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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「ゲーム“なんか”やってる場合じゃない」

 
 私は面白そうなブログを見つけたら過去ログを追いかける。そのブロガーがどういう人物なのか、手触りを確認するのが好きだからだ。「個々の記事より、個々のブロガーを読んだほうが面白い」。
 
 で、こちらのブログは年に何度かまとめ読みしていて、その世代感覚・娑婆感覚がチクチクしてしようがないんだけど、今回は、以下のフレーズに引っかかった。

 もうゲームの気力もないのか俺。と言うか残り少ない人生をゲームに費やしてホントにイイのかとマジで考えてしまうところに年を感じるなぁ。
 
 (今更ながら世界樹の迷宮Ⅲやってます より抜粋)

 
 まるで自分の内心を覗かれたみたいだ。私も最近、ゲーム*1を遊びながら自問自答してしまう。「今、ゲームをやっていて構わないのか?これじゃあまずいんじゃないか?」と。
 
 三十歳になるかならないかの頃の私は、ゲームにのめり込むことに疑問を感じていなかった。小学生時代以来、連綿と続いてきたゲーム趣味。それによって獲得したゲームオタクとしてのアイデンティティ。雨の日も風の日もゲーセンに通い詰めずにはいられなかったのは、ゲーセンが、ひいてはゲームという娯楽が、自分自身の魂の座だったからにほかならない。
 
 実利を重んじる人達は、しばしばゲーム遊びに疑問を投げかける。「もっと人間として成長できる選択肢があるんじゃないか」「もっとビジネスに役立ち、視野を広げてくれる遊びをやるべきではないか」と。今の私には、彼らの言い分もわかる。
 
 けれどもかつての私にはゲームが必要だった。控えめに言っても、ゲームによって救われていた部分が間違いなくあった。
 
 承認欲求も自尊心も乏しい境遇で、私の心理的な命綱になったのはゲームだった。誰にも認められず、何にも報われないと感じていた時も、ゲームは私のモチベーションが全滅するのを防いでくれた。コミュニケーションから疎外された人間が、ディスプレイ越しの世界に逃避する気持ちが、私にはわかるような気がする。そういう時、たいがいの大人達は「ゲームばかりやっていたら将来が危ない」と説教してやまない。そんな事はわかっている。ただ、心理的に生き残るために・今日を生き延びるためにゲームが必要な瞬間が確かにあった。人間、明日に備えるのも大切だが、今を生き残るための命綱も捨てられない。私にとってのゲームは、真っ暗な空に差し込んだ一筋の光明みたいなものだった。
 
 そうやってゲームに助けられながら社会適応を模索してきたからか、私の社会適応観もまたどこかゲーム的になった。受験勉強も大学の課題も、それどころかコミュニケーションすら、ゲームシステムを参考にしながら解決するようになった。『ガンパレードマーチ』の発言力理論のおかげで私は不用意な発言を控えるようになり、『シヴィライゼーション』の技術ツリーのおかげで読書の方法が変わった。
 
 最近は“ゲーミフィケーション”という言葉をよく見かける。だとしたら、私の人生そのものがゲーミフィケーションだ。人生や社会適応を、単一のゲームモデルで説明することはできない。が、幾つかの側面に限って適用する限り、役に立つ教訓を与えてくれる。教科書が教えてくれない処世術を、ゲームシステムが雄弁に語っていることすらある。
 
 ところが、そうやってゲームと共に生き、ゲームに助けられてきたはずの私が、「残り少ない人生をゲームに費やしてホントにイイのか?」と考えはじめているのである。この文章のタイトルは『ゲーム“なんか”やってる場合じゃない』だが、このゲーム“なんか”という思いつき自体、なんだかおかしい。ゲームによって生かされていたような人間が、ゲーム“なんか”とは何事だ!
 
 俺はゲームが大好きだったはずだ。いや、今でもゲームが好きなはず……そうじゃなかったのか?
 
 

  • それでも、生きていかざるを得ない。

 
 とはいえ、齢を重ねてきた結果として「今、やらなければならないこと」が多すぎる。
 
 一週間のうち、自分が好きにできる時間はそれほど多くない。仕事・家族・コミュニケーションの時間を削れば、現在の社会適応はたちまち崩壊するだろう。人間関係も仕事も、時間やお金や体力を割いて“手入れ”をしなければ、簡単に腐ってしまうことを私は知っている。現状を維持するだけでも相当なリソースがかかる。
 
 それに、明日明後日の私が生きていられる保証はどこにも無い。なるほど!歳を取ると健康に気が向くわけだな!健康は“人生の残り時間”に直結した問題で、健康を失えば、自由な時間どころか「今、やらなければならないこと」すらこなせなくなってしまう。不健康は、社会適応を根底から破壊しかねない危険なバッドステータスだ。若い頃には歯牙にもかけていなかった健康というパラメータを、意識せざるを得なくなってきた。
 
 今の私がこうしていられるのは間違いなくゲームのおかげだが、まさにそのゲームによって培われてきたものを守るために、私はゲーム以外のことに注力しなければならない――ほかならぬ、ゲーミフィケートされた私の精神が、「ゲーム“なんか”やってる場合じゃないぞ!」「他にすることはないのですか」と警告ランプを点滅させているのだから――。人生をゲーミフィケーションし続けてきた結果、私はゲームに人生のウエイトを置き続けることができなくなってしまったのは皮肉だ。
 
 あるいは「ゲームに生き、ゲームに死す」的な人生もあるかもしれない。
 
 だが、現在の私を取り囲む“諸事情”はそのようなゲーム人生を許さない。そしてその“諸事情”をつくりあげてきたのは他ならぬ私自身なのである。私は自分自身の人生選択の結果を受け入れて、ゴキブリのように生きあがく権利と義務を履行すべきだ。
 
 

  • 「ゲーム“なんか”」の行く末

 
 たぶん、生きるために「ゲーム“なんか”やってる場合じゃない」と呟く私の未来は、きっと「twitter“なんか”書いてる場合じゃない」「ワイン“なんか”呑んでる場合じゃない」にも繋がっているのだろう。生きるための今日の糧と称していた諸々は、やがて生存そのものによって圧迫されて、そうやって私の命の蝋燭はだんだん細くなっていく。
 
 それでも私は、あれこれの陶酔アイテムをぎりぎりまで手放せず、ズルズルと生き、やがて死ぬのだろう。ゲームにしても、不平不満を言いながらも精一杯続けるに違いない。ともあれ毎日を一生懸命に生きよう。
 

*1:ここでいうゲームとはコンピュータゲーム