で笑わずにはいられませんでした。一緒に映画館に来ていた友人が、心配そうに私の顔を見ていたのを覚えています。
 
 ただ、その、絶命する瞬間まで彼女は「がんばって」いたんです。伊吹マヤが「アスカもうやめて」と泣いている最中も、グチャグチャになった弐号機に神経接続して戦おうとしていました。
 
 あの惨劇を当日の自分がどのように受け入れたのか、あまり覚えていません。はっきりしているのは、これは尊い生だ、アスカは最後まで生きようとしていたんだ、と意識するようになったことです。私は、あのように生きあがくことができるだろうか?……と自問し、やがて、生きるとは多かれ少なかれああいう事なのだと認識するようにもなりました。
 
 生きるとは、辛くて心細くて、誰かと一緒にいてもしがらみや摩擦や誤解に満ちていて、いっときの平安を保つことすら困難。だから人は、生物は、生きるために全力を尽くさなければならない。
 
 私にとって、アスカとはそういった生の諸相をあらわしてくれるプリズムのような存在で、生の華麗な側面、見苦しい側面、醜悪な側面を全部集めたようなひとでした。微笑み、勝ち誇り、赤面してみせるアスカは良いものだけど、醜く生きあがくアスカも、それはそれで素晴らしいものです。愛するに値する存在だ。
 
 願わくは、私もまた、最後の最後まで生きあがく、あるいは、生きるということの結果に対して最善を尽くす一匹の生物であらんことを。はたして私は、産卵を終えた鮭のように、スリッパで潰されるゴキブリのように、9月下旬のミンミンゼミのように、生きることができるでしょうか?
 
 アスカの誕生日のはずが、命日みたいな話になってしまいましたね。やはり、どう言い繕っても、私のなかで、アスカは1997年7月19日に一度死んでいるのでしょう。いくら彼女の生や美や萌えを讃えても、一度死んでしまった事実を否定できないまま、私は年を取りました。
 
 でも、そのおかげで私の生も、私の周りの生も、式波アスカラングレーさんの生も、熱心に眺められるようになった気がします。ひとえに、惣流アスカラングレーさんのおかげです。
 
 アスカ派であれ、綾波派であれ、葛城派であれ、全国一千万のエヴァンゲリオンファンの皆様におかれては、各人の持ち場において生をまっとうしていただきたいと祈念し、このまとまらない文章の締めとさせて頂きます。書き続けるときりがないので、このへんで。
 

*1:だから、特に焦燥感が強いうつ病の患者さんとの会話のなかで、しばしば「がんばらないことをがんばるのは難しいですね」的なメタっぽい話になることがあります。ときとして、休むことや退くことが最も難しい課題になることってありますからね。このような患者さんは、もはや「がんばる」の羅針盤が混乱しているわけですが、とにかくもまずは休息に向けて「がんばる」あるいは「つとめる」ことにはなります。