シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「人生コスパ論」と不安の防衛

 
 

 
 そうそう、これだ。
 今月、ネットのあちこちで人生をコストパフォーマンスで語る文章を見かけたが、上記ツイートを読んで私はだいぶ整理されたような気がした。
 
 はじめ私は、人生や子育てや人間関係に「コスパ」という概念を当てはめて躊躇わない表現に、傲慢さを感じていた。なぜなら、人生・子育て・人間関係といったアンコントーラブルで予測困難な事象のコストパフォーマンスを計算できると称するのは思い上がりもいいところ・一種の神様気取りのような気がしたからだ。かりに、人生や子育てや人間関係のコストパフォーマンスを正確に計測できる人間がいたとしたら、そいつはweb小説にありがちなチート(反則)キャラも同然である。
 
 

不安を軽減するために「コスパ」を叫ばなければならない人達

 
 でも、さして傲慢でなくても、計測不能な事象の「コスパ」を頑なに信奉することは十分あり得るのだった。
 
 「自分は人生や子育てや人間関係のコスパを計算できる」と思い込みたがる別種の背景――それは不安の防衛だ。
 
 本来、人生や子育てや人間関係でコストパフォーマンスを算定できると思い込むこと自体、一種の間違いである。神や仏でもない限り計算できないはずのものを計算できると称しているわけで、非合理な考え方と言わざるを得ない。認知行動療法風に表現するなら、自動思考やスキーマや認知の歪みに相当するようにもみえる。
 
 にも関わらず、なぜ、少なからぬ人々が「私は人生のコスパを計算できる」という非合理な考え方にしがみつくのか?
 
 理由は個別のケースによってさまざまだろうが、少なくとも一群には「人生のコスパを計算できて欲しい」「子育てや人間関係のコスパが計算できて欲しい」という願望があるのだろう。裏返せば、本来的に計測不能で計算不能な、人生や子育てや人間関係に対する不安の強い人々とも言える。彼らの強い不安を緩衝する一手段として、「人生のコスパは計算できる」「子育てのコスパは悪い」「人間関係はコスパで決める」と言った、合理主義を装った非合理が必要とされているのではないか。コスパを語れる程度にコントローラブルで予測可能なものだと思い込んでおけば、さしあたり、不安は軽減する。
 
 だから、一連の「人生コスパ問題」を理解するにあたって、経済学的な算盤勘定だけを問題にするのでなく、心的経済学的な算盤勘定――不安、葛藤、願望、欲求に関しての算盤勘定――も視野に入れておくのが適当だろうと私は思う。滔々と人生のコスパを論じ、それが合理的で妥当な考え方だと思い込んでいる人々のなかには、人生や子育てや人間関係に付き物なアンコントローラブルな側面への忌避と不安によってそう思い込まざるを得ない一群も結構いるはずだ。余談だが、こうしたことは子育て中の親にも当てはまることで、一般に、不安が強いほど子どもへのコントロールの手綱はキツくなる。リスクとコストを避け、「正解」を見いだしたつもりにならなければ気が済まなくなるのだ*1
 
 不安は人間の言動と思考を束縛し、開かれた態度や柔軟な対応を困難にする。だから不安の強い「人生コスパ論者」の主張には、必ず、ある種の束縛・ある種の頑なさ・ある種の窮屈さがみられ、融通性の乏しさが目につくはずである。そしてたぶん、(私自身はそうではないので推測で書くと)積極的な個人主義者やホモ・エコノミクス主義者なら、この手の融通性の乏しさはあまりみられず、人生や子育てや人間関係のコストパフォーマンスを論じる際の手つきも違っているはずである。少なくとも、デメリットの抽出とリスクの回避だけを論拠としてコストパフォーマンスを論じるような思考の硬さはみられないだろうし、人生のコスパを論じる行為が一種の近似計算的な(あるいは比喩的な)頭の体操であると心得ているはずである。
 
 いや、人生コスパ論の背景に不安があったって別に構わないのだ。たとえ不安が背景にあったとしても、行動が束縛されたり視野が狭窄したりせず、融通を保っているぶんにはむしろ適応促進的なぐらいだろう。だが、強すぎる不安は、しばしば人間の行動を束縛する鎖や視野を狭める目隠しとして働いてしまう。そこまで強い不安に彩られた人生コスパ論の場合、形式的な安堵と引き換えに失うものは小さくない。
 
 「灯台下暗し」と言うように、もちろん、こうした事は当人自身にはなかなか自覚しにくくても第三者には目につきやすい。にも関わらず、たとえ目についたとしてもおおっぴらには指摘しにくい。だが、「人生コスパ論」の舞台裏に、不安に目を曇らせた一群も見つかれば、そうでない一群も見つかるはずなので、よく耳を傾け、よく目を凝らしてみて欲しい。そのあたりも心算に入れながら「その人が語る人生コスパ論から、何が学び取れるのか、それとも得るものが乏しいのか」を考えるなら、得るところもあるかもしれない。
 

*1:そしてまさにその「正解」を見いださなければ気が済まない性質によって、蝕まれる。